第5話 名探偵の休日

 小林耕五郎はヒマな探偵である。以前は事務処理などをやっていたが、妹の悦子が秘書として『小林探偵事務所』で働くようになって、その仕事も失った。ただ、所長としてお飾りの状態である。もともと耕五郎は白智小五郎の系譜を引き継ぐ探偵だから、大掛かりなトリックを用いた犯罪を捜査し解決するのが得意でもあり、専門分野でもある。トリックが大きいから解決方法も多少大雑把になる。以前に渥美に指摘された通りである。それはともかく、大掛かりなトリックを使う犯罪者など、現在では怪人トエンティ・フェースくらいしか日本にはいない。そのトエンティも大掛かりなトリックの準備をするために早くて数ヶ月、時には年単位で支度をするから、そうしょっちゅう表舞台に登場するわけではない。そうすると当然、耕五郎には仕事がこない。ますますヒマになった耕五郎は一日二冊ペースで本を読み、父、恭介の淹れるコーヒーをガバガバ飲むという生活を続け、結局のところ、完全なるクズ状態に陥ってしまった。事務所に座っていても誰一人として耕五郎に関心を向けないし、話しかけもしない。ただ存在するだけの路傍の石みたいなものである。公休も渥美や佐々木が忙しくてなかなか取得できないのに対し、耕五郎はしっかり休みを取っている。有休もちゃんと取る。そして今日も耕五郎の休日であった。

 その日、耕五郎は横浜駅近辺を散策するつもりだった。本屋を巡るためである。以前は新宿駅や東京駅前の大型書店でゆっくり書棚を見ていたのだが、東急東横線の綱島駅近辺に引っ越したため、若干そこまで行く道のりが遠くなり、億劫になった。耕五郎の求めるのは大抵、毎月の新刊である。それも軽くて読みやすいから文庫本だけを買う。耕五郎は文庫本には詳しくて、徳丸文庫は二日。文夏文庫は五日。興奮社文庫と三葉文庫は十二日。香蘭社文庫は十五日。集団社文庫は二十日。門松文庫は二十五日。新調文庫は二十七日と主要出版社の文庫発売日を覚えていた。読む本は日本人作家の書くミステリーである。中でもガチガチの本格推理小説ではなくて、変格小説と呼ばれる、ひょっと変な、それでいて読者をあっと言わせるミステリーが好きだった。好きな作家はたくさんいるが特に好きなのは若くして亡くなってしまった西林葉先生と、突然の失踪を遂げ、いまだに行方不明の小島与志雄先生であった。おそらく、もう新作の出ない二先生の本を耕五郎は大事に読んでいた。(ああ、天国でまた新刊を読ませていただける日を楽しみに待っています)と耕五郎は心で思うのである。

 さて、横浜へ出発だ。現在、横浜には有名な書店が五つある。一つ目はダイナマイト地下街にあるY書店だ。ここは最近場所が移転した。昔の文庫コーナーは狭い上に、お客がいっぱいでゆっくり本を眺めることなどできなかったが、今度の移転で、普通の書店並みになった。その点は良かった。あとは特に感想はない。地下街を上がって地上に出て、少し歩くとスーパー太平の中にA書店がある。出来た当初は大きくて文庫本がたくさんあって、「他の書店で見つからなかったらA書店に行こう」と思わせたものだが、最近はすっかり並の文庫置き場になってしまった。残念だ。駅に戻って、東口に行き、フアッションビル、ダヨネに入るとY書店のダヨネ店がある。この店はリニューアルばかりしていてリニューアルするたびにつまらない店になる。以前のゆっくり文庫を探せた店舗が懐かしい。東口の地下街ポルダーにはM書店がある。あまり大きくないので、軽く棚チェックだけをして、デパートの“いそごう”に行く。そこにはK書店がある。文庫に関して言えばここが一番見やすい。けれど、購入はしない。購入はネットショッピングの“アマゾネス”でする。重い思いをしなくて済むからだ。人間易きに流れるものなのである。

 さて、そういった妄想を終えて、本当に横浜に行こうと靴を履きかけると「お兄ちゃん、ちょっと付き合ってよ」と妹の悦子が言う。「なに? 私、出かけようとしているのですが」耕五郎が迷惑そうに返事をすると、「どうせ、本屋巡りでしょ。だったら一緒に“らららーら横浜”に行こう。あそこにはK書店があるよ」「そうだね。ところで、“らららーら横浜”に、何の用事があるの?」「あそこのCDショップに『レアメタル』が来るのよ」「ああ、『レアメタ』ね。私も好きですからいいですよ。付き合いますよ」「じゃあ、あたしの車でドライブと行きましょう」

 綱島から車で“らららーら横浜”のあるJR横浜線の鴨居駅近辺まではそんなに遠くない。これが電車で行くとなると東横線から横浜線に乗り換え、さらに十分近く歩かなくてはならない。だから耕五郎は“らららーら横浜”に来るのは初めてだった。綱島と鶴見の間にある電車をモチーフにしたショッピングモール“トレイル横浜”にはバスで行けるので何回か行ったが、書店が小さすぎて、文庫の量が少なく、つまらないので足が遠のいた。それはともかく、「わあ、大きいですね。広いですね」と耕五郎は“らららーら横浜”の広さに感激した。「CDショップはどこでしょう?」案内図を見ると三階だった。「一曲ぐらい、歌ってくれるのですかねえ?」と耕五郎が聞くと「CDを買ったお客さんが好きな歌を投票して、一番多かった曲を即興で歌ってくれるんだって」「じゃあ、CDを買いましょう。私は『花火』に入れますよ」「駄目よ。『君が大好き』に入れるんだもん」「『花火』です!」「『君が大好き』よ!」兄妹のくだらない喧嘩が始まった。その頃、CDショップの裏ではてんやわんやの騒ぎが起きていた。『レアメタル』のギター、フレディー斎藤の特製エレキギターが紛失したからである。


「俺は絶対にここに置いたよ」フレディー斎藤は控え室の片隅を指差した。そこにはギターケースはあれど肝心のギターはない。「あれは市堂美車主(しどう・びしゃす)さんからもらった貴重なギターなんだよな」フレディー斎藤は残念そうに言う。「仕方ない。お店のエレキを買って演奏するか」悄然とするフレディー斎藤。それに対し、リーダーのプリンス東堂は「これは店というか、この施設の責任者がそれこそ責任取ってもらうことなんじゃないか? 俺はフレディーのギターが見つからなきゃ今日のショーには出演しないぜ」プリンスはカンカンだ。らららーらの施設の責任者は「必ず見つけ出します。もう、お客様が千人近く来場されています。ここで出演キャンセルになったら暴動が起きます」と震えながら言った。「リーダー、俺は別のギターでも構いませんよ」とフレディー斎藤がリーダーをなだめるが、そのプリンス東堂が「いや、ここで妥協したら、他に示しがつかねえ。ギターが出てこなきゃ、ボイコットだ」と息巻いた。

「お客様の中に警察関係者の方か、名探偵様はいらっしゃらないでしょうか」なんだか知らないが、頭頂部のハゲたおじさんがワイシャツにネクタイ姿で、妙なことを言っている。「何よ、あれ?」悦子が首をひねる。「あれは私のことを呼んでいるということですね」と耕五郎は右手を上げる。「名探偵ならここにいますよ!」その挙手を見た、ハゲのおじさんが耕五郎に突進してくる。「こわっ」及び腰になる耕五郎。おじさんは耕五郎の右手を捕まえて、どこかへ走り去ってしまった。一人残された悦子は「なんなの、いったい」と唖然とするしかなかった。果たして耕五郎とおじさんはどこに?

 十分後、耕五郎は『レアメタル』の控え室にいた。ハゲたおじさん、ではなくてらららーら横浜の施設責任者、蝦蛄義賢(しゃこ・よしかた)は平身低頭して耕五郎に名刺を出した。これを一つのビジネスチャンスと捉えた、耕五郎も、「私はこういう者です」と名刺を出した。ついでに『レアメタル』のメンバー全員、プリンス東堂、フレディー斎藤、ゼットン田口(ドラム)、ジャガー市川(ベース)、ハリー町田(キーボード)の五人にも名刺を渡した。探偵の名刺を初めてもらってざわつく『レアメタル』の一同。「では、ことの次第を初めから教えてもらえますか?」耕五郎が口を開いた。「どこからお話すれば問でしょう?」蝦蛄が聞く。「すべての始まりからです」耕五郎は答えた。「それでは今朝のことからお話します。ご存知のように今日の午後三時から『レアメタル』様のファン投票ライブがございますので、わたくし、今日は朝六時に出勤して、座席やステージの設営、控え室の準備など一人でやっておりました」「他の応援やアルバイトさんはいなかったのですね」「はい。他のものは自分の業務がございますし、アルバイトを雇う余裕はございません」「ふーん、そうですか」「そして十時の開店とともにフレディー斎藤様が正面入り口からご来店なさり、インフォメーションの女性に控え室のことをお尋ねになりました」「そうです、関係者入り口が分からなかったので、インフォメーションで聞いたんです」フレディー斎藤が応えた。「午後三時から始まるのに、随分と早い到着ですねフレディーさん」耕五郎が疑問を呈する。「ああ、これは僕の悪い癖でして。遅刻するのが怖くてなるべく早く到着するんです」「なるほど、良い心がけだ」「それで、インフォメーションの女性に案内されてここまできました。そこで蝦蛄さんにお会いしました」「ふむふむ」「で、ここで一時間ほどギターのチューニングをしていました。盗まれたギターです。まだ、他のメンバーは来ません。当然ですね。まだ昼前ですから。そして僕がトイレに行って帰ってくると、ギターはなくなっていました」「そうですか。分かりました」「分かったって何がわかったんですか?」蝦蛄が汗を拭き拭き、聞いてくる。「何がって、犯人ですよ」「ええっ?」「ここで、言っちゃっていいですか? 蝦蛄さん」「……」「そうです。犯人は蝦蛄さんです」「えーっ!」驚くメンバー一同。「そうですね?」「は、はい」「まず、物理的に考えて蝦蛄さん、あなたしかいない。なぜなら『レアメタル』のライブの準備に関わっているのは、あなたしかいないということです」耕五郎は続けて、「あなたは『レアメタル』の熱狂的ファンだ。いや、あなたのメンバーを見る眼差しを見る限り、ファンと言うより、ストーカーのようなものです。それにメンバーの名前に『様』の敬称をつけるときの声、どMの人が『女王様』と言う時と同じ響きでした。あなたは熱烈な『レアメタル』愛が強過ぎて、思わずフレディーさんのギターに手をかけてしまったんですね」「申し訳ございません!」蝦蛄は土下座した。「そんなことより、ギターを返せ」プリンス東堂が叫ぶ。「それならご安心を。三階の楽器売り場のギターケースのどれかに特製ギターは入れられているでしょう。ところで、フレディーさん。蝦蛄さんを警察に突き出しますか?」フレディー斎藤は言った。「ギターさえ戻れば、僕はそれでいいです。無理に警察沙汰にしたくはありません」「ならば蝦蛄さん、速やかにギターを返し、ライブの準備をしてください」蝦蛄は泣き顔で「よろしいのですか?」と聞き、メンバーの承諾を得ると飛び出すように準備に取り掛かった。「小林さん、見事な推理だったぜ」とプリンス東堂が耕五郎を褒める。それに対して耕五郎は「この程度、推理の必要もありません。でもそれより」耕五郎はプリンス東堂に近づいた。「なんだい?」「今日のライブで『花火』を歌ってください」一同、ずっこけた。

 時刻は二時。再び合流した耕五郎と悦子は軽く食事を取ろうとして一階のフードコートに寄ってみた。左から、たこ焼き屋。讃岐うどん。ラーメン屋。ステーキ屋。フライドチキン。ナクドナルドが並んでいる。込み合っているのは讃岐うどんとナクドナルドである。それを見て耕五郎は悦子になんでこの二店舗が込み合っているのかあててごらんと問題を出した。「うーん、美味しいからかな?」悦子は答えた。すると、耕五郎は「あの二店は行列ができるように、わざとゆっくり調理している。人間の心理はおかしなもので、空いている店は美味しくないのだと感じ、込み合っている店を見ると、この店は美味しいから並んでいるのだと思い込んでしまうんだ」「へえ、ところであたしたちは何を食べるの?」「人が大勢並んでいる、讃岐うどんだ。かき揚げを乗せてくださいよ」耕五郎はちゃっかり食事を悦子に奢ってもらうつもりらしい。

 午後三時。『レアメタル』のミニライブが始まった。耕五郎と悦子は、蝦蛄さんのご好意で、最前列で見ることが出来た。「野郎ども、よく来たなあ」プリンス東堂が呼びかける。「ワー」と聴衆が盛り上がる。「今日は一曲の予定だったが三曲歌うぜ。まずは名探偵さんに花束を贈る代わりに歌います。『花火』」やった、耕五郎はガッツポーズした。人生を生きる苦しみと喜び。人を愛することそして永遠の別れ。これをプリンス東堂の透き通った声で聞くと思わず涙が流れた。「次はファン投票で一番だった歌、新曲の『relax』だぜ」当然一位は新曲だよな。プロモーションに来ているんだから。『relax』は『レアメタル』には珍しく、ゆったりとした曲だった。聞くと必ず眠くなる曲っていうのがあるが、そんな感じだ。自律神経が休まる、いい曲だ。寝る前に聴こう。耕五郎はそう思った。「最後は名探偵さんがどうしても妹さんに送りたい曲だ。『君が大好き』!」悦子の顔が華やいだ。耕五郎は悦子のために『君が大好き』をどうしても歌って欲しいと『レアメタル』メンバーに懇願したのだ。メンバーはその意を汲み、一曲の予定だったミニライブで三曲歌った。明らかな時間超過だ。責任者の蝦蛄さんは叱責を受けるだろう。だが、蝦蛄さんも『レアメタル』の曲を三曲も聞けたのだから居合わせて幸せだったに違いない。

 ライブは大歓声の中に終わった。

「お兄ちゃん、ありがとう」悦子は耕五郎の腕を組んだ。「妹のために、何かするってのは兄にとっての責任ですからね」耕五郎は頬を染めて言った。

 時刻は四時を超えたあたりだ。こう五郎と悦子は少し早いが夕食を摂ろうということになった。「お父さんがひがむぞ」耕五郎が言うと「お父さんはお兄ちゃんとは違います。人間関係の酸いも甘いも知っている人だから」と意味深な言葉を口にした。それに気にせず耕五郎は聞いた。「さて、問題だ。このまま、らららーら横浜にとどまってレストランに入るか。外に出て街道沿いの店に入るか?」「そうねえ、外に出るのも疲れたし、この中で食べましょう」「じゃあ、何を食べるかい?」「ステーキ!」「肉食女子だな」「お兄ちゃんが草食すぎるのよ」

「そうかなあ? 普通に恋もしているよ」「今好きな人はいるの?」「うーん、今はいない。あえて言うなら君か。今こうして一緒にいる」「お兄ちゃん、兄弟は結婚出来ないのよ。分かっている!」「もちろん分かっているさ。軽口を叩いてみただけ」「もう!」悦子は耕五郎の肩を思いっきり殴った。


 らららーら横浜のステーキ屋に入ると、中には『レアメタル』のメンバーが食事をしていた。「名探偵さん、奇遇だな」プリンス東堂が囁く。「彼女が名探偵最愛の妹さんですね。こんばんは、フレディー斎藤です」悦子は大ファンの『レアメタル』に囲まれて興奮してしまった。そしてメンバーの席に入り込んでしまった。「名探偵さんもどうぞ」フレディー斎藤が席を耕五郎に勧める。耕五郎もご相伴にあずかることになった。よく喋るのがリーダーのプリンス東堂だ。彼は前職が噺家だったので、しゃべりが上手い。聞いていて引き込まれる。そして笑わせる。宴会の帝王とも言える。対してフレディー斎藤は真面目な男で、何事にも真摯で好感が持てた。ドラムのゼットン田口は食べるばっかりでしゃべらない。ベースのジャガー市川は自分の事を宇宙人だという変わり者で、話が噛み合わなかった。キーボードのハリー町田はまだ若く、プリンスやフレディーの世話をしていた。

 悦子にとって、夢の時間はあっという間に過ぎ、おひらきとなった。悦子はメンバーからサインやグッズをたくさんもらってご満悦だった。これも全て、兄がギター消失事件を解決したからなんだぞと自慢したくなった。「悦子、車の運転大丈夫か?」耕五郎が聞くと、「お酒飲んでないから大丈夫。今日の良き日に死んでたまりますか」と張り切ったので一安心した。


 家に着いたのは午後十時過ぎだった。父の恭介はご機嫌にテレビを見ている。耕五郎は自室で読書しようとして、思い出した。「今日、本屋さん行ってないじゃないか!」

 一時間後、耕五郎と悦子は恭介に呼ばれた。「実はな。肺に癌が見つかった。全身に転移しているらしい。あと半年の命だ」耕五郎と悦子はショックを受けた。こんなに元気そうな顔をしているのに寿命があとわずかなんて、悲し過ぎる。

「でな、二人に話しておかなきゃならないことがある」恭介は真剣な眼差しで二人を見つめる。「わしと母さんが再婚どうしだということは知っているな」「はい」「知っています」「それでな肝心なのは、耕五郎はわしの連れ子、悦子は亡くなった美子の連れ子だということだ」「それがどうしたんですか?」耕五郎が聞く。横の悦子の顔が真っ赤になった。「耕五郎、それでのお前は名探偵か? 少しは法律の勉強をしろ。親の連れ子同士は法律上、婚姻できるんだ」「えっ?」耕五郎は今ひとつピンとこない。「分からん奴だな。お前と悦子は結婚できるのだ」「私が悦子と結婚ですか? 悦子は私の可愛い妹ですよ。結婚なんて考えられません」耕五郎は即答した。「悦子はどうだ?」「私……私、お兄ちゃんが好き」そう言うと悦子は家を飛び出した。恭介と耕五郎は周り近所を探したが、その夜は見つけることが出来なかった。

 家に戻ると耕五郎は恭介に言った。「なんで癌だなんて嘘をついたんですか?」

「やや、ばれたか」恭介は笑った。耕五郎は笑えない。恭介は言う。「お前と悦子が結婚出来るのは本当だ。わしの目には幼い時からのお前たちが、まるで、わしと美子の子供時代のように映った。わしと美子は再婚どうしだったが夫婦仲は良かった。まるで兄妹のようだと周りに言われたものだ。その再来がこの目の前にいる。頼むよ。悦子と結婚してくれ。悦子はお前を慕っている。お前には特別付き合っている女性もいない。なあ、いいだろう」耕五郎の心は揺れていた。二十年間、妹と思っていた女性と結婚するなんて、道義的に許されるのだろうか? そして、妹として愛してきた人を妻として愛せるのだろうか?とてもすぐに答えの出せる問題じゃない。耕五郎は父を無視して、部屋にこもった。

 耕五郎が悦子と初めて出会ったのは耕五郎が幼稚園年長、悦子はまだ幼稚園にも通ってない頃だ。初めての邂逅で耕五郎と悦子は好きになった。あくまでも兄と妹としてだ。

 父、恭介と母、美子がどのようにして出会ったかはよくわからない。ただ、仕事の関係で出会ったと言うばかりであった。耕五郎は考える。美子は何か犯罪に関わり合っていたのではないだろうか? それも加害者側で。恭介の時代は人が平然と人を殺し、それを隠蔽する事件が連続していた。当然、父もそのような陰惨な事件を調査、捜査していただろう。その中で、美子を見つけた。美子が人を殺したのかどうかは分からない。ただ、前夫とは死別であったという。恭介が探偵を引退したのは耕五郎が大学を卒業した直後であり、美子の亡くなった年でもあった。美子は病床で、悦子の幸せだけを恭介に頼んでいたという。その幸せが耕五郎との結婚だというのだろうか。耕五郎は久しく吸っていない煙草に手を出した。チャビンマイルド、そう強い煙草ではない。だが耕五郎は、頭がクラクラした。気持ちが悪い。そんな苦しみの中で、耕五郎はある、決断をした。「結婚するしないは関係ない、私は悦子を守らなければならない」と。


 休日は波乱のうちに終わった。また今日もヒマな一日が始まる。ただ違うことは、耕五郎の頭の中には考えることがいっぱいあること。悦子と恭介が事務所を休んだことである。悦子がいないので耕五郎は午前中、事務仕事に精を出した。それから電話応対、接客とそつなくこなした。渥美さんや、佐々木さんとも雑談をした。本当に久しぶりに仕事をした感じだ。そして一仕事終えて読書する。コーヒーはインスタントで美味しくないけれど、充実した一日であった。そうすると、耕五郎のやりがいを阻害していたのは、悦子と言うことになる。複雑な思いだった。翌日も翌々日も悦子は姿を現さなかった。恭介も悦子を捜し歩いているため、事務所に来なかった。秘書と、隅の老人を失った事務所。だが耕五郎は充実感に包まれていた。仕事をする喜び、生きがいのある人生。もしかするとそうやることで、悦子の件を先送りしていたのかもしれない。      

 一週間後、悦子が見つかった。東京の飲み屋でホールのアルバイトをしていたらしい。探偵仲間が見つけてくれた。なんと『東西リサーチ』の桑原という男だ。この男、ウチの事務所と『東西リサーチ』が犬猿の仲と知っていて、あえて悦子発見をウチに電話してきたのだ。『東西リサーチ』はウチとの和解を図っているのかもしれない。家に連れて帰ってこられた、悦子はうつ状態になってしまった。恭介が一日中看病する。自殺する危険性があるからだ。父、恭介は自分を責めた。自分の余計な一言が家庭を壊し、娘をうつに追いやったと。耕五郎は事務仕事に熱中しながら考える。自分は名探偵と呼ばれながら、このところ何の仕事もしていないこと。もう一つはどうやったら悦子を元気にさせることができるかである。初めのことについては諦めた。探偵業は受け身である。犯罪者が活動しなければ、こちらは動きようがない。あとのことは、一つ企画がある。実行は難しいが実現すれば悦子は元気になる。そう信じるしかなかった。

 耕五郎はある人に電話を掛けた。ある人は耕五郎の願いを聞き遂げてくれた。ただし、条件付きである。その条件を満たすため、耕五郎は区役所と警察署に行った。本当のことを話して情状を誘った。許可は下りた。


「悦子、公園に行かないか?」耕五郎が話しかけた。あれだけ、仲の良かった兄弟も今はギクシャクしている。しゃべるのも何週間ぶりだった。「行きたくない」予想通りの返事が返ってくる。「もし、私と行くのが嫌ならば、一人で行ってみるがいい。喜びの歌が君を待っている」「喜びの歌?」「そうだ」「考える」悦子の心が少し動いた気がする。

 綱島第八公園ではちょっとしたお祭りが始まろうとしていた。ステージが作られ、その上にはドラムセット。満艦飾の風景。近所の子供達や老人が見にくる。でも祭りはまだ始まらない。

「喜びの歌」悦子は呟いた。ずっとパジャマを着ていた。ずっと寝ていた。動きたくなかった。人に会いたくなかった。死にたかった。

「喜びの歌」もう一度呟く。体に力が湧いてきたような気がする。悦子は着替えて公園へと、トボトボ歩いた。まだ、人の目が怖かった。

 公園には一台のトレーラーがある。そこに五人組が隠れていた。「来るかな?」一人が言った。「絶対来る」リーダーが言った。「俺たちがあの子の心の治療薬になる!」みんなが叫んだとき、「来ました!」と前の会社をクビになり、五人組に拾われてマネージャーになった蝦蛄義賢が息を切らしてトレーラーに乗り込んできた。「な、やっぱり来たな」リーダーはみんなに目で挨拶すると、トレーラーから飛び出した。

「こんにちは。うるさくしてごめんなさい。今日俺たちは人助けのためにここへ来たんだ。その人の心は今、風邪をひいている。こんな時、言葉はなんのなぐさめにもならねえ。だから俺たちはミュージックで心を癒すぜ! レッツゴー」

バーンとドラムが鳴って音楽が始まった。激しいドラムとギターソロ、キーボードが主旋律を引き、ベースが重低音を奏でる。ボーカルはまだ歌わない。

 激しいミュージックのシャワーを浴びて、悦子は清々しい気持ちになった。あともう少し歩けば彼らに逢える。大好きな彼らに。

 彼女が公園に現れた時、ボーカルは叫んだ。『君が大好き!』


雨に濡れて しょぼくれた日も

風に吹かれ 飛ばされた日も

これだけは きっと言える

君が大好きさ!


世界が海に 沈む時も

この地球が 破裂しても

これだけは ずっと言おう

君が大好きさ!


君が笑えば 僕も笑う

君が怒れば 僕もキレる


もうこの世界に二人だけ あとはみんなバイバイ

もうこの宇宙に二人きり UFOなんてさよなら


二人だけの国を作ろう

二人だけの城を作ろう


だって君が大好き

だって君が大好き


大好きさ〜!!


ああ、『君が大好き』だ。本当に来てくれたんだ『レアメタル』。あたしのために。ああ、お兄ちゃんがやってくれたんだ。私を元気付けるために。お兄ちゃんはそれだけ、あたしのことを想ってくれている。なのに誤解して、自暴自棄になっちゃった。恥ずかしい。でも、会いたい。お兄ちゃん。本当に会いたいよ、お兄ちゃ〜ん。

「お兄ちゃん」と叫ぶ悦子を見て、不覚にも涙が止まらなかった。強く抱きしめる。「結婚しよう」耕五郎は言った。「本当?」「ああ、お前を二度と一人にしない」


 一月吉日冬晴れの日。耕五郎と悦子は婚姻した。列席者は 父、恭介と所員、渥美、同じく佐々木、それから良雄の四人だけだった。人気ロックバンド『レアメタル』からはオリジナルのウエディングマーチのCDが、怪人トエンティ・フェースからはピカソの未発見新作が送られてきた。

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