14
突然、煙臭さが鼻にツンと来た。辿るようにして視線を動かすと、ロビーの窓際で煙草を蒸かしている青年に行き着いた。キースと同じくらいの年齢だろう。しかしタンクトップから除く腕の太さは彼より二回りも大きかった。
「やあ」
気さくに話しかけてみる。じろりとこちらを向く視線を流すように、キースは隣の椅子に腰かけた。
「君はここに居てどれくらいになる?」
「ん? ああ、そうだな……」
ありきたりな市販の煙草をまた咥え、彼は窓の外に視線を投げた。
「考えたこともないな。そんだけ長い。ここのロビーをうろついてる奴は大体そうだ。部屋ん中じゃ見飽きたもんばかりで、暇すぎて徘徊してる。すぐ出ていく一般患者は見舞いも来るし、ベッドの上にいるだけでも退屈しないからな」
「そうなのか?」
もう一度辺りを見渡す。しかしキースには「普通」に患者たちが寛いでいるようにしか見えなかった。
「ここに住み着いてる奴にしか分かんねえよ。例えばほら、あのばあさん」
青年が指さした先には、日なたでウトウトしている車いすのおばあさんがいた。
「毎日同じ時間に同じ場所にいる」
「そりゃ習慣なんだろ?」
「傍から見れば普通に見えるんだろうけどな」
キースの肩がピクリと動いた。
「もう五年もあそこにいるんだぜ?」
せせら笑う青年の口から、ゴボゴボと煙が溢れる。噂の影が、湧き出てくるように。
息を呑むキースに、青年は顔を寄せた。
「お前、見ない顔だな。新入りか?」
「新入り? 少なくとも俺は入院はしないよ。これから帰るところなんだが……」
手土産にエス病棟の噂について確かめたくてね、とは言えなかった。だが、青年は怪訝そうな顔一つせず、笑ったままだった。
「どうせ興味本位で探り入れに来たんだろ?しかし俺を選んだのは当たりだったな。まだ俺は人を道連れにするようなキチガイじゃないからな」
「おい、どういう――」
「皆そうだ。ああ……皆消されるんだ。消されるんだ! あいつも、あいつも、あいつも! ちょっと頭がイカれてるだけでよぉ! 何も病気してないのに死んじまう!」
「おい、どうした?!」
「あのばあさんだってなぁ!」
狼狽えるしかないキースの肩にグイと顎を乗せ、遠くを見たまま彼は言った。
「――今日中にガス室でぽっくりだ」
そしてキースを突き放すと、彼は笑った。笑って、笑って、笑って笑った。どんどんと吊り上がっていく口角が、終いには裂けてしまいそうになった頃、
「何をしている!」
ここを巡回しているらしい管理人数人が、笑いながらクルクルと回り始めた青年を取り押さえた。それでも彼は笑ったままだった。
「おい! 連れて行け!」
「あの人はもういらないから、車いすを――」
「連行するようならキメラ実験の方に……」
「だったら地下室の経路で……」
騒がしく口々に管理人たちが話をしている。何を言っているかまではよく分からない。が、そのうちの一人がこちらを見た。
「君、ちょっと宥めるのを手伝ってくれないかい?」
「はい?」
彼の友人とでも思われたのだろうか、暴れて埒が明かない青年の脇へと促された。
「……えっと、あのさ、さっきの話って本当?」
何を言っていいのか分からず、とりあえず話を続けてみた。ふと、青年の動きがピタリと止まった。
「へぇ。信じるんだ」
「嘘だと思いたいけど……興味本位で首を突っ込んでお目当ての話が出てきたんなら、確かめたくなるだろ?」
「ふーん」
大人しくなった青年はゆらりと立ち上がると、運ばれてきた車いすに座った。そして手すりをバンバンと叩く。
「まだ温かい。ほら」
促されて見やると、先ほどのおばあさんが管理人に手を引かれ、遠くの廊下へと消えていった。
「こいつの主は今から俺になったんだよ。それが全てだ!」
アクセル全開に手すりに付いたレバーを引き、ギュインと車いすが猛スピードで前に出た。加速と共に青年の姿は遠くなっていくはずなのに、笑い声はどんどん大きく聞こえる。遅れて管理人たちが彼を追いかけた。そしてキースも。
どうして付いて行こうと思ったのか、はっきりとは分からない。ただ、ここで見失ったらもうずっと会えないような気がして、特に別れを惜しむような仲ではなくともそれはいけないことのような気がして、なんとなく後に続いてしまったのだ。青年の笑い声が、呼んでいるような気がして。
ただ青年の背中一点を見つめて、キースはひたすら追った。呑まれていく周りの景色はみるみるうちに変わって行き、どんどん暗みを帯びてくる。それでもひたすらキースは追った。前方に存在する未知の暗闇に怯むこともなく、青年を止めることもせず、ひたすら追った。
だが、
「待て!」
管理員の一声で我に返って足を止めてしまった。切っていた風が止み、熱がむせ上がってくる。
突然ガタンッと荒っぽい音が響いたと思うと、ジガガガと金属が軋む音がした。
「何だ?!」
見ると、廊下いっぱいの幅を使ってシャッターが降りてきている。その向こうで、青年の背中がどんどん小さくなっていく。
「どうしたんですか? 早く追わないと!」
「……ここから先は看守たちの仕事だ」
「っ……」
管理員の一人が、唸るように低い声で呟いた。途端、キースから噴き出ていた汗が身体を冷やすものに変わった。
「撤収!」
その一声で、管理員たちは踵を返すとワラワラと散った。
「君も戻りなさい」
最後にキースに背中を向けた管理員が、一言投げて遠のいて行った。
シャッターはゆっくりと下がっていく。
▼ドウスル?
・管理員の言うことを聞いて戻る →23へ
・青年を追うため先の道に飛び込む →10へ
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