第3話
玄関に挨拶に出てきたのは、白髪まじりの中年の女性であった。亭主だろうか、頭の禿げた老人が一人、湯の管理や浴槽の洗いの下働きをしている。
食事を部屋に運んで来るのはここの娘であろうか、不愛想という感じではないが、あまり喋らないし、笑わない。黙って膳を置いていくだけだが、顔立ちは美形である。鳶が鷹の口である。
ただ、足が悪くびっこを引いている。私は顔立ちがよく、足の悪い女性に昔から何故か弱いのである。同情心か、根が優しい私の性分なのだろうか、クラスでもこんな子には特別に優しかった。
棟は上下に二棟あって、上に厨房があり、家族が寝泊りしているようである。玄関は下の方の棟にある、上と下を繋ぐのは、中程にある階段になった渡り廊下である。娘が食事を持って来るのはその足音で分かる。
下の棟の奥端が風呂場になっている。風呂場は殺風景で何もないが、広く取ってある。ガラス越しに見る南紀の海の広々とした展望はそれなりに素晴らしく、四国が霞んで見える。
お湯は、透明で少しヌルっとしている。湯持ちは良い。三、四日も入ると痛みは消えた。噂通りということだろう。しかし、いつ痛みが出るやも知れない。十日はきっちり居ていよう、安心して走れるぐらいになれるまでと決めた。
棟の部屋数は、私が玄関脇西筆頭であるから、風呂場まで八部屋程が並ぶ。客は私を入れて四組であった。食事の膳は女二人がする。娘は私の部屋の担当なのだろう、ともかく、上の棟にいてほとんど食事運び以外姿を見ないのである。ホーンはあるが、分からないことはそれで訊いてくれと云う。
痛みが引くと、向かいの夜の宴会のお囃子が気にかかる。夕方時ともなると、タクシーから降りる綺麗に着込んだ芸者衆が、艶やかに見える。いくら湯治と言っても、向かいとこことでは違いすぎる。
思い切って残りの日数替わろうかという誘惑心が起きてくる。芸者二人、座敷が盛り上がる、深酒であくる日腰立たず、やっぱりここは自重。何より、ここに悪いではないか。向かいから出て来る、ここの人に顔を合わす。心優しい私には出来ないことだ。いっそ白浜へ、あそこで四、五日は幾らぐらいするのだろう。何しろ、退屈なのだ。
昼を食べる時に楽しみを見つけた。十五分ぐらいの帯番組である。ドラマの内容は忘れたが、二人のいい俳優を見つけたのだ。それが、冒頭に書いた二人である。私はドラマ好きであるが、二人は知らなかった(二人の若い頃である)。昼の帯番組なんて見ることはなかった。こうして、湯治に来ているお陰だと思った。
私は時々、この新人歌手は売れるとか、この俳優は大物になるとか言うとよく当たることがあった。母が言うには、歌は音痴だがいい歌手を見つける、俳優になれない顔だが、いい俳優を見つける、らしい(失礼な人だ)。
その後、役所広司はあの『シャルウイ・ダンス』で大スターになったし、小林薫は朝ドラで渋い味を見せるようになった。小林薫は演技も好きだが、あの声が好きで、彼のナレーション番組は欠かさず見ている。
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