第4話 六月 試験とパンフ

 「始めっ」

 号令と共に一斉にページが開かれる。

小さな吐息と、ペンの進む音だけが広がるこの静かな空間だがそこには確かに人々の熱意で満たされていた。


今この時を必死で乗り切るための死力の挑戦。

そして全国の浪人生たちのその存在価値が試される唯一のひと時。

それが、この一斉模試だ。


 とはいっても全国に模試と名の付く試験はあまたある。

各予備校が企画する模試もあれば、大学ごとに企画される特定大模試、細かいマーク試験なども入れれば数知れず。


そんな中でも、近年受験者の数が多いのはこの全国一斉模試だ。

元々、模試と言えば三大予備校が一つの佐々木セミナールが真っ先に挙げられるものだったが、昨今の不況による業務の大型縮小により

模試も廃止になってしまい、暫定的にこの統一模試が肥大化することになった。


 と、そんな経緯も考えながら試験に戻る。

まずは理系科目の筆頭、数学。

 俺の苦手科目その一。

 特にベクトルに関しては、俺の脳の回路にそんな思考が備わっていないため如何せん解けない。

解けても、序盤で詰む。


 つまり俺とは方向性が違うのだ、ベクトルだけに……

 それにしても、俺がこの問題を解けないのはベクトルが苦手という理由だけではないはずだ。

 なにせ、今現在俺の神経は限界にまで尖っている。

これは、俺の無駄に長い受験生活の中でも、三本の指に入るほどだろう。

だからこそだ、だからこそ俺は周囲の雑音に耐え切れない。


 まずは、左隣の髭眼鏡。

お前は一分間に何度、咳をすればいいんだ。

17回だぞ17回!思わず数えてしまったが、うるさいを通りこして、最早害悪だぞ。

なんか、さっきから鋭い視線を感じるし、ずっと聞いていると何から何まで苛立ってくる。

その無意味に伸ばした髭とか、フレームが白い眼鏡とか……


 しかし、それだけならまだいい。

 許せないのは、右隣のチャラ男。

チャラいのは存分に結構だが、体中から滲み出るその育ちの悪さを足で表現するのはいかがなものだろうか。


 貧乏ゆすりが酷過ぎて、机は揺れるは、俺の血圧が上がるはで、そろそろ我慢の限界なんだが。

そんなにビートを刻みたいのなら警固公園の沿道で一人、メジャーデビューを目指してケツドラムにでも興じてこい、なんならそのまま帰ってくるな。


 そして極めつけは、後ろの奴。

 顔は知らんが、足で俺のケツ辺りを優しく撫でるのは一体何のサインなんだ。

何のサインであっても、断固としてお断りだがとりあえず、鳥肌が総立ちでそれはもう変な緊張が止まらない。


 それも隣のチャラ男のように一定のリズムを刻むならまだしも、タイミングを変えられるのは気持ちが悪い。

 (あっ、今蹴った)

 と強めに当てられた時には普通に驚くし、普通に気に障る。

なんだか、そろそろ癖になりそうで危うい。


 あ~~~~~集中できん!

 眉間に皺を寄せつつ、頭を悩ましていると遂に教室にチャイムが鳴り響いた。


 「止め!」

 プリントを裏返して後ろから回されるプリントの束に自分のを乗せる。


やっぱり、後ろの奴は男だったか……

 やりきれない気持ちと、すがるような僅かな期待を抱えながら次の科目を確認する。とは言ってもこの200人いる教室で周りを非難しながら、席の変更を要求できるほど肝も太くはない。結局は何も言わずにただ席に座って時間を待っていた。

 

 次は俺の苦手科目その二の物理だ。

 とりあえず、手持ち無沙汰な俺はどうすれば忍耐力を上げられるのか物理的側面からアプローチしてみることにした。

 




 「ていう事があったんだぜ、師道ちゃ~ん」

 テストを終えて、終礼ともなると時刻は既に夕刻。

そうなると、帰宅時間など何時になっても大して変わらないため俺達はテスト終わりにはこうして近くのカフェで自己採点をするようにしている。


 「どうでもいいが、お前の愚痴を聞かされる俺の立場は何とかならないのか?」

 師道は自分のコーヒーにドバドバと練乳を加えながら、最後に角砂糖をトッピングしてそれを口にする。

最早見ているこっちが胸焼けする。

 逆に俺は目の前のカップを手に取り、その中のブラックコーヒーを胃に流して一言呟く。 

 「あー、コーヒーがうめえ」

やはり、テスト明けのコーヒーは格別である。

なんだか、苦味が頭の中をいい感じに混ぜ合わせるようで俺は決まってこのカフェでブラックを頼んでいる。

 「それはいいが、肝心のテストの方はどうなんだ?」

 と、一方で甘党と呼ぶにはいささか度が過ぎている師道は相変わらず、目も合わせず採点をしながら質問してきた。

 「これは悪問ですね~、ちょっと作った奴の気がしれん」

 「あっそ」

 さも無関心という体だが、やはり自分以外のテストの感想も聞きたいのだろう。

さっきから机の端に置いてあるスマホの、テスト速報をチラチラ見ている。        

大きく伸びをする俺は依然として手を止めようとせず、ひたすらに手を動かす師道に質問を投げかけた。

 「お前はどうなんだ?」

 「まあまあだな、9割くらいだろ」

 「流石、偏差値75だな」

 「偏差値は関係ねーよ、受かる奴が受かるんだ、そうだろ?偏差値63」

 「それでも今年はもう余裕だろ、医学部つっても。良く勉強続くな」


 そう師道の志望校は国立の医学部、それも上位のだ。もちろんそれ相応のかなりの学力が求められる。

しかし、俺の目から見てもこいつはかなり勉強をしてきたしそれなりの力もついている。現に今回のテストでもAかB位の判定は固いだろう。

それに、なにより浪人している自信とプライドは受験でも大きな力たりうる。

 だから、今年は少しは肩の力を抜いても良いようにも見えるが……

 それでも師道は

 「相手は天才や秀才だぜ、凡人の俺は勉強するしかねえだろ」

 とさも当然のように言い放った。

 こいつはホントに受験にかんしてドライだ。根性論や精神論よりも自分の成績と学力だけを糧にしている。

だが、それがこいつの強さだろう。


 「しかしミスの原因が分からん」

 腕を組み、眉を潜める師道はぐぬぬと悩みこむ。

 「お前、去年もそれで落ちたんだっけ?」

 「ああ、気づいた時には回答がズレれていた」

 「あーあ」


 ありがちだが、バカにするとかなり痛い目をみるあれか。

これで落ちたとなると俺なら一月は余裕で落ち込める。なんなら、首まで吊れる。


 「まあ、こればかりは俺が頭を回しても仕方ないか」

 しかし、流石と言うべき師道は凡ミスを犯しても何食わぬ顔でノートを閉じ、コーヒーカップに口を付けた。

相変わらずさっぱりした奴だ。

 俺も多少は見習わねばな。

 と珍しく改心する俺の前で師道は文庫本を取り出して、それを読み始めた。

もしこれがマックブックだったら完全に意識の高い大学生だな。

 「それにしてもお前、本なんか読むんだな」

 ここのカフェは隣に大型の本屋も併設されているため、店内であれば

本屋に並んでいる雑誌や小説など読むことが出来る。


 「読書は良いぞ、頭の整理ができる。最近は本を読まない奴も多いらしいが、本はいいぞ」

 「そっかー、本を読んでない俺、まじ人間失格」

 「読んでもない本のタイトルをあげるな」

 「言って、お前も本読んだの最近だろ」

 「そうだな、今月頃くらいから読み始めたな」


 浪人の次期に新たな趣味に目覚めることは割とよくある

師道みたいに急に読書にハマる奴とか、同じ世代で活躍してる人間を見てはネットでそいつのことをこき下ろす奴、星を見ては急に内なる自分を押さえつけるものなど。


 まあ、最後の奴以外は割と健全な趣味といえる。

 「もとは、現文克服のつもりで適当な文庫本を取ったんだがな。これが思いのほか良くてはまってしまった。まあこの良さは読む本を表紙のイラストだけで決めている連中には分からん

境地だろう」

 さいですか……

 微妙にキャラの変わったような感想を言いながら、ペラペラとページをめくり本を読み進める。


 「ふう……」

 俺はそんな様子を眺めながらコーヒーを啜るのだった。

 「本といえばだが、あの予備校に資料室とかあるのか?」

 「資料室?」

 「ほら、参考書とか大学パンフとかあるとこだよ」

 「ああ、図書室か。あるぞ、二階に」

 「二階か、道理で見ないわけか」


 予備校の二階には現役高校生が指導を受けるための専用の教室と、パソコンが並ぶ部屋があるためなため今までほとんど足を踏み入れていなかった。


 「なにか見るのか?」

 「まあな……」

 俺の場合、読む本はまだ文庫本にはなりそうにないが。




 翌日、一階受付前。

その日の過酷な授業を終え、俺は師道の言っていた図書室へと足を伸ばした。

 階段を上がって一歩二歩、まず見えたのは複数のパソコンが並ぶパソコン室。

ここはオンデマンド授業、つまりはネットによる通信授業を受けられる部屋だ。

俺は利用していないが、近年の煽りを受けてかここの予備校でもその設置が進んでいるという。

進んでんなあ……

 そのパソコン室の奥、他の階とはやや趣の異なる廊下の先にはもう一つ教室がある。

ふむ、あれか。


 そう思い再び廊下を歩むが……

 教室の明かりは消され、扉も閉ざされている。

どうも、この教室ではなさそうだ。


 「間違えたか……」

 とぽつりとつぶやくと

 「図書室はこちらですよ」

 そんな声に振り向いた。


 背後の廊下には、老人がいた。いや、老紳士がいた。

腰を真っ直ぐ伸ばし、白髪交じりの髪を綺麗に掻き分けた一人の紳士だった。

その立ち振る舞いには隙がなく、また爽やかな笑顔にはどこか威圧感が伴っている。

 イタリアのマフィアのような印象だ。

 (ここにこんな事務員いたっけか……)


 もうすぐ二か月になるが、こんな品の良い事務員は見たことない。

なんなら、そこら辺の講師よりも身持ちが綺麗だ。


 「あ、あの……」

 「図書室ですよね?」

 「あっ、はい」

 なんだか、ものすごく緊張するためか、どうもドモリがちだ。

 しかし、老紳士はそれでも特に気分を害するわけでもなく図書室へ案内してくれた。


 「こちらです、どうぞ」

 そういってパソコン室と今の教室のちょうど間の扉をあけ放たれる。

まるで精錬された執事のような振舞の老紳士に圧倒されつつも、俺はその扉をくぐった。


 「えっと……」

 「覚えてますか?四月にあなたとお会いしたのですが……」

 四月とは……なんかあったっけ。

 「ほら、一階の受付前で私とぶつかってプリントを拾ってくれた」

 「ああ!あの保護者の」

 「保護者?」

 「いえ、あの……その、講師の方かと」

 「ハハハ、それは失敬しました」


 思い出した。そういえば、師道と入学試験の後に受付の前でそんなこともあったな。

 それにしても講師でも保護者でもないとしたら一体、何者なんだ。


 「あの、それで……」

 「いやはや、申し訳ありません。遅れましたが私、源五郎丸と申します」

 といって胸元に手を入れる。

 ビクッと俺は身構え、土下座の準備をする。

もしそこから黒光りする何かが出てきたすぐに命乞いをするためだ。

 しかし……

 

 「あぁ、そういえば今はないのでした。つい、癖が出てしまいましてね」

 源五郎丸親分は特になにも出すことなく、手だけを伸ばした。

 「は、はあ。えっと俺、いや、自分は次郎です」

 相手がファーストネームを告げたので、俺も自分の名前を言って恐る恐るその手を握った。


 「うむ、がっちりとした良い手です」

 「……ど、どうも」

 という源五郎丸さんの手もかなりいかつい。

 「それにしても珍しい苗字をなさっていますね、ジロウとはどう書くのですか?」

 「あっ、次郎は名前です。性は落合と言います」

 「なるほど、わざわざ名前まで。では私は源五郎丸 吉宗です。以後お見知りおきを」


 まじか、源五郎丸は苗字だったのか。

礼儀と思って俺だけ名前を名乗ってしまって、ただただ恥ずかしい。


 「えっと……」

 どう話を繋げていいのか分からず、ともすれば今話をしているのが何者なのかも分からない俺にはそれほど高等な話題は捻りだせない。これはトークをミスると微妙な空気になるパターンだ。

 と頭を悩ませる俺の前に救世主が現れた。


 「あれ、先輩ですか!?」

 ハキハキした声で図書室の扉を開けたのは俺の元後輩の文太だった。

 「おう、だからその先輩やめろ」

 あいかわらず、先輩扱いをやめない元後輩は苦笑いを浮かべながらもう一人の人生の先輩に挨拶した。


 「それと、源さん!」

 「おお、岸本君」

 どうやら二人は顔なじみらしい。

 「どうしたんですか?ここで、先輩と何かあったんすか?」

 「いえ、彼には以前お世話になったもので今日はそのお礼を」

 

すると文太は瞳をキラキラさせ、俺に歩み寄る。

 「さすがっす、先輩!源さんに一目置かれるなんて、一体何をしたんですか?」

 「いや、一目置かれるとかないから。ただプリントを拾っただけだし」


 ホントにそれくらいだ。 

 「それより、この紳士様はお前の知り合いか?」

 あまり失礼のないように文太の耳元でそう尋ねる。

 

 「はい!源さんは自分と同じクラスの御仁で、前に少し話を聞いてもらって」

 「ん?同じクラス?てことは、この人は……」

 「はい、岸本君と同じ一郎生です。落合さんの事は岸本君からかねがね」

 そう言って軽く会釈する源五郎丸さん、改め源さん。人縁とは何とも不可思議なものだと、今になってそう思う。

 


 「まさか『リタイア浪人』の方とは……」

 「先輩、『リタイア浪人』って何ですか?」

 「そのまんまだよ、一度社会からリタイアした人がまた大学受験を目指すんだよ。」


 簡単な紹介を終えて、図書室内の席についた俺達。

 まあ、別に退職はまではしなくても、普通に一度社会に出てもう一度浪人したらこう呼ぶ。

だから、主婦でも元リーマンでも該当はする。特に最近の有名どころといえば、大物お笑い芸人が浪人して

駒沢大を受験して合格したのが記憶に新しい。


 「『リタイア浪人』ですか、フフッ、まさに私の事ですね」

 ニッと口角を釣り上げ、少し嬉しそうに笑う源さん。

またその貫禄がすんごい。

まるで大物演歌歌手みたいだ。


 「それで、先輩はここに何をしに来たんですか?」

 「ちょっとな、私大を探しに」

 手近なパンフを片手にぼんやり答える。

志望校とは、それすなわちその人間の学力を表わす。

 記念受験の現役生ならともかく、そんな余裕などが一切ない浪人は受験するからには多少の自信を持っている。つまり、常に真剣勝負なわけだ。

 それだけに受ける大学というのその受験生の格が測れるという訳だ。


 「先輩も、私立受けるんすね」

 「まあな、去年は受けてなかったし」

 「どうして受けなかったのですか?参考までに聞かせてください」

 不意に会話に入ってきた源さんに一瞬たじろぎながらも俺は答えた。

 「えっと、まあ別に深い意味はないんですが俺は国立一本だったし他の私大は勉強するだけ時間の無駄とか思いまして……」


 あまりに前しか向いていなかったために、猪突猛進し過ぎたのだ。

それで受かっていれば、問題ないのだが落ちてしまえば後悔の一つもしてしまう。

 あの時、ああしていればともう思いたくないのだ。


 「それに、俺は医歯薬系じゃないからな」

 「医歯薬が関係あるのですか?」

 「ありますね。医歯薬は就職に基本的には年齢制限はないですけど、それ以外の学部は24歳で一応区切りがあるんですよ。新卒扱いとかなんとか」


 もちろん、これも企業によりけりだ。この24という数字も大学で留年した人間を考慮した上での数字だから、浪人がカウントされるかまでは

分からない。

 それでも通説がそうなっている以上、あまり無理も出来ない。

 大学には進学できたけど、就く仕事がないなどとなっては最早目も当てられない状況になる。


 「そうだったのですか。私はあまり気にしたことがありませんでしたが」

 ふ~むとなんだか、企業の採用担当者のような物言いで頷く源さん。

 「浪人しても、色々考えないといけないんっすよね」

 ぽつりと呟いた俺の言葉に文太の背筋がピンと伸びる。

 なんだ、この反応は……良く分からん。


 「でも、私は落合君の一途なやり方もいいと思いますがね。なんだか、私の描いていた浪人生と言いますか、苦学生のようで」

 「確かに、そういう熱血当たって砕けろ方針は前は結構あったみたいですけどね。そういう意味では浪人も変わったのかもしれないですね」

 「そういえば生徒の数も思いのほか、少なかったですからね」

 「多分、それは源さんが『浪人バブル』を知ってるからでしょうね」

 「話の腰を折るようで恐縮ですが『浪人バブル』とは」


 おおっと、また業界用語を使ってしまったか。

この生活が長いとついね。そんなわけで俺は得意げに説明を始める。

 「まず、バブル景気ってあったじゃないですか?」

 「80年代のあれですか?」

 「それです。」


 いまや社会の教科書にも載っている日本の未曾有の好景気であり、そして『失われた二十年』の始まりでもあるバブル。

 「そのバブルが弾けた後にやってきたのが『予備校バブル』です。まあ、バブルとは言っても単に浪人生の数が増えただけなんですけどね」

 そのころ、空前の売り手市場と言われ企業が新社会人にゴマを擦りまくっていた時代から一転して、就職氷河期が訪れ有名大学出でも簡単には内定のとれなくなってしまった時代。


 そんな状況に最も危機感を抱いたのがその年の受験生だった。

 『少しでも良い大学に行かなくては、就職できない!』

 という観念が瞬く間に広がり、少しでもいい上の大学に行くために浪人生が予備校の門を叩いたのだ。


 「なんでも、今の5から6倍くらいいたらしいですから全国に40万人くらい浪人がいた計算ですね」

 40万……小さな市が出来てしまう数だ。

 そう考えるとかなり恐ろしい。


 「多いですね、そうなると講師の方々もさぞ羽振りが良かったのでしょう」

 「ですね。そのころの逸話はかなりありますよ。講師が全額キャッシュでベンツ買ったり、頭の上から足の裏まで高級スーツのキートンで固めたり、すごいのは移動時間が勿体ないからってヘリで移動したりとかもありますね」

 「ハハハ、そういう時代でしたからね」


 さすが、時代の当事者が言うと説得力が違う。

 別に羨ましいとは思わないが。


 「んで、その時に幅を利かせていたのが今でいう三大予備校で……」

 この国は様々な種類の予備校が存在する。

 個別指導専門の予備校に医歯薬、美大専門予備校、最近なんかは時代のせいか就職予備校なども出てきた昨今、それらの中でも最も大きな予備校が総合予備校、いわゆる普通の大学受験をメインにした予備校だ。


 そして、その総合予備校でも歴史が古く多くの生徒を抱えているのが、磐台、佐々木、川井の三つだ。

 俺の現在所属する磐台は理系、佐々木は私立文系、川井はテスト、と言われていた過去もあったらしいがそれは正直、人それぞれだ。

 指導する講師は十人十色だし、世間的には優秀と呼ばれている講師が自分には合わないなんてことは多々ある。


 だから、この言われもあくまで通称だからそれほど宛てにしない方が良い。

 「そのあたりはよく耳にしますね」

 うんうんと頷く源さん。

 「まあ、よくコマーシャルもありますからね」

 大きいという事はそれだけ、資本もあるというわけで目にもしやすいはずだ。


 「昔はこれが大手でそれ以外はあまりなかったらしいんですけどね……」

 「最近は違うのですか?」

 「まあ、少子化もありますからね。大学進学率は変わらなくてもそもそも大学に行く高校生の絶対数が減ってるみたいで大手も大変らしいですね」


 中でも川井の全国一斉模試の廃止と一斉閉館は有名だ。

テストに関しては得意分野とも言われていたが廃止し、名物の川井タワーも今やテナントとして貸し出しもしている。


 「まあ、川井に居た奴から聞くには300人教室に座っているのが今は5,6人だとからしいですよ」

 とは言え、俺の通う磐台も人事ではない。

 東京に13あった校舎のうち、今やまともに稼働しているの4つだとか。

 どこも生徒の入りが悪く苦労している。


 「私立の大学なんかが苦労してるのと同じなんですな」

 そうだ、実質的には同じである。

特に予備校なんかは一度、バブルを経験しているためかその煽りを顕著に受けたに過ぎないのだ。


 「という訳で、最近は地方限定の予備校とか少数精鋭の小さな所も頑張っているみたいですね」

 大手の力が小さくなった分、予備校のあり方も少しづつ変わってきてる。

 最近では地元に密着し、ある特定の大学の特定の学部を目指すような完全集中型の予備校あれば、これまで大部屋で大人数での行っていた予備校従来の授業スタイルから少数精鋭の形に切り替える中堅予備校なんかもある。

これが時代の流れというものか。


 「そういえば、文太は何でここに居るんだ?」

 さっきから一言も言葉を発していない文太に声をかけるも

 「……」

 やや顔をしかめて呆ける文太はまさに心ここにあらずと言った感じだ。

 なんだろ、聞こえなかったか。

もう一度声を掛けようとしたその時、

 「あのーそれで今、私は自分の志望校を考えているのですが……如何せん受験は初めてなもので……」

 「はあ……」


 何だか、年上の人間の進路相談を受けるというのは新鮮だな。

 「えっと、まじ源さんは何で浪人をしようと?」

 「そうですねー、好奇心……ですかね」

 「……」

ダメだ、次元が違い過ぎる。好奇心でこの世界に入ってくるとは、もはや俺とは器が違う。


 「といってもそれでは進路が見えませんね。具体的には経済とマネジメントについて勉強したいのですが。」

 「だったら経済か商業ですね、国私の希望とかはありますか?」

 「いえ、ですが出来れば地元が良いかなと……」

 「なるほど、だったら選択肢は結構絞れますね」

 「そうなのですか」

 そうなのである。現在日本国内には国公立で約150、私立だと約400校が門を開けている。

つまりはかなり数が多い。

 そしてその大学の中に、各校様々な学部を設けておりもちろん大学によってその毛色も異なる。

その中から、様々な手段を用いてその大学の特色を調べ受験をする。

 

 ここで『大学受かればどこでもいい』なんていう消極的かつ無計画な考えで受験をして、間違っても受かったりなどしたら数年後には思っていたことと

違うとか、自分には合わないとかいうダメ人間思考に陥って退学、もしくは留年することになる……らしい。

 まあ、どっちにしてもそんな奴はどこに行っても長くは続かないだろう。

とにもかくにも情報であふれかえっている今現在、事前にしっかりと大学に着いて調べれば、自分の希望のそれもまともな学部を探すことは出来るという訳だ。


 

 「だからといって、あんまり適当に選ぶのはあれなんで、まずはパンフとか説明回に出て調べるのが普通ですね」

 「ほう、事前調査ですか」

 「そういうことですね、まあ俺も去年はしてなかったので今年はまじめにするつもりですけど」


 現役は無関心、去年はただ勉強していればいいと思っていたからな。

今年はどっしり腰を据えて、志望校を考えるのもいいだろう。

なんせ、来年はもう受験したくはないからな。


 「とりあえず、志望校については担当チューター相談しながら考えつつ、勉強面では昨日のテストからのミスで分からない分野の基礎を固める感じで」

 「なるほど、農業で言うところの土づくりというわけですか」

 「は、はい」

 源さんのいちいち深いたとえを聞きながら、俺はふと思いついたことを質問した。


 「そういえば、そもそもなんですけど社会をリタイアしてからも勉強なんてきつくはないですか?」

 いくら時間に余裕があるとはいえ、流石に大学受験は厳しいのでないかと俺はどうにも疑問に思う。

 「そんなこともないですよ」

 しかし、源さんはさもなんでもないように答える。


 「この年で勉強をし直せるなんて私にとってはむしろ幸運なくらいです。それは金銭的にもそうですし、私を支えてくれる家族がいてくれるということについても。確かに今の勉強についていくことは労を費やしますが社会に出ても勉強の連続でしたからか、自分への投資へと思えばこのくらい……」

 それに……と源さんは最後にこう付け加えた。

 「この年で夢を見れる私は実に幸せです」

 うん、僕もこんな年の取り方をしたいと思いました。



 とそんな感慨に浸っていると、図書室の扉が開いた。

 入ってきたのは、二人の女子。

 もちろん、知り合いではない。

 つまりは、そろそろお開きの時間という意味だ。

 とりあえず、図書室を出て廊下で再び顔を合わせる。


 「今日は色々とご指南ありがとうございました」

 「いえ、それほどでも」

 別に何か特別な事を話したつもりはないのだが、源さんはご満悦のようだ。

 「……」

 とその隣で静かに佇む文太。

 そう言えば、こいつ途中からずっと無言だったな。

何かあったのだろうか。


 「それでは、またお会いしましょう。」

 軽く会釈をする源さんを見送り、隣の文太に目をやる。

 「んで、どした?」

 「……」

 「おい」

 「はっ、はい」


 どうも心ここにあらずのようだった。


 「大丈夫か?勉強のし過ぎで、思考回路でも腐ったか?」

 「い、いえ。何でもないです」

 そう言って頭を横に振って、文太はその場から歩き去る。

 「そ、それでは」

 慌ただしく帰り去るその背中を怪訝ながらに眺めながら、そこで俺はようやく気がついた。



 「結局、パンフ探してなかったな……」



 センター試験まであと……231日

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