一乗寺家の秘密



 「だからぁ、無理ですって。だめ。できるわけないでしょ……」

声が聞こえる。

「だめだめ、そんなこと。妻がなんと言うか……」


直緒と古海が、モーリスのブースへ行くと、ピンクのワイシャツ姿の村岡がパソコンと話していた。


 「おはようございます、村岡さん」

直緒が言うと、村岡は顔を上げた。

 大変なしかめっ面だ。

 「おはよう、本谷君」

それから、古海の姿に気づいた。

「あれ、古海。君も一緒か。早かったな」


「ええ、三日早い便が取れたものですから」


「三日? 随分予定を早めたじゃないか。昨日着いたんだな。フランクフルトでは、うちへ泊るんじゃなかったのか? お前と会うのを、可南子が楽しみにしてたぞ」


「それが、到着が夜中でしたもので」

 しれっと古海が言ってのけた。


 嘘だ。

 古海は昨日の夕方には、フランクフルトの古い石畳の上にいた。

 街の上には二重の虹が架かり……。

 村岡が眉を寄せる。


「どこへ泊った? ブックフェアをやってるから、ホテルはどこも満室だったろ?」

直緒が全身を硬直させた。

「直緒さんの部屋に泊めてもらいました。ね、直緒さん」

嬉しそうに古海が同意を求める。


「は、は、は、はい、そうです……」

「本谷君? ああ、昨日はフェアを見学がてら直帰してもらったが……、さては君、夜の街に繰り出したな?」


「ち、」

「違いますっ! 直緒さんはそんなこと、しませんっ!」

「……なんでお前が、古海。本谷君だって若いんだ、せっかく知らない街へ来たのだから、少しはハメを外すべき……」

「この人は、そういう人ではありませんっ! それから私も、夜の繁華街をうろつくことは、もう止めました!」


「へええ、君が。いつから?」

「ゆうべから!」

きっぱりと古海は答えた。

「直緒さんには、キャンセルを期待して行ったホテルのロビーで、偶然、お会いしたんです。知り合いだからとホテル側に交渉して……」


 真実は、ホテルに交渉したところだけだ。

 実際のところ、昨日の夕方、古海が直緒に会ったのは、村岡を訪ねる途中だった。

 直緒の泊まっているホテルも、満室だった。追加のベッドは用意できない、今部屋にあるセミダブルを二人で利用することになるが、それでも良いかと問うフロントマンに、古海は、親指を立てて了承した。

 もっとも直緒はドイツがさっぱりわからなかったから、この会話の内容を知ったのは、部屋に入ってからのことだった。


 「ま、泊るところがあってよかった。ブックフェア開催中に来るなんて無謀の極みだからな。ホテルのロビーで本谷君に会えて、良かったな」

古海の嘘を、村岡は、少しも疑っていないらしかった。


 頬を紅潮させ、身をこわばらせていた直緒が、詰めていた息を吐き出した。



 「ちょっと、話の途中で、村岡さん、……あっ、直緒さんだ! 直緒さん!」

パソコンから声がした。

 スカイプだ。

 髪を振り乱して、典子が叫んだ。

「いったいどうしちゃったの? 心配してたのよ。妙なオタケビが聞こえたかと思ったら、さっぱり連絡が取れなくなっちゃったから。メール出しても返事が来ないし」


直緒のスマホは、激怒したクララによって、粉砕されたのだ。


「……まさか、あの赤毛の男の人に襲われちゃったとか?」

典子の鼻息が荒くなる。

「……ねえ! 胸毛はどうだった? 詳しくレポートしてもらわないとっ!」



「誰が直緒さんを襲ったですってぇ!?」

古海が村岡を押しのけた。

「胸毛? 胸毛って、なんですっ!」


「げえ、古海! なぜそこにっ!」

海の向こうで、典子がのけぞっている。

「ウサギ小屋の押し売りはっ! 本年度最大のビジネスチャンスなんじゃなかったの!?」

「私が講師を務めました、狭小住宅講座は終了致しました。それよりお嬢様、誰が直緒さんを襲、襲っ……」



「古海さん、何もありませんでしたから」

直緒が古海の袖を引くと、村岡も頷いた。

「ジェイはノンケだ。恋人のクララも一緒だった。何かあるわけない」


 ようやく安心したように、古海は身を引いた。


 村岡に、ジェフのズボンの中の懐中電灯の話をしなくて本当によかったと、直緒は思った。

 ここで村岡がそれを古海に告げたら、修羅場になるところだった。



 古海は画面に向き直った。

「ここにいる理由ですか? お嬢様は御存じないようだから言っておきますが、フランクフルトは金融の街です。私は、一乗寺財閥の資産を増やす為に、ここに来ているのでございますよ」

「ああ?」

「ギリシアの債務危機により、ユーロ加盟国において、実はドイツは、一人勝ち状態なのです。なにしろ、輸出国でございますからね。私は、一乗寺家のユーロ資産を増やすべきかどうかを、懇意にしておりますフランクフルトの銀行家と協議する為に……」


「また、ムズカシイ話をっ!」

典子が頭を掻き毟った。

「じゃ、ドイツでゆっくりしてなさいっ!」


「あなたの小金も、若干、増やしてさしあげました」

「そ、それはありがとう」

「いえ、こちらには負い目がございますからね」

「負い目? なんの?」

「ですから、立て籠もり事件の時……」

「あなたも来れば、奈良橋先生のサイン本を、もう一冊多くゲットできたものねっ! まったく気の利かない家令だわ」

「……」

「でも、その件は許してあげます。なにしろ奈良橋先生は、モーリスの著者になられたのだから。これで、サインも、もらい放題! ま、わたしの素晴らしい働きがあったからこそ、なんだけどね!」


 ふと、典子は、言葉を途切らせた。

 しげしげと古海を見る。


「ねえ、古海。あなたにお願いがあるんだけど」

「おや、珍しい。お嬢様が私に頼みごととは」

「仕事よ。でも、趣味と実益を兼ねた、楽しいお仕事であることは保証するわ」

「ほう。どのような?」



「古海、気をつけろ!」

傍らで村岡が小声で警告を発する。

「俺が断ったから、今度は君に……」


 画面の典子が口を開いた。

「あなた、受けの友達、いるでしょ?」

「は?」

「ただの受けじゃだめなの。胸毛の生えた受けでないと。いるでしょ?」

「胸毛が生えているかどうか? そこまでは知りません」


「あのね、芹香先生がおっしゃったの。胸毛が生えているのは攻めだけだと決めつけるのは、よくないんじゃないかって」

「お嬢様、……」

「でも、あのジェイ君は、どうしたって攻めのイメージよ。受けのモデルにはならないわ! そういう風に、わたしと先生の間で見解が一致したの!」


「……、いったいなんの話をしていらっしゃるのですか」

「だから、古海。あなたの友達の受け君の中でね、胸毛の生えてる人を探して、レポートしてほしいの。もちろん、恋人でもいいわよ。胸毛が生えてたらね」

「そんな人はおりません!」


 憤然と古海は答えた。

 そのあまりの剣幕に、典子は鼻白んだようだった。


「ふうん。あなたの恋人には胸毛はないわけね。いいわよ、そういうことなら。とりあえず芹香先生は、『胸毛攻め×つるつる受け』で一本書いて下さるから。その間に、そっちで取材してほしいのよ」

「ですが、当地での私の任務は、終了しましたが」

「なら、特別休暇をあげる。いくらでも時間をかけていいから、とにかく、ドイツにいてもらって……」



 「駄目です。古海さんは、僕と一緒に、日本に帰るんです」

古海の脇から、ひょいと直緒が顔を出した。


「まっ、直緒さん!」

典子が叫んだ。

「そりゃ、直緒さんには今すぐにでも帰ってきて欲しいけど。でも古海には、胸毛受けのレポートを頼みたいのっ! きっと探すのに時間がかかるから、その間に……」


「私も、直緒さんと一緒に帰るつもりですが」

古海が言う。

「これ以上お嬢様を野放しにしておくのは、いささか心配です」


「駄目、ダメダメダメ! ドイツでもオーストリアでも、あなたはゆっくりしてらっしゃい。なんなら、そっちに永住してもいいのよ?」

「いやです。私は、直緒さんと一緒に帰りますから」

「だめっ! 許しませんっ!」



 「そこに、もなみさんはいますか?」

 直緒が割って入った。


 慌てたように、耳元で古海が囁く。

「ちょっと直緒さん、もなみさんって……。あなたまさか、私の留守中に、彼女に食われちゃったんじゃ……」

「んなわけ、ないでしょ」



 「……本谷さん」

げっそりとやつれたメイドが現れた。

 その顔が、直緒の隣に古海の姿を見つけた途端、ぱっと輝いた。

「ああ、やっぱり、本谷さんだ。私、信じてました。きっと、古海さんを連れて帰ってきてくれるって!」

ディスプレイにかじりつくようにして、もなみが叫んだ。

「古海さん! 早く帰って来ないと、こっちは、大変なことになってますよ……」


直緒と古海は、顔を見合わせた。


 もなみが鼻を啜りあげる。

「古海さん、早く帰って来て下さいよう。お嬢様の面倒なんて、私一人じゃ、到底、見きれません……」


「肝心のお嬢様が、私の帰国を拒絶なさっておられるのですが」

いつもの皮肉な声で、古海が言った。


 「お嬢様っ!」

激しい叱責の声が聞こえた。

「古海さんが帰って来なかったら、私、仕事辞めますからっ! 良太は子ども嫌いだから、とりあえずの男見つけて、立て続けにアカンボを5人、産んでやるんだからっ!」

「あら、赤ちゃんたちと一緒に、ここに住んでいいのよ?」

「そしたら、お嬢様のお世話なんか、とてもじゃないけど、できなくなるんですからねっ!」

「だめっ! それはだめ! あなたは、私の、たった一人の女性の腐友だもん」



 「……男の腐友がいるのか?」

村岡が聞きとがめた。

「まさかそれ……」


 村岡と、古海の視線まで浴びて、直緒はおもわずあとじさった。

 ぶるぶると首を横に振る。



 モナミが金切り声をあげた。

「私はお嬢様の腐った友達なんかじゃありませんっ!」


 落ち着き払って典子が言う。

「だって一緒に書店に行くじゃない」

「一緒? 違います、私はいつも、お嬢様をお迎えに行くんです。美容院や採寸を逃げ出したお嬢様を迎えに! 行きたくもない、あの、オタク系の魔窟へ!」

「夜だって、来てくれるじゃない」

「仕事ですから! 勤務時間内ですから!」

「あら、そお? あんな楽しい所へ仕事でくるなんて、モナちゃん、幸せね」

「うーうーうーっ!」

「なにうなってるの?」


「……とにかく、ですね。子どもが5人ですよ? もう二度と、書店にお迎えに上がることはできませんね」

「ええーーーっ、それは困るぅーーーっ。買い過ぎた本を持ってもらえないーーーっ」

「何をいまさら。私が来るのを見越して、山のように買いあさってるくせに。腐った本を」


「モナちゃんは、これからも、わたしと一緒に、本屋さんに行くの。ついでにコミケや6月のお庭にもっ!」

「だったら、古海さんを呼び戻して下さい! さもないと、今日中に男ひっかけて……」

「わかったわよ。呼び戻せばいいんでしょ、呼び戻せば」


 青ざめた典子の顔が大写しになった。


 礼儀にのっとって、3人の男たちは何も言わなかったが、堂々のジャージ姿である。髪はスズメの巣、寝不足なのか、顔は腫れ上がっている。


 その状態で、彼女は言った。

「古海。帰国を命じます。直緒さんと一緒に、明日の便で帰ってらっしゃい」



**



 「そうか。本谷君か。無理ないね。全く、無理ない」

直緒と古海を見比べ、村岡は大きく頷いた。

「そりゃ、お嬢様より本谷君を取るわ。普通の男なら」


「村岡さん、それは、典子さんにあんまりじゃ……」


「いいや。だって、考えてもごらんよ。容姿ひとつとったって、君の方が、断然、美しい。性格も穏やかで優しいし、誠実な人柄だ。一方、典子お嬢様ときたら、狷介けんかい狡猾こうかつ傲岸ごうがん不遜ふそん無知むち蒙昧もうまい……」


「そんなことありません!」

直緒と古海は同時に叫んだ。

「確かに、お嬢様は、腐ったヒモノであられますが、」

「この上もなくピュアな人です!」


「なんだい君たち、揃って。確かに、お嬢様がいなければ、君らが出会うことはなかったろうが……」

 村岡は言った。

「まあ、座りたまえ。まだ時間は早い。古海、本谷君には話したのか? 一乗寺家の秘密を?」




 昔、明治の初めごろと言われているが、一乗寺家に、一人の娘がいた。

 あまりかわいらしい子ではなかった。

 だが、そこまで不美人ではなかったのだ。


 それなのに、分家筋の陰謀で、たいそうな醜女(しこめ)であるという評判を立てられてしまった。

 かわいそうに娘は婚期を逸し、それを苦に、自殺してしまった。


 悲しんだ親たちは、以後、本家の娘が年頃になると、常に、傍らに若い男をはべらせることにした。

 娘が人前に出た時に、恥をかかないようにという親心だ。


 彼の任務は、令嬢を称え、その美貌が人口に膾炙するように、粉骨ふんこつ砕身さいしん、努力すること。


 女学校への送り迎え。

 ミルクホールでの話し相手。

 鹿鳴館でダンスの申し込みがなかったら、すかさず、パートナーとして踊る。

 ……。



 「そういうわけで、あの日、一乗寺家のパーティーの折、私は、正装して、お嬢様のお側に侍っていたのです。もし万が一、ダンスを申し込む者がいなかったら、お嬢様は、大層恥ずかしい思いをなさるだろうから……と、一乗寺社長が思われたから」


 処置なし、とでもいう風に、古海は肩を竦めた。

 打って変って、目を細めた。

 うっとりと。

 甘美な思い出を噛みしめるように。


「そうしたら、なんとまあ。あの日に限って、お嬢様は、とても素敵な令嬢におなり遊ばして。緑のタイトなドレスの似合う、それはそれは美しい令嬢に。幸せでした。私の、ダンスの申し込みを受けて貰えて」


 「何の話だ?」

村岡が尋ねた。

「いえ、ちょっと昔の話を。ね、直緒さん」




 そして、一乗寺家家令、最大の任務は……。


 もし万が一、令嬢が婚期を逸するようなことがあったら……、

 ……彼女を貰い受けること。

 つまり、一乗寺家に入り婿に入るということである。


 一度家令となり、その使命を放棄した者には、過酷な報復が待ち受けていた。

 一乗寺家の財力を傾けての、報復である。

 内実は、明らかにされていない。


 この風習は、代々受け継がれてきた。

 戦争中の、若い男の少ない時代でも脈々と続けられてきたのだから、大したものだ。

 どれだけ一乗寺家に力があるか、わかろうというものだ。


 それが、逆玉の輿として羨望の的であった時代もあった。

 だが、個人のアイデンティティーが確立された現代、「人身御供」を見つけることは難しくなっていることもまた、否めない。

 有能であればあるほど、結婚や、ましてや玉の輿など、興味のない男性が多いからだ。




 「だから古海を見つけた時、一乗寺社長は、躍り上がって喜んだ。これで、典子の将来は安泰だと」


「女性には興味がないと、はっきり申し上げたのですが」

苦々しげに古海は言った。

「それなら安心と、逆にわけのわからぬ説得をされ……。私、お嬢様の亡くなられたお母様には、若干の恩義がございますゆえ、どうしても断りきれず」


 「つまり、古海さんは」

直緒は言った。

「典子さんに幸せな結婚をさせる義務があるというわけなんですね」


……お嬢様には、是非、幸せなご婚儀を。

確かに以前、古海はそう言っていた。

 直緒はそれを、一乗寺家家令としての過酷な使命だと思ったのだが、別の意味で、より差し迫った事情があったのだ。


 「そして、典子さんが結婚できなかった場合……、古海さんが、彼女と結婚しなければならない、と」


「私は、典子お嬢様の叔母上、一乗寺社長の妹さんの、家令だったのだよ」

ぼそりと村岡は言った。

「だが、妻と出会って、私は……逃げた。本来なら、苛烈な報復が待ち受けていた筈だ。そんな私たちを救ってくれたのが、典子お嬢様だったんだ。あの方が、社長に口添えして下さって、私達は、フランクフルトここに落ち着くことを許された」


だから、典子が出版社を立ち上げたと知ると、収益を無視しても、その為に働いてきたのだ、と付け加えた。



 「それは、正しい判断だと思います。村岡さんが、一乗寺社長の妹さん……お嬢様の叔母様……ではなく、現在の奥さまを選ばれたのは」

古海が言った。

「なにしろ、あの方ときたら、腐敗以外の全てにおいて、典子お嬢様を上回る……」


 耳障りな音がした。

 スカイプの着信音だ。


 「……お嬢様だ」

不安そうに村岡がつぶやく。

「腐女子でヒモノの、典子お嬢様からだ」


「うちのお嬢様には、恩があるんでしょ? 早く出て差し上げて下さい」

古海がせかす。


「しかし……」

「後が怖いですよ、無視すると」

しぶしぶと村岡は席を立ち、パソコンの置いてある奥へと引っ込んだ。

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