典子の仕返し
「……桂城さん。なんであんたが、ここにいるんだ?」
吉田ヒロム先生から、カバー絵ができたと連絡があった。
直緒が出向くと、そこには、しあわせ書房の桂城が同席していた。
しあわせ書房は、児童書専門の出版社だ。
従業員は、十数人程度である。
桂城は鼻を鳴らした。
「ヒロム先生は、わがしあわせ書房の、大事な絵描きさんなんだ。その、ヒロム先生に、春画を描かせるわけにはいかないからなっ」
「春画? 誰がそんなことを……」
「あんたんとこの編集長だよっ」
「だからそれは、依頼のし直しをっ、」
「だいたいな、絵本とBLを一緒にされたら、困るんだよ。子ども達への愛があふれるいとしい絵柄を、だな、男同士のあんなことやこんなことを描く絵と、だな……」
「BLで癒される人も、いるんだぞ」
「わかってるさ、そんなこと。穢れなき子ども達の純真さを、BLと同一にするなってことだ」
「してないじゃないか」
「……まあね。ヒロム先生の腕だな」
桂城は、テーブルの上に置かれた作品に目をやった。
淡い水彩画だった。
二匹の仔犬が、陽だまりでじゃれあっている。
「先生、素晴らしいです」
直緒は言った。
ヒロム先生は、満足そうに頷いた。
「綱吉と言ったら、犬公方だろ? 確かにそれは、褒め言葉じゃない。でも、一般への認知度は抜群だ。それに、この絵なら……」
「誰も、綱吉への批判だとは思いませんよ」
きっぱりと直緒は言った。
「助けられた生き物の、命の尊さが、すとんと胸に落ちる気がします」
「うん。君に、そう言ってもらって、よかった」
ふと、不安げに瞳を曇らせた。
「だが、編集長は、何と言うだろうか?」
「満足しますよ、きっと。最高の、萌え絵です」
「しかし、大河内先生も、思い切った真似を」
桂城が言った。
「時代小説の大家が。モーリスは、いったいどうやって、原稿をとってきたんだ?」
「いや、このBL版は、先生が、自発的に書いて下さったんだよ。そこにいたるまでのいきさつは、いろいろあったけど」
「ふうん」
桂城は言った。
「何事もなければいいけど」
「何事って?」
「だってほら、大河内先生は、あちこちの出版社で書いてるだろ? 大きい所とかでも。大丈夫かな」
「まさか、出版差し止めとか? すでに出ている本の? BLを書いたからって?」
「だって、硬派な時代小説とBLだぜ? こういうものは、イメージだからな。色がついたら、おしまいな面がある」
「……」
「出版差し止めとまではいわないけど、重版をかけないとか、部数を減らすとか、あるいは、広告を出さないとか。いくらでもやりようはある」
「しかし、」
「俺にもわからんよ。わからんけど……」
年輩の読者の反応は、確かに心配だった。
しかし、同業他社の動向までは、直緒の頭にはなかった。
その程度には、直緒は、出版業界を信じていた。
自分が所属していた業界のことを。
桂城が、じっと直緒の目を見た。
「だから俺は、ヒロム先生のことを心配してるんだ」
「……信じて下さい、先生」
直緒は、ヒロム先生に向き合った。
「モーリスの本は、決して、先生の評判を落したりしません」
「なぜ? そう言い切る理由は?」
「愛があるからっ!」
典子が乗り移った。
としか思えない答えが、直緒の口から滑り出た。
「お前なあ……」
桂城が呆れたように首を振った。
「お前……、中2かよ」
……あれ、桂城さん、なぜ、ヒロム先生の椅子の背に手を回してるのかな?
ふと、直緒は思った。
……なんだか、二人、くっつきすぎ……。
すぐに、そんなことはどうでもいいことだと、思い直した。
大切なことは、絵師の先生の不安を取り除くことだ。
「今はまだ、これしか言えません。でも僕の……、僕は、BLは、素晴らしいと思います!」
ヒロム先生は、薄く笑った。
「『忍ぶ恋』のゲラ、読んだよ。他にもいくつか、モーリスさんの本は読んでいる。信じるよ、君たちの熱意を」
「……」
純粋な厚意を示された時には、感謝の言葉が出ないんだ……。
ヒロム先生の言葉が身に沁みた。
そして、あえて「モーリスのために」BL版を書いて下さった大河内先生。
……『忍ぶ恋』は、最初は電子版のみだけど。
……絶対、売らなければ。
……そして、希望者をたくさん集めて、紙版を出すんだ。
桂城が、咳払いをした。
「もちろん、モーリスにお描きになったからといって、しあわせ書房は、ヒロム先生とのおつきあいを絶ったりはしない。小さい会社だが、その程度の度量はある」
にやりと笑った。
「せいぜい売ってくれ、モーリスさんよ。BLで売り、童話で売り。零細出版社同士、お互い、Win Win でいこうぜ」
……あれ、今、桂城さんの脚が、ヒロム先生にぶつかったぞ。
長椅子に並んで腰かけた二人は、確かに少し、接近しすぎだった。
直緒に、悪気はなかった。
「桂城さん。あんた、ちょっと、先生にくっつきすぎじゃないか?」
だからこう言ったのも、思ったことがぽろっと口からこぼれてしまったに過ぎない。
だが桂城は、まるで火傷したかのように飛び上がった。
「べ、別に、俺は、そんな……俺なんか、先生にご迷惑をかけてばかりで……」
「そうだな、あんたは、先生の大事な作品タイトルに誤字を使ったり、他社依頼を勝手に断ろうとしたり、編集者として、あるまじき態度だよな」
以前、ヒロム先生の個展での桂城の仕打ちが、直緒は忘れられない。
最後は、典子と二人、塩を撒かれた。
それと。
……抱擁力。
桂城が、ヒロム先生の作品につけたタイトルだ。
「力」つけるなら、「包容力」が正しい。言葉を扱う者として、あってはならないミスだ。
「いや。『抱擁力』でもかまわないさ」
それまで黙っていたヒロム先生が口を出し、直緒は慌てた。
「だって、先生……」
不満な直緒を制し、先生は平然と続けた。
「あの作品は、ライオンが仔猫を、後ろから抱きしめてる絵柄だったろ。抱きしめる力。構わないよ、『抱擁力』で」
「先生……」
桂城の目が潤んだ気がした。
だが直緒は、納得できない。
「『抱擁力』……つまり、抱きしめる力、では、なんだか、ライオンが仔猫を抱きつぶしてしまいそうじゃないですか。……後ろから」
なおも言い募ると、ヒロム先生と桂城は、顔を見合わせた。
桂城が咳払いした。
「そんなことはないさ。ねえ、先生」
「そうだな。そんなことはないよ」
根拠がわからず、直緒は、首を傾げるばかりだった。
**
「ついに我々は、ヒモノかつ腐女子であられるお嬢様を出しぬき、今日の日を迎えることができました」
一乗寺家別邸、玄関脇ホール。
踏み台の上に立った古海は、満足そうに、居並ぶ使用人たちを見回した。
本宅からの応援を含め、10人近い使用人たちが、彼を見守っている。
8割が紺のシャツブラウスに白のエプロン姿のメイドたちだ。
「今、お嬢様は、創さまとご一緒に、大好きな
古海はこぶしを振り上げた。
「今のうちに、一乗寺建設110周年記念配布本に、カバーをつけてしまいましょう。そして、他の記念品とセットにし、袋の口を閉じるのです。もちろん、発送すべき分は、即座に発送します!」
大きく息を吸った。
「とにかく! 出来上がった本を、お嬢様の目に触れさせないようにするのです! 一乗寺建設存続の為に!」
使用人たちは、力強く頷いた。
大河内要著・一乗寺建設110周年記念読本『文治の風/武士の覚悟』1000冊が、印刷所から、ホールに運び込まれた。
一乗寺グループ傘下の印刷所だ。
別の印刷所から、コート紙フルカラー印刷のカバーも、届いている。
使用人たちが、一斉に、作業に取りかかった。
本宅からのメイドが、まっさらなカバーに折り目をつける。
それを直緒が、これもまっさらな裸本に、カバーを巻く。
私家版だから、帯はない。
次第に息が合ってきた。
時々、メイドが顔を上げ、にっこり笑って直緒を見る。
軽く指先が触れあうこともある。
かすかに、ジャスミンの匂いがした。
……久しぶりで女の子を見た気が。
直緒は思った。
毎日会っている典子には申し訳ないことだが。
「ここは、私が」
不意にどこからともなく古海が現れ、メイドを押しのけた。
「でも……」
邪険にされて、メイドは、不満げだ。
「いいから。あなたはあっちで、発送の手伝いでもなさい」
「……」
上司からの命令に逆らえず、メイドは、しぶしぶと立ち去って行った。
しばらく無言で、古海と直緒は、作業を続けた。
なんとなく、メイドと一緒の時よりスムーズに進むような気が、直緒はした。
それは、古海が、直緒の作業の進捗を気にかけてくれているからだと、間もなく彼は気がついた。
直緒の作業に合せて、古海は、折り目をつけたカバーを差し出す。
メイドは、さっさと自分の分は片づけて、直緒の前に積み上げるだけだった。
「典子さん、今ごろ、どうしてるでしょうね?」
古海の気遣いが、かえって気づまりで、直緒は尋ねた。
古海は、腕時計をちらと見た。
「きっと、作家先生の登場を待っているところでしょう。列の最前列で、創さまと」
「迷わないで行けたでしょうか?」
「篠原をつけましたから。何かあったら、彼女が連絡をくれるはずです」
「何か、って?」
「まあ、大丈夫と思いますが。好きな作家のサイン会なら、お嬢様も脱走しようとは思いますまい」
「このまま、典子さんには何も知らせないで、ことを運ぶおつもりですか?」
「お嬢様なら、とっくに全て、見通されてますよ」
「へ?」
それは本当か?
「文治の風」が二種類あることも。
BL版「/忍ぶ恋」は、紙の本にならないことも。もちろん、一乗寺建設110周年の記念品として配布されないことも。
実際に配布されるのは、全く違う本、「/武士の覚悟」の方であることも。
……。
「お嬢様は、このことを、今後の駆け引きに利用なさるおつもりです。つまり……」
古海は口を曲げ、妙な口調で言った。
「お父様はぁ、のりこの思ったのとぉー、違う本をぉー、お出しになったんですぅー。それはぁ、お父様のぉ、のりこへの愛情がぁー、足りないからなんですぅー」
直緒は、椅子から転げ落ちそうになった。
「な、なんですそれは。典子さんの真似ですか?」
「実際に聞いたわけではありませんが、また、極めて主観的なものではありますが、だいたい、こんなところで間違いありません」
「……」
「あの親馬鹿の一乗寺社長ですが、」
極めて苦々しげに、古海が口を開く。
「印刷所を一軒、買わされてましたよ。ったく、何考えてんでしょうねえ。このITの時代に、紙関連なんて、究極の斜陽産業でしょうに」
「古海さん、その言い方は……」
「あ、失礼。出版もそうでしたね」
たいしてすまなく思っていなさそうな口調で、古海は言った。
「今回、カバーだけでもやってみて、お嬢様は、印刷の奥深さに、すっかり魅せられておしまいになったようで」
古海が続ける。
典子の当初の計画は、小型の印刷機と製本機を買う……パパに買わせる……、という、極めてシンプルなものだった。
モーリス出版の電子書籍で、読者からの希望のあったものだけを印刷し、配送する。
オンデマンド印刷である。
その為、印刷機も、版を作らずにより簡便で小型な、インクジェットを考えていた。
しかし、今回、印刷屋の話をいろいろ聞くうちに、印刷の奥深さに気付いたのだと言う。
今では、版を作るオフセットがいいと言っている。
しかし、版を作るには、どうしても専門的な知識がいる。
印刷機も大型化し、印刷工場と同じことをやらねばならない。
それならいっそ、気に入った印刷所をまるごと買ってしまえ、ということになったらしい。
古海がため息をついた。
「もちろん、一乗寺パパのポケットマネーで。結局、お嬢様が得をとって終わったということです」
「その印刷所って、今回、カバー印刷を手掛けたところですか?」
「そうです。なんでも、くりいむメロン先生のご紹介だそうですよ。同人誌を印刷してもらっていたそうです」
「ああ、そうですか……」
だから典子は、メロン先生の仕事をさせてくれなかったのか。
直緒は納得した。
つまり、典子の方も、直緒に隠れて、こそこそしていたことになる。
肝心なことに、直緒は気づいた。
「なら、古海さん。なにもこんな風に、典子さんの留守中に作業しなくてもいいんじゃないですか!」
「あのね、直緒さん」
古海は改まって直緒に向き直った。
「私には、まだ、お嬢様から、何のお咎めもありません。あなたもそうでしょ?」
「そういえば」
実際、騙していたことについて、苦情ひとつ、典子は言ってこない。
「つまり、ゲームはまだ、続いているのです」
「は?」
「お嬢様は、未だ、ダマされたフリをなさっておられます。その手に、我々も、乗り続けねばなりません」
「だって、いつまで……」
「おそらく、永遠に。ずっと。それが、お嬢様の、我々への仕返しです」
「……」
古海は、上目づかいに直緒を見た。
「私の傍らに直緒さんがいてくれて、本当によかった。私一人なら、きっと、心が折れていたことでしょう」
……傍ら?
直緒は別に、古海の傍らにいたわけではない。
だが、特に言い返さなかった。
古海は少し、舞い上がっているのだな、と思ったのだ。
本ができた高揚感は、独特だ。
それは、直緒にもよくわかっている。同じ高揚感を古海も感じてくれていることが、嬉しかった。
目を輝かせ、古海は続けた。
「正直、最初は、日本語だったらなんとかなると、タカをくくっていました。でも、日本語にも、専門知識ってものがあるんですね。送り仮名の法則とか、漢字で書くかひらがなで書くかとか、いろいろ。普段、自分がいかに、いい加減な日本語を書いていたかに気づかされて、冷や汗をかきましたよ」
「安心してください、古海さん。誤植のない本なんてないです。どんなにベテランの校正者でも、必ず、見逃しをやらかします。そういう意味では、虚しい仕事かもしれません」
「印刷の時もね。台割とか面付けとか、あと、トンボとか。色校に至っては、直緒さんがいてくれなかったら、何を見ていいのやら、途方に暮れました」
「印刷屋さんの方が、ずっと詳しいです。何事も、専門家に頼ってしまうのが、一番です。編集者なんて、そんなもんです。むしろ……」
直緒は桂城の言っていたことを思い出した。
「むしろこれからが、正念場になる気がします」
「それは?」
「モーリス出版として、大河内先生に不利な事態が起きないよう、気を配らねばなりません。モーリスに書いたことを、決して後悔させないように。桂城さんが、いつも吉田ヒロム先生を守っているように」
「桂城? しあわせ書房の? あの二人、まだ一緒にいるんですか?」
「ええ、この間、絵を拝領に入った時」
「……ふうん」
古海は頷いた。
「ふうん」
「なんですか、古海さん」
「いえ。直緒さん。あなたと一緒に仕事ができて、私は、大変、楽しゅうございました」
「誰とやっても、仕事は仕事です。ただ僕は、この仕事が好きです。本が、大好きなんです」
「これで、あなたと私の距離も、ぐっと縮まった気が、」
「何の距離ですか。縮まってませんから。ちっとも」
「だって、それまでのあなたは、私と目を合わせてもくれなかったじゃありませんか」
「……」
「なんだか避けているようだったし」
「それはお互い様だったでしょ」
直緒は言った。
「それは、お互い様だった筈です」
古海は否定したが、本当は彼は、典子の婚約者なのかもしれない。
その不安を、直緒は、拭い切れない。
不安。
典子と古海。
……いったい自分は、どっちに嫉妬しているのだろう。
「あの、お電話が」
さきほどのメイドが、遠慮がちに声をかけてきた。
「私は今、直緒さんと大事な話をしているのです。後にしてもらいなさい」
古海は、メイドを見もしない。
「でも、緊急を要する重大な用件とかで」
「こっちの方が緊急で重大です」
「……お嬢様のことで」
「今はそれどころではないと、おっしゃい」
「古海さん、典子さんの方が緊急で大事ですよ」
思わず直緒は口を出した。
なにしろ、暴走する腐女子である。
「いいえ。私にとっては、直緒さんの方が大事です」
おずおずとメイドが割り込んだ。
「……トヨシマ警察署の方から」
直緒と古海は、顔を見合わせた。
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