『サクラ サク』




「あああ……まだまだ春は遠いなあ……」



 ――桜の開花は遠い。

 三月だというのに、むき出しの頬に吹き付けてくるまるで真冬のような冷たい風に、思わず震えて身を縮こませた。

 目の前に立ち並んだ並木の桜は、開花はおろか、その蕾すら、まだ丸みさえ帯びず固く閉じられたままだ。

 全ての葉を落とし切ってしまった枝が吹き付けてくる風で揺られている様が、より一層、冬の空気を引き立ててるみたい。



 春の訪れは、まだ遠いのに……暦だけは、もう春だ―――。



「今年の桜の見ごろは、やっぱり“例年並み”よりは少しだけ遅れるみたいね。関東地方は四月上旬ですって」

 窓の下の桜並木をよっぽど真剣に眺めているように見えただろうか。

 私の呟きに応えるかのように、隣からミカコが、そんな言葉をかけてくれる。

 それを合図に、如何にも大儀そうに、よっこらせ…とでも言うのがとても似つかわしい緩慢な動作で、ようやく私は窓の外から視線を戻した。

「多少は遅れても……でも、春は必ず来るものなのよ?」

 ミカコは言う。私に向かって微笑んでくれながら。

「だからも、わ」

「…………」

 言われた私は……でも、どんな表情を返したらいいのか分からず……とりあえず口許に曖昧な笑みを浮かべて返した。

 すると即座に私のオデコを、「なんてカオしてるの」と、苦笑まじりにミカコは小突く。

「あなた、そんなカオのままで、これから先輩に会いにいくつもりなの? ――今日は、せっかくのホワイトデーなのに」




          *




 …三月は、いつもそうだ。

 ある日を境にして春休みを迎えるまで、学校内に馴染みのない空気が常に付きまとうようになる。

 私たち下級生は、相変わらず普段通りに登校してくるのに……最上級生の姿だけが、校内どこを探しても見当たらなくなるから。



 ――そう、〈卒業式〉という日を境にして。



 小学生の時も、中学生の時も……自分が最上級生になるまでは毎年、三月になると学校内にそんな空気を感じてきた。

 例年恒例の学校行事の中でも有終の美を飾る、〈卒業式〉という名のセレモニー。

 それが終わってしまうと、なんとなく校内にポッカリと隙間が出来たような感じがした。――今まで存在していた一学年分の人数が一度に失われて出来上がった、大きな隙間。

 しかし、そう間も無く訪れる春休みと共に、その空虚な感覚は消え失せて。

 やがて四月を迎えて年度も変われば、新学期の訪れと共に、その空いていた大きな隙間は新入生の存在が埋めてくれることとなる。

 そうやって、来る年も来る年も……残された“在校生”の春は、慌しく過ぎていくのだ。



“在校生”と云う立場で春を迎えることになる以上、毎年毎年、それは変わらないと思ってた。そんなもんだと思ってた。

 でも、高校生になってみて……初めて“高校”という場所に残される“在校生”という立場を経験してみて……そうじゃない春の存在を、私は、知った。



 知らなかった。高校という場所には、いわゆる“家庭学習期間”というものが最上級生に用意されていることなんて―――。



 だから毎年、ウチの高校では三学期を迎えるとほぼ同時に、三年生の姿が高校から消えていた。

 三月を迎えるのも待たず、校内に空く大きな隙間。

 中学生だった今まで経験してきた春は、そんな隙間の存在に慣れる間もなく、慌しく時間が流れ、年度も変わり、そういった“新しさ”というもので隙間を埋められてきていたけれど。

 高校に出来た隙間は、その“新しさ”で埋められるのを待つには、あまりにも作られてしまった時期が早すぎて。隙間を抱えたままで過ごさなければならない日々を重ね過ぎて。

 だから結局、先輩たちが〈卒業式〉を迎える頃には、校内に“隙間が在る”ということに、私たち在校生は慣れきってしまうのだ。

 先輩たちが居ない、ということが、それこそアタリマエのようになってしまうのだ。



 高校生になって迎える〈卒業式〉というセレモニーには……だから逆に、それが違和感。

 既に校内には居ない存在であるハズの先輩たちが、よりにもよって全員揃っている、なんていう不思議な感覚。

 ――それが逆に、“ああ、そういえば今日は〈卒業式〉だったんだなあ”って再確認させられることに繋がって……そこから“先輩たちを校内で見るのも、これが最後になるんだなあ”という感傷に変わっていくことになってしまうんだけど。



 だから……二年生になって、三学期を迎えて……みっきー先輩と会うことが出来なくなってしまった学校に通うのが、本当に淋しかった。

 そのことに徐々に慣れていく自分が、どうしようもなく哀しかった。

 学校に、今まで在った先輩という存在が消えて、そして徐々に他の何かで埋められていく。――それが、どうしても居た堪れなくて。

 会いたかった、先輩に。

 会えないと解っているからこそ、学校のそこかしこで先輩の面影を探してしまった。

 だから逆に、先輩がもう校内に居ない存在であることを再認識してしまって……とてもとても、苦しくなった。

 でも、決して会えない距離に居たワケじゃない。会おうと思えば会える距離に、先輩はちゃんと居たのに……学校の近くのアパートに行けば、いつだって先輩は、そこに居るのに……、

 けれど先輩は受験生、仮にも“家庭学習期間”という名目で休学している先輩のもとを訪れるのは、それだけで勉強の邪魔になってしまいそうで、とてもじゃないけど気が引けてしまって。

 だから先輩の受験が終わるまでは、何か用でも無い限り、自分から遊びに行くことも出来なかった。

 せいぜい、たまに差し入れを持って行くくらい、それだけだった。

 そうやって、学校の外にしか先輩の姿を求められなくなって……だからこそ余計に、先輩の面影が学校内から消えていって……無理矢理にでも先輩の面影を探そうとすると、胸に差し込んでくるのは更なる苦しさ。そして寂しさ。――まるで終わりの無いメビウスの環。



 先輩の存在を他の何かで埋めるのはイヤなのだ。

 代わりなんていらない。

 でも、それが無ければ苦しくなるだけ。

 だからなのか、流れる“時間”が……私にさえ気付かせぬままに、それを上手に埋めてゆく。密やかに。



 私のそばに先輩という存在が無いことに、そうやって次第に慣れてゆき……そして、それが“アタリマエ”のようになってしまうのだろうか―――。




          *




「ミカコが言ってたよ。今年の桜は、『関東地方は四月上旬』頃、なんだって」

 学校が終わって、みっきー先輩の部屋に遊びに来ていた私は。

 今しがた温かいココアと共に『今日はホワイトデーやしな』と出してもらったばかりのクッキーを摘まみながら、すぐ隣に座る先輩に向かってボンヤリと、それを告げた。

「今年は……先輩と一緒に、お花見、行けないね……」



 ――みっきー先輩の“桜”は咲いた。



 本命の大学の合格発表日、と聞いていた日。

 学校が終わってから私は脇目も振らずに即行で、その結果を聞きに先輩の家まで来た。

 でも、結果を聞くまでもなく、先輩だったら絶対に合格するって思ってたけど。

 これまで一生懸命に頑張ってきた先輩の姿を知ってるもの。それに、先輩も自分で言ってた。『そこまで無茶なレベルのガッコには手ェ出さへんし。そんなん受験料のムダにしかならへんやん』って。

 ここまで言っちゃうような人が、合格してないハズが無いじゃない。

 …そしたら案の定。

 やってきた私の顔を見るなり開口一番、ニッコリ笑顔で、このヒトコト。

『咲いてたで、桜』

 そして、『あーこれでやっと一安心やー』と続けて付け加えられた言葉に、なんとなく脱力。

『もう住むトコまでアタリ付けてたんに、これで落ちてたらどうしようかとヒヤヒヤしたわー』

 ――なによ……ナニゲに、めっちゃくちゃ自信満々、だったんじゃないの……。

 普通、合格発表の前に住むトコまで決めちゃうモンー!?

 ホント段取りが良すぎるというか何と言うか……まあ、これも先輩らしいと言えば先輩らしいのかもしれないけど。

 ああ、でも、もう、本当に心配して損しちゃった!

 これまでヒヤヒヤし続けてきたのは、むしろアタシの方じゃないの。その心労を返して欲しいわよ本当に。

 そんな安堵と共に込み上げてくる、言葉に出して伝えずには居られない“おめでとう”の喜びと、我がことのような嬉しさと。

 …そして、ふいに襲ってくる淋しさ。



 ――ああ、これで先輩が東京へ行ってしまうのは確実になっちゃったんだ……。



 先輩を応援し続けてきた気持ちの裏側で、先輩には言えぬまま、常にコッソリ存在し続けていた“離れたくない”という想い。

 その二つの想いの裏表が逆転した。私の心の中、その時、その瞬間に。

 先輩の合格を知った途端に、応援したい気持ちよりもずっと大きく湧き上がってきた。――今まで気持ちの裏側にしか存在し得なかった感情が。



 桜の花が咲く頃には……先輩はもう、ここには居ない―――。



 言った途端、それを思い出して泣きそうになってしまって……慌てて俯いた、そんな私の頭の上に。

 ぽん…と優しく載せられた、大きなてのひら

 それが、ぽんぽん…と、軽く何度も私の頭を叩いてく。まるで撫でるみたいな優しさで。

「なーにシンミリしたカオしてん」

 俯いていた顔を上げてみると、そんな私を見下ろした、少し困ったような…でも、どこまでもどこまでも穏やかで優しい、先輩の微笑み。

「行ったらええやんか。花見くらい、行こうと思えばいつでも行けるやろ」

「それはそうかもしれないけど、でも……」

「これが今生の別れでもあるまいし、大袈裟やなー桃花は」

 ずっと抱えてきた“不安”を、口に出した途端に、そうやって笑い飛ばしてくれた先輩は。

 それでもまだ泣きそうな表情でいる私に向かい、おもむろに「大丈夫や」と、それを呟くように告げてくれて。

 そのまま私の唇に、一つ、キスを落とした。

「大丈夫やって、何も心配することなんてあらへん」

「先輩……」

「これまでと比べて、ほんのちょっと会い難くなるだけのことや。ほかは何も変わらへん」

 至近距離から見下ろした先輩の瞳は、やっぱりどこまでも優しくて……何の返答も返せず、私はその瞳の色に魅入られる。

「それとも、なにか……?」

 そうやって固まったままの私に向かい、どことなくイタズラっぽい表情になって、先輩は告げた。

「桃花は、ほんのチョビーっとでもオレに会われへんよーになっただけで、オレのこと嫌いになるんや?」

「そっ…!!? そそそ、そんなことない絶対っっ……!!」

 その言葉には、慌てて首を横にブンブン振る。もう、それこそめいっぱいの勢いで。

 と同時に「せやろー?」と向けられた、先輩の満面のステキ笑顔。

「ほな、少しくらい距離が出来ようが、少しくらい会えなくなろうが、そのくらいなら構へんやんか。――オレが桃花を好きだ、ってことは……何があっても、絶対に、変わらへん」

 その言葉と、再び落とされた優しいキスに。

 心臓ぎゅうううーっと鷲掴みされたみたいに、苦しくなって。でも、思わず涙が出ちゃいそうなほど嬉しくなって。

 そのまま、「私も…!」と、先輩に抱き付いた。

「私も、先輩のこと大好きなのは変わらないもん絶対に!」

 ただ少しだけ淋しくなっただけなんだもん。

 温かい胸の中で、呟くように、それを告げると。

「せやな…オレも少しだけ淋しいわ」

 ぎゅっと抱きしめてくれながら、先輩も、それを言った。

「こうやって桃花のこと抱きしめたりするんが少しでも出来ひんようになるって……やっぱ考えたら、ちょっとだけ、淋しくなる、な……」

「先輩も……ちょっとくらいは“淋しい”って思ってくれるんだ? 私と離れること」

「アタリマエやろ?」

 オマエ、そーんなにオレが血も涙もない人間に見えるんか。…って、少しだけ拗ねたように言った、そんな先輩が思いのほか可愛く見えてしまって。

 思わず胸に顔を埋めたままプッと吹き出してしまった。



 ――良かった、って……なんとなく安心できた。

 先輩も、私と同じだったんだ、って……それが分かったから。

 不安だったのは…淋しかったのは、私一人だけじゃなかったんだ、って―――。



「ねえ、先輩……」

「ん……?」

「じゃあ、もし私が淋しいのに堪えられなくなったら……その時は、電話、してもいい……?」

「桃花……」

「先輩の声が聞けたら……会えなくても頑張れると思うから……」



 先輩も、離れることを“淋しい”と思ってくれているのなら。

 私だって、頑張らなくちゃって思うから。

 淋しさにだって堪えられるようになろうって思うから。



「会えなくてもワガママ言わないようにするから……だから、お願い」



 泣きたいくらい一人が淋しい時だけ。それだけでいいから。――声を、聴かせて。



「――馬鹿やん、桃花……」

 そんな呟くような言葉と共に先輩の指が私の頬を滑り、俯いて埋めてた顔を上に向けて。

 目が合うと同時、ゆっくりと唇が重ねられた。――何度も繰り返される、まるで噛み付くような熱いキスで。

「いいに決まってるやんか。オマエは、もっと『ワガママ』とか言ったってもええんやで?」

 私の耳元にも唇を寄せ、囁くように先輩は言う。

「そんなに桃花が淋しい時なら……電話なんかじゃなくて、オレが直接、会いに行くから」

「先輩……」

「約束するわ、桃花。――だから、淋しくなる前に電話して来」

「…………!!」

 ふいにぶわっと湧いて出てきた涙の所為で何も返答を返せなくなった私は、無言でギュッと、そのまま先輩に抱き付いた。

「先輩、だいすきっ……!!」

 言いたいことは、きっと沢山あるハズなのに……でも、その言葉しか出てこない。それしか言えない。



「先輩だから……だいすき、ずっとずっと、大好き……!!」



 離れてしまうことに対する不安や淋しさは、私の中に根を張ったまま、変わってないけど。

 それでも、少しだけ軽くなった気がした。

 先輩の言う通り。――私たちは、何も変わらない、何も心配することなんかない、って……そう思えるようにもなったから。



 そうやって、いつでも前向きに居られる先輩だから……だから私は先輩が、大好き、なんだもの―――。



「オレも桃花が、これ以上に無いってくらい、イチバン『大好き』、やねんから……」

 ――せやから桃花も、オレと“約束”、してくれへん?

 囁くように言われ思わず顔を上げると、私を見下ろしていた先輩が、「ハイこれ」と、着てたパーカーのポケットから小さな包みを取り出し、てのひらの上に載せた。

 本当に、掌サイズの小さな…でも、キチンと可愛くラッピングされてる包み。――こんなの、まるで……、

「桃花の誕生日、当日は卒業式もあったしバタバタしてて、ちゃんとしたプレゼントもあげられへんかったから」

 まるでプレゼントみたい…と考えた私の思考を読んだかのように、告げられた、その言葉。

「それと、バレンタインのお返し。それも併せたプレゼント、ってことで」

「あ…ありがとう先輩……」

 半ば呆然としながら、差し出されるままに私はその包みを受け取る。

 確かに、先輩の言った通り。――今年の私の誕生日…は、やっぱり例によってウチの高校の〈卒業式〉だったワケだけど。それが終わってから天文部の歓送会があって。その後は、そこに乱入してきた既に一年前に卒業した二つ上の先輩方に、みっきー先輩以下部員の三年生たちみんな、攫われていってしまったから。

 …考えてみたら確かに、貰えなかった自分の誕生日プレゼントのことなんて忘れてたわよ。

 しばらくの間みっきー先輩を横取りされたことにブーたれてはいたけれど、そのことについては後日ちゃんと謝ってもらったし。『当日できなかったからお祝いな』って、デートした時にお祝いもしてもらったし。

 だから、こう改めてプレゼントまで頂いてしまうと……、

「でも先輩……アタシ、これじゃ貰い過ぎになっちゃうよ……?」

「んなことないって。桃花、わざわざバレンタインは手作りチョコにチャレンジしてくれたやん。普段は絶対しないのに」

「それは、まあ、そうだけど……」

 とはいえ、それもぶっちゃけたら、『今年のチョコは何がいいと思う?』って相談したらミカコに『せっかくだから手作りのチョコにしたらどう?』って言われて、挙句、そのままグリグリ押しに押されて決められてしまっただけのことで……だから私みずからが進んでやったワケじゃないし……、

「オレ、それむっちゃ嬉しかったんやで。オレのために苦手なものワザワザやってくれた、って気持ちが」

 ――ってコトは、このさい伏せておくに越したことは無いわね、うん。

「せやから、その桃花の気持ちに対しての“お礼”ってことやから、素直に取っとき」

「うん…じゃあ、有り難くイタダキマス」

 そして、手の中の包みを押し戴くように掲げ、やや大袈裟に芝居調子で「おおきに」と頭を下げてみせると。

 即座に小さく吹き出した先輩も、「どういたしまして」と苦笑する。

「開けてみてもいい?」

 プレゼントを貰うと、多かれ少なかれ、やっぱり気持ちはワクワクしてくる。その開封する瞬間が、すっごくすっごく、楽しみで。

 みっきー先輩のくれるプレゼントって、私のことを良く分かっているからなのか、基本的に“ハズレ”は無いんだけど……でも、こんな小さな包みを貰ったのは初めてだから……中身が読めなくて、ちょっと緊張もしてる。

 ――この大きさだったら……なんだろう、アクセサリーの何か、かな……?

 そのまま包みのリボンに指を掛けようとしたら……その私の手ごと、ふいに先輩の大きな手が柔らかく握り込む。

「受け取ってくれるからには……“約束”して、な?」

「え……?」

 見上げた先輩の瞳は、――なんだろう、さっきとは打って変わって……笑っているのに、でも思いのほか真剣な眼差し、で……、

「それ……オレの居ない間、ずっとくれる、って……」



 どくん……! ――その瞬間、心臓が鳴った。ひときわ高く。



(『付けてて』、って……いま先輩、言った、の……?)

 どうしよう…なんだかすごくドキドキしてきて、指が震えてくる。

 そんなこと言われたら……“期待”してしまうから。この小さな包みの中身に。

 もしかして、って、思ってしまうから。



 ――この大きさだったら……なんだろう、、かな……?



 このまま先輩にドキドキが伝わってしまうんじゃないかと思った。

 先輩に答えを返せないままで……震える指が動いて、そのままリボンを解いてゆく。

 先輩も、今度は止めなかった。

 私の指は、そのままカサカサと音を立てながら、今度は包装紙を剥がしてゆく。

 そうやって可愛らしく包まれていたのは、白い箱。

 それを開けたら、――途端、息を呑んだままヒトコトも喋れなくなった。

 あまりにもビックリして。…そして、あまりにも嬉しくて。

 だって、そこには……私の“期待”が、このドキドキの原因が、キラキラ輝いて在ったんだもの。



「――指輪……」



 箱の中で、華奢ですごく可愛いデザインの指輪が、私の方を向いて鎮座してた。

 真ん中に付いてるキラキラ光ってる石は、多分、私の誕生石。



 ずっと…ずっと夢見てた。――いつの日か、先輩から指輪をプレゼントしてもらえること。



「どう…して……?」

 私の中で、“指輪”という贈り物は、本当に本当に“特別”なもの、だったから。

 驚き過ぎて声も出ない。

 嬉しくて満足に言葉も喋れない。

「ねえ先輩、どうしてなの……?」

 でも聞きたい。どうしても。

 これだけは先輩の口から言って欲しいの。――聞かせて欲しいの。



「桃花のことが、ホンマに好きやから……大事、やから……」



 そしてくれる、どこまでもどこまでも甘いキス、一つ―――。



「じゃあ…これ、どの指に付けたらいいかなあ……?」

 ドキドキを抑えて、わざとニッコリ無邪気に、それを訊いてみたら。

 即座に返ってきたのは「どれでも」という、アッサリとした返答。そして余裕のニッコリ笑顔。――なんだか少しだけ、それが悔しい。

「どの指でも、桃花の好きな指に付けてくれたらええよ」

「じゃあ……? 私に、に、……?」

「…………」

 ドキドキして……口から心臓が飛び出そうなくらい、私の胸はドキドキが止まらなくなってるのに……。

 ――これを付けたい指なんて、もう決まってるのよ最初から。

 でも、イヤなんだもん。

 こんな何にも知らないようなカオで先輩を試すみたいなことして、イヤなオンナだなーって、自分でも思うけど。

 でも私一人が“付けたい”って思うだけじゃイヤなの。

 先輩もそう思ってくれなくちゃイヤなの。

 だから……!



 先輩の長い指が……無言のまま、まだ箱の中に収まっていた指輪を摘まみ上げて。

 おもむろに私の左手を取り、薬指に、それを嵌める―――。



「かなわんなー……ホンマ、オレ桃花に、こんなにも参ってる」

 そのまま私を抱きしめてくれながら、そんなことを先輩は言った。まるで独り言めいて呟くように。

「自分で決めたクセに、でもホンマのとこ、離れるんがイヤなんはオレの方やな。――こんな安モンの指輪一つで繋ぎ止めておこうだなんて、ムシのいいハナシやけど……でも何か一つでも、桃花を繋ぎ止めておけるモンが欲しくなって……」

 それを耳元で囁くように告げられて。

 でも、先輩の胸の中で真っ赤になってた私は、何も言葉を返すことが出来なかった。

 顔が熱くて、アタマがガンガンしてきて、胸は相変わらずドキドキが収まってくれなくて……どうしていいのか、何を答えたらいいのかが分からない。

 普段の先輩なら絶対にはぐらかしてるところを、今日に限って、ちゃんと真剣に応えてくれた、ってだけでもドキドキなのに……おまけに、そんな普段の先輩だったら絶対に言ってくれなさそうなことまで言われてしまったら……!



 ――どうしよう……? 先輩に『参ってる』のは、いつもなら私の方であるはずなのに……!



「…だから“約束”してや、桃花」

 何でだろう……耳元に響く先輩の声が、いつもよりもずっと艶っぽく聞こえて、気持ちがバタバタ落ち着かない。

「オレがそばに居ない間、その指輪、ずっと付けててくれるって……」

 そして今度は、指輪を嵌めた私の左手の薬指に、そっと優しく唇が触れる。

 余計に落ち着かなくなる気持ちと、更に大きくなる心臓のドキドキ。

 フと視線が合うと、再び唇に落ちてくるキス。

「――余裕、無いねん……」

「え……?」

「今まで全然平気やったんに……ここへきて、こんなに自分が余裕なくなるなんて、思わんかった……」

「先輩……?」

「どんなに前向きなことエラそうに言うてても……もう正直、余裕なカオして笑ってられる余裕も無いねん。ホンマは」

「…………」

 なっさけなー…と、なんだかバツの悪そうな表情で苦笑して、フイっと私から目を逸らす先輩。

 その頬が仄かに赤いなあ…って思ったのは、単に私の気のせい……では、ないと思う。



 あれ……? これって、ひょっとして、もしかして先輩、――照れてる……?



 それに気付いてしまったら、何だかミョーに先輩から目が離せなくなってしまって。――だって、照れてる先輩を見るのなんて本当に珍しいんだもん!

 つい今さっきまでのドキドキなんて、どこかに吹き飛んでってしまったくらいのイキオイで、私は唖然と先輩を見つめてしまった。

 いい加減、ポカンと口を開けたままでジロジロ見つめ過ぎてしまったか、呆れたように「あのな桃花…」と、やっぱり頬を紅くしたままで、そのまま先輩は俯く。まるで私の視線から逃れるように。

「そうマジマジと見られるのは……居心地悪いっつーか恥ずかしいっつーか……」

「だって……なんか普段と違って先輩が、先輩が……」

 ――可愛いんだもん!

 と、言ってしまいそうになったところは、かろうじてこらえておく。

 それでも、やっぱり言わんとしてたニュアンスは伝わってしまったみたいで。

 おもむろにムッとした表情になって唇を尖らせると、拗ねたようなナナメ視線で、先輩は私を見やる。――それが余計に可愛いんですけど……でも言わないでおくけど。

「どうせ……ガラでも無いことやってるって自分でも分かってるわ。あーカッコ悪……」

「カッコ悪くなんか無いよ! 先輩は、いつでもカッコイイもん!」

「取って付けてくれたお世辞を、どうもありがとうっ」

「だーかーらー違うーっっ……!」

 もう! どうして本当に、こう、どこまでも素直じゃないのかしら、このヒトってばっっ!

「私は嬉しいのに、とっても!」

 言った途端、即座に“は…?”とでも訊き返したそうな表情になって、ソッポを向いてた先輩が振り返る。

「先輩が、こうやって普段と違う風に話してくれたことが嬉しいよ? だから、それって先輩の“本当の気持ち”ってことなんだよね?」

 再び先輩が、なんだかバツの悪そうな表情を作って、私を見た。

 だから私も先輩を真っ直ぐに見つめて、それを告げた。



「普段と違う先輩がカッコよすぎて……どうしたらいいのか分からなくなるくらいドキドキしてたの……」



 言ったと同時、忘れてたハズのドキドキがまた戻ってきて。カーッと一気に顔に向かって全身の熱が集まってきたみたいになって。

 咄嗟に、先輩の視線から逃れるように、慌てて俯く。

 さっきと逆。――今度は私の方が照れてる、先輩の視線に見つめられることが耐えられなくなって。

「私も、余裕ないよ先輩……こうしてる間にも、先輩のこと好き過ぎて、どうしたらいいのか分からなくなってるんだもん……」

「――ホンマに……?」

 そして囁かれる、そんな問い掛け。

「こんなカッコ悪いオレでも……? こんな、カタチのない“約束”なんかで桃花のこと縛らずには居られんくらいに、どーしょもなく情けない男でも……? それでも桃花は、こんなオレのこと『好き』で居てくれるん……?」

「なに言ってんの。アタリマエでしょ、先輩」

 たとえ何を言われたって……私の答えは決まってる。たった一つしか無いのに。

「いま私が先輩から指輪もらって、どんなに嬉しかったか分かる? 『ずっと付けてて』って…『“約束”して』とまで言われて、それがどんなに嬉しかったか、先輩、ちゃんと、分かってる?」

「桃花……」

 俯いていて、先輩の顔を見てはいないのに。

 すぐ近くから囁かれる声だけで、こんなにもドキドキが溢れそうになる。

 ねえ、知ってる先輩……? ――私をこんなにドキドキさせてくれる人は、たった一人しか…先輩だけしか、居ないんだよ……?



「どんな“約束”でも、先輩にだったら縛られてもいい。先輩のくれる“約束”だから、欲しいんだよ……?」



 ずっと付けてるから指輪。先輩だと思って大事にするから。

 囁くように、先輩の嵌めてくれた左手の薬指の指輪へと唇を寄せ、それを告げる。

 すると、やおら俯いていた頬に温かい掌の感触がし……フと顔を上に向けると、同時にキスが降ってきた。

 優しく柔らかく……何度も繰り返し落とされる、とてもとても甘いキス。

「先輩、大好き……!」

“大好き”って何度言っても足りない、この気持ちには。

 言葉でも足りない。キスでも伝えきれない。

 私の全部を先輩に見せても、きっと全部を伝えられない。こんなにも私の中から溢れているのに。

「大好きだよ、先輩……大好きよ、――愛してる、とっても……」

「オレもや桃花。――愛してる、いちばん」

「先輩……」

「だから……いー加減そろそろ、『先輩』は卒業してくれへん……?」

「え……?」

 フと閉じていた瞳を開けると……そこにはイタズラっぽい瞳で私を見下ろす先輩の優しい笑み。

「オレも高校卒業したことやし。もう桃花の『先輩』も“卒業”やし」

「えっと、あの……」

「――もう、いー加減わかってるやろ? 俺の言いたいコト」

「…………」



『…てゆーか、いつまで桃花はオレのこと「先輩」呼ぶ気や?』



 言われて、咄嗟に中学校の卒業式の日を思い出した。――よく憶えてる。先輩がそう言ったこと。

 私は真っ赤になって俯き、そのまま絶句した。



『今日でもう中学は卒業したやろ? いい加減、「みっきー先輩」はやめて、名前で呼んでくれん?』

『………「三樹本みきもと先輩」?』

『イヤ、そんなんでなくて……だからオレには「慎之介しんのすけ」という名前が、あるんやけど……?』

『それは知ってるけど……じゃあ先輩は、苗字じゃない名前で呼ばれたいの?』

『うん…まあ、平たく言えば……そういうこと』

『んーっと…じゃあ、「慎之介先輩」……?』

『だから桃花……なんでオマエは「先輩」から離れられんねん……』

『だって…「先輩」は「先輩」だもん?』

『…………』



 思い返すだに……中学生だった自分って、なんってモノが分からなかったんだろう。

 本当に恥ずかしくなるくらいに、子供でしかなかった当時の自分。

 だって、今ならば解るもの。先輩が私にそれを告げた意図が。

 今こうやって改めて先輩が言った、その言葉の意味が。



「――し…ししし、慎之介、さんっ……?」



 顔から火が出そうなくらいに真っ赤になってるだろう顔で、なんとか勇気を振り絞って先輩を見上げて、どうにかこうにか、それを言ってみたというのに。

 なのに先輩は、言った途端、プッと吹き出してなんかしてくれちゃって。

 そのまま、堪え切れません! って風にソッポ向いて笑い出したりなんかまで、してくれちゃってっ……!!

「なんや、えっらい他人行儀に、よくもそこまで……!! ――っくくくっ……!!」

「なによもうーっ!! 元はといえば先輩が『呼べ』って言ったんじゃないのーっっ!!」

 だから、せっかく頑張って一生懸命、恥ずかしいのガマンして呼んでみたのにーっっ!! てゆーか、そもそも先輩が『慎之介』なんてゆー時代錯誤な名前してるのが悪いんだもーんっっ!! 呼び難いのよーっっ!!

「そんなブンむくれたカオしてへんで。――もうちょっと可愛く『シンちゃん♪』って呼んでみー?」

「なっ……!!? そそそ、そんなのっっ……呼べるハズないでしょうがああああああっっ!!!!!」

 ムリだから!! あの『さん』付けでも、あれほどまでに緊張したというのに……!! それスッ飛ばして、いきなり『ちゃん』付けは、どーう考えてもムリだから絶対っっ!!

「しゃーないなあ……じゃあ、百歩譲って『シンくん♪』でもええで? 可愛く呼んでくれんなら」

「却下っっ!!」

「…じゃあ何がいいねん?」

「ま、まだ『シンさん』なら言いやすい……」

「それこそ却下!」

「な、なんでーっっ……!!?」

「『シンさん』て……オレはどっかの岡っ引きか、っつーの!!」

「は……? 『オカッピキ』って何……? おかめ六匹……?」

「――もうええ……ええけど、とりあえず『さん』付けはヤメテクレ、『さん』付けだけは……もとの名前が名前なだけに、なんだかすげえ自分が昔の人間になったよーな気になる……」

「わ、わかりましたゴメンナサイ……」

 とりあえず、ワケも分からぬまま、先輩の脱力しながらの懇願に押されて謝ったものの。

 じゃあ何て呼べばいいんですかー!! と、今度はグルグル考え始めた私のアタマ。

「てか、オレ以前マエに言ったやんか、ちゃんと。桃花の中学の卒業式の日に」

「え……?」

 グルグル考え始めた横から、ふいにそんな言葉を挟まれて。

 ゴチャッとしたアタマの中で、フラッシュバックしてくる二年前の卒業式の日の光景。

 ――私、あの時なにを言われてたっけ……?

「憶えてへんの? ――言ったやろ? まだオコチャマやった桃花チャンに。『オレのこと当たり前のように「慎之介」って呼べるようになったら、晴れて』ってさ」

「ああ……そういえば、そんなこと言われたような気が……?」

「せやろー?」

 思い出した――と同時に、ニパッとした先輩の満面の笑みを目の当たりにして。

 なんかイヤーな引っかかりが、脳裏を過ぎる。

「ほらほら、せやから可愛く『慎之介』って呼んでみ呼んでみ?」

「それムリだから!! いきなり呼び捨てなんてムリです!! 絶対にムリ!! 却下!!」

「またまたー、んなことないやろー」

 そう言った微笑みのままで……そのままアッサリと、そして先輩はとんでもない爆弾を、いきなり落っことしてくれました。――ええ、もう、本当にストレートに直撃でございましたわよ全く。



「順序は逆んなったけど、もう桃花、とっくにオレににされてるやん? せやから、言って言えへんことは無いでー?」



 しばし絶句。――のち、言われた言葉の意味を何度も何度も脳内で反芻してから。

 ありえないくらい真っ赤になって即座に私が絶叫し喚きまくったことは……モチロン、言うまでもなかったのでアル―――。




          *




「…じゃあ先輩、気をつけてね」

「まーた『先輩』言ったでー? ――ホンマ、桃花はヒトのこと『先輩』呼ぶクセ、抜けへんよなあ……」

「だって…まだ慣れないんだもん。先輩の名前」

「いーかげん長い付き合いなんやから、早よ慣れてや?」

「わ、わかってるもんっ! えーっと、――し…っ」

「はい、よくできました」



 ようやく桜の蕾も膨らみ始めた、よく晴れた三月の末日―――。

『ご褒美』のキス一つだけを残して……先輩は笑顔で、私が今いるこの地元から東京へと旅立っていった。



 私の隣にポッカリ空いた、大きな隙間。

 …でも、もう怖くない。

 たとえ私のそばに先輩という存在が無いことに慣れ、そして時間が、それを“アタリマエ”のように埋めてしまったとしても。

 先輩の“想い”が、ちゃんと私の傍に居てくれてるから。――それが解ってるから。

 だからもう、居ない先輩の面影を無理矢理に探そうとして苦しい想いをしたりなんてしない。

 私は、ちゃんとここに居てくれる先輩の“気持ち”だけ信じていくんだ、って……そう決めたんだもの。

 そうしてもいいんだよ、って“あかし”が、今ここに在るから。

 先輩のくれた指輪。これが私の左手の薬指に輝いて在る間は、きっと一人でも頑張れるから。――頑張るんだから。



『次に会う時は花見やな』って、そう先輩が言ってくれたから。

 この先ずっと永遠に会えないワケじゃないんだから。

 …そう、会えない時間なんて、ほんの少し。

 ほんの少し経てば、また先輩の笑顔に会える。

 だから、もう少し。

 そう思えば、去っていく電車だって、ここから笑顔で見送ることだって出来るんだから。



 私は、ここで、生きていくんだから―――。





【終】

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Anniversary @mum

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