第2話 消えた遺言書の謎

 横浜市港北区、東急東横線綱島駅付近にある、『小林探偵事務所』の主な業務は浮気の調査といぬ、ねこその他動物の迷子捜索である。浮気調査はこの道、三十年の所員、渥美が担当している。もともと渥美は東京の大手調査会社『東西リサーチ』で腕を磨いてきたベテラン所員であったが、『東西リサーチ』で所長と女性社員とのセクハラ問題を追及して、所長の機嫌を損ね、退職せざるをえなくなった。そして路頭に迷っていたところを、たまたまそのことを聞いて義憤に駆られた、小林耕五郎によって『小林探偵事務所』にもろ手を上げて引き入れられた。だから『小林探偵事務所』と『東西リサーチ』はそれ以来、仲が悪い。『東西リサーチ』は何かにつけて『小林探偵事務所』の揚げ足をとって来る。『東西リサーチ』は大手だから他の探偵事務所もそれに追随する。しかし、耕五郎は決して動じない。冷静な大人の対応で相手を寄せ付けないのだ。「義は我らにあり」小林耕五郎の口癖である。渥美はそのことで、耕五郎に大変厚い恩義を感じており、安月給にもかかわらず『小林探偵事務所』を辞めたりしようと思ったことはない。一生涯、耕五郎に尽くすつもりである。年齢は四十五歳、独身である。心配事は最近、頭髪が薄くなってきているということである。仕事は堅実で、無理はしないが、確実に実績を残している。『東西リサーチ』はつまらないことで優秀な人材を失ったというのが業界の裏の評判である。でも『東西リサーチ』は大手なので表立っての批判は出来ない。あくまでも裏の評判である。

 ペット捜索専門の佐々木は子供の頃から動物学者を志し、難関校の東京生物大学を卒業したエリートである。本人はそのまま大学院に残り、将来はアフリカに渡って動物の研究を続けたいと思っていたが、肝心の大学院の試験に落ち、かなり自暴自棄になってしまった。それで酒に溺れる生活を送っていた。数ある酒場を飲み歩き、とある酒場で知り合ったのが、小林耕五郎であり、意気投合した二人はいろいろな話をした。その中で、いぬ、ねこその他の動物の行動科学に精通していて、なおかつ獣医の資格を持っていることを話した佐々木に感動した小林耕五郎は彼女をペット捜索の所員としてスカウトした。佐々木としては動物研究の道を完全に諦めた訳ではないが、今のこの仕事にもやりがいを感じている。年齢二十八歳、独身、女性である。この二人のおかげで『小林探偵事務所』は成り立っていると言える。何せ、所長の小林耕五郎は現場にはほとんど出ず、帳簿付けなどの事務仕事ばかりやって、あとの時間はミステリー小説を読みふけっている、駄目所長なのである。それでも二人が逃げ出さないのは、どん底にいた自分を拾ってくれたことに深く恩義を感じていることと、耕五郎が時に独特の勘で大きな仕事を成し遂げる、その姿に惚れているである。それに隅の老人こと所長の父、恭介が淹れるコーヒーが抜群に美味いということもある。そして今日、所長の耕五郎の元に奇妙な依頼の手紙が来た。大きな仕事の予感がする。渥美と佐々木は机からじっと所長の耕五郎を見ている。

 耕五郎の元に届いた手紙は誠に不思議な内容だった。その中身は『突然このような手紙を送りつけてしまい、申し訳ございません。私は先年の交通事故で両足の機能を失っており、皆様の元へ直接ご相談に行けないのです。ご挨拶が遅れました。わたくし、安部弓子と申します。その相談の内容なのですが、先日、わたくしの主人が急に亡くなりました。その遺産相続のため、金庫にありました遺言書を弁護士同伴にて開封しようとしたところ、肝心の遺言書が見つからないのでございます。いくら金庫の中を探してもないのでございます。金庫は耐火式の頑丈なもので、鍵とダイヤルを合わせなければ絶対に開きません。生前、主人は遺言書を金庫に入れると、わたくしや、担当弁護士に言っておりました。わたくしも何度か金庫の中を見て遺言書があるのを確認しております。最後のそれは主人の亡くなる三日前のことでございます。その金庫の番号を知っているのは主人とわたくしだけでございます。主人の亡くなった今ではわたくしだけでございます。わたくしは今、他の親類縁者のものにたいへん疑われております。わたくしに不利な遺言書を、わたくしが破棄したと思われているのでございます。わたくしはこの冤罪を是非とも晴らしていただきとうございます。どうぞ我が家にいらっしゃって調査のほどをよろしくお願いいたします。この手紙は五人の著名な名探偵様にお送りいたしました。なにとぞ、わたくしの家に来て、わたくしの無実を証明してください。なお、こちらまでの行きの列車の切符と手付金として十万円を同封いたしました。見事、遺言書を見つけてくださった方には三百万円進呈いたします。どうぞ、どうぞお越しください。是非ともお越しください。心より、心よりお待ち申し上げます』というものであった。「三百万か。こりゃあ何をおいても行かなくちゃいけないな」耕五郎は金に目がくらんで安部弓子の元へ旅立つことにした。手紙の裏書の住所によれば、行く先は鎌倉だ。お供はもちろんホームレス『中年探偵団』のリーダー、良雄である。渥美と佐々木には通常業務を任せる。「じゃあ、お父さん。あとはお任せます」出発の朝、耕五郎は父、恭介に後を託した。「ああ、気をつけて行っといで。じゃが耕五郎、女の色香には惑わされぬようにな」恭介は諌言した。「はい、行ってまいります」

 東京からしたら鎌倉は随分と遠い場所に思われる。しかし、綱島からならそんなに遠くない。東急東横線で横浜駅に出てJR横須賀線に乗りかえればいい。昼に綱島を出発して、乗り継ぎが良かったので、わずか四十分余りで鎌倉駅に到着してしまった。鎌倉駅前はバスのロータリーになっているのだが、耕五郎たちはもちろん、バスには乗らない。お迎えのハイヤーが来て、あっという間に安倍の屋敷に着いた。「私の交通費は出してもらい、払ったのはお前の交通費だけ。それで手付金に十万も貰っちゃってほとんど丸々十万円得したな。大した準備もしてないのにさ」耕五郎は良雄に言った。「帰りは美味い魚でも食べましょう。それに鎌倉野菜っていう名物もありまさあ」ホームレスのくせにとても舌の肥えている良雄が答える。もし事件を解決すれば、その上三百万円ももらえる。まあ、これは事務所の維持費で飛んでしまうだろうけど。

 季節は春である。安部家の庭では花たちが一斉に咲き誇り匂い立つ。その中でも出色はやはり桜だ。ソメイヨシノだ。それが今を盛りと咲き乱れている。艶やかな色気を耕五郎は感じた。そんな時「やあ、小林くんやないか」耳障りな声がした。とりあえず無視する。しかし向こうはしつこく「聞こえているんでしょうが、イケズやなあ」とぼやいた。仕方なく耕五郎は答える。「はい、聞こえています」声の主は白智大五郎という。丸々と太っていて、まだ春だというのに真夏のように大汗をかいている。半袖のシャツなんか着ている。しかも脇汗でべっとり。ジャケットは無しだ。扇子で顔じゅうをあおいでいる。この男、なんでも白智小五郎先生の奥様の遠い親戚の孫とかで、誰の許可も取らずに『白智探偵事務所』を再興してしまった。業界、総ブーイングである。しかし、大五郎は厚顔無恥で、「名探偵の再来」とほざいている。本人はひどくガサツで、探偵には向いていないが、妙なプライドの高さと『白智探偵事務所』の看板で探偵界白い目で見られながらを闊歩している、いけ好かないやつだ。けれど『白智』のブランド力は高い。なので依頼人が引きも切らないという。リピート率は低いようだ。「なあ小林くん」大五郎が言う。「儲からない探偵事務所なんてやめて、ウチに来なさいよ。いい給料出すよ。白智、小林コンビで探偵界に再び旋風をまき起こしましょうや」いつもこれである。耕五郎の顔を見ると助手になれという。大五郎は『小林探偵事務所』を弟子筋か家来筋とでも思っているふしがある。そして、耕五郎を手下にしたくてウズウズしているのだ。ウチの事務所は白智小五郎先生の直系であり、大五郎の『白智探偵事務所』とは何の関わりもないのだ。どっちかといえば、ウチが本家だ。だからといって完全に無視を決め込むのも大人気ないので、耕五郎は大五郎に尋ねた。「大五郎さんも安部弓子に呼ばれたのですか」それに対し、大五郎は扇子をバタバタさせながら「そうやねん。なんぞ遺言書を探せとゆうてな。そいでな、あと三人来るらしいわ。わしら二人で充分なのになあ。わしと小林くん。黄金コンビで問題解決や」と吠えている。勝手に吠えていろ。ところであと三人、どんな名探偵が来るのだろう。耕五郎は楽しみになった。そこへ、「みなさん、お揃いですか、まだのようですね」とラフな格好をしたイケメンが現れた。「私、小林耕五郎と申します」と挨拶すると「ルポライターの深見照彦です」と返って来た。こいつか! と思った。お兄さんが警察庁のお偉いさんで、その土地土地の田舎警察官を兄の威厳を持ってアゴで使う奴は。でも感じはいい好青年だ。あの大五郎に比べたら話が合いそうだ。耕五郎は深見照彦と色々と雑談を始めた。すると大五郎はつまらなそうに庭を見ていたが、そのうち「ああ、腹減った。台所で、なんかもらってこよう」といって屋敷に入っていった。深見照彦の話は面白かった。なんといっても、彼は刑事事件に首を突っ込んでいる。これは貴重な話だ。その話の接ぎ穂に照彦が「あとの二人はどうしたんでしょうね?」と問うてきた時、大五郎がやってきて「あとのお二人さん。もう屋敷におりまっせ」と言ってきた。「じゃあ、我々も行きますか」照彦と耕五郎は屋敷に入った。もちろん、大五郎も。

 そこは、座敷と呼ぶのがふさわしい、広い和室だった。そこに残りの二人が座っていた。

「警視庁捜査一課の五日川です。今日は私人として、ここに参りました」ああ、この人が列車に乗るたびに殺人事件が起こる警部さんだ。さて、もう一人はどんな人だろう。「イギリスの探偵、ホームズです。日本語練習しましたので大丈夫です」さすがの耕五郎も、二度目の顔合わせだから、これは分かった。怪人トエンティ・フェースだ。怪盗の彼が何でここに来ているのだろう? 耕五郎はそっと近付いて、耳打ちした。「何で、怪盗のあなたがここにいるのですか?」それに対しトエンティは「この屋敷には素晴らしい美術品、工芸品がたくさんあります。それを頂戴するための下調べです」と答えた。「で、本当の名探偵はどうしたのですか?」と聞くと「彼は今、コカイン中毒でロンドンの病院に入院中です。日本にはまず来られませんね」とトエンティは言った。多分、トエンティがその名探偵をコカイン中毒にしたんだ。耕五郎は軽く恐怖を感じた。

 探偵たちの雑談が一段落したところで、安部弓子が車椅子でやって来た。「皆様、お忙しい中、こんな田舎までお越しいただきましてありがとうございます」みんなは驚愕した。弓子のあまりの美しさに。年齢は三十半ばだろうか? いや二十代後半かもしれない。妖艶で楚々としているという矛盾した言葉が似合う。「何のおもてなしも出来ませんが、今晩はゆっくりしていただいて、明日の朝食後、金庫の方へご案内いたします」と弓子が言うと、「いや、私にはそんな暇がありません。今すぐに、ここで遺言書事件の結論を出させていただきます」突然、五日川警部が立ち上がった。「まず、お伺いしたい。金庫の鍵はご主人と、あなたしか持っていなかったんですね」「はい、そうでございます」「そうなると必然的にあなたが犯人だと誰もが疑うでしょう。しかし、あなたが犯人ならそんな馬鹿な真似はしないでしょう。だとしたら鍵を持った第三者がいるはずだ。失礼ながら、ご主人には愛人がいらっしゃいましたね」「はい、お恥ずかしいことながらおります。この屋敷の離れに住まわせております」「その愛人ならば、ご主人から鍵をこっそりと、くすねて、合鍵を作ることが可能なはずです。そしてその鍵で金庫を開け、遺言書を取り出す。そして新しい、自分に有利な遺言書を金庫に入れようとした。ところがご主人が急死してしまった。金庫前にはご主人のご遺体とあなたが陣取っていた。故に愛人は新しく作成した自分に有利な遺言書を金庫に入れられなかった。これが真相です。愛人をこちらに連れてきてください」五日川は自信たっぷりに言った。しかし、入ってきた愛人は白系ロシア人のまだ若い娘で、名前はアナスタシア。日本語は少ししゃべれるが、全く書くことは出来ない。あまりの展開にみんなズッコケた。五日川は冷や汗を垂らして「私、東京で公務がありますのでお先に失礼します」と逃げるように帰って行った。「痴れ者は去りました。噂とはあてになりませんね。さあ、皆様夕餉をお楽しみください」安部弓子は少し冷たい目をして言った。

 夕餉は超豪華であった。耕五郎始め、みんなが堪能した。良雄もちゃっかり、五日川警部の分をいただいている。本当は助手用の食事が用意されているのに。食事の後はお風呂だ。源泉掛け流しの温泉。これに浸かりながら耕五郎は一番信用できそうな深見照彦と事件の話をした。「深見さんはこの事件どうみますか?」「小林さん。そうやって人の意見を吸い取るのはいけませんよ。これは探偵勝負ですからね。ただ、これだけは言えるのは、奥さんは犯人じゃない可能性が高いということです。だってそうでしょ。遺言書が失われて一番得するのは奥さんだ。遺産の半分は奥さんのものになるんだ。当然疑われる。当たり前の話だ。犯人はこれを狙っているんじゃないかな。五日川さんの理論展開もあながち大嘘でもないですよね。ただ、その第三者というのが……」「五日川さんが言ったみたいに、新しい遺言書を偽造することはもう出来ませんよね?」「そこなんだよ。結局は奥さんが有利な財産分与になる」「じゃあ、犯人は奥さんですか?」「そうではないと思うんだけど、いまひとつ、自信が持てない」深見は頭を抱えた。その向こうのほうでは大五郎と、トエンティが下ネタ話で盛り上がっていた。耕五郎はトエンティを少し見損なった。

 翌日、朝食が終わると皆は夫婦の寝室に案内された。そこに金庫があるのである。「手紙でも申しましたが夫の死の三日前、私と夫は必要があってこの金庫を開けました。その時、私は見ました。遺言書は確実にここにあったのです。なのに、夫の死後、弁護士とこの金庫を開けたら、遺言書は影も形もなくなっていたのです」よよよと弓子はその場に崩れ落ちた。必死に支える、トエンティ。さすがイギリス紳士……じゃなかった、お前日本人じゃん。「ご心労のところすみません。一つ、お伺いしたいのですが、ご主人の亡くなる、二日前、もしくは前日、よもやと思いますが、当日、ご主人が金庫を開けたということはありませんか」と深見照彦が弓子に質問した。「いえ、分かりません」弓子は答えた。「わたくしちょっとめまいがしてきました。少し、休ませていただきます」弓子はそう言って、部屋を後にした。「さあどうしよう。ここらでみんなの意見を出し合ったらいいんじゃないでっか? もちろん正解者が三百万円もらうのは当然のことやが。いったい誰が真相を当てるのかな」白智大五郎が珍しく真っ当なことを言った。「まあ、とりあえずディスカッションしましょうや。じゃあ、深見はんからでいいかな」「はい、結論から言うと、金庫から遺言書を出したのは、おそらくご主人だと思います。何か新しい遺言書と取り替えようとして、出したんだと思います。書き終わったか書き終えなかったかはわかりませんが、それを金庫に入れる前にご主人は急な病で亡くなってしまった。僕はそう考えます」「なかなかええ推理や。わしも大体の点で似ているで」と大五郎は言った。「違う点を教えてください」深見照彦が聞く。「誰かが書き直そうとしたっちゅうところは同じや。でもな、書き直そうとした人物が違う」「誰ですか? 書き直そうとした人物は」「ああ、それは弁護士や」「ええっ?」「だって、弁護士は金庫の鍵を持っていませんよ」深見照彦が反論する。「そこが、甘ちゃんの考えや。実はな、弁護士と奥さん、不倫しちょったんよ」「まさか?」「まさかもマセキ芸能社もないで。大阪はよしもとじゃあ。ああスンマヘン。ついギャグ入れたくなりますのや。わし、弁護士の先生が姿現さんのおかしいと思いますねん。こういうとき、真っ先に姿見せるの弁護士の先生やと思うわ。それが出てこん。おかしいやん。これはきっと、姿を現せん事情があるとわし思うねん。それは不倫や。不倫して、それが旦那はんにバレて、奥さん、遺言書書き直されて、遺産がもらえんようになったんと違いますか。それで、弁護士の先生と奥さん相談して、書き直された遺言書、もう一回書き直そうって考えて、奥さん、弁護士の先生に、金庫の鍵貸したんよ。そいで書き直された遺言書捨てて、新しい遺言書、作ろうと思ったんだな。ところがそれが出来上がる前に旦那はんが急死。今更新しい遺言書も入れられなくて。奥さん、『遺言書がない』って騒ぐしかなかったんじゃないかなあ。わしはそう思うんやけど、みんなの意見はどうや?」トエンティが手を挙げた。「奥さんと弁護士がグルなら、ご主人の死後、金庫を開けるときにいくらでも細工できます。だって二人しか部屋にいないんだから」「ああ、そうか」そこに顔色のまだ悪い安部弓子が現れた。「奥様、大丈夫ですか?」トエンティが聞く。あくまでも英国紳士を演じるつもりのようだ。「大丈夫です。それより、弁護士がお金を持ち逃げしました「ええっ?」「いくらでっか?」「三百万円です」「それっぽっちかいな……もしかしてわしらへの賞金でっか?」「はい」「えー」「でもご安心ください。遺産が手に入りましたら、わたくし、きちんとお支払いいたしますわ」弓子は言った。しかし、「それを聞いて安心しました」とつぶやいた男がいた。深見照彦であった。「奥様、あなたは我々に嘘をついていますね。いや、もっと言えば世間を欺いている」「な、なんですって?」「奥様、あなたは本当は二本の足で立って歩けるでしょう。なぜ、歩けないと嘘をついているのですか?」そう言うと深見は弓子の背中をつねった。「痛い!」と言った拍子に弓子は立った。「もうこれで隠し立てはできません。正直に話してください」「そんな恥ずかしいお話は出来ません」「どういうことです?」「仕方ないから話します。わたくし、主人に愛人を作って欲しかったのです。わたくしの下半身が不自由になれば、主人のわたくしへの寵愛も止むと思ったのです。わたくしは子供を産めない体質だったのです」悲しみの空気が部屋を流れた。「では遺言状を出してください」照彦が言うと、弓子は車椅子の座席部分から遺言状を取り出した。その中身は『弓子とアナスタシアに遺産を分割して渡す ○○二十四年▲月十六日 安部貞行』と書かれていた。「問題解決、三百万円は深見照彦はんのものじゃい」大五郎が悔しそうに言う。その時、「ちょっとお待ちを」と声をあげたものがいる、小林耕五郎である。「なんや、今頃。往生際が悪いよ、小林くん」と大五郎が嫌味を言う。しかし、耕五郎は遠慮することなく、「遺言状は一通とは限りませんよ」と語った。「へっ?」一同が固まると、「やったあ、見つけましたよ、兄貴!」と叫びながら良雄が部屋に走り込んで来た。「見つかったか!」「はい。書斎の本約五千冊のうちの四千九百九十八冊目に挟んでありました」「逆から探せば三冊目だったのにな」と耕五郎と良雄が興奮気味に話しているが、他の者には何のことだかさっぱりわからない。「なあ、小林くん、君ら何の話をしとんの?」代表して大五郎が尋ねる。「ああ、何のことか分かりませんよね。では順を追ってご説明いたします。まず、金庫から遺言書が消えたのは、深見さんがおっしゃった通り、ご主人の安部貞行氏が取り出したものでした。新しい遺言状を作るためだというのも、深見さんのおっしゃる通りです。しかし、貞行氏はとんでもないミスをします。古い遺言書を破らずにゴミ箱にぽいっと捨ててしまったのです。それを拾ったのが弓子さんです。弓子さんはそれを見て、これから何が起こるかを察し、とりあえず、古い遺言書を車椅子の座席に隠します。思わず出た、とっさの行動だと信じます」「なぜこれが古い遺言書だっていうの? 新しい遺言書って何?」弓子はヒステリックに叫んだ。「まあ、ゆっくり話しましょう。貞行氏が急に亡くなったのは病死で間違い無いようです。そして、遺言書を開封するため金庫を開けた時、弓子さんは新しい遺言書と自分の持つ古い遺言書をすり替えようとしました。しかし、金庫に遺言書はなかった。ここで、古い遺言書を弁護士に見せれば問題はなかったのに、弓子さんはとっさにそれが出来なかった。車椅子の座席奥にしまいこんだため、取り出すことが不可能だったのです」「そうよ、立てなかったからね。でも、もし立ったとしても金庫から出てきたものじゃないから弁護士に正式な遺言書と認められなかったわ」自棄を起こしたのか弓子は本当のことをしゃべりだした。耕五郎は続ける。「金庫に遺言書がないと気づいた弓子さんは、どうしたら今、手元にある遺言書を本物にすることが出来るかを考えました。そして思いついたのはこれは一種の密室トリックだ。名探偵を呼んで推理させよう。そして、本棚からでも出て来たと言って一件落着ということにしたかったのでしょう。でも、これもまた深見さんにバラされてしまった」「こうなると三百万円は深見はんにあげた方がいいのかいな」大五郎がつぶやいた。「ちょっと待ってくださいよ。ここからがキモなんですから。私は思ったんです。貞行氏は新しい遺言書を作成したのかどうか。もし作成したならなぜ金庫にしまわなかったのか? 金庫は寝室です。弓子さんと一緒の時がほとんどです。なかなか金庫は開けづらい。そこで折を見てしまえるようにどこかに隠していたのではないかと思ったわけです。平べったい遺言書を隠すのにはどこが良いか? 書斎の書籍に隠すのが一番です。こちらの書斎の書籍は百科事典などB4版の大きい本ばかりです。遺言書を折り曲げずに挟むことが出来ます。私は部下の柊良雄に命じて書籍を一冊一冊調べさせました。良雄は運の悪い男なので最後の三冊目で探しあてました。これが、新しい、正式の遺言書です」

『アナスタシアと生まれてくる子供に遺産を渡す ○○二十八年▲月五日 安部貞行』

 一同呆然とする。アナスタシアというロシア娘には安部貞行氏の赤ちゃんが宿っていたのだ。

「書かれた年もこっちは今年だから、こちらの遺言書が有効ですね」耕五郎が言うと、「ははは」と弓子が笑った。「小林さん、他の皆さんも無駄働きご苦労様です。弁護士が三百万円持ち逃げしちゃったし、わたくしには遺産が入らないわけだから賞金はゼロでーす」弓子は笑い転げ、いつしか号泣していた。誰も手を差し伸べない。傍観するだけである。そこへ、今までどこに行っていたのかトエンティがハゲネズミみたいな男を捕まえてきて、「持ち逃げ弁護士を捕まえてきました。弓子さん、三百万円あるよ」と倒れていた弓子に手を差し伸べた。「ありがとう、ホームズさん」と言って頬に口づけをした。そうだトエンティは名探偵ホームズを騙っていたのだった。「さてみなさん」トエンティの独壇場になる。「弓子さんは本来ならば有印私文書偽造の罪に問われるかもしれませんが、ここに、今警察はいない。ここは大目に見てやろうではないですか!」「おー、いいぞ」「そして、この三百万円、本来ならば小林さんの賞金ですが、弓子さんの生活再生のために寄贈しようじゃありませんか!」「いいぞー!」という声の中、耕五郎と良雄だけが呆然と、何も言うことが出来ず呆然と立ち尽くしていた。


「ただいま」耕五郎が『小林探偵事務所』の扉を開くと、渥美、佐々木に恭介が口々に「三百万円、三百万円」と迫ってくる。耕五郎は、「お金はありませーん」と言って事務所内を逃げ回った。耕五郎は内心(トエンティのやつ、自分の金で慈善活動すればいいのに、私の金を……)とトエンティの男前ぶりに怒っていた。所員全員が走り回っていると、チャイムがなった。「私が出よう」と耕五郎が扉を開けると郵便局の人が居て、「お荷物です。ハンコかフルネームのご署名お願いします」と言う。耕五郎はハンコを押した。「ずっしり」と重い。送り先を見ると、『名探偵ホームズより』と書かれていた。封を開けると三百万円入っていた。トエンティ・フェースめ私の心でも奪う気か? と耕五郎は思った。

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