歴史は夜、作られる
一乗寺家別邸専属メイド、篠原もなみは、寝不足だった。
夜遊びをしていたからではない。
否、ゆうべは七夕の晩だったにもかかわらず、翌日が早番だからと、夜遊びを早めに切り上げて帰ったのだ。
……なのに。
……。
「お嬢様! 起きて下さい!」
もなみは乱暴に、主人の布団を引きはがした。
ばらばらと薄い本が飛び出し、ベッドの下に零れ落ちた。
緑のジャージが、布団の端で丸くなっている。
「ったく、何時だと思ってるんですかっ!」
「ん? あああーーーっ」
ダンゴ虫のように丸まっていた主が、しぶい眼を開けた。
「モナちゃん……。もう少し、寝かせて」
「駄目です。もうすぐ9時です。本谷さん、出勤してきましたよ」
「直緒さん!?」
典子が慌てて飛び起きた。
「出勤? こんな朝早くから? ほんとに?」
「だから、9時です。朝早くなんかありませんってば」
「だって、ゆうべは……」
「普通の社会人は、前夜飲み会でも、朝はきっちり出社するものです」
「それだとわたし、過労で死ぬ」
「何言ってるんです、職住一致で重役出勤の人が。早く起きて下さい。うへえ。ゆうべもお風呂に入らないで寝るから……」
「ん?」
「臭いです」
「だってわたし、そんなに飲んでないわよ」
「フケ臭いんですよ。垢臭いとか」
「ひどい! モナちゃん、ひどいっ!」
「今日は絶対、パジャマとシーツを洗いますからね。いいお天気だから、お布団も干します。いっそのこと、買い替えようかな。さ、起きて下さい。さっさとシャワー、浴びちゃって下さい」
「シャワー……めんどい……」
「これ以上、本谷さんに嫌われたいんですかっ! あの人が辞めたら、どうします!」
「……わかった。シャワー、浴びる……」
「髪もちゃんと洗うんですよ!!」
シャワーを浴び、着替えを済ませた典子に、もなみは大急ぎで、朝食を供する。
どんな時でも、朝食を抜いてはいけないというのが、亡くなった奥様からの遺言だったと、聞いている。
「ゆうべ、本谷さんに、いったい何を飲ませたんです?」
オレンジジュースを注ぎたしながら、もなみは尋ねた。
「ぐてんぐてんだったじゃないですか。意識、飛んでましたし」
「飲ませた? あなたも古海と同じことを言うのね」
「違うんですか?」
「……ウォッカとジンのカクテルを、グラッパで割った物を、最初にちょっと」
「殺す気ですか」
「だって、水に見せかけられるほど透明なお酒って、あんまりないんだもん。どれも蒸留酒だから、翌日に残らないかなーって」
「水に見せかける? まさか、水だとダマして飲ませたんじゃあ……」
「直緒さんが間違えたのっ!」
「蒸留酒は、アルコール濃度が高いんですよ? 蒸留酒を蒸留酒で割って、どうします!!」
「……直緒さん、なんか、言ってた?」
「特には。よく覚えてないそうです。よかったですね、お嬢様」
「なにが?」
「悪だくみがばれなくて」
「わたしは、なにも……」
「電話器いじったり、スマホを隠したり、ここのところ古海さん、てんてこまいだったじゃないですか。お嬢様の悪だくみを阻止しようとして」
「……」
「お酒の席でも、さぞや、むちゃぶりされたんでしょうねえ。幸い、本谷さん、大河内先生がいらした時の記憶しか、ないそうです」
「さすがだわ。仕事のことは覚えてるのね」
「執筆、承諾して頂けたそうですね」
「ええ。わたしの手柄よ」
「やり方にもよりますがね」
「なあに、モナちゃん。何か言いたそうね?」
「別に。大河内先生に執筆を承諾頂いたお祝いだといって、その後も、お嬢様、本谷さんに随分、飲ませたようですね?」
「ちょっとだけよ。わたしも同じくらい、飲んだし」
「お嬢様は、ザルのワクなんですっ! いくら飲んでも、ダダ漏れ。飲むだけ、お酒の無駄というものです。そんな人と同じだけ飲ませたら……しかも、残業続きで、このところ、ろくに眠っていない人に……」
……
ゆうべ、もなみは、夜遊びを早めに切り上げた。
翌日が早番なのに、夜遊びなんて、ほめられたことではない。
そっと裏口から入った。
ほぼ同時に、玄関のドアが、ばん、と開く音が聞こえた。
慌ててホールへ向かうと、典子が、階段を上っていくところだった。
「お嬢様、お風呂……」
反射的に口にしていた。
「あした……」
眠そうな声が降ってくる。
……本当に明日、入るのか?
「ああ、あ、ドア、開けっ放しで」
扉を閉めようとしたもなみは、悲鳴をあげた。
誰かに腕を、ぎゅっとつかまれたのだ。
「いいところに、篠原さん。ちょっとお願いが」
「ふ、古海さん。わ、私は別に、よ、夜遊びの帰りじゃ……」
「夜遊び? なんのことです? それより、ちょっとつきあって下さい。深夜勤務になってしまいますが」
言葉遣いは丁寧だったが、有無を言わせぬ口調だった。
古海は、乱暴にもなみの腕を掴んで、外へ引きずり出した。
車寄せには、ベンツが止められていた。今帰ってきたばかりのようだ。
「運転をお願いしたいのです。郊外へ向けて、20分ほど」
余談だが、もなみは、酒が飲めない体質だ。
そのことに、特に問題はない。
わざわざ酔わなくても、男狩りには、何の支障もない。
「郊外?」
もなみは繰り返した。
……まさか、デート?
……古海さんと?
世界で一番ありえないお誘いだと、もなみは自分で打ち消した。
後部座席を覗いて、なるほど、と思った。
そこには本谷が、しどけなく眠っていた。
「支えていないと、崩れてしまうんで。ここへ来るまでは、お嬢様がつっかえ棒になっておられましたが」
「……」
「運転、お願いできますか? 本谷さんのご自宅まで。私が支えておりますから」
……あなたが運転していけばいいじゃありませんか。
……酔っぱらいは後部座席に転がしておいても大丈夫だから。
そんな風に言える雰囲気ではない。
少し考えて、もなみは言った。
「でしたら、今夜はここにお泊めしたらいいじゃないですか。急いで客室を準備しますから」
大きな邸なので、客室なら、いくらでもある。
古海が首を横に振った。
「それだと、理性が」
「は?」
「いえ、私は、家令ですから」
「???」
なんだかよくわからない。
古海にせかされるようにして、もなみは、運転席に乗り込んだ。
ルームミラーで、古海が後部座席に入り、本谷の肩に腕を回すのが見えた。
その頭を自分の胸にもたせ掛ける。
そっと。
大切に。
壊れ物のように。
なんだか、見てはいけないものを見てしまったような気がした。
……そうか、鍵。
エンジンキーを回した時、彼女は、ようやく思い至った。
全ての客室に使えるマスターキーは、家令の古海が管理している。
……本谷さん、いい具合に酔っぱらってるし。
……夜中に忍んでしまったらまずいと。
……まさにお嬢様大喜びの展開なわけだけど。
いや、相手が古海だと萌えないと、典子は言っていた。
古海は古海で、懸命に理性で太刀打ちしようとしているわけだ。
……結果、このような深夜に、私が運転を。
……ほんと、どうしようもない人たち。
深夜の一般道は空いていた。
ナビに従って、車を走らせる。
時折、ミラーに目をやると、二つの頭は寄り添うにもたれ合っていた。
短髪の胸の辺りに、もう一方が、顔を埋めている。
時折、長い腕が伸びてきて、もう一方の髪を撫でた。
愛しげに。
とても優しく。
……目の毒。
……男同士だけど、目の毒。
もなみは、急ブレーキを踏んだ。
短髪が、頭を上げた。
「着きましたか?」
「いえ。スモークガラスを上げましょうか?」
古海は右の眉を上げた。
もなみは黙って、運転席と後部座席を仕切る、曇りガラスを上げた。
ナビは、目的地まで3分と出ていた。
3分なら……。
「目的地付近、に、到着しました」
合成された女の声が告げる。
「古海さん?」
仕切りを少し下げ、もなみは、声をかける。
「こっから先、道、わかんないですよ」
「もう歩いて行けます」
ドアを開け、古海が外へ出た。
次いで、半身を車の中へ入れる。
「あ。手伝いましょうか?」
もなみも慌てて、外へ出た。
「けっこうです」
「でも……」
「触らないで下さい」
きつい言い方だった。
もなみは思わず、出しかけた手を引っ込めた。
古海は、本谷を抱きかかえて外に出した。
腕を、上半身と膝の下に深く差し込み直した。
背筋を伸ばす。
抱き上げられた体は、支えのない腰の辺りが下に落ちていた。首も、大きく後ろにのけ反っている。
……ひ、姫抱っこ?
……都市伝説じゃ、なかったのか?
……いや、でも、男が男を……。
本谷の瞼は、固く閉じられたままだ。
深く眠っている。
呆れたことに、古海は、そのまますたすたと歩いて行こうとする。
「ちょ、古海さ……」
……不審でしょ。
……男同士で、それは、あまりに、
……不審。
「女性のあなたを、男性の一人住まいに同行させる訳にはまいりませんから」
後ろを向いたまま、古海が言った。
「すぐに戻ります。ここで待っていて下さい」
すぐ戻るといったわりに、古海は、なかなか戻ってこなかった。
……さっき、3分だけ、ふたりきりにしたのが、まずかったかなあ。
……かえって、アオっちゃった気が。
……ホトケのジヒ、のつもりだったんだけどなあ。
深夜の住宅地の路上に、長時間駐車していると、住人に通報されそうで怖い。
……にしても、古海さん、本谷さんの自宅、知ってたんだ。
……いつの間に。
こもごも思いわずらっていると、古海が戻ってきた。
一分の隙もない格好で、運転席の窓を叩いた。
「ご苦労様でした。帰りは私が運転します。あなたは、後ろの席で休むといい」
「古海さんから女性扱いされたの、初めてです」
もなみは言った。
「なんの話です?」
もなみと入れ替わって、運転席に座りながら、古海は首を傾げた。
「いえ、なんでもありません」
女性を男の一人住まいに行かせられないなんてのは、言い訳だと、もなみにはわかっていた。
……もうちょっとだけ、本谷さんと、ふたりきりになりたかったから。
ルームミラー越しに、古海が言った。
「今夜はありがとうございました。篠原さんがいてくれて、よかった」
「あなたに、お礼を言われたのも、初めてです」
今の気持ちを忘れず形にしてほしい、もなみは強く、そう思った。
……
「お嬢様、心配じゃなかったんですか?」
オレンジジュースの入ったグラスを典子の前に置きながら、もなみは尋ねた。
「心配? 何が?」
「何がって。ゆうべ、ご自分だけお部屋に入ってしまわれて」
「だって、眠かったんですもん。寝落ちる前に、どうしても、読みかけの
「そうじゃなくて、本谷さんです! ぐでんぐでんに酔いつぶれた本谷さんを、車に置き去りにするなんて。あの、古海さんと一緒に」
「だって、古海が言ったのよ? 直緒さんはちゃんとお部屋に送り届けますって」
「……」
「だからお嬢様は、きちんと歯磨きをしてお休みになって下さいって」
……お風呂に入れとは言わなかったのか。
「違っ、だって、あの古海さんですよ?」
「モナちゃん、何をフンガイしてるの? 古海は、運転は下手だけど、無謀な
……そうだった。
……お嬢様は、古海さんでは、1ミリも萌えないんだった。
……したがって、疑うこともなさらない。
ため息の合間に、もなみは言った。
「歴史は夜、作られるのですよ」
わけがわからないという顔で、典子は、差し出されたオレンジジュースを飲み干した。
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