エピローグ

典子の原点


※15年前



 サナトリウムからそっと抜け出し、その女性は一人、森の小道を歩いていた。

 たぶんもうすぐ、自分はこの世を去る。

 その予感が、彼女にはあった。

 これが最後の散策になるかもしれない。

 死ぬことは、怖くはなかった。

 ただ、日本にいる幼い一人娘の行く末だけが気がかりだった。



 森の中は、木々の、芳しい香気に満ちていた。

 こもれびが、まだら模様に、優しく降り注いでいる。


 靴底に腐葉土のふかふかした感触を楽しんでいた彼女は、立ち止まった。

 人の気配がする。


 向こうに見える白樺を背景に、黒髪の少年の姿が見えた。

 こちらに横顔を向けている。

 はっとするほど端麗な容姿をしていた。


 彼は、自分より小柄な、金髪の少年を幹に押し付けていた。

 もがくのを封じ込めるように、両脚の間に入り込み、その両手を白い幹に押し付けている。


 ……あ。

彼女は気がついた。

 ……男の子同士で?


 鋭い声で、鳥が鳴いた。


 それは、客観的には、いかにも稚拙なキスだった。

 前歯と前歯がぶつかり合う音が聞こえそうだった。

 一方的な衝動がこぼれた、刹那のキスだ。


 だが、

 ……うつくしい。

と彼女は思った。


 こもれびを受けて、黒い髪も金色の髪も、同じように光って見えた。

 その命の輝きの中で、黒髪の少年は、生きるよろこびを、懸命に相手に伝えようとしている。


 夢中で口づけるその横顔に、彼女は、激しく共感した。

 それは、彼女自身が、死に向かって歩み始めていたからかもしれなかった。



 不意に、金髪の少年が、もがき始めた。

 激しく抵抗し、力いっぱい黒髪の少年を突き飛ばす。


 赤い顔をして、黒髪の少年を睨み据える。

 目が、憤怒に燃えていた。

 彼は、大きく手を振りかざした。

 力いっぱい黒髪の少年の頬を殴ろうとした、まさにその時。


 人の右手と左手が打ち合わされる、柔らかな音が聞こえた。

 二人の少年は、はっとして振り返った。


 女性が立っていた。

 濃い緑を背景に、透き通って見えた。

 彼女はにっこり微笑んだ。


 金髪の少年は、戸惑っていた。

 振り上げた右手をどうしたらよいかわからないようだった。

 次の瞬間、彼は黒髪の少年を押しのけ、木々の間を、森の彼方へ走り去って行った。


 ……。



 「つまりそれが、お嬢様のお母様との出会いだったわけです。最初で最後の」

古海は言った。

「ファーストキスが、私の中で致命的な傷を残さなかったのは、奥様のおかげなのです」

「古海さんの言う、若干の恩義、なわけですね」

直緒は言った。


 典子の母親からの受けた恩義ゆえ、家令になれという一乗寺社長の言葉に逆らえなかったのだと、以前、古海は言っていた。


 「それで、その相手とは?」

「気になります?」

「ええ、ひどく」

「やっと妬いてくれましたね、直緒さん。嬉しいです」

「別にこれは、焼きもちなどでは、」

「念願の、『好きです・ハートマーク』も、ついに言ってもらったし」

「い、いつ、そんなことを!」

「立ち聞き」


古海は笑った。


「おじい様との会話。聞こえちゃってました」

「古海さんっ! 典子さんにはあんなに立ち聞きを禁止してるくせにっ!」

「お嬢様のなさることは、時に非常に参考になります。特に、腐っていない人間にとっては」

「ずるい」

「ずるくなんてありませんよ」

「ずるいです!」


 直緒はふくれっ面をした。

 古海は余裕の笑みだ。


 直緒が折れた。

「……それで、その彼とは?」

「ふられましたよ、もちろん。それ以後、会ってももらえなかった」

ほろ苦い微笑を、古海は浮かべた。

「そういうわけで私は、相手方の準備が調うまで、キスは控えることにしたのです」


「キスはね。キスだけはね」

「なんです、直緒さん。人聞きの悪い」

「七夕の夜……」


 直緒が言いかけると、古海は辺りを見回した。

 人がいないのを確かめると、直緒の上に屈み、短く浅いキスをした。

「一度許されれば、後はいくつでも、好きなだけ」

 そう言って、もう一度、腰を屈めた。



 古海が話を再開したのは、しばらく経ってからだった。

 遠くを見るような目をして、彼は続けた。


「それからまもなく、奥様は亡くなられたそうです。その年、私はリセに入り、当地を去りました。そして、そんなことはすっかり忘れていたのです。後に一乗寺社長に会うまで」



 今、直緒と古海がいるところは、一乗寺家別邸の「開かずの間」だった。

 「開かずの間」といっても、別に鍵がかけられているわけではない。

 ただ、あまりにたくさん、本が収蔵されていた。


 それも、腐った本が。

 全て、典子の亡くなった母親の蔵書である。


 確かに、普通の人にとっては、入るのがためらわれる部屋であった。それゆえこの部屋は、ない部屋として扱われていた。


 この部屋に、子どもの頃の典子は頻繁に忍び込んでいた。初めは、かくれんぼのつもりだった。だが次第に、母親の蔵書を読むようになっていったという。

 むさぼるように。



 部屋を埋める本棚を見ながら、古海が言った。

「ここにある本は、まさにお嬢様の原点なわけです」

「大切な、懐かしいお母様の形見なんですね」

「あのお嬢様が。本当に大切なものは、決して人と分け合おうとなさらないお嬢様が。よくぞ御決意なさったものです」


 サクラバラ地区への図書館設営に鑑み、典子はこの部屋の本を全て、図書館の蔵書にしようと決心した。


 「古い本ですね」

直緒はつぶやいた。

「図書館の収蔵本にして、ちゃんと管理した方がいいって、僕も言いました。本の為にも」


「腐女子のみなさんに愛される図書館になりますよう、心から祈っております」

低い、だがしっかりした声で、古海は言った。

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