Anniversary 2nd Season -bittersweet-

『天の川の距離』




「さぁさーのーはー、さーらっさらーっ♪」

 なーんて軽く口ずさみながら、私は笹の葉っぱの根本を摘まんで、そこに短冊たんざくを縛り付ける。

「まーきーばーにーゆーれーるー♪」

「――“牧場”に揺れてどないすんねん」

 口ずさんだ途端、ベチリと後ろから、てっぺん頭にチョップが振り下ろされた。

 驚いて振り返ると、いつの間に背後に立っていたのか、みっきー先輩のニヤニヤ笑い。

「それを言うなら“軒端のきば”やろ? の、き、ば!」

 チョップかまされた頭を抑えながら、「ふみー…!」と世にもナサケナイ表情で上目遣いに先輩を見上げた私は。

 世にもナサケナイ声で続けて「せんぱい…」と呼びかけながら。

 …ついでに訊く。

「“のきば”って何? どおゆう意味?」

「――桃花ももか……オマエ、もっぺん幼稚園から出直してきー?」



 もうすぐ七月七日。――つまり〈七夕たなばた〉の日。

 当然、我が天文部でも、名付けて『七夕観測会』が催されることになった。

 笹飾りは、そのためのオプション。…って、観測会に笹飾りは、どーう考えてもっ! 必要ではないんだけど!

 まあ…そこは気分よね! 気分!

 私たちの二コ上の、ヒトクセもフタクセも…どころではないくらい大量にクセのあった先輩方が卒業していった今もなお、その気風だけは、いまだ根深く天文部に浸透し続けているらしい。…それもどうなのよねえ?

 ともあれ今年も、今や天文部部長のみっきー先輩が、笹の一枝をどこからともなく調達してきて――とはいえ、去年は確か吉原よしはら部長が『ウチに生えてた』って持ってきてくれてたから、今年は妹の由良ゆら先輩に頼んで、おウチから切ってきてもらったんじゃないかなーと思うんだけど、それを部室の窓辺に飾り、やってきた部員がやって来た順に、それぞれ短冊を書いて飾っている真っ最中。



「なによ先輩、『幼稚園から出直し』って、ヒドーイ……!!」

 それが可愛いカノジョに言う言葉ぁ!? とウラミがましい視線をジトッと向けて脹れてみせるも、「したら“軒端”って漢字で書けたら前言撤回しちゃるわ」と、事も無げにシラッと即座に返される。――くうっ、書けるかそんなもーん!!

「そんなワケわかんない漢字、幼稚園生だって書けるハズないでしょうっ!?」

「…でも“のきば”って言葉くらい、確実に幼稚園児でも知ってるけどな」

 そこで横から余計な口を挟みやがってくださったのは、――言わずもがな、私の天敵ッッ!!

「テメエ、この間の中間試験で、よりにもよって俺様の担当してる教科で、ワザワザ歴代最低点をハジき出してくれやがってからに……それもこれも、てっきり俺に対するイヤガラセかとばかり思っていたが……」

 振り向くと、斜め前からインケン極まりない冷たく白い視線を横目で私の方にくれながら、そんなことを低く呟いてくれやがってたのは。

 天文部顧問、地学担当教諭の碓氷うすい恭平きょうへい。昨年から引き続き、ウチのクラスの副担任。…それこそ、私に対するイヤガラセかしら。

 しかもヤツは続けてアッサリきっぱり、言い切ってまで、くださりやがりましたのである。

「でも違ったな。――ただ単にバカなだけか」

「ぬぁーんですってえっっ!? 仮にも可愛い教え子に対して『バカ』とか言う!? この最低教師ッッ!!」

「『仮にも可愛い教え子』ってーからには、間違ってもトリプルスコアでクラス平均を下回ってくれたりなんてされたら、とっても困るんですけどねー? 解ってるんですかー、そこの地学二十点だった小泉こいずみサン?」

「うぎゃー!! サラッとバラすな生徒のプライバシーをーっっ!!」

「ついでに言うと、その時のクラス平均は六十五点だった、ってーことも、解ってるかー?」

「うっさい、この万年インケン中年教師ッッ!! そもそもアンタの教え方が悪いんでしょーが!!」

「ざけんなテメエ!! 毎回毎回ヒトが一生懸命授業してやってるってー端で講義も聞かんとヨダレ垂らしてグースカ寝こけてるだけのヤツが、どのツラさげて、それを言うかッッ!!」

「うっ、そそそそれはっっ……!! ――絶対バレてないと思ってたのに……!!」

「あんだけ堂々と授業放棄しやがって、バレてねえハズがないだろうが!!」

「だってーっ!! てゆーか、そもそも地学の授業がお昼ゴハンの後にあるってコトが悪いのよっっ!!」

「あーそーかよ……これは期末が楽しみだなーコンチクショウっ……!! てか、まーた最低点ハジき出しては俺様に追試とか再試とか夏期補習やらの手間なんぞ一つでもかけさせやがったら、タダじゃおかねえっっ……!!」

「ぶにゃああああっっ!! いちゃいー、ギブギブギブーッッ……!!」

 結局、スバラシイくらいの引き攣り笑顔でもってコメカミ両方から拳でぐりぐり挟まれる、なんていう実力行使に踏み切られてしまったら……かよわい一介の女子生徒である私に、もう勝ち目なんて無いじゃないっ……!

「まあまあ、先生。桃花の成績がアレなのは今に始まったことじゃないんだし、どこかで諦めつけないと……」

 そこでミカコがニコニコ苦笑しつつ止めに入ってくれたから、何とか“コメカミぐりぐり攻撃”からは逃れることが出来たけど。

 冷静ーに、考えてみると。――それ全然フォローになってないですからミカコさん……。

 ヒドイ、みんなしてっ!! と、その場で泣き崩れそうになった私に、「ハイ先輩」と横から差し出される一枚の短冊。―― 一年生のかなめちゃん。

「元気だしてください、桃花先輩! いいじゃないですか、ちょっとくらい成績が悪くたって気にすることないですよ!」

「要ちゃん……!!」

 アナタってば何て良い後輩なのかしら…!! と感極まって、差し出された短冊ごと、その手を握り締めようとした途端。

成績なら、もう後は“神頼み”です先輩! 張り切って短冊、書きましょうっっ!」

 そう、ニコニコっと全く屈託の無いステキ笑顔で励まされ。

 そのままの中途半端姿勢で、ハタと硬直する私。

「…あーあー、要がダメ押しー」

 そこで背後から聞こえてきた早乙女さおとめくんのタメ息まじりの呆れ声にも……怒りのツッコミを入れる気力すら、あまりの言われっぷりに精魂尽き果てた私には、もはや、全く残されていなかったのでアル―――。




          *




 二年生に進級してから、もう早々と三ヶ月が過ぎた。

 それでも、私は相変わらず。

 卒業した二コ上の先輩方を除いた相変わらずのメンバーに、今年入学してきた新しいメンバーも加わって、みんなでワイワイ楽しい毎日を送っている。



 相変わらずの仲間と、――相変わらずの、みっきー先輩。



 でも、去年に比べて少しだけ…ほんの少しだけかもしれないけど。

 なんとなく変わってきた、私と、先輩の、“関係”。

 私が先輩のことを“だいすき”なだけでなく……ちゃんと私も先輩に“愛されてる”っていう、実感。

 それが今は、ちゃんと、あるから。



“しあわせ”だと……でも、それを感じるたびに怖くなる時がある。

 本当に、ごくたまに、なんだけど。



 もし先輩と離れ離れになってしまったら、どうしよう、って―――。




          *




「――なにをヘコたれてるんや、桃花?」

 ふいに先輩が私の顔を覗き込むようにして、それを訊いた。

「ずっと黙りこくって……いつもの元気が無いやんか」

「だって……」

「なんや、さっきセンセに『地学二十点』ってバラされたことか? 別にあんなん、いつものことやろ?」

「…………」

『いつものこと』って……そうサックリ言われてしまうのも何だかフクザツな心境になるんですが……。

「なに言われたってヘコたれない桃花が、珍しいな。…どうしたん?」

 確かに……いつもなら、誰に何を言われようが、別に落ち込んだりはしないんだけど。

 だって誰が何と言おうと、私は私だから。何をどう繕っても、それは絶対に変えられないものだから。

 我ながら逞しいと思うわよ、そこらへんの前向き思考については。

 それでもやっぱり……に言われてしまったら、どうしたって真剣に考えざるを得なくなる。



「――ねえ先輩? 私も、もうちょっとくらいは勉強した方が、いいかなあ……?」



 ――ずざざざざっっ……!!



 言ってみた途端、その場に居た全員が同時に勢い良く後ずさった。まるで窓際の笹飾りの横に座っていた私と、その前に立った先輩を、遠巻きにするかのように。

 なによ、その反応? と、私が眉をひそめたと同時、聞こえてくるヒソヒソ声の数々。



「桃花が……!! 桃花が、自分から「勉強する」とか言い出すなんてっっ……!!」

「おい、アイツなんか悪いモンでも食ったのか……?」

「どっかアタマでもぶつけたんじゃ……それで打ち所が悪くて……」

「なにはともあれ、明日の天気は大雪になりそうですね!」



「――あ、ん、た、らぁぁああああっっ……!!」

 思わずグッと握り締めたこぶしをプルプル。

 しかし、あと一歩で『なんなのよ、その言い方はー!!』と怒りが爆発するところだった直前、フと腕を押さえられた。

 見上げると、こちらを見下ろした先輩の優しい瞳。

「…どうしたんや、桃花」

 みんなとは違う口調で心配そうに、投げ掛けられる問い。

「勉強したいならオレが教えてやってもええけど……にしたって、突然そんなこと言い出すなんて、なにかあったん?」

 私は、思わず唇を噛み締めて俯いた。

「だって……」



 もうすぐ七夕だから。――先輩は、きっと“彦星”みたいに……、



「だって先輩、今年はもう“受験生”だから……」



 それを小さな声で…でもやっとの想いで、告げた途端。

 腕に掛かっていた先輩の手が、ピクリと、微かに震えたような気が、した―――。



「いつまでも私が先輩に甘えてばっかりじゃあ、受験勉強の邪魔になっちゃうし……」

 違う…違うの、本当はこんなこと言いたいんじゃなくて。

 でも何て言ったらいいのかが分からない。

 漠然とした不安。

「それに先輩が“大学生”を目指すんなら、私も一緒に目指したいし……でも、今の成績じゃ到底ムリだから……」

 ――そう…それも、あるかもしれない。

 でも違うの。それもあるけど、それだけじゃないの。



 わからないままに……ただ何となく怖くなるの―――。



 ふいに頭に載せられた温かい手の感触に、ハッと私は我に返る。

 俯いていたままの顔を上げると、目の前には先輩の、普段と変わらない柔らかな微笑み。



「桃花。…今日はもう、帰ろう、な?」



 コクリと一つ、無言のままに頷いて。

 大人しく私は差し出された手を取って立ち上がった。



 ――立ち上がった私の髪に触れ、笹飾りの短冊たちが、しゃらりとささやかに、音を立てて……はらりと一枚、床に、落ちた。




          *




 最初は……ただただ、満ち足りた幸せを感じているだけだったの……。

 でも、いつからだろう。

“しあわせ”と感じる日々の中に、僅かな“不安”を感じるようになったのは―――。



「ホンマに……どうしたんや、桃花」

「別に、どうもしないけど……」

 生返事を返しつつ俯いて座る私の前に冷たいココアを差し出してくれながら、先輩は軽くタメ息を吐き、小さなテーブルを挟んだ向かい側に座った。

 ――先輩の部屋に来るのは、もう何度目になるだろう。

 みっきー先輩は、この四月から学校近くのアパートを借りて一人暮らしを始めていた。

 こちらに越してきた時と同様。お父さんの急な転勤で、ご家族みんな、関西の、もともと住んでいたトコロへ戻ることになったんだって。

 本当は先輩も一緒に行くことになっていたんだけど、『関東コッチの大学を受験するから』って、それなら『あと一年だし、いま転校して学校が変わってしまうなら、このまま今の高校に残ってたほうが何かと都合が良いから』って、そう主張して、一人コチラに残ることを許してもらったのだとか。

『フランクな親で助かったわー』って、話してくれながら先輩は笑ってた。

 そうやって、先輩が一人で暮らすようになってから……もう何度も訪れている、この部屋。

 初めての“しあわせ”を……感じさせてくれたのも、この部屋で。



 思えば……最初の“不安”を感じたのも、この部屋から、だったのかもしれない―――。



 先輩が、受験のために、って、一人暮らしをしてでもコチラに残ったこと。

 今年に入ってからこっち、図書館に居る先輩の姿を、よく見かけるようになったこと。

 先輩の教室の前を通りかかると、必ずと言っていいくらい、学年首席の由良先輩や梨田なしだ先輩と、頭を突き合わせるようにして机に向かっている姿を見ること。

 このあいだ張り出された、中間テストの学年上位五十名の順位表の中に、去年までは無かった、みっきー先輩の名前を見つけたこと。

 そして、つい昨日……そろそろ予備校の夏期講習に申し込みに行かないと、って……部室で武田たけだ先輩と一緒に話しているのを聞いてしまったこと―――。



「――先輩、勉強がんばってるんだね……」



 ゆかに放り投げられていた参考書と問題集の束に目をやりながら、何の気なしに、私は呟く。

「一応は受験生やからな。それなりに」

「そう、だね……」

 差し出されたココアに手を伸ばし、グラスから伝わる冷たさを、しばしてのひらに感じた。



 先輩が、勉強すればするほど……その成果を上げていくほど……“受験生”に、なっていけばいくほど……、

 ――募っていく、私の中の黒い不安。



 ずっと先輩が私のそばに居てくれると、疑いもなく信じてた。アタリマエだと思ってた。

 今も変わらずに、先輩は私の隣に居てくれるのに――私を好きでいてくれてるのに。

 それを理解わかっていてさえ……でも、どうしても気が気でなくて。

 先輩が、私を置き去りにして、どんどん遠くに離れていってしまう気がして、仕方なくて……!



 こんなに近くに居るのに……手を伸ばしても触れることさえ出来ない距離にいるみたいな感覚。



「ねえ、先輩……」



 胸の内側に“不安”を感じるようになってから……どうしても訊くことが出来なかったことがある。

 訊きたいのに、訊くのが怖くて。

 訊いてしまったが最後、漠然と心に渦巻くこの“不安”が、ハッキリとした“形”となってしまう予感がして。――それが、どうしても怖くて仕方なくて。



「なんや? とうとう桃花も一緒に勉強する気になったんか? つか、そんな碓氷サンに言われたんがコタえたん?」

 軽く俯いたまま呼んだ、そんな私の気持ちとは裏腹に明るい先輩の言葉に、ふるふると無言のまま、首を横に振って。

 すると先輩は、「ああ!」と思い出したように笑った。

「別に、桃花の勉強を見てやるくらい、全然『受験勉強の邪魔』とかにはならへんから。むしろ一緒に勉強してくれてた方が、俺にとっても復習になって、ちょうどええし」

 さきほど部室で言った私の言葉を思い出したんだろうか。――何を言ったらいいのか分からず、漠然と渦巻く“不安”に押し流されるまま出してしまった……そんな言葉を。

「つまんないこと気にせんと、いつでも言ってくれたら……」

「――違うの…」

「え……?」

 先輩の言葉を遮るように、私は再度、ふるふると首を横に振る。

 そして俯いていた顔を上げた。

 すぐ目の前には、困ったような表情で私を見つめる、先輩の端正な顔だち。

「私の言いたかったのは……訊きたかったことは、それじゃないの……」

 それを真っ直ぐに見つめて。

 意を決し、拳を握り締めて、それでもまるで呟くような小さな声で……、

「ねえ、先輩……」

 ――私は訊く。



「先輩の志望大学って、ドコ……?」



 私が、どうしても訊くことが出来なかったこと。

 漠然と心に渦巻くこの“不安”がハッキリとした“形”を持つことになるだろう、その“予感”に……だから躊躇って。だから怖くて訊けなくて。

 ――そうやって〈疑心暗鬼〉でいることに……私は多分、疲れてしまったのかもしれない。

 もう訊かずにはいられなかった。

 たとえ僅かでも、“不安”を抱えたままでいることに耐えられなくなった。



 願うことは一つだけ。

 私の“不安”なんて、全くの取り越し苦労で終わってくれること。――“形”を持たぬまま消えてくれること。



 言葉に出して言った途端……ハッとしたように、先輩が軽く目を瞠った。

 そのまま私から目を逸らす。まるで逃げるみたいに俯いて。

 だから分かった。――覚ってしまった。その“事実こと”を。



 ――私は……私の“予感”を自らで“現実”にしてしまったんだ。



「桃花……」

 言いにくそうな声音で、先輩が私を呼んだ。まだ目を逸らしたままで。

「悪い……いつまでも黙ってるつもりは無かったんやけど……やっぱ、言い出し辛くて……」

 先輩にしては珍しい、歯切れの悪い言葉。

 次の言葉を選んでいるかのように、何かを言いかけては、噤まれる唇。

「桃花、オレは……」



 再び名前を呼ばれた、その時から……たぶん、もう、理解わかってたと思う―――。



 ゆっくりと……先輩が顔を上げて、こちらを振り向く。

 そして改めて私を、真っ直ぐに見つめ返した。



 告げられた言葉は、低く静かな、その、ひとこと―――。



「――都内の大学に、行くつもりや」




          *




 ポケットの中、微かに小さく音を立てる。

 一枚の薄い紙切れ。

 私の髪が、落とした短冊。

 そこに書かれていた願い事は……、



 ――『みっきー先輩と、これからも、ずーーーっと一緒に、いられますように♪ 桃花』




          *




 七月七日。――七夕は、生憎の曇り空。

 織姫も彦星も、それを分かつ天の川の姿も……厚い雲に覆われて、その姿を隠されてしまっている。

 結局、本日夕刻に予定されていた天文部の『七夕観測会』は中止となった。

 観測会の会場に予定していた、今は誰も居ない屋上で。

 一人、空を見上げる。



「泣き出しそうな空の色……」



 ――私は、もう涙も出なくなったのに。



 あの日から……涙を流さない日なんて一日も無かったっていうのに。

〈七夕〉である今日に限って、一滴も出てこない。



『――都内の大学に、行くつもりや』



 先輩の言った『都内』――東京都内、ってことだよね。間違いなく。

 だって全国どこを探しても、“都”の付く都道府県は一つしか無いもの。

 その『都内の大学』に通うことになったら、きっと…たぶん確実に、先輩は、今度は大学の近くで、一人暮らしをするようになるんだろう。

 最寄の“都内”まで出ようと思えば、地元ここから電車を乗り継いで、おおよそ一時間半から二時間弱。

 でも、一口に“都内”と言っても広いから、場所によっては、それ以上の時間がかかる。

 たまに行くなら、決して遠くはない距離だけど。

 ――通うには……すごく遠い。



 東京都、なんて……たかだか近隣に在る都道府県、というだけでしかないのに。

 なのに、すごく遠い―――。



 ずっとずっと、私の傍には、いつだって先輩が居た。

 手を伸ばせば触れられるくらいの距離に、アタリマエのように先輩が居てくれた。

 求めれば、すぐに笑顔を向けてくれた。

 いつもいつも、好きな時に好きなだけ、先輩に甘えていられた。

 だから、ずっとずっと……先輩の温かさに包まれて甘えてた。



 その、とても大切なぬくもりが消えてしまったら……私は、どうしていいかわからない。



 ――でも一方で、それが当然であると、納得してる自分も居る。

 先輩が、そういう決断をするのも仕方ない、って。

 この地元近辺…県内全域を見渡したって、大学なんて、選べるほど無いもの。

 しかも、“地元”よりは遠いとはいえ、同じ“関東地方”内に“東京都”という、たくさんの選択肢が集まっている地域があるのだから。

 進学を考えている以上、そちらへと目が向くのは、とても当然のことだと思う。



 ちゃんと分かってる。――理解してる。アタマでは。

 でも……今までの距離が、近すぎたから。

 離れなくてはならなくなることを考えるだけで、すごく…すごく怖い。

 怖くてたまらなくなって……どうしようも出来なくなる。



 七月七日の逢瀬を重ねた後に、再び一年間の別れが訪れ、織姫と彦星が離れ離れになってしまうように。

 時がくれば……先輩も、まるで彦星のように、私のもとから去っていってしまう―――。



「――桃花」



 ふいに背後から声が聞こえた。

 私を呼ぶ、低く穏やかな優しい声。



 私の、だいすきなひとの、声―――。



 振り返ると、困ったような笑顔で立つ、みっきー先輩の姿。

 先輩の笑顔を目にした途端、じわっと目に涙が溢れてきた。――もう泣けないって思っていたのに。



 ――ダメ……私、こんなにもこんなにも、先輩のことが、だいすきでだいすきで仕方ない。



「もう……どうしたらいいのか、わかんないよ……!!」



 離れるのはイヤ。離れたくない。――でも、離れなくてはならない。

 まるで身体を半分に引き裂かれるみたいな痛み。

 先輩のためには、どうすることが一番良いことなのか……そんなの、分かりきっているのに。

 でも、感情が納得してくれない。

 いつだって全身全霊で、こんなにも私は先輩を求めてるから。



「置いていかないで……! 私一人だけ置いて、東京なんて行っちゃわないで……! ――私の傍から、いなくなっちゃわないで……!!」



 無意識に足が動き、まるで縋り付くようにして先輩の胸の中に飛び込んだ。

 涙と共に……抑えていた言葉が堰を切ったように噴き出してくる。



「離れたくない…今までみたいに、ずっとずっと、傍にいて欲しいの……! 先輩が傍にいなくなったら、私、どうしていいかわかんないよぉっ……!!」



 そのまま……子供みたいに声を上げて泣いた。わんわん泣いた。泣きじゃくった。

 先輩は、そんな私を、ただ抱きしめてくれていた。

 私が泣きやむまでずっと。何も言わずに。



 ――頭を撫でてくれる優しい手だけが……何も言わない先輩の、ただ一つの“言葉”だった。




          *




「…ねえ先輩、星が見えるよ」



 あんなに曇ってたのに…と、思わず私は狭いベッドの上から身を乗り出し、手を伸ばして窓のガラスに触れた。

「ああ…そういや、夜になったら晴れるって、天気予報が言ってたな」

 言いながら隣で先輩が身体を起こした気配がし、ふわりと、背中からはだけたブランケットを被せられる。

 そのまま抱きすくめられ、全身が温かなぬくもりに包まれた。



 もう何度も訪れている、先輩の暮らす部屋。

 初めての“しあわせ”と…そして“不安”を、感じさせてくれた場所。



 ――そして、ついこの間……私が逃げ出してしまった部屋。



 先輩の話もロクに聞かず、ただただショックで、その場に居ることにも耐えられなくなって……だから逃げた。耳を塞いだ。

 そして一人になって泣いた。

 それから今日まで、先輩の顔がまともに見られなかった。

 いつも一人でコッソリ泣いてた。

 泣きたくなくても……一人になると、知らず知らずのうちに涙が出てきて。止められなくて。



 泣くことが苦しくて仕方なかった。

 流れる涙は、苦くて…そしてどこまでも冷たく感じられた。



 ――でも……それも今日でお終いにしよう。



「良かった……織姫と彦星、一年に一度きりのデート、ちゃんと、できたんだ、ね……きらきら光る、お星様の流れる、川の上で……カササギの架けてくれた、橋を、渡って……」



 返事の代わりに、降ってくる優しいキス。



 天の川に架かるかささぎの橋を渡って、一年に一度の逢瀬を重ねたのち……再び二人に別れが訪れ、織姫のもとから彦星が去っていってしまうように。

 時がくれば先輩も、まるで彦星のように、私のもとから去っていく―――。



「――私は一年も待つの、ヤだからね……!!」



 唇が離れてから、先輩の顔を、ちゃんと正面から見つめて。

 今にも泣きそうな表情に頑張って笑みを浮かべると、それを告げた。

「一年も待たせないで。すぐに会いに来て。離れてても、いっぱいいっぱい、『好き』って言って。――約束、して……」

「…約束、するよ」

 恐る恐る差し出した小指に、先輩の温かい小指が絡められる。

「俺はずっと桃花が好きや。離れてても、それは変わらへん。一年もオマエと会えないなんて……そんなん、オレの方が耐えられんわ」

「先輩……」

 そして先輩の指が私の髪をかき上げ、その指が、そのまま頬をゆっくりと滑り落ちた。まるで涙の跡をなぞるようにして。



「だから桃花も約束な。――オレのこと信じて……泣かんと待っとき」



 ―― 一人で泣くのは……今日で、お終い。



「…うん、待ってる」



 頷いた拍子にこぼれ落ちてしまった涙は、なんだか不思議に、温かく感じた。

 頬を伝ったその温かい雫を、先輩の唇が優しく受け止めて。

 そして次には、それ以上に温かい熱を、私の唇が受け止めていた。



 ――この甘い“しあわせ”が、少しでも長く続いてくれますように。



 窓ガラスの向こうに広がった夜空を、祈りを込めて私は見上げる。

 どうかお願い、天の川。――金銀砂子すなごのお星様たち。

 織姫と彦星を引き離したように、私と先輩との距離までも、引き離したりなんてしないでね。



 少しでも長く……この温かくて力強い腕の中に、包まれていたいから―――。




          *




 翌朝、まだ部室に飾られていた笹飾りの一葉に。

 私は改めて短冊を結び付けた。



『私と先輩にカササギの橋をください 桃花』



 私たちを引き離す“天の川”の距離が、たとえどんなに遠くなっても。

 橋を渡って、いつでも会うことが出来ますように―――。





【終】






→→→ about next story →→→

「クリスマス、私バイトすることになっちゃった」

「その日はオレも予備校行っとくことにするし」

 …どうなる、2人のクリスマスイブ!?

 みっきー先輩視点からの番外編。

 テーマは12月「クリスマス」

『彼女がサンタになる聖夜 ~Anniversary -Happy Days!-』

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