四章 また明日、真相
四章
また明日、真相
1
坂林との通信はそれ以降何時間待っても繋がることはなかった。もう、午前四時。朝刊を配達しに来たバイクの音をずいぶん前に聞いたような気がした。
犯人にやられた。坂林は電話越しにそう言った。その犯人というのはつまり、一連の殺人事件の犯人である金色の短髪をした、身長一六〇センチの男。そいつが坂林の命を狙いに来た。
頬を切られたらしいが、命に別状はないと言っていた。自らの意思で救急車を呼ぶことができたということは、少なくともそのとき坂林は犯人から逃げ
問題は……。
なぜ、坂林は狙われたかだ。
別にあたしたちは内密で動いているわけではないが、それでも犯人の尻尾を掴んだ瞬間に襲われるなんてタイミングがよすぎる。
名探偵シゲル――ミツイアキラ。
あのやろうが犯人にチクったことは間違いなかった。あたしに察せられたと思ったあいつは、重要な戦力である坂林を潰しに来たのだ。あいつらなら坂林の家の住所くらい簡単に調べられるだろうし、もしかしたらすでに調べてあったのかもしれない。最低だ。自分は犯人じゃないとか言っておきながら、犯人に密告しちゃ立派な共犯じゃないか。
犯人はシゲルと名乗ったと言った。ミツイアキラが弟の名である『シゲル』を名乗っているのと同様、犯人もミツイシゲルの近くにいる人間だと考えられる。今のところ坂林の情報からわかり得るミツイシゲルの近辺にいる人間はミツイアキラとミツイトシ、そしてスズノシンイチの三人。ミツイアキラと共犯関係にあるということは、犯人とアキラも親しい中である可能性が高い。すると、ミツイトシもスズノシンイチその条件に
坂林は無事だろうか。命に別状はないと言っていたが、頬を切られたのでは、恐らく縫うことになるだろう。せっかく手がかりを掴んだというのに、ここで足止めを食らうことにならなければいいが。そうなれば、まさに犯人の思惑通りだ。
そんなことを考えながら、あたしはいい加減眠りに付くことにした。
ったく、夜更かしは肌に悪いっていうのに。
ベッドに横になると、眠気はドッと押し寄せてきて、意識があっという間に遠のいた。
耳元で大音量の音楽が流れ出し、あたしは飛び起きる。もうすっかり日は昇り、明るくなっていた。机の上に置かれた目覚まし時計は9時を指している。
その爆音の正体が携帯の着信音であることに気付いたあたしは眠気まなこを擦りながら電話に出た。
「もしもし」
『もしもし、僕だよ、坂林』
目がすっかり覚める。
「坂林くん? 大丈夫だった?」
『うん。やっぱり命に別状はなかったよ。ただ、ものすごい激痛だよ、これは。喋るのが辛い』
「ああ、頬だから? 喋っていいの? 傷口開いたりしない?」
『うん、大丈夫なはず。それに頬と言っても、口よりは目の方に近いから。これがね、痛くて顔を顰めると、傷口が動いてさらに痛くなるっていう悪循環が起きるんだよ。ははは。いてて……』
やたらと明るい口調なのは、きっとあたしに心配をかけたくないという坂林の配慮なのだろう。
それならそれであたしも坂林の望むよう、あまり気遣わずに、早々話を切り出すことにしよう思う。
「……その犯人はやっぱり?」
あたしがそう振ると、坂林も途端に口調が変わる。
『ほぼ間違いないと思う。目撃証言とも一致したし。金髪のショートにサングラスをかけた、小柄な男。すぐに逃げたから、顔はよく覚えてないけど』
「そうそう、あんた逃げるってどうやって逃げたのさ? っていうか、犯人が持ってたのはやっぱり包丁?」
『包丁だったよ。それから、僕がどうやって逃げたのかだけど、僕はドアを開けたときにチェーンをかけておいたから助かったんだよ。ドアを開けた瞬間、包丁を顔面目掛けて突きつけてきたんだ。慌てて仰け反ったけど、そのとき頬をやっちゃったってわけさ』
チェーンをかけておいたからよかったものの、もしそのときチェーンを外して開けていたら――。
「何でもっと注意しなかったのよ。殺人犯を捕まえる調査をしてるのよ。命を狙われる危険性くらい考えてないの?」
『返す言葉もないよ。誰が来たか、もっと注意していればよかった。ただ、一言だけ言い分けさせてもらうと、あのときはハルちゃんに早く情報を伝えようと興奮してたし、寝不足だったから思考能力も上手く働かなかったんだよ』
しょんぼりとしている坂林の姿が浮かんだ。
「つーか、今、それ携帯?」
『まさか。病院備え付けの公衆電話だよ。院内は携帯禁止だったから、昨日のうちにはハルちゃんに電話することができなかったんだよ。それに携帯も家に忘れてきちゃってそもそも手元にないしね。それに、警察にも話を聞かれてたんだ。だから、今こうしてかけたんだけど』
それならそうと言っておいてくれればもっと早く寝ることができたのに――って電話することができないのにどうやってそれを伝えるんだよ。小さく笑う。
「それで、やっぱりあの名探偵が犯人にチクったんだと思う?」
『うん……』反応が鈍い。もっとはっきりとした応答が返ってくると思ったのに。『その可能性は高いよね』
「その可能性?」その言い方ではまるで他にも可能性があるみたいじゃないか。「それ以外の状況なんて考えられる? だって、坂林くんの家の住所なんて、名探偵にでも聞かなくちゃ知り得ないわけでしょ?」
『それは確かにシゲルくんに聞いたんだろうね。だから、シゲルくんと犯人に深い繋がりがあるということはほぼ確実だよ。けど、シゲルくんが犯人にチクったのではなく、犯人の方からシゲルくんに僕の家の住所を聞いたという可能性も考えられない? 犯人が僕たちの存在に気付いて僕を始末しようとした、とか』
「どうやって犯人はあたしたちが事件のことを調べてるって知ったのよ。いくら何でも、たまたまあたしたちを見かけたってことは考えられないでしょ」
『いや、でもその可能性も考えられるよ。だって、僕たちはシゲルくんの事務所を連続して訪れているんだよ? 二日連続ともなれば確率的にも犯人と遭遇する可能性は高くなる』
犯人と遭遇している? すでにあたしたちが?
「それで名探偵にあたしたちのことを聞いたと? あいつらは何者だって。……まあ、考えられなくもないけど」
『それからもう一つの可能性。それは僕、あるいはハルちゃんが事件を捜査していく過程で、犯人と接触していたという可能性。当然、犯人だって事件関係者なわけだ。事件関係者を調べているうちに、僕たちが気付いていないだけでもしかしたらもう僕たちは犯人と接触しているのかもしれない』
もう、犯人と接触しているか。けど、いくら思い返してみても金色の短髪をした身長一六〇の男になどは遭遇していなかった。というか、美樹ちゃんの死後、身長一六〇センチの男となんて話をしていない。……いや、一人拓人とは話をしたけれど。あいつはそもそも事件とは関係ないだろう。髪も黒色だし。
「……坂林くんはどうしてそんなに名探偵が犯人に密告をした、という可能性を否定したがるの?」
『引っかかるからだよ』
「引っかかる?」
『彼は僕に自分の身元を調べてみろと挑戦的な態度を取ったよね?あれは、僕がいくら調べようと自分の身元は特定されるはずがないという自信からのものだったと思うんだ』あの最初に会ったときの嫌味なくらいに自信に満ち溢れていた姿を思い出す。『けど犯人が僕を襲った理由は、シゲルくんの身元を特定されて、そこから犯人自信が炙り出されるのを恐れたからなわけだろ? ここに矛盾が生まれないかい? シゲルくんは僕がいくら彼の身元を調べようと関係ないと思ってる。逆に犯人はシゲルくんの過去から自らが特定されることを恐れている。二人は全く逆の思想を持っていたわけだ。このとき、僕たちの存在を知っていたのがシゲルくんだけだったと仮定すると、どうかな? シゲルくんは果たして犯人に僕たちのことを話すだろうか』
「話すんじゃない? 一応、調べてる人間がいるって」
『話すかもしれない。じゃあ、その内容はどのようなものになると思う?』
「どんなものって……『自分のことを調べてる奴がいるから、もしかしたらおまえのこともバレるかもしれない』?」
『違うよ。彼は僕のことを無能だと思ってる。なら『私たちのことを調べてる連中がいるが、気にすることはない』が正解だ。彼にとって、僕たちは取るに足らない存在だと思ってるようだからね。絶対に犯人に圧力がかかるような言い方はしないと思うんだ。むしろ、気楽にいていい、みたいなことを言ったと思う』
「それじゃあ何? もしあの名探偵があたしたちのことを犯人に教えたとしても、犯人もあたしたちのことを見くびるはずだから、坂林くんが襲われるはずがない、ってこと?」
『そういうことだよ』
「ちょっと待って」あたしは頭をフル回転させて情報の処理を行う。「それでも、こうも考えられるよ。名探偵から心配するなと言われたけれど、やっぱり心配になって殺しに行くことにしたっていう可能性」
『そこだよ。犯人はどうして急に心配になったのか』
「そんなの、何の前触れもなく急に心配になったんじゃない?」
『何の前触れもなく、か。けど、こうは考えられないかい? シゲルくんからは僕は無能な人間だということを伝えられた。けど、別の人物から話を聞いてみると、僕はもう少しでシゲルくんの身元を特定しようとしているという。さあ大変だ。心配になった犯人は僕の命を狙いに来た』
「そんな馬鹿な。第一、坂林がもう少しで身元を特定しようとしているということを、誰から聞いたのさ」
『決まってる。僕がそのことを教えたのは君しかいない。それならば、君の口から漏れたはずだ。君は、今まで誰に僕が話したことを話した?』
誰に話しただって? あたしがそれを話したのはたったの五人だけだ。
秋穂ちゃん。イズミさん。アイちゃん。カンナちゃん。そして、アオイ。
2
それから、アキ兄は本当に高校には進学せずに探偵の元に弟子入りをした。
僕のお父さんとお母さんは当たり前のことながらアキ兄が探偵になるということを認めはしなかった。二人はアキ兄を県内にある慶陽志水高校に入学させる気でいたのだ。慶陽志水高校は全国でも有数のエリート高校であり、入学できればその時点で人生の八割は幸福が約束されるという素晴らしい特典付きの学校だった。
受験者は埼玉のみならず関東全域から集まるという。けど、アキ兄の頭ならほぼ合格できるはずだった。本当に、アキ兄は頭がいいのだ。のはずなのだけれど、アキ兄は落ちた。他のすべり止めの高校も全て落ちた。その事態は推薦入試でも一般入試でも起きた。つまり、受けた高校が全滅。故意にやっているとしか思えなかった。
お父さんとお母さんは涙を流して大激怒した。アキ兄の顔を見るたび、二人は呆れたような表情を浮かべため息を吐いた。
中学を卒業して、一、二ヶ月の間はアキ兄はちゃんと家に帰ってきていた。その頃にはもう、お父さんもお母さんもアキ兄に何も言わなくなっていた。何を言っても、アキ兄は聞く耳を持たなかったからだ。
そして、アキ兄は書置きを残して家にも帰らなくなった。
『探偵になります。泊り込みで働くことになったので、しばらくは家に戻りません。それでは』
アキ兄は本当に探偵になったのだ。
僕はその書置きを見たとき、顔がニヤけた。
僕の部屋で述べた決心は本気だったようだ。アキ兄は僕が逮捕されないように僕じゃない誰かを捜して探偵になったのだ。アキ兄の行動力はすごい。自分の行動を貫く。この意思の強さだけは見習わなくては。
お父さんとお母さんもその書置きを目にした。お父さんは書置きを握りつぶすと、ゴミ箱に放り込んだ。
二人はどんなリアクションをするのだろうかと、様子を見守ったが、結局何事もなくお母さんは食事を作り、お父さんは仕事にでかけた。まるでアキ兄なんて最初からいなかったみたいに、アキ兄がいなくなっても家に変化はなかった。
※
もう、かれこれ僕も十八になった。高校には行っていない。アキ兄とは違い、ちゃんと受験はして試験にも合格し入学はした。しかし、だんだんと学校には行かなくなり、やがていつの間にか籍がなくなった。お父さんもお母さんもアキ兄の一件のおかげで、もうどうでもいいようだった。僕が数ヶ月だけ通った高校は一応一流高校ではあったが、お父さんもお母さんも入学当初からすでに僕をエリートに育て上げるのを諦めていた。その理由の多くは、恐らく中学卒業と共に髪の毛を短くし、金髪に染めたことに原因があると思う。アキ兄も赤毛にしていたから、金髪くらいではどうってことはないだろうと思ったが、二人は受け入れてくれなかったのだ。
高校に顔を出しても、毛色のことは先生からちょくちょく注意された。学校が疎遠になったわけは多少はここにもあったのかもしれない。
まあ、シゲ兄とサヤちゃんの死後、僕は学校を休みがちになり、元から学校と言うものから遠ざかっていたといえばそうなのだけれど。
サヤちゃんのいない小学校にはもはや興味はなかったし、中学高校でもそれは同じだった。どこに行っても誰もがサヤちゃんよりも劣った存在だった。一流高校に行けば誰か一人くらいはサヤちゃんと並ぶくらいの輝きを持った女の子いると信じていたのに、入学してみたらみなそこら辺に転がっている石ころと同じ程度の人間しかいなかった。
あんなところに言っても意味はないと思った僕は、しかし何もすることはなく、それならばと時間を潰すために仕事を始めた。
仕事は大成功した。
お金は流れ込むように入ってきた。こんなに簡単に稼げるようになるなんて、僕は久々に大笑いしてしまう。僕も家を出て一人暮らしを始めた。
やはり僕は光り輝いているのだ。だから、僅かな光も反射することのできない石ころたちは馬鹿みたいに僕に引き寄せられる。客商売で重要なのは技術でもなければ経験でもない。輝きこそもっとも大事な要素なのだ。
お金に余裕ができた僕は暇な時間、カフェなどに入り時間を潰すようになった。僕がプライベートでよく利用するカフェ。そこでバイトをしていたのが飯野明日香だった。
飯野明日香は本当にサヤちゃんにそっくりだった。顔が似ているわけではない。なんというか、雰囲気とか物腰とかが他の誰とも違い、輝かしかった。
僕がそのカフェを利用するのはたいてい仕事が休みの日だったので、その日もかつらを被らず、ラフな格好でその店を訪れていた。
「あの子は?」
店内に客は少ない。そして、その数少ない客の中でも常連である僕と、店のマスターは簡単な会話を交わすくらいの仲にはなっていた。僕はカンウター席に座り、笑顔のマスターに尋ねた。
「ああ、明日香ちゃんかい?」
初老の人のよさそうな感じのその人(典型的なカフェのマスターだ)はにっこりと笑って言った。
「明日香ちゃん?」
「そう、明日香ちゃん。飯野明日香。そうか、お客さんはちょうど彼女のいない日に来てたんだね。毎週土日の午後に来てくれてるバイトの子だよ」
僕が知っている店員は二十代前半くらいの男と、四十過ぎオバサンの二人だった。
土日はたいてい仕事が入っているので、初めて目にするのも無理はない。今日も土曜日なのだけれど、本日は珍しく休みとなったのだ。
「土日だけってことは、彼女は学生なんですか?」
「高校三年生だって言ってたかな? 今年で卒業するって言ってたからたぶんそうだと思うけど」
へえ、と小さく呟く。
本当にサヤちゃんに似ている。サヤちゃんも生きていたらあんな風にないっていたのだろうか。
僕の中で消えかかっていたあの誰かと親しくなりたいという感情が数年ぶりに甦った。目の前で光り輝いている少女に、近づきたいと思う。
「明日香ちゃんは二ヶ月前から働いてるんだけど、本当にいい子だよ。仕事はちゃんとできるし、人当たりもいい」
性格は顔に出ると言うが、飯野明日香は明るく天真爛漫なように見えた。高校三年生――十八歳ともなれば、大人としての色気が出てきてもいい年頃なのに、そういう類のものが一切見受けられない。入学間もない高校一年生のようだ。
「お客さん、注文はお決まりかな?」
飯野明日香の方をボケーっと見ていた僕は、慌てて反応する。
「ええ、じゃあアメリカンを」
コーヒーはあまり濃くないアメリカンが一番いい。さらっと飲めるのが魅力的である。
「はいよ。ちょいとお待ちを」
マスターはささっとカップを用意し、コーヒーメーカーにセットする。どぱーっと黒い液体がカップの中に溜まっていく。
「明日香ちゃん、これカウンターのお客さんにお願い」
普段は、マスターが
「お待たせしました。アメリカンコーヒーです。お砂糖とミルクはそちらのものをお使いください」
近くで見ると、より一層輝いて見えた。胸が高鳴る。体中にアドレナリンが駆け巡る。
けど、その体内で起きている現象を悟られぬよう、僕は笑顔を作った。
「どうも」それから必死で脳みそを働かせた。何か話題を提供しなくては、会話は始まらない。それも即座に考え出さないと、仕事に戻ってしまう。だから、とにかく口から出ることを手当たり次第に出してみる。「僕はよくこのお店に来るんですが、初めてお会いしましたね」
いきなり馴れ馴れしいかと思ったが、話題にできそうな話題が見つからなかったので仕方がない。いくら僕でも、初対面の、それも僕に全く興味を持っていないであろう人に話しかけるのは勇気のいることだった。
「はじめまして、ですね。常連さんだったんですか」
嫌そうな顔は一切見せず、微笑んでくれた。
「いえ、そんな大層なものじゃないですよ。けど、このお店にはよくお世話になっています。雰囲気が、いいんですよね」
客が少ないのが、逆にいい味を出している。カフェにありがちなジャズなどのBGMも流れていないため店内は極めて静か。コーヒーを入れる音やマスターや店員の足音だけが響くこの空間が好きだった。
「私もですよ!」少女は急に声を弾ませる。「私も、元々はここにお客として来てたんです。なんていうか、このモダンな感じがいいですよね。暖かいっていうか」
不意に、マスターがいつの間に入れたのか、コーヒーの入ったカップを僕のコーヒーカップの横に置いた。
「明日香ちゃんはエスプレッソでいいよね?」
「え?」
少女は驚いた様子でマスターを見やった。僕も状況が掴めず、二人の動向を見守る。
「お店の宣伝をしてくれたサービスだよ。それに接客も重要な仕事だからね。話をするならちゃんと座って、それでも飲みながらしなさい」
「え、でも」
「いいからいいから。今は、お客さんも一人だし、店内の掃除ももう終えたろ? 休憩するといい」
そう言って、僕たちに背を向けた。去り際にマスター再び僕にウインクをした。それを見て、僕はマスターの恩恵に感謝の念を抱いた。
「話って言われても、困りますよね?」
少女は苦笑しながら、それでも僕の隣に腰掛けた。
「はは」
僕も同じような笑みを浮かべてから、僕はミルクの入った小瓶を手に取った。白い、香水の容器のようなそれの中には同じく白色の液体がいっぱいに入っていた。僕は小瓶を傾け、黒色の液体を茶色に染めていく。
「アメリカンがお好きなんですか?」
少女はスプーンでコーヒーをかき混ぜていた僕を見て尋ねた。
「そうですね。アメリカンを、一番飲むかな? 変に当たりはずれがないですし、さらっと飲めますし」
僕はコーヒーを比較的多く飲むけれど、しかしそれにこだわりがあるわけではなかった。ただ単に多くある飲み物の一つとしてコーヒーを好み、コーヒーの種類をあまり知らない僕はとりあえずどこでもアメリカンを飲んでいるというだけのことだった(ちなみに僕はコカコーラとペプシコーラの違いもわからない)。
「私はやっぱエスプレッソが好きですね。濃いのが好きなんです。私の兄がコーヒーをがぶがぶ飲むんですよ。なんで、私も幼い頃からコーヒーをよく飲んでたんですけど、だんだん濃い方へ濃い方へって行っちゃいまして、それで結局エスプレッソばかり飲むようになったんです」
てへへと恥ずかしそうに笑う。
僕は砂糖の入った筒状の紙袋を破って、中身をカップの中に投入した。
「へえ。僕は子供の頃はコーヒーを飲まなかったなぁ。飲めないわけではなかったんですけど、飲む機会がなかったって言うか」
アキ兄もシゲ兄もコーヒーをあまり飲むほうではなかったから、環境的に僕も口にすることは少なかったのだ。
「でも、最近になって気に入ってきたわけですね? そういえば、歳を聞いてませんでしたね。あ、それからよかったら名前も。私は、飯野明日香って言います。土日だけ、ここで働かせてもらってます。高校三年生です」
僕は――言おうとして言葉を飲み込む。
名前、どうしようか。本名を名乗るべきか。だがしかし――。
「僕は、シゲルって言います。年は十八です」
「シゲルさん? 十八ってことは、私と同い年じゃないですか!」
僕は嘘を吐いた。本名を名乗るわけにはいかなかった。騙すつもりなんてないのだけれど、このチャンスをみすみす見逃すわけにはいかなかった。チャンスを逃すわけには――。
「よく、童顔って言われるんでひょっとしたら明日香さんも僕のことを中学生くらいだと思ってました?」
軽いジョークを言ってやる。
「いえ、さすがに中学生は。でも、ちょっと年下かもしれないとは思ってました」
「背もこんなんですしね。中学生のときに身長は止まっちゃったんですよ。今は、一六〇ギリギリあるかないかってくらいですね。そのせいもあって、幼く見えるんでしょう」
「一六〇センチですか? あたしもそのくらいですよ! いやぁ、身長の方は座ってたんで気付きませんでした。そういえば、目線が同じ位置にありますね」
明日香は僕の目を見て笑った。
「うーん、だから、少しでも大人に見られるように髪を金に染めてみたんですよね。友達には似合わないって笑われましたけど」
後半は嘘だ。僕に親しい友達などいない。
前半の大人っぽくというのは半分だけ事実。髪を切るだけではシゲ兄っぽくならなかったので、髪を染めることでシゲ兄の
「似合わなくはないと思いますけど、でも言われてみれば黒の方がしっくり来るかもしれませんね」
明日香ははきはきと言った。
「外を歩くときはサングラスをかけてるんで、そうすると幾分マシになるんですけどねえ。この毛色ともマッチしますし」
「可愛いらしい目をしてるのに勿体ないです!」突然興奮した様子で言い放った明日香のその言葉に僕は目を丸くした。「あ、すいません。つい……。でも、きれいな目をしてるのに隠すなんて勿体ないですよ」
「ははは」僕は苦笑する。「だから隠すんですよ。こんな頭できれいな目をしててどうするんですか。道行く人に笑われちゃいますよ」
「笑われるなんてとんでもないです。みんな振り返って目を見張っちゃいますよ。シゲルさんはなんていうか、華があるっていうか、とにかく人を惹きつけるパワーがあるんですよ。自分では気付いてないかもしれませんが」
「そうだといいです」実際にはその自覚を僕は持っている。人を惹きつける力、それはつまり輝きのことだ。僕は人一倍輝いていると自負している。「でも、僕は中学時代も高校時代も全然もてなかったなぁ。友達もあまりできなかったし」
中学高校と、僕は他人に興味を示さなかったので孤立した。小学生だった頃は、まだサヤちゃんのおかげでクラスメイトたちともうまくやっていたのだけれど、サヤちゃんがいなくなってからと言うもの、クラスメイトたちも僕と距離を置くようになった。それまで明るい口調で騒いでいた僕が、急に静かで無口な生徒になってしまったせいだろう。最初は気遣いのつもりで僕から離れていた生徒たちも、いつまで経っても暗いまま僕をいつしかとうとう見放したのだ。中学に入っても同じだった。こちらから動かなければ友達はできない。元々つまらない人間と付き合う気なんてさらさらなかった僕は必要最低限の言葉以外口にはしなかった。よって、ここでも僕は孤立した。
「嘘ですよ。女の子からモテモテだったでしょう?」
そう思うのはきっと、僕が昔の僕を取り戻しているからだ。
「でも、本当なんですよ。今もプライベートを共にするような友人はいないので、こうして一人でコーヒーを飲みに来てるんです」
ここでやっとコーヒーに口を付けた。やっぱりアメリカンは妙に後味が残らないからいい。少女も僕に
「不思議ですね。絶対に人気がありそうなのに。私がもし同じクラスにシゲルさんみたいな人がいたら友達になりたいって思ってますよ。あ、お客さん相手に友達って言うのも厚かましいですけど」
またしてもてへへと笑った。
「そんなことないですよ。僕も、ここのところこんな風に人とあまり話をしたことがなかったので嬉しいです」
僕を目を細めてそう言った。
そこで、不意に扉の開く音がした。扉が開く音というのはつまり、扉に付けたベルが奏でる音のこと。それは客の訪れを意味する。明日香はさっと立った。
「いらっしゃいませ」
鞄を持ったスーツの男が立っていた。明日香はそちらに向かう。
「どうぞこちらへ」
僕は残っていたコーヒーを一気に口の中に入れる。それから僕はマスターに告げる。
「ごちそうさま。お会計お願いします」
財布からコーヒーの代金である二八〇円を取り出すと、入り口わきにあるレジまで歩いていく。マスターはゆったりとした、尚且つ早い歩みでカウンターから出てくる。
「あっ」
お客さんを案内し終えた明日香が帰る僕の姿を見て、小さく声を上げた。
「もう帰っちゃうんですか?」
「ええ。新しいお客さんが来てはこのまま話してるのは迷惑だと思いまして。それに、これから用事があるんです」
もちろん用事なんてない。今日は仕事は休みの日なのだ。
「……用事なら仕方ないですね」
心なしか、肩を落として見せた。
「また、土日に来ますよ。そのときに余裕があるようでしたらまた話し相手になってください」
僕はマスターに小銭を渡す。
「はい、もちろん。お待ちしてます」
「それじゃ。ごちそうさま」
一礼して店を出て行く。
店を出ると急に現実に戻った気がした。
寂しさのようなものを感じながら、僕は帰路につく。
来週になったら、また来よう。
それから僕は土日も時間を作ってそのカフェに通うようになり、すると次第に飯野明日香との関係は親密なものになって行ってプライベートでも会うような仲になった。
告白は僕の方からだった。
サヤちゃんの一件があったせいで、僕は告白をするという行為にひどく恐怖していたのだけれど、明日香は笑顔で僕を受け入れてくれた。そのときは素直に嬉しかった。心の底にあった暗闇に、一筋の光が通ったようにさえ思えた。
こんなに簡単に快諾してくれた理由の一つには明日香自信が僕の本性を知らないということが上げられるだろう。
僕は明日香を騙している。
嘘を吐かなくては親密な関係を築くことなどできないと考えていた。
僕たちは流されるままにホテルに入っていった。ホテルと言ってもラブホテルではなく、ビジネスホテルだった。まだ明日香は高校生だったから下手に目撃されるとまずいので、という配慮によるものだ。
先にシャワーを浴びたのは明日香だった。このとき、僕は逡巡していた。このまま進めば間違いなく僕の本性がバレてしまう。このまま
バスタオルを体に巻きつけた明日香が風呂場から出てくる。
「……はい、シゲルの番だよ」
明日香は照れたように笑った。
その顔を見て僕は自分の気持ちを落ち着かせた。
大丈夫だ。明日香なら僕の全てを受け入れてくれる。僕は風呂場に行き、服を脱ぎ捨てると蛇口を捻りお湯を頭から浴びる。鏡に細身の華奢な体が映った。そんな自分が嫌で、毎日欠かさず筋トレをしたおかげで大分マシな体にはなったけれど、それでも小柄な体系が変わるわけではない。
どうせ、セックスはできないと僕はわかっていたけれどそれでも入念に体を洗った。身も心も清い状態で明日香に接したかった。
風呂場を出るとき、僕はもう一度だけ自分を落ち着かせる。大丈夫だ。明日香は僕の輝きに惹きつけられてる。互いに互いを必要としている。だからこういう状況になっているんだ。
一つ大きく深呼吸をすると風呂場を後にする。
明日香は僕を見て目を丸くした。僕は腰に巻きつけていたタオルを取る。
「実は――」
※
明日香は僕を拒否した。
だから次に会ったとき、僕は話があると言ってホテルに呼び込み、そこで明日香を殺すことにした。
下準備に抜かりはなかった。カツラ、同じ服、ナイフ、紐、タオル、ガムテープ。体を鍛えておいたおかげで腕力で簡単に拘束することができた。
「おまえは僕を拒んだ。おまえで二人目だよ。僕が愛した女性、そして僕を拒否した女性は」
明日香は怯えた顔で僕を見た。あのときのサヤちゃんと同じ目をしていた。
持ってきたバッグの中からナイフを取り出すと、明日香のズボンと下着を下ろし、陰部にナイフを突き立てた。
これは僕の怒りであると共に、性行為のできない僕の愛情表現でもある。
何度も何度もナイフを突き刺す。
初めてのときは痛いとか、血が出るとか言うけれど、明日香からは尋常じゃないほどの血が出て、苦痛に顔を歪めてもがいていた。
もっと僕を感じてくれ。僕の怒りを。僕の愛情を。
行為が終わると、僕は体に付いた血を洗い流し予め用意しておいた女物の服に着替え、着てきた服はバッグにしまう。明日香のヘアスタイルとよく似たカツラをかぶる。
これで
最後に振り返る。
ベッドでは、輝きを失った明日香が力なく横たわっていた。
3
「でも、あの中に犯人がいるなんてありえない! だって、あの中で唯一の男といえばアオイさんだけなんだから。アオイさんは確かに金髪だけど、でも身長は一八〇センチだし、髪型だって長髪だよ。それに坂林くんだって知ってるでしょ? アオイさんがどんな人物か」
いきり立てて言うと、坂林はしばらく黙り込んだ。
『あの中ってことは、やっぱり君は昨日会ったっていう五人以外には話してないんだね』
そう静かに呟いた。
「そうだけど……。でも、だからってアオイさんが犯人なわけ――」
『それ、本当にアオイくんなのかな?』
「え?」坂林の問いにしばし固まる。「どういうこと?」
『その人物がアオイくんに成りすました犯人だってことは、考えられない?』
電話を持つ手に力がこもる。
「そんな、そんなわけないでしょう?」
『それがあり得るんだよ。僕が君に坂林武治を名乗っていたのと同じように、最初から素性を隠すつもりで近づいたのなら本名は名乗らない。その人物の名前が本名であるかなんてのは初対面じゃわからない。それと同じように、その人物がアオイくんに成りすましていた犯人だったとしても、君にはわからないわけだ』
「でも、何度も言うけど髪型だって身長だって違うのよ」
『髪はカツラでどうにでもなる。犯人は髪が短いらしいから、それほど手間をかけることなくつけることができると思うよ。身長の方はわからないけれど、もしかしたら足を曲げていたり体を
「そんなのこじ付けだよ」
『かもしれない。けどその人物が本当にアオイくんかどうかはっきりさせる方法が一つある』
「……どんな方法よ」
『アオイくんの写真があればいい。ハルちゃんはアオイくんのメールアドレスを知ってるだろ? 今すぐ写メで送ってもらってくれ。僕はアオイくんの顔を知っているから、その写真を見れば本物かどうか、一発でわかる』
「そりゃ、坂林くんはアオイさんの顔を知ってるだろうけど、何年か会ってないんじゃないの? それに、アオイさんだってそんないきなり写メをくれって言って送ってくれるかどうか……」
『緊急だって言うんだ。それでもダメだって言うんだったら――それはその人物が何かに警戒していると考えた方がいい。つまり――』
「顔写真が私の手に渡るのを恐れたとしたら、その理由はアオイくんが犯人だからって言いたいの?」
『言い切れないけど、その青年がアオイくんと確認できない以上はそう考えておいた方がいい』
いろいろな感情があたしの中で
「わかった。メールして見る。それじゃ、写真が来たら坂林くんの携帯に送ればいい?」
『いいよ。でも、携帯は今家にあるからこれから病院を出て家に向かわなければならない。もう、帰っても大丈夫だって医者にも言われてるからそれは問題ないんだけど、携帯を見るまでに少し時間がかかる。それに、それまでの間、ハルちゃんから僕に連絡できる手段がなくなるけど……』
「じゃあ、電話を切ったらすぐに家に向かって」
『了解。それから、シゲルくんの過去の関係者であるスズノシンイチとミツイシゲルの顔写真も探してみるよ。もし、ハルちゃんが犯人と接触しているのなら、昔の写真でもその人物に見覚えがあるかもしれない。そういう人物がいたとしたら、そいつが犯人である可能性は極めて高いことになる。……そのアオイくんを名乗ってる人物がスズノシンイチの写真と被ればその『アオイくん』こそが犯人ということになる』
「ちょっと待ってよ」あたしはその言葉に疑問を覚える。「どうしてスズノシンイに絞れちゃうわけ? 他にももう一人、ミツイアキラの周りには関係の深い人物がいたって言ってなかった?」
ミツイトシだ。
『ミツイアキラ――シゲルくんが親しかった人物は、調べられる限りでは確かに三人いる。けど、ミツイアキラの弟であるミツイシゲルはもう死んでるんだ。だから、ミツイアキラの関係者で一番怪しいのは必然的にスズノシンイチに――』
「ちょっと待ってよ。ミツイトシは? 何で容疑者から除外されてるの?」
『え? だって犯人は男でしょ?』
は? 何をこの期に及んで何を言う。
「決まってるじゃない。それなのに何で、弟であるミツイトシは除外されてるのかって聞いてるのよ」
『へ? 何を言ってるんだ』坂林の方も頓狂な声を上げた。『ミツイ
「妹……?」
『そうだよ。妹、ミツイイトシは女性だよ』
4
それから僕は服部優子、名塚ミドリ、相川リカコと次々と殺していった。理由は述べるまでもない。みな、僕を一度は受け入れながら最終的に僕を拒否したのだ。
誰も理解してくれない。明日香も優子もミドリもリカコも僕が女だとわかった瞬間にそろって表情を曇らせた。僕が男ではないと理解すると、そのときから態度はよそよそしい物になった。うんざりだった。
サヤちゃんだってそうだ。僕を女友達だと思っているうちは親しく接してくれた。けれど、僕が殺人鬼だとわかると、そして僕がサヤちゃんに好意を持っていると知ると、僕を不気味なものを見る目に変わり、気持ち悪いと僕を罵った。
同性愛者。
それは悪なのか? 同性愛者であるという理由だけで僕は誰も愛しちゃいけないって言うのか?
――本当におまえはシゲルにそっくりだな。
アキ兄の言葉が甦る。
容姿、好み、性格、そして性癖。その全てが僕とシゲ兄は似通っていた。
シゲ兄の好きな人物がシンイチくんであると聞いたとき、僕は驚愕した。シゲ兄も同性に好意を抱いていた。それも僕の愛していたサヤちゃんの兄であるシンイチくん! 二人は兄弟だけあって瓜二つとまでは行かないものの、並べば兄弟だとはっきりわかるほど顔立ちは似ていた。好きになる相手の特徴もそっくりだったわけだ。
僕とシゲ兄は限りなく存在が重なり合っていた。
だから、僕はシゲ兄を殺した。
確かにサヤちゃんをフったというのも動機の一つに上げられるけれど、しかしそんなことは些細なことだった。
あのとき、シゲ兄を殺したとき、僕はどう思った? どうも《、、、》
サヤちゃんを奪い取ることができた? サヤちゃんを悲しませた人物を殺すことができてよかった? そんなのは後から取って付けた感情に過ぎない。
あのときの感情は本当に無だった。
それがどうしてだか、今ならよくわかる。
シゲ兄が死んでも
シゲ兄というオリジナルがいなくなればレプリカの僕でも輝けるから。
『シゲル』は二人もいらない。
アキ兄はシゲ兄の死後の僕の変貌をシゲ兄の死のショックによるものだと見当違いな考えを持ったようだけれど、それは違う。僕はシゲ兄が死ぬことでようやく自分らしさというものを持ち始めただけだ。
僕らしい僕とは、つまりシゲ兄のような僕。シゲ兄になることが僕の自分らしさであり、自己表現なのだ。
だから、僕はシゲ兄にのようになることができたと確信したから僕はサヤちゃんに告白をすることができた。サヤちゃんはシゲ兄のことが好きだ。だから僕が本当にシゲ兄のようになっているのならば告白は成功するはずだ。
しかし結果は惨敗。
そして口封じのためのサヤちゃんの殺害。
あのあと涙したのを、今もまだ覚えている。
あの涙はサヤちゃんにフラれた悲しみによるものではないし、サヤちゃんを殺してしまったことによる喪失感から流れ出たものでもなかった。サヤちゃんにフラれることで、僕は自分がシゲ兄になり切れていないという事実に無意識ながら気付いたのだ。悔しさ。認められない怒り。涙の起因はまさしくそういう感情だった。
小学校卒業と同時に僕は思い至る。
女であるうちはシゲ兄にはなれないと。
中学に通うときはさすがに男子の制服を着ていくことはできなかったので、大人しく女子の制服を着て学校に行った。だけど、髪が長いのはどうにも許せず、男子のスポーツ刈りの類と同じような髪型にしていた。
一番困ったのはスカートの丈についてだった。ファッション性を考えると、できるだけ短く見せておいたほうがいいのだけれど、どうにも自分を女としてアピールするのが躊躇われて、なら膝下まで丈を下げようかと思ったかと言うと、それもダサイので許せなかった。僕はズボンを履いて腰パンという格好をしたかったのだけれど、当然スカートではそんなことができるわけなく、仕方なく格好を優先させる形でスカートの丈を短くした。
部活が始まるまでの数週の間、僕は違う小学校から来た子達に話しかけられた。運動部に入るの? バスケ? バレー? 陸上? それらの質問は恐らくこの髪型を見て、僕が運動部に入るために気合を入れて切ってきたのだと勘違いしたためだった。部活は全入制だったので、仕方なく廃部寸前の英語部に入部した。僕は顔合わせのときだけ行って、それから英語部の部室である三年一組には顔を出さなかった。
最初のうちは誰もが僕に話しかけた。小学校からの知り合いたちも『中学もよろしくね』と形ばかり親しげに接してきた。けど、どれも僕は冷たくあしらった。いや、露骨に嫌そうな顔をしなかったが、笑みを返すだけでこちらから話題を提供すると言うことはしなかったし、集団に歩み寄ると言うこともしなかった。基本的には一人でいた。すると自然に誰も近寄らなくなった。
それから数日が経って、『僕は事故で兄を失ってからああいう風に暗くなった』という噂が流れた。きっと、同じ小学校だった誰かが話題づくりのために僕を利用したのだ。まあ、それにも我関せずで、自分からシゲ兄のことを誰かに話そうとはしなかった。
そんな態度を続けたり、学校をしょっちゅう休んだりしてるうちに友達と呼べる人間はいなくなった。というか、そもそも最初からそんな人間、僕にはいなかった。僕が唯一友達という存在になれたのは今までサヤちゃんだけだった。
何も作らないまま、何も残さないまま僕は中学を卒業し、晴れて高校に入学したのだけれど、ろくに行かずに結局退学という形で高校生活は幕を閉じた。
それから僕は働いた。
働かざるもの食うべからず。
そういう概念が働いたわけではないかもしれなかったが、暇つぶしのために働くことにした。
援助交際。
女の子の格好をするのは中学校の制服のおかげで慣れてしまっていた。もちろん、好き好んで履きたいものではなかったけれど、仕事として割り切ればスカートを履くこともカツラを被ることも自称を『私』と名乗ることも抵抗なく行うことができた。
カツラを被り、化粧をすると長年『シゲ兄』として生きてきた僕でもそれらしい容姿になれた。基本的にこれは『イトシ』の体なのだ。背も高くないし、体つきも
化粧はすごい。ものの数十分で別人になることができる。鏡には成長した『ミツイイトシ』の姿が映っていた。成長したといってもあの頃とほとんど変わらない顔。けど、化粧のせいでいくらか大人っぽく見えるのだ。
お客はどんどん増え、収入は日に日に増していった。
そういう生活を送る中で、僕は明日香と出会い、優子に告白し、ミドリとデートに出かけ、リカコにフラれ、そしてつい先日、水野咲という少女を殺した。
彼女らは『シゲ兄』としての僕は受け入れてくれるが、服を脱いだ瞬間に入れ替わる『イトシ』の方は拒絶した。
そうさ。いくら僕の内面がどうであろうと、外見は女の子なのだ。セックスをしようにもできないし、子供を孕ますこともできないし、正式に結婚することもできない。けど、だからって、化け物を見るような目をすることはないだろう! 醜悪なものを見たときのように顔を顰めるな!
直後、僕は用意しておいたビニール紐で両手両足を縛られたサヤちゃん似のその子たちの膣にナイフを向けている。
部屋中に血の臭いが立ち込め、ああまたやってしまったと思う。
僕の裸を見て驚愕の色を浮かべるその瞳は、僕が『シゲ兄』になり切れていないことを批判しているように思えて頭に血が上るのだ。おまえはどこまでも言ったって『シゲル』にはなれない。おまえは一生『イトシ』のままなんだと暗に言っているように聞こえてしまう。僕が『シゲ兄』になり切れていれば、『イトシ』という存在を完璧なまでに塗りつぶしていれば僕は否定されない。拒まれるということはつまりそれができていないということなのだ。
皮肉なことに、僕が好きになった女の子はそろって僕を拒否する。サヤちゃんに似ている女の子に好意を寄せると、決まってサヤちゃんと同じように僕をフり、サヤちゃんと同じように僕に殺されていく。
水野咲を手にかけたとき、これはもはや変えられない運命なのだと僕はその場で笑った。僕の恋は一生実らないのだと自嘲した。
それでも、そんな神様から見放された僕でも唯一、神様が力を貸してくれてると思うときがある。それは何人もの人を殺してきているのに捕まらないと不意に気付くときだ。シゲ兄を道路に突き飛ばしてから十年、サヤちゃんに感づかれたり、シンイチくんの推理によって追い詰められたり、アキ兄が真相を知っても尚犯人を捜し求めたりと、いろいろあったが、それでも僕は今もこうして自由の身でいられている。
どんなピンチに追い込まれようとも最終的には僕が勝つのだ。それは僕が凡人とは違うから。輝きが違うから。
そして、僕の日常を揺るがすメールはメールのみでやり取りをしている同職者から送られてきた。
『身長、一六〇センチ前後の女の子は連続殺人事件の犯人に狙われる危険性があります』
その文面の他にもこのチェーンメールの発信者らしき人物の簡単な自己紹介。また、その発信者の友達である水野咲が殺されたということ。そして事件について調べていると書かれていた。
犯人像についてはニュースでもやっていた。ニュースでも犯人は男として報道されていた。犯人の身長が一六〇センチ前後であるということも流れていた。けれど、僕が殺してきた女の子――僕が付き合ってきた女の子たちがみな一六〇センチだなんて伝えているメディアはなかった。なのに――。
本格的に動いている人物がいる。
それも僕の全く知らないところで知らない人物が。
水野咲が死んだのは昨日の今日だっていうのに、もう。
これは僕も動かなければならないと思った。
こちらからもメールの送り主である『ハルノ』に圧力を加えていかなければならない。まさか、事件とはほとんど関係のない人物が僕にたどり着くことなどまずありえないと思ったが、それでも野放しにしておくほど余裕があるわけでもなかった。調べ始めたのが水野咲が殺されたのを知ってからだったとすると、些か有能すぎる。念のためにもどこまで事件について調べているのか確認を取る必要があった。それに、いざというときのために個人情報も調べておかなければならない。住所や電話番号を本人が出し渋るようならアキ兄に調査を頼めばいい。本当に有能な探偵になってしまったアキ兄にとっては造作もないことだろう。理由は適当にでっち上げれば、アキ兄はそれを疑いもせず信じてくれるだろう。例えばそいつがストーカーだとか言えば、すぐに行動に移してくれるはずだ。
あたしはそのメールの発信者であるハルノと連絡を取りたいと、メール友達に頼んでみた。その友達も自分に送ってきた友人に聞いてみるという。そうして数十分が経過した頃、ようやくメールが返ってきた。
直接メールしてくれと、アドレスの載ったメールが送られてきた。
僕はそのアドレスに僕も事件の被害者の友人である風を装って送信した。すると翌日に土袋に来るように指示された。
あはは。
もっと手こずるかと思えば。ガードはがたがたじゃないか。
どうやら別に影でこそこそ動き回っているわけでもなさそうだ。
明日は夕から仕事が入っていたけれど、まあいいだろう。行けそうになかったら、適当な理由を付けて断ればいい。年上のオジサンたちも僕の前では奴隷も同然だったから、僕が謝罪をすれば紳士的に対応してくれる。
こんな形で、いきなり明日、一戦を交えることになるとは思わなかったが、いきなりは毎度のことだ。もはや慣れた。
犯人とバレぬよう、仕事のときの格好で行こう。カツラを被って可愛らしい服を着て。
向こうだって犯人は男であると思ってるはずだ。それならば可愛い格好をしていくことで、より犯人像からかけ離れることができる。
メールが届いたときには強襲をかけられたような気持ちにすらなったが、事件が忘れ去られる日が来るまでの間にこういうことは必ず起きるのだ。いずれ起こるであろうことが、たまたま今日起きただけなのだ。
よかろう。向かい撃とうじゃないか。
僕はメールで明日行くことを告げる。
さて、今回はどんな風に山を乗り越えることになるのか。
結局、推理が行き詰ってそこでお終いか。
それとも真相に至ったはいいが、僕に殺されこの世におさらばか。
あるいは――。
5
「妹……女……女性?」
あたしは突然の出来事に状況を口に出して理解を試みる。
『そうだよ。上二人が男で三番目が女。だからミツイイトシはシゲルくんの妹』
妹……だって?
「え……でも」勘違いの原因を探る。いったいどこで間違えたのか。単純に『イトシ』『トシ』を聞き間違えたと言うのもあるが、それよりも。「あんた、名探偵の言ってた妹云々の話は嘘だったって……」
『ああ……。ハルちゃんはそこで勘違いしたわけか』納得したように呟く。『それは、確かに僕の言い方が悪かったのかもしれない。僕が嘘だったって言ったのは彼の妹が死んだっていう話は嘘だったって言ったんだよ。言い換えれば、彼の妹はまだ生きている、と言いたかったんだ。それを、君はたぶん妹の存在自体が嘘だったっていう意味で受け取ってしまったわけか』
まさしくそうである。
「それに、あのときあんた『ミツイイトシ』じゃなくて『ミツイトシ』って言ってたわよ」
『え……そんなまさか』
「まさかじゃないわよ。あんた、そう言ってたよ。あのとき電話で。間違いなく」
『――そんな……。ミツイイトシって僕は確かに……。ミツイトシって言ったと思うけど』
「最後、ほら今、『ミツイトシ』って言った」
『え、嘘、いや、でもこれは……』
「絶対『トシ』って言ってた」
どう聞いても『イトシ』ではなく『トシ』と言っている。
『……そうだね。これははっきりと発音しなかった僕が悪いね。ごめん。でも、あのときは僕も特定することができて、興奮してたから……つい早口に』
「つい……って。そのせいで、あたしは重大な勘違いをしたのよ」
男か女かの違いは犯人を絞る上でも重要なキーになる。
「……ごめん」
「まあ、もうそれは仕方ないとして。それよりも、それぞれどういう字だからわかる? ミツイって『光』に『井』? それとも『三』に『井』?」
『『光』の方のミツイだよ。そうか、どういう字かも一応教えておいたほうがいいね。まずはアキラっていう字だけど、これは明るいって字のアキラ。それからシゲルは秀才のシュウの字でシゲル。イトシは愛と書いてイトシ。愛しいのアイだね』
明に秀に愛。みんな漢字一字でひらがなに直すと三文字になる名前。
「なるほどね。それじゃスズノシンイチは?」
『スズノは普通に鈴っていうに野原のノだよ。シンイチは信じるに数字の一。ちなみに妹のサヤはひらがなでさやだよ』
今まで出てきた人物の中で一番怪しいのは鈴野信一。シゲルこと光井明と親しいということが唯一明らかになっている男。
「鈴野信一は今何歳?」
『シゲルくんの一つしただから、今は二十四歳だね。どんな人物かはこれから家に帰って調べるけど。顔写真も捜しておくよ』
「うん。それから光井愛の連絡先も連絡先も調べておいてくれる?えーと、愛は今何歳?」
『
「よろしく。それじゃ、あたしもアオイさんにメールを送って顔写真を送ってもらう。でも、言っておくけどたぶんあのアオイさんは『アオイさん』本人だよ思うよ」
そうであってほしい。
『ああ、僕もそうだあって欲しいよ。犯人がアオイくんに
そうである。あの五人の中に犯人がいるのであれば、必然的に犯人はアオイ以外に考えられないということになる。なぜなら犯人は男なのだから。あの中に男はアオイ一人だ。
でも、アオイは絶対に犯人じゃないと、あたしの人を見る目が言っている気がする。
「アオイさんが犯人じゃないってことは、もうありえないの?」
『……悪いけど、ほぼ、そのアオイくんを名乗っている人物が犯人だと思う。話の流れじゃ、それ以外に考えられない。犯人がたまたまそのカフェに居合わせて、ってことも考えられるけど、ハルちゃんたちが座っていたすぐ近くには他にお客さんいた? 話を聞かれないように、少し他の人から離れて座ったんじゃないのかな?』
全くもってその通りである。あのとき、あたしたちの近くに座っていた客はいない。盗み聞かれたということも考えられない。
「でも――」
犯人はアオイ以外に考えられないのか。
でも、仮に犯人がアオイじゃなかったとしたら。
犯人がアオイじゃなかったとしたら――?
『とにかく、僕は犯人の顔を見たんだ。はっきりとは見ていないけど、それでも顔写真があれば検証をすることくらいできる。鈴野信一が犯人であるか否か、それからその『アオイくん』がアオイくん本人であるかどうか、犯人であるかどうかも確認できる』
犯人がアオイじゃなかったとしたらどうなるんだ?
犯人はあの五人の中にはいないってことか?
それとも――。
『どうしたの?』
あたしは、事件のキーポイントであるとある単語を思い出す。事件には直接関係ないと、坂林に一掃されたあの言葉。
「……犯人は、女装したら、ちゃんと女の子に見えるくらいのキレイな顔なんだよね?」
『そうだね。状況的にはそうみたい――って、え!』坂林もあたしが言いたいことに気付いたようだ。『まさか。まさか。犯人は女装して君に接触していると?』
「可能性としてはありえない話ではないでしょ? 犯人は男であるという固定観念があるから、女装して近づけばその人物は自然と容疑者から外れてしまう。犯人はそれを利用した。どう? 無理がある?」
『……全く馬鹿げた話しだけど、完全に否定することもできない。その五人……いや、アオイくんは男だから除くとして、その四人の中の誰かが女装した犯人かもしれない……。おもしろい発想だね』
「秋穂ちゃんも除いて問題ないと思う。だから、実質女装しているとすれば三人まで絞れてくる」
『……とにかく、関係者の顔写真を探してみる必要があるね。その中に君の知った顔があれば、その人物が容疑者だ。……じゃあ、切るよ。もう行かなくちゃ』
「待って」
『ん? 何?』
「調べるまでにどのくらいかかる?」
『もう身元は特定できてるから、家についてから数十分で探せると思うよ。一時間もかからないと思う』
「それなら」あたしは提案する。「今からあたしも坂林くんと合流する。いち早く犯人の顔を確認したいから」
『え、そこまでしなくても。それに、顔写真ならすぐにメールで送るよ』
「どっちにしたって、もう犯人が何者かわかるんでしょ? そしたらどっちみち合流しなくちゃならないんだから。それに、坂林くんのマンションも見てみたいし」
それに、いち早く面と向かって謝りたいという気持ちがあった。坂林が犯人に襲われたのは多くはあたしのせいだったのだ。あたしが坂林を頼ったばかりに、犯人に襲われてしまったのだから。
『なるほどね。言われてみればその通りだけど。でもハルちゃん、本当の狙いはただ僕の家を見たいってだけじゃない?』
坂林はハハッと笑った。そして、その動作が傷口に響くのか、小さくううと唸った。
「まあ、坂林くんが自宅を知られたくないって言うんだったら、諦めるけど」
無理をしなくても、犯人がわかれば今日中に会うことになるのだ。わざわざ無理を言う必要はない。
『うーん。ま、いいよ。確かにどっちにしろ合流することになりそうだからね。本名も知れてることだし、もう隠す必要もないしね』
あっさりオーケーが出てしまった。
「じゃあ、行く。で、どこで待ち合わせ?」
『駅でいいんじゃないかな?』
「駅? って何駅?」
秋野原では東京方面とか言ってたけど、あっちの方は
『
「……日町?」
『何? どうしたの、そんな気の抜けた声をして』
「いや……確か、日町って物価普通じゃなかったかな、と思って」
『え。ひょっとしてハルちゃん、僕が有楽街とかに住んでると思ってた? あの辺りでマンションなんかに住んだら、下手したら三十万以上家賃取られるよ。さすがにそこまでして住みたいとは思わないよ。ハハ……』
「あんた、お金稼いでるって言うからてっきり……。そんなことよりも、わかった、日町で合流ね。時間は?」
『今が九時過ぎだから、ハルちゃんは埼玉の自宅でしょ? だったら、午後十二時なら大丈夫? それとももっと準備に時間がかかる?』
あたしは少しの間考える。
今起きたばかりで、シャワーも浴びたいところだし、身だしなみだって整えるのに時間がかかるけど、でも、遅れればそれだけ坂林はどんどん深くまで調べていくだろう。できればあたしもそれに立ち会いたかった。
「わかった。大丈夫だと思う。とにかく、向かうね」
『こっちも了解だよ。じゃあ、もう病院出るから、しばらく連絡取れないけど、すぐに家に戻るつもりでいるから何かあったら携帯の方にメールしておいてね』
「オッケーオッケー。それじゃ、また後で」
『うん。じゃあね』
そしてスピーカーから電子音。
あたしは携帯を閉じると、手早くパジャマを脱ぎ、服を着替える。シャワーを浴びると、髪が乾くまでに時間がかかってしまうので、今回は我慢するしかない。服を着ると、髪を整え、簡単な化粧をする。
「春乃」靴を履いていたら母の声がした。「どこに行くの? ご飯は?」
「ご飯は適当にコンビニで買って食べる。じゃ、行って来ます」
返事もそこそこに家を飛び出した。
6
約束の時間一時間前、僕はすでに待ち合わせ場所に立っていた。気持ちが
不意に話し声耳に付いた。ハルちゃんとか、殺人とかそういう単語が出てきていたので、僕は瞬時にその連中が今日待ち合わせているという被害者の関係者たちに違いないと察した。そちらに目を向ける。僕は思わず一人に僕は目を奪われる。またしても、またしてもサヤちゃんにそっくりな女の子がそこにいた。水野咲を失ってからこんなに早く次のターゲットが見つかるなんて、と少し喜びを感じたのだけれど、すぐに僕を捕まえようとしているある種の敵であることに気付き『シゲル』としては近づけないという事実を少し残念に思った。僕はさりげなく話しかける。
「あの――」
話していた少女たちが振り向く。
それから偽名を使って自己紹介をした。僕の自己紹介を終えると、サヤちゃんに似た少女が自己紹介を始めた。なんと、その人物こそが星川春乃――僕を調べまわっているという、例のチェーンメールの送り主――だった。
メールの文章を見た限りでは、どこにでもいるような下らない女子高生というイメージを持ったけれど、会ってみて僕の評価は変わる。嫌でもサヤちゃんの像が春乃に被った。容姿から、僕を調べまわっているという点から、顔は違えど、まるでサヤちゃんの生まれ変わりのような気さえした。
――ま、例えその少女がサヤちゃんの生まれ変わりであろうとも、僕は捕まらないけどね。
その後残りの人間がやってきて、全員そろってカフェへと向かった。
女五人に男が一人と言う異常な状況。幸い、服部優子の知り合いはいなかった。優子は明るい子だったが、学校を辞めたせいで友達がほとんどいないと言っていた。だから僕は優子の友達を装いその中に溶け込んだ。優子のことを知っている人物がいなければ、どんなでっち上げ話でも疑いを持つものはいない。適当に誤魔化すことができる。
ここで再びそれぞれの自己紹介が行われた。僕は相変わらず偽名を名乗る。
僕は驚いた。
少女の話すことはどれもニュース等のマスメディアでは報道されなかった内容のものだった。僕がどのように少女たちを殺したか、また、狙われた少女たちの特徴。
ニュースでは下腹部を複数回刃物で刺した――と言った内容だったが、少女は正確に犯人が被害者の女性器にナイフを突きつけたと話した。
被害者たちの特徴についてなんて、どこの新聞紙も触れなかった事柄だって言うのに、これもまた少女は的確に身長が一六〇センチ前後で、雰囲気が似ている女の子と言い当てた。
驚いた。見くびっていた。が。――確かに見くびっていたことは認めるけれども、しかしこの情報にしたって調べられないことではないと、僕は思いなおす。その手の情報網に流通している人物からすれば、このくらい調べるのは容易いことだろう。
特にこの情報を調べたのは坂林という探偵だという。探偵と言っても、ピンからキリまでいるだろうけれど、優秀な人間であれば警察が持っている情報くらいなら簡単に入手できるであろう。つまり、人によれば調べることは可能な情報なわけである。
問題は次だ。
密室。
僕はそんな無意味なものを最初は意図して作ったわけではなかった。後々、密室殺人という話をアキ兄から聞いて驚いたくらいだ。僕が明日香を殺したとき、どうして僕は女の格好でホテルを出たのか。それは至極簡単な道理だった。誰もが明日香を殺したのは一緒に部屋に入っていった
アキ兄からその密室の話を聞いて、僕は使えると思った。捜査の
そんなわけもあって僕はくり返し密室を作っていたのだけれど。
少女はそこから犯人は女装してホテルを出て行ったのではないかという推理をして見せた。僕は女なのだから、女の格好をしてホテルを出て行くのは女装ではなく正しい格好なのだけれど『犯人は被害者女性と同じ服を着て出て行った』という点は見事当たっていた。
この推理が少女によるものなのか、それとも坂林という探偵が行ったものなのかは定かではなかったけれど、どちらにしろこの推理の元となっている情報を提供したのは坂林という人物に他ならない。ゆえに坂林という名の探偵の存在は僕にとって危険なものであるのは間違いなかった。
……やはりアキ兄に頼んで調べてもらう必要がある。
逸見シゲルという名で探偵をしているアキ兄。イツミはミツイを反対から読んだだけ。シゲルはそのまま探偵を目指していたシゲ兄から持って来た。何て安直。
まあかくいう僕の偽名も名前を
――犯人と被害者は交際関係にあった。
星川春乃はそう言った。
これは予想の範囲だ。
ホテルに男女二人で入っていくということが何を示しているかなんて、小学生でもない限り理解するであろう。
だけれども、いくら彼氏が犯人と言ったところでその彼氏が何者かわからなければ話にならない。そして、僕に辿り着き
「何か意見か情報がある人いますか? いたら、小さく挙手してください」
春乃がまとめに入った。今、この少女が持っている情報はだいたいこんなものってことか。後ほどアキ兄と連絡を取って、坂林なる人物を調べてもらおう。まあ、しかしその坂林を持ってしても恐らく僕に辿り着くことなんてできないだろうけどね。なぜなら被害者の身辺を洗ったところで僕の存在は微塵も出てこないだろうから。
そこにサッと小島アオイが手を上げた。
「オレ、イイノちゃんが殺される直前に付き合ってたと思われる人物の名前、知ってるんだけど」
全体の時間が一瞬停止する。
……明日香が僕の名前をこの男に話してただと?
あれだけ他言するなと言っておいたのに!
「そ、それ、マジ?」
星川春乃は笑っていた。僕の中には動揺と怒りが蓄積されていった。表情には出さないけれども。
「たぶん。イイノちゃんとは幼馴染って言ったじゃん? あいつ、彼氏なんか作るタイプじゃなかったから、よく覚えてるんだ」
それから小島は何の躊躇もせずにその名前を口にした。
「シゲルさんって言ってた」
僕が一番最初に会ったときに明日香に名乗った名前。それから明日香の前では『シゲル』として通してきた。あの、ホテルに入った日までは。
だが、名前がわかったところでそれは偽名なのだ。僕の正体がバレるわけがない。僕の姿が映った写真やらビデオやらは存在しない。写真うつりがよくないからとか単に写真が嫌いだからとか適当なことを言って避けてきたのだ。外を歩くときもたいていはサングラスをかけていたので、一緒に歩いているところが防犯カメラに映っていたとしても何の問題もない。
そう。何の問題もないのに。
春乃はいきなり悟ったような顔をして立ち上がった。
「ど、どうしたのハルちゃん?」
一人の少女が声を上げる。確か、秋田瑞穂とか言ったか。
「……もしかして、今オレが言ったシゲルって人物に、心当たりでもあるの?」
心当たりがあるにしたって、どうせそれははずれに違いない。『シゲル』というキーワードだけで僕に繋がることはありえない。第一、その『シゲル』という名前によって、目の前の少女の脳みそにはより深く犯人は男であると言う概念が植え付けられたわけだ。マイナスな面ばかりではない。むしろ、間違った方向に導くことができたのではないか。
しかし――ここで、二つの危険性を僕は思いついてしまう。
僕に繋がる人物で『シゲル』という名を持つ人間は二人いる。
一人はシゲ兄本人。星川春乃とシゲ兄が数年前に知り合っていたという可能性。でも、これはちょっと考えられない。春乃は僕よりも四つ年下なのだ。シゲ兄と僕の年の差は三歳。つまりシゲ兄と目の前の少女の年齢差は七つということになる。シゲ兄が死んだとき、少女はまだ小学生にもなっていない。
ならばもう一つの可能性。
「アオイさんの言うとおり、ちょっと思い当たる人がいてね……。ちょっくら、その人ん所に乗り込んでくるわ」
それはイツミシゲル。アキ兄のこと。アキ兄もまた僕と同じように『シゲル』を名乗っている。もし、春乃の言っている人物がアキ兄だとしたら。
アキ兄から僕のことが漏れる可能性は十分にありえる。
少女は千円札をテーブルに置いて走り去ってしまった。小島は、少女が店を出る寸前に話が付いたら連絡を寄越すように指示した。これで、結果はどうであれ少女とその『シゲル』のやり取りは僕たちの耳に届くわけだ。
僕は携帯を取り出すと、アキ兄にメールを送る。坂林という名の探偵を知っているかどうか。返信はすぐに帰ってきた。知っているとのことだった。しかも、昨日その坂林と会ったとまで言ってきた。事件のことを聞きに来たという。
『アキ兄はその探偵に協力するって言ったの?』
もしアキ兄がすでに過去の事件のことを話していたとしたら致命傷だ。僕は手に汗を握りながら一つ一つ文字を打ち込み、送信した。
『していない。する気もない。この事件は俺一人で解決させなければ意味がないからな』
とりあえずは一安心。シゲ兄やサヤちゃんのことを話せば、僕が犯人であることがわかってしまうと、心の奥底で察したのだろう。アキ兄は僕が犯人であるということを知っていて、それを誰にも知られないようにしようとしている。だから、僕に繋がるような情報は敵である坂林には与えなかったのだろう。よくやった。
『春乃って女の子知ってる?』
まだ、少女が店を出て行ってから数分しか経っていない。今頃、やっと電車に乗ったってところだろう。アキ兄の仕事場は秋野原にある。そこまではあと数十分程度かかると予想される。
『恐らくは。昨日、坂林と一緒に来た少女も春乃と名乗っていたからきっとその子だろう』
『その春乃がそっちに向かった。どうやら、アキ兄のことを疑ってるみたいだよ』
『それはどうもご親切に。というか、おまえこそ何で坂林たちと接触してるんだ?』
『僕だって僕なりにシゲ兄やサヤちゃんの死について調べてるんだよ。これも調査の一環さ』
もちろんこんなのは嘘だ。アキ兄も僕自身も犯人が僕であることは知っている。けれども、アキ兄は僕が犯人であることを認めがらないようだし、僕だって自分が犯人であることを主張しようとは思わない。だから、見え透いた嘘でも平気で吐く。
『おまえは本当にシゲルやサヤちゃんのことが好きだったんだな』
鼻で笑いそうになる。何が好きだったんだな、だ。白々しい。この寒さは今も昔も変わらない。
『とにかく、この事件を解決するのは僕たちなんだ。だから、アキ兄は余計な情報を春乃たちに与えないように言葉はちゃんと選ぶんだよ』
そこで僕は携帯を閉じる。これだけ念を押しておけば、口でも滑らさない限り僕に繋がるような情報を口にしたりはしないだろう。むしろ、冷たくあしらってくれるのではないだろうか。
手は打った。春乃の言っていた『シゲル』がアキ兄のことだったのには些か肝を冷やしたが、それでももう大丈夫だ。
「これからどうするよ」
小島が伸びをしながらポツリと呟いた。誰も反応しない。
「星川ちゃんが帰ってくるまでは解散するわけにもいかねえし。雑談するしかないんだろうけど」
興味ない。この場にいる人間の話に興味などさらさらなかった。輝きを放っている人間はこの中にはいなかった。それなら話をするだけ無駄だ。つまらなくて、気分を害すだけ。
「じゃあ、まず俺とイイノちゃんの思い出を聞いてもらえるか。あれは――」
心底どうでもよかった。
もう明日香は過去の存在だったし、小島の過去にいたっては聞く意味がない。
僕は適当に相槌を打ちながら、ボーっと時間を潰す。ときどきアメリカンコーヒーに口をつけながら。
※
秋田瑞穂が春乃から連絡を受けて数十分後、再び春乃は店内に姿を現した。
駅からここまで走ってきたのか、激しく肩を揺らしている。
「みんな、ごめん」
「ハルちゃん大丈夫?」
瑞穂が椅子に座った春乃を気遣っている。
「星川ちゃん、そんな焦んなくてもよかったのに。俺たちは俺たちでのんびりやってたから、急がなくても全然大丈夫だったぜ」
確かに、駅からここまで走ったところで大きく時間は変わらないだろうし、中にはケーキを注文するような人物まで現れていたので、息を切らせてまで急ぐ必要はなかった。
新しい客が来たと思った店員が、オーダーを取りに来る。
「レモンティーをください」
春乃はそう言うと、店員が去っていたのを確認してから早々に切り出した。
「結果から言うと、あたしが今会ってきた人は犯人ではない可能性の方が高いと思う」
そりゃそうだろう。アキ兄は犯人ではないのだ。これでアキ兄を犯人呼ばわりするようであったら、所詮その程度のレベルということで安心できたのだけれど。そう簡単な相手ではないらしい。僕は肩を落とす。
「でも悪い知らせだけじゃないんだよ。さっき、秋穂ちゃんに電話でもちょこっと言ったけどその会って来たシゲルっていう人は多分大きく事件に関係していると思う」
思わず少女の顔を注視する。
あの馬鹿が何か情報を漏らしたか。
「どんな風に?」
興味津々そうに小島が尋ねた。
「何か知ってるみたいだった。何かを隠してる。しかも、それは多分犯人を捕まえるための手がかり」
本当に、何を喋ってたんだ。アイツは。もっと、深くまで聞いてみなくては。
「……そのシゲルっていう人物はどんな人なんですか?」
深くまで潜り込むために僕はそう問うた。
「探偵よ。あ、あたしの助っ人の坂林くんとは全く別の探偵ね。そのシゲルは容姿はいいんだけど、中身は偏屈家で嫌味な奴」
「イケメン探偵って漫画みたいね」
一人の女が面白そうに呟いた。
「なるほどな。確かに探偵が犯人と繋がってるなんて、これ以上おもしろい展開はないな。そのシゲルっていう探偵と坂林くんっていう探偵の探り合いってわけね」
それに便乗して小島も面白がる。
「とは言っても、全然そのシゲルの正体はわからないんだけどね」アキ兄も身元を偽って探偵をしていたはずだ。アキ兄の身元がわからなければ、当然僕に結びつきもしない。こればっかりはアキ兄が上手くやってくれたことを祈るしかないが、しかしアキ兄とてやるときはやる男だ。そう簡単に身元がバレたりはしないだろう。「坂林くんがいくら調べても彼に関する情報が出てこないって。そもそもわかってる情報が顔だけってのが問題なんだけど。今はその顔写真からこの付近の中学高校の証明写真と照らし合わせて
……は?
耳を疑った。
証明写真?
……と照合してる……だって?
証明写真なんて……偽りようがないじゃないか!
アキ兄は今も昔も対して変わっていない。だから、中学時代の写真でも、高校時代の写真でも、恐らく写真が見つかれば特定されてしまう。
まずい。いや、まずいなんてもんじゃない。アキ兄の繋がりで僕の写真が出てきてしまったら。中学でも高校でも僕は短髪にしていた。そこから僕が犯人であることは、頭の切れる人物だったらすぐにわかってしまう。
今はカツラを被り、女の格好をして出向いているから、写真の中の僕とは全く違う印象になっているだろうけれど、それでも顔が変わったわけではない。というかむしろ、顔は僕も昔から全然変わっていないのだ。
「虱潰しって! 東京だけでいったいどれだけの中学高校があると思ってんのよ」
瑞穂が大きな声でそう言った。
……そうだ。東京だけで、中学校や高校は何百とある。それに、アキ兄や僕は埼玉の中学校に通っていた。そう簡単に見つかるわけない。
「さあ。でも、一応埼玉の方とか神奈川の方の方も調べてみるんじゃん? どうやって調べてるのかは見当もつかないけど」
埼玉もって……いったいどれだけの学校があると思ってるんだ。見つかるわけがない。一つの学校から毎年数百人の生徒が入れ替わるんだぞ? そんなの調べるなんて不可能だ。
「す、すごいですね。そんなことできるんですか。その坂林さんって」
すごいなんてもんじゃない。そんなことができるとしたら化け物だ。そして僕にとって脅威以外の何者でもない。
「まあ、あいつは何だかんだですごい人みたいだね。学生時代にネットで本職の探偵にスカウトされたって自慢してたよ、確か」
探偵とかそういうレベルじゃない。もはやそりゃ、超能力捜査官とかそう次元だろ。超人としか思えない。
唐突に小島が『すごい人』繋がりで身内自慢を始めだした。また下らないことを。どうでもいいことだったので、僕は意識を内側に向ける。
これはやはりアキ兄に聞いてみる必要がある。坂林と言う人物がどういう人物なのか。そして、場合によっては住所等を調べてもらい――。
できることなら、その事態は避けたかった。犯罪の捜査をしている以上、その手の人物は僕が手にかけてきた少女たちとは違い、ガードが堅い。それに失敗した場合を考えると、一気に危険度が増す。人気の目に付かない場所で、相手が油断をしている場所で犯行は行わなければならない。それらのことを考えると、どうにも面倒だった。
不意に、外側の世界から聞き流せない言葉が聞こえてくる。
「――そのシゲルが言ってたんだけど、そいつも過去に友達とか妹さんを犯人に殺されてるんだって」
アキ兄の妹。すなわち僕。
アキ兄は僕の存在をこの少女に教えてしまったようだ。いや、これも聞き流すべき話ではないのだけれど、問題はそこではない。
僕が殺されてる?
何を言ってるんだ。僕はこうして生きてるじゃないか。三兄弟の中で女は僕しかいない。シゲ兄は男だから、殺されたとすれば弟だろうに。
どういうこと?
アキ兄は嘘を吐いたってことか?
でもどうしてこんな無意味な嘘を?
「みんなもそんな話は聞いたことないでしょ? 飯野明日香さんよりも前にこの連続殺人の被害者がいたなんて。だから、そのことの詳細を掴めれば事件は進展するはずなのよ」
その通りだよ。僕の存在に気付けば、そこでゲーム終了だ。アキ兄の過去を調べることで、僕の存在は明らかになる。
いい着眼点ですね。
あまりの着眼点のよさに褒めてやりたくなるよ。
「飯野ちゃんよりも前の被害者……? 手口はこの連続殺人と一緒なのか? つか、それっていつの話だ」
それにしても、妹が殺されたっていったい。妹が殺されたという立場はシンイチくんのはずだ。それとも春乃の会ってきた『シゲル』という人物はアキ兄ではないのか? ――いいや、それはない。メールで確認はもう取ってある。
「詳しくはあたしもわかんない。でも、坂林くんの話だとシゲルが探偵になった理由ってのがその犯人を捜し出すことだったらしいから、あいつが本当に二十五だったと仮定すると……だいたい十年前ね」
その通りだ。アキ兄は高校にも行かずに、喜劇を演じるために探偵になったのだ。やはり、その人物はアキ兄に違いない。
「十年? 俺が十歳の時にはもうこの事件の犯人は殺人をしてたってのか? いったいいくつなんだよ、この犯人は。その最初の殺人をしたのが十五前後と見積もっても、今、二十五以上か」
その間も小島と春乃は話を進めていく。
まず、その十五前後というところが間違っている。僕がシゲ兄を殺したのは、小学三年生。僕が九歳のときだ。
「シゲルと同い年か、シゲルより年上の男ってことね。まあ、犯人とあいつは顔見知りみたいだから年が近いんじゃないの?」
二人は犯人の年齢は二十五前後と思い込んでいるらしい。それはありがたい。犯人像がさらに僕からズレていく。
「そうか。やっぱ二十五前後か。二十五じゃ、普通はもう大学も出てるよな。つーことは社会人ってことだよな」
「そうなるね。普通に考えればだけど」
「んんー。ちょっと星川ちゃん……つーか、秋田ちゃんと照井ちゃんにも聞きたいんだけどさ」いきなり名前を呼ばれて僕は驚く。「その、エンコーとかやってるとお客さんからどのくらいもらうの?」
いったい今度はなんのつもりだ?
春乃の様子を窺った。
「あたしは人によるけど、あたしは目安としちゃ一時間五千くらいかな」
訝しがる様子もなく、春乃はあっけらかんと答えた。
「うわ、たけー。スタジオに二時間入れるじゃねえかよ。そっちは? 秋田ちゃんと照井ちゃん」
「あたしもそんくらいかなー」
「私もだいたいそんなもんですね」
考えずに、適当にそう答えたが、まあ本当にそんなもんだ。厳密な額は僕もわからない。第一、そんなどうでもいい問いに頭を悩ませる必要なんてない。
「ああ、でもそれとは別に食事を奢ってもらったりとか洋服を買ってもらったりするよ」
春乃はさらに付け加えた。んなことは聞かれてないだろ。また余談か。
「洋服って、一着何千円もすんだろ。そういえば女装して入れ替わりトリックを使うのに洋服のプレゼントがどうのこうのって言ってたもんな。ってことは、やっぱりか」
小島が意味深なことを呟いた。
「やっぱりって何が?」
春乃も疑問に思ったようだ。
「犯人は会社員ってことだよ。それも、高給取りさ。犯人がどれだけ女の子たちにプレゼントを贈ったかは知らんけど、食事代とか諸々の経費ってのは結構出ると思うんだ。とてもじゃないがフリーターじゃ無理だよ。まあ、親と同居してるとか言うんならまた話は別だけど」
……なるほど。そういう考えに発展するわけか。
確かに僕は働いている。援助交際。客は飴に群がる蟻のようにぞわぞわと集まってくる。それと同じだけ金銭も集まる。
一人暮らしをしていても、お金は有り余った。どんどん客を厳選していくと、少ない労働で多額の給料をもらえるようになった。
それを資金として少女たちにはプレゼントを贈った。
「言われてみれば、犯人も人間なんだから生きていくためにはお金が必要になってくる。それに被害者に近寄るためにもお金は必要になってくる。その財源がどこか、確かにこれは手がかりの一つになるかも」
そう。手がかりにはなるだろう。若者がそんなに大金を稼ぐ手段はそうそうあるものではない。
しかし、犯人が男であるという固定観念を捨てない限り、おまえらは一歩も前には進めない。援助交際で稼いでいるなんて、微塵も思いつかないに違いない。
「だろ? ちょっとは約に立つっしょ? 俺も」
そのアイデアも宝の持ち腐れだけどね。
「お金かぁ。あたしは、この仕事のおかげであんま気がつかなかったなぁ」
皮肉めいていると、僕は嘲笑した。おまえの稼いでいるその方法で、『犯人』も資金調達をしているんだよ。ヒントはすぐ目の前にあるって言うのにそれに気付かない。
「あたしも学生なんでバイトとかはしてますけど、でも生活費がどうのって言うのは気が付きませんでしたよ」
一人の可愛らしい少女が――可愛らしくはあるけれど、ただそれだけで輝きを持っていないその少女がポツリと呟いた。
先ほど、この子もターゲットになり得る云々の討論があったが、この子が狙われることはまずないな。というか、狙わない。
「学生じゃまあそうだろうな。俺も高校時代は飯代とか親にせびってたし」
小島が会話に入ってきて、また雑談のモードに切り替わりつつあった。
犯人の資金がどうたらという話題はもうおしまいらしい。それならばもうこいつらの会話には興味がない。アキ兄の言葉の意味、それから坂林という名の探偵をどうするか考えなくては。
どちらを考える上でもアキ兄の話を聞いてみなくてはならない。妹が殺されたという言葉の意味は僕が一人でもんもんと考えるよりも、その意味をアキ兄に尋ねてしまった方が早いし、また坂林の今後についてもアキ兄から坂林に関する情報を引き出してからじゃないと決めることはできない。
電話で聞くのもいいが、坂林に関する情報を詳しく調べてもらうためには直接出向いて話した方がいい気がした。
このまま雑談が続くようだったら、何か用事があるフリをしてこの場を抜け出そう。
「――明日って、時間はどうするの?」
雑談に耳を傾けると、何か話が決定しようとしていた。次の集まりの日取りか? 失敗した。全然聞いてなかった。
「今日と同じで二時に土袋でよくないか? あ、でも、どっか遠いところにお墓がある人いる?」
――墓?
――ああ、何だ。
そういえば春乃が帰ってくるまでの間に、小島が墓参りに行こうと騒いでいた。それの日時を決めてるのか。それは興味ない。誘われても、適当に用事を作ってバックレよう。
「つーか、美樹ちゃんはまだお墓ないんだよね」
美樹ちゃんと呼ばれる水野咲は、昨日の午後に僕が殺したばかりだった。そんなに早くにお墓ができるわけない。
「あ、そーか。……じゃあどうする?」
「うん、でも、美樹ちゃんはまた今度でいいよ。お墓ができてからで。明日、みんなの予定が付くんだったら挨拶して回ろ」
「うん」
「だな」
「んん」
「ですね」
「……はい」
僕は静かに頷いた。
周りの人間は総勢で頷いていたので、場の空気を乱すことはできなかった。
まあいい。後ほど行けなくなったと春乃に連絡すればいい。
明日はサボって、次の集まりのときに来ればいいのだ。まあ『次』の集まりが開催されるかどうかは、あらゆる意味でわからないけれど。
そろそろ、用事ができたと切り出して帰るか。そう思ったとき。
「一応、あたしの話すことは以上なんだけど……」
春乃は静まり帰った場を見て、自分の役割は終えたことを告げた。いいタイミングだ。このまま誰も何も言い出さなければ、この場を自然に離れることができる。
「んじゃ、解散ですか」小島が席を立つ。「誰か、まだ話したいことある? 俺はもう提供できる情報はないんだけど」そんなもんはしなくていい。「誰も特にないようだから、じゃあ解散でいいか。行こうぜ」
言い放つと小島は席を離れた。続いて春乃も立ち上がった。みな、
前では小島と春乃が取り止めもない雑談を交わしていた。平和な風景。おまえらは事件の捜査をしているんじゃないのか? と問いたくなるような空気。僕はこういう生暖かい雰囲気というやつが大の苦手。
まあいい。解散だ。これから僕はアキ兄の仕事場に向かう。秋野原。
春乃たちは僕を捕まえるために動いている。それならば僕はそれを潰すために動く必要がある。
店を出て、六人全員で駅に向かう。そして到着するとそこでそれぞれが別れを告げた。
僕は足早にJRに乗り込む。下手に今のメンバーと居合わせてしまうようなことになったら面倒だ。スイカを使ってさっさと改札を潜り抜け、ホームを少し歩き階段から距離のあるところで電車を待った。電車はすぐに来た。駅構内に到着のアナウンスが鳴り響く。轟音と共に緑を基調とした車両が入ってきた。幸い、この間に他の事件関係者がホームに上がってきた様子はない。一番まずいのは尾行されるということだが、とりあえずはその心配をしなくてもよさそうだ。
駅を出発して、僕はアキ兄に訪問する由をメールで連絡しておく。坂林という名の探偵のことで話がある、と。
空いた席に座っていた僕の手の中で、携帯はすぐに振動した。相変わらず返信は速い。わかったとのことだった。断られるわけがないと思っていたが、やはり問題はなかったようだ。
坂林たちのことをどうして知りたい?
そう聞かれたらなんと答えるか。
あくまでもアキ兄は僕が犯人であるということを知らないという設定の中で生きている。だからあいつらが僕にとって脅威になり得るかどうかを調べている、とは明言できない。
適当な嘘を考えておく必要がある。最初はストーカーにでっち上げることも考えたが、アキ兄の知り合いじゃ、そういう嘘が通じないかもしれない。
……僕が仮に一般人だったとして、坂林の身元を特定しなければいけない理由なんてのはどういうものがある?
どうしても知らなければいけないわけなんて……。
※
「んで、おまえはどうして坂林のことを調べてるんだ?」
予想通りの質問だった。僕はアキ兄と向かい合うようにソファに座っている。
この質問に対する回答はすで用意してあった。
「坂林って探偵が犯人を特定しようとしてるらしい。だから、ぜひ話を聞きに行こうと思ってね」
アキ兄には僕も事件について個人的に調べているとは言ってあった。だから、事件の調査と称せば頷いてくれるはずなのだ。
「ははっ。坂林が?」鼻で笑う。何がおかしいのか。「そんなわけない。なぜならあいつはちょっとパソコンができるだけというのが取り得のどうしようもない能無しだからさ。俺に探偵のノウハウを教えてくれた偉い先生がいて、その人は坂林のことを買ってたみたいだったけど、それは買いかぶりってやつだよ。あいつが実際に探偵らしいことをしてるところなんか見たことがない」
僕は眉を顰める。
坂林とはその程度の人物なのか?
が、しかしこの男は見る目を持っていない。それが事実かどうかは僕自身が確かめないとどうにも落ち着かない。
「……いいから教えてよ。それとも、わからない?」
「もう調べてある。いいだろう。教える。けど、その前に一つ聞いておきたいことがあるんだが、おまえ、どうやって坂林のことを知ったんだ? あいつはそんなに名前を売り出してる探偵じゃないぜ」
一瞬、僕が春乃たちに接触していると言うことを話していいかどうか迷った。僕は春乃のことを敵視して近づいたのだ。そのことがアキ兄に察せられるのを危惧したのだけれど、他に坂林を知っている理由が見つからなかったので事実をそのまま伝えることにする。
「星川春乃から身長一六〇センチ前後の男には注意意しろって内容のメールが送られてきてね。僕はこの子も事件について調べてるって思って、だから今日会って話を聞いてきた。その子から坂林って探偵の名前は聞いた」
「星川春乃ねぇ。なるほど、彼女か。彼女が坂林は犯人を特定しようとしていると言ったのか?」
「うん」
「そりゃまた大嘘だろうよ。坂林にそんな能力があるとは思えないね」
少しイライラしてくる。いいから知ってるなら教えろよ。
「嘘かどうかも、僕が行って確かめてくればいい。だから、教えてよ」
「おまえは、あの少女に俺と兄弟であるってことを言ったのか?」
まだ出し惜しむか。
「言うも何も、アキ兄と僕が知り合いであるってことすら気づいてないよ、あの連中は。それが何の関係があるのさ」
「そうか。それなら話しても問題なさそうだな。いや、なに。俺たちには暗黙の了解みたいなものがあって、仲間同士の詮索はしないことにしてるんだ。だから、おまえと俺が兄弟であることがバレてたら俺がおまえに坂林のことを話したことが露見してしまう。俺が坂林を探ってることも知られるし、おまえもそこまでして坂林に会いたいのかと不審に思われるだろう」
別に本当は会いに行くのが目的ではないのだから関係がない。どうやって僕が住所を調べたのか、考える間もなく坂林は意識をなくすだろう。それに、万が一しとめ損なったとしてもそのときは僕も『シゲル』の格好で行く。つまり、その襲撃の人物と僕はイメージの中では全く別の人間ということになるわけだ。だから、春乃らと面談しているこの『僕』が怪しまれることはない。
「何でもいいから。とっとと話してよ。その坂林のことについて。どんな人物であるか、どのくらいの知能や能力を持っているのか、そして、今現在住んでいる場所の住所を」
※
そして僕は坂林――いや、飯野明日香の実兄である飯野正治の部屋の前にいた。革のジャンパーにジーパン、ズラははずしているので頭は金色の短髪。そしてサングラス。時間は夜の十一時。予定通り、誰にも出くわさなかった。
アキ兄はすんなりと飯野正治のことを教えてくれた。最初の被害者の兄であることも、住所も、どんな容姿なのかも、どういう性格なのかもさらりと口にした。
肉付きのいい、短髪の男。鼻は小さく、唇も薄い。外見の説明はこうされていた。まあ、社交性が欠ける人間という話だったから、ドアチャイムを押して出てきた人物が飯野正治には違いない(家に友人を招くような人間ではないということだから)。
性格は暗いわけではないが、あまり人と接するタイプではないとのこと。一人でいることを好む人種だという。
そして、これは僕が質問したことなのだけれど、飯野正治はもし仮に犯人に襲われたとしてもら、その仕事を続行するか否か。
答えはノーだった。
あいつは危険を冒してまで仕事を遂行するような熱血漢ではないよとアキ兄は笑った。危険が迫ればあっさり手を引く。例え、それが妹を殺した犯人を捜すという調査であったとしても、あいつは死んだ妹よりも自分を優先する、と。
僕はバックの中から包丁を取り出した。東京の大きな百円均一で買った有り触れたものだ。手袋もしているので指紋も残らない。
殺す必要はない。圧力をかければいいのだ。飯野正治の協力がなくなれば春乃も動きが取れなくなるはずだ。彼女一人では、恐らく何もできない。
飯野正治がどのように出てくるかわからない以上、臨機応変に対応できるように意識を持っておかなければならない。本来なら、夜道で人気のない場所で……というのがベストなのだけれど、この男は家からほとんど出て来ない。出て来るのを待って、人気のないタイミングを見計らって、ということも考えたのだけれど、その間にも飯野正治はアキ兄の正体を特定してしまうかもしれない。あまり時間に余裕がないのだ。
『犯人はおまえの命を狙っている』という意思が伝われば、もうそれで成功なのだ。どういう結果になれ、失敗はほとんどありえない。この場で捕まるなんてドジはしない。そんな馬鹿をしでかすくらいだったら、瞬間に自らの喉を切って絶命してやる。
包丁を握りなおすと、ドアチャイムを押した。集中力を高める。みしりみしりと足音。ドアノブが、回る。
完全に開ききるのを待とうと、ドアの陰に隠れようとするのだけれど、チェーンがかかっているのが見えて、僕は頭を切り替える。大丈夫。想定内。
僕の姿を捉えようと、飯野正治はドアの隙間から顔を覗かせる。それを見計らって――。
「う」
顔面に包丁を突き立てる。
「うわあああああああ」
包丁が突き刺さる瞬間、飯野正治は驚いたように顔を引っ込めた。おかげで致命傷レベルの傷を与えることはできなかった。
僕は握っていた包丁をそのままバッグに突っ込むと、駆け足でその場を立ち去る。階段のところまで来ると、飯野正治の悲鳴はもう聞こえなくなった。
致命傷ではなかったが、これで恐怖を植えつけることはできた。調査に支障を来たすことは間違いない。あわよくば、事件から手を引いてくれるといい。
それにしても。
あれが明日香の兄か。
全然似てなかったな。
7
あたしは電車に揺られていた。山の手線の中、坂林との待ち合わせ場所である日町を目指しながら、あたしは仲間であるはずの五人について考えていた。
秋穂ちゃんにアオイにイズミさんにアイちゃんにカンナちゃん。あの中に犯人がいるのか。
この五人には、今日はわけがあってお墓参りには行けなくなったことを、すでにJRに乗り換える前にメールをしていた。みな、共通していいよ、と言ってくれた。これであの五人を裏切るような形で別行動を取るのは二回目になる。一度目は昨日のカフェで名探偵の元へ言ったときのこと。
昨日は、みんなを待たせて出て行ったと言うのに結果が残せなかった。あの時は、誰も何も言わなかったが、きっと内心あたしの情報に期待していたに違いない。カンナちゃんなんか、学校を休んでまで来てくれたと言うのに、あたしが話せたことと言えば、犯人の特徴と手口と密室の話だけ。そんなもの、犯人に直接繋がるような大した情報ではない。しかも、それすらも坂林くんに調べてもらったものであって、決してあたしの力によるものではない。結局は、あたしは何もできていないのだ。
若干、ネガティブになっている。
あの中に犯人がいるかもしれないと聞いて、そしてその犯人にあたしが坂林くんのことを教えてしまったせいで刺されたかもしれないと知って。坂林くんは、緊張するからとか何とか言ってみんなの前には姿を現さなかったが、あれもきっと防衛の一つだったのだ。チェーンメールが回っていけば、犯人にもあたしたちの存在を知られてしまう危険がある。実際、それは犯人との接点が生まれるという面ではメリットではあるのかもしれないけれど、同時に犯人が攻撃を仕掛けてくるかもしれないというデメリットでもある。そして、もし攻撃を仕掛けてきた場合、その的になるのは、情報の発信源である坂林に他ならない。
だから坂林くんは極力姿を隠した。
あたしはどちらかと言えば、足手まといになっているのではないだろうか。考えないようにはしていたが、昨夜、坂林からの電話を待っているという状況下で、ついにその思考を抑えておくことができなくなった。
あたしは足手まとい。役立たず。
実際のところ、どうなのかは自分ではわからない。こんなの、客観的に見ることなんて不可能だ。
でも、少なくともあたしは足手まといにも役立たずにもなりたくなかった。
だから、先ほどから脳みそを活性化させて、あの五人に不自然なところがなかったかどうか、必死に考えていた。
あの中には犯人がいないで欲しい、という私情を排除して疑いの目で記憶の中の彼女らを見る。
それでどこも怪しくないのであれば、それならそれでいい。あの中には少なくとも怪しい人物はいないってことだ。最初から犯人はいない、という考えの下で一人一人の顔を思い出すよりも、容疑者の一人として五人の顔を思い出していったたときの方がその判断に信憑性が出てくる。
犯人は男なのだ。だからといって男の格好をしているとは限らない。犯人は女装をして現場から逃走しているのだ。下手な固定概念を持っては推理の差し支えになる。
あの中に男っぽい人間はいたか?
しかし、いくら顔を思い出してみても、女の子四人の顔は、みんな女性のそれだった。顔なんてのはある程度は化粧で誤魔化せてしまうが、それでも限界と言うのはある。そう、それじゃ、体は?
あの中で男らしい体系の子は……。
いない。
いなかった。
犯人が小柄な男であったならば、女物の服を着れば体系だって誤魔化せると思う。胸だって、場合によっちゃパットがある。
……見た目による判断は無理ってことか?
人殺し=いかつい大男、あるいは根暗な不細工男いうイメージは誰にでもあるはずだ。それも、残虐な手口で少女を襲っている犯人とあれば尚更そういう極端な印象を受ける。
今だって、犯人はイケメンであるという情報があるにも関わらず、あたしはどこか陰のある不気味な感じのひょろっちい男を想像してしまっている。だから、そんな人物が女の格好をしてあたしの前に姿を現したなんて考えられないのだ。
それは悪い傾向である。そういう固執した考え方があっては新しい発想なんて起きるわけがない。
推理を繰り広げていく上で一番まずいのは謎にぶち当たることではない。その謎にぶつかる過程で勘違いをしてしまっていることだ。
物事を組み立てて行くにも、土台の部分がボロボロじゃいい建物は建てられない。それと一緒だ。根本的な部分で勘違いをしてしまったら、いつまで経っても推理は積みあがっていかない。どんなに努力しようとも、下から崩れていく。
と、思うのだけれど。
そもそもあたしが持っている基本情報が少ないのだ。小さな土台では、上に積み上げていくことは難しい。
頭の中で情報を整理しよう。
まずは犯人は男であり、身長一六〇センチで、金髪でありショート。
……やはり、どれもいまいちなものだった。
性別が男である人間なんてのは世界の約半数を占めていると言ってもいい。こんなの、あまり約に立たない。身長も同じくだ。身長が一六〇センチの男なんて、町を歩けば簡単に見つけることができる。それに髪型だって、カツラを被れば誰にも気付かれないし、そもそもその金色のショートヘアー事態がカツラであることも考えられなくはない。
あとは、女性に対する強い憎しみを持っているとか。これはあくまで推測だから、情報とは言えないかもしれないけれど、それでも犯人が被害者たちをめった刺しにしているというのは事実だ。この感情はいったい何なのか。第一、それならばなぜ付き合う必要があるのだ?
そこではたと気付く。
どうして今まで気付かなかったのだ。
なぜ、付き合う必要があったのか。これは、とてつもなく重要な謎じゃないか。
犯人は誰なのか、ということばかりに目が向いていて、一番すぐ手前にあった問題に気付けなかった。それを放っておいて、全体の謎が解けるわけもない。
そうだ。なんでなのだろう。付き合う必要性がどこにあったっていうのだ。
油断させるため?
それならば夜道を襲えばいい。被害者と接触して関係を持つよりも、そっちの方がよっぽど安全に殺すことができる。なぜホテルで殺人を犯す必要があった。性行為の過程で殺害したかったのか? もしそうであったとしても、力ずくで押さえつけることだってできたはずだ。レイプ。それならば、ホテルに行く必要もない。
じゃあ嫌悪している人間と仲良くなり、ホテルまで行かなければいけない理由とは?
話は簡単だ。
ある時点までは被害者に対して、犯人は好意を抱いていたのだ。それならば親しくなろうとした理由も、ホテルまで行った理由もわかる。
そして、ホテルの中で何かが起きるのだ。
それによって犯人は一変して被害者たちを嫌悪するようになる。人を殺す準備をしていたことから、その『何か』によって自らが彼女らを嫌悪するようになるという可能性を考えてはいたのだろう。そして予想通り、その何かによって犯人は少女らを嫌悪するようになり、その結果、前もって準備をしていた道具で殺害。
けど、その『何か』が何なのか想像もつかない。美樹ちゃんを一瞬で嫌悪するようになるような出来事。そんなことが起こりえるのか?
第一、美樹ちゃんが人に恨みを買うようなことをするとは到底思えなかった。
それから、まだ謎は残っている。
その後、少女を殺害した犯人はどうして
坂林があたしにその質問を浴びせてきたとき、あたしは答えることができず、その謎もまた記憶の底に沈めたままにしてきた。
可能性としては警察の捜査の撹乱というのがもっともらしい見解だけれども、それにしたって、女装というリスクを負ってまで行うことなのだろうか、という問題点が残る。
女装をしているところを捕まっては言い訳ができない。一発アウトだ。それに捜査の撹乱が目的と言ったって、その行為が及ぼす影響は大したものではないのではないだろうかとあたしは思う。だって、犯人はどうして女装なんかしているのだろう、という疑問は起こるが、逆に言えばただそれだけだ。犯人が女装している理由がわからない。こんな小さな問題は警察だって気に留めないのではないだろうか。
じゃあ、変装して警察の目を誤魔化すためだ。犯人は男だと思い込んでる警察官は、女装している犯人に気付かない。
……そんな馬鹿な話があるとは思えない。犯人が男であるのなら、男に化けた方がよっぽど良策と言えるだろう。女に化けるよりも、老人に化けた方がはるかに楽で上手くやれる。付け髭でも付ければ一気に印象は変わるし、女物のカツラじゃなくたって、別の男の髪型を付ければ、特徴のある髪型を隠すことができる。
そう。やっぱり犯人が男である限り、女装なんてのはリスクが高いだけで、何のメリットもない。
じゃあ、何でそんなことをするのか。
馬鹿げたことが脳裏に過ぎった。
思わず、笑いそうになる。
けど、少し考えてみて、それが徐々に笑い事でなくなってくる。
笑みは消え、全身に寒気のようなものが走り出す。
男である限り、女装なんてのはリスクが高いだけで、何のメリットもない。
だったら、犯人が女だったら?
一つ、一つ、犯人が女だった場合を想定して、犯人像に埋め込んでいく。
全ての謎が、ゆっくりとゆっくりと、解け始めた。
ははっ。笑い声が漏れる。顔が引きつっている。
犯人が女であると仮定すれば、ホテルの中で起こった『何か』は想像が付く。何てショッキングな出来事だ。なんてグロテスクな現実だ。
性行為に及ぼうとした被害者の少女は、犯人の姿を見て驚く。晒されたそれは女性のものではないか。少女はどうする? そのまま犯人に好意を持ち続けることはできるか?
あたしは美樹ちゃんと最期にあった日のことを思い出す。美樹ちゃんに抱きついたあたしに向かって、美樹ちゃんはこう言った。
『こらこら。あたしだって男の人がいいの。いくらハルちゃんでも女の子じゃダメー』
優しい美樹ちゃんが露骨に嫌そうな顔をしたとは思えない。けれど、だからと言ってそのまま犯人を受け入れただろうか? 美樹ちゃんが殺されてしまったという結果を考えると、やはり美樹ちゃんは拒絶したのだ。さすがにやんわりと遠まわしだったのだろうけれど、しかし犯人はそれで一気に感情を反転させたのだ。今までは愛し合っていたのに、女だとわかった瞬間に拒みやがって。
そして、犯人は美樹ちゃんに包丁を付き立てた。
殺害後、犯人はカツラを被ると、女としてホテルを後にする。問題はない。だって、犯人は女なのだから。女装ではない。正装だ。目撃証言にあった、犯人は男であるというものは、犯人がそのとき男装していたからなのだ。
急に気持ち悪くなった。
じゃあ、犯人が少女の陰部にナイフを突きつけたわけは……。
……自分が行うことのできない性行為の代わりに――。
身長一六〇センチなんて、男にしちゃ小柄だと思っていたが、犯人が女であるのなら問題はない。むしろ、普通と言っていい。
よく考えてみればわかることだった。
男が女に化けるのは難しいのだ。体系の問題もあるし、何より顔に問題がある。けれど、女であれば、髪を短くし、男っぽい格好をし、ある程度の筋肉を付ければ、本人が男と言い張れば男にしか見えない。
犯人は被害者の少女たちに化けることができた。つまり、犯人は被害者の子たちと顔が似ている。
そして、あの集まった五人の中で、あたしともう一人、被害者になりえる少女がいた。あの子こそが――。
そこで携帯電話がポケットの中で激しく震えた。
深いところまで考え込んでいていたため、その振動にちょっとばかし驚いてしまったが、慌てることなく携帯を取り出し、ディスプレイを見やる。電話の着信。坂林から。
「もしもし」
電車の中なので小な声で喋る。
『もしもし? 今、どこだい?』
心なしか、坂林の声は震えているように感じた。嫌な予感。昨日のこともあって、電話をするという行為がトラウマになりかけてる。
「今、有楽街駅を通り過ぎたから、もうすぐ日町に着くと思うけど……。電話なんかしてきて、なんかあったの?」
恐る恐るそう口にする。
『驚いた。驚かされたよ、本当に。今、家に着いてから待ち合わせ時間までの時間を使って、顔写真を調べていたんだけど、犯人の顔写真が出てきたんだ』
なるほど。声の震えはいい意味だったのか。
そして、その驚いたという言葉の意味合いが、今電車の中でくり広げた推理により、すんなりと予想することができた。そう、あたしも驚いた。あたしの考えていたことが事実だったとしたら、驚愕の二文字の他には形容する言葉が見つからない。
もし、その犯人の顔写真と言うのが鈴野信一のものであったのならば、それは十分に想定内。何も坂林がここまでの勢いであたしに電話をかけてくることはなかったはずだ。つまり、犯人は鈴野信一ではなかったのだ。光井明に関しては、写真と照合して逸見シゲルと同一人物であることは確認されている。それじゃあ、光井明の近辺で、鈴野信一を除いて現在生きている人物と言えば、一人しかいない。
犯人は光井
『犯人は、光井明の妹、光井愛だよ』
「ははっ」まさか、本当にあたしの推理が当たってしまうなんて。「鳥肌が立ったよ。本当に驚いた」
『そうだね。僕も何度も言うけど、驚いたよ。犯人が女の子だったなんて。……それにしても、ハルちゃん、驚いたっていう割には冷静だね……。僕なんか、あまりの興奮に思わず電話しちゃったっていうのに』
「驚きすぎて逆に冷静になってるのよ」
こうも上手く行くと、もはや驚くことすらできない。
『犯人が女だったとすると、全ての辻褄は合うんだ。まず密室は――』
「ああ、いいからいいから」強引に坂林を遮る。それはもう、あたしの中で解答が出ている。答え合わせをするまでもない。それよりも。「それよりも、その光井愛の写真をあたしの携帯に送ってくれる。顔を見れば、いったい誰が犯人かわかる」
『あ、ああ、そうだね。その通りだ』話を突如切られて、面食らった様子。『……いやぁ、でも本当に冷静だね、ハルちゃん』
「それからあたしはもうすぐ日町駅に着くから。今、まだ家にいるんだったらそろそろ出てきてくれない? 写真を送ったら、できるだけ早く」
『わかった。そういえば、もう十一時半を過ぎてるね。つい熱中しすぎてあっという間に時間が過ぎちゃったよ。じゃあ、今から送るね。一旦切るよ』
「オッケー。それじゃあ、メール待ってる」
それから数分も経たないうちにメールを受信した。震える携帯を握るあたしの手も震えていた。
あの五人の中に犯人がいないで欲しいという気持ちと、あの五人の中に犯人がいれば事件は解決するという二つの思いが激突する。
そして、五人の中に犯人がいた場合はあの子しか考えられない。このメールに乗っている写真に写っている少女があの子であるならば、もう間違いない。彼女こそが犯人だ。
受信箱を開く。付属ファイル付きメール。坂林からのメール。たった今届いたメール。
タイトル無名のそのメールを、あたしは今、開いた。
8
星川春乃から電話があった。
ちょっと話からあるからこれから指定する場所に来てほしいと言う。十二時過ぎのことだった。
僕は、不可解そうな声で今日は他のみなさんとお墓参りがあるのですが……と言った。春乃からは飯野正治が犯人に襲われ、そちらの見舞いに行くために今日は集まりに参加できなくなったとメールがあったのだけれども、小島の立ち回りのせいで、結局残った僕たち五人だけでも墓参りをしようということで、今日の二時に土袋に集まることになっていた。
それでも春乃は、大事な話があるから来てくれと言った。それからどうしても確認が取りたいことがあるの、とも言った。
春乃から僕に直接電話がかかって来た時点で、僕は最悪の事態を想定したのだけれど、この確認が取りたいの一言で確信を持った。
この少女は僕が犯人であることに気付いてしまったらしい。
僕は渋々といった感じでわかりましたと言った。
それから春乃は待ち合わせ場所と時刻を淡々と述べてから、プツリと通信を切った。
携帯電話をベッドの上に放ると、僕は小さなため息を吐いた。
飯野正治は、とどめを刺しておくべきだったなと後悔する。あいつは頬を切られたくらいではびくともせずに、僕のことを調べ続けたのだ。あるいは、僕が襲ったときにはもう調べが付いていたのだろうか。どちらにしろ、あのとき殺しておくべきだったのだ。
他の五人に断ってから来いと言うことは、少なくともまだあの五人には話していていないということである。毎度思うのだけれど、事件の真相を掴んだものは、必ず一度僕に確認を取ろうとする。何て間抜けな行為だろう。そのおかげで、僕は捕まらずに来ることができたのだ。
僕が犯人であることを知っているのは飯野正治と春乃の二人だけだろう。二人同時に始末をしたことはないが、まあ、こればっかりは何とかするしかない。。
二時に秋野原。アキ兄の探偵事務所。
なぜアキ兄の事務所を待ち合わせ場所に選んできたか。一つは、あの場所が誰も来ないため密談をするためにはもってこいということがあるだろう。だが、しかし本当の目的はそこではなく、恐らく春乃らはアキ兄も僕の共犯者だと思っている。
確かに客観的に見れば、アキ兄は共犯者に見えるだろうし、実際、アキ兄は僕の手助けをしている。
しかし、決して共犯と呼べるような対等な立場では、僕たちはなかった。僕が一方的にアキ兄を利用しているだけ。アキ兄はそれに気付いていないふりをしているだけなのだ。
僕が住所を調べてくれと言えば、なぜ、どうしてと聞いてくるけれど、適当な嘘を言えばそれを鵜呑みにしてくれる。はっきりと殺しに行くとは言わない。さすがにアキ兄も僕が犯人であると知っている以上、僕がどうしてその人物の身元を知ろうとしているのか、わからないわけがないのだけれど、しかし、アキ兄はあくまで事件の真相を知らぬ存じぬで通していた。
アキ兄は今日、どうするのだろうか。僕が犯人であるということを改めて春乃から聞かされることになるのだ。わざとらしく驚いて見せるだろうか。それとも知っていたと言って、僕の共犯者であると認めるのか。ただ一つ言えることは、どちらにしろ今日でアキ兄と僕の暗黙の協力関係が崩れるということだった。アキ兄と僕の関係は、アキ兄が自分に僕が犯人ではないということを言い聞かせることで成り立っている。そのアキ兄の前に、僕が犯人であると明言する第三者が現れれば、もはや僕が犯人であるということに疑問の余地もなくなる。アキ兄はそこで僕との協力体制を停止させるだろう。
アキ兄も利用価値のある存在だったけれど、僕に牙を剥いたそのときは、もう殺すしかない。唯一の兄弟であり、今まで共にいもしない犯人を捜してきた仲でもあるので、少しは寂しいような気もするけれど、身の安全には変えられない。
誰であろうと、僕に牙を剥けば殺す。
シゲ兄を殺したあの日からの、僕の決め事だった。そうやって僕は今まで生き延びてきたのだ。
枕の陰から音楽が鳴り響いた。携帯の着信音だ。誰からかと思ったらアキ兄からだった。アキ兄の事務所に集まるということで、きっと春乃か飯野正治が電話をしたのだろう。その件で、僕に電話をかけてきたのだ。
「もしもし。僕だけど」
『俺だよ』
その声は妙な怒気を孕んでいた。口調が荒々しい。
「何? どうしたの?」
用件はだいたい想像がついていたけど、わざとすっとぼける。
『今、坂林から電話があった。犯人がわかったそうだ。これから俺の事務所に来るらしい』
「へえ、やるじゃないか。坂林という探偵も。アキ兄も、犯人が何者かわかっていいじゃないか」
そうシニカルに言った。
『よくなんかあるものか。これは俺一人の力で、俺が解決しなければいけない事件だったんだ。それをあいつは――。だから、断ろうと思った。聞きたくないってね。訪問も拒否しようと思った。けどな、あいつは電話で言ったんだよ。妹さんも連れてきますってな。俺は、それがどういうことかっておまえに聞くために今、こうして電話しているんだ。おまえ、あいつに俺の妹だって名乗ったのか?それから、おまえは坂林から何か聞いているのか?』
「その坂林って探偵からじゃないけど、星川春乃からは電話があったよ。二時にアキ兄の事務所に行くようにってね。僕がアキ兄の妹であることは名乗ってないよ。そんなこと、言う意味ないしね」
『じゃあ何であいつはおまえのことを知ってるんだ?』
まるで僕のせいみたいな言い方だ。僕はちょっと腹が立った。
「あのさ。その坂林って探偵は、アキ兄のことを調べてたんだろ?アキ兄が身元の隠し方が下手だったから、そこからバレたんじゃないの? そうとしか考えられないでしょ?」
『そんな馬鹿な話はあるか。俺から情報が漏れただって? いいや、それはないな。俺の
「でも、アキ兄の中学時代の証明写真を探せば身元も特定できるはずだって言ってたよ」
『はっ、ありえないね。どんな有能なハッカーだって、そんなのは無理だ。それこそ、超能力でも使わない限り』
でも、実際にあの飯野正治はそれをやってのけたのだ。超能力がなければ無理なのだというのであれば、あの間抜け面の男は超能力者ということになる。
『……つーか、それよりもだ。問題は情報がどこから漏れたかじゃない。それはもう過ぎたことだからどうしようもないとしても、何故坂林はおまえを今日俺の事務所に連れてくるんだ? そして、これも触れないわけにはいかないことなのだが、俺がおまえに坂林の個人情報を教えた途端に、あいつは犯人に襲われて傷を負った。これはどういうことだ? 説明してくれるよな?』
なるほど。もうそろそろ自分を騙し続けることができなくなってきたのか。それで、僕に弁解を求めているわけだ。僕は脳みそを働かせる。いや、働かせるまでもない。そんな単純な質問には、一瞬で答えられる。
「実は、アキ兄には黙っていたのだけれど、坂林に傷を負わせたのは、僕なんだ」
電話の向こうで、息を呑む音が聞こえた。危うく笑いそうになる。
『……何だと?』何とか搾り出した。そういう声だった。僕が犯人だと知っているくせに。わざとらしい。『それじゃあ、まさか、少女を連続で殺し、シゲルやサヤちゃんを殺したのも――』
「ちょっと待ってよ」僕もわざとらしく、慌てた口調でそう言った。「坂林に傷を負わせたのは僕だと言ったけれど、僕は犯人なんかじゃない」
またしても電話の向こうでアキ兄は黙り込んだ。
『……どういう……ことだ?』
ナイスクエスチョン。思惑通りに話は進んでいる。
「犯人は、少女を連続で殺していたのは……その坂林だったんだ」
ははっ。おもしろい。我ながら奇抜な対応だ。
『何言ってるんだ? そんな下らない冗談――』
「冗談なんかじゃない。僕は、星川春乃からその坂林という人物の話を聞いて、怪しいと思ったんだ。だから、アキ兄に住所を教えてもらって話を聞きに行った。そこで僕は坂林にあなたが犯人なんでしょ? と問うたら、逆上して包丁で襲ってきたんだ。だから、僕はそれを払いのけたら、それが奴の顔面を傷つけて――。それで、怖くなって逃げちゃったんだ」
『その話が本当だとしたら、いったいどうして坂林が犯人になるのか、聞かせてもらおうか? あいつは、どう考えても防犯カメラに映っていた人物とは別人だぜ? いくら何でも体格が違いすぎる』
「それもちゃんと推理してある。そのカメラに映っている人物こそが星川春乃なんだよ」
もはや茶番だな。けれど、アキ兄は真剣な声で『彼女は女だぞ』と呟いた。さすがは長い間、喜劇を演じてきたことだけはある。こんな茶番にすら付き合ってくれるなんて。
「男装していたんだよ。顔ははっきりとは映っていないから、坊主で男物の服を着ていればそれで男に見えてしまう」まさにこれは僕が使ったトリックだった。「それから、どこかの窓から進入した坂林と合流して殺人を行ったんだ。快楽殺人だよ」
『男装……か。言われてみれば、映像に映っていた人物の体格は、男にしては細いと思っていたんだ』つーか、最初からそのカメラに映っているのは僕だって気付いていたんだろ。それが僕であること以前に、女であることにも気付いていないふりをしていただけで。『じゃあ、シゲルとサヤちゃんの事件はどうなるんだ。まさか二人が坂林、あるいは星川乃と知り合いだったなんてことはあるまい』
「そうだね。それは聞いてみたけど無反応だった。だから、今回の事件とシゲ兄やサヤちゃんの死は関係ないのかもしれないね」
さすがに、昔の僕たちと坂林、あるいは春乃との間に接点があったなんて話しはあからさまにうそ臭すぎる。どういう接点があり得るかも思いつかないし。
『……じゃあ、今日、俺の事務所に来るのはどうしてだ? 何故犯人がわかったなんて嘘をつく』
「恐らくあいつらは、僕が犯人みたいなことを言って来るだろうね。そして、そこで隙を見せたら口封じのために僕たちを殺すつもりなんだ。僕を呼び出したのはそのためだし、アキ兄も、これ以上放っておくと邪魔になると思われたんだろう」
『俺たちを殺す?』
「うん。たぶん、少女たちを殺したみたいにナイフで滅多刺しにする気だ。だから、こっちも最低限身を守るために対抗できる武器を用意しないと」
そう、あいつらを簡単に始末するためには武器が必要だ。アキ兄にそれを用意してもらうつもり。
『……何故』アキ兄は小さく漏らした。『おまえは、何故そこまでわかっていて、警察に連絡しない。通報すれば、もうそれで終わりじゃないか』
さすがはアキ兄。痛いところ付いてくる。まあ、抜かりはないけど。
「まずは、証拠がない。それが一つ目だ。二つ目は、陰から警察にチクるのはびびってるみたいで嫌なんだ。そして、最後の三つ目は、僕はアキ兄がこの事件を解決したがってるのを知っている。だから、アキ兄が真相にたどり着くのを待つつもりだったんだ。僕が警察に通報しては、アキ兄の顔がないんじゃないかと思って」
『ふん、そいつはどうも』
「それは冗談としても、ナイフを持って襲ってくるところを隠しカメラで録画すれば、それが物的証拠になる。そうすれば、より一層裁判での有罪は確実になるからね。僕の目的はまさにそこなんだ。……アキ兄、すぐに準備できる?」
『そんな危険を冒してまですることか?』
「ここまで来てしまった以上、最後までやり遂げたいじゃないか。これで仮に無罪になったとしたら、今までのアキ兄の調査が無駄になるだけじゃなく、もしかしたらあいつらは報復しに来るかもしれないだよ。それを考えると、戦闘準備が整っているときにぶつかっておいた方がいいじゃないか。僕たちの手で、あの二人の有罪を確実なものにするんだ」
『…………』アキ兄は黙り込んだ。ちょっと話が強引過ぎたか。一応、筋は通っているとは思うが。『……わかった。準備をしておこう。詳しい話し合いがしたい。今すぐ俺の事務所まで来い。わかったな?』
「わかったよ。今すぐ向かう。全力でぶつかろうじゃないか」
『それじゃあ、待ってる』
そう言い残すと、通信は途切れた。僕は携帯電話をベッドの上に置く。
ははっ。これで準備は整った。僕を追い詰めるつもりで来るんだろうが、それは飛んで火にいる夏の虫ってやつだ。迎え撃ってやる。
アキ兄もアキ兄だ。最後の最後まで演技を続けるつもりらしい。それならば、僕も最後まで付き合ってやろうじゃないか。僕のために人生を棒に振った愛しい兄だ。
僕は仕事時、あるいは春乃らと会うときに付けている女物のカツラを被った。それから、薄っすらと化粧を施す。服も女物をチョイスする。黒色のスカートとシャツ。ジャケットを羽織ると、そのポケットに携帯電話と財布を入れた。
大丈夫。今までだって逃れて来れた。僕にはそういう力が備わっている。怯えることはない。正面からぶつかっていけばいい。
よし。
そう言い聞かすと、僕は靴を履き、駅へと向った。
※
「最後にもう一度確認する。本当にあの二人が犯人に間違いないんだな?」
アキ兄はそう僕に尋ねた。真実を知っているくせに白々しい。だが、アキ兄がそんな態度ならば僕もそれに合わせるまで。
「そうだよ。間違いない。あいつらが犯人だ」
答えると、アキ兄はそうか、と小さく呟いてから、ゆっくりと引き出しを開いた。
「それならば、あいつらが襲ってきたらこれを使え。使い方はわかるな?」
そこには拳銃が入っていた。西部劇とかで見る銃と似ている。
「これ……」
拳銃くらい用意してくれよ、と期待はしていたのだけれど、実際に目の前に本物の銃があるとなると、さすがの僕でも怯んでしまう。
「護身用だ。といっても合法じゃないがな。俺の先生に当たる探偵の人から持たされたものだ。坂林もこれと同じものを持っている。本気で俺たちを殺す気で来るのなら、あいつだってナイフではなく銃を持ってくるはずだ。いいか、向こうが銃を構えたらすぐにこの机の陰に隠れて、銃を取り出すんだ。わかったな」
僕は静かに頷いた。
向こうが銃を取り出そうと何をしようと、何にせよ、今日、この場でこの銃は火を吹くことになるだろう。
「さあ、もうすぐ待ち合わせ時刻だ。あいつらが来る」
「うん」
時計を見る。もう、あと五分もない。
と、そこにアスファルトを踏みしめる足音が二つ。
どうやら来たようだ。
事務所に入ってきたところを射撃してやろうとも考えたが、まあ最期の言葉くらい聞いてやっても悪くはない。
僕が黙って扉の様子を窺っていると、擦りガラスの向こう側に人影が二つ現れ、扉がぎしりと音を立て開き、ゆっくりと二人の人間が入ってきた。
9
「遅いじゃないか。待ち合わせ時間ぎりぎりだぜ。十分前にはその場にいるってのが礼儀じゃないのか」
ドアを開けた瞬間、名探偵のシニカルな声が聞こえてきた。
「前回は早すぎると言っていて今度は遅いと来るかい。全く、シゲルくんはわがままだ」
坂林がそう切り替えした。シゲルと同じように皮肉な笑みを浮かべようとしているのだけれど、頬のガーゼのせいで痛みを堪えているように見えてしまう。
事務所のソファーには一人の少女が腰掛けていた。見知った顔だった。相変わらず、表情は暗い。
「ちゃんと、来てくれたんだね。よかった」あたしはその少女の方を向いて、言ってやる。「逃げるかと思ったよ。照井アイさん――いや、光井イトシさん」
そこに座っているのは、昨日の集まりに来ていた照井アイを名乗った少女だった。
「……逃げる? いったい何のことですか?」
「はっ。あくまでもすっとぼけるつもり?」
あたしは強気に言う。この少女が美樹ちゃんや、他のみんなの大事な人を殺した犯人。
正直、ここに来るまでは信じられなかった。あたしよりも非力そうで、小動物のような外見のこの少女が犯人であるなんて。それもいかにも男装が似合いそうもない可愛らしい顔のこの少女が。
「驚いたよ。十八歳って聞いて、あたしよりも年上だったってことにすら驚いたって言うのに、まさかもう二十歳だったなんてね」
この少女が犯人であるのか、ないのか。それはもう、少女がこの場にいて、無遠慮にソファーに腰掛けている姿を見れば、もはや疑問の余地なんてありえなかった。
「年を誤魔化すのは、仕事柄悪いことではないと思いますけど……」
あたしの威嚇にも動じず、いつもの調子で喋り続ける光井
「そう。年は関係ない。だけど、あんたは名前も嘘を吐いた」
光井愛と、照井アイ。光が照に。イトシがアイに。何て、安直な偽名。
「偽名も、仕事柄悪くはないと思いますけど……」
「仕事柄? よく言うよ。本当は本名を名乗ったら、下手をすれば過去の事件を調べられると思ったからなんでしょ?」
「過去の事件って……」不意に、光井明が声を漏らした。「おまえら、そんなことまで調べて……」
「愛さん。あなたのお兄さんである光井秀さんと、友達であった鈴野さやさん。二人はそれぞれ、事故と自殺という扱いになっているけれど、実際は殺人事件だったんじゃないの?」
「シゲルくんが教えてくれたんだよ。彼が僕の知り合いの探偵の下で一緒に行動をするようになって間もない頃に。俺はとある殺人事件を調べているってね。そして、ハルちゃんと一緒に事件について聞きに来たときに、彼は『死んだ親友の仇を取るためと死んだ妹を取り戻すため』と言った。そこで、その過去の事故と自殺はどちらも殺人事件なんじゃないか、と思ってね」
坂林の説明で、今まで無表情だった少女の目が僅かに鋭くなった。その視線はあたしでも坂林にでもなく、光井明に向けられていた。
「あのとき、僕たちは気付くべきだったんだ。シゲルくんが言った『死んだ親友の仇を取るためと死んだ妹を取り戻すため』という言葉の意味を。ここで出てくる親友というのは、恐らく親友のように付き合ってきた弟の光井秀くんのことを指しているんだろう? 彼は殺された。だから、その敵を討つ。これは理にかなった言葉だ。だが、死んだ妹取り戻すというのはどういうことだ?」坂林は光井愛の方を見やる。「この通り、シゲルくんの妹さんは生きている。じゃあ『死んだ妹を取り戻す』の意味。……これはある言葉に注目すれば、一発で解ける問題だったんだ。そもそも、言ってしまえば死んだ妹を
ここに来るまでの電車の中で熱弁していた推理。ここでまた、熱く語っている。
「もし、過去に起こった二つの事件が殺人事件だったとしたら、有能な君だ。二つの事件が殺人であることに気付いたんじゃないのか? そして、その犯人が自分の妹であることにも」
光井明は明らかに動揺していた。愛とは大違いだ。
「ふん、下らない。こいつが、過去の事件の犯人だって? 馬鹿なことを言うのも大概にしろ」
「君は、僕のことをパソコンに向かってるだけのただのオタク程度にしか考えていないかもしれないけどね。これでも、師匠の下で働いてた探偵の一人だよ。自分で言うのも何だけど、これでも少しは探偵らしいこともできるんだよ。君の動揺を僕が見逃したと思うかい?」
「何を根拠にそんなことを言ってるのか。私にはさっぱりだな」
「根拠? そんなの、君がくれたヒントのあの言い回しは、自分の妹が犯人だと気付いていなければできないものだよ。死んだ妹を取り戻す。つまり、その実の兄を殺すことで変わってしまった妹を元に戻すために、君は事件を調べ続けているということだったんだろ?」
「死んだ妹を云々というのは、事件を解決させることで落ち込んでしまったこいつの活力を取り戻させるって意味だ」
「そう。君は賢い。ちゃんと言い訳もできるように、そう言い回した」
「違う。そうじゃない!」
完全に坂林のペース。もはや、初めて会ったときの『逸見シゲル』の面影はどこにもなかった。
「……動機は?」
突然の声。
静かだけれど、絶対的で圧倒的な声。
「私は被害者の方々とは接点がありません。それに、犯人は男性なんでしょう? それならば私は無実です」
探偵二人は、討論に口を挟まれ唖然としていた。その問いかけには、あたしが怒りを持って対応する。
「動機は男女間のもつれ」
「私も被害者の方々も女性ですけど?」
「そうね。あくまでも自白する気はないってわけね。じゃあ、あたしが言おうか。あんたは同性愛者ね?」
それでも、少女は眉一つ動かさない。
「私が同性愛者であろうとなかろうと、犯人は男性なのでしょう。それでは、そんなことは事件とは関係がない」
「確かに犯人は男だと思っていたし、多くの人は今もそう思ってるでしょうね。けど、実際は違った。犯人は男装した女――もっと言えば、男装をしたあなたなんでしょ?」
ほんの少しだけ、大きな目を細めた。
「犯人の身長は一六〇センチだって言ったわよね? あなたも身長一六〇センチでしょ? それに、被害者女性に化けるために、被害者と似たような顔をしていなければならない。その条件にもあんたは当てはまる。言っちゃ悪いけど、幸か不幸かの幼児体系で、女性らしい体つきでもない。それに、その作り物みたいなキレイな黒髪。本当に作り物なんでしょ?」
「ふふ。なかなかひどいことをおっしゃいますね」
不気味な、不吉な笑みを浮かべる。
心の奥底を震え上がらせるような不愉快さを含んだその笑み。だが、ここで引くわけにはいかない。
「被害者の女の子たちは、それぞれあんたからいろいろなプレゼントをもらってる。アオイさんが指摘したことだけど、犯人は経済的に余裕のある人物……。あんたはエンコーやってるから、十分にお金は有り余ってるんじゃないの? その姿だったら、優しいおじさんたちが集まってくるでしょ?」
「星川さんだって、優しいオジサンを捕まえてるじゃないですか」
坂林の方に視線を送りながら言った。見ると、僕はオジサンじゃないよとでも言いたげな顔をしていた。
少女に視線を戻す。
「動機は、同性愛だって言ったわよね。だけど、あんたは男装をして、表向きは男として付き合っていた。それであたしも気付いたんだ。今まで付き合っていた女の子に急な殺意を抱くような出来事に」電車の中で気付いてしまった真実。あまりにも悲劇的な真相。「女の子たちから拒絶されてしまったんでしょ? 少なくとも、美樹ちゃんは同性愛について理解を持ってはいなかった。あなたが自分が女であることを告げたとき、美樹ちゃんたちはどんな顔をした?きっと、その表情があんたの犯行の動機。みんな、困惑した様子だったんでしょ? それで、あんたは受け入れられないことを悟り、勝手に怒って、彼女らに刃物向けた」
「……すばらしくよくできた与太話ですね。驚きですよ」
「いい加減本性を現したらどう? その喋り方だって、演技なんでしょ?」
「仕事柄、演技も大切なんだよ」突然口調が変わった。今まで持っていた柔軟さのようなものが消え、急に鋭利なものになる。少女は頭に手を持ってくると、髪の毛を鷲掴み、さっと持ち上げた。「見事騙されたろ? 僕の演技に」
黒髪の下からは金色に輝く髪の毛が姿を現した。遠目でもその毛髪が柔らかであることは窺えた。
「驚いた。本当に男の子みたい。アイドルにいるよ、あんたみたいなの。興味ないけど。その格好じゃなければ、確かに美男子で通るね」
少女は立ち上がり、ゆっくりと室内を歩き出す。
「そりゃどうも。よろしかったら、今度、一緒にお食事でもどうですか?」
部屋の片隅、たくさんのファイルが並べられた机の前で立ち止まった。
「残念だけど、あんたみたいなのは好みじゃないの」
「まあ、そちらの連れを見れば、おまえが野獣系が好きだってのは想像がついたけど」
視界の端で、坂林はまたしても不服そうな顔をしていた。
「確かに顔も財力も大事かもしれないけど、でもやっぱり人間は心ね。今まではそんなこと、微塵も思ったことなかったけど、あんたを見ていて思ったわ。顔がよくても、中身が腐ってっちゃ話にならないってね」
「お役に立てて何よりで」言いながら、少女は引き出しを開いた。何かをこちらに向けた。それは拳銃だった。「それじゃあ、お礼にこちらの質問にも答えてもらおうか」
拳銃。拳銃。拳銃!
その向けられてるものが拳銃だとわかった瞬間、全身の血の気が引いていくのを感じた。
「……どうした? びびったのか?」
銃口はあたしに向けられていると言うのに、坂林を見ると、坂林まるで自らが狙われてるかのように目を白黒させていた。光井明はというと、黙ったまま、静かに成り行きを見守っているという感じだった。
「びびってなんかいないわよ。何? 質問って」
「そうかい? それじゃあ質問第一。飯野正治」少女は坂林の名を呼び、銃口はあたしに向けたまま視線を坂林の方に送った。「おまえは、明日香の実の兄なんだよな? そして、僅か数日でこうやって僕を調べ上げるだけの力を持っていると言うのに、どうして明日香が死んですぐに僕を突き止めることができなかった? あるいは、僕を捜そうとはしなかった?」
息を呑む音が、斜め後ろから聞こえた。
「何故だって? それは、誰からも犯人を捜すようにと依頼を受けなかったからだ。僕は、私情では動かない。それだけさ」
かちり。
「まじめに答えろよ」
「それじゃあ、はっきりと言おうか。実はね、僕は確かに犯人を捜そうとしたんだ。この手で捕まえてやろうと思った。だけどね、無理だったんだよ。調べれば、ある程度の警察の状況や、明日香の死因や殺されたときの状況なんかはわかった。だけどね、誰が犯人であるかまでは突き止められなかったんだ」
「それが、どうして今になってわかったんだ?」
坂林はこの状況で、頬を緩ませる。
「一番大きかったのはシゲルくんのヒントだね。シゲルくんの過去について調べればわかると、彼が教えてくれた」
「なるほどねぇ」冷たい視線を光井明に向ける。「それから、小島アオイの犯人の名前は『シゲル』云々の情報も加わって、アキ兄を調べ出したわけか」
ああ、と坂林は頷いた。
「ちょっといいか」不意に、黙って様子を見ていたはずの名探偵が口を挟んだ。「俺の身元の偽装は完璧だったはずだぜ。おまえ、どうやって俺を調べたんだ?」
光井明は坂林を睨んでそう言った。
「僕の手元にある手がかりといえば、君の顔くらいだからね。いやあ、大変だったよ。中学校と高校の証明写真を調べつくしたんだ。そして、君の顔を見つけた」
「ふざけたことを言うな。そんなの物理的に不可能に決まっている。証明写真を調べ上げるのだって不可能に近いのに、それをさらに一人一人俺の顔と照合していっただって? ありえない。それとも、おまえは超能力者とでも言うのか?」
「ありえないって言われてもねぇ。見つかったもんは見つかったんだ。確かにこれは奇跡的なことだね。もしかしたら僕には本当に超能力があるのかもしれない」
少女が動いた。銃口が坂林に向けられる。
「ふざけるつもりなら、おまえを一番最初に撃つけど?」
坂林は苦笑しながら、困ったなぁと言わんばかりに首を横に振った。
「わかった。真実を伝えよう。本当は、僕もどうやって調べたかはわからないんだ」
その言葉にあたしも耳を疑う。
「わからない? どういうことだよ」
「君の身元を特定したのは僕じゃない。僕は、君の身元がわかれば犯人を特定することができるかもしれないと、あの《、、》
あの人?
そう疑問に思っていると、光井明は徐々に目を見開いていった。
「あの人って、まさか
「そうだよ。僕たちの師匠であり、探偵としての育ての親でもあるあの人だ」
師匠……。度々坂林の話の中に登場する坂林の腕を買って探偵に育て上げたと言う人物。
「あの人が……おまえなんかに手を貸してくれるわけないだろ……!」
「その通りだね。ただの弟子である僕の頼みなんか、耳も貸してくれないだろう」
「そうだろ。そうに決まってる。はは、そんな見え透いた嘘……」
坂林の顔に、陰が宿る。
「だから言ったじゃないか。報告しただけだと。誰も頼んだなんて一言も言ってないよ。師匠は電話で、僕に事件の状況について聞いてきたんだ。だから僕は答えた。その時持っていた情報の全てを。僕の推理を」
「あの人が、どうしておまえなんかに事件のことを聞く必要がある? あの人なら、そんなのおまえに聞かずとも、自分で調べられるだろ」
「僕もそれは不審に思ったさ。けどね、聞かれた以上、僕はその問いには答えなければいけなかった。そして、僕はそのときにシゲルくんの身元が特定できれば、もしくは犯人がわかるかもしれないと言った。そしたら、数時間後には君の個人情報の乗ったメールが送られてきた」
あたしには、この状況がさっぱりだったが、とにかくただならぬ雰囲気になっていた。その坂林の師匠がこの事件に関わってくるのはそれほどまでに驚くべきことなのか?
「あとはその情報から光井愛の存在を知り、そのときにちょうど犯人である彼女に襲われた。光井愛の写真を調べたら犯人と同一人物だったということがわかり、今に至っているわけさ」
坂林は気を取り直して、という風にそう喋った。
「あの人が、この事件を調べていただって……?」
名探偵はすっかり自分の世界に入っているようだった。魂が抜けたようにボーっと一点を見つめ、何か考え事でもしているのか、必死に何かを呟いていた。
「……話がずれたようだけど、次の質問」思い出したように、少女は呟いた。この場の主導権を握っている権力者ですら、今の二人の雰囲気に呑まれていた様である。「そこまでわかっていて、おまえらはなぜ今日ここに来た? 真相に辿りついたのなら、わざわざ危険を冒してまでここに来る必要はなかっただろ?」
「それは、シゲルくんへの恩返しとでも言うのかな? この事件を解決できたのはシゲルくんのヒントのおかげだからね。この事件を一番いい形で終わらせるには、君と、そしてシゲルくん――いや、光井明も同席する必要があったんだ」
「一番……いい形だって?」
「その通りだ。光井明が望んだ最良の展開。それがこの状況だ」
「僕に銃を向けられてるこの状況がだって? 何の冗談だ?」
これについては、あたしも坂林から話を聞いた。
「そもそも、光井明が本当に君が犯人であることを隠し通そうとしたのであれば、何故僕たちに過去の事件を示唆するようなヒントを与えたのかという疑問が残るんだ」
そう、さっきから少女が時折名探偵の方を睨むわけ。それは光井明があたしたちに事件の核心とも言える情報を与えたから。
「これは、人間の微妙な心理によるものだったんだ。光井明は、本当は事件を解決させたかった。君が犯人であると告白したかったんだ」
ずっとぶつぶつ言っていた名探偵がぴくりと肩を震わせた。
「何言ってるのさ。アキ兄は今の今まで僕が犯人であるということを知っておきながら、知らないふりをしていたじゃないか」
「そう。それこそが人間の微妙な心理なのさ。『俺は妹が犯人であることを誰にも言わない。妹を守る』。光井明はそのために、自らが警察に君のことを密告するなんてことはしなかった。だけど同時に彼は親友とも形容するほど親しかった弟を殺された立場でもあるんだ。犯人に捕まって欲しいという心理は当然あるはずだ。あるいは、君に更生してほしいと願う気持ちもあったかもしれない。だから、『妹が警察に捕まればいい』という感情も漠然とあった。けど、この二つの感情は
光井明の妹を思う気持ち。妹のいないあたしにはそれがどういうものだかいまいちわからなかった。二人には妹がいる。その点で、何か通ずるものがあるのかもしれない。
「だから、こうしてシゲルくんの見ているところでフィナーレを飾ろうと思ってね。だからこうして僕たちはここまで来た。それに、君と話をしてみたかったんだ。君の口から、ちゃんと事件の詳細を聞いておきたかった」
それはあたしも同意見だった。いくら推理によって、限りなく真実に近い事象が導き出されたとしても、それはあくまで想像上のものに過ぎない。その事件の全てを知るには、犯人に直接聞く他あり得ないのだ。
「僕の口から? よくもまあこの状況でそんなことを言えたもんだ。……そうだな。おまえらの推理でだいたいあっているよ。人が考えた密室とか、性別の取り違えとかのトリックをあっさりと見破りやがって。まあ考えたとは言っても、密室の方は偶然できた上がったって感じなんだけどね。僕の口からはもう言えることはほとんどないよ。花丸をあげたいくらいだ。九十八点だよ」
「……九十八点? どこが間違った?」
「動機だよ。動機が違う。いや、間違いってわけじゃないんだけど、決定的なところでおまえらは勘違いをしている」少女は冷笑を浮かべる。「おまえらの言い方じゃ、まるで僕はフラれた腹いせに少女たちを殺したみたいな言い方じゃないか」
「違うのか?」
「全然違うね。腹いせなんて低レベルなものじゃない。もっと、複雑な感情だ。もっと、高貴で、華麗で、どす黒くて、沸々としたそういう情緒だよ。おまえらみたいな凡人にはとうてい理解できないような、複雑怪奇な気持ちだよ」
「確かに。僕は凡人だから、君の言いたいことが理解できないな。悪いけど」
「腹いせなんて、そんな低レベルな感情で少女たちを殺して気ただなんて思われたくないから、教えてやろう。そして、この際だ。アキ兄もよく聞いておけ。僕が、どうしてシゲ兄とサヤちゃんを殺したのかもこの場で言おうじゃないか。どうせもう全てに蹴りがつくんだ。何も知らないままじゃ、歯がゆいだろ?」
「……イトシ?」
光井明の顔に悲しみのようなものが浮かんだ。
「シゲルくん、いや、アキラ《、、、》くん。これが君が人生をかけて捜査してきた事件の真実だ。そんな顔してないで、よく耳を傾けるんだ」
そうは言うものの、坂林の声はまるで耳に入っていないようだった。
「僕がシゲ兄を殺した理由。それは単純に僕がシゲ兄に憧れて、シゲ兄のようになりたかったからだ」
少女は明瞭な口調でそう言った。
「憧れて……?」眉を顰める坂林。「それはおかしくないかい。なぜ、憧れの人を殺す必要があるんだ」
不快そうな顔を坂林に向けた。
「理解できないなら口を挟むなよ、飯野正治。言っただろ、僕はシゲ兄のようになりたかったって。憧れてただけじゃない。僕はシゲ兄になりたかったんだ。まさに、そのポジションに立ちたかったんだ」
「おまえ、じゃあやっぱりサヤちゃんのことで……?」
小さく、光井明は呟いた。やはりその表情には悲しみが宿っていた。諦めとか、空虚とか、そういうものを含んだ。
「あのさ、アキ兄はいつもそうだよね。何でそうなるわけ? 僕の言ったことが聞こえなかった? 僕は単純にシゲ兄のようになりたかっただけなんだ。サヤちゃんなんか関係ない」
そして、最後に勘違いもいいい加減にしろよと小声で付け加えた。
「関係ないって。シゲルになろうと思った理由は、サヤちゃんの気を自分に向かせるためじゃなかったのか? シゲルが、邪魔だと感じたからだろ?」
「ああ、邪魔だったよ。常に僕の前を行くシゲ兄がね。ずっと憧れてた。ずっとシゲ兄を追いかけてた。けどさぁ、やっとシゲ兄に追いついたと思ったときにはもうその場所にはシゲ兄はいないんだよ? もうそのときはさらにずっと前を走ってる。目障りだった。いや、
あたしにはこの二人が何を言っているのかよくわからない。ただ漠然と過去の事件について討論をしているというのだけがわかるのだけれども、もっと重要な動機の核心的な部分については、鈴野さやや光井秀に関する情報が欠落しているあたしには理解することができなかった。
「……それから、サヤちゃんを殺した理由か」光井明が口を挟む前に話を進行する。「これは至極簡単なことさ。シゲ兄を殺した犯人が僕であることに、サヤちゃんは気付いてしまったんだよ。だから口封じのために殺した」
あたしは、過去の事件になんて関心はなかったし、鈴野さやは犯行を目撃したから殺された? そんなの、今回の連続殺人の動機に直接結びついてくるなんて思えない。だからあたしは話を切り出す。
「それよりも、どうして美樹ちゃんたちは殺されたの? フラれた腹いせじゃないって言ったでしょ? それじゃ、いったい理由は何なの?」
「あの五人を殺した理由?」少女はこちらを向いた。「そうさ、腹いせなんかじゃない。あいつらは僕がシゲ兄になり切れていないことを示唆したんだ。だから、殺した」
「示唆……って……?」
「僕がシゲ兄になるためには性別という大きな壁があったんだよ。僕が始末した五人はみな同様に、僕が服を脱いだ姿を見て、顔を引きつらせた。一人の例外もなくね。その顔を見た瞬間、僕は毎回気付くんだ。僕はシゲ兄になり切れてないってね。その瞬間歯止めが利かなくなる。シゲ兄になるためにはどうすればいいのか。この状況。シゲ兄だったらどうするか? 決まってるさ。裸の男女が二人でいれば何をするかなんて決まっている。けど、僕は女であって、性器を付きたてることなんてできない。だから僕は包丁を代わりに使ったんだ。凶暴な男の象徴としてね。ありきたりだと思うか? けど、これ以上の方法はないだろ? それからは君の推理の通り。この格好をしてそれぞれの少女と同じ髪型のカツラを被り外に出て行く。皮肉だとは思わないか? 自分がたったいま手にかけた少女の格好をして逃げ出す。まるで、彼女らが僕に手助けをしてくれてるようだ。あとは、家に戻るだけさ」
少女は銃口をあたしに向け、狙いを定める。
「これで終わりさ。納得したかい?」
「最低ね」
銃が向けられ、命を握られた今も、あたしは怯まずに自らの意見を述べる。
「何がだよ」
少女は少しだけ顔を顰めた。あたしの言葉に怒りを感じたようだ。だけど、あたしは人殺しの機嫌なんて取っている余裕はなかった。今のあたしは目の前の少女以上に憤慨している。
「美樹ちゃんはあんたのことを好きだったのに、つまりあんたは自分が光井秀になり切れているかどうかの確認のために、美樹ちゃんと付き合ったって言うのね?」
「そうだよ。文句でもあるかい?」
「あんたがまだフラれたショックで――って言うんならまだ同情の余地もあったけど、自分が秀になり切れてないから殺しただ?」
一歩踏み出す。そして少女の方へと近づく。
パン。
音がした。続いて、左肩の感覚がなくなる。目の前の少女は少しだけバランスを崩した。
「動くなよ。次はその脳天を狙うよ」
そんな脅しなど気にならないくらい、何か強大なものががあたしを動かしていた。
「ハルちゃん!」
背後から何者かの呼び声が聞こえた。
「あんたは酌量の余地なしね。地獄に落ちるべき。いいや、そのもっと下、もっと酷いところまで落ちるべき」
少女と机を対峙する。
寒気。
たぶん、左肩から大量に出血しているせいだと思う。
歯もがちがち音を立てている。
「言いたいことはそれだけか?」
ちょっと足に力が入らなくなってきた。けど、それでも、美樹ちゃんの存在があたしの精神をしっかりと支えてくれた。
「いくら言葉を並べても言い足りないわよ。ははっ。気持ち悪い。クソ野郎。くたばれ」
少女は二発目のの弾丸をあたしに撃ち込むために、撃鉄を再び親指で引き起こした。
「元気な子は嫌いじゃないし、君とは仲良くできたらな、と思ってたんだけど。もう終わりか」
少女は引き金に添えた人差し指に力を込めた。
銃声。
次の瞬間、あたしはうつ伏せに床に倒れていた。
銃声。銃声。銃声。
全身を襲う激痛。
いったいどこが撃たれたのかわからない。
いや――ひょっとしたら何十発もの弾丸があたしの体を
何かが乗っかっているように重い。
そんな状況の把握もまともに行えないまま――。
あたしの視界はゆっくりと暗転していった。
10
聞きたかったことは全て聞けたし、春乃らの腹いせに殺しただなんていう勘違いも訂正することができた。そして何より、もう目の前の少女の口から僕に対する罵言を耳にはしたくなかった。だから、全てを解決させるために僕は引き金を引いた。少女を殺した後に、飯野正治を銃殺するつもりだった。そういうつもだったのだけれど――。
僕が引き金を引いた瞬間、いや、正確には引こうとした瞬間に、飯野正治がこちらに飛び込んできた。慌てて照準を駆けて来る男に変え、発砲した。反動が大きいこの銃では、とてもじゃないが連射なんてことはできない。僕が春乃に向け射撃した瞬間、体制の崩れた僕を取り押さえるつもりだったに違いない。銃を撃った段階ではそう考えていた。
銃弾は坂林の胸を貫いた。だが、勢いは止まらずこちらに突っ込んでくる。来るか。最期の力を振り絞って僕に
飯野正治は僕の視界からフェードアウトした。どうやら力尽きて倒れたようだ。
はは、ざまあみろ。やっぱり僕に歯向かうことなんて無理だったんだ。
しかし、それは違った。
飯野正治は
飯野正治の姿と共に、春乃の姿も視界から消えた。慌てて床に目を向ける。
二人は血を流して床に倒れていた。飯野正治が春乃の上半身を覆うようにして。
春乃はまだ死んではいない。僕は春乃に照準を合わせる。けれど。
致命傷となり得る頭や胸部は、飯野正治の体で覆われていて狙うことができない。小柄な春乃の体を、体全身を使って飯野正治は守っていた。
試しに、僕は飯野正治の背中に銃弾を打ち込んでみた。血が飛び散る。恐らく、坂林の内部で銃弾は止まった。クソ。これじゃあ、春乃に止めを刺すことができないじゃないか。それでも、僕は飯野正治の体だけでは覆いきれず露出した足や腰に向かって銃弾を撃ち込んだ。肉が
けど、僕は引き金を引くのを止めた。
別に下らない感情に押し流されたってわけじゃない。気付いたのだ。残りの弾が一発であると言うことに。
普通この手の銃の
視界の端に、何事もなかったかのような顔で立っているアキ兄を捕らえた。
「アキ兄、弾がなくなりそうなんだけど」
すでに引き出しには視線を送ったのだけれど、銃弾、あるいは銃弾が入っているらしき箱はない。
アキ兄は答えた。とてつもなく落ち着いた声で。一切の乱れがないといったような声で。
「弾はもうないよ」
この僕ですら、血の臭いや、部屋に広がった赤色のせいで息が乱れていると言うのに、アキ兄にはそれがない。
さきほどまでのアキ兄とはまるで別人だ。
「ないわけないだろ? あるはずだ。出してよ」
「やっぱり、坂林たちは犯人じゃなかったんだね」
僕の頼みを無視するかよ。
「いいから弾。早く」
それでもアキ兄は自然な態度で僕の言葉を聞き流す。
「犯人は、やっぱりおまえだったんだ」
あまりのショックにネジが抜けてしまったのだろうか。会話が成り立ってない。
「……そうだよ。僕が犯人だよ。知ってただろ? それよりも、弾はどこに――」
「シゲルを殺したのも、サヤちゃんを殺したのもおまえなんだな?」
真っ直ぐな視線。恐ろしいくらい静かな口調。目は、しかし狂人のそれではなかった。有無を言わさぬ口調。
「そうさ。それもわかってたんだろ? わかってて知らん顔してきたんだろ? 白々しい。何を今さら。それよりもいい加減に――」
「もう終わりにしよう」
「はあ?」真顔で、唐突に、脈絡もなく、そう口にした。「意味がわからない」
「もう、終わりにしようと言ったんだ。他意はない」
「ははは! もう終わるよ。アキ兄が弾丸の場所さえ教えてくれればね! 全ては解決する」
そう。早く新しい銃弾でとどめを刺し、とっととここから立ち去りたかった。
「それではダメだ。それでは、おまえはもっと悪い方向に進むことになる」
「悪い方向? じゃあ何? アキ兄はどうしろって言うのさ」
「銃声を聞きつけて、誰かがここに来るだろう。そいつは警察に通報する。そのまま捕まれ」
何を言い出すかと思えば。
「それがアキ兄の考える一番いい方法?」
「そうだ」
「馬鹿じゃないの?」
吐き捨てるように言った。
「おまえはここで逃れても、また辛い思いをすることになる。それにおまえはもう、絶対に逃げることはできない」
「はあ? どういうこと?」
アキ兄は天井を指差した。そこには防犯カメラのようなものがぶら下がっていた。
「おまえが準備しとけって言ったんだろ? あれにはおまえが映り込んでいる」
「はは、なんて安直な。けど大丈夫。それじゃあここは燃やしていくから。ビデオテープごとこの世から消滅させる」
「それは無理だ」
「あ? どうして?」
「あのカメラから撮られた映像をリアルタイムで見ている人がいる」
思わず顔を顰める。
気付けば、僕はアキ兄に銃口を向けていた。
「……誰?」
カチリ。打ちがねを下ろす。
「聞いてどうする?」
「殺しに行く」
「そいつは無理な話だ」ここで、初めてアキ兄は表情を崩した。笑い声を漏らす。「おまえには殺せない。いや、誰にも殺せない」
言っている意味がわからなかった。
「理解できないな。とにかく……そのカメラを通じて、今もこの状況を見ているであろう人物の名前、聞かせてもらおうか」
「聞きたいか? その人物は『ソロモン』と呼ばれる初老の男だ。本名は知らない」
ソロモン? 何だ? 唐突に聞いたこともない名前が出てきたぞ。
それに、こんなに簡単に監視者の名前がわかるなんて。
「ああ――。その『ソロモン』と呼ばれる初老の男こそがさっきからちょくちょく話に出てくる俺たちの探偵の先生だよ。なぜ殺せないか、さっきの俺たちの話でを聞いてりゃわかるだろ? あの人は完全無欠の人間なんだ。あの人は捜して見つかる人じゃないからな。こちらからはコンタクトすら取ることはできない」
ソロモン……アキ兄の師匠?
「……だから、もう終わりなんだ。どこに逃げようと、必ず見つかる。坂林の口から、あの人が事件に関心を持ったと聞いた時点でもう事件の解決は決定していたんだ」
言って、俯いた。
「ははっ……。終わりなもんかよ」アキ兄のその絶対的な自信に溢れた口調に、多少たじろぎながらも僕はそう口にした。「その『ソロモン』ってじいさんさえ見つければ、それでいいんだろ?」
アキ兄はゆっくりと首を左右に振った。
「見つからない」
睨み付ける。声を荒げて言い返す。
「見つかるさ。僕にできないことはない」
そうか、とアキ兄は小さく呟いた。
「じゃあ、せいぜい頑張れ。応援してる」
不意に、アキ兄が動いた。ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
僕は両手で支えながら銃を向ける。
「動くなよ。いくらアキ兄でも間合いに入ってきたら撃つよ」
ただの脅しではなかった。実の兄であっても、僕に歯向かうようであれば始末する。それに、もう全てを知ってしまったアキ兄は僕に協力はしてくれないだろうから、すでに駒としても必要はなかった。
「好きにするといい。おまえの、好きにするといい」
真っ直ぐと僕を目で射抜きながら一歩、また一歩と近づいてくる。その目に恐怖はない。まるで銃が見えていないようだ。
「まだ、この中には一発弾が残ってるよ? 僕が引き金を引けば銃弾はアキ兄の体を貫く」
その警告を嘲笑うかのように、アキ兄は自らの胸を銃口に押し付けた。僕の伸ばした腕に微かな圧力を感じる。
「だから、好きにすればいい」
引き金を引こうと思った。
だけど、指が動かない。
情に流されたか。
何か、懐かしい感じがする。
僕の腕は、アキ兄の前進しようとする力によってゆっくりと曲げられていく。
「……好きにしろと言われてもねぇ。さっきから言っているように、この銃弾がラストなんだよ。これをアキ兄に使っちゃったら、そこで寝てる二人に止めを刺すことができなくなっちゃう。その前に、アキ兄には銃弾の場所を教えておいてもらわないと――」
「終わりにしようって、言っただろ?」もう、アキ兄の顔が目と鼻の距離。「だから、これ以上犠牲者を出さないためにも、銃弾の場所は教えられない」
僕はすぐそこにあるアキ兄の喉元に銃を押し当てた。
「アキ兄は、僕の味方じゃなかったの?」
あるいは、もうそうじゃないのかもしれないけれど。
「俺はおまえの味方だ」ぬけぬけと、よくもまあ。「ずっと。今もそれは変わらない」
「味方なら、僕に協力してよ」
そして、やはりアキ兄は首を横に振る。
「味方だからこそ、ここで銃弾を渡すわけにはいかない。これ以上逃げるな。この先には何もないんだ。おまえには未来はない」
腕が、アキ兄の腕が僕の頭の横を通り過ぎて背中に回される。
「ここで、終わりにするんだ。もう逃げる必要はない」
……そうか。
僕は十年前を思い出していた。
この大きな
シゲ兄が死ぬ前のアキ兄に、戻ったんだ。
全てを理解した今、演技を続ける必要はなくなった。
だからアキ兄はあの頃の元のアキ兄に戻ったんだ。
ゆえに、僕は引き金を引いた。
最後の弾丸が、アキ兄の頭蓋骨を貫いた。
アキ兄――否、アキ兄の死体はゆっくりと床に崩れていった。
これで僕を束縛するものはいなくなった。
それはつまり僕は孤独になったということだった。
血だまりの中で眠る少女に目を向ける。顔は、飯野正治の体の下になって見えない。
こいつらは僕が明日香らを殺した動機をフラれたことへの腹いせだと思っているようだ思っていたようだけど、それはやはり全然違うよ。
“もっと、複雑な感情。もっと、高貴で、華麗で、どす黒くて、沸々としたそういう情緒”
こんなのも飾っただけの後付の理由だ。実際は、もっとシンプルな気持ち。
拒絶されたことが単純に悲しかったのだ。
一人で生きてきて、やっとできた最愛の人に否定されて、感情が爆発した。そこにフラれたことに対する怒りもなければ、どす黒い憎しみとか、高貴な考えがあったわけではない。ただただ悲哀に支配されての行動。
シゲ兄を殺した理由だってそうだ。サヤちゃんを取られた悲しみによる衝動的な殺人。髪を切り、シゲルを名乗ってシゲ兄のふりをしていたのもシゲ兄がいなくなった悲しみから。
サヤちゃんだってそうだ。フラれた悲しみを『口封じ』という形でぶつけ、殺害した。
学校でもどこでも、秀でるということは孤独なことなのだ。相手がこちらと距離を置く。接近すらさせてもらえない。その中で、唯一サヤちゃんは近い存在として僕の横に立っていてくれた。受け入れてくれると思ったのに。
ドアが開いた。
そこには見知らぬ男が立っていた。
恐怖が顔に表れている。
僕は銃をその男に向けた。右手にはカツラを掴む。そして、ゆっくりとそちらに向かって歩き出す。弾は入っていなかったが、男はそんなこと知る由もない。この惨状を目にすれば、僕の手に持っているものが本物の拳銃であることは嫌でも理解できるだろう。
「どけよ」
銃口を向けたまま入り口を抜ける。
「動くなよ。ちょっとでも不審な動きをしたら、撃つから」
男は小刻みに頭を縦に振った。
僕は階段を駆け下りる。マンションを出たところで、血のついた上着を脱ぎ捨てた。いつもならこんな証拠になるようなものを事件現場近くには残さないのだけれど、どうせ『ソロモン』を名乗る老人とやらの元には僕の女の姿の映像が記録されているに違いない。こんなジャケットくらい些細なもんだ。スカートの方は、替えがないから着替えることはできないが、色が黒いので血痕はそう目立たないはずだ。僕は頭にカツラを乗せた。もうこの変装も意味がなくなるのだろうけれど、今はまだ警察の目を誤魔化すことができる。
これからどうやって生活しようか。この姿が使えなくなったら、仕事もできなくなる。
……まあいい。どうにでもなれ。金はたくさんある。
拳銃も道端に捨てた。弾丸が入っていなければただのゴミだ。
今までだってそうであったように、僕に残された道は孤独を
――涙を流したのは、サヤちゃんを殺して以来だろうか――。
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