第7話 名探偵失格
小林耕五郎は『小林探偵事務所』の所長を辞職した。そして探偵修行の旅に出ることにした。それはいいのだが、新婚の妻、悦子まで付いてくることになってしまった。「それじゃあ新婚旅行じゃん」という声があちこちから聞こえる。ホームレスの良雄などは「ハネムーンベイビーなんてオツですな」と耕五郎をからかう。探偵修行より根本的に人間修行したほうがいいようだ。他人に馬鹿にされない威厳が欲しい。そもそも威厳とはどこから来るものか? おそらくは自信だろう。その自信とはどこから来るものか? 経験だな。耕五郎は考えた。自信をつける旅行、それはお遍路さんじゃないかと耕五郎は思った。厳しい山の中や舗装されていない道を歩く。一歩一歩が修行となるだろう。悦子に早速言うと「あたし、讃岐うどんの食べ歩きがしたい」とのたまった。耕五郎の口の中が、いりこだしと少し硬めのうどんの妄想で、よだれいっぱいになった。四国はいかん。誘惑が多すぎる。さてでは、どこに行こう。旅行経験に乏しい耕五郎は悩んだ。いっそ、列車ばっかり乗っている五日川警部に聞こうかと思ったが、前回の事件で、警察とはもう絶縁した身だ、やめようと考え直した。じゃあ、どうする? ああ、ここは悦子に聞けばいいじゃないか! と思いついた耕五郎は早速聞いてみた。すると悦子は「スペイン」「フランス」「台湾」「香港」「沖縄」と、とても修行にならなそうな、堕落して帰ってきそうな土地ばかり選んできた。「悦子、正座して聞きなさい。お兄ちゃん……いや、君の旦那さんは修行に行くと言っているんだ。どうしてそんな楽しそうなところばかり選ぶ?」「あたしが行きたいから!」耕五郎はずっこけた。悦子は学生気分が抜け切れていない。困ったものだ。もう仕方がない。聞きたくないが、父、恭介に聞いてみよう。耕五郎は恭介に所長を任せた『小林探偵事務所』を訪れる。「ご依頼ですか?」渥美さんが笑いを堪えて言う。耕五郎の顔が真っ赤になった。「所長をお願いします」耕五郎が言うと、佐々木さんが「所長は調査に行っています。お戻りは午後六時です」と笑いながら言う。「では、午後七時半に自宅でお待ちしておりますとお伝えください」それだけ言って事務所から逃げ出した。(なんだ、私はいつの間にか、天下の笑い者になってしまっているぞ!)走りながら耕五郎は情けなく思っていた。家に着くと布団に潜り込んだ。「どうしたの」と悦子が心配そうに見にくる。「私は、私は天下の笑い者だ」布団にくるまって叫ぶ。「それって妹と結婚したから?」「えっ?」耕五郎は言葉に詰まった。そういう理由ってあるのかしら? 「きっとそうだよ。あたしがわがまま言ったばっかりに……」悦子は泣き出した。耕五郎にできることは一つしかない。「そんなこと、ないない」ただそう言って抱きしめてあげることしか。
「依頼者、耕五郎。なんでも相談に乗ってあげるぞ。依頼料は三万だ」恭介が帰ってきた。「ご冗談はさておき、父さん、探偵修行の旅に行くにはどこがいいでしょうね?」「そりゃあ、未解決事件の現場に行ってそれを解決する。それが一番だな」「どんなところですか?」「府中、三億円事件」「近過ぎます。それにこの前テレビで解決していたし」「グリコ・森永事件」「スケールが大きくて一人じゃ手に負えないです」「そうなの。僕は僕なりに解決したけど」「なら、教えて下さいよ」「○▲☆……」「えー、そうなんですか?」「まあ、僕の想像だけどね」「世田●一家殺人事件は? スーパー●ンペイ強盗殺人事件は?」「ああ、だいたいは分かっているけどまだ教えられない」「そうなんですか」耕五郎は自分と父の頭脳の差に驚いていた。もしかして? 「父さん、本当は僕が母さんの連れ子で、悦子が父さんの子供なんじゃないですか?」「面白い発想だね。だが君は祖父の顔を覚えているだろう」「はい」「親父は僕の再婚前に死んだ。君は祖父を覚えている。それが証拠だ」「はい」「お前の実の母は非凡な歴史学者だった。『源義経はモンゴルに渡ってジンギス汗になった。その証拠に京都では義経鍋と呼ばれる料理が北海道ではジンギスカン鍋になる』とか『邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされ、海に渡ってタイ国になった。ヤマは海に落とした。今の台湾だ』とかな。一時はもてはやされたが、やがて誰も振り向かなくなって、気が狂い、精神病院で死んだ。自殺だ」「……」「だから君にはあまり無理して大きな事件の推理などして欲しくない。早く小林探偵事務所に戻ってのんびり本でも読みながら、小物の怪人トエンティ・フェースの事件を解決するぐらいがちょうど良い。名探偵などと呼ばれていい気になるな。お前の解決してきた事件など、僕の手に掛かれば三十分で解決できるものばかりだ」恭介の言葉は予想以上に辛辣だった。耕五郎はショックを受けた。実の母の死に方もそうだし、これだけ激しく父に叱責を受けたのも初めてだった。「初めからよく考えてみます」耕五郎はそう言い残して寝室に入った。一人になると目から涙が零れ落ちる。「名探偵になるのが、父のような名探偵になるのが夢だったのに、私には無理だというのか」独り言は叫びとなり、耕五郎は喚き散らかした。慌てて悦子が寝室に現れる。「どうしたの?」「私は名探偵にはなれないんだあ」そう叫ぶと悦子を抱きしめた。昼は悦子が泣き、夜は耕五郎が泣いた。似たもの夫婦ではある。
次の日から、耕五郎は腑抜けになってしまった。ぼんやりと窓から空を見上げるばかりである。探偵修行の旅もどこかへ吹っ飛んでしまった。それどころか引きこもり状態である。悦子がいくら散歩に誘っても、「行きたくないです」と断ってしまう。食も細くなり、一日一食食べればいい方で、不食の日々が続く。毎日あたっていた髭も剃らずにいて、関羽みたいになってしまった。妻の悦子も困ってしまい、父の恭介に相談するのだが「この悩みは他人にとやかく言われて解決するものではない。自力で立ち直るのを待つしかない」と突き放した。そして「せいぜい側にいてやれ。心が少しは和むだろう」とアドバイスした。悦子は耕五郎にべったりくっついた。別にイチャイチャするわけではない。この元兄妹の夫婦は昔から仲が良かった。それが夫婦になってからなんとなくよそよそしい、隙間風が吹いてしまった。義理の妹を娶る、その行為が法律上認められていても、世間の目はいやらしい方向に進んでしまう。それが耕五郎には嫌だった。悦子のことは小さい時から愛している。だがそれはあくまで兄妹愛だ。それが夫婦の愛に変わるには時間が必要だった。全てにおいて時間が必要だった。「お兄ちゃん、あたしと結婚して後悔している?」と悦子が聞く。「後悔はしていない。だがこれで本当に良かったのかとは思っている。無邪気に君と付き合えないのがさみしい」「今だって兄妹のように付き合えばいいじゃない?」「そうはいかないんだよ。兄妹と夫婦では責任が違う。そして今の私は君に対する責任を果たしていない」空を見ながら語る耕五郎に悦子は「離婚して、兄妹に戻ったほうがいい?」と尋ねた。「離婚したってもう兄妹には戻れない。君には、私の元妻という烙印が押されるだけだ」耕五郎は言い放った。「私は君に対する責任を果たしたい。でも今はそれが出来ない。それが悔しい」耕五郎は空を見上げた。綱島の夜に星はない。ただの暗闇をじっと見つめる耕五郎の瞳は光を失っていた。
「もう、探偵なんかやめて、違う職業についたら」悦子が言ったのは、耕五郎の独白を聞いた次の日だった。「違う職業? でも探偵は潰しの効かない職業なんだよ」「そんなことないよ。前にお兄ちゃん、ブログでトエンティ・フェースとの対決、面白おかしく書いていたじゃない。ああいう風に、事件をノンフィクション風にして書いてみれば? 多少は誇張してさ、お兄ちゃんをヒーローにしちゃえばいいよ」「うん、それは面白いね。ブログでは、佐々木さんに『長過ぎて、誰も読みません』と言われたけれど、本としてなら読んでもらえるかもしれない」耕五郎は張り切ってパソコンの前に座った。「どの事件がいいだろう。やっぱり時系列通り、二代目怪人二十面相が現れたところからかな」ブツブツ言いながらキーボードを打つ。事務処理をやっていたからキーボードを打つのは早い。飲まず食わずで打ち込んで夜には原稿をプリントアウトした。途中でインクがなくなったので近所のショッピングセンターまで走って買いに行った。「やった。出来たぞ!」耕五郎は喜んだ。しかし悦子が、「お兄ちゃん、文章は推敲をしなくちゃ。誤字脱字を発見したり、言葉の使い間違えなんかを確かめたりしなくちゃ。これあげる」悦子は国語辞書と漢和辞書、言葉の用法辞書をくれた。どれも新品だ。重い思いをして買ってきてくれたんだ。耕五郎は少し泣いた。そして、徹夜して、文章を推敲した。終わったのは、空が白々と明けてきた頃だった。朝、悦子が起きると、耕五郎がベッドに腰掛けていて、「ねえ、読んでみてくれよ」と急かす。「わあ、あたしが一番の読者になるのね。でもちょっと待って、お父さんに朝食を作らなきゃならないから。お兄ちゃんも食べるでしょ」と落ち着かす。「ああ」と耕五郎は気の無い返事をした。朝食作り、後片付け、掃除、洗濯と悦子は悦子で忙しい。耕五郎は、じりじりとした気持ちで待っていた。最初は悦子に見てもらいたい。それだけの気持ちだった。そして午前十一時、やっと悦子の体が空いた。「お待たせしました。拝見します」と悦子は耕五郎の作品を読み始める。「主人公はお兄ちゃんじゃないのね」「そう、綱渡通っていうんだ。綱渡渉でも良かったんだけどワタが続いちゃうからね」「ふうん、面白い名前ね」「だろ、気に入っているんだ」「内容は、私立探偵じゃないんだ、綱渡氏は?」「そう、ノンフィクションライターなんだ。それが事件に巻き込まれる」「私立探偵も出てくるのね」「父さんだよ。どんな難事件も三十分で解決しちゃう」「綱渡は苦労するのに?」「名探偵は完璧でなければいけない」「そうなのかしら?」「まあ、とにかく、綱渡の足で稼いだ証拠や資料を安楽椅子探偵の父さん。ここでは隅の老人としたけどね。それが完璧な回答を出す。あとは警察に引き渡すというのがお話しさ」「あたし、正直に言うよ。少しがっかりした」「なんでだい?」耕五郎が焦って聞く。「あたしは、もっとノンフィクションぽい話を想像していた。お兄ちゃんが主人公の」「そ、そうか。じゃあ、今夜徹夜して書いてみるよ」「無理しないで。何日かに分けて書いたらいいじゃない?」「いや、書きたいんだよ。この情熱のあるうちに書いちゃいたい」そう言うと耕五郎はパソコンに向かった。
翌朝、悦子が起きると、「おはよう」という眠たげな声。「結局、徹夜したの?」
と悦子が聞くと「ああ」という返事。「無理しないでって言ったのに」「だって筆が乗っちゃって。ああ、パソコンだからキーボードが乗っちゃって」と耕五郎が久々にギャグを飛ばした。いい傾向だ。「また十一時に読むわ。それまで寝ていれば?」「そうする」耕五郎は布団に潜り込んだ。父に食事を作りながら、聞く。「この頃事務所はどうですか?」「うん、仕事は順調だよ。だがねえ」「どうしたんですか?」「どうも、コミュニケーションが上手くいってない。みんなが勝手に動いて自分の仕事をしている感じだ」「それって何が原因ですか?」「そりゃあ、耕五郎がいないせいだよ。あいつはコミュニケーション能力高いからな」「そうですか?」「ああ、あいつは自分の弱さを見せることで、相手に安心感を持たせる。実に優秀なリーダーだった。それをラビット・ボールやらエシャロット・ホームズという、世界でも数を見ない大怪盗と巨人探偵を肌で感じて己を見失ってしまった。まあ、当分は遊ばせておくんだな。そのうち、働く気にもなるさ」「そうだといいけれど」悦子は二階で寝くたばっている耕五郎を想像し、思わず笑った。
悦子が食器洗い、掃除、洗濯を終えた午前十一時に耕五郎は原稿を持ってリビングに現れた。「さあ、軽く読んでくれ」「はい」悦子は読み出す。主人公は相変わらず綱渡通だが、文体が変わった。会話文が減り状況、情景説明が多くなった。前作にあったくだらないシャレ、ギャグは影を潜めた。硬質な感じがする。「こっちの方が断然いいわ」悦子は褒めた。「ありがとう」そう言うと耕五郎は洗面所に消えた。「どうしたの?」「髭を剃るんだ。午後から人に会う」三ヶ月ぶりの髭剃りだ。「誰に会うの?」「『ヨンデー毎毎』の中道さんだ。以前は毎毎新聞にいたんだが、左遷されて週刊誌にいる。文章を書いたと言ったら「ヒマだから見せろ」だってさ」耕五郎の声は明るい。ようやく、最低の状態から脱したようだ。でも『ヨンデー毎毎』の中道さんに文章を酷評されたらきっと逆戻りだ。そうならないことを悦子は願った。
「両方、面白いよ」中道氏は率直に言った。「でも週刊誌に載せるならこっちのノンフィクションタッチの方がいいな。五回に分けて連載しよう。でも、この綱渡通は駄目だ。君の名前に書き換えろ。でなかったら、探偵Kだ」「なんで綱渡通じゃ駄目なんですか?」「あまりにも嘘っぽい。ノンフィクションタッチの雰囲気が崩れてしまう」「そうですか」「ああ、あと君、探偵をやめて専業作家になろうなんて思っちゃいけないよ。探偵を続けてこその、この作品だ」「……はい」結局、探偵の道からは逃れられないのかと耕五郎はガックリした。「じゃあ、これは預かっておくから」中道は言うと伝票を持って出て行った。耕五郎は考えた。(やっぱり、父さんの言う通り、小林探偵事務所でのんびりやった方がいいのかな? 私には狂気の血が混ざっているようだし、人に迷惑をかけないように静かに生きよう)そう考えた耕五郎は、その足で、『小林探偵事務所』を訪れ、「所員でいいので雇ってください」と父、恭介に頼んだ。すると「所員では雇えないね。所長としてなら雇ってあげてもいいよ」という声。「じゃあ、所長に復帰します。でもろくな仕事は出来ませんよ」と自虐した。「今までだってろくな仕事したことなんてないじゃないか。君が名探偵と呼ばれることがおかしいんだ。探偵界に名探偵は必要ない。平凡な探偵になれ」と恭介は変な励まし方をした。とりあえず、所長、小林耕五郎復帰である。「ああ、所長が戻ってきてよかった」と佐々木さんが言った。「どうして?」と聞くと「なんか、所長のいない間、空気が重たかったんですよ。なんでだろう?」「私も感じていました。空気の重さというか張り詰めた何かを」と渥美さんも言う。それには恭介が答えた。「すまん、それは僕のせいだ。僕はこう見えても仕事に厳しい。人を斬るくらいの鋭さを持っている。年を取ってなるべく柔らかくしようと思っているのだが、いざ仕事に向き合うと厳しさが出てしまう。でももう大丈夫。僕は隅の老人として、コーヒーを淹れることだけに情熱を燃やすから」恭介は定位置に戻ってコーヒー豆をミルで粉にし始めた。これでようやく、日常に戻る。不安は残るがのんびり駄目所長を演じていようと耕五郎は思った。
警視庁捜査一課の五日川警部が課長の本多を連れて、『小林探偵事務所』を訪れてきたのは夏も盛りの頃だった。「いやあ、暑いですな」と汗を拭く本多と五日川に恭介はホットコーヒーを出した。「僕の特製ブレンドです」自慢げに話す。「あのう、私はできたらアイスコーヒーをいただきたいのですが」と本多が言う。それを五日川は必死に止めたが遅かった。「僕はホッとしか作らない主義でね。冷たいものが欲しければ、水道の水に氷を入れてあげますよ。横浜の水は美味い」と機嫌を悪くして隅の方に行ってしまった。悦子が代わりに水を持ってくる。「父はコーヒーにうるさいんです。唯一の趣味だから」「そ、それはご無礼を」本多は恭介の方に平伏したが、恭介はあっちを向いてしまった。「ところで耕五郎さんは?」と五日川は悦子に聞いた。「迷子の犬を探す仕事に行っています。佐々木が今日はお休みなので」「えっ? お帰りは」「さあ、犬が捕まり次第でしょう」悦子はクールに言った。耕五郎がおかしくなったのは、元々、五日川が頼んできた事件に関わったからだ。五日川は自分が困った時だけやって来る。耕五郎が苦しんでいる時には何の手も差し伸べてこなかった。警視庁捜査一課が忙しいのは分かるが、手紙か電話一本でもくれればいいのにと思った。この人とは友達になれない。
耕五郎が帰ってきたのは午後五時過ぎだった。「やあ、苦労しました。見つけるのはすぐに出来たのですが、逃げ足が速い。追いかけられなくて、近所の自転車屋さんでサイクリング用のやつを買って、それで追いかけました。悦子、美味しい水道水に氷を入れてたっぷりください。汗びっしょりです。熱中症になりそうだ」耕五郎は気が付いているにもかかわらず、五日川と本多を無視した。「小林さん」五日川が声を掛ける。「ああ、五日川さん、ごきげんよう」そう言うと耕五郎は所長席に腰掛けた。「小林さん、ご相談があるのですが」「すみません、五日川さん、私は今後一切、警察関係の方とはお付き合いしないと決めたのです。長い間、お待たせしたようですが、お引き取りください」「なんだと!」本多が怒って立ち上がる。「課長、まあまあ」五日川が本多をなだめ「話だけでも聞いていただけませんか?」と耕五郎に懇願する。「ううん。話を聞くだけですよ。協力は絶対しない。いい探偵事務所ご紹介しますよ、品川の『東西リサーチ』です。昔は犬猿の仲でしたが、最近はお中元やお歳暮を送ってくるようになりました。社長でも代わったのかな?」「『東西リサーチ』メモしておこう」本多が手帳を取り出す。「では、お話します。この秋、東京の新国立美術館で、フランスのノーブル美術館展を行うことが決まりました。目玉は本邦初公開のレオナルド・クマーの“モナリガの怒り”です」「へえ、有名な絵画ですね」「それを事もあろうに、怪人トエンティ・フェースが盗むと予告状を出してきたのです」「そうですか。トエンティなんか小者です。変装を見破ればすぐに逮捕できますよ。おそらくは美術品を運送する日本運輸さんの美術工芸運搬特別係なんかに変装すると思いますよ。あっ、話聞くだけなのにアドバイスしちゃった」「ありがとうございます。ただ、問題がもう一つありまして、例の怪盗紳士ラビット・ボールも“モナリガの怒り”を狙っているらしいのです」「えっ? ラビット・ボール……」前回、睡眠薬を飲まされまんまとしてやられた相手だ。耕五郎は一瞬燃えかけた。しかし「それなら、イギリスにエシャロット・ホームズと言う、ラビット・ボールとライバル関係にある名探偵がいます。彼に頼めばいいでしょう。まあコカイン中毒で入院していなければですがね」と他人を紹介して、自分が出馬するとは言わなかった。「エシャロット・ホームズ」ですな、大変参考になりました。本多課長は満足そうだ。五日川は「なぜ、日本の名探偵たる、あなたが来てくれないんですか?」と詰め寄った。「先ほども言ったでしょ。私は日本の警察関係者とは関わり合いを持ちません。それに名探偵はやめました。ただの探偵です」耕五郎は言い切った。「そうですか。あなたには失望した。これで失礼する」五日川と本多は事務所を去った。
秋になった。東京の新国立美術館ではノーブル美術館展が開かれていた。しかし、恐ろしいまでの厳重な警備が敷かれ、お客さんはゆっくり鑑賞出来なくて、クレームの嵐が殺到した。なので、表立った警備は止め、私服警官を大量に投入、さらに私立探偵社最大手の『東西リサーチ』の探偵百人を美術館各所に配置。鉄壁の守りでラビット・ボールを迎え撃つ。あれ? トエンティ・フェースはと思われる向きもいるだろうが、トエンティ一味は美術品搬入日に日本運輸の美術工芸運搬特別係に化けているところを本多只勝捜査一課長によって逮捕されていた。
「そうですか。駄目ですか」五日川警部は残念そうに電話を切った。「五日川君、どうした?」本多が聞く。「例の名探偵、エシャロット・ホームズなんですがコカイン中毒で入院していて、日本に来られないそうです」「そうか。それは残念だな」「こうなったら我々だけでラビット・ボールを捕まえるしかありません」
「そうだな。だが敵はどうやって攻めてくるか?」「見当もつきません」「困ったな。日本にも名探偵がいればいいのにな」本多はのん気に言った。
その頃、東京某所。「作戦はうまくいっとるか?」「はい」「警視庁は気付いてないな」「はい」「ところでトエンティ・フェースよ」「はい」「拘置所ほど安全な場所はあらへんな」「そうですね。一度逮捕されたら二度と逮捕されませんからね。あっ! でも再逮捕ってのもありますよ、師匠」「そりゃあ、言葉の綾だろ。わしらは絶対つかまらん!」「脱獄する、その日まで」「脱獄した日が“モナリガの怒り”を強奪する日だ!」怪盗ラビット・ボールは東京拘置所にいるのだ。誰も気が付くまい。
新国立美術館のノーブル美術館展の残すところ三日となった。怪人トエンティ・フェースは逮捕。怪盗ラビット・ボールは現れない。警視庁捜査一課長、本多只勝は事実上の勝利宣言を出した。「今回は我々捜査一課と私立探偵社『東西リサーチ』の協力で、人類の宝、ノーブル美術館の品々を守ることができました」そこへ部下がやって来て、本多に耳打ちする。「なんだって!」「前言撤回、敵はまだ健在だ。今朝、怪人トエンティ・フェースは仲間とともに、東京拘置所を脱獄した!」マスコミが騒然となる。「今度は何に化けてくる」本多は冷や汗をかいていた。
その頃横浜市港北区、東急東横線付近にある『小林探偵事務所』では「トエンティ・フェースが脱獄しましたね」「そろそろ所長の出番ですよ」「そうだね。悦子、車を出してください」「はい」という会話が繰り広げられていた。耕五郎は車でどこに行くというのだろう。耕五郎と悦子が去ると、「これで、名探偵復活だ」と恭介が呟いた。「さあ、渥美さん、佐々木さん、仕事だ」「はい」恭介、渥美さん、佐々木さんはそれぞれの仕事に向かった。
新国立美術館のノーブル美術館展に異常が起きたのは午後二時を回った頃だった。緊急ベルが館内に鳴り響いた。「何者かが強化ガラスケースを割って、“モナリガの怒り”を持ち出そうとしている」「早く取り押さえろ」「『東西リサーチ』のメンバーが守りを固めている」「“モナリガの怒り”を安全なところに運ぶ。日本運輸の美術工芸運搬特別係を呼んでくれ」「来ました」「敵は『東西リサーチ』と争っています」「『東西リサーチ』が追い払いました」「彼らを護衛にして“モナリガの怒り”を安全な場所に」「安全な場所ってどこですか?」「安全な場所は我々『東西リサーチ』が知っています」「頼んだ」“モナリガの怒り”は『東西リサーチ』所員を先頭に日本運輸の美術工芸運搬特別係が運搬車で運んで安全な場所へと持って行く。その進路を車が塞いでいた。クラクションを鳴らす。すると一人の男が出てきた。「ラビット・ボール、トエンティ・フェース。お前たちの作戦は私がお見通しだ」と叫んだのは耕五郎だった。「なんだ、バレてしもうてた」ラビット・ボールがインチキ関西弁で話す。標準語の勉強の成果はどこかに行ってしまったようだ。「なんでわかった?」トエンティ・フェースが聞く。「まずは『東西リサーチ』がウチに付け届けをしだしたことだな。これは経営者が変わった。今の探偵不況時代に探偵社を買うのは相当酔狂なお金持ち。そして探偵社を隠れ蓑にして悪事を働こうとしているものだとピンときた。それを隠すためにウチに付け届けをして心象をよくしようとしていたわけだ。私は密かに『東西リサーチ』を探らせた。すると、まっとうな所員は退職し、ゴロツキばかりが残っている。これは悪党に乗っ取られたと確信した。だから、捜査一課長の本多警視にカマをかけて『東西リサーチ』を推薦してみた」「うぬう」「次はトエンティ・フェースが簡単に捕まったことだ。私は警視庁の本多一課長にトエンティ・フェースが日本運輸の美術工芸運搬特別係に化けるかもしれないと教えた。でもそれは安直な一例として言ったまでだ。だが実際にトエンティ・フェースはその安直な行為で捕まった。あまりに安直だ。これはわざと捕まったなとピンと来た。拘置所ほど安全な隠れ家はないからな」「よく分かったな。でもこれはわからんやろ。この犯行の企画を立てたのは誰や?」「ラビット・ボール、あなただろ。違うのか? トエンティ・フェースなのか?」耕五郎は焦った。この二人でなければ誰だというのだ。「正解はな、小林恭介。お前の父親だ!」「な、何を冗談な」「あとは自分で話すがいいわ、恭介はん」耕五郎は後ろを見た。恭介が楽しそうに歩いてくる。そして「耕五郎やったな。これで名探偵復活だ」といって耕五郎の両手を握ってくる。「お父さん、これはどういうことですか?」「僕はね、君に自信を取り戻して欲しかったんだ。君の頭脳は私を超えている。ただ経験と自信、それに生来の気の弱さがそれを邪魔している。それを克服するためには、何か大仕事を為さねばならない。だから、僕はこの事件を企画した。だから逮捕される。でも安心したまえ。この事件での被害額は割れた強化ガラス代だけだ。僕はすぐ、出所するよ」恭介がそう言うとラビット・ボールが「恭介はん、あんた名乗らなくていいよ。わしとトエンティ・フェースが捕まればそれでいい。どうせ脱獄するんやから」「ラビット君」恭介はラビット・ボールの手を握った。そこに警官たちがやってくる。「ラビット・ボール、トエンティ・フェースを確保。探偵の小林親子が協力してくれました」五日川警部が無線で本多に知らせる。ラビット・ボールと、トエンティ・フェースの逮捕で事件は解決した。
「私は車で帰ります。お父さんはどうしますか?」「僕は電車で帰るよ」恭介はそう言った。
車で帰る道すがら耕五郎はひどく不機嫌だった。「どうしたの? 事件を解決したのに」と悦子が尋ねると「私はお父さんの手の中で転がされているようだ。以前の事件ももう一度洗い直していたほうがいいかもしれない」と独り言をした。
衝撃は、まだ続く。恭介が失踪してしまったのだ。今回の事件の真実を悦子に話すことは出来ない。自分の心に留めなくてはならない。自分が戦うべきなのは怪盗でも、自分の弱さでもなく。父、恭介なのかもしれないと耕五郎は思った。
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