二重の虹



 「女の敵だからな、君は」

翌日、その話をすると、村岡は笑った。


「その言葉、何度か言われた気がします。……女性から」

「そうだろう、そうだろう。俺も君を妻に会せたくはないもの」

「な、なぜっ!」

「彼女を不安にさせたくないから」

「どういうことですかっ!」

「ま、俺は、妻一筋だけどね」

「男ですよ、僕は」

「ああ。だが、非常にきれいだ。そういう意味でも、妻に会わせたくないな」

「……ひどい」

「もっとも、妻も、俺しか目に入らないけどね」

「……」


 さすがに、ジェフが押し付けてきたの話まではできなかった。


 でれでれと、村岡は、妻ののろけを話し続けた。


 ジェフとクララがやってきた。

 二人とも、けろりとしている。

 ジェフはクララの肩に、腕を回していた。


「ハーイ、ナオ」

ジェフが言うと、クララもにこりとして手を上げた。

 直緒への理不尽な怒りは、完璧ではないまでも、だいぶ解けたようだ。


 村岡には妻が。

 ジェフにはクララが。

 直緒は、異国でひとりぼっちが身に沁みた。




 ブックフェスタの4日目と5日目は、一般の客が入る日だ。

 すでに日本コーナーでは、さまざまなキャラクターに扮した人々が、楽しげにそぞろ歩いている。


 まさに本のお祭りだ。


 そうした中で、ネコミミとシッポをつけた直緒は、非常な人気があった。

 もう、茶菓を出しているゆとりなどない。


 入り口付近に引っ張り出され、何度も写真を撮られた。

 例のポスターと並んだアングルが、特に人気だった。


 ……これで、翻訳本が出た暁には、売り上げに貢献できる。

 そう思って、直緒は嬉しかった。



 「せっかくブックフェアに来たのに、ここに張り付いてるだけじゃ、つまらないだろ?」

少し客足の切れた時に、村岡が言った。


 薄いブルーのワイシャツの上で、ネクタイが捩れていた。

 今まで、ネクタイを直す時間もなかったのだろう。


 村岡はにっこりと微笑んだ。

「4冊とも、いろんな言語圏で版権の買い手がついた。帰国後に返事をくれるところも含めて、かなり好調な売れ行きだ。明日は最終日だし、午後は、あちこち、ブースも見て回るといいよ」

「でも、忙しいのでは?」

「だいじょうぶ。今日はジェフと一緒にクララも手伝ってくれるし」


 村岡が言うと、クララが目を上げた。

 自分の名前を言われたのがわかったのか、にこりとして、手を上げる。

 直緒も微笑み返した。

 クララはすぐに目を逸らせた。


「おやおや。女心は複雑だねえ」

からかうように村岡が言った。

「無実の罪ってやつです」

ぽつんと直緒はつぶやいた。


 苦笑しつつ、村岡は続けた。

「ここは気にせず、いろんな国の本を見ておいで。せっかくドイツまで来たんだ。何も見せないまま君を日本に帰したら、俺がお嬢様に叱られるよ。なにしろフランクフルトのブックフェスは、500年の歴史があるからね」

「500年?」

「グーテンベルクが活版印刷を発明して以来、ということだよ」


すごいことだ、と直緒は思った。


「このメッセは、凄く広い。今日は戻らずに、そのままホテルに帰ってもいいよ」




 会場内は、さまざまな人種でごったがえしていた。言葉のわからない直緒は、すぐに迷子になりそうだ。


 仕掛け絵本や、意外なことに、科学関係の本が楽しかった。人体模型や天文図、美しい樹木の写真など、文字を読めなくても、なんとなく伝わるものがあるからだ。

 これらの分野が、いかに「人に伝達させる」ということに努力しているか、まざまざと見せつけられた気がした。


 モーリスの本に挿絵をいれるというのは、正しい判断だな、と、直緒は思った。

 絵入りの本は子どもっぽい、と思ったこともあったのだ。


 ……来年また、参加させてもらえるのなら、

 ……それまでに絶対、英語を勉強しておこう。

 ……英語と、できればドイツ語も。


 固く心に決めた。


 やはり、「読めない」ということが、非常に残念で悔しかったのだ。

 それでも、本好きの人々の中にいるのは、楽しいことであった。




 人混みに酔ったのか、ひどく疲れた。

 まだ時間は早いが、明日もある。

 最終日の明日は、今日以上の混雑が予想された。

 早めに休もうと、会場を出て、ホテルへ向かう。


 いつの間に雨が降ったのか、街のそこここが濡れていた。

 Sバーン(近郊鉄道)の駅を使えばすぐなのだが、歩くことにした。


 駅へ向かう人の流れを外れ、ビル街へ向かう。

 雨はすっかり上がり、弱い太陽の光が、古い街の上に差し込んでいた


 フランクフルトは、石畳の、古い街並みだ。

 古い石畳の上を、今を生きる人々が、我が物顔に闊歩している。


 週末、どことなく華やぐ人の群れである。

 みんな、誰かと歩いている。

 愛する家族と。

 気の合った友人と。

 あるいは、恋人と。

 笑い、はしゃぎ、そして静かに語らい。

 みんな、誰かと一緒だった。


 耳に入るおしゃべりは、自分にとっては意味をなさない、異国の言葉。

 人混みの中で、深い孤独を、直緒は感じた。


 喧嘩をしながらも、いつも一緒のジェイとクララ。

 妻の自慢ばかりする村岡。


 一般開放の今日、モーリスを訪れた客は、みな、誰かと一緒だった。

 その親しさの中に迎え入れられ、直緒は、何枚も写真を撮られた。



 ……自分は今、誰と一緒に、この街を歩きたいのか。

 直緒はぼんやりと歩き続けた。


 ざわめきの中、「レーゲンボーゲン」というような言葉を、繰り返し聞いた気がした。

 だが、直緒には意味がわからない。

 たくさんの人の中にいて、孤独はいやますばかりだ。


 頭の芯が、鈍く痛んだ。

 ゆうべは、ろくに眠れなかった。


 さっさと、ホテルに籠った方が良さそうだ。

 俯いたまま、直緒は、足を早めた。



 その直緒の前に、誰かが立ち塞がった。

 石畳を見ながら歩いていた直緒は、顔を上げず、右へよけた。

 すると、その人物も右へよる。

 慌てて左へそれると、その人も、左へと移動した。


 ……気が合うのかな。


 しかし、このままでは、埒が明かない。

 再び右へ寄って、強行突破しようとした。



「下ばかり向いて歩いていると、美しいものを見逃しますよ」

懐かしい声が、言の葉の、意味を結んだ。


 驚いて顔を上げると、……

 ……今、一番会いたい人が、そこにいた。


「”Regenbogenレーゲンボーゲン” ……ほら、虹が」


 西の空には、美しい虹が、二重になって架かっていた。

 大きな虹のすぐ下に、小さな虹。

 輝く二つのアーチは、別の世界への入口のように見えた。


 別の……。

 異界への入口。


「会いたかった。直緒さん」

虹を背負って、古海は言った。


 古海は、柔らかい笑顔で微笑んでいる。

 いつも直緒に向けられていた、穏やかで優しい微笑だ。

 頭の中が、真っ白になった。


 白い意識の底から、だが、もくもくと黒雲のように罪悪感が湧きあがってきた。

「古海さんは、」

かすれた声で直緒は言った。


 優しい目をしたまま、古海は首を傾げた。

 雑踏の中、声を聞き取ろうと、直緒の方へ体を傾ける。


 ありったけの勇気を振り絞って、直緒は言った。

「だって古海さんは、典子さんの婚約者なのでしょう?」

「婚約者? お嬢様の? 私が?」


 行き交う人波が、二人を避けて通る。

 だが、直緒には、古海しか見えなかった。


 恐ろしい答えがその口を通って出てくるのを、息詰まる思いで待っていた。

 ……恐ろしい?


 「違いますよ」

古海は言った。

「直緒さん、それは違います」

「……」


 今度こそ、意識が空白になった。

 直緒は、ずっとずっと会いたかったその人に近づいた。

 もう、遠くへ行かないでほしかった。

 黙っていなくなったりしないでほしかった。

 だから、手首を捕えた。

 二人の身長差は、健在だった。

 見上げる位置に、彼の顔はある。


 そのまま、背伸びした。

 顔を上に向け、つま先で立つ。

 一瞬だけ、唇が唇に触れた。

 かさりとした、空気を多く含んだキス。

 古海の目が、大きく見開かれた。


 ……逸脱してしまった。

 畏れに、直緒の体は硬直した。

 慌てて離れようとする。

 だが、逆に、強い力で抱き寄せられた。

 微かに、青い、草いきれの匂いがした。


 後頭部に手が回される。

 大きな掌が、直緒の顔を仰向けた。

 雨上がりの陽が、斜めに目を射る。

 耐えきれず瞼を閉じた一瞬、

 何の前触れもなく、湿ったあたたかい唇が、直緒の口を、柔らかく塞いだ。

 息が苦しくなるまで。


 逃げようとした。

 でも、もう、逃げられなかった。

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