あんたのソレは不倫だよ




 後藤ごとう卓司たくじが、くっとグラスを空ける。

 ビールはとうに姿を消し、ウィスキーの瓶が林立する。


 家庭を持つ女子の大半は家路についた。

 自分もそろそろ帰りたいと、江川えがわ悠花はるかは思った。


 まだ自分には、家庭はないけど……。

 家でゆっくりする方が、性分にあっている。

 たとえ久しぶりの高校時代の同窓会であっても、早く帰って、自分の時間を大切にしたい。


 悠花の耳に、親友で、今は卓司の妻になっている、美紅みくの声が甦る。

「彼、高校時代に、好きな子がいたみたいなの。お願い、悠花。彼をしっかり、見張ってて」

 その美紅は、生まれたばかりの赤ん坊がいる為、同窓会は欠席している。


 目の端で、ほっそりした男が、グラスを傾けるのが見えた。

 色白の目元が、ほんのりと赤らんでいる。

 高3の時のクラスメートの本谷だ。


 ……あいかわらず、きれいな男だわ。


 すかさず卓司が、空になったグラスに酒を注ぎたした。


 ……同窓会で焼けぼっくいに火がついた、ってのは、良く聞く話だけど。

 ……タックは、ずっと本谷君にべったりだし。

 ……わたし、もう、帰ってもいいんじゃないかなあ。



 「なに、お前、失恋したの?」

不意に卓司の胴間声が聞こえた。

「おお、おお、かわいそうに。しかし、お前ほどのイケメンをふるとは、どういう女だ?」


「男はカオじゃないのよっ!」

テーブルの端から、斉藤さいとう加奈子かなこが叫び返す。

 放送局に勤めていて、まだ独身だ。


 酔っぱらったダミ声で、卓司が怒鳴り返す。

「だって、本谷は、まじめで優しいじゃないか。それはちっとも、変わってないぞ」


「本谷く~ん、料理、できる~? ぬか漬けつけてる~?」

「?」

本谷がうっとりとした目を宙に据えた。

 こちらはすっかり、できあがってる。


 代わって卓司が喚いた。

「ぬか漬け? ババアみたいことを……」

「ババアじゃないからっ。今どきね、女をゲットしようと思ったら、ぬか漬けくらい、漬けられなきゃ」


「そうそう、飽くことなく、ぬか床に愛を注ぐ! その姿勢が大事。塩足して、芥子入れて、それから毎日優しくかき回して……」

加奈子の横で、平井ひらい由美子ゆみこがぶつぶつ言っている。

 由美子は会計士だ。


「スーパーが閉まらないうちに帰って、野菜を買う! 夜遊びしない!」

 加奈子と由美子は、くすくす笑い出した。

「きゅうりのぬか漬け、食べたーい!」

「私は、ナス!」


 うーん、ニンジンも捨てがたい。太く育つ前の、細いやつ……。

 いいな、ぬか漬けを食べさせてくれるカレシ。

 料理も上手そうだし。

 でも、家がぬか臭くなるのはなあ。

 それに、ぬか床と同等に愛されるのもねえ。

 それはちょっといやだと、悠花は思った。




 「だーかーらー、俺は、男だ!」

どんちゃん騒ぎを突き破って、突如、本谷が叫んだ。

 勢いよく立ち上がる。

「男だから! よし。今から、証拠を見せてやる」


いきなり、ネクタイを外し始めた。


 「おーーー!」

残った女子たちがざわめく。

「本谷くーん、すてき!」

「もっともっとーー!」

黄色い歓声が飛んだ。


 本谷はネクタイを投げ捨てると、上から順に、むしり取るように、ワイシャツのボタンを外し始めた。


「ほ、本気?」

「いいねー、脱げ脱げ」

「裸踊り、いけーっ!」

「いいね、楽しそうだね。俺も脱ごうか?」

「げぇっ、やめれ」

「お前のは見たくねーーー」


男子も混ざり、大騒ぎが始まった。


 ……なんか、エグイことになりそう。

 ……でも、ま、いっか。本谷君、男だし。

 ……酒の席での、ちょっとした御乱行ってことで。

 ……男子はいいよね……。


 別に脱ぎたいわけではないけど、悠花はそう思った。

 服を脱ぐまでハメを外すことは、自分にはできない。


 本谷は、ワイシャツの前をはだけた。そして、袖から腕を抜かずに、いきなりアンダーシャツをまくりあげようとしていた。

 酔っぱらって、脱ぎ方がわからなくなっているらしい。


 ちらりと肌の色が見えた。

 顔と同じく、白い肌が、薄くピンクに染まっている。

 最初にワイシャツを脱いでおくべきだった。アンダーシャツとワイシャツが絡み、途方に暮れている。


 上を脱ぎ切るのを諦めたようだ。

 ベルトのバックルに手をかける。


「駄目だ駄目だ駄目だ!」

制止が入った。

 後藤卓司だ。


 酔っぱらいたちの上に、失望の声が流れた。

「余計なこと、すんな!」

「せっかくのお楽しみを……」

「ブリーフか? トランクスか? ボクサーパンツ? まさか、ビキニってことは……」


「脱げー、脱いじゃえーーーっ!」

「あと一枚! あと一枚!」

最後まで陽気に騒いでいたのは、加奈子と由美子だ。


 「おらっ!」

それらを無視して、卓司はネクタイを拾い上げた。

 ワイシャツの前を合わせ、ズボンの中に押し込んでやっている。

 上着をばさりと被せた。

「帰るぞ、本谷」


「……」

こっくりこっくりと、本谷は頷いた。

 半分、眠っているようだ。


 卓司は幹事に会釈すると、本谷を引っ張って、店の外へ出て行った。

 最後まで卓司を見守るように、美紅から頼まれている。

 悠花も慌てて、後に続いた。



 店の外では、卓司が本谷を、タクシーに押し込んでいた。

 ぐにゃぐにゃする体を、なんとか、後部座席に押し込むと、自分もその隣に乗り込もうとしている。

 運転手が何か言っている。

 きっと吐くなとかなんとか、そういうことだろう。


 その時、悠花のスマホが震えた。

 卓司の妻、美紅からの着信だった。


「もしもし、悠花? 彼、まだ残ってる?」

「ちょうど今、帰るとこ」

「ああ、そう?」

「タクシーに乗って。大丈夫かな。いくらかかるのかな」

結婚を機に、卓司と美紅は、郊外に家を買ったのだ。


「構わないわ。じゃ、まっすぐ帰ってくるのね」

「うん、途中で本谷君を落すんじゃないかな。彼、ぐてんぐてんだから。裸踊りをしそうになったくらい」


「本谷君?」

美紅の声が裏返った。

「本谷、直緒?」

「そう。よく覚えてたね」


 美形だけど控えめな子だったので、顔を見るまで、悠花は忘れていた。


「お願い、悠花。二人を別々にして」

「えっ?」

「彼を、本谷君と二人にしないで!」

「そんなこと言ったって……。もう、同じタクシーに乗っちゃってるし」

「あなたも一緒に乗って」

「ええっ? だって、方向、違うよ?」

「うちに泊めてあげる」

「そんなこと……あっ、ドアが閉まる」

「いいから、乗って! お願い!」


 美紅の声には、切羽詰まったような悲愴感があった。

 その声に押されるようにして、悠花は、タクシーに駆け寄った。


 きっと美紅は、ホルモンバランスを崩しているのだ、と、悠花は思った。

 出産してそうなる女性は多いと聞いている。


 ……美紅も大変な時だし。

 ……同窓会にも来れないのだから、せめて気の済むようにしてあげよう。




 「ちょ、なんで、おまっ、悠花……」

閉まりかけたドアを押し開けて入ってきた悠花を見て、卓司は顔を顰めた。

「なに、入って来んだよ」

「あたしも、一緒に帰るの。美紅が泊めてくれるって」


卓司は露骨に肩をすくめた。

「なによ」

「いや」

ぷいと目をそらせた。


 後部座席に大人三人はきつい。

 幸い、本谷は細身だし、悠花も小柄だ。真ん中に卓司を挟み、それでも、なんとか堪えることができた。


 本谷は眠っており、卓司は無言だった。

 後藤卓司は、普段は陽気な男である。どんな時にも場を盛り上げようとするお調子者でもある。

 車内の窮屈さより、その沈黙の方が、美紅には耐え難かった。

 20分ほど走ると、卓司はタクシーを止めた。


 本谷を押し出し、自分も降りようとする。


「ねえ、まだ着いてないよ」

悠花は言った。

「お前はそのまま帰れ。俺はこいつを、部屋まで連れて行く」


「らいじょぶ」

目を覚ました本谷が言った。

「らいじょぶだから」


「ほら、本谷君、大丈夫だって。タックも一緒に帰ろ。美紅が待ってる」

「いや、俺は……」

卓司は車を降りてしまった。


 さすがに変だと、悠花は思った。

 必ずしも、美紅のマタニティー・ブルーのせいでもないような何かが、卓司の態度にはあった。


 ちらと運転手を見て、悠花も車を降りた。

 舌打ちして、卓司が、料金を払った。


「おら、本谷。浜畑山に着いたぞ。お前んち、どっちだ?」

「んー、あっち」

本谷はふらふらと歩き始めた。


 その後を、悠花と卓司が追う。

「本谷君、荒れてたね」

卓司と並んで歩きながら、悠花が言った。

「よっぽど、失恋が堪えたんだね」

「どんな恋だって、失ったら堪えるさ」

「大好きだったんだね、その人のこと」

「なんだか、年上の女性っぽかった」

「ふうん。本谷君がねえ」


 「なあ、悠花。お前が美紅と親友なのは知ってる」

不意に改まった口調で、卓司が言った。

「だけど、今晩一晩だけでいい。見逃してくれないか?」

「は?」

「俺、今夜は、本谷と過ごしたい」


「それ、どういう……」

失恋の愚痴を聞いてやるだけとはとても思えない雰囲気が、卓司にはあった。

「まさか、タックが、高校時代に好きだった人って……」


 穏やかな世界に生きてきた悠花の価値観が、音を立てて崩壊した瞬間だった。


 卓司は言った。

「ずっと、諦めようと思ってた。そばにいるだけでいいって。そのうち、本谷に、女の恋人ができたって聞いた。その時、俺、諦めたんだ。諦めて美紅とつき合い、結婚した。でもそれ、間違ってた」

「間違ってた?」

「誰かを誰かの代わりにしちゃ、いけなかったんだ」

「……」

「俺は、今でも、本谷が好きだ」

「……」

「本谷でなくちゃ、だめなんだ」


「……幸い、本谷君、失恋したし?」

低い声で悠花は言った。


 「幸いだなんて、思ってない……」

「……美紅は赤ちゃんに夢中で、構ってくれないし?」

「そんなことは……」

「郊外に家買って、長距離通勤の上、重いローンを背負って、」

「そりゃ、大変だけど……」

「女を孕ませて子ども産ませといて、ふざけんじゃねえよっ!」

深夜の住宅街で、悠花は叫んでいた。

「あんたのソレは、不倫だよっ!」




 「どうしたんだ?」

叫び声に驚いて、先を歩いていた本谷が駆け戻ってきた。

「不倫って、え? 後藤君と江川さん?」

二人を見比べ、本谷は目を剥いた。

「駄目じゃないか、後藤君。君には赤ちゃんが産まれたばかりだって聞いたぞ。それに江川さん! あなたは、奥さんの親友なんだろ?」


 すっかり酔いが醒めたようだ。


「人を傷つけるようなことをしては、絶対にだめだ。そんなの、自分の為にもならない。誰かを不幸にして手に入れた幸せなんて、本当の幸せじゃない」

滔々と述べ立て、きっぱりと結論づけた。

「不倫だけは、絶対、だめだ」



 「思い出した。本谷君、まじめな人だったね」

「うん。交際申し込んだ女子がいたんだけど、その子の家、遠かったんだよな。帰りが遅くなると心配だからって言ってるうちに、自然消滅」


 悠花と卓司は顔を見合わせた。

 なんだか、馬鹿らしくなってきた。

 それは、卓司も同じだったらしい。

 二人同時に、噴き出した。


「なんだよ。何、笑ってんだよ」

本谷が一人で、怒っていた。



 「本谷君、あなた、失恋したんですって?」

しばらくして誤解が解けると、悠花が言った。

 愚痴があるなら、聞いてやろうと思ったのだ。

 しばらくの間があいた。


 「してないけど」

本谷が言った。

 平静を装ったような声だ。

 すごく嘘っぽい。


 卓司が追い詰める。

「え? さっき言ってたじゃん。ルミさんって人に捨てられたんだろ?」

「ルミさん?」

本谷は、きょとんとした。

「その人、お前が留守している間に、出てっちゃったんだって? アメリカへ行っちゃったって、言ってたじゃん」

 次の瞬間、ほの暗い街燈の下でもわかるほど、その顔が紅潮した。

「違うから。それ、全然、違うから」


 違わないな。

 卓司と悠花は顔を見合わせ、頷いた。


「本谷、お前、隙、作んなよ」

ぼそりと卓司が言った。

「久しぶりに会ったら、すげー色気でさ。俺、ちょっと、くらっときた」


 卓司が高校時代に本谷を好きだったということは、本谷には話していない。

 もちろん、本谷が卓司の「不倫」相手だと誤解した相手が、本谷自身だということも。 


 示し合わせたわけではないが、悠花も卓司も、そのことは口にしなかった。

 もしそんなことを本谷が知ったら、卓司との間の友情さえ、壊れかねない。

 酒の上の冗談。

 それで葬り去ろうと、悠花は思っている。

 美紅の、親友の家庭を守る為にも。


 「なんつーの? 壮絶な色気ってやつ?」

「壮絶? その言葉は間違ってる。勇猛果敢な色気って、なんだ?」

卓司が言うのに、すかさず本谷が言い直した。


 ……出たよ。

 ……本谷君の言葉直し。

 ……ほんと、これさえなければねえ。


 思わず悠花は口を出した。

 「本谷君、他にも、そんな風に言われたこと、あるでしょ」


 元に戻りかけていた本谷の頬が、再び紅潮した。

「フェロモンという言葉を、使い間違った人ならいる」

「フェロモン?」

「垂れ流すって、おかしいだろ。微量物質を」

「そうだね」

悠花は言った。


 なんとなく、本谷の失恋の原因が分かった気がした。

 年上で……きっと、嫉妬深い恋人だったのだろう。

 本谷のこの様子では、堪え切れなくなったのも、無理はない。


「だから、気をつけなね。フェロモン垂れ流したら、女の敵だよ、本谷君は」

「は?」

さっぱりわからないというふうに、本谷は首を傾げた。

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