言えないことば

三砂理子@短編書き

言えないことば

放課後、人気のない校舎裏で阿久津文香は深呼吸をしていた。肩を揺らしそわそわと浮足立って、文香は人を待っていた。秋風が文香の首元を撫ぜる。そろそろタンスからマフラーを出さないといけない季節だと思った。

「阿久津さん」

背後から低い声が聞こえて、文香は飛び跳ねるように背筋を伸ばし、振り返る。

「荒井、くん」

(背が高い)

名前を呼び返しながら、初めて会う相手でもないのに文香はそう思った。荒井秀明は長身の身体を気だるげに猫背に丸めていたが、それでも文香より頭一つ分高かった。

「話って、何?」

放課後の校舎裏に二人の男女。女が呼び出し、男が呼び出された。ありきたりなシチュエーションだと文香は思った。けれど、手には汗がいっぱいで気持ちが悪く、いくら深呼吸をしても心拍数は上昇する一方だ。口の中がからからに乾いて声が出るか不安に思った。

少女漫画の世界とは違う、リアルの感覚だ。

「あのね、私ね」

意を決して一息吸い込んで、そのままの勢いで声を上げる。

「ずっと、荒井くんのことが、す――」


□□□


「……き」

自らの声を耳にしたから目が覚めたのか、あるいは目が覚めたから声を聞いたのか。日の光が眩しくて、文香は開けたばかりの目を反射的につぶった。身をよじらせて脇に置かれた携帯電話を開くと、「11/15 7:13」の文字が表示された。

夢、と無意識に呟いて、それからがばりと飛び起きる。

「夢!」

身体をくの字に折ってベッドに顔をうずめて、文香は絶叫した。ひどい夢だと思った。

(今日の放課後、校舎裏で。私が呼び出して。荒井くんに告白を、しようとして――)

恥ずかしさに顔が熱を持つのが分かる。しばらく後に母親が部屋に起こしに来るまで、文香は顔を上げることができなかった。

最後まで見ないで起きたのが不幸中の幸いだった、と学校へ向かいながら文香は思った。

もしも告白していたら。あるいは、返答まで夢に見ていたら。

ショルダーバッグに視線を落とす。バッグの中には、教科書やルーズリーフの他に、クリアファイルが一つある。そしてその中に大切に挟まれている、一通の手紙のことを文香は思った。


ひとつふたつと深呼吸を繰り返す。秋風に寒さを感じ身を屈めた。

「阿久津さん」

秀明が背後から現れ文香の名を呼ぶのを、文香は落ち着いた心持ちで聞いていた。ゆっくりと振り返り、荒井くん、と名前を呼ぶ。

(夢と同じだ)

秀明を見上げながら、文香の思考は夢とは異なっていた。

(これから荒井くんが言う言葉を、私は知っている――)

「話って、何?」

記憶の中に鮮明に残る秀明の声と、目の前に立つ秀明の声が重なった。緊張とは違う冷たい汗が文香の首筋をつたう。

「あのね、私ね」

夢の中の自分の声をなぞる。

ここから先は、夢でも見ていない。夢の続きだ。

「ずっと、荒井くんのことが――」


□□□


ぱちりと目が覚める。声はなかった。携帯電話に表示された時間は「11/15 7:13」。

脳が思考し始める前に防衛本能が働いて、文香は背筋がぞっと凍った。遅れて思考が追いついてきて、悪い夢だ、と思う。

悪い夢で、あってほしい。

ベッドから飛び起きて、文香は机に置かれたショルダーバッグの中を漁った。クリアファイルに挟まったままの手紙を見つける。封をされて綺麗なその手紙は、文香の記憶の中では二度、秀明の机の中に入れたはずのものだ。

「うそ」

零れ落ちた文香の声は震えきっていた。


「阿久津さん、これ、昨日、図書委員の先生が、連絡プリントって」

そう言って文香に声をかけてきたのは、夢の当事者である秀明だった。文香はぐったりと伏せていた顔を上げ、ありがとう、と小さく答えてプリントを受け取った。

「阿久津さん、顔色、悪いけど、どうしたの?」

「ちょっと寝不足で。大丈夫、ありがとう」

身長差のある秀明の身体が文香の目の前に落ちてくる。秀明が屈んで、座っている文香に目線を合わせたのだった。

「これ、よければ。寝不足には、効かないと思う、けど」

ぼそぼそと低い声と共に秀明が差し出したのは棒付きの果物の飴だった。よければ。と繰り返す秀明に、文香は一つ、心に決める。


「阿久津さん」

三度目は振り返ることもなかった。どちらから来るかは分かっているのだから、そちらを向いて待っているだけでよかった。

「荒井くん。話があるの」

二度の悪夢に、伝えることさえ放棄してしまおうかとも思った。それでもやはり、三度目を決めた。覚悟を決めた。

「うん」

不器用でも優しい、秀明の声に胸がときめくのを感じる。

「あのね。私、荒井くんのことがずっと前から――」

ぷつんと意識が途切れる音を、文香は確かに聞いた。


□□□


目覚めは最悪だった。事態は飲み込めても、理解はできなかった。

(まさか、こんな。どうして)

文香が絶望に身を震わせていると、どこからともなくくつくつと笑う声が聞こえた。文香は最初それを空耳と思っていたけれど、声がだんだんと大きくなってくるのでどこから聞こえてくるのかと辺りをきょろきょろと見渡してみたが、声の主らしき人影はどこにもなかった。そしてその声はどこから発生しているというわけではなく、どうやら部屋中に響いているようだった。

「え、何、誰、ねえ!」

「俺を探してんのかァ?」

響く笑い声が消えて、代わりに文香の背後からボーイソプラノの声が降ってきた。驚き振り返る。ベッドの脇、窓の傍らで重さを感じさせることなくふわりと宙に浮いているのは褐色肌の少年だった。上半身には何も纏っておらず、サイズの合わないだぼっとしたズボンをベルトの代わりに紐でとめて履いており、そして裸足だった。藍色の短髪から長く尖った耳と角が左右対称に伸びていた。それを見た瞬間、文香は「ヒッ」と小さく声を上げた。

「なんだよ、俺を探してたんじゃないのかよ? そんな悲鳴上げるこたァねーだろ」

つり目をさらに吊り上げ口をへの字に曲げて、少年は不機嫌そうに言った。

「だって、あんた、誰。だってここ、私の部屋で」

立て続けに起こる理解し難い事態に、文香は混乱しきっていた。だって、だって、と壊れたおもちゃのように繰り返す。

「あ? 別に場所なんてどこだっていーだろ。俺らはどこにでもいるしどこにでもいない。アンタらでいう、妖精とかいうやつ。ほら、ツノあるし?」

どこからどうみても悪魔だ、という言葉を文香は言わずに思った。混乱で声がうまく発せないせいだった。

「まあ落ち着けって。三度も旅して疲れたろ? 俺もあれやるの楽じゃねーんだ」

「……え? 今、なんて」

「あ? だから、タイムトラベル三回もしてアンタも疲れたろって」

その言葉に、錯乱していた頭がさーっと冷えて冷静になる。少年の言葉を脳裏でなぞる。

悪魔みたいな妖精。三回のタイムトラベル。

ありえるはずのない存在と起こるはずのない悪夢。

異形の存在を偏見が否定するよりも先に、納得し理解する。

「……あんたが、これ、やったの」

「おう」

「なんでそんなこと、するの」

「まあちょっとした趣味ってやつ? 妖精ってのはさァ、普段人間には見えてないだけで、いいことも悪いこともなんでも好き勝手して遊んでるのさ。んで、今回の標的に俺はアンタを選んだってわけ。アンタがあの男に『好き』と言う度にこの時間に飛ばす。そういう条件と効果で。こうして教えてやってるのも含めて、全部遊びさ」

「悪趣味!」

文香はベッドから飛び起きて少年に平手打ちをしようとしたが、少年はそれを軽々と避け、文香の腕を掴んだ。その褐色の細い腕は文香がどう力を入れてもびくともしなかった。

「何するのよ、痛い! 離して!」

「アンタが先に俺を殴ろうとしたんだろーが。ま、俺はもう帰るから。精々足掻いて俺を楽しませてくれよ」

妖精は文香の腕を掴んでいたのと反対の手で文香の目を覆った。そしてその手が離され文香が目を開けたとき、妖精の姿はそこにはなかった。

「なんなのよ……」

全部夢だったらいいのに、と文香が頬をつねると痛みを感じた。その痛みに泣いてしまいそうだった。


「荒井くん、あのね、――」


□□□


「私、荒井くんのことす――」


□□□  □□□  □□□  □□□  □□□  □□□

□□□  □□□  □□□  □□□  □□□  □□□


「諦め悪ィなァ、アンタ」

「いつまでつきまとうのよ、変態」

ループする度に身体は過去の状態に戻っているのだと少年は言った。疲労を感じるのは精神的なものだと。度重なるタイムトラベルに、文香は徐々に疲弊し顔色は悪くなり、目も虚ろになっていった。

「アンタが諦めたら終わるさ」

「人の恋路を邪魔して何が楽しいの?」

「何もかもが楽しいね。ここまで足掻かれたのは初めてだ。最っ高に楽しいね」

二度目に現れた少年は、今度は文香のベッドの上にあぐらをかいて浮いていた。くつくつと笑う少年に文香は腹が立ったが、怒る元気すら残っていなかった。

「なんなのよ。なんなのよ、あんた……」

ベッドに伏せり、今にも消え入りそうな声で文香は嘆いた。少年はいつの間にか姿を消していたけれど、笑い声だけが消えることなく部屋に残されていた。静かになった部屋で文香は一筋涙を零した。


携帯電話のアラーム音で文香は目を覚ました。アラームを止めると画面に「12/01 07:01」と表示された。

(嘘みたいだ)

二週間と少し前、文香は悪夢の日々――たった一日の出来事だったが、文香にとっては日々と呼べるようなものだった――を過ごした。結局のところ、文香には諦めるという選択肢しか残されていなかった。手紙はクリアファイルにひっそりとしまわれ、時は正常に流れ、季節は秋から冬へと移り変わった。

悪魔のような妖精は三度現れることはなかった。もう文香の元を離れたのか、あるいは姿を見せないだけなのかは文香には分からなかったが、どちらにせよ再び秀明に告白する気は起こらなかった。秀明への思いは変わらなかったが、また過去に戻される可能性を考えると、それだけでぞっとした。

テスト期間が近づいて、文香はいろいろのことを忘れるために勉強をした。寒さが身に染みて寂しさを覚えた。


「阿久津さん、ずっと好きでした。付き合ってください」

渡辺大吾の告白に、文香は一瞬理解が追い付かずに目が点になった。

放課後の校舎裏。手紙で呼び出されたのは文香の方であったが。既視感を覚えるその状況で、それでもその言葉を聞くまでそれが告白であるとは考えもしなかった。

大吾と文香の関係は、出身中学校が一緒であるということと現在クラスメイトであるというそれだけだ。それに。

(どうして、私なんか)

大吾はクラスの中でも目を引く生徒である。いわゆる人気者と呼ばれるような存在で、クラス内外問わず交友関係は幅広い。クラスで特に目立つことのない、むしろ地味な部類に入る文香よりも、仲の良い女生徒は数多くいるだろう。

文香と大吾は中学の三年間で同じクラスになったことはなかった。高校二年に上がってクラスメイトになってから多少は会話を交わすようになったが、それは大吾が誰にでも優しいというだけで特別親しかったわけではなかった、と少なくとも文香はそう思っている。それなのに何故、と文香は思わずにはいられなかった。

何かを答えようと言葉を探したが、何と言えばいいのか分からず文香は大吾から視線を反らした。大吾はじっと文香を見つめ言葉を待っていた。

「私、は……、渡辺くんのこと、あんまりよく知らないし。……その、」

しばらくして文香がぽつぽつと話し出す。慎重に言葉を選ぶ。文香は半月前の某日のことを思い出していた。悪魔の笑みの妖精のこと。そして彼にされた理不尽な仕打ちのこと。まだ彼はどこかで見ているのだろうか。どこかで文香をあざ笑っているのだろうか。

「少し、考えさせて、ください」

文香は困惑で顔を上げることができなかったから、大吾が苦く笑ったのを見ることはなかった。


その夜くつくつと笑う声が聞こえたとき、文香はそれに驚くことはしなかった。大吾に告白を受けたとき、無意識のうちで、今夜きっと現れるだろうという予感があった。

「久しぶりね。また、悪趣味なことしに来たの?」

妖精が現れるよりも先に、文香は低い声でそう罵った。部屋に反響していた笑声が途切れ、文香の目の前に妖精が姿を現した。

「悪趣味なんてひでェ言い方だなァ。ちょっとした遊びだろー」

「あんたはそれで楽しいかもしれないけど、私にとってはたまったもんじゃないわ」

「ま、妖精の気まぐれなんてそんなもんさ。ああ、でも今回は別に邪魔する気はないぜ。好きにしてくれて構わねーよ」

妖精の言葉に、文香は一瞬ぽかんと立ち尽くした。けれどすぐに思い直し、顔をしかめる。

「嘘。そう言って結局邪魔するんでしょう」

「しねーって。それ言いにわざわざ出てきてやったんだ」

文香は妖精をじろじろと睨んだが、妖精は顔色ひとつ動かさなかった。彼が何を考えているのか、文香は計りかねていた。

「じゃーな。精々がんばれよ」

妖精の笑う顔を最後に、目元を手で覆われ視界を奪われる。文香は消える間際の妖精に何事かを言おうとしたが、その手が人のように温かくて、戸惑ってしまった。


「ごめんなさい。やっぱり私、渡辺くんとは付き合えません」

翌日、文香は放課後に大吾を呼び出して、頭を下げた。

「そっか。分かった。ありがとう」

「私の方こそ、ありがとう」

大吾が苦笑するのを見て、文香は胸がちくりと痛んだ。


「おい、どういうことだ、てめェ!」

大吾が去り人気のなくなった校舎裏に、笑い声なく現れた妖精はぎらぎらと怒りに燃えており、文香を刺し殺さんばかりに睨んだ。

「なんで断った」

なんのことか、とは文香は聞かなかった。怒鳴られることすら予測されていた事態だった。今こうして妖精が現れ、そして怒りを露わにしたことで、文香は自身の予想を確信へと変えた。

「あんた、知ってたんでしょ」

「何が」

「渡辺くんが告白してくるって」

時間を遡れるのなら。進めることも、可能だろう。それはつまり、未来を知ることができるということに他ならない。

「さァな、なんのことかな」

不機嫌そうに視線を逸らす妖精は年相応の少年のようだった。文香はこの悪魔のような少年を嫌いじゃないと思うようになっていた。

「あんた、知ってたから私の邪魔したんでしょう」

「だったらなんだよ」

それは暗に肯定を意味していた。

「……ありがと、ね」

微笑む文香に妖精は目を丸くした。まさかそんなことを言われるとは、思ってもいなかったのだった。

「でも、ごめんね」

「……なんであいつなんだよ」

妖精はまだ、文香の言葉に納得がいっていないようだった。

「お前ら人間は、みんな渡辺とかいうあいつみたいなのがいいんじゃねーのかよ。なんであんなやつを選ぶんだよ。意味わかんねェよ」

「渡辺くんの方が魅力的な人だって、みんなは言うかもしれない。荒井くんは渡辺くんほど社交的じゃないし」

妖精の行動は善意だったのだろうと、今なら分かる。彼の言う通り、大吾の告白を羨む女生徒は多くいるだろう。でも、と文香は言った。

「だって、好きなの。彼じゃないと、だめなのよ」

妖精に怯えて言えなかった気持ちを、文香は初めて素直に言うことができた。言葉にすれば、その思いは一層強くなる。文香はじっとしていられなくなって、妖精にもう一度「ありがとう!」と言い、それから無我夢中で走り出した。

「……なんなんだよ。変なやつ」

妖精の呟きは誰に聞こえることもなかった。


文香は全速力で校舎に戻った。服や髪が乱れることも厭わなかった。テスト期間のためにほとんどの生徒が帰った教室に、まだ秀明の姿があった。

「荒井くん!」

息も絶え絶えに、文香が叫ぶ。秀明は驚き振り向いた。

「阿久津さん。どうしたの」

「話が、あって」

深呼吸をひとつ。恐怖はない。周囲の生徒の存在はすっかり見えていなかった。

言葉を紡ぐ、その瞬間に。記憶の中の、人間じみた妖精に、心の中で笑いかけた。

「私、ずっと、荒井くんのことが――」

タイムトラベルはもう起こらない。


End.

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