それも両方、男なの?



 「ぐえええー、酔った……」


 真っ青い顔で典子がえずく。

 ドアを開けた古海の手にすがるように、車から降りた。


「ひどい道を走るのね」

「だから、最初は大通りを走ってたんでしょ。車酔いするお嬢様に配慮して。早めに会社を出ましたし。急げとせかしたのは、お嬢様御自身なんですよ」

「だからって、あんな、ぐにゃぐにゃした道……」

「都会の裏通りなんて、だいたい、あんなもんです。行き止まりやら、一方通行やら、そりゃ、ややっこしいんですから」


「うえーーー、吐くーーー!」

「うわっ。お嬢様! こちらへっ! そんな道端へ吐くなど、名門、一乗寺家の令嬢にあるまじき真似は……」

古海が慌てて、自分の上着を脱いで差し出す。

 肩を抱くようにして、道の端へ誘う。


 ……ああ、お似合いかも。


 直緒の胸が、ちくりと痛む。


 ……本当に、古海さんは。

 ……一乗寺社長のお眼鏡にかなった、

 ……典子さんの結婚相手の候補なんだろうか?


 メイドの言ったことが、頭から離れない。


 ……でも、もしそうなら、これは、喜ぶべきことなんじゃないか?


 古海なら、典子の趣味BLを全面的に理解し、許容してくれるだろう。

 典子も今さら、「腐った趣味があります」と、告白する必要もないわけだし。

 だからきっと、彼女は幸せになれる。

 モーリス出版しごとも続けられるだろう。


 直緒は、典子についていくと決めている。

 ……自分は、典子さんが幸せになれるのなら、それでいい……。





 古海に背中をさすられ、典子の吐き気は、どうやら治まったようだ。

 脱いだ上着を無事回収し、古海はほっとため息をついた。


 「それではお嬢様」

そう言って、手を差し出す。


「何?」

「スマホをお渡しください」

「なぜわたしが古海に、スマホを渡さなくちゃならないの? わたしのスマホよ?」

「久條先生を呼び出さないようにですよ」


「……は?」

 久條の名を聞いて、びくっとしたのは、直緒の方だった。

 慌てて顔を向けると、古海とばっちり目が合った。

 それまで合わせないように努力していたのに。


 古海が言った。

「大河内先生を接待するお店が決まってからこのかた、お嬢様は、しきりと先生と連絡を取ろうとなさっていました」


「あ、」

典子がはっとしたように言った。

「もしかして、会社の固定電話の調子が悪かったのも……」

「はい、私が、電源をいじっておきました」

「わたしのスマホが行方不明だったのも?」

「もちろん、私が隠しておいたのです。まさか今日になって見つかってしまうとは。お嬢様が絶対に見ない本のケースに隠しておいたのに」


 会社を出る直前に、典子のスマホを見つけたのは、直緒だ。

 スマホは、ポケット版六法のケースの中に入っていた。

 確かに、典子が絶対に見ない書籍ではある。


 「どちらかというとお嬢様は、日本の法律とは対極の位置にいらっしゃいますから」

 直緒の目をしっかり捕え、古海は続けた。

「お嬢様は、あの手この手で、今夜、久條先生を、この店へおびき出そうとしていました」


 さすがに直緒にも理解ができた。

 ……すると、典子がしきりと連絡を取りたがっていたのは、

 ……新しく原稿を依頼したい著者の先生などではなく、

 ……久條先生!


 「……」

直緒は無言で典子を見た。


「違うわ、違うの、直緒さん! 取材よ。取材なの!」

「取材? 何の取材ですか! その手の店って、いったい、どんな店なんです!?」

「男性同士の出会いの場です。『ロジエ・ルージュ』、赤いバラ。ロジエは苗ですが」

吐き捨てるように古海が言った。


「そ、そうよ。久條先生に迫られて、直緒さん、お気の毒だから、先生に新たな出会いの場を……」

「新たな出会い? 何を言うかと思えば。違うでしょ、お嬢様。直緒さんを酔い潰して、久條先生にお持ち帰りさせようとしてたんでしょ」

「うっ。そんなこと……」


「典子さん、」

「違う、直緒さん、違うから! わたしはそんな非道なこと……」

「嘘をおつきなさい。萌えの為なら、なんでもやるくせに」


ぴしゃりと古海は言い、典子の手からスマホを取り上げた。


「このスマホは、今夜いっぱい、私が預かります」

「じゃ、帰りの車は? どうやって連絡を取ればいいの?」

「今夜は、私も一緒に行きます」

「ええーーっ! だめよ」

「お嬢様を監視するのが、私の仕事です」

「古海の分は、予約してないしぃ」

「なら、後ろの席にでも」


「古海さん」

直緒は言った。

「スマホなら、僕のがあります。それに、久條先生は、そんな人じゃありませんよ」

「直緒さん」

古海が傷ついたような目をした。


 してやったりとばかりに、典子が言う。

「そうよそうよ。古海は、久條先生のことを、悪く言い過ぎよっ!」

「ただ、先生をこのような場所へ呼び出すことは、僕も反対です」

「あら、直緒さん、なんで?」

「派手な女性関係で売ってる先生ですよ? モーリスでの出版が、先生にとって、初めてのBL出版になるはずです。その時のインパクトの為にも、今ここへ、先生はお呼びするべきではないと、僕は考えます」

「直緒さん、……あなた、冷静ね」


 典子は、やや鼻白んだ様子だった。

 しかしすぐに気を取り直して、勝ち誇ったように告げた。 


「そういうわけだから。古海。もう、お行きなさい」

「でも……」

「あ、個人的に来たいのなら、いいわよ。あなたにも、出会いは必要だわ」

「そんなもの……」


 古海は、傲然と顎を上げた。

 しかしすぐに伏し目になり、典子に向かって、わずかに頭を下げた。

 そして、運転席に戻った。

 ウインドーを下げ、直緒を見た。


「もし、危険なことがあったら、直緒さん、すぐに私に連絡を……」

「大丈夫です。典子さんなら、僕がしっかりお守りします」

「そうじゃなくて……」

「もちろん、ちゃんと見守っていますよ。暴走しないようにね」

「……」


 何か言いたげに目を見開き、しかし、古海は何も言わなかった。

 無言で運転席のウインドーを上げた。



**



 「先生は八代将軍吉宗の時代がご専門とのことですが、もう少し遡って、たとえば五代将軍綱吉の時代はどうでしょう」

 慎重に言葉を選びながら、直緒は言った。


 「ロジエ・ルージュ」の店内が、極めて普通なのは、救いだった。

 人の入りは、かなりある。女性のお客さんもちらほら見えて、直緒は安心した。

 照明は抑えられていたが、調度はありふれたソファーとテーブルで、普通のバーと代わらない。

 と思う。


 作家の接待は、直緒にとって、初めての経験だった。もちろん、個人的にこういった店に来たこともない。

 だから、直緒もかなり緊張していた。


 大河内は、むっつりと押し黙っている。

 到着してからずっと、この調子だ。


 「暴れん坊将軍の知名度にはかないませんが、背後に元禄文化を持つこの時代の政治改革には、それなりのインパクトがあると思います」

「……」

 大河内はハイボールのグラスを取り、ちびりと舐めた。


 典子が目で合図してくる。

 もっと押せ、と言っているのだ。


 直緒は息を吸った。

「生類憐みの令とか、五代将軍綱吉は、確かに褒めたもんじゃありませんけど。でも、長く続いた戦国の気風がなくなったのは彼のお陰だし、学問好きで、基本、善政を敷いたと思います」


「君は、歴史好きなのか?」


 やった、と直緒は思った。

 ……大河内先生が、初めて口をきいてくれた!


「僕なんかが歴史好きを名乗ったら、おこがましいです。ただ、祖父が大変な時代小説好きで、子どもの頃の旅行といったら、上田の池上正太郎記念館とか、鶴岡の藤沢周平記念館とか、時代小説作家がらみばかりで……」

「ほう、長野や山形まで?」

「ええ。僕、お祖父ちゃん子だったんです」

「そうか。お祖父さんの影響か」


「ああ、あの、痔専門のお医者様のおじいちゃまねっ!」


 嬉しそうに典子が言った。

 危うく直緒は、舌打ちしそうになった。


「典子さんは黙ってて下さいっ!」

「なんで? どうして?」

「女性が痔とか口にするなんて」

「あら、いいじゃない。痔。普通に病気でしょ? え? 怪我? あれ、どっち……?」

「いいから! あなたが口を出すと、まとまる話もまとまらなくなります!」

「ひどいわ。直緒さん、あんまりよ」


 「痔をなめてはいけない」

典子と直緒が小声で激しくやりあっていると、大河内がきっぱりと言った。

「夏目漱石も、晩年は随分、苦しめられたものだ。他には?」

「はい?」

「他に好きな作家はいないのか?」

「あ……佐伯泰英とか、逢坂剛とか。女性だったら北原亞以子も好きです。もちろん、先生の作品も、全部読んでます」


 大河内に原稿を依頼する話が持ち上がってから、未読の作品も、大急ぎで読んだのだ。

 大河内が、右肩を上げた。

 顔が、微妙に歪んでいる。


 ……先生、笑った?


「それで、綱吉の何を書けというのだね?」


 ……よっしゃ。

 ……一歩前進。


 でも、難しいのはここからだ。


「綱吉ほど、後世の人から誤解されている将軍もいないと思います。たとえば、さっき言った生類憐みの令も、はじめは、殺生を慎め、という程度のものに過ぎなかったのです。吉綱の時代は、未だ、戦国時代の荒れた気風が残っていましたから。それが、次第に拡大されていって、現代では、ひどい悪法、ひどい将軍ということになってしまいました」

「忠臣蔵とか、水戸黄門とか、テレビドラマの影響も大きいな」

「先生もそうお考えになりすよね! 僕も、もっと、綱吉は評価されていい将軍だと考えています」

「そうだな。その通りだ」


 ……よし。

 ……でも、ここから先は、慎重に。


「ただ、僕、わからないんです。これほど器の大きい人が、なぜ、えこひいきをしたのか」

「それは、牧野まきの成貞なりさだ柳沢やなぎさわ吉保よしやすのことか?」


 柳沢吉保!

 ……やたっ! ついにこの名を、出させたぞ。

 ……先生自らの口から。


「ええ。特に柳沢吉保など、甲斐の国に三郡を与えられたり、破格の待遇じゃないですか。僕には、えこひいきにしか見えなくて」

「柳沢は、甲斐の武田の遺臣だという説がある。甲斐の国は、吉保にとって、格別な国だったんだろうな」


 ……うし! 柳沢吉保だけでなく、武田信玄まで出させたぞ!


「だが、吉保の墓が、信玄公の隣にある辺り、確かに恣意的なものを感じるな。遺臣であっても、臣下であることに変わりはないのだから」

「ええ、全くです」


 「どれ、失礼、」

大河内は立ち上がった。

「君はなかなか勉強している。おじい様の薫陶がよかったのだな」

そう言い残して、洗面所の方へ歩いて行った。



**



 「ちょっと、典子さん、何寝てるんですか!」

傍らでうたたねをしている典子を、直緒は揺さぶった。

「起きて下さいよ」


「あ……? ああ、直緒さん。難しいお話、終わった?」

「難しいって、仕事の話でしょ?」

「え? 仕事? どこが? ん? 大河内先生は?」

「トイレへ行かれました。それより、やりましたよ。柳沢吉保。うまくいけば、武田信玄も!」

「タケダシンゲン? 何か、聞いたことがあるような……」

「しっかりしてくださいよ。信玄は、戦国時代の武将でしょ?」

「それが、BLしごとと何の関係が?」

「信玄と香坂こうさか弾正だんじょうの話は有名です。信玄から弾正へ宛てた恋文ラブ・レターも残ってますし」


「……コウサカダンジョウって、男なの?」

「男です」

「やったじゃない、直緒さん」


 にわかに目が覚めたようだ。

 直緒は頷いた。


「それより、徳川綱吉と柳沢吉保ですよ。時代小説家の大河内先生であれば、綱吉と吉保の方が、絶対、おもしろいものが書ける筈です。戦国時代より、江戸の時代設定の方が、先生の読者も納得するでしょうし」

「それも、両方、男なのね?」

「……少なくとも五代将軍・綱吉が男であることくらい、知っといてくださいよ。ええ、両方とも間違いなく男です。綱吉の方が、確か一回りほども年上だったはずです。この二人には、いろいろと面白いエピソードがあって……」

「直緒さんって、偉い人なのね。よく知ってるわね。凄いわ」


 素直な賞賛の目で、典子は直緒を見た。

 直緒は、尻の辺りがむずむずした。


「いや、必死で調べたんですよ。だってほら、作家の先生にむちゃぶりをするわけでしょ? 僕ら編集だって、のほほんとしているわけにはいきません」

「昼休みに大河内先生の御本を読んでたのは知ってたけど……。よく時間が取れたわね」


「時間なんて、なんとでもしますとも」

鼻息荒く、直緒は叫んだ。

「大好きな本に関われるのなら。寝なくても平気です!」

「……直緒さん、過労死しないでね」

「本の為なら死んでもいいです、僕は」


 きっぱりと直緒は言い切った。

 典子が首を振った。


 「恋かしらね……」

「恋?」


その言葉を聞いた時、直緒の頭に浮かんだのは、

 ……銀縁の眼鏡。

 ……夏の、草いきれのような香り。


「ちっ、ちがっ、ちがちがちがっ……」


「何をあせってるの? それは恋よ」

「違いますっ!」

「直緒さんは、本に恋しているの」

「……ああ」

全身の力が抜けた。


 「で、先生は書いて下さるって言ったのね?」

「それはまだですが、」

「あと一押しって感じなのね」

「いいところまでいってるのは、間違いありません」

「わたしにまかせて!」


典子が、どん、とうすい胸を叩いた。


「部下にばかり仕事をさせちゃ、いけないわ。ここから先は、わたしにまかせて」

「え……?」

「手始めに、直緒さん。カウンターの、あそこの、あの男のコを口説いてきて」

「へ?」

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