第5話 七月 梅雨と再会
若干遅めの雨に濡れながら、それでも依然として自転車登校を続ける俺は毎度朝から濡れ鼠の様相で授業を受ける羽目になる。
とは言えこれは仕方のない事だ。電車やバス登校となるといつもと違う時間で朝を送らなくていけなくなり、俺は今までの生活ルーティンが一日でもずれてしまうのが、何となく嫌なのだ。
こう言った小さな変化から思いもよらぬ、ひずみを生むかもしれないし。
なにより、俺は徒歩か自転車以外の登校などしたことがないため、そう言ったことに抵抗があるのも確かだ。
通勤ラッシュとかマジ勘弁だし、痴漢とかでトラブったら無職ニート扱いされ、瞬く間に豚箱に入れられる。
あと数か月で成人になる身としては、ここで前科が付くのは大変に辛い。
成人じゃなくても辛い。
というわけで朝からガンガン雨に濡れ登校してきたわけだが、その日は何故か放課になっても俺はまだびしょびしょになっていた。
朝も夕も雨に濡れ、夏といっても流石に寒さを禁じ得ない俺は、机の上のホットコーヒーを飲みながら何とかして暖を取っていた。
「ヘックシュッ‼ ズズッ……」
押し寄せる寒さに鼻を鳴らしていると、目の前から涼し気な声が聞こえてくる。
「わざわざご苦労だな」
「仕方ない、これも浪人の定めだ」
呆れ顔の師道にそう言って、クールに振る舞うも鼻を垂らしながらだとそれも締まらない。
「で、そこまでしてちゃんとお目当てのものを取ってこれたのか?」
「抜かりはない」
そう言って、鞄の中から一枚の紙を取り出した。
『卒業証明書』
そう綴られた、A4サイズのプリントには俺の名前と母校の名前、それと卒業年日が記されている。
括目してみるといい、これが現役で大学に受かった奴では絶対にお目にかかれない代物『卒業証明書』だ。
ちなみに卒業式でもらえる『卒業証書』とは別物だから注意が必要である。
そしてこの『卒業証明書』なのだが、端的に言えば大学受験で必ず必要になる書類の一つだ。
とは言っても、高校三年で受験する現役生はまだ高校を卒業をしていない『卒業予定』の身であるから、提出どころか手にすることもない。
しかーし、浪人生とは基本的に受験においてはイレギュラーとして扱われるわけで、この書類が必要なのだ。
それだけなら別になんともないのだが、この『卒業証明書』は入手がやや面倒で、事前に学校の事務に連絡をして直接学校まで取りに行かなくてはいけない。(地方、学校によって異なる)
まあ、つまりは浪人の身でありながら母校を一度訪ねなくてはいけないわけだ。
そこで、俺が今日わざわざ雨の中卒業証明書を取りに行った理由に行き着く。
「ところで、今日は来てたのか?」
「事前の情報通りだ。さっき一年生に話を聞いたら見たと言っていたぞ」
「そっか、やはり出て正解のようだったな」
「でも、本当に良かったのか。高校の先生とも会えるのは結構貴重だぞ」
そう、今日ここ磐台予備校には俺の母校の高校教師が来ている。
世間一般では高校と予備校は犬猿の仲と思われいるかもしれないが、その実はそうでもない。というより、割と接点がある。
例えば、受験に置いての大幅な変更点や傾向分析の公表なんかはよく予備校で行われるし最近では高校教師向けのテスト対策指導の公演なんかも予備校などで行われる。そういうわけで案外、高校と予備校の距離は近かったりする。
そして、その距離感を如実に表しているのが今日うちであった『激励会』だ。
『激励会』とはその名の通り自分の通っていた高校から担任の教諭が予備校に訪れ、別室で昼食や軽食を取りながら久々の再開を喜び合うというものだ。これも浪人ならでは行事といえる。
ちなにみ一郎生限定であるため、基本的には俺に一切関係のない話のなのだが……
「しかし、今年も藤山先生が来ているとは……お前も愛されている」
「ある意味運命を感じてはいるが、何だかなぁ」
「別に気にする必要もないだろ。去年も会ったからって」
「惨めだろ!前にあんだけ大口叩いてしまったんだから」
前とは去年のことであり、藤山先生とは俺の高校三年時の担任教諭である。
そして今年と同様に『激励会』に呼ばれた俺は当時浪人の中盤におきる調子をこき過ぎる病気にかかり、荒唐無稽なあれやこれやを口走ってしまったのだ。
「結局は、ただ立つ瀬がないだけだろ。いいじゃねか、変な意地なんて張らなくても」
「浪人から、プライドをなくしたら何も残らねえだろ!」
「二浪している時点でプライドも糞もないだろ」
その言葉には反論の余地もないのだが、それでも俺は頑として動こうとはしなかった。
「別に先生の事を嫌っているわけじゃねーんだよ、ただ世話になっただけになぁ」
「だとしても、わざわざ予備校(ここ)を離れるまでしなくてもいいだろ」
「いや……まあそれもそうなんだが。その……先生は変に鼻が利くから……」
「利くからなんだ」
「だから、それで俺の所まで会いに来たりしたら困るだろ」
これはあまり言いたくなかったのだが、言い訳をしているとついこぼれてしまった。
案の定、師道は全てを忘れたかのように目を大きく見開き、そして次に頭を押さえるようにして瞠目した。
「それは……なんだ?お前のためにわざわざ藤山先生が駆けつけて来る……とでも思っているのか」
「お、おう」
師道は頭を抱えて、ため息をついた。
「呆れるのを通り越して、最早お前の感性を疑うレベルだぞ。一教師がわざわざお前如きの矮小な人間のために会いに来るわけないだろ。今ならギャグで済ませてやるぞ、ほら早く正気に戻れ。」
「う、うるせい!俺はいつだって真面目だ」
こういう反応をされると分かっていたから言いたくなかったんだよ!
でも、あの先生はホントにそういう人なんだよ。一郎の時とか受験前にわざわざ家までお守りと合格カールを持ってきたんぞ。いや、泣くほど嬉しかったけども……ただ、あんだけ感動ずる応援を受けただけに今の俺の立場を見せるのは申し訳なさ過ぎて。
「そもそも先生はお前が二浪しているの知っているのか?報告してないんだろ」
「合格報告をしてないんだよ!」
なまじ、二年次も三年次も担任だったため俺の性格とかは確実に抑えられているはずだ。
合格報告しなかったことから俺の合否を察し確実に掴んでくる。もしかしたら、ここに来たのも……
「なんにしても、良い先生なんだろ。機会があるなら次は会いに行けよ。俺なんて担任はもう転勤してるわけだしな」
師道の担任は、そうか。
二年も経つとそんなこともあるのか……。だとしたら、今でも会いに行ける俺はかなり恵まれているな。
「分かってる。次は合格報告しに行くさ」
余りに真剣にそう勧める師道に圧され、俺はそう安請け合いしたわけだが何とも言えない寂寥だけが胸に残ってしまった。過去は断ち切ってきたというのに、どうも背後が気になる一日だった。
とそんな感じで、一日が終わるはずだったのだが……
師道と別れ一階のチュータールームで卒業証明書の受領報告をしようとすると、担当チューターに面談の相談をされた。
「えっ、今からっすか?」
「ごめんね、急な話で。でもどうしても今じゃなくちゃ駄目なのよ」
気弱そうな俺の担当巨乳チューター申し訳なさげに、そう告げた。
あざといな。
「元々はもっと後の予定だったんだけど、ちょっと寮生の子の予定が変わってしまってね。」
「はあ……」
となんとも気のない返事で応える。
「ダメ……か……な?」
チューター、高校で言うところの担任との面談は夏と冬の二回でやることが多い。
夏でとりあえずの進路を定め、センター明けの一月末に二次の出願をする。
もちろん希望すれば、いつでも対応してくれるがあまりチューターと懇意にしていない俺にはやや疎遠だった話でもある。しかも、この時期とは。
「い、いえ。別にいいっすけど。」
であろうとも、別に時間の無駄になるわけでもないしどうせしなくてはならないことだ。
多少、予定が早くなろうとも別に構わない上にチューターも一人で百人以上の生徒を抱えている事を知っている俺にそれを拒否する理由もなかった。
「よ、良かったー」
と何故かあからさまにホッとするチューターを尻目に、俺は少し不信に思いながら席を立つチューターの後ろを追った。
で
「やあ、落合」
そんな野太い声を耳にして、速やかに教室を出ようとする俺をボーンレスハムのようなたくましい腕が首をがっちりホールドした。
「ぐあっ、なんで!?」
「なんでもかんでも、落合、君が来ないから先生から来たんだよ。」
「いや、『来たんだよ』じゃなくてなんで予備校の面談の部屋に先生がいるんすっか!?意味わかんないんすよ。」
「まあまあ。」
いやまあまあじゃなくて……
約一年ぶりの恩師との再会に本来なら涙すべき所なのだろうが、残念ながら今はそれどころではない。
俺の高校時代の恩師こと、藤山 勝之大先生は、ラグビー部顧問のガチムチ熱血体育教師だ。
非常に情に厚く、熱血漢でその人の良さは無類である。
「それで、そろそろ説明してくれませんかね?」
「ん? 何を?」
「全てですよ! ここに居る理由と言い、俺の居場所を知っている理由と言い、今ヘッドロックを喰らっている理由と言い。」
「ハハハ、落合もよく話すようになったな。塞ぎ込んだりしてなくて結構結構。」
「あの……そろそろまじで質問に答えて頂いてもいいですか」
いい加減俺の頭にも血が上り過ぎてきたため、タップをしながらそう言うとようやく太い腕から解放された。
「まず一つ目だけど、それは落合も知っているだろう?」
「えっと……『激励会』ですよね。」
頭を押さえながらそう言うと、先生は大きくうなずいた。
「そう、だからいるんだよ。」
「いや、でも『激励会』は結構前に終わったはずじゃ……」
「なんせ、今日はその後に受験傾向の説明回がさっきまであったからね。」
「先生、体育科じゃないですか……」
「確かに直接は関係ないね。でも担任を持っている以上はおろそかにも出来ないから」
「はあ……」
何とも最もな意見に聞こえるが、だとしたらなぜ今は先生だけなのだろうか。他にも教師は来ていたというのに。疑問を積もるばかりだ。
「それで、その後にチューターさんに会って少し話していたら、良かったら会いに行って下さいって言われてね。落合、君は聞くところによると面談とかにはあまり積極的でないようだね。」
嵌められた……つまりはそういうことか。
寮生が云々とかもつまりは俺をここに引き付けるための方便で、俺はその方便にまんまと乗せられたわけか。次郎……不覚。
「それと二つ目は……えっと君の所在が分かった理由だよね。
名前は伏せさせてもらうけど、落合にすごく近しくて、今も一緒に勉強を頑張っている人から聞いたんだよ」
しどおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
俺の知り合いで今も浪人をしているのあいつくらいだ。だからすぐに合点がいってしまった。
通りで今日はえらく先生の肩を持っていたわけか。
「とにもかくにも、落合がちゃんと予備校に通っていてくれて、先生はそれだけでホッとしたよ。
二浪生活は色々と大変だって聞くしね。先生は一郎で終わったからそのあたりの感覚はよく分からないから、上手く励ますことも出来ないから元気に登校していてとりあえず安心したよ。」
そんなこと言いながら凄く優しい顔を向けられると、胸の込み上がてくるものがある。
「と、まあこれで先生はほとんど落合の疑問に答えたと思うから、今度は先生から質問してもいいかい?」
「なんっすか?」
「どうして、今まで連絡をよこさなかったんだい?」
「……」
あぁ、これは怒られる。
俺は直感的にそう感じた。
そのせいでしばらく何も言えずに押し黙る俺に、先生は苦い漢方でも飲み干したような顔で口を開く。
「どうせ、君の事だから会わせる顔がないとかで報告に来なかったのだろうけど、それならそれで電話でも伝言でももらいたかったものだよ。
まあ、落ちたってことはそれだけショックなんだろうけどね……それでも先生も君の事を気にしているから」
その言葉で、ようやく俺は先生の言わんとすることが分かった。
先生も俺の結果を心待ちにしていたのだ。
高校であれだけ世話をかけ、予備校に入っても気苦労をかけ、その上で俺は結果を伝えていなかったとなると、最早弁解の余地がない。
「……すいません」
絞り出すように告げた言葉は、純度100パーセントの謝罪の気持ちだった。
得も言えぬ申し訳なさがこみ上げ、先生の顔を直視できなくなり俺は静かに顔を伏せた。
それと同時に自分を支えてくれた人が今でも、こうしていることに気づかされる。
「それにちゃんと成績も伸びているじゃん、特に英語なんか去年の倍以上だし」
「いえ、それほどでも……ってなんで俺の去年のセンターの点数を!?」
あまりに結果が芳しくなくて、墓の中まで持っていこうと決めていた俺のセンターの点数。
そんな最重要禁則事項をなぜをなぜ知っているのか……とその理由はすぐに明らかになる。
「ちょっと名前は言えないけど、落合と古くからの付き合いで今大学生の彼女に」
しおりいいいいいいいいいいいいいい
これまた身近の者の犯行とすぐに判明し、いよいよ俺の交友関係は完全に網羅されてしまった。どうでもいいが、俺の友達少なっ。
「他の苦手だった科目もしっかり力を付けているようだね、物理もいいし。ほら化学なんて現役の頃は『科学』と書いて科目選択した人とは思えない程、伸びてるじゃん。」
とつらつら述べ連ねているが、先生は何も俺の成績を暗記しているのではなく一枚の紙を読み上げているに過ぎない。
その紙というのが言うセンター試験の正式点数だ。
毎年6、7月の忘れた頃に帰ってくるプリントは合格していればただの紙切れに過ぎないが、落ちていれば悪夢の再来として不合格が判明した時以来の絶望に陥る、いや点数がはっきり出ている分俺はこっちのが胸に刺さった。
それにしても詩織の奴め、いつの間に俺の機密文章を……あの紙は俺の
「最近のテストとかも見せてもらっているけど、大分安定しているじゃん。」
「なんで、先生が俺の最近のテストを知ってんすか?」
「そら毎週送られてくるから」
「どこから」
「ここから」
そうなのか……、んっ、そうなのか?
「あっ、これ言っちゃいけないことだったかもしれない。」
どういうだ……それは。予備校と高校はそこまで癒着しているというのか。
「いえ、もう遅いんでこの際詳細を」
事の真相を探るために、俺は深く首を突っ込む。
「それほど、深い話でもないよ。単にここでのテストは高校にも届いているってだけで。」
初耳であった。
というより、聞きたくなかった事実だ。聞くところによると、浪人率の高い高校、俗にいう進学校ではこう言うことはよくあることらしい。高校では浪人の進学先も実績に数えることがあるため
「でも安心しなよ、別に今日は成績の事で何かを言おうとは思ってないから。なんせ今日は『激励会』なわけだからね」
「は、はあ」
「とりあえず、今年は落合も受験なんて最後にしたいだろうから、そのことで先生から何個かアドバイス」
「……なんすか」
なんだか、そろそろ疲れてきたため早めに終わらせてしまおうと若干投げやりな姿勢の先生の話に耳を向ける。
「今年は絶対にオプキャンに行くこと。なんか去年はひたすら勉強だけしていればいいと思っていたのかもしれないけど、その考えを今年は捨てよう。理由は分かるよね?」
俺が神妙に頷くと先生もニッコリ。
「落合、君は勉強の仕方は知っているけど、何分受ける大学の事を知らなさすぎる。
思い出してもみなよ、現役の頃を。とにかくどこでもいいから国公立に行きたいとか言って、ただ倍率が低いという理由で興味もない教育系の大学を狙ったり、普通に勉強しても受からないとかで、後期の小論文だけ必死に勉強していたあの日を」
あったな、そんな無意味な事をしていた日々も、そして脳内に流れる「もう一年学べるドン」の一言。あの頃は密かに浪人を覚悟していたから、良かったものの一年後に二回目が流れた時はホントに辛かった。いやホントに。
「運が良いことに、日本にはいろんな大学がある。それは良いことにも悪いことにも選択肢が多いという事だ。その中で自分が納得できてそして四年、ないし六年を充実させなくてはいけない」
「でも、俺は国公立が……」
「もちろん、こだわるなと言っているわけではない。自分の行きたい所に行く意思を持つことは大事だし、最終的な決断は君自身で決めなくてはいけない。だからこそ、もっと広く視野を持ってほしい」
「広く……」
「そもそも、落合、君が私立を嫌う理由は?」
「それは……学費が……」
「学費、つまりはお金の話だね。しかし、君は大学の学費についてどれくらいの知識がある?」
「……」
その質問には口ごもる。
最低限、私立と国公立の高低くらいは知っているが。
「入学金とそれから4年間の学費も入れると国公立で約250万円、私立文系で約400万、私立理系で約550万、私立の医歯薬では2000万から4000万くらいまで幅がある。」
うん、それはなんかで見たことある。
「しかし、私立はかかる学費が多い分、奨学金や授業料の減額システムが多い場合がある。例えば、奨学金一つとっても日本学生支援機構が主体の第一種奨学金(無利息)と第二種奨学金(利息付)があったり、二年次以降の受給者が多い大学ごとの奨学金とか、それと、地方に住む学生向けの自治体の奨学金、他にも保護者が危篤状態の時に有効な民間団体の奨学金とかもある」
難しい漢字が多く並び、頭の中がパンクしそうになる。
正直言うとこの辺りはほとんど知らなかった。
もちろん奨学金というワードはよく耳にしていたためその存在自体は知っている。それでもここまでしっかりした知識を持ち合わせてはいなかった。
先生、曰く奨学金の種類は本当に多いらしく今やネットで検索すればいくらでも情報は手に入る。
しかし、それでも俺はそれを怠っていた。受験に置いての情報戦を俺は舐めていたのだ。そんな俺に先生はさらに鋭く指摘した。
「そもそも落合、君のご両親は私立を反対しているの?」
ギクッ!!
「そ、そ、それはですね、え~とですね…」
「反対、いや聞いてもいないか」
「それは……」
「聞いてないね。」
「……はい。」
先生からの厳しいご指摘にしょんぼりしながら、俺は膝をくっつけた。
だって、お金の話とかしづらいし。
「はあ……ホント極端な性格は変わらないけど、そういう一人で抱えむ所も変わらないなぁ……」
「いや、でも……」
「あのねぇ、別に浪人だからって人に頼ったらいけないという訳じゃないんだよ。」
「それは……分かってます」
「だとしたら、頼らないのは何?」
「……プライド?」
「分かってないじゃないか!」
普通に怒られてしまった。
いや、俺が悪いけどもどうしても後回しにしがちになってしまうのだ。
居心地が悪くなり、Tシャツの端をこねくり回していると先生はここにいない人間の名前を出してきた。
「全く、明美の苦労も少しは分かるよ」
その名前に俺もつい反応してしまう。
「詩織が何か言ってたんですか?」
「言ってたよ、そりゃもう。やれ一郎の頃は絶食してたとか、やれテストの点数が悪すぎて意識が飛ぶまで勉強をしてたとか」
よりによって、俺の中でも上位の黒歴史を……
「ったく、ホントに呆れたよ。いつも言っていただろ、落合は根は真面目だけど頑張り方を間違っているって。それじゃ、上手く行くことも失敗に終わるよ。」
「頑張り方ですか……でもそれって正解は何ですか?」
「落合自身が自分の今の生活を振り返れば、それも簡単にわかるはずだよ」
「答えは教えてくれないんですね」
「まあね、今先生は君の担任ではなし……」
それに、そう言って先生は付け加える。
「こうして、ちゃんと自分を見つめ直せるのも今くらいのものだよ。この時を無駄にしちゃ駄目だよ。それは君以外の人間のためにもね。」
その時の先生の目が、どうにも俺には忘れられなかった。
「どうやら、雨も止んだみたいだね」
窓の外のうす暗い空を眺めながら、先生はしんみりと言った。
「雨宿りで居たんすっか……」
「それもあるね」
悪びれもなく言われると、特に悪い気もしないからこの先生は不思議だ。
「でも、落合とこうしてまた話が出来たのも良かったよ」
「どうしてですか?」
それは大事な教え子だからに決まってるよ。
とでも応えられたら素直に喜んでいたが、やはりそうはいかなかった。
「後学のためかな。今担任を持ってる中でも落合みたいな問題児はいるから、そういうのにどう接していけばいいか研究しようとね」
「……勉強熱心ですね」
と皮肉のつもりで言ってみたものの先生はまじめな顔で返す。
「そうだよ、大人になっても勉強の毎日さ、いくつになっても学ぶことはあるし心の持ち方一つで何からでも人は賢くなれる。だから、落合。君にはこの浪人でもっと賢くなってほしいし、色んなことを学んでほしい。今年で成人する君なら、この言葉も本当の意味でわかるはずだよ」
「それはいつぐらいで」
「君次第だよ」
ですよねぇ……
「だから、次に会うまでに少しは成長していてよ。学力面でも、人間面でも」
という言葉を残して先生は予備校を後にした。
ホントにひょいと現れては、ひょいと去って行ってという感じだ。
もう少し、行動にまとまりを求めたい。
そう思いながら、俺も荷物をまとめ廊下に出るとそこに見知った師道の姿があった。
「なんだよ」
「いや、まさかお前の戯言がまんざら嘘ではなかったのだな、と思って」
「戯言ォ? 何の話だよ」
「藤山先生のお前への愛は本物なんだなって」
そのことか
「そうでもねえだろ、どうせ『激励会』のついでかなにかだって」
しかし、師道は笑みを絶やさない。
なんだ、こいつ暑さで脳味噌でも沸いたのか。
気持ち悪うぅ。
「いやな、さっき聞いたんだが藤山先生、本当は今日『激励会』も『説明会』もなかったらしい、つまりはお前のためにわざわざ先生は来てくれたのだとよ。本人が言っていた」
自分で言ったのかよ。恩着せがましい……
だが、それでもそこまで悪い気はしない不思議。
なんだろうねぇ……人と接する大切さがここ一年でよく分かった気がする。
ただ、その相手が四十過ぎのガテン系のおっさんでなければ、なお嬉しいのだろうなとそんな事を考えながら、窓の外に目をやる。
確かに既に雨は止んでいた。
うす暗い雲の端から、僅かに月の光が覗く。
街を映すビルの窓にはその様子を少しだけ嬉しそうな誰かの顔が映っていた。
センター試験まであと……200日
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