第3話 横浜市誘拐事件

 小林耕五郎が所長を務める『小林探偵事務所』には『白智探偵事務所』からの流れで、怪奇現象に対する相談がよくある。耕五郎自身は、幽霊だのお化けだの祟りなどは全く信じていなかった。それどころか笑いの対象である。祖父、芳雄から聞いた“二代目怪人二十面相”が人々を驚かすために用意した、数々の張り子。今で言うと着ぐるみが、ぶっ飛んでしまっていて人を驚かせるというより喜ばすために変装しているのではないかと、祖父は言っていたものだ。先日、すでに、引退している二代目怪人二十面相にそのことを話すと「わしは、真剣にやっていた。しかし、いかんせん美術スタッフが弱くてな。わし自身も着るのが恥ずかしい張りぼてもあったわ。そうすると、君の祖父の小林くんが必死の表情で笑いを堪えておる。わしは赤面したぞ。張りぼての中だから表情は悟られなかったがな。わしはそれに耐えられず、まだ何も獲っとらんのに、気球で逃げたこともあったわ」「初代の変装はどうだったんですか?」耕五郎が尋ねると、「青銅の魔人などは秀逸だったな。だが後半になるとスタッフの実力が低下したのかな。何せ超人ニコラだからな。今だったら小中学生の女の子が憧れちゃう雑誌になっちゃうな」「流行に敏感ですな」「何たって新垣結衣ちゃんの出ていた雑誌だからね」「エロジジイ全開ですね」「男はいくつになっても青春じゃ」「そうですか」「ところで恭介くんがいないようだが」「同窓会があるそうで」「そうか。だからコーヒーがまずいのか」「すみませんね。妹が淹れたのです。ところでお聞きしたいのですけど?」「何じゃ?」「トエンティ・フェースはいつになったら犯罪を犯すのですか? 今のところ、いいことばっかりしていませんか? 自分の偽物を捕まえたり、薄幸の犯罪者の罪を許したり、生活資金まで与えている。それに僕にも、貰いそこなった三百万円プレゼントしてくれたし。ただのいい人ですよ」「君、甘いよ。わしも全貌は知らないが、孫は“表には絶対に出ない犯罪”を目指しているようだ。それに安心してくれ給え。孫は君をライバルとは思っていない。友人知人の一人と考えているようだ」それを聞いて耕五郎は悔しかった。小林家の三代目として、“怪人トエンティ・フェースのライバルたるよう切磋琢磨しなければならない。それにはまず何から始めればいいか? 着ているものから変えてみるか。と考えたのだが、先立つものがない。洋服に何十、何百万円も掛けられるほど、うちはお大尽さまじゃない。じゃあ、どうするか? そうだ頭脳を鍛えよう。そう考えた耕五郎は本屋で『脳トレ』の本を買って事務所に戻って来た。すると来客があった。今日は臨時アルバイトとして耕五郎の妹、悦子が来ていた。仁木悦子さんから名前を頂戴したのだ。作家さんのほうではなくて、可憐な女学生探偵からである。ところで本題だ。客は二人、名刺によると、

『株式会社クルリント 専務 肥後克也』

『株式会社クルリント 秘書課長 風花智子』

 と書かれていた。クルリントといえばプロ野球横浜マリンズのオーナー企業ではないか。耕五郎は元は東京の人だから、もちろん東京キングを応援しているが、私情は禁物だ。話を伺う。すると肥後専務が「実は私どもの代表取締役社長の上島竜一が誘拐されました」耕五郎は即答した。「なら、警察に行ってください。科学的捜査ですぐに解決してくれるでしょう」すると今度は風花が「犯人は警察に知らせたら、社長を殺すと脅してきているのです」「それは犯人の常套句です。悪いことは言いません。警察へどうぞ」「ここに五百万円あります。犯人の要求は十億です。それに比べたら安いものです」肥後が金を出した。それを見た耕五郎は「仕方ありませんねえ。それだけ熱心に頼まれたら、私の負けです」と言って、金をポケットに突っ込んだ。


 株式会社クルリント本社はみなとみらい21地区にある。最新型のビルディングで地上六十階、地下五階もある。こんなに大きくて何に使うのだろう。一部屋、ただで事務所に貸してくれないだろうかと耕五郎は思った。「まずは社長室をお目にかけます」と肥後が言った時、耕五郎は制した。「上島社長は社長室から誘拐されたのですか? そんなことないでしょう」ところが肥後は「そのまさかなのです。社長室から誘拐されたのです」「ええっ? それじゃあ、社長室を見ることが肝要だ。早速行きましょう。それにしたって社長室から誘拐されるなんてことあるのかな。セキュリティだってちゃんとある新しいビルなのに」耕五郎は頭を捻った。

 社長室はビルの最上階にあった。全面ガラス張りで、見晴らしが最高にいい。海側は横浜港や山下公園、ベイサイドスタジアムが見え、陸側には港の見える丘公園、三渓園なども見える。「小林さん、景色ばかり見てないで、捜査、捜査」風花が耕五郎を急かす。気の強そうな女だと耕五郎は思った。「監視カメラの映像はありますか?」耕五郎は聞いた。「ございます」風花が準備をする。迅速で的確だ。(こんな秘書さん、ウチにも欲しいなあ)耕五郎は夢想した。「では、映します」風花がスタートボタンを押す。プロジェクターに映像が映し出される。午前十一時三十分、上島社長は普通に席についている。突然、電話が鳴る。携帯電話でなく固定電話だ。それに出る上島。しばらく問答をしている。激しいやりとりのようだ。上島は立ち上がっている。興奮しているようにも見える。ところが、ある一線を越えると急に元気が無くなったように席に座り込んでしまう。そして、背中を掻くような仕草を繰り返す。五分後、また電話が掛かってくる。上島は何度も頷くと、社長室を出て行く。カメラが切り替わる。社内を元気なく歩く上島。でも社員にはにこやかに手を振っている。エレベーターに乗る。またしても背中を掻くような仕草をする。エレベーターには他に誰も乗っていない。「社長専用エレベーターなんです」肥後が説明する。その間にエレベーターは一階に着いた。ふらつくように玄関ホールに向かう上島。表玄関を一人で出て行く。その姿を誰も気にしていない。またカメラが変わる。玄関前の送迎スペースだ。そこに一台のベンツが止まっている。ベンツ? なんかこの前乗ったな。それはともかく、上島社長はベンツに乗り込む。これが記録に残った上島竜一社長の最後の姿だ。今から三日前のことである。「犯人から電話はあったんですよね?」「はい、一回だけ。十億円用意するように言われました」「どんな声でした?」「加工された男の声でした」「電話はそれ一回だけなんですね?」「はい」「うーん?」耕五郎は考え込んでしまった。ここでピシャリと答えを出して上島社長を救出できたなら名探偵なのに。「そうだ、電話交換の記録は残っていますか?」「ありますが公衆電話でした。番号の記録はありません」と風花が悔しそうに話した。「ああ、あの社長の一連の動きのビデオ、ダビングしてもらえますか。事務所でもう一度検証してみます」「はい、DVDでよろしいですか」風花が言う。「結構です」耕五郎は答えた。

 事務所に戻ると、耕五郎は悦子と渥美さん、佐々木さんと事務所総出でDVDを見た。「問題なのはあんなに興奮していた社長が、何かの一言で元気をなくしたことだ」耕五郎は発言した。「社長にご家族は?」渥美さんが聞く。「離婚して、今は一人だそうです」「子供は?」「いないそうです」「ねえ、この姿おかしくない?」悦子が社長の背中を掻くシーンを指摘する。「どこがおかしいんだ?」耕五郎が聞くと、「背中を掻いているというより、背中に付いた何かを取ろうとしている感じ」「何だろう?」「何でしょう?」皆で悩んでいると、佐々木さんが「もしかして?」とつぶやいた。「なに?」「でも間違っているといけないから」と言い渋る佐々木さんの口を割らせたら出てきたのは「爆弾かなって思いました」「爆弾!」そうか、上島社長は背中の手の届かないところに、おそらく、透明のプラスチック爆弾をくっつけられたのだ。それを必死に取ろうとした姿が、背中を掻くように見えたのだ。でもどうして秘書かガードマンを呼んでとってもらわなかったのだろう? 巻き添えをくわせないための優しさか? それとも他人に取らせたら爆発させると脅かされたか? でも待てよ。「服を脱げばいいだけの話じゃないか」耕五郎が叫ぶと「注射針のようなもので背中に注入されたのでは」と佐々木さんが反論した。そうだな、体の中に入れられたら自力では取れないし、人に頼むことも出来ない。「でもどうやって?」「運転手に化けて、後ろをついたのでしょう」佐々木さんが結論づける。「なるほど」とにかく上島社長は犯人にしたがってベンツに乗り、どこかへ連れ去られた。連絡は最初の一回だけ。事件解決は完全に暗礁に乗り上げた。


 解決の糸口が見つからないので、耕五郎は一旦操作を中止して、いつもの事務作業と同窓会から帰ってきて恭介の淹れてくれるコーヒーを飲みながらミステリーを読むという、いつもの生活をしていた。現実逃避である。でもさ、爆弾って言ったらテロじゃないか。そうなったら私立探偵の出る幕じゃないよ。警察や自衛隊を呼んでください。と耕五郎は正直、事件解決を諦めていた。そんな時である。「こちら名門の探偵と伺ってやって参ったのですが」と一人のサラリーマン風の男が事務所に入ってきた。「どなた様ですか」と尋ねると、

『横浜市役所 助役 真面目一鉄』

 と書かれていた。「まじめさんとお読みするのですか?」耕五郎が尋ねると、

「まじめです」と真面目は答えた。「いじめられたでしょう? 苗字のことで」「いえ、わたくし、真面目の苗字を誇りとしてきましたので、周りの雑音は跳ね返してまいりました」強いハートの持ち主だと耕五郎は感心した。「ところでご相談は何でしょうか?」「誠に言いにくいのですが……」「ご遠慮なくどうぞ」「横浜市長が誘拐されました」「ええっ? 本当ですか」「本当でございます」「ならば、悪いことは言いません。神奈川県警に行ってください。それと官邸に連絡して自衛隊の出動要請をしてください。この事件は私のような一探偵に務まる仕事ではありません。早々にお帰りください」耕五郎は聞いてはいけないことを聞いてしまったようで気分が悪くなった。しかし、真面目は帰ろうとせず、「警察に言ったら、人質の命はない。そう犯人は電話で言って来ました。我々市幹部は協議し、「ネットで一番評判のいい私立探偵を雇おう」ということに決しました。ネットでの評判はダントツでこちらでした。二位の『東西リサーチ』とダブルスコアです。「本当ですか? なんてサイトですか?」「トエンティの探偵通信簿というサイトです」「トエンティ? なんで奴がそんなサイト作っているんだ! 真面目さん、このトエンティというのはトエンティ・フェースという現代の怪人二十面相なんですよ。知りませんか?」「一向に存じ上げません。それに怪盗がオススメするなんて凄いじゃありませんか。わたくし、なんとしてもあなたにお頼みしたい。ぜひお願いいたします」真面目は土下座した。こうなると無下には出来ない。「仕方ない、お引き受けしましょう。ところでギャランティは?」「一千万円用意してあります」ウヒョー、前の仕事の前金と合わせれば千五百万円だ。

 耕五郎は横浜市役所を真面目の案内で訪ねた。「まさかと思いますがね。市長は市長室から誘拐されたのではないでしょうね」耕五郎が聞くと、「よく分かりましたね」と真面目が答える。「もうちょっとセキュリティのこと考えた方がいいですよ」耕五郎が言うと、「申し訳ございません」真面目はまた土下座した。

「防犯カメラの映像はありますか?」「はいあります。警備室へどうぞ」耕五郎は真面目と警備室に入った。体育会系の匂いがする。AV機器は部屋の奥にあった。ビデオを再生する。市長は席についている。電話が鳴る。それに出る市長。怒っている。怒鳴っているのがわかる。そして、やたらと背中を気にしている。電話は切られた。市長は呆然と市長室を出る。外の向かう市長。外にはベンツが待っていた。って同じじゃないか! 上島社長誘拐事件と。全く同じだ。こうなるとやっかいだ。手がかりなしの探しようなし。ううん、このまま何も出来ずに手をこまねいて見ているだけなら探偵の看板を下ろしたほうがいい。そう考えていると、閃くものがあった。「真面目さん」耕五郎が呼ぶ。「何でしょう?」「商工会議所を通してでもいいので、横浜市内の大企業の社長もしくは会長が誘拐されていないか調べてもらえますか?」「お安い御用ですが、正直に誘拐されたって教えてくれますかね?」「そうか、会社の不祥事だからなあ、隠しますよね……こうしましょう。市長命令ってことで!」「市長はいませんよ」「そんなこと相手は知りません!」「嘘をつくってことですね」「嘘も方便」「分かりました」真面目は作業を開始した。

 十九人いた。横浜市のそれも法人税支払いトップ二十の会社の社長もしくは会長である。これで犯人の目的が見えてきた。『横浜の乗っ取り』である。こんな大きな計画を考えるのは一人しかいない。怪人トエンティ・フェースである。耕五郎はトエンティ・フェースに何度か会っている。しかし、奴は変装の名人だ。素顔は二代目二十面相しか知らないだろう。でも可愛い孫だから、絶対に素顔は教えてくれないはずだ。やつがどんな姿で現れるか、またそれを見抜けるかが勝負の分かれ道となる。それにしても市長と上島社長を含め、横浜のトップが二十一人誘拐されている。でも横浜の街はいつも通り動いている。大企業になればなるほど社長ってお飾りでも、下のものがすべてやってくれるのかなあと耕五郎は思った。


 クルリントの上島竜一社長が突然、会社に戻ってきた。何の兆しもなく、唐突に、である。肥後専務から連絡をもらった耕五郎は上島社長に会った。「どんなところに拉致されていたのですか?」耕五郎が聞くと、「暗い場所だった。手足を拘束され食事も二度しか与えらえなかった。それも固いパンと白湯だ。トイレは手錠を外され足かせもなかった。ただ機関銃で狙われていた。その時が一番の恐怖だった」「なぜ解放されたのですか?」「会社が身代金を払ったからだろ。えっ、払ってないの? じゃあ何故だか分からない」「最後にもう一つだけ教えてください。誘拐された時、やたらと背中を気にしていたのは、何故ですか?」「ああ、あれは背中に液体の爆弾を注射したと言われて焦ったんだ」「ありがとうございました」

 身代金も払わないのに帰ってきたのが不思議だった。今後、犯人側に便宜供与する約束でもしたのではないかと耕五郎は思った。でもそんなこと自分には関係ないからそれでいい。しかも、社長が帰ってきたのが耕五郎の手柄にされて、もう五百万円もらっちゃった。まるもうけである。坊主じゃないけれど。

 翌日、横浜市長も帰ってきたと、真面目さんから連絡があった。市長に一私立探偵がインタビューするわけにはいかないので、真面目さんに聞きたいことを話しておいた。質問は上島社長にしたのと同じ、答えもほぼ同じだった。他の社の社長もしくは会長も順次帰ってきたようだ。玉虫色の解決というやつだ。トエンティも大したことないな。多分、後で身代金をもらう約束をしたんだろうけど、横浜を根本から揺るがすような事件にはならなかった。その時、耕五郎は思った。


 佐々木さんがぎっくり腰で休んだ。禁酒して体に気を付けている彼女にしては珍しいことである。「ペットの依頼は来ないでね」という耕五郎の願いもむなしく、朝から「ウチのチーちゃんがいなくなっちゃったの」という、おばさんの電話を取ってしまったので、妹の悦子と現場へ急行する。その前に電話だ。「ああ、良雄。ありったけの人数繰り出して、わかたけ団地に来てくれ」こうなれば人海戦術だ。しかし、耕五郎のホームレス、ローラー作戦は机上の空論で終わってしまった。大量のホームレスの来襲に、「なんだこりゃ」と慌てた団地自治会会長が警察に電話してしまったのだ。なんとパトカーが十台も来る大騒ぎで、ホームレスたちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。後に残された耕五郎と悦子は「何者か?」と聞かれたので、耕五郎は悦子に囁き「ウチのチーちゃんが行方不明で」と嘘泣きをさせた。そうしたら、職務質問していた警察官が「僕もねこ好きなんです」って急に表情が変わって、仲間の警察官たちと四時間もチーちゃん探しを手伝ってくれた。結局、チーちゃんは、ホームレス騒ぎの時にすでにおばさんのところに帰ってきていたのだけれど、この団地、ペット禁止なので、警察官や自治会会長がいる前で、それを報告出来ないでいたらしい。おばさんは貴重な神奈川県の税金を四時間分無駄遣いさせたことになる。

 午後二時に遅い昼食を摂っているとまた電話だ。今度はペットじゃないだろうと思って耕五郎が出ると、「ウチのタローがいなくなっちゃったの」というおばさんの電話。うんざりした耕五郎が「いぬですかねこですか?」と聞くと「カンガルーよ」と言われた。「おい、悦子ボクシングのグローブ買ってこい」と命じて、また良雄に電話する。耕五郎は「午前中は悪かったな。ところで、ボクシング強いやついる?」と聞いた。結局、腕自慢四人を引き連れ、わかたけ団地、えっ? さっきと同じところじゃないか。ペット禁止の場所でよくカンガルーなんか飼えるなあと思っていると、今回は広場ですぐ見つかった。ボクシング野郎が正面から掛かるが、カンガルーのキックに敢え無く撃沈。しまった、カンガルーはキックボクサーだった。どうしたものかと耕五郎が考えていると、源さんが投網して捕まえた。伊達に年は取ってないね、源さん。

 カンガルーを連行し、事務所に戻ると午後六時を過ぎている。父、恭介はとっとと帰宅しており、耕五郎と悦子だけになっていた。「飯でも食ってくか」耕五郎が言った瞬間、電話が鳴った。耕五郎は無視したが、悦子がとってしまった。「はい、小林探偵事務所でございます。……はい、おります。お兄ちゃん、電話」「はい小林です。風花さん? ああ、クルリントの。えっ? 相談がある。では、明日の昼食でも。はい、失礼します」風花さんは急いでいるようだったが、耕五郎は悦子との外食を優先させた。それだけ、悦子は今日、よく働いてくれたからだ。


 翌朝、佐々木さんは復帰した。比較的軽いぎっくり腰だったようだ。よかった。午前中、事務作業をすると風花さんとランチを食べるべく、みなとみらいへ向かった。相談事とは何だろう。まあ、何でもいいや。風花さんは美人である。でも、既婚者らしい。風花って有名人でいたような気がするんだよな。でもまさかそんなことないよなと一人、耕五郎が考えていると、「お待たせしました」と風花さんがやって来た。その表情は暗い。近くのイタリアンレストランに入る。耕五郎はボロネーゼ、風花さんはトマトソースを頼んだ。「で、相談とは?」耕五郎が聞くと「実は社長の様子が変なんです」「変? 例えば」「誘拐される前は、ヘブンスターを一日一箱は吸っていたのに、今は煙草の煙や臭いも嫌って、全館禁煙、煙草吸う社員はクビって言ったり、前は変な関西弁で喋っていたのに、標準語しか使わなくなっちゃったりしてるんです」「心境の変化ってことは考えられませんか?」「いいえ。それに変な話ですけど、体臭が違うんです」「わきがですか?」

「いえ、全体から発する臭いです。前はいかにも“男”って臭いがしたんですけど、今はフローラルな香りがします」「仕事ぶりはどうですか?」「なんか、電話ばっかり掛けています。前は“電話嫌い”だったのに」「うーん、なんだか人がわりしたみたいですね」「そうなんです。ちょっと怖いんです」「分かりました。私が直接会ってお話ししてみましょう。でも今日は他の用事があるので、明日以降、お時間を社長にもらってください」「はい。よろしくお願いいたします」

 その足で耕五郎は横浜市役所を訪ねた。「真面目さんいらっしゃいますか?」受付で尋ねるといた。好都合だ。耕五郎は聞いた。「市長は誘拐前と後では人がわりしていませんか?」「よくぞ聞いてくださいました! 変わってしまったどころの話じゃないです。政策がコロリと百パーセント転換してしまって、各課大慌てです。市民への行政サービスもままなりません」「これは警察に言っても無理かもしれないなあ」耕五郎は独り言した。「どういうことです?」「明日、確信を持ったら連絡します。真面目さん、警察官僚に知り合いはいませんか?」「い、いますけど、一体何が起こっているのです?」「確信が持てないので、やっぱり明日、お話します」

 そう言うと耕五郎は走って行ってしまった。


 その日の夜、耕五郎は悦子に言った。「悦子、私に何かったら、小林探偵事務所のことは頼んだぞ」「お兄ちゃん、何か危険なことでもあるの?」「それがなあ、その場に立ってみないと分からないんだ」「じゃあ、心配いらないわよ。お兄ちゃん、悪運だけは強いから」「悪運ってなあ。こら、悦子!」「ははははは」「此の期に及んでまだ笑うか!」「ははははは……やだ、笑いが収まらない。助けて!」「バチが当たったんだ。ザマアミロ」「こうなったら、お兄ちゃんが死んだ場面を想像する。それで悲しくなって笑い止む」「よせよ。縁起が悪い」「なんだか本当に悲しくなって来ちゃった……シクシク、お兄ちゃん、なんで死んじゃったの」「馬鹿! 私は生きているよ」「えへへ」「お前、いい加減にしろよな!」兄弟が漫才をやっている間に夜は明けた。


 耕五郎は朝一番で風花さんに電話を掛けた。しかし出なかった。留守電にもならない。仕方がない。アポなしで上島社長に会いに行こう。自分の説が正しければ、社長も私を知っている。それに風花さんも無事だ。耕五郎はそう思った。一度だけ来たことのある、クルリント本社。確か、社長専用のエレベーターがあったはずだ。あったあった、これに乗っちゃおう、と思ったらカードがなければ乗れないらしい。自棄になった耕五郎はSuicaを当ててみた。なぜか扉が開いて乗ることが出来た。謎だ。やがて最上階まで来る。扉が開く。そこで耕五郎が見たものは、両手を縛られた風花さんと、朝っぱらからワインを飲んでいる上島社長の姿だった。耕五郎は思わず叫んだ。「トエンティ、人に危害を加えないのがお前の美学だったんじゃないのか」上島社長は怪人トエンティ・フェースが変装した姿だったのだ。姿形は変えられても嗜好までは、変えられなかった。それを風花さんに不審に思われた。トエンティの甘さである。さらに逆上し、風花さんを縛り上げ、それを見ながらウィンを飲む。変態性が現れている。義賊、トエンティ・フェース、底が浅いぜ。耕五郎はトエンティに襲いかかる『質実剛健流』打撃系本式の空手である。しかし耕五郎の繰り出す技をトエンティは軽々とかわして行く。自分からは決して攻撃しない。やがて耕五郎の方が疲れて来てしまった。「ふう、もういいだろう。ワインが回ってきてしまった」「いいわけないだろ。風花さんを縛り付けて。それに本当の上島社長はどうした? 横浜市長は?」「風花さんを縛ったことは謝ろう。だが痛くないように縛ったから許してくれ。上島社長や横浜市長、その他の人はアフリカ、タンザニカ共和国で野生動物を楽しむ一ヶ月ツアーに行ってもらっている」「トエンティ、お前結局何がしたかったんだ?」「この横浜の大企業二十社と横浜市が一ヶ月に得る金額はいくらだと思う。俺にも正確にはわからない。だがそれをいただく。ただそれがしたかっただけさ。だが、俺も脇が甘かったな。これからは煙草も嗜まなくてはいけないようだね。俺はその人の表面上は百パーセント真似できるが、内面や思考までは真似しようという考えが及ばなかった。修行のし直しだ。今回は俺の負けだ。さらば」そういうとトエンティは変装を剥ぎ、窓を開けた。ちょうどそこに、気球がある。いつも思うのだが、ヘリコプターの方が安全なんじゃないかと思うのだが。いかがなものだろうか。それはともかく、「風花さん」耕五郎は彼女の縛られた縄をほどく。「大丈夫ですか?」「はい、あの人が言ったように痛くなく縛られました」「それは良かった。やるなトエンティのやつ」「考えてみたら素敵な人でしたわ。ウチの亭主の何倍も!」そんな悪党と比べられて罵倒されるとは、かわいそうな風花さんのご亭主。


 約一ヶ月後、横浜市長と上島社長ら一行はアフリカ、タンザニカ共和国から帰ってきた。が、新型ウィルスに侵されている可能性があるとして、三週間、成田国際空港近くのホテルに軟禁された。さらにこの旅行にかかった費用はどこから出たかが問題となり、横浜市長は厳しい野党からの追及を受けることになる。ところでその間の横浜の経済だが、答えだけ言うと何も変わらなかった。トップなんていてもいなくても同じなのである。


『小林探偵事務所』には変化があった。悦子が耕五郎の秘書として入所したのである。事務所には若手男子が耕五郎しかいないので、張り切る馬鹿はいなかったが、来客時のお茶出しなどが華やかになった。これが噂になって顧客が増えればいいのになと耕五郎は思った。

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