第4話

 他の四組の客であるが、別に歓談室みたいなものもないし、顔を合わせるのは、廊下ですれ違うか、あとは風呂場である。自分の五十肩を治しがてら、母親を同行している一組みがある。それは、それは、母親に優しく、身体の隅々まで洗って上げている。母親はどうやら認知があるようである。気持ち良さそうに、息子に任せている。

 何年来と来ているという、その男性と同じ歳格好の男性が「あなた、テレビに出てませんか?」と、突然言い出した。母親を洗っている男性は振り返って頷いた。風呂框に腰掛けた男性は「あの何とか美術館というコマーシャルに出てはる社長さんですやろぅ、似てると思ってましてん。偉いですなぁー、さすが出世しはる人は違う」と、感心しきったように言った。私はそのコマーシャルは知らないが、娘でもあそこまで母親には出来まいと、自分なら絶対に出来ないと見ていた。


 古美術商の男性は、母親を流して、手を添えて湯船に浸かって、「いやー、若い時に極道しましてな、母親を泣かしましたんや、罪滅ぼしですわ」と、照れ隠しをその男性に言った。

「いやー、なんぼ罪滅ぼしや云うても、感心ですわ」とその男性は答え、二人の会話はここの湯がいかにいいかになった。

 古美術商の男性は来て五日になるが、肩が上がるようになったと言い、もう一人の男性は生来の胃腸虚弱であったがここのお陰で、よく食べられるようになり、体質が強靭になったと腕コブをして見せた。

 古美術商はあと二日で帰ると云う、胃腸虚弱の男性は、家は二駅向こうの近間で、週に一回は一泊で来るのを楽しみにしていると云う。二日もすれば、新客でも無ければ、風呂場もますます寂しくなる。


 後の一組は老夫婦である。七十代後半だろう、部屋からほとんど出てこない、女将に聞くと、寒い一月、二月に毎年来るという。今年は長く三月いっぱいはいるとのことである。ここの料金ならそれぐらいの長期滞在も可能なのだろう。

 風呂場でも会わない。一度、夜中に目が覚めて寝付けず、風呂場に行くと二人が身体を洗い合っていた。浴衣一つだったので、脱ぐとすぐ引き戸を開けたので、その音で一瞬びっくりしたようであったが、こちらを認めると、何事もなかったように洗いを続けた。

「こんばんは」と挨拶をしたが、目礼を返されただけで、話してはいけない感じであった。 老夫婦は少し温もってすぐに出て行った。会わないのは夜の遅がけに入っているせいだろう。ガラス窓の外は漆黒の海で、誰もいない浴槽は寂しいものであった。


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