22
「ロイ!」
キースはロイの肩をがっしり掴んだ。そのまま自分の方へと体を引き寄せ、余った力を再利用してグルンと横に流し、そして全体重をロイにかけた。
「たぁっ!」
何とも間抜けな掛け声と共に、二人は勢いよく水の中に飛び込んだ。というよりは諸共に落ちた。
中は思った以上に深く、底に足がつくことすらなかった。それに驚いたのか、ロイは水から上がろうとする。キースはロイの頭を必死に抑え込もうとした。しかし、暴れながら吐くロイの泡が視界を邪魔して、上手くいかない。そこにもう2本の腕が伸びてロイの頭を掴んだ。
見上げると、水面から男の顔が覗き込んでいた。
チェシャ猫のように汚い歯を見せて、ロイを腕の伸びるところまで沈めていく。リオンに刺された片目からは、鮮血が赤いレースのように棚引いていた。
しかし突然、そのレースがプツリと途絶えた。そして腕もズルズルと上がっていき、男の顔も消えた。
「見つけ……」
「早く……へ!」
「まったく……んだ? ……しろ」
途切れ途切れに聞き慣れない声が耳に流れ込んできた。恐らく到着した看守らが男を引きずり上げたのだろう。
ロイは疲れてしまったのか、暴れていた手足を今は水の流れに合わせてブラブラさせていた。
キースはロイを抱え込むと、死角になっている水路の手前側の岸に沿うようにして、流れに身を任せた。
轟々と腹に響く唸るような音が、感覚を麻痺させる。もしロイがまた暴れ始めなかったら、そのままずっと水に浸かり続けていたかもしれない。
慌ててロイを水面に押し出し、キースも顔を上げた。
咳き込みながらも振り向くと、先ほどの岸はもうビー玉ほどの大きさになっていた。ここならもう騒ぎ立てても、水流が掻き消して気づかれることはないだろう。
「ゴホッ! くっ……ロイ、大丈夫か?」
ロイに後ろから覆いかぶさるようにして両腕を持ち、水路の縁を掴ませる、そのままロイはジタバタしながらも道の上に這い上がった。陸地に上がるなりひっくり返ってしまったロイの足を借りて、キースも何とか水から出る。
荒い息をするばかりで伸びてしまっているロイの代わりに、二人を見つけたリオンが高らかに笑った。
「あははっ。傑作! まさか飛び込むなんてね!」「リオン……お前」
「何か文句ある? 不本意ならついて来なくてもいいんだよ? ロイ一人じゃ、すぐ看守に捕まってポックリだろうけど」
「……」
キースは何も言い返さず、ゆっくりと立ち上がった。服から滴る雫をリオンは眺めて言った。
「先行くよ」
そしてまたリオンは様子も見ずに行ってしまう。仕方なくキースは寝そべっているロイを起こした。
「平気か?」
「うぁ……疲れた……濡れてる」
「そりゃそうだ」
いきなり水に落とされことに怒る様子も見せず、ロイは犬のように頭を振った。飛沫が上がり、キースはそれを諸に食らう。
「おい、飛ばすなって」
しかしキースも穏やかにかわすだけで怒りはしなかった。ロイをここまでずぶ濡れにさせたことに比べれば何ともない。
「ごめんな。急に道連れにして」
「うん……うん」
言い返す気力がないのか、そういう思考回路がないのか、ロイは虚ろな返事を繰り返した。
「寒い……ストーブ」
「無いだろこんな地下に」
「あるよ。リオンが行った先にある」
「え……」
ずっと続いている道に目をやる。もうリオンの姿は見えない。走ったりでもしない限り、曲がり角のないこの道の突き当りまで行くことはできないはずだ。
「……なぁ、」
「ん?」
「リオンは長老から言われたから俺を道案内してくれてる。でもそれ以上のことは看守に制限をかけられて自由が減るから教えてくれない。だから敢えてロイに聞く」
「うん」
「……ここは一体、どういう所なんだ? エス病棟の中で何が起こっているんだ?」
通常患者をサポートする管理人とは別に設けられている看守の存在。毒ガスの装置が日常的に作動すること。患者に宛がわれるとは思えない牢屋のような病室。地下に住む患者間の無法状態――。
目の当たりにする度に、何度も聞こうとは思った。だが、どうしても改めて聞くことが出来なかった。感覚の麻痺している地下の住人にこの状況を自覚させるのは、キースには予測しきれない危険が孕んでいるようで。だが、今のロイにはそういう狂気を前面に出せる体力はない。弱まったロイの覇気が、キースの探究心に自由を利かせた。
ロイはのそりと立ち上がると、重たい足を前に運んだ。キースも黙って歩調を合わせ、隣に並ぶ。
歩きながら何気なくシャツの裾を軽く絞り、皺を伸ばし、そこでようやく口を開いた。
「……ここに入院してる患者にはね、二種類あるんだ。一つは社会復帰を目的として治療される精神病患者。もう一つは社会から完全に排除されて収容される末期精病患者。前者は普通に地上で生活してる。ロビーの窓際まで車いすを持ってって日向ぼっこも出来るし、煙草を蒸かして時間を潰すことも出来る」
「えっ」
キースはロイの顔をまじまじと見つめた。しかしロイはこちらに顔を向けてはくれない。
「でもね、彼らだって精神疾患を持っていることに変わりはない。突然死にたがって暴れたりする奴だって多い。だから、そういう人のためにガス室が用意されてるんだ。誰でも自由に入れるようになってる。勿論、いつでも引き返せるように敢えてガス室までの通路は長くしてあるけどね。それでも辿り着いてしまった患者は、担当の医師の許可の基にそのまま永眠。……元々エス病棟は死に対して異様にオープンなんだ」
「……」
絶句のあまり、つらつらと語るロイの話を遮って聞きなおすことができなかった。
「その隣に並行するように引かれた廊下はね、遺体を回収するために一時ガスを移動させるスペースになってる。その奥の奥まで行った先に住んでいるのが、俺たちだよ」
「っ!」
ロイは表情一つ作ることなく、前だけを見ていた。
「あのシャッターの向こうがランダムに毒ガスで充満することが、丁度俺らを外に出させない仕組みになっててさ。もう帰る場所もないから、脱出しようとも思わないけど。でも見張ってる看守らは容赦ないよ。俺らは身元から切り離されてるから、いつ殺したって問題にならない。ここで死ぬのを待つだけの身だから、それが少し早まっただけの話だって。勿論そういう認識は俺らにもある。いつ死んでもいいし、殺してもいいって」
「だから……リオンがあんなに凶暴なことについて誰も触れないのか?」
「皆そんな感じだからね。でも痛いのが嫌なら抵抗するし、見たくないなら止めさせる。それくらいの意思が重なり合って、何とか皆過ごしてるって感じ」
「息苦しくないのか?」
同情とかでは断じてない。ただ、純粋に気になった。人間というものはこんな閉塞状況を日常に取り入れることができるものなのか、不思議だった。
「まぁ、外の様子をモニター越しに見ることくらいなら出来るけどね。箍の外れた奴しかいないから、一般人の様子も普段から見れるようにはなってるんだ。……今日も見てた」
そこでようやくロイはキースに目を向けた。瞳の奥で駆け巡る、先程までの軽快さに富んだ光は、今は静かに佇んでいるだけだった。その顔つきは、普段外の世界で目にする人たちと何も変わりなかった。
「見たよ。見たんだ。車いすに乗って暴走してる人」
「本当か?! じゃあどうして!」
「ご、ごめん!」
キースが詰め寄ると、ロイは水を前にした時のように顔を強張らせた。
「忘れちゃって。普通の人なんて初めて見たから、嬉しくなっちゃって……」
「普通の人?」
怯えられないよう、キースは語調を戻してゆっくり聞いた。ロイはコクコクと小刻みに頷き、キースを指さした。
「普通の人。殴ったり蹴ったりしないし、話せるし、笑い過ぎない人……。初めて会った」
「俺が? 初めてなのか?」
実際、キースは自分を特殊な人間だと思ったことはない。同じような人間はごまんといるはずだ。だがロイにはそんなありふれた自分ですら新鮮なのだ。
「……ロイはどれくらいここにいる?」
「五年」
「それは長い方なのか?短い方なのか?」
「長老の次に長い」
「リオンはいつから?」
「一年」
あまりに衝撃的な現状が大量に流し込まれ、キースの頭はキャパオーバーになっていた。だがそれは元々持っている判断力まで鈍らせてしまい、出たエラーが更に情報を掻き集めようと動いてしまう。キースは絶え間なくロイにクエスチョンマークを飛ばした。ロイは淡々とそれに答えた。
「それよりも最近に入ってきた人は?」
「いない」
「どれくらいの頻度で地下に新しい患者が入ってくる?」
「二ヵ月に一人くらい」
「じゃあどうしてリオンの後から入った六人はいないんだ?」
「皆死んだ。患者か看守に殺されたか、散歩中に事故に遭って」
「殺した後は、どうする?」
ふと、ロイが歩くのを止めた。いつの間にか二人は、道の突き当りに差し掛かっていた。
ロイが壁を伝って横へと視線を流す。つられてキースも右を向いた。
リオンが、ストーブを焚いてしゃがみ込んでいた。
「遅いよ」
だが、リオンの文句はキースの耳には届かなかった。キースが更に首を動かし、止まった先にあったのはロイの横顔だ。
――その中、ストーブの明かりに照らされて爛々と輝く瞳が、今までにないほど大きくなっていた。ぞわっと嫌な感覚がキースの背中を逆撫でる。
「おお! サンキュ! いやー寒いね!」
幸いにもその光はすぐに消え、同時にロイの平常時の明るさへとリセットされた。キースの身体の力もふっと抜ける。
が、
「っ!」
同じ感覚が、今度はぶわっと姿を丸々見せて全身に襲い掛かった。
ロイが脱いだシャツの下から露わになったのは、幾重にも刻まれた傷跡だった。
ミミズ腫れ、なんていう生易しいものではなかった。皮膚の下で張り付いていた蛇を無理やり引き剥がしたかのような、深い傷跡だった。
本人に聞くことが躊躇われて、キースはリオンに目配せした。リオンはため息をついて声を潜めて言った。
「別に看守にやられたんじゃないよ。アイツらは見逃すかその場で殺すかしかしないから。もともと養子で預かられた家で使用人みたいにこき使われてたみたい。でも元々忘れ癖が異様でさ、若年アルツハイマーっていうの?その予備軍。で、使えなくて鞭で散々にやられたらしい。それに耐えてるうちにおかしくなちゃって。最終的にはここに収まった」
一気に話すと、リオンはまた深くゆっくりと息を吐いた。
「ロイがここに来た理由はね、忘れすぎることと笑いすぎることなんだ。そうでもしなきゃ、生きていけない環境だったせいでね」
「……」
目を反らさず、ストーブの前ではしゃぐロイをじっと見た。縦横無尽に走る傷跡は、浮かべる表情とは不釣り合いすぎた。それが全てを物語っていた。
「ま、ここにいる奴らなんて皆そんなもんだよ。いちいち感傷に浸ってたらキリがない」
やめたやめた、と手をヒラヒラと振るリオンの手を、キースはさっと掴んだ。
「リオンは? リオンはどうしてここにいるの?」
「……言うと思った」
視線を地面に投げながら、リオンはキースの手を振りほどいた。今度は短く息を吐き、のらりとキースの方に顔を戻す。
「僕は、人を殺しすぎたんだ」
「え……」
「そういうところに雇われてただけ。でも、楽しいと思わなきゃやってられない仕事だったから。そのうち何が良くて何がダメなのか分からなくなって、気が付いたら牢屋の中じゃなくてここにぶち込まれた。まぁ、あまり変わらないかもだけど」
「……」
「同情とかやめてよね。結果的にはここに来て良かったって思ってるし。だって、好きになっちゃた殺しをいくらしても怒られないんだよ?いい子にしてれば、もっと殺していいって看守も言ってくれた。案外いいところだよ」
「それは――」
キースの反論は、リオンに突き出されたものによって遮られた。
「いいって言ったらいいの」
そしてキースの手の中にそれを押し込むと、数歩後ろに下がった。
「だから、それはもう必要ない」
手のを広げると、中には小さなカードがあった。
「裏道の出口のカードキー。この先を右に真っすぐ行けば使えるから」
そう言って、キースとロイに背を向けた。
「待って!」
走り去ろうとするリオンを、思わず呼び止める。
「……何?」
振り向きもせず、不機嫌を丸出しにして答えたリオンに、キースはかける言葉を迷った。
▼何ヲ言ウ?
「ありがとう。お礼が言いたくて」→4へ
「行かないで。一緒にいてほしい」→25へ
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