三章 はじめまして、狂気

         三章


      はじめまして、狂気


         1


「ちょっと、あたしが似てるってどういうことよ」

 机を叩く。あたしのレモンティーの表面に波紋が広がる。

「そのまんまの意味さ。少なくとも僕の主観では君は今までに殺された五人の被害者たちに似ていると言ったんだ」

「そんなことはわかるわよ。どうしてあたしが犯人に狙われるような顔をしてるのかって聞いてるのよ」

「し、知らないよ。そればっかりは持って生まれた運命なんだから仕方ないというか……。第一元々犯人は自分の好みにのっとって被害者を選んでいる。そんでもって君は人に好感を持たせる顔をしている。だから君が狙われるのは当然」

「何が当然よ。それにあたしと美樹ちゃんって似てる? 全然似てないでしょうが」

「似てるよ」

「美樹ちゃんはあたしなんかよりずっと可愛い」

「そりゃ君の主観でしょ。客観的に見れば二人は同タイプの美人。美樹ちゃんを最初に見たときやっぱり似たもの同士は仲がいいんだなって思ったもん」

「それこそあんたの主観でしょうが。あたしと美樹ちゃんが似てるって、百人に聞けば百人がそう答えるって言い切れる?」

「それは無理でしょ。でも八割がたの人間は似てるって答えるよ」

 こいつ、ちょっとは引こうとか考えないのか。自論を捨てる気はないらしい。

「でも、ニュースじゃ密室のことも顔が似てるってことも身長のことも、全く全然触れてなかったじゃん。犯人像についてはいくらか触れてたけど」

 ピンポーン。坂林はこんなときだと言うのに、呼び出しボタンを押しやがった。

「そりゃそうさ。そんなもの報道してどうするって言うんだよ。まず密室については報道する意味がない。次に身長。これだって不確定要素だ。偶然身長が一六〇センチ前後だったってことも考えられる。どちらにせよ報道する意味はないよ。それから顔が似ているって問題については人によって見方が違ってくるからね。被害者はみんな顔がそっくりですだなんて報道ができるわけがない」

 それからやって来たウエイトレスに坂林はカプチーノをくださいと言った。コーヒーって、そんながばがば飲むものでもないだろう。

「ん……まあ、とにかくあたしが被害者の候補だってことはわかったよ。命が狙われてるかもしれないってのもわかった。そんで、あんたはあたしにどうしろって言うの?」

「うん、だから、もう一度言うけど仕事――つまり援助交際を辞めてもらいたい」

「はあ?」そりゃまた急な話だ。「何言っちゃってんのさ。唐突に」

「これでも僕は僕なりに考えたことなんだ。君の仕事は接客業だろ? 仕事を続ければそれだけ犯人の目に付く危険性が高くなるってことなんだよ」

「言ってることはわかるけど」あたしは冷めてきたレモンティーをすする。「あたしは易々犯人に殺されたりはしないし、そもそもあたしは犯人の特徴を知ってるんだよ? 金髪に身長があたしと同じくらいでしょ? もしそんな男が声をかけてきたら、例えどんなイケメンだとしてもあたしは無視するね」

「僕も最初はそう思ったよ。犯人の特徴さえ教えておけば大丈夫かなって。だけど、ハルちゃん。もしハルちゃんの目の前に犯人の男が現れたらどうする?」

 その意味深な問いにあたしは怪訝そうな眼を向ける。

「言ったでしょ。無視するわよ。それか近くの交番に行ってその男のことを伝えるか」

「本当に?」

 坂林はジッとあたしを見つめる。

「何よ。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」

「……僕は思うんだ。もし君の前に犯人が現れたら君は美樹ちゃんを仇を討つために犯人と関わることになるんじゃないかって」

「…………」その状況を想像してみた。目の前に金髪サングラスの身長一六〇のチビがいたとする。そいつは美樹ちゃんを殺した。多くの女の子を陵辱して殺した。あたしの命を狙って近づいてきた。男は来いと言う。あたしは無視できない。いいだろう。あたしを殺そうとしてみろ。返り討ちにしてくれる。それだったらあんたを殺しても正当防衛だ。「……チェッ」あたしは舌打ちをした。坂林の言う通りかもしれない。恐らく感情を殺してその場を立ち去ることがあたしにはできない。

 なるほど。それは確かに危険だ。恐らくあたしは暴走する。

「どうだい。君の頭の中じゃ、犯人は今頃ボコボコにされているのかもしれないけど、現実はそう甘くない。相手は男だ。それに刃物も持っている。何人もの人間を殺している。とてもじゃないが、ハルちゃんがいくらちょっとした修羅場を乗り越えてきていたとしても、そういう次元じゃないんだ。生き死にの話なんだよ。簡単に考えてちゃ――」

「わかってるわよ。そんな説教じみたことを言われなくても。頭ん中じゃ犯人の攻撃を避けて上手く顔面にストレートを決めることができたとしても、現実じゃ身体能力に限界があるってことも、犯人の方があたしよりも格段に身体能力が高いってこともちゃんとわかってる」

「それじゃあ」

「嫌だね」またしても坂林の言葉をかき消す。「エンコーはやめない。これが今のあたしの唯一の収入源なんだから。そう簡単にじゃあやめるわとは行かないわよ」

「お金の心配だったら、僕がある程度は仕送るよ。普通の生活が維持できるくらいはね。幸い、それぐらいの金額だったら何とかなるから」

「はん」鼻で笑う。「それってプロポーズ? やめてよね、マジで」

「違うよ。そういうんじゃない。お金がなくて困るって言うんだったらハルちゃんのためだったらそのくらいは出せるってことであって」

「幸い、あたしもお金はたくさんあるからね。生活の心配をしなくていいくらいの預金はある。おかげさまで」

「なら別に働かなくてもいいじゃないか」

「寝言は寝て言って。あたしがお金を稼げるのは今しかないのよ。今のうちに稼いどかないでどうすんのよ。あたしはあんたに何と言われたって仕事はやめないわよ」坂林は肩をすくめている。何か言葉を探しているのだろうか。空のコーヒーカップにずっと目をやっている。いくら見つめてそこからは助言なんか一つも出てきやしないよ。「……ま、でも」仕方がないのであたしが助け舟を出す。「エンコーをやめはしないけど、しばらくは休業するつもり。犯人が捕まるまでね。美樹ちゃんのことが気になって仕事にならないもん。だからあんたは心配しなくていいのよ。向こうがあたしに接触してくる可能性は極めて低い」

「……うん」

 納得したようなしないような顔で坂林は静かに頷いた。何だ、さっきまで覇気があったのに急に意気消沈して。まさかさっきのは本当にプロポーズだったとか。まさかね。

 沈黙に包まれたテーブルにちょうどよくウエイトレスがカプチーノを運んできた。白いもこもこの上に茶色い粉がかけられている。甘いシナモンの匂い。ああ、あの粉はシナモンか。

 この沈黙を埋めるためか、坂林はすぐにカプチーノに口を付けた。口の周りに白ひげが生える。赤い帽子を被せればサンタのように見えなくもない。

「それから、あたしは同じ仕事してる友達に一六〇センチ前後の子は気をつけるようにってメールを送ろうと思うんだけど、どう思う?」

 カップをゆっくりと置いてこちらを見る坂林。口ひげは残ったままだ。

「なるほど。確かにそれは危機意識が広がるね。友達からその友達へ、そのまた友達へと広がっていくから。効果的だと思う。……ただ、メールだと広がっていく過程で信憑性が損なわれていくという可能性もあると考えられるんだけど」

「それなら大丈夫。ちゃんとあたしのことを説明してもらうような内容で親しい人にだけ送ってもらうようにするから。友達が殺されて事件について調べてるうちにその事実がわかった。だから一六〇センチ前後の子は気をつけてってね」

「うん。それならある程度の信憑性は保たれたまま伝わっていく。それで行って見ようか」

 頷く。そしてあたしは一口だけ残ったレモンティーを飲み干してからメールを打ち出す。

「ハルちゃん、何かおかわり飲む?」

「じゃ、あたしもあんたと同じのを注文しといて」

 顔を見ずにそう言う。ピンポーン、ウエイトレスがやってくる。坂林はカプチーノを注文した。その間も、あたしはメールを打ち続ける。頭に浮かんだこのメールの送り相手。それは三人に絞られていた。みゆちゃん。恭子。そして秋穂ちゃん。みゆちゃんはあたしが美樹ちゃんの次に知り合いになった偶然であった女の子で、たまに一緒にショッピングに行ったりする仲。恭子はあたしの中学時代の同級生なのだが、まあ中学時代はそれほど仲はよくなかった。一度二年のときに同じクラスになったので、挨拶と世間話を少しするくらいの仲だったのだけれど、ある日、駅で遭遇したときに互いの職業を知り、それからメールが始まって仲がよくなった。そして秋穂ちゃん。彼女は美樹ちゃんの友達だった人物だ。美樹ちゃんの紹介で仲良くなった。

 他にも数人、同業者のアドレスを知ってはいたが、日ごろ頻繁にメールはしていなかったので送るのはやめておくことにした。このメールは信用が大事だ。ただのチェーンメールになってしまっては意味がない。だから、送る相手はある程度選抜が必要。

 一括送信はせず、一人一人しっかりと送っていった。内容はあたしの親友である美樹ちゃんが事件の被害にあったこと。そのことをあたしが調べているうちに一六〇センチ前後の女の子ばかりが狙われていることがわかったこと。このメールを特に親しい子にちゃんとあたしのことを説明する文を入れて送って欲しいということ。それらのことをできるだけ完結にまとめた(もちろん絵文字なんか使っていない)。

 その作業が終わって間もなく、カプチーノが運ばれてくる。

 甘い香り。白い泡。ブラウンのパウダー。

 カップを傾けると、泡の下からコーヒーが流れ込んでくる。ほろ苦い。心地よい苦味。

 あたしはコーヒーを口にしながら横目で携帯が受信を示すランプが点灯するのをジッと見ていた。けれども、なかなか返信は帰ってこない。三人とも普段からそれほど返信が早い方ではなかったが、今日はいつもりも返信が遅いように感じられた。

 仕方がないので、あたしはカプチーノを賞味しながら返事を待つ。


         ※


 メールを送信してから一時間が経過した。あたしはそれまでの間、アイスやらマフィンやらチョコクッキーやらを食べていた。

 もちろん本来の目的も忘れてはいない。一時間の間にあたしは何十通ものメールのやり取りを行った。

 恭子とみゆちゃんからはわかったという了解メールが来た。親しい人を選抜してあたしがどんな人物なのかも添付して送ってくれたという。あたしは二人に礼を述べた。

 そしてその二人よりも先に返って来たのが秋穂ちゃんのメールだった。けれどもメールの内容は二人のものと明らかに違っていた。

 内容を大まかにまとめるとこうだ。美樹ちゃんの敵討ちに私も参加したい。よかったら、調査に混ぜてくれないか、というものだった。

 あたしは坂林の顔を見る。

「何、どうしたの? いい返事が返ってこなかったのかい?」

「なんか、秋穂ちゃんっていう美樹ちゃんの友達の子がいるんだけど、敵討ちに参加したいって」

「なるほど」そう言ってモカに口を付けた。坂林はすでに何杯目だかわからないくらいのコーヒーを飲んでいる。「いいんじゃないかな。ハルちゃんが決めればいい」

「そう? じゃあさっそくメールを――」

 そこで坂林が受皿にカップをちゃかりと置いた。

「ただし、僕は顔合わせはできないよ」

 メールを打つ手が止まる。

「へ? どうして?」

 怪訝な眼差しで坂林を見てやったが、気にする様子もなく一度モカを口に含んだ。

「きっと、友達の仇を討ちたいって子たちはさらに増えると思うよ」

「え、何でわかるの?」

「その美樹ちゃんの友達って子も自分の友達にメールを送ったんだろ? そしたらその中で美樹ちゃんと仲がよかった子がいる可能性は高い。そういう子もきっと参戦してくる」

 少し考えてみる。確かに、秋穂ちゃんの友達の中に美樹ちゃんの友達が含まれている可能性は高い。あたしと秋穂ちゃんが美樹ちゃんを介して友達であるように秋穂ちゃんの友達の中にも美樹ちゃんを介して知り合ったという子は恐らくいるはずだ。

 美樹ちゃんのことを思って戦ってくれようとしている子がいる。何だかちょっと涙が……。

「でも、顔合わせができないってどういうこと? 探偵だから人目にはつきたくないとか?」

「別にそういうわけじゃないけど。ただ、僕は大衆誘導が苦手でね。あまり人が多いところで物を言うのを好まないんだよ」

「それってなんだかんだ言っても、つまり大勢の前だと上がっちゃうってこと?」

 坂林は静かにカップに口をつける。

「率直に言うとそうなるね」

 言って見てわかるほど肩をガクっと落とした。

「ならまどろっこしい言い回しをしないで最初からそう言いなさいよ。つーか、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。美樹ちゃんのために戦おうって子がいるんだよ」

「そんなこと言ってる場合だよ。上がるってことは判断力が低下するってことだ。それだけ僕の作業は遅くなる。それでいいのかい?」うん、と一概に頷くことはできない話だ。唯一の情報源であるこいつのスピードが落ちると言うことはできるだけ避けるべきである。「僕はこれから仲間たちの手をいくらか借りて他の観点からも調べてみるつもりなんだけど、その間にハルちゃんは他の子たちから情報を集めてもらえないかな? 何も二人で行動する必要はないと思うんだ」

 何が二人で行動する必要はない、だ。それなら今日も一人で名探偵のところに乗り込んどけって話だ。

 と、そのとき携帯が勢いよく鳴り出した。メールを受信。受信BOXを開き内容を見る。

 それは恭子からのメールだった。

『あたしの友達の友達の友達に友達が殺された子がいるって言うんだけど、春乃と連絡が取りたいんだって。これがその子のメアドだから。lovelove.radiohead.there.there@domoweb.ne.jp』

 友達の友達の友達? あたしからしたらほとんど他人じゃないか。けど、その子も友達が殺されたという。

「何だって?」

 モカを飲み干してフクロウ男が問うた。

「あたしの友達の友達の友達の友達の友達が殺されて、あたしの友達の友達の友達が連絡欲しいんだって」

「友達の友達の――って結構広がってるみたいじゃないか。それもちゃんと信じてくれてるみたいだし。それが狙いだったとはいえ、さすがに驚いたな」

 そう、驚きだ。そんな離れている人間から連絡が欲しいと言われるなんて思っていなかった。

「その殺された友達って、たぶん美樹ちゃんじゃないよね」

「多分、別の子だろうね。殺された子達はみな同じくらいの年齢だからね。メールが広がっていけば美樹ちゃん以外の被害者の子の友達にメールが届くのは必然だよ」

 恐らく美樹ちゃんともあたしとも何の接点もない女の子が殺された友達のためにあたしと一緒に戦おうとしている。そう申し出ている。

「で、どうするんだい? 他の子の友達まで集めたらそれこそ結構な数になると思うけど」

 答えは決まっている。

「何言ってんのよ。あたしと一緒に友達の仇を取ろうって言うのよ。断る理由なんかないじゃん」

「はは」坂林はコーヒーカップを傾ける。が、中身が入っていないことに気付いたのか、苦々しい顔でカップを置いた。かちゃん。「ハルちゃんらしい。顔も知らない子を、それも互いのことを何も知らない今、初めて存在を知ったような子を仲間に加えようなんて、普通は考えないよ」

 そう言って呼び出しボタンを押した。コーヒーをまだおかわりするか。

「知り合いかどうかなんてのは関係ない。友達の仇を取りたいって言ってるんだから、その子だってあたしと同じだよ。犯人を捕まえようって気持ちを持ってるんなら同志だ。そうでしょ? 何かおかしい?」

「おかしくはないけど、そういう考え方ができる人間が少ないのは確かだね」

「そっちの方がおかしいよ。まあ、そんなことはどうでもいいけど。とにかく、それじゃ今からその子にメールを送るから」

 メールアドレスをクリックしてその子宛のメールを作成する。それからあたしが犯人を調べている理由、あたしの簡単な自己紹介などを書いて送信する。

「どんどん協力者を増やして犯人を追い込んでやる」

 誰に言うでなく呟く。

「そうだ。僕もこれからさらに力を入れて情報を集める。一緒に、みんなで犯人を追い詰めようじゃないか」

 そう強い口調で言う坂林が心なしか頼もしく見えた。

 と、そこに店員がやってくる。

「あ、カプチーノ一つ追加で」

 おいおい、まだ飲むのかよ。

 前言撤回。やはりこいつはただのコーヒー好きの小太りだ。


         2


 家に着く。

 僕は自転車を全力で漕いで帰ってきた。別に急いでいたわけではない。どうしようかと焦る気持ちが足に力を入れさせたのだ。僕は自転車を投げ出すようにして家の前に止めると、急いで家に入った。見えない誰かが僕を監視しているような錯覚に陥っていた。

 心臓がバクバクバクバク振動している。これは一キロメートルの距離を自転車で疾走してきたから暴れているのではなく、これもまた焦りが影響してきているのだ。

 サヤちゃんはやはり頭がいい。僕の犯行に感づいていた。僕がサヤちゃんの名前を使ってシゲ兄を公園に呼び出し、僕の手によって事故を引き起こしたことを、まるでサヤちゃんは僕の内部を見透かしたかのように言い当てた。

 もはや疑われているどころの騒ぎではない。サヤちゃんは僕が殺意を持ってシゲ兄を始末したと確信している。

 こうなったらもう何を言っても無駄だ。全てを話してサヤちゃんに黙っておいてもらう他ないのか。

 自室のベッドに座って頭を抱えながら、頭に爪を立てぐわしぐわしとしながらそんなことを考えた。

 どう考えても確信を持ったサヤちゃんを言いくるめることのできる言葉は見つからなかった。

 やはり事実を話すしか……。

 しかし、事実。それをどう話す?

 当人の僕ですら理解できなかったあの唐突な感情。あれは嫉妬なのか。それともサヤちゃんを傷つけたことに対する怒りだったのか。それはどちらとも似つかない、しかしどちらとも言える感情。

 しかしどちらもサヤちゃんのことを思ってのことには違いない。言い訳よりも先に、僕は言わなければいけないことがあった。僕がサヤちゃんに対して抱いている感情。それをサヤちゃんに伝えなければ話が進まない。そして、サヤちゃんも僕のことを想ってくれていることを願う。そうすれば、サヤちゃんも僕のことを黙っていてくれるはずである。いや、もうそれしか方法はない。他に手はないのだ。

 僕は不意に前髪が気になった。目よりもずっと下まで伸びた前髪。肩に達すほどまで成長した襟足。耳はすっぽり髪の中に隠れている。

 シゲ兄はもっと短かった。坊主に近いスポーツ刈りだった。これじゃアキ兄みたいな髪型じゃないか。違う。サヤちゃんが好きなのはシゲ兄なのだ。髪というパーツの占める印象の割合は大きい。特に髪が長いのと短いのでは印象は天と地ほど変わってくる。

 髪を切らなくては。

 僕は突如思い立った。

 うちにも確か、バリカンときバサミくらいはあったはずだ。美容院になんて行っている暇はない。すぐにでも髪を切らなくてはいけない。

 部屋を出て階段を駆け下りる。

 なぜこんな急に髪を切らなければいけないという強迫観念めいたものが僕の内面に出現したのかはわからない。けど、この気持ちの不安定感はどうにも解消しなければいけないように思えた。

「お母さん」

 ダイニングで雑誌を読んでいたお母さんに飛びつく。いや、飛びつきはしなかった。急にそんな快活な行動をしたら不自然に思われる。

「何? どうしたの?」

 自然な笑顔を僕に向けた。シゲ兄の葬式以降、お母さんはそれまでとは打って変わって優しくなった。

「髪を切ってもらいたいんだけど」

 お母さんは雑誌を置き、体を僕の方へと体を向ける。

「あら、まだそんなに髪は伸びていないと思うけど。でも、まあ鬱陶しいって言うんなら今度美容院に連れて行ってあげるから」

 僕は首を横に何回も振った。そして静かに、しかし有無を言わさず口調で言う。

「シゲ兄みたいな髪型にして欲しいんだ」

 その瞬間、お母さんの表情は固まった。固い表情。言い換えれば、氷のような顔。

「何言ってるのよ。あんたは――」

「お母さん」お母さんが何かを言おうとしたのを僕は止めた。お母さんが言いたいことはだいたい想像がついたし、聞きたくもなかった。「お母さんが僕の髪を切ってくれないんだったら僕は自分で切るよ。バリカンがどこにあるのかは知らないけど――ハサミくらいなら僕の部屋にもあるからね」

 言い終えたと同時に、お母さんに反論の余地を与えないために部屋を出る。考える時間を与えないことが人間を誘導するためのキーポイントだ。

「わかったわ。髪は切ってあげるから。準備するからちょっと待ってて」

 椅子から立ち上がったお母さんは、半ば呆れたように僕の横を通り過ぎ部屋を出て行った。

 この人はわかっているのだ。僕が言い出したら聞かないことを。ハサミを使って髪を切ると言えば、僕はそれを実行するということを。

「それじゃあ僕は部屋で待ってるから。準備が出来たら教えてね」

 倉庫に行くためであろう、外に出て行こうとしていたお母さんに頼んだ。それから僕は洗面所に向かう。髪の長い僕の姿を見納めるために。情けない僕にお別れを告げるために。

 よく女の子が髪を切ることで新しい一歩を踏み出すとかいう場面を目にするが、それと同じ現象が僕にも起きている。……いや、この感情はもっと新鮮で神聖なものだ。新しい一歩を踏み出すのではなく、生まれ変わるのだ。比喩的意味ではなく、そのままの意味で僕は違う僕になる。

 鏡の前に立った。

 僕の顔が映る。

 兄弟共通の特徴の一つである『端正な顔』が鏡に映る。

 口まで届きそうな前髪を左右に分け、後ろ髪は首の影から大々的にはみ出ている。

 これではいくら兄弟でシゲ兄に似ていたとしても、全然違う印象になってしまう。やはり相似しているのはアキ兄の方。はあ、ため息も出ない。

 僕はお母さんが帰ってくる前に自室に戻ることにした。ベッドに飛び込むと、目を瞑ってそのままうつ伏せの状態でキープ。

 しばらくの沈黙。しかし、顔をシーツに押し付けっぱなしでは呼吸ができないので、僕は間もなく息をするために顔を横に動かした。

 下らない。

 またしても唐突な感情。

 今、こうして息をしているのが実に下らない。こんな無意味な生命維持活動をしていったい何になるというのだ。

 呼吸を続けていればサヤちゃんは振り向いてくれるのか? 僕に向けられたサヤちゃんの疑心が晴れるとでもいうのか?

 また無性に暴れたくなる。

 バレンタインデーの前日。サヤちゃんにフラれたショックで暴れまわったときの傷跡が、ようやく癒えつつあった部屋が再び大混雑する。

 ああ、せっかく片付けたシャーペンやら教科書やら漫画やら財布やら着替えやらアルバムやら懐中電灯やら手鏡やら定規やらキーホルダーやら携帯やらCDやらカセットデッキやら吹っ飛んだ。

 お母さんが駆けつける様子はない。僕の内面で何かが起きていることにお母さんは気付いているのだろう。だから触れないでいてくれる。さすがは僕たちのお母さん。状況把握力と優しさを豊満に兼ね備えている。

 そして部屋が一通りキレイになると、僕はまたしてもベッドに飛び込む。

 死にたくなった。

 いや正確に言うのであれば逃げ出したくなった。人間関係から、社会の束縛から、物理法則から、つまりこの世の全てから解き放たれたくなったと言った方が誤謬ごびゅうは少ない。

 このままベッドの上から存在が消えてしまえば楽だろうにと考える。今なら消滅することに恐怖はない。むしろ快感すら覚えるであろう。

 しかしいくら望んでも物理的かつ世界の常識的にそんなことは起き得ることもないので、僕のストレスの矛先はベッドに向けられる。

 布団ならばいくら殴っても壊れないし、飛び散ることもない。あと片付けのことを考えると実に合理的なストレスの発散方法である。

 叩きつけられる拳の勢いはだんだんと弱くなっていった。感情の高ぶりが砂時計のようにゆっくりと引いていく。そこで僕は何とかまともに脳みそが働くようになった。

 ……こんなことこそ無駄な行為だ。

 そう自分を納得させる。

 ……シゲ兄ならこんなことはしない。サヤちゃんに好かれるためにはこんなことをしていてはダメなのだ。

 顔を上げると目に違和感を感じた。右腕を押し当ててみると、服の袖に不恰好な円が現れた。泣いてる場合ではない。

 不意に下の階から僕の名前を呼ぶ声が聞こえる。どうやら散発の準備ができたようだ。

 生まれ変わる生まれ変わる生まれ変わる。

 僕は生まれ変わるのだ。

 そうすれば今みたいに感情の暴走も抑えることが出来る。情けない僕の魂はどこか遠くに飛んで行き、ここ《、、》に新しい僕の魂が入る。

 部屋を出て、母の待つ風呂場へと移動する

 確かな歩調で。

 可能性を見据えて。

 お風呂場に到着すると、僕は服の上から古びたバスタオルを巻かれる。頭だけがすっぽりとタオルの外に出てる様はちょうどてるてるぼうずのよう。僕は椅子に腰掛けた。鏡越しに僕の後ろに立っているお母さんと目が合った。

「ホントにシゲルみたいな髪にしちゃっていいの? 切っちゃったら今くらいに戻るまでには一年以上かかるわよ」

 この髪型に戻るつもりはない。僕は深く頷く。

「そう、じゃあバッサリいくわね」

 まずはハサミが黒髪の中に吸い込まれる。ズバシャン。真後ろで切れ味のいい音が聞こえたと思ったら、クリーム色の床の上に漆黒の塊がぼさりと落ちた。

 ズバシャンという音はさらに続いた。頭の後ろでハサミがダンスでも踊っているのではないかと思うくらい軽快なリズムでズバシャンという音と共に髪の毛は落ちていく。

 羊の毛刈りシーンを洋画で見たことがあったのだけれど、それに負けないくらいの量の毛が今僕の左右、及び後方(は見えないけれど、恐らく)に広がっている。

 ハサミは僕の側頭部へと移動する。

 耳の真上でじゅわりおんという音を聞くのは何度目であっても背筋が凍るものがある。耳はちゃんと繋がっているか、いつも心配になる。

 もみ上げがばっさりと落下した僕の右側からは何日ぶりだろうか僕の右耳が露出した。

 やあ、久しぶりだねなんて言って感慨に耽っている間もなく、今度は左側のもみ上げがあっさりと切り離された。両耳が外気に晒される。空気の流れがむず痒い。まあ、そんなことはじきになれるだろうけど。

 それから、ぼっちゃん刈りみたいになってしまっている頭の上部のカットに入る。新雪の除雪でもするみたいになんの抵抗もなくさらりと髪は頭から離れていく。

 それから一通り短く切りそろえるといよいよ前髪だ。さすがにお母さんも一度ハサミの進行を止めた。

 前髪はその人の印象を大きく作用する。それは襟足やもみ上げの占める影響力よりもはるかに大きい。

「いいよ、切って」

 促すと、ハサミは僕の視界の上のほうで銀色に光りながら僕の髪の毛を捌いていった。目の前に黒色の背伸びした尺取虫みたいなものが大量に降ってくる。真っ直ぐで長い、僕が小学校に入った頃くらいからいつも一緒にいた友。それが今、一本、また一本と僕の視界からフェードアウトしていった。

 目の前に随分とさっぱりした僕の姿が現れる。小学校に入る以前、いやもしかしたら幼稚園に通うい出すより以前から僕はもう髪をずっと伸ばしたままで生きてきた。アキ兄と同じように伸びたら整える、と言う作業をくり返して今に至っている。

 新鮮。

 生まれ変われそうだ。

 それから母はバリカンを取り出して、僕の後頭部に押し当てた。

「まさかあんたに使うことになるとはね」

 そう背後で嘆息を吐くお母さん。それでも作業はちゃんとこなしてくれる。

 どんどん頭の形が丸くなっていく。

 どんどん髪の毛のボリュームが落ちていく。

 バリカンを使い始めてからは早かった。一通り一定の長さで刈りそろえた後、短めのアタッチメントに付け替えて襟足やもみ上げを整えていく。それらの作業もものの数分で終わった。

「はい、完成。後で何か言ってきても私は知りませんからね」

 お母さんはそう言って床に積もった髪の毛を手で集めてそれをビニール袋に押し込んでいく。僕はタオルをはずしてタオルに付いた毛を払い落とす。折れたシャー芯みたいなものがぽろぽろと舞うように落ちていく。

 一通り手で取れる髪の毛を取り終えると、今度はシャワーで床を流す。きれいに残骸は流れていった。

「ほら、それ洗濯しちゃうから。それに頭にもまだ切った髪の毛がたくさん残ってるから、シャワーを浴びちゃいなさい」

 僕は頷くと、お母さんには出て行ってもらって服を脱ぐ。服に付いた毛も払ってから脱衣所に置く。

 お風呂場とはいえ、二月のこの時期に裸になるのは寒い。僕はすぐさま暖かいシャワーを浴びる。

 椅子に腰掛け短くなった頭をごしごし。髪の毛が手に巻きついて来ないことには些か違和感を感じたが、それでも自分がシゲ兄に近づいたと思うと、妙に嬉しかった。

 手の平にシャンプーを溜める。普段と同じ分量で髪を洗ってもほとんど泡立たない。ああ、これが坊主ってもんか。しかし、水の切れだけは最高だった。手で拭うだけでほとんどの水分は消失する。

 もう一度、鏡に映った自分を見た。もちろん曇りは取り除いてから。

 シゲ兄がそこに映っていることを期待した。

 しかし、そんなことはありえなかった。

 そこには髪が短くなった僕がいるだけだった。

 一気にテンションが落ちていく。

 顔が全然違う。僕の顔には覇気がない。それから体格も異なる。シゲ兄はもっと筋肉質で引き締まってた。僕の体は筋肉はおろか、贅肉すらついていない骨と皮。それに肩幅も広くはない。

 シゲ兄を劣化させて、それをさらに劣化させたみたいな人間が今の僕だ。

 浴槽にはまだ入れないので、僕は冷えないうちに浴場を出た。そこにはすでに先ほど脱いだ服はなく、代わりにタオルと着替えが置かれていた。さすがはお母さん、仕事が早い。

 やはり髪の毛はタオルで拭くだけ完全に乾いた。それから体中の水滴を取って服を着る。

 顔は仕方ないとして……体はもう少し筋肉をつけた方がいい。つけなければならない。

 小学生のうちはあまり筋肉が付きにくいと話を聞いたことがあるけれど、それでもやらないよりはやった方がマシだろう。ダンベルでも買ってもらおうか。

 喉が渇いたので僕はキッチンに向かう。お茶でも飲みながらその辺のことを考えよう。

 キッチンに着くと、アキ兄がテレビを見ながらお茶を飲んでいた。テーブルの上には草団子が入ったパックを置かれていた。

 次の瞬間、アキ兄が激しくむせ出す。

「えあっほ、おほお、へっへ」僕は思わずそちらの方に目をやった。「な、何だ。おまえか。シゲルかと思った。つか、おまえ、その頭」

 一瞥だけして、僕はコップを手にアキ兄の隣に座った。

「おい、シカトしてねえで、どうしたんだよ。何かあったのか、あん?」

 アキ兄はどうやらこれが誰かからの攻撃でなったものだと勘違いしてるらしい。それはさすがにまずいので訂正する。

「自主的にだよ」

「嘘付け」

「ほんとだよ。さっき、お風呂場にいたの、気付かなかった?」

「…………」僕を見据えてから、麦茶を一口飲む。「……何考えてんだよ」

「何も考えてないし、何も考えられないよ。今のこの状況じゃ」

 僕だってどうして急にシゲ兄のような髪型にしたいと思ったのかはわからないのだ。

「だからって」

「いいじゃんか、別に。ちょうど鬱陶しいと思ってたところだったんだ。ちょうどよかったんだよ」

 僕も麦茶を口に含む。

 そういえば学校から帰ってきてから何も飲んでいなかった。喉の奥まですーっと染み渡っていく。

「シゲルみたいになりたかったのか?」

 僕は横目でアキ兄を見た。

「シゲルみたいになりたかったのか?」

 くり返した。

 しかし、僕はそれには答えない。違う。答えられない。さっきから言ってるように僕はどうしたいのか自分自身でもわからなかった。

 それから僕はテーブルの端に置かれた緑色の集団を自分の元へ引き寄せた。草団子は僕の好物。輪ゴムを外し、一本手に取る。

「……おまえはホントにシゲルにそっくりだな」

「あ?」

 団子を咥えながら、突如不可解なことを言い出した我が兄を見やる。

「草団子はシゲルも好物だったろ」

 そういえばシゲ兄もよく食べてたっけ。意識はしてなかったけれど。

「それに、今のおまえ、見た目もシゲルそっくりだよ」

 どの口で物を言っているんだ、こいつは。

「アキ兄、眼ぇ悪かったけ?」

「悪くねえよ。俺は事実を言ってるだけだ。おまえを見てると、本当にシゲルを思い出す」

 心臓が急に速くなる。焦りや恐怖の類ではない。これは動揺。

「僕がシゲ兄に似てるだって? どこが? 似ても似つかないと当人は思ってるんですけど」

「おまえこそ眼は大丈夫か。そこまで自分から似せようとしていて全然似てないだと? 何を馬鹿げたことを言ってるんだよ」

 僕は乱暴に団子を串から食いちぎる。

「別に似せようともしてないし、仮に僕がシゲ兄に似せようとしてこの髪型にしたんだとしても、シゲ兄からはかけ離れてしまってるだろ?」

「これ以上ないくらいに近づいてると思うけど」

「話にならないね」

 最後の一粒を口に運び込むと、串を乱暴にゴミ箱に捨ててキッチンを出て行く。

 アキ兄は何も言い返しては来なかった。だから僕は自室に直行する。

 荒れたままなのは変わらなかった。いろいろなものが散乱している。

 僕はそれらの物を避けながらベッドに倒れこんだ。

 果たして、僕はシゲ兄に似ているのだろうか、かけ離れているのだろうか。僕はもう一度顔を確認しようと手鏡を探す。が、どこかへ放ってしまって、どこにあるのかわからない。

「クソォ!」

 思いっきりベッドを殴った。怒りの合理的発散。

 シゲ兄に似てるかどうかなんてものはもう、この際関係ない。要はサヤちゃんを黙らせることができればいいのだ。

 僕とサヤちゃんが付き合うことになれば、サヤちゃんは僕が捕まるように仕向けたりはしない。

 大丈夫だ。うん。落とせる。落としてみせる。落とさなければならない。落とせないわけがない。

 僕は再び拳をベッドにぶつける。

 クソッ。クソッ。クソッ。

 何でこんなにいらいらするんだ。

 どすっ。どすっ。どすっ。どすっ。どすっ。どすっ。どすっ。どすっ。どすっ。どすっ。

 どすっ。


         3


 坂林と分かれた後、メールが合計六十八件、電話が約二本あった。

 メールの多くはあたしと一緒に犯人を捕まえたいと名乗り出た子との交信によるものだった。十一人の顔も知らない女の子から協力したいとのメールをくれた。別に仲間を探しているなんて内容は一言も書いていないと言うのに、これだけ集まるなんて。やはり亡くなっていった子達はみな、好かれていたのだ。

 あたしは全員にメールを返信した。ぜひ協力して欲しいと。善は急げだ。明日、来れる子だけでいいから来るようにとあたしはメールを送った。

 それからいくつかのメールはメールマガジンと仕事のメールだった。明日、一緒に食事でもどうかと映画でもいかないかとか、そういう内容。あたしはそれらを(あくまでも客なので)丁寧に断った。それどころではない。今は休業中なのだ。

 それと電話の一本は村山だった。一緒にレストランへ行かないか、と。これも断った。用事があるので本当に申し訳ないのですが、また次の機会に誘ってもらえますか? 村山はあっさりと諦めてくれた。普段は鬱陶しい紳士的態度もこういうときには役に立つ。

 そして、もう一本の電話。それは警察からだった。

「もしもし警視庁捜査一課の三浦という者ですが、星川春乃さんでよろしいでしょうか?」

 警察。

 一瞬、仕事のことが頭に浮かんだ。

「警察が、あたしに何か?」

 内心戸惑いながらも、表面上は強い態度で尋ねた。

「水野咲さんという方はご存知ですよね?」

 水野咲……美樹ちゃん。脳内で変換する。

「ええ、美樹――咲ちゃんはあたしの友達なので」

 友人関係を洗ってるってわけか。ドラマとかではよく目にするけど、こんなに早く電話が来るとは思っていなかった。サヤちゃんが殺されたのは昨日。まだ一日も経っていない。

「もう、テレビか何かでご存知のこととは思いますが、昨日さくじつの夕ごろ東京渋山区のホテルサンセットというホテルで亡くなっているところを発見されました」

「……ええ、知ってます」

 淡々と語るその口調にあたしは少々の苛立ちを覚える。まるでどうでもよいことのような喋り方。仕事だから仕方がなくやっています感がにじみ出ている。

「それならばこれもご存知のことだと思いますが、水野さんは何者かによって命を奪われたものであると警察は断定しています。そこで、水野さんが何かトラブルのようなものに巻き込まれていたという可能性について伺いたいのですが、水野さん本人から何かトラブルに巻き込まれているといった相談等はなかったでしょうか?」

「ありませんね」

 そっけなく言う。電話の主はあたしから何の情報も得られないであろう事を確信していた。態度にそれが表れている。ならば、あたしも期待に答えるだけ。

「そうですか……」わざとらしく間を空ける。それから少し黙考してみましたというの暗に匂わせた口調で、「それでは何でもいいので、何か水野さんのことで気付いたことをありましたか?」

「そうですねぇ。昨日、あたし咲ちゃんと会ってるんですけど特に可笑しなところなんてなかったなぁ」

 んん? という小さな唸り声が受話器越しに聞こえた。

「昨日、水野さんと会ったんですか?」

「ええ、会いましたよ。偶然ね」

「それは何時ごろ?」

「さあ。でも確か二時過ぎ――二時半くらいのことだと思いますよ。二時五分に駅に着いて、それからちょっとしてから会ったんで」

「そのとき、何か言ってませんでしたか? 誰かに会う約束をしているとか」

 あたしが美樹ちゃんと会ったと言ったときから、随分と食いついてくる。

「言ってましたよ。彼氏に会うって」

「あなたはその『彼氏』が誰だか知っていますか!」

 電話線を通じて唾が飛んできそうな勢いだ。

「いいえ、あたしも知りません。というか、そのとき初めて咲ちゃんにそういう人がいるって聞きました」

 そういえば、そうか。あのときあたしは初めて美樹ちゃんから好きな人がいるという話を聞いたのだ。逆に言えば、あたしはそれまで美樹ちゃんからそのことを聞かされていなかった。

 自惚れでなければ美樹ちゃんもあたしのことを親友だと思っていてくれたはずだ。互いに仕事の愚痴を言い合ったり、一緒に買い物に行ったり、ときには恋愛話に花を咲かせることもあったような仲だ。

 にも関わらず、つい昨日まで黙っていたって。

「その人がどんな人かは、聞きましたか?」

 どうしてだ。どうしてだ。どうして美樹ちゃんはあたしに黙ってた? 言う必要がないと思ったからか。いや、そんなはずない。美樹ちゃんにとってみても、あたしにとってみても彼氏が出来たという話題は重要なはず。

「さあ、詳しくは聞いてません」

 美樹ちゃんは彼氏ではないと言っていたけれど、少なくともプライベートで会うくらいの仲にはなっていたわけだ。ならば彼氏ではないにしろ、話題にもちょっとくらい上ってきてもいいようなものではないだろうか。

「そうですか。どんなちょっとしたことでもいいんですが、聞いてませんか? 犯人を捕まえる手がかりになるんです」

 言い出すタイミングがなかったのか?

 ……いや、そんなわけない。タイミングなんて気にするような間柄ではない。思い立ったらいつであろうとメールする。それがあたしたちだ。

 なら故意に言わなかったとしか考えられない。

 なぜ。

 そんなの決まっている。口止めされていたから。

「ちょっとしたこと? そうですねぇ。唯一言ってたのはとっても格好いい人ってくらいですかね」

 犯人はやっぱり最初から美樹ちゃんを殺すつもりで近づいたのだ。だから、自分のことが周りに広がらないように口止めをした。

「なるほど。その彼氏さんの身長等については伺いませんでしたか? 一般的に格好いい男性と言うのは背の高いスラっとした感じの方が多いように思われますが」

 クソ、クソッ。美樹ちゃんは騙されていたんだ。最初から。ふさけやがって。犯人の野郎は女を何だと思ってるんだ。見た目がいいらしいがそんなことはどうだっていい。見つけ出してその顔面を変形するまで殴ってやる。

「あの、星川さん?」

 ああ、もううるさい。

「知りませんよ。身長のことなんか聞いてません。すぐ別れちゃったんでね。あの、もう切ってもいいですか? ちょっと用事があるので」

「これから外出ですか?」

「んなこと、あなたには関係ないでしょう?」

 本当は用事なんかないが、とにかく鬱陶しかった。最初はあれだけやる気がなかったくせに、今更しつこいんだよ。

「不審な男には気をつけてください。まだ水野さんを殺害した犯人は捕まっていないので。お友達にも気をつけるよう、よろしく言って置いてください」

 その口調であたしは直感する。

 この男、あたしの仕事のことを知ってるな。

 不審な男には気をつけろだって? 最高の嫌味じゃないか。エンコーやってるあたしたちの周りにはそんな男、下手したらうじゃうじゃいる。お友達に言っとけとか、マジでふざけてるな。

「それから何かわかったことが渋山警察署までお電話もらえますか? 電話番号は――」

 男のすらすらと数列を述べる。

「はい、わかりましたぁ。それでは、何かあったら電話しますね」

 電話するってどこにだよ。あたしは男の言った番号をどこにも書きとめていない。

 そしてあたしは通話を終える。そんでもって立ち上がる。

 気分は最低なまでに曇っている。降水確率百パーセント。ご飯も食べてお風呂も入ってもう寝る準備は万端なのだけれど、このまま眠ってしまったら恐らくろくな夢を見れない。

 あたしは心の中の雲を吹き飛ばすために夜風にあたることにした。時計はすでに十一時を指している。あと一時間で今日はエンド。まだ初秋とはいえ時間が時間なので外は寒い。あたしは上着を羽織ってから部屋を飛び出す。

 どこに行くのと母が問うたが散歩ぉと返して家を出る。別に止められたりはしなかった。

 パジャマで外を出歩くのはどうかとも思ったが、まあどうせ人はいない。あたしの家のすぐ前には川が流れているので、そこを見に行くことにする。

 空はまだ十分に高かった。十五夜まではまだ一週間以上あるが、それでも月は銀色に輝いていた。水面みなもに映る月の影が白く揺れていた。

 風が気持ちいい。水の流れる音が心地よい。幸い、近くの車道の交通量も今夜はそれほど多くない。

 両手を空に伸ばし、思いっきり伸びをする。

 ――!

 不意に肩を叩かれた。

 振り返る。

 すぐさま臨戦態勢を整える。

 そこに立っていたのはたっくんこと岩波拓人だった。

「や、春乃。何してんの?」

 まだ少し心臓がばくばく言ってる。

「それはこっちのセリフだっての。あんたこそ何してんの?」

「やだなぁ、決まってるじゃないか。春乃ん家の玄関の開く音がしたから飛び出してきたのさ」

「おまえはストーカーか」

「いやいや。幼馴染ってヤツだよ。またの名をお向かいさんとも言うかな」

 あたしは微苦笑を浮かべながら家に向かって歩き出す。

「で、春乃は何してたの?」

「風にあたってただけよ。別に何か用があって出てきたわけじゃない。というわけで、じゃ」

 気分も一応は晴れたことだし、事実上、用はもう済んだのだ。それにこれ以上こいつといると、話が長くなって今度は体を冷やしてしまいそうだ。

「ちょ、ちょ、ちょ、待ってよ。冷たいなぁ」

「何よ。何か用あんの? あたしに」

「用がなければ会いに来ちゃいけないかな?」

 何の物まねだか知らんが、胸を張って気取ったように言った。

「いけないね。用がないなら、あたしは帰るよ。おやすみ」

「待ってよ。よし、わかった世間話をしよう。これでどうだ! 立派な用件だろう?」

「どこが用件なのよ」

 呆れ顔を浮かべてそう言い返す。

「まあまあ、たまにはいいじゃない。世間話も。ね?」

「あんたと世間話、しょっちゅうしてる気がするんだけど」

「それはトゥリーフェアリーだね」

「トゥリーフェアリー?」

「木の精。気のせい。なんちって」

 風が吹いた。パジャマの布地をすり抜けて直接肌に突き刺さる。

「寒い。やっぱ帰るわ」

「ごめん、悪かった」拓人は両手であたしの両肩を掴んだ。「だから少し暇つぶしを」

「あんたは暇かもしれないけど、あたしは暇じゃないの」

「へえ、春乃が忙しいことなんてあるの? しかもこんな時間に。ドラマ? ゲーム?」

 こいつは本当にあたしを引き止めておきたいと思ってるのか。それにしちゃあ言ってくれる。

「考え事があるの」

「なら僕に相談しなよ。ほら、人生の先輩である僕に」

「あんたに相談したら余計話がこんがらがるっての」

「ま、とにかく話してみてよ。話はそれからだ」

 この調子のよさはきっと生まれ付いてのものに違いない。記憶に残っている拓人の姿はどれもどれも締りのない顔をして笑っていた。

 はあ、小さくため息を吐いた。

「あたしの友達が殺されたの」

 途端、拓人の顔から笑みがスーッと消える。

「ひょっとして、昨日渋山で殺されたっていう女の子?」

 真剣な声。いつもの阿呆みたいに弾んだ声とは似ても似つかないものだった。

 そういえばあたしが小学校のとき、立ちこぎに失敗してブランコから落ち、足を捻挫してしまうという事件が起きた。そのときも確かその場にいた拓人は真剣な顔で肩を貸してくれた。

「うん。あたしの親友で仕事仲間だった子なんだ」

 拓人は静かに頷いた。

「それで、そのことばかりが浮かんできてしまうってわけか」

 痛みを少しでも共有しようとしているのだろうか、拓人も悲痛そうな顔をしていた。

「それもあるけど、考え事ってのはそれだけじゃない。確かに美樹ちゃんのことはずっと頭から離れないで、いつも頭の片隅にいるんだけど、そうじゃなくて、あたしは美樹ちゃんの仇を取るために犯人を捜してるの」

「なるほどね」それから少し遠い目をして笑った。「そういえば、昔春乃が足を捻挫したときも、病院に行った次の日に原因になったブランコを壊しに行ったもんな。懐かしい」

 そういや、そんなことがあったようななかったような。

「犯人を見つけ出してぶん殴る。そのためにはどうすればいいか考えてた」

「春乃らしいね。小学校の頃からムカつくやつは片っ端からなぎ倒していってたもんね。比喩じゃなくて直接的な意味で」

「あんたもなぎ倒されたい? 小学校のときのことを堀り返さないでくれる?」

「あはぁ、それはご勘弁を。さすがの僕も春乃には勝てないよ」両手を顔の前で振りながら一歩下がる。「けど、春乃がその犯人を捕まえたいって言うんなら、僕も少しは協力するよ」

「……は?」少し笑いがこぼれる。「ほんとに?」

 坂林といい、拓人といい、どうしてあたしの周りの男はこうもあたしに甘々なのだ。

「といっても、大学でちょっと呼びかけてみる程度だけど。これでも何人か友達はいるからね。事件にもっと関心を持つように呼びかけてみる。そうすれば、少しは何か情報が得られるかもしれないでしょ?」

 そうしてもらえると助かる。

「うん。じゃあ、それ、よろしく」

 拓人は了解と敬礼のポーズを取った。

「でさ、春乃はどこまで犯人についての情報を掴んでるんだい? ニュースでは十代から二十代前半の男性で、髪の色は金、身長は一六〇センチ前後って話だったけど」

「そう。それに髪型はショートで、事件当日の服装はジャンパーにジーパンだったって。体格は細身で筋肉質」

「へえ。怖いね。そんな格好の人を見かけても、僕は直視できないよ。からまれそうで。金のネックレスとかしてたら絶対に係わり合いになりたくない」あたしはそんな頼りない発言をする拓人に冷ややかな視線を向ける。「あ、いや、春乃のためだったら戦うよ。何せ幼馴染だからね。うん。身長一六〇で細身でしょ? そんなやつ、一掴みでぶん投げてやる」

「そんなことはどうだっていいのよ。別にたっくんに戦ってもらう必要なんかないんだから」

「ああ、そうか。その通りだ。それはよかったよかった」

 こんなときにもボケてくるなんて。あたしはため息を一つ吐いてからから、場の雰囲気をもう一度真剣なものに変えるためにできるだけ重みのある声で切り出した。

「それよりも、わからないことがあるの」犯人が何者なのか。それも当然わからないことではあるけれど、現時点での情報だけではその特定は不可能だと思う。それよりも、もっとわからない現象。密室内での出現と消失。「殺された五人の事件で共通して起きていること。それは密室であるはずなのに、部屋の中で死体が発見されたり、犯人が姿を消したりしてるの。これがどうしても引っかかるの。犯人を捕まえる情報にはなり得ないから、スルーしておいてもいいのかもしれないんだけど、でもやっぱり気になって」

「ちょ、ちょっと待って。密室?」密室という単語に拓人も普遍的な反応を示した。「なぜ、密室? わざわざそんなことをする必要がなんであんの。それも全ての事件で?」

「だから、その理由もわかんないの。だからたっくんに意見を聞こうと思って」

「そんな。僕は名探偵コナンじゃないんだよ。確かにちょっと似てなくもないかもしれないけど、それは容姿の話で――。……ま、とにかくもっと詳しく話してよ。まずその密室ってのがどういう状況なのか」

 促されて、あたしは密室についての説明を始めた。玄関以外のところからの進入は見られないと言うこと。しかしフロントの証言やそこに取り付けられた防犯カメラの映像から美樹ちゃんは出て行ったことが確認されているにも関わらず、ホテルの客室で死体が発見されたこと。また、犯人もフロントの目やカメラに映ることなくホテルから消えたこと。

 拓人はうーんと唸りながら頭を右に左に傾けた。その様子は一見、リズムを取っているようにも見える。

「僕は探偵じゃないけど、ミステリー小説はちょこちょこっと読むからね。その中で、たまに密室が出てきたりはするんだけど、この現実社会じゃ、そんなに大々的にあるいはみつなトリックは使えないと思うんだよ。例えばホテルに仕掛けがあってそれを使って抜け出したとか、タイムテーブルをしっかりと組み立てて、防犯カメラに映らない一瞬を狙ったとかそういうことはこの世の中じゃ難しい――というか不可能なんだよ。故に、僕が思いついたトリックはどれも小規模でしかもつまらないものなんだけど、大人しく聞いてくれるかい?」

「能書きはいいから。それで、そのトリックってのは?」

「僕もホテルの構造を詳しくは知らない。だからいくつか的外れなことを言うかもしれないけど、それはご勘弁を。それで、まず第一に考えたのは梯子を用意したんじゃってこと」

「梯子?」

 そりゃまた、随分とちんけな……。

「宿泊予定でホテルに入るなら、当然手荷物はあったはずだろ? その中に梯子が入っていればベランダ、あるいは窓から下に下りることが出来る。これで犯人はカメラに映らず抜け出すことができる。また、その美樹ちゃんもその梯子を使って上れば玄関を使わずに入ることができる」

 確かにそれならばカメラに映らなかったという項目はクリアできる。しかし。

「でも、たぶんどの部屋の窓も表通りに面していたと思うよ。ホテルがあったのは渋山で、当然人通りはあったはず。それに美樹ちゃんたちは三階の部屋に泊まってたのよ。そんなところから梯子を垂らしたら目立ちまくりだと思うんだけど」

「ですよねー」

 拓人はあたしの指摘を気にする風もなく、うんうんとしきりに何回も頷いてから次の可能性を切り出す。

「それならこれは? 一階の客室の一つを予約しておいたというのは。これならば梯子よりも現実的だよ。一階の窓から出入りすればいいんだからね」

 あのホテルの構造を思い出す。というか。

「そもそもそのホテル、一階に客室がないんだよ」

「え、あ、そうか。そういうホテルか。一階にはフロントとロビーとカフェがあるっていうそういうパターンのホテルか」いや、カフェがあるかどうかは知らんけど。「でも、まあどっちにしろこの可能性はゼロだろうね。偽名で予約したとしても、そんなのはすぐに警察にバレる。そしたら端から密室なんてものは成り立たないわけだから」

「なら言わないでよ、わかってるなら」

「いや、一応ね。可能性の話として。まあぶっちゃけ僕の華麗な推理の数々をお見せしたかっただけなんだけど」

「何が華麗な推理よ。どれも間違ってるじゃない」少しでも期待したあたしが馬鹿だった。拓人は普通の一般人なのだ。坂林や逸見シゲルのような何か秀でたものを持ってるような人種ではないのだ。「結局、何もわかってないのね」

 そう肩を落とした。

「ちょ、ちょ、ちょ。待って待って」苦笑いを浮かべながら慌てた様子で両手を激しく振った。「まだ肝心な、一番の有力なネタを言ってないよ。メインディッシュはこれからだよ」

「何よ。またどっかに問題ありなんじゃないの?」

「んー、確かに問題は大ありのような気がするけど。でも、これならホテルの客室にどうやって被害者は戻ったのか。それともう一つ、どうやって犯人は外に逃げたのかって言うのが説明が付くと思うんだ」

「……うん、じゃあ、話して」

「要約して言うと、犯人は女装して逃げたんだ」

「は? はあ?」

 思いっきり問い返してしまった。笑いすらも含んだ声で。

 前の二つはまだ実際に行われそうなトリックのように思えた。しかし、犯人が女装して出て行くなんて、未だかつて聞いたこともない。

「いや、信じられないのはよくわかるよ。僕も最初は冗談のつもりで考えてみてんだもの。けど、これが実行できればキレイに事が収まるんだ。犯人が被害者の格好をして出て行けばそれで犯人はホテルから出ることができるし、被害者の死体は部屋の中に残ったままだ」

 そんなことが起こりえるのか?

「ハルは、犯人の身長は一六〇前後センチで細身って言っていたよね? そんなヤツがスカートを履いてズラを被って出てくれば、パッと見、女の子に見えないこともないだろう。カメラにだって顔が鮮明に映っているわけじゃないんだろう?」

 確認したわけではないけれど、恐らくそうだろう。テレビでたまに見る防犯カメラの映像だってあまり鮮明ではない。あの程度のものだと思う。

「そ、そんな。マジ?」

「マジかどうかは僕にはわからない。ただ、現場に被害者の衣服がないっていうんだったら、その可能性は高いよ。……まあ、問題もここで、現場に被害者の衣服が残ってたらこのトリックは成り立たないんだけど。まあ、そのときは別の洋服で出て行けばいいわけだけどね。部屋で着替えて出てきたという風にも捉えれるわけだから……」

「でも、それだと矛盾しない? 外に出て行くときには違う服だったのに、部屋で発見したときには服が戻ってるって」

 あの日の美樹ちゃんはせっかく可愛い服を着ていたのだ。わざわざ着替えるなんて不自然極まりない。第一、彼氏からもらった服をデートの途中で着替えるなんて――。

「……ああ――。それは……」

「ああああああああああああ!」

「うわ、何?」

 全てが繋がった。そうだ。あの日、美樹ちゃんは言っていたじゃないか。

「美樹ちゃんが殺された日に着ていた服、犯人から送られたものだったんだよ。しかも、そのデートの日に着てくるように言われたって」

 拓人はその言葉に目をらんらんと輝かせた。

「どんぴしゃじゃないか。それじゃ、犯人は事件の日に被害者が来ていた服と同じ洋服をもう一セット用意することができる! あとはかつらを被って出れば密室のトリックは完成だよ」

 美樹ちゃんへのプレゼントまで利用するなんて。

 鳥肌が立っている。嫌なくらいに全身が冷えている。けれど、同時に体の芯の部分で何か熱せられた溶岩のようなものが蠢いた。

 被害者の女の子たちがみんな一六〇センチなのは入れ替わりトリックをバレにくくするため……。被害者の顔が似てるのもひょっとしたら犯人の輪郭や顔のパーツの関係かもしれない。

 もしそうであれば、あたしの顔もどこかしら犯人に繋がる要素を持っているということになる。

 激しい嫌悪感。

 例えるなら顔中に青虫がくっ付いているみたいな感覚。できることならば顔面を取り外して放り投げたくなる。

 しかし、そんなことはできるわけもないし、犯人のために自分のこのプリティフェイスを失うのはあまりに馬鹿げていると、あたしは自らを納得させ、静めこんだ。

「たっくん、参考になった。ありがとう」

「え、いや、うん」

 礼を述べるとあたしは家に向かって走り出す。このことを坂林にも伝えなくては。

「あ、春乃。もうお別れ?」

「今日はね。また、大学で何か情報を掴んだらうちに来て。基本的には夜は家にいるから」

「情報を掴まないと家に行っちゃダメ?」

「ダメ」

「つれないなぁ」

 拓人は呟くように叫んだ。

「あたしに会いたきゃとっとと情報を持ってこいってこと。オッケー?」

「オッケー。わかった」アホみたいに敬礼をする拓人「あ、でも、春乃はそんな情報いったいどこで仕入れたのさ」

「何でそんなこと聞くの?」

「いや、ほら。参考までに」

 参考ねぇ。ならないと思うけどな。一瞬、坂林のことを喋っていいか迷ったが、まあ拓人は部外者だ。問題ないだろう。

「知り合いの探偵が調べてくれてるの。坂林って言うんだけど」

「探偵! ミステリー小説の中で出てくるあの!」

 ……しまった。食いついてきたか。

「そう。その探偵。それじゃあ、情報収集よろしく」

 慌てて話題を打ち切る。

「あ、うん。それじゃあ、その探偵さんによろしく言っといて。じゃ、春乃」

「じゃあ、頼んだから」

 そして拓人との会話は終わった。

 あたしは家に入ると、母の呼ぶ声も無視して自室へ駆け込んだ。

 携帯電話を手に取る。電話帳より坂林の番号を選択。電話をかける。

『もしもし。坂林ですが』

 電話に出たのは、いつもの坂林だった。

「もしもし、あたし」

『急にどうしたんだい? 何かあったの?』

 その声には心配の念が少し入り混じっていた。

「別に何かあったってわけじゃないけど、それよりも密室の謎が解けたの」

『密室? ……ああ、密室ね』

 いかにも興味なさげと言った口調だった。それも露骨に態度に出ている。

「何? あんた、事件への関心はもうなくなったの?」

 威圧的に問うた。

『え、どうして』

 が、空回り。

「密室が解けたって言ってんのに興味なさげだったから」

『あっ、ごめん。いや、別に興味がなかったわけじゃないんだよ。まさかハルちゃんが密室のトリックを解こうとしてたなんて思ってもみなかったからさ、ちょっと呆けただけだよ。連続殺人については、今もちゃんと調べてるよ。特にシゲルくんの過去についてね』

「は? 何で名探偵の過去なんか調べてんのさ」

『この連続殺人の被害者は現在認識されている五人よりもさらに以前にいたってシゲルくんは言っていたでしょ? それもシゲルくんの妹や親友だ。彼の過去を探っていけば必ずヒントがあるはずなんだ』

 そういえば、あの建物の一室でそんなことをシゲルは言っていた気がする。一度カッとしたせいで、あまり詳しくは記憶に残っていなかったが。

「それで、名探偵の過去について、何かわかったことあった?」

『それが全然……』

「へっ?」あたしは眉を顰めた。「あんた、自分で自分の情報検索力は凄いとか云々言ってなかった?」

『それは……言ったけど』語尾が消えかけていた。痛いところを突いたようだ。『違うんだ。僕の検索能力云々の問題じゃないんだ』

「じゃあ、どういう問題なのよ」

『情報がいくら調べても引っかからないんだ。今まで、シゲルくんのことを詳しくは調べたことがなかったから今さっきまで恍惚こうこつとしてキーを打っていたんだけど、どこを調べても見つからない。いや、見つかるには見つかるんだよ。でも、どれも『逸見シゲル』名義で借りられてる』

「それなら簡単な話じゃない。逸見シゲルってのが本名なのよ」

『だけど、逸見シゲルという人物は実在しないんだよ。正確に言うのであれば、同姓同名の人は何人か見つかったけれど、肝心な探偵逸見シゲルが見つからない。いくら何でも完全に戸籍を消すことなんてできないから、どこかに突破口はあると思ったんだけど……』そこで間を空ける。何かを言いよどんでいるようにも感じた。『……全く見つからない。彼は僕の上を行っているんだ。少なくとも僕と同程度のパソコンに関する知識を持っているということは間違いない。しかも彼の得意分野は情報処理。パソコンの技術が同着だとしても、情報処理の分野では僕は歯が立たない。僕は僕よりも三歳も若い彼の足元にも及ばないんだ』

 それはさすがに卑下しすぎだろうと思ったが、そのことは口にはしない。

「じゃあ、名探偵の親友やら妹さんやらが関わってる事件ってのも当然わかってないわけ?」

『申し訳ないけど、全然見つからない。今年だけで致死事件事故合わせて一四一九件にも上るんだ。それだけでも骨が折れるって言うのにこの二十年の事件事故を調べなおさなければいけないんだ。何の手がかりもない状態じゃさすがの僕でも不可能だ』

「一四一九……? 一年でそんなに人が死んでるの?」

『知らなかったのかい。それにあのシゲルくんの言いぶりからするに、に《、》な《、》っ《、》ていな《、、、》い《、》という可能性も視野に入れなければならない』

「事件になっていないって、どういうことよ」

『自殺、あるいは自然災害等による死亡。そういったものと間違えられて処理されている可能性もある。その場合、もう虱潰しに探すなんてことができなくなる』

「一年間に何千人と死んでる人がいるから?」

『そう。正確には何万人だけどね。だいたい三万人くらいの人間が自殺している』

「三万! 嘘」

 そんなの初めて聞いた。三万って言ったら、一日に百人――十分に一人の割合で自殺していることになるじゃないか。

『とは言っても、シゲルくんが探偵に来たのが十六のとき。その妹や親友と言ったら当然未成年なわけだから、未成年が被害者となった事件事故はある程度少なくなってくるし、自殺者も年間五百人程度まで減ってくる』

「はあ」

 どこで調べたのかは知らないが、ただただその事実に感心するばかりである。

『……まあ、それでもシゲルくんの言っていた事件を特定するためにはまだまだ数字が大きすぎるんだけどね。もっと情報を入力して絞り込まなくてはならない』

 確かに一年間ですら何千何百いう事件事故の検証をしなければいけないのだ。なのに、シゲルの親友や妹さんが事件あるいは事故に巻き込まれたのがいつだかわからない以上、数年に渡って調べる他ない。それではとどのつまり、一万が千まで減ったとしても意味がないのだ。

『そういえば』あたしが黙っていると、坂林が思い出したように呟いた。『密室が解けたとか言っていたよね? よかったら、僕に聞かせてくれないかな? その話を』

 ああああああ! そうか。それで電話したんだ。すっかり忘れていた。すっかり話がずれていた。

「そうだよ。あんたが余計なこと言うから違う方向に話が言っちゃったじゃん。密室のトリックについて、今からあたしが説明するからよーく聞いててよ。同じことを何度も説明するのは出来るだけ面倒だからやりたくないの。だから、しっかり聞いててよ」

 そう前置いてから、あたしは拓人の考えたトリックとあたしが美樹ちゃんと交わした最後の会話の内容を沿えて話した。犯人の女装。そのための下準備で美樹ちゃんに服をプレゼントしたこと。防犯カメラに映った美樹ちゃんこそが犯人。

 話し終えるまで坂林は黙って聞いていてくれた。こんな突拍子もない推理に何も口出しせず付いて来てくれるのは坂林の長所の一つかもしれない。

『……なるほどね。突拍子もないようなことを言ってるようにも聞こえるけど、確かに筋は通ってる。髪が短ければカツラを被りやすいだろうし、細身ということだったから美樹ちゃんと同じ服をきることも出来るはず。身長だって同じくらいだったって話だから。それに、ここでイケメンという言葉もキーになってくる。この言葉が示す男性像は二パターンある。一つは男らしい、背が高くてスラっとしたモデルタイプのイケメン。そして、もう一つは中性的な顔立ちのイケメン。キレイとか華やかとか、そういった感じの男。少年のまま成長が止まったみたいなタイプ。そして、恐らく美樹ちゃんの言っていたイケメンという単語は恐らく後者を指していたんだろう。……とまあ、一つ一つの要素にそれらしい言葉を当ててみたんだけど』

 堰を切ったように喋り出す坂林。あたしは強く頷き返す。

「そうだよ。全部が女装って言葉で繋がってるんだよ。犯人は女装して出て行った。密室のトリックはこれしかない!」

 坂林の賛同も得られて、あたしは興奮気味にそう言った。

『ちょっと待ってよ、ハルちゃん。確かに、筋は通ってるんだけど、この推理には問題点がある』

 興奮が急速に収まっていく。

「なに? どこが?」

『確かに女装してホテルを出て行けたとする。でも、その後は? そのまま帰るわけには行かないでしょ?』

「そりゃそうよ。どっかで着替えていくに決まってるじゃない」

『いったい《、、、、》どこでだい《、、、、、》?』

「どこって……、別にどこでもいいでしょ。コンビニのトイレでもデパートの試着室でも」

『確かにそういった着替えるスペースってのはたくさんある。けど、どうだろうか。トイレに入っていった女性が出てきたときには男性になっていたとしたら。ハルちゃんはおかしくは思わないかい?』

「そんなの。人目がないときに入ればいいじゃない」

『事件が起きたのは渋山だよ。美樹ちゃんが殺されたのは夕ごろだ。その時間帯は、コンビニあるいはデパートだって混んでる時間帯じゃないかな?』

「でも、人がいるとは限らないでしょ」

『そう。でも、が《、》い《、》な《、》いと《、、》も《、》らないん《、、、、》じ《、》ゃない《、、、》かな《、、》?』

「それは……」

『もし、着替える場所が見つからなかったとしたら、犯人はそのままの格好で帰らなければならないんだ。それは相当なリスクを持っていると思うよ。何せ、『殺された被害者と同じ服を着ている男』なんて、全国を探したってほとんどゼロに等しい。それだけで、十分に怪しいわけだ』

「…………」

 そうか。着替え場所か。そのことはすっかり失念していた。

『とは言っても、犯人は車で来ていたという可能性だって考えられる。それならば、女装したままでもある程度は不審ではない。なぜなら、車を運転してる人物が男か女かなんて、そうそうなことがない限り、誰も注目しないからだ。また、車がすぐ近くに止めてあれば、そこで着替えることもできる。……まあ、どんな車かにもよるけどね』

 あたしはその助け舟に、両手を叩いてそれだ、と声を上げた。

『そう。女装のトリックはこれで何とか一通りの筋は通ったんだ。さて、問題は次だ』

 思わず眉を顰めた。問題は、次? まだ何かあるのか。

「問題って。今ので全部話は繋がったっていうのに、まだ他に何かあるっていうの?」

『そうだよ。話はちゃんと筋が通った。けど、もっと根本的な問題が残ってる』

「根本的……」

『犯人がそんなことをする必要性だ』

「あ……」

『まあ、これについてもこじ付けはいくらでも可能だよ。例えば警察の捜査を攪乱かくらんするためとか、男が犯人であるという概念の裏をかいて女装して逃げようとしたとか、そういうことならいくらかあげることができる。でも、そんなこと、わざわざいろんな下準備――洋服をプレゼントしておいたり、カツラや自分の分の服を買い揃えたり――してまで行う必要性はあるのだろうか?』

 あたしはすっかり黙り込んでしまう。

『どんな理由付けをしても、わざわざそんなことまでして逃げ出す必要性が見られない。危険を伴う以上、それに見合ったメリットも犯人にあっていいはずなのに、それが皆目見当がつかない』

 見当がつかないのはあたしも同じだった。そこまで深くは考えていなかった。トリックを思いついただけでそれが可能かどうか、それよりも何よりも、まず密室を作り出す必要性について、考えてすらいなかった。

『――ただ、この前話をしたようにもし犯人が人を殺すことに快感を持っているような人種であるとするならば、あるいは攪乱のためだけにそんなリスクを負ったということも考えられなくはない。元々論理というものが根底から存在していないようなやからだからね。そんな奴らの行動にいちいち論理的な理由をつけようとしたってできるわけがないんだ』

「そういうもんかな……?」

 力なく、独り言のように呟く。

『とは言ってもこの説も、果たして快楽殺人をするような人間が、わざわざ下準備を行ってから犯行に移るというようなことをするだろうか、という疑問が残るんだけどね』

 あっさりと自説をひるがえした。

「そんじゃあこの女装説って言うのは、やっぱりあんま有力じゃないと……?」

『いや――でも、部屋を密室にする必要性、あるいは女装をして出て行くメリットが見つかればそのトリックは価値のあるものになってくる。まだそこに達していないだけで、もしかしたらこのトリックこそが用いられたという可能性だってあるんだ。そう、そもそも密室にする必然性というものに着目する必要があると思う』

「密室にしたときのメリット……。例えば、他の客室に泊まっていた人間に罪を擦り付けるためとか……」

『フロントで被害者と一緒にいるところがカメラにも映ってるし、目撃もされている。そんな状況で誰に罪を擦り付けるって言うのさ』

「そうか……」

 それから頭をフル活動して他に密室の必要性について思案してみたのだけれど、ただ頭に熱が溜まっていくだけで一向にいい説が思いつかない。

『もしくは、密室は副産物だったのかもしれない』

 突如、またしても坂林は突拍子もないことを言い放つ。

「副産物? それって、別に密室にするつもりはなかったってこと?」

『十分にありえることだと思うよ。例えば、美樹ちゃんの格好をして出て行ったのは美樹ちゃんの死亡推定時刻を遅らせるためとか。……まあ、現代科学ではその程度のことじゃ死亡推定時刻をどうこうさせたりはできないんだけどね。まあ無知な犯人はそのことを知らずに、アリバイでも作るためかそうやって死亡推定時刻をズラそうとした。そう考えれば女装も密室も説明がつく。憶測の域を出ないものだし、かなりの確率で間違いだとは思うけど』

 本当に自説をころころと変えるやつだ。あたしなんか、拓人の考え出した女装説に何度否定されても尚、しがみついていると言うのに。

『この密室の問題については、ハルちゃんにまかせることにするよ。僕は、別の作業をしなければならないからね。それに、どうやら頭は僕よりハルちゃんの方が柔軟なみたいだし――ほら、僕じゃ女装なんてこと思いつかないから。だから、密室の解決は僕よりもハルちゃんの方が向いていると思うんだ』

 そういえばこいつ、喫茶店で密室は直接犯人を捕まえるためには必要のない要素だとかほざいていたな。

 確かにそのとおりだ。密室のトリックを暴いたところで犯人の名前や居所がわかったりするはずもない。確実に犯人を捕まえるためにはやはり目撃証言やカメラの映像などを分析して何者なのか特定した方が早いに決まっている。

「オッケー、わかった。密室の方はあたしが担当するわよ。だからそっちは犯人の情報集めに精を出してくださいな」

『わかった。それで、明日から僕は知り合いの技師を回って映像分析や目撃証言の収集等を行おうと思うんだ。何か、そのときにこれを調べておいて欲しいってことはあるかい?』

 あたしは首を横に振った。もちろん坂林にはその姿が見えていないということは承知の上で。

「特にない」

『了解。まあ、でも警察が調べて何の情報も得られなかったんだから、僕ら一般人が調べてどうこうなるってこともないだろうけどね。警察全体は無能だとしても、中には有能な人材も多く抱えている。そういう人たちが分析して無駄だったってことは、僕の知り合いを回っても得られる情報は高が知れてるだろうけどね。それでも、何か一つでも多くの情報を得られれば儲けもんってことで、一応頼みはするつもりだけど。それに、僕たちは警察とは違って人権問題をある程度無視できる。違法捜査をしたって、バレなければ何も問題はないわけだし』

 なかなか恐ろしいことを言うもんである。そうやってあたしの住所やらなんやらを調べたのか。

「違法捜査をするにしても、あんた警察には捕まんないでよ」

『おや、僕の心配してくれてるのかな。嬉しいなぁ』

「唯一の情報源が断たれるのは困るって言う意味なんですけど」

『手厳しいなぁ』

 はしゃいでいた声が一瞬でしょんぼりしたものに変わる。

 それから、一つ咳払いをすると声色がマジメなものになった。

『……それで、僕のほうはシゲルくんの身辺についてもう少し調査してみようと思うんだ。彼は、今回の事件のキーマンに違いないからね。……はっきり言ってしまえば、僕は彼が犯人である可能性も視野に入れてる。可能性としては0,000何パーセントの確立だけどね。シゲルくんは自ら事件に関与していると言っていただろ。とにもかくにも、そのシゲルくんが関わったと言う事件を僕たちは知る必要があるんだ。まだ事件の全貌を掴めてすらいない。探偵として、まだスタートラインにも立っていないんだよ』

 まだ始まってもいない……。あたしたちの持っている情報は恐らく警察も持っているに違いない。そして、その情報だけでは警察も犯人を特定することはできないのだ。つまり、まだパーツが足りないのだ。ピースが揃ってこそ、初めてパズルは作り始めることができる。ピースを探し出さなければ、パズルを組み立てる作業すらマトモに行えない。

「あの名探偵が一枚噛んでくるのね。……ひょっとして、あんた、最初からそのつもりで事務所まで……?」

 協力を求めるという名目であたしたちは逸見探偵事務所を訪れたのだけれど、協力を断られてあっさりと引っ込んだ坂林の姿を思い出すと、あたしは別の目的であそこに云ったような気がしてならないのだ。そう、例えば敵状視察。

『さあ、どうだろうね? でも、シゲルくんの過去を調べることが事件解決の糸口になるということは明らかだよ。それに、これはシゲルくんからの挑戦でもある。事件のことについて話す気はないと言っておきながら、自分の過去と連続殺人は繋がりがあるとそう示唆した。事件のことを知られたくないのなら、そんなことを言わなければいいのに。じゃあ、なんでそんなことを言ったか。一つはハルちゃんがあのときシゲルくんに盾突いたおかげだろう。しかしそれだけじゃあない。シゲルくんは僕たちの能力ではシゲルくんの過去を暴くことはできないと思ったんだよ。だからわざわざ僕を煽るようなことを言った。『これ以上は坂林に情報を与えることになる』。ははっ、最高の皮肉だね。僕はあのとき、シゲルくんに兄弟がいたことや、親友が事故死したっていう情報を得られただけで儲けもんだと思っていた。けど、彼にとっちゃ、そんなことは“情報”というほどの価値もないことだったってわけさ。“これ以上は坂林に情報を与えることになる”逆説的に言えば、“この程度のことは情報には値しない”という皮肉だよ』

 それはちょっと考えすぎなのではないか、とも思ったが、しかし、二人だけの間で通ずる何かがあるのかもしれない。

『だから僕は名誉のためにも、ハルちゃんのためにもシゲルくんの過去を掴んでみせる。そこで初めて彼と同じスタート地点に立てるんだ』

 熱烈に語ったせいか、喋り終えた後の坂林は、息も絶え絶えといった感じだった。絶え間なくはあはあという荒い呼吸音が聞こえる。

「そう。じゃあ、名探偵の過去と犯人の映像やら目撃証言やら坂林くんにまかせるよ。それから、あたしは明日、殺された女の子たちで集まることにした。あたしはそっちで何か証言は得られないか聞きまわってみる。それに、もしかしたら犯人と接触してる女の子もいるかもしれないから」

『少しでも情報を得られるといいね。それじゃあ、明日はお互いにがんばろう』

「あんたには期待してるからね」

『期待にえるよう、僕もがんばるよ。じゃ、おやすみ』

「あいよ。おやすみー」

 そう長いやり取りを終え、あたしは携帯の接続を切る。

 ああ、今日はたくさんメールをもらったからもうバッテリーが一つになっている。あたしは充電器に携帯を繋ぐと、あたしもベッドに横になって休息タイム。

 明日の午後二時に土袋駅集合。目印はいつも利用しているツチフクロウ。同じ怒りや悲しみを背負った仲間たちに会えると思うと、血が沸々と煮えたぎるような感覚がした。アドレナリンがドッと体を流れまわっている。

 が、しかし目を瞑るとそれらの症状も自然と治まり、気付いたときにはもう、いつの間にか朝になっていた。


         4


 スズメの鳴き声のうるささに、僕はゆっくりと目を開いた。窓際に置かれた目覚まし機能付きの時計は六時半を指していた。

 相変わらず、部屋は酷いありさまである。そこら中に本来床にあるべきではないものが転がっている。

 僕はそれらを避けながらパジャマを脱ぎ、昨夜のうちに用意しておいたジーパンと長袖のシャツ、それから水色のジャージを着る。これだけではさすがに寒いので、家を出るときにはこの格好に似合ったジャケットを着ていくつもりだが、まだこれから朝食を食べるので今は着ていく必要はないだろう(ちなみに、ジャージにジーパンはシゲ兄が生きていた頃、よく学校に着て行った組み合わせだ)。

 部屋を出る前に、僕は散らかった生活用品の中から手鏡を探し出し自分の顔を確認する。

 そこにはシゲ兄と同じ髪型をした僕が映っていた。

 時間を空けてから見てみれば、少しはシゲ兄に似て見えるかと期待したのだけれど、そう都合よくはいかないらしい。

 期待を裏切られて少しむかっ腹の立った僕は鏡を思いっきり壁に叩きつけようと振りかぶったのだが、鏡が壊れて破片が飛び散るようなことになれば後片付けがめんどくさいし、何より危険であると思いなおし、ベッドに放る程度で激情を抑えた。

 部屋を出ると、キッチンに向かう。

 そこではお父さんが新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。お母さんはこちらに背を向け、何かを作っているようだった。

「おはよう」

 お父さんはこちらを見ずにそう呟いた。

「おはよう」

 僕も返して、椅子に座る。すると、お母さんはサラダとベーコンエッグを運んできてくれた。

 麦茶で喉を潤してからそれらのものを口へと運んでいく。

 僕が朝食をとっていると、お父さんは読み終わったのか、新聞をぱたりと閉じた。と同時に、むむと小さく唸った。

「おまえ、その頭どうしたんだ?」

 ふん、思わず笑いが漏れる。この人がアキ兄と同レベルのことを聞いてくるなんて。

「昨日、お母さんに切ってもらったんだ。僕がどうしてもってお願いしてね」

「おまえ」

 今度は振り返ってお母さんの方を見据えた。

「私は知りませんよ。この子がどうしてもって言うから切ってあげたんです。それに、私が切らないなら自分で切るって言うもんですから」

「それにしたって何でわざわざ――」

 そこで語尾を曖昧に延ばした。

 それにしたって何でわざわざシゲルと同じ髪型にしたんだ。きっとお父さんはこう言おうとしたのだ。

「この子がそうしたいって言うからそうしたんです」

 あっけらかんというお母さんの答えに、返す言葉が見当たらなかったのか、僕の方に顔を向けた。何か言いたそうにしばらくこちらを見つめていたのだけれど、結局は何も言わずにコーヒーに口をつけてからゆっくりと立ち上がった。

「じゃあ、行ってくる」

 入り口の近くに置かれた鞄を手に持つと、振り返らずに家を出て行った。

 それからしばらくしてアキ兄も起きてきたけれど、もうこれといったリアクションは見せなかった。ただ淡々とお母さんが出したサラダやベーコンエッグを頬張るだけだった。

 僕は部屋に戻ってランドセルに今日の持ち物を詰める。それからジャケットを着て、マフラーを首に巻きつけて、部屋を出る。

 本来ならば通学班と呼ばれる団体に混じって、近所の小学生たちと一緒に登校しなければならないのだけれど、僕はその集合時間よりも数十分早めに家を出た。アキ兄に、通学班は? と呼び止められたが、僕が今日は一人で行くと答えると、それ以上は何も言わなかった。

 二月の朝は寒い。それも住宅街を抜けるまでは日陰が続くのでより一層空気が凍っていた。

 僕は、そんな中を一人で学校に向かう。昨日、髪を切って生まれ変わって始めての登校。しかし、だからと言って世界が輝いて見えたりとか、足がいつもより軽かったりとかは別段しなかった。いつもどおりの道をぽつんと一人で歩く。

 住宅街を抜け、歩道橋を渡り、橋を渡り、さらに住宅街を抜けてやっと学校に着く。校門は開いていたが、まだ人の気配がない。学校の屋上近くに取り付けられた時計を見る。当たり前か。まだ八時にもなっていない。

 時間になるまでは窓際で日向ぼっこでもして時間を潰そう。ストーブがついているといいけど。

 とりあえず、時間の潰し方については教室で考えよう。こんなところでのんびりしていたら凍死とまでは行かずとも、冷気に体力が奪われて衰弱してしまう。

 僕は急ぎ足で下駄箱へと向かった。


 自分の席に座って始業のチャイムを待っていた僕を見たクラスメイトの誰もが『どうしたの?』と平凡でつまらない言葉を発した。

 そんなにシゲ兄と同じヘアースタイルにするのは可笑しなことなのだろうか。挙句の果てに、先生までもが僕を見て児童と同レベルの質問を僕に投げかけた。

 一人一人にこれは望んでこうなったものだと説明をするのはかなり面倒だったのだけれど、無視をするのは僕のキャラクターに合わないし、何より放っておいて変な騒がれ方をされては困るので、どうしたの? という低レベルで安直な質問に対して、僕はいちいち丁寧にことの次第を順序良く話して差し上げた。

 それにしても、サヤちゃんはまだ来ない。僕の脳裏に、一瞬嫌な予感が過ぎった。もしかしたら今日も学校に来ないかもしれない。だとしたら、僕はいったい何のために学校に来たのだ。

 朝の会開始のチャイムがなる。サヤちゃんはまだ来ていない。先生が今日もサヤちゃんは休みであると告げた。ああああああああ。これじゃ学校に来た意味がないじゃないか。サヤちゃんに会って、僕の思いを伝えるために今日、こうしてここにいるというのに。

 放課後か。それとも早退して行くか。いや、早退なんかしてしまったらお母さんが心配して外に出してくれないかもしれない。

 やはり、学校の帰りに寄っていくのがベストだ。

 それまではいつも通りの生活を過ごそう。

 放課後までの気持ちの準備期間だと思えばいい。僕はそう頭を切り替えると、一時間目に備えて、机の中から国語の教科書とノートを取り出した。


 そしてようやく放課後が訪れる。

 いつもの三倍ぐらい時が流れるのが遅く感じた。かなり焦らされた。やる気のなさに感化されたのか、怠惰感が授業中常に僕に圧し掛かっていた。

 それでも時間は確実に流れてくれる。午前中の授業を終え、給食を食べ、午後の授業も乗り越えた。

 帰りの会が終了し、クラス全員が起立する。礼。さようなら。

 僕はいち早く教室を出た。いつまでも教室でジッとしていたら無能なる友人たちに声をかけられて時間の浪費を強いられかねない。

 このままサヤちゃんの家に直行するつもりだ。いつもとは違うルートで家路につく。サヤちゃんのマンションの前を通る道。辺りに他の小学生の子はいない。どうやら僕が一番最初に学校を飛び出したらしい。好都合。今、こうやって小走りをしながら、僕は精神を集中させていた。他の子たちの話し声や足音で妨害されずに済む。ヘラヘラしながら告白したんじゃ、前回同様冗談に思われしまう危険性がある。真剣な態度で挑まなくてはならない。

 えんじ色の巨大な建物が見えてくる。サヤちゃんの住むマンション。

 少しずつ緊張が高まってくる。よし。このくらいの緊張ならしておいた方がいい。緊張感が空気に伝わって真剣味が出てくる。

 ゆっくりとマンションは近づいて来て、やがて到着する。自動ドアを抜けると、僕は震える手でサヤちゃんの部屋の番号をプッシュする。それから呼び出しボタンを押す。ピンポーン。

『はい』

 サヤちゃんの声だった。

「あの、僕」

『ああ、トシちゃん。何?』

 心なしか素っ気無い。

「ちょっと話があるんだけど」

『何?』

「いや、ここじゃちょっと」

 さすがにインターホンで告白するわけにはいかない。

『そ。じゃあ、こっちまで来てくれる? 今、ちょうどお母さんもお兄ちゃんもいないから、重要な話をするのにはもってこいの状況よ』

 重要な話。サヤちゃんはたぶん、僕がこれからするであろう話はシゲ兄の事故についてのことだと思っているのだろう。確かに、告白が成功した後には、そのこともサヤちゃんと話し合うつもりだが、これから僕が口にする言葉の数々はそんなシゲ兄のことよりももっと重大なものだ。

 遠隔操作によってオートロックの自動ドアが開かれる。僕は足早にロビーを抜けエスカレーターに乗り込むと、五階のボタンを押す。

 軽い浮遊感。エレベーターが動き出した。

 僕が告白をしたらサヤちゃんはどんな顔をするだろうか。笑顔を見せるだろうか。照れてしまうだろうか。それとも、困惑してしまうだろうか。

 まさか、断られるなんてことにはならないだろう。

 サヤちゃんとは一年生の頃からの仲良しだ。学校で、いや僕の十年という人生の中でもっとも親しい友達だ。きっとサヤちゃんにとっても、僕はかけがいのない存在になっているに違いない。

 だから、卑しい考え方をするならば、サヤちゃんだって僕との仲が気まずいものになるのは嫌だろうから、仮に僕に対して恋愛感情を抱いていなかったとしても、断りはしないと思うのだ。いや、もちろんサヤちゃんも僕に好意を抱いていてくれてると信じているけれど。

 チンと音を立て、エレベーターのドアが開く。僕はサヤちゃんの部屋を目指して、ゆっくりと通路を歩いた。

 ったく、歩いているだけだって言うのにどうしてこうも心臓が激しく脈打つのか。

 部屋の前に着くと、僕はドアチャイムを押した。すると、すぐにタッタッタという足音が聞こえてきた。

「や」

 ドアの隙間からサヤちゃんは顔を出した。

「やあ」

 僕の頭を見て一瞬、サヤちゃんの顔が歪んだ。が、その表情はすぐにいつもの笑顔へと戻った。

「まあ、上がってよ」

 髪型のことには触れずに、そそくさと中に引っ込む。

「おじゃましまーす」

 僕も後を追って上がりこんだ。いつもならサヤちゃんのお母さんがいらっしゃいと答えてくれるのに、今日はそれがない。どうやら本当にでかけているようだった。そしてシンイチくんもまだ帰ってきていないらしい。これなら今すぐにでも告白することができる。

「昨日はゴメンね」

 ダイニングに到着して早々、サヤちゃんは僕の方を向いてそう言った。

 昨日はゴメンね……それはきっと僕のことを疑ったことに対する謝罪だろう。

「あ、いや、別に気にしてないから――」

 とっさにそう返事する。

「証拠もないのにあんなこと言って」

 サヤちゃんは微笑を浮かべながら、赤色のソファに腰掛けた。僕も隣に座る。

 そう。サヤちゃんがいくら僕の殺意を見抜いているからといって僕が殺したと言う物的証拠があるはずないのだ。現場から逃げる僕の姿を写真にでも収めていない限り、言い逃れはいくらでもできる。

 僕は捕まらない。

「ところで、重要な話って何?」

「あ、うん」捕まる捕まらないなんてのは後回しだ。今は今すべきことに集中しなければならない。「真剣に聞いて欲しいんだけど……」

 言葉が続かなかった。いざ、実行に移そうとなると緊張の度合いがピークに達して声帯が上手く機能してくれなくなる。

「うん。で?」

 サヤちゃんは無表情で僕が続きを話すのを黙って待っていた。

 行くしかない。もう戻れない。大丈夫だ。成功する。失敗するはずがない。きっとサヤちゃんも僕のことが好きだ。そうに違いない。そう信じろ。自分を信じろ。自身を持て。進め。行け。ゴー。

「僕はサヤちゃんが好きだ」

 言った。言った。

 目の前が真っ白になる。眼圧が高くなる。

 サヤちゃんは? どんな顔をしている? ズレたピントをサヤちゃんに合わせる。

「はっ」サヤちゃんは口をあんぐりと開けたまま固まっていた。それから笑い出す。「ははは……何それ? このタイミングで何言っちゃってんの?」

「何って……」気持ちが伝わらなかったか。またしても冗談か何かと受け取られたのか。それなら語弊のないように言い換えるまでだ。「僕はサヤちゃんが好きだ。付き合って欲しい」

 ソファに座ったまま頭を下げる。

「あんたって、こうゆう冗談いうキャラだっけか?」

 やはり、冗談として受け取られているようだ。僕は顔を上げて、ジッとサヤちゃんを見つめる。

 僕の好意が届くように。僕の熱意が伝わるように。

「冗談じゃない! 僕は本気だ」

 どうだ。これでサヤちゃんの顔は歓喜に満ちた顔に変わるに違いない。

 けれど、僕の予想に反して、その表情はいよいよ怪訝なものへと変化していった。

「本気で言ってるの?」

「うん」

「本気の本気で?」

「うん」

 次の瞬間、サヤちゃんは口元に手を当てた。その動作が僕の目にはアカデミー主演女優賞を取った女性が歓喜と驚きを表すために取るそれと同じものに映ったのだけれど、どうやら違ったようだ。

「おえっ」

 サヤちゃんはダイニングを飛び出していった。方向からしてトイレに向かったらしい。

 何か流動性の物質が大量に流れ出る音。すぐに音の正体はわかった。サヤちゃんは嘔吐しているのだ。

 今日だってサヤちゃんは体調が悪いと言って休んだ。きっとその発作が急に襲ってきたのだ。

 僕はサヤちゃんの元へと急ぐ。

 トイレのドアは開け放たれていた。ツンとする胃酸の匂いが鼻についた。

「サヤちゃん」

 苦しそうに喘いでいた。僕はそっと近づくと、サヤちゃんに声をかけた。

「大丈夫?」

 何とか治まったのか口元をトイレットペーパーでぬぐいながら呟いた。

「気持ち悪い」

 狭い個室の中、僕はサヤちゃんの肩に手をやり、すぐ隣に座り込む。

「大丈夫?」

「……あんたがね」

 僕はサヤちゃんが何を言っているのか、理解できなかった。

「僕が、何?」

「頭が大丈夫かって聞いてんのよ」

 すぐ近くにあるサヤちゃんの顔。そこから直線的に僕を睨んでいた。

「……何を言ってるのさ」

「近寄らないで。気持ち悪い」

「気持ち悪い? 僕が?」

 サヤちゃんは立ち上がって、トイレの水を流した。

「そうよ。あんた以外に誰がいるって言うのよ」

 そう言いながらサヤちゃんはトイレを出てダイニングへと歩いていく。

 僕はまだ状況が理解できない。

「僕が気持ち悪い?」

 誰に尋ねるでなく呟く。きっと言葉の意味を脳が模索しているのだ。

「まだ聞き取れない? あたしはあんたが気持ち悪いって言ったのよ」

 ダイニングの奥にあるキッチンでサヤちゃんはコップを取り出すとうがいを始める。

 そこで僕の脳みそはいよいよ現実を掴み始める。

「……それが僕の告白に対する答え?」

「この答えじゃ不満?」

 現実に目を向けて来てはいるのだけれど、まだ脳みその一部分は機能が停止しているようで、幸か不幸か僕の内部で悲しみは巻き起こらない。

「不満……だねぇ……。僕のどこが気持ち悪いって言うんだ」

「全て。あんたを見てると虫唾が走るって言うか。まあ、どこがって言うんなら一つ一つ上げていってあげないこともないんだけど」

 コップを流しに入れたサヤちゃんは再びこちら(ダイニング側)へと戻ってきて、赤いソファにどすんと腰を落とした。

 僕はその様子を立ったまま黙って見ていた。

「その一。その自信過剰なところ。地球が自分を中心に回ってるとでも思ってるんじゃないの?」

 何事においても周りよりも自分が優れていると思っている僕は確かに自信過剰と言われても仕方がないかもしれない。それは認める。しかし、自分が世界の中心だと思ったことなど一度もない。

「その二。無駄にあたしに馴れ馴れしいところ。他の子達と遊んでいてもずっとあたしにぴたりとくっついて離れないじゃない」

 それは集団の中でサヤちゃんがもっとも輝いているから。他の凡人どもなんかと一緒にいるよりも楽しいから。

「その三。そして、あんたの一番気持ち悪いところ。それはシゲルくんのマネをしてるところ。それはもう憧れてるとかそういう次元じゃなくてあんたはシゲルくんそのものになろうとしている。しかもそれが際立ってきたのが最近。そして、まさに今のあんた。その髪型、服装、何もかもが生きていた頃のシゲルくんのマネじゃない」

 その通りだ。僕は君に好かれようと思って君の好きなシゲ兄の格好をマネて来たのだよ。

「シゲルくんと同じ髪型にして同じ服装でくればあたしの気を惹くことでもできると思ったの? そういうところがもう最悪。あんたがあたしに告白した瞬間、どうしてシゲルくんのマネをしてたのかわかったわ。悪寒が走った。吐き気がした。目眩がした」

 シゲ兄の格好は逆効果だったってわけか。ははっ、笑えてくる。せっかく髪まで切ったって言うのに。

 しかし、サヤちゃんの言うことは図星だというのに、僕の口はそのことを誤魔化そうと言い訳らしきものを唱えようとした。

「違う。僕は――」

「何が違うって言うのよ。それに、その『僕』っていうのもそう。それもシゲルくんのマネじゃんか。違う?」

 違う――それも否定しようとしたのだけれど、僕は思わず躊躇してしまう。果たして、違うと言い切れるのだろうか。僕が『僕』と言っているのは小学校に入る前からのことなのでその由来はわからない。けれども、シゲ兄の影響を受けて『僕』と言い出した可能性は大いに考えられる。何せ、僕が言葉を覚える年齢の頃、一番身近にいた存在は他なるぬシゲ兄であったであろうから。第一、アキ兄の一人称は『俺』だ。アキ兄の影響を受けたのであれば僕も自らを指して『俺』と言っていたはずだ。

「ほら、否定できない」

「僕は、別にシゲ兄のマネをするつもりで『僕』って言ってるわけじゃない」

 追い詰められて慌てて反論する。昔の僕がどういうつもりで自分のことを『僕』と言い出したのかはもはや定かではないけれど、少なくとも今はシゲ兄のマネをするつもりで自分のことを『僕』と呼んでいるのではない。昔からの癖なのだ。

「そんなことは関係ないんだよ。あんたの内面なんか誰も知りはしない。あんたがマネをしてるわけではないって言ったって傍から見れば十分にマネしてるように見えんのよ」

 それこそ詭弁だ。一人称なんてものはそれほど数多くあるわけではない。『僕』『俺』『私』『うち』『おいら』『わし』『自分』、あるいは自らをあだ名で呼ぶというもの。しかもこのうちの多くは現実社会では使われない。だから意図せずとも一人称が被ってしまうのは仕方がないことではないのか。

「じゃあ、それが気持ち悪いって言うんなら、僕は――ワタシは『僕』というのをやめるよ。シゲ兄のマネもやめるし、他の子たちとも仲良くするし、自信過剰なところが気になるっていうなら直していく。だから、ワタシと付き合ってほしい」

「はん」僕に冷たい目を向けた。「だから何でそうなるのよ。あんたが変わったって付き合う気なんか毛頭ないわ。手術してきたってお断りよ。人殺しはクズ。そしてあたしはクズなんかとは付き合わない」

 奥歯がギシギシギシギシギシと鳴った。

 これがサヤちゃん?

 これが僕の憧れた鈴野サヤ?

 僕ともっとも近い存在だと思っていた人物。

 もっとも気が許せる人物。

 ゆっくりと

 ゆったりと

 目の前が

 暗転し、

 幻想が

 崩れ去っていく。

 サヤちゃんだって僕のことが好きだったはずじゃないのか? シゲ兄さえいなくなれば全ては丸く収まり、全てが円滑に進んでいく予定だったはずだ。全てが全てが全てがうまくうまくうまくいくはずじゃ。

「まさか――あんた……シゲルくんを殺した理由って……」

 ダイニングに置かれたワイドテレビ。不意にその横に置かれた金色のそれに目がいった。

 僕が公園のゴミ箱に投棄したはずのシゲ兄の金属バット。

 何でここに。

 心臓が崩壊寸前のエンジンと化す。

 血流が激しくなり、焦点が定まらない。

 これは、これは、物的証拠になるのでは?

「あたしがシゲルくんを好きだと言ったから……。だから邪魔だと思って……?」

 マズイ。マズイぞ。非常にマズイぞ。どうする? どうやって持ち出す? というか、どうしてここにあるのだ? 処分をしなくては。クソ、どうして僕は公園なんかに捨てたんだ。もっと細心の注意を払っていれば。

「あ、ありえない……!」

 ヤバイ、泣けてきた。

 同時に、笑えてきた。

 僕は今、滑稽なまでに追い詰められている。

 物的証拠がサヤちゃんの手元にある。そして、サヤちゃんは僕のことを気持ち悪いと言った。どちらも僕のケアレスミスや勘違い。もう笑うしかない。笑えないけど。

「……出てって」

 キリッと僕を睨むサヤちゃん。相変わらず可愛い。やはり、サヤちゃんは違う。凡人なんかとは比べ物にならない。

 サヤちゃんを見ていると思わず口元がほころぶ。

「……何よ、笑ってないで、気持ち悪い。早く出てって」

 僕はそっとサヤちゃんの隣に座る。真っ赤なソファは適度に柔らかく座り心地は上々だった。

「来ないで」

 僕を避けるようにサヤちゃんは部屋の奥へと移動した。

「サヤちゃん。いいことを教えてあげようか」

 一歩、また一歩僕はサヤちゃんに近づく。

「シゲ兄の事故あるじゃん? ……正解だよ。サヤちゃんが推理したとおり、ワタシ……いや、が事故に見せかけて殺した」

 瞬間、サヤちゃんは丸い目をさらに丸くする。元々大きな目は、これ以上ないくらいに大きく見開いた。

「……やっぱり、あんたが」

 足を一つ前に出す。サヤちゃんも距離を縮めないためか、同じだけ後退する。けれど、下がるのには限界がある。サヤちゃんの背後にはベランダへ出るための巨大な窓が立ちはだかった。

「ただ一つ、訂正すべくは僕が自転車に細工をして事故を引き起こしたっていう点かな。シゲ兄が車道に転げ込んだ理由は自転車のトラブルなんかじゃない。あのとき、僕は茂みに潜んでいて、シゲ兄が通った瞬間に襲い掛かったんだ。バットでね。そう、その通り。あそこに立てかけられてる金属バットさ」

 サヤちゃんの目線は僕を通り越して大型テレビの方へと向けられる。

「あ、あの、バットで、シゲルくんを?」

 僕は眉を顰めた。

「何? 知らなかったの? 知っててあのバットをわざわざ僕の目につくような場所に置いたんじゃないの?」

 少女との間隔を埋めながら問うた。少女は首をゆっくりと振った。

「知らないわよ、そんなこと。あれだって、お兄ちゃんが持ってきたのよ。公園で見つけたって……」

 ああ、何だ。サヤちゃんが僕を追い詰めるために用意した小道具ではなかったのか。性質たちの悪い偶然だったってわけね。

 それならばネタばらしをしなくてもよかったんじゃないかと気付くが、もう後の祭り。まあ、いいだろう。どうだっていいのさ。サヤちゃんが僕を拒絶するのであれば、もう残る口封じは一つしかない。

「あー、それからもう一つおもしろい情報が入ったんだけど、聞きたい?」サヤちゃんは僕を見据えるだけで返事はなかったので、僕は沈黙=YESと判断して話し始める。「シゲ兄がサヤちゃんをフった理由、それはサヤちゃんが年下だからだったって僕はメールで送ったよね?」

 僕がこれから何を話そうとしているのか察したらしく、サヤちゃんの目が怯えたものになった。

「……その話は聞きたくない。やめて」

 しかし、やめない。僕はちゃんと最初に聞くかどうかを尋ねた。そのときにNOと言わなかったサヤちゃんが悪い。まあ、その段階ではどんな内容の話だか、サヤちゃんは知りえないわけだけれど。

「シゲ兄には他に好きな人がいたんだ。誰だと思う?」

 僕の問いかけを無視して、サヤちゃんは頭を振り続けた。

「やめてやめてやめてやめてやめて」

 やめないやめないやめないやめない。

 自然と笑みがこぼれた。

「鈴野シンイチくん。シゲ兄の恋愛対象は君のお兄ちゃんだったんだ」

 あっはっははははははは。笑える。どうしてこんなに笑えてくるのか。体の中から笑い声が溢れてくる。

 サヤちゃんは目に涙を浮かべたまま固まっていた。

 ああ、何て愛らしく、何て滑稽なんだ。

 放心状態のサヤちゃんに、僕は最後の質問を浴びせる。

「最後に一つだけ確認しておきたいことがあるんだけど、サヤちゃん、僕がシゲ兄を殺したという推理を誰かに話した?」

 もし話しているのであれば、その人物も何とか口封じをしなければならない。

 その問いに対して、ハッとしたように焦点を僕に合わせるとサヤちゃんは自嘲気味に笑った。

「お兄ちゃんにアキラくんにそれから学校の友達数人……と言いたいところだけど、まだ誰にも話してないわね、残念ながら。だからあたしを殺しさえすればあんたがシゲルくん殺しの犯人だって考える人間は少なくともあたしの知る限りでは消えることになるわね」

「誰にも話してない……か。さすが僕の大好きなサヤちゃん。懸命な判断だ。それだけ被害は最小限で済む」

「……あたしだけ、その事実を知ってれば十分よ。だって、あたしはこんなところで死ぬつもりなんかないんだから――」

 と言った同時に走り出した。こんなの予測済み。僕は腕を掴む。

 次の瞬間、僕は顔面に鈍痛を覚え、思わずサヤちゃんの手を離してしまった。左腕を掴んだところまではよかったが、空いていた右手でパンチをもらってしまった。幸い、どこも負傷した様子はないので、まずはよかったが、逃げられるのはマズイ。いや、マズイなんてもんではなく僕の人生の終結に直結する。

 所詮は女の子の、それも小学三年生のパンチなので、脳みそが受けたダメージもほとんどないに等しかった。よって、僕はすぐさまサヤちゃんを追いかけることができた。

 ダイニングを飛び出し、サヤちゃんは玄関にいた。そして、ロックを外すと外に出た。

 その僅かなタイムロスのおかげでほとんど手の届くところまでサヤちゃんに近づくことができ、足は僕の方が早い。

 抱きつくようにして捕まえると、僕はしゃがみ込み、重い荷物を持ち上げる要領でサヤちゃんの体を持ち上げた。人間と言うのはコツさえ掴めば簡単に持ち上がる。それもか細い女の子だったら尚更楽に持ち上げることができる。

 本来なら、僕はこれをサヤちゃんの部屋のベランダで行う予定だった。多少、予定がズレたが、幸い周りに人影はない。

 僕は持ち上げたサヤちゃんの体を、手すりの向こう側に広がる空中へと放り投げた。

「永遠にお別れだね、サヤちゃん」

 キャ、ギャアアアアアアアという悲鳴が響き渡る。そしてゴツンという鈍い音。

 人目につく前に、一度サヤちゃんの部屋の中へと避難する。

 僕はランドセルとそれから証拠になり得るバットを手に持つと外の様子を窺った。まだ廊下には誰も出てきていない。よし。すぐさま階段の影へと移動する。

 それからしばらくするとざわめきは大きくなり、各フロアに人が集まり始める。階段を利用する者もちらほら出てきた。狙い通り。僕はその野次馬に混じって階段を下りる。ここで一番マズイのが知り合いに会ってしまうことだ。僕を知らない人物にだったら顔を見られても構わない。生のび《、》り《、》自殺、、に興奮している野次馬度はいちいち回りの連中の顔なんか覚えていない。だから、僕のことを知っている人物が近くにいない限り、僕は逆に堂々としていた方が目立たない。

 一階に到着し、自動ドアを抜ける。

 玄関の周辺には多くの人が集まっていた。そして、そのすぐ前の通りを数人の小学生が通り過ぎていく。ラッキー。この小学生のグループ混ざればより目立たずにこの場を去ることができる。

 サヤちゃんが落下したのはマンションの前に設けられた駐車場だった。人はそちらの方に流れていくが、僕はさりげなくそこから抜け出し、帰宅途中の小学生に混じった。

 はっは。これで僕が捕まることはなくなった。もう僕の身の安全は揺るぎのないものになったんだ。

 喜ばしいことだ。心配の種は消えた。

 ってあれ?

 不意に視界がぼやけていることに気付く。

 まるで水中にいるみたいに世界がぐにゃぐにゃ……。

 何で涙が溜まってるのさ。

 見事、目的が達成できたじゃないか。

 目的?

 僕の目的って何だったっけ?

 僕の目的……。

 僕の目的は……サヤちゃんの口封じ。

 そう、口封じ! できたじゃないか。もうサヤちゃんの口から秘密が漏洩する心配はない。

 なのに、なぜ、僕の目には涙が溜まっているのだろうか。

 ……きっと、緊張の糸が切れたせいだな、うん。


         5


 午後一時、あたしは土袋の駅構内を歩いていた。二時に待ち合わせなのだけれど、時間に余裕を見て十二時過ぎに家を出てきた。おかげで一時間も早く到着してしまった。

 まあいいだろう。コンビニでカフェラテでも買って、それを飲みながらツチフクロウの前で待っていれば。何なら漫画を買ってもいいし、携帯もある。この世の中、時間を潰す術はいくらでもある。

 とりあえず、昨夜連絡をよこした少女たちにメールを送る。到着次第あたしにメールを送るようにと。

 そのメールを送信してからあたしは駅の売店でカフェとカロリーメイト(フルーツ味)を買った。返信はすぐに来た。もうツチフクロウの前で待っていると内容が四件も。

 みんなはえーよ。

 プラスチックの蓋を外し、銀紙を突き破ってストローを挿すと、あたしはそれで喉を潤してから小走りでツチフクロウを目指す。

 ツチフクロウなる像は出口付近の階段の手前にある。丸の内線の改札を通り過ぎ、人込みを抜ける。今日は金曜日。多くの忙しそうなスーツの人間と少数の暇そうなだらしない格好の人間が交錯する。灰色のフクロウはすぐに視界に入って来た。

 ツチフクロウはよく待ち合わせの目印に使われる。像の周辺にはざっと見ただけでも十人の若者が携帯とにらめっこをしたり、ボケーっと突っ立っていたりした。そのうち七人は女の子だった。

 その中の一人、あたしは見知った顔の子に話しかける。

「お待たせ、秋穂ちゃん」

「ハルちゃん!」

 秋穂ちゃんは美樹ちゃんと同い年の女の子であたしの一個上だ。

 あたしを笑顔で迎えてくれたものの、すぐに沈鬱な表情へと変わった。理由は簡単。

「……美樹の仇、討たないとね……」

 秋穂ちゃんはあたしよりも美樹ちゃんとの付き合いは長い。だから、秋穂ちゃんの方があたしもよりもはるかに辛いはずだ。

 一言だけそう呟き、秋穂ちゃんはそれ以上何も言わなかった。あたしはもっと美樹ちゃんとの思い出とか、犯人に対する憤怒とか、事件を解決させることへの熱意とかを聞かされるかと思ったのだけれど、それらのことを口にされるより、沈黙の方がどれだけ秋穂ちゃんが美樹ちゃんのことを想っていたのかということがひしひしと空気を通じて伝わってきた。

「あのー」

 不意に話しかけられた。

 振り返ると、そこには知らない顔の少女が立っていた。

「昨日、メールをもらったイズミって言うんですけど、ハルさんですよね?」

 金に近い茶色の髪、やたらと長い睫毛まつげ、ピンクの口紅。身長があたしよりもやや高めのその子。

 イズミという名前を聞いてピンと来た。昨日、メールをした子の一人で、もうすでにイケフクロウの前で待機しているという四人のうちの一人。

「ああ、ええ。そうです」

 濃い化粧をしているが、不快感のない顔。メイクの技術が半端なく上手い。締めるところはきっちりと締めたスタイルはモデルを連想させる。努力と研究を重ねたものだけが得ることのできる美。少女はそれを手にしていた。

 ポンと秋穂ちゃんがあたしの肩を叩く。

「どちら?」

 小声であたしにそう尋ねた。

「友達に紹介された人で、あたしたちと同じで友達が事件に巻き込まれたから犯人を捕まえたいっていう人」

 答えてやると、秋穂ちゃんは顔を上げて金髪の少女向かって会釈する。

「はじめまして、秋田瑞穂です。あたしも、親友が殺されて犯人を捕まえたいと思って、それで今日、このハルちゃんの話を聞くために来たんですけど……」

 それに応えるように、イズミも慌てて名乗りだす。

「あ、はじめまして。あたしは高村イズミって言います。あたしも、友達が殺されて……。仇を討ちたいっていうか、犯人がこのまま捕まらないのが許せないって言うか。一昨日も被害者が出て、もう止めなきゃって」

 一昨日の被害者……美樹ちゃん。

「その一昨日の子が、あたしたちの共通の友達だったんです」

「え……そうなんですか」何と言っていいのかわからなかったのだろう。少し間が空いてから、「あたしの友達って言うのは相川リカコ、一ヶ月前に犯人に襲われて……。やたらめったら喋り捲る子でした。いたらいたでうるさかったんですけど、いなくなったらいなくなったで今度は静かすぎるんですよね」

 そうどこか遠くを見て言うイズミさん。

 いなくなったらいなくなったで静かすぎる。言いたいことはよくわかる。

 やばい。涙腺が緩んできた。こんなところで涙はまずい。

 見ると、秋穂ちゃんも目を潤わせていた。同じものを失った者同士、通じるものがあるのだ。

「あの」またしても声をかけられる。沈んだゆったりとした口調。そちらに顔を向けると、あたしと同じくらいの身長の可愛らしい女の子が立っていた。「すいません。盗み聞くつもりはなかったのですが、聞こえてきてしまったので。昨夜、メールをお送りしました照井アイです」

 長い作り物のような黒髪。小さな鼻。小さな口。全体的に中性的な顔立ち。まだ成長しきっていない少女を連想させる。

「あの……」

 少女に呼びかけられて意識を取り戻す。不思議な魅力を持つ少女だ。

「ああ、はいはい。アイさん。はじめまして、星川春乃です。昨日メールしたハルです。えーと、聞いてたかもしれませんが、こっちがあたしの友達である秋穂こと秋田瑞穂さん。こちらが四番目の被害者である相川リカコさんのお友達の高村イズミさん」

 少女は秋穂ちゃんとイズミさんをそれぞれ見やり、頭を一回ずつぺこり。

 見た目で判断するならばあたしより年下か。しかしそれだとまだエンコーを始めたばかり……。いや、エンコー関係の友達ではなく先輩が殺されたとか、そういうことかも。

「お二方ともはじめまして。照井アイ、十八歳です」

 ほう、十八歳――? はっ、年上!

「あ、どうも。十八だと、同い年ですね」

 秋穂ちゃんが言う。

「あたしも十八です」

 イズミさんも答えた。

「え、イズミさんも十八?」

 もっと年上かと思った。背は優に一七〇を超えているその立ち姿は、成熟した女性をイメージさせた。

 とてもじゃないが、アイちゃんとイズミさんが同い年とは思えない。

「あのー……」

 また違う声。

 そういえばもう一人、すでにツチフクロウの前で待機をしていた女の子がいたことを思い出す。久住カンナ。

 声の方を見ると、別の一人の少女が立っていた。

 つまり、この子久住カンナさんなわけか。

 赤ぶちメガネにヘアピンで前髪を右側でわけている。あたしよりも少し身長が高めの女の子。

「久住カンナです。昨日、メールしました。あたしも知り合いの仇が討ちたくて、来ました」

 おどおどとそう言う少女。この子もどう見てもあたしより年上には見えないが、アイさんという前例があるので明言はしないでおこう。

「あたしの友達っていうか、先輩なんですけど、名塚ミドリ先輩、が殺されて……。中学のときの女子バスケット部の先輩だったんです」

 名塚ミドリは確か十六歳だったはずだ。二番目の被害者。犯行があったのは去年の十一月だから生きていればあたしと同い年。それを先輩と呼んでいるのだから、この子は少なくともあたしよりは年下であると推察できる。

 ちなみにこれら被害者の情報は昨日、坂林より仕入れたものだ。名前と犯行のあった日付、それから年齢。それらの情報をあたしは頭にインプットしてあるのだ。

 例によって、先に顔合わせを済ませた三人も挨拶をする。

「秋田瑞穂です」

「高村イズミです」

「照井アイです」

「あ、えーと、わたしは久住カンナです。久しぶりの久に住むって書いて久住です。カンナは蜜柑みかんのカンに奈良のナで、柑奈です。十六歳で高校一年生です」

 やはり一個下か。つーか……。

「高校一年生ってことは、高校生?」

「え、はい、そうですが」

「今日、金曜日だけど、学校は?」

 あたしたちには平日とか休日とかいう概念はあまり日常生活で関与してこないのだけれど、学生であるならば平日である今日は、学校があるはずではないだろうか。

「あ、休みました。あっ、いや、普段からちょくちょく休んでるんで、問題はないんですけど、はは」

 ちょっと悪いことをしたな、と思った。あたしの周りには平日休日関係ない子ばかりだったから、すっかり学生という存在を失念していた。

 けど、これでこの子は学校を休んでまで事件を解決したいと思っているということがわかった。殺された名塚ミドリちゃんは後輩にここまで梳かれていたわけだ。犯人はやはり殺してはいけない子を殺していたわけだ。

「わざわざ学校休んでまで来てもらって。あたしも最初っから犯人を捕まえるきだったけど、より一層燃えてきたよ」

 これは期待を裏切るわけにはいかない。

「いえ、わたしが進んでここに来ただけですから。断ることもできたわけですし」少女は固かった表情を微かに和らげて「でも、モチベーションが上がるのはいいことだと思います。わたしもみなさんと会えて心強いです。一人でずっと犯人が捕まるのを待ってるよりもずっと気持ちが楽になります」

 そう、何もしないでただただ犯人が捕まることを祈っているだけでは息が詰まってしまうのだ。だから、あたしは美樹ちゃんを殺したクソ野郎を警察に引き渡すために立ち上がったのだ。

「そうですね」賛同したのはイズミさん。「この一ヶ月間、あたしも気持ちの整理をつけようとリカコのことを忘れようとも思ったんですけど、でもダメで、何かが引っかかって、モヤモヤとした気持ちでこの一ヶ月を過ごしてきました。やっぱり、親友が死んだのに何かしようともしない自分に折り合いがつけられなかったんだと思います。だから、カンナさんの言うとおり今はずいぶんとすっきりとした気分でいます。犯人を捕まえたいって言うのは、犯人に罪を償って欲しいっていうよりも――もちろん、それもありますけど、要は自分が死んでいったリカコのために何をしてやれるかってことなんだと思います」

 できないからといって投げ出すのではなく、自分に何ができるか、自分にできることだけでもいいからしようとする気持ち。それが結果を伴わなかったとしても、精一杯やればそれで死んでいった親友も許してくれるんじゃないのか、そう自分に言い聞かすことができる。まあ、あたしは犯人を捕まえるまでは諦めるつもりはないけど。

 あたしは携帯を取り出して時刻を確認する。現在一時半少し前。それから新着メールが二件来ていることに気付く。他にこの像の前にもう到着している子がいるのかと期待したのだけれど、メールの内容はどちらも同じものだった。

 それは、今日は行けなくなりましたとのメール。

 昨日の段階で四人の女の子からは行けなくなったとのメールが来ていた。つまり、今日ここに集まるのは十一人のうち五人。そして、今ここに四人の少女はすでに来ている。来るとしてもあと一人。

「それにしても、ハルちゃん。犯人について調べてるって言ってたけど、いったいどうやって調べてるの? 危ないマネとかしてないよね?」

 不意に秋穂ちゃんが心配そうな視線をあたしに向けた。

「それは大丈夫。調べてるのはあたしじゃなくて、ちゃんとした探偵が動いてくれてるから」

「探偵?」

「そ。あたしのお客さんの中に一人、その探偵がいてね。あの日、あたしは美樹ちゃんと会ってるんだけど、そのときにその探偵もいたわけ」

「えっ、美樹に会った? あの日って、いつのこと?」

「美樹ちゃんが犯人に襲われた日。時間は二時過ぎ。だから、美樹ちゃんが犯人と会う数時間前」

「は、犯人と会う?」秋穂ちゃんは声を裏返させた。そうか、あたしの中では当たり前の情報になっていたけれど、よく考えたらこれも少数の人しか知らないことなのだ。「ど、どういうこと? 美樹は呼び出されたの? もしかしてお客の中に犯人が……」

「そうじゃないよ。最初はそうも考えたけど、あの時、美樹ちゃんは満面の笑みで『彼氏に会いに行く』って言ってたの。そして、その彼氏ってのがたぶん犯人」

「彼氏が犯人……?」

「うん。……まあ、詳しくは全員が集まってからにしてほしいんだけど、まあ、正確には『彼氏が犯人』って言うよりも、犯人は『美樹ちゃんを殺すために彼氏になった』って言うほうが正しいと思う」

「それって、美樹は騙されたってこと?」

「そういうことになるね。……かなり胸糞むなくそ悪い話しだけど」

「最悪……」

 重い空気が流れる。

 横を通り過ぎていく若者たちはみんな楽しそうに歩いていくと言うのに、ツチフクロウの周りだけが影を落としている。

 と、そこにアップテンポな音楽があたしのポケットの中から流れ出す。携帯を取り出す。メール受信。

 誰? といった顔でこちらを見てくる秋穂ちゃんや他のみんなに向かって、最後の一人が来るみたいですね、と答える。

 最後の一人の子の名前は小島アオイ。さて、どんな子なのだろうか。

 今いるあたしを含むこの五人は会ってすぐの段階で意思の疎通は果たすことができた。このアオイって子も同じようにすぐ打ち解けられればいいのだけれど。

 再び携帯が鳴る。

 ツチフクロウの前に到着したとのことだ。あたしの顔がわからないので右手を上げて欲しいという。言われたとおり、右手を高く掲げた。

「あ、そこにいらしたんですか」

 あたしの元へと駆け寄る人物。

 目を疑った。

 というか、一瞬脳がブレイクする。

 後方の四人を見てみても、誰もが大なり小なり唖然としていた。

「はじめまして、小島アオイです」

 そう名乗るということはやはり目の前の人物が小島アオイに違いなかった。

 金色の髪を逆立て、皮のジャケット着、耳にピアスを開けた、身長が一八〇センチ近くはある思われる青年、、があたしに向かって会釈した。

「あの、あなたが小島アオイさん?」

 代理とかじゃなくてか。

「そうです。昨日、メールを送らせてもらった」

 じゃあ、やはりこの巨人が小島アオイに間違いないわけか。

 気を取り直してあたしも会釈して紹介を始める。とんだ勘違いをしていたわけだが、そんなことをいつまでも気にしていては始まらない。

「はじめまして。あたしが星川春乃です。えーと、こちらの四人も同じく事件で親友を亡くされた方々です」

 例のごとく四人は本日幾度となく繰り返してきた動作を行う。

「秋田瑞穂です」

「高村イズミです」

「照井アイです……」

「く、久住カンナです」

「あ、どうも、みなさんはじめまして。小島アオイ二十歳はたちです。殺人鬼をとっ捕まえるために調査してると聞きまして、ちょっとでも力になれればなぁ、と思って来ました。よろしくお願いしますね」

 ヘコヘコと腰を低めに何度も頭を下げた。チンピラ風の外見とは違って中身はいい人なのかもしれないな、と小島アオイの印象が作り変えられる。

「とにかく、今日来れる人はこれだけみたいですから、とりあえずどこかに移動しましょ。こんなところじゃ落ち着いて話もできないですからね」

 そうみんなに伝えると、あたしが先頭になって歩き出す。

 さて、どこに向かおうか。とりあえず落ち着いて話せる場所がいい。

 ――となると、やはりカフェか。

 あたしは昨日の坂林との会談を思い出しながら、駅前の横断歩道を渡った。


 こげ茶色の基調とした広い店内。あたしたちは四人用のテーブル席を隣り合う二箇所を占拠していた。幸い、周りの席には誰も座っていない。人に話を聞かれる心配をする必要はないだろう。

「あの、メシ食ってないんで、オレ、スパゲティ食っていいスか?」

 小島アオイは席について早々にそう言った。

 しかも、どうやらその問いはあたしに向けて発したもののようで、そんなことわざわざ聞くなよと思いつつ、どうぞと受け答える。

 他の五人はそれぞれコーヒーやらココアやらを注文した。小島アオイだけはレモンスカッシュとトマトとズッキーニのパスタを注文。

 一時は打ち解けた空気も、ここに到着するまでの間に、すっかりまた赤の他人同士に戻っていた。それに、まだウエイトレスが飲み物(とスパゲティ)を運んで来ていない。だから当たり障りのない話から始めることにする。

「まず、自己紹介からしましょうか。さっき駅でもちょこっとしましたけど、もうちょい詳しく」

 同意を求めて、五人を見渡す。とりあえず否定的な視線はなかったので、そのまま進める。

「最初にあたしから。名前は星川春乃、埼玉に住んでます。年は十七歳」

「へえ、もうちょい年上かと思ってた」口を挟んだのは小島アオイ。その呟きのせいで少し、間が空く。「あ、ごめん、続けて」慌ててそう促す。

「……それから、あたしの事件の被害にあった友人って言うのが、一昨日の事件で殺された、つまり五人目の被害者の水野咲。あ、ちなみにあたしの職業は――職業って言っていいのかはわかんないけど、一応エンコーやってます。んーと、それから……。……こんなもんかな。じゃあ、こんな感じで自己紹介お願いしますね。あ、それともう一つ。この秋田瑞穂ちゃん、通称秋穂ちゃんとあたしは友達です。じゃあ、次の自己紹介は秋穂ちゃん、お願いします」

 あたしの自己紹介を終えると、今度は隣に座る秋穂ちゃんに注目が集まった。

「あー、あたしは秋田瑞穂と言います。あたしは東京の埼玉よりに住んでます。年は十八です。あたしの友達というのはこっちのハルちゃんと同じで水野咲、通称美樹なんですけど、昨日、みなさんもそうだと思うんですけどハルちゃんが事件について調べてるって知って話聞こうと思って今日ここに来ました。職業はハルちゃんと同じでエンコーやってます。そんなもんですかね? 次は――」

 秋穂ちゃんの向かいに座るカンナちゃんが小さく手を上げた。

「次、わたしですよね?」

 まあ、あたし秋穂ちゃんという順番だと時計周りということになるので、そう考えるとカンナちゃんの番ということになる。

「わたしは久住カンナです。久住のクが久しいのヒサで、スミが住民のジュウです。カンナは蜜柑のカンに奈良のナです」それ、さっきも聞いたよ、とか思ったけどそういえば小島アオイは知らないのか。「年は十六歳で、文東ぶんとう区に住んでます。えーと、学校は――いいですよね。職業は一応学生で、高校一年生です。わたしは友達ではなく、中学時代から親しくしてもらっていた先輩が殺されました。名塚ミドリ先輩です。友達から変なチェーンメールが来たって言われてあたしにも送ってきたんですけど、それでどうしてそんなことがわかったのかと疑問に思ったので、その発信源を辿っていってみたらハルノさんに繋がったわけです」

「そういや、何件かあたしにこのメールを発信者は誰? ってメールが来たな。そのうちのいくつかはここにいる誰かってことになるのか」

 秋穂ちゃんがポツリと呟いた。

「それで、メールしてみたらどうやら発信者の人は事件について調べているようだ。ならわたしも話を聞きたい、と思ってここに来ました」

 カンナちゃんはペコリと頭を下げて以上ですと言って自己紹介を終了させた。

「次はあたしですね。名前は高村イズミです。年齢は十八歳。一応キャバで働いてます。住まいは東京で、あたしの殺された友達って言うのは三ヶ月前に被害に合った相川リカコです。リカコとは中学が一緒だったんで、よく一緒にいたんです。リカコは出会い系使ってエンコーしてたみたいだったけど、あたしもリカコも似たもの同士でよく喋ってました。それなのに三ヶ月前に……。だから、犯人が許せなくて、逃げおおせてるのがどうしても許せなくて、事件が解決するならと思って今日来ました」

 そう言い終えて沈黙するイズミさん。それを終了の合図と受け取ったのか、小島アオイが喋りだす。

「オレは小島アオイ、二十歳です。えー、東京に住んでます。それから職業はよく言えば売れないミュージシャン。正確に言うのであればフリーターをやってます。オレの亡くした友達って言うのは飯野明日香。もうかれこれ二年近く経つのかな。この連続殺人の一番最初の被害者が、オレのお向かいさんに住んでいて、幼馴染だったイイノちゃん。幼稚園に通ってたときからだから、もうかれこれ十五年くらい遊んでた仲だったんだけど、突然殺人事件に巻き込まれて死んだって聞かされて……。この年になっても、いやこの年だからこそ泣けたね。別に彼女だったとかそういう関係じゃなかったんだけど、昔からの親友が、向かいに住んでたヤツが急にいなくなったと思うと、今でも涙がにじみ出てくる。だから、オレは犯人を見つけたらぶっ殺してやるくらいの気持ちでいるんだけど、まあ、でもそんなことしてもしょうがねえし、誰も喜ばねえし、だからぶっ飛ばすくらいで勘弁しようかとは思ってるんだけどさ。メールはオレの中学んときから仲のよかった男子からもらったんだけど、これ飯野の事件のことじゃね? ってメールがあってさ。オレは男だし、身長も一八〇あるから関係ないとは思ったんだけど、誰がこんなバカみたいなチェンメしてんのかと思って言いだしっぺを探したんだよ。どうせ、オレの友達連中の誰かかと思ってさ。そしたらそこの星川さんっていう人がメールの発信源だって知って、どういうことだか聞いてみたら、オレと同じように友達が事件の被害に合ったって聞いて。だからこうして今日は足を運んだんです。……なんか、一人だけ男で浮いてる気がしなくもないんスけど、一応オレも本気なんで勘弁してください。えー、以上です」

「別に浮いてはないと思いますけど」

 あたしの口から声がこぼれた。実際は男が一人だけという点とか身長が一八〇もあるところとか、よく喋るところとかが多少なりとも浮いているのだけれど、けど、最後の『オレも本気なんで』という言葉に胸を打たれて、思わず慰めてやりたくなったのだ。

「そうスか? そうだとありがたいけど」

 小島アオイ……アオイは初めて照れたような表情を見せた。ああ、あたしの人を見る目が言っている。この人はいい人だ。

「じゃあ、最後は照井アイさん」

 とてもじゃないが十八歳には見えない神秘さを持った少女。見ようによっちゃ中学生にだって見えなくもない。

 アイちゃんは沈むような声で喋りだす。

「私の名前は照井アイです。年齢は十八歳、で東京に住んでます。職業は援助交際を。それから事件の被害にあった友人についてですが、服部優子、私の親友でした。あまり頻繁に会って遊ぶということはしなかったのですが、私たちは話がよく合ったのでたまに会うと何時間も話をして過ごしました。メールは私の友達の一人が私に送ってきてくれました。優子が死んでからもう一年以上過ぎてるんですけど、それでもハルノさんからもらったメールが気になってしまって。それでハルノさんのメールアドレスを友達伝いに教えてもらってメールしました。私が力になれるかどうかは不明ですが、できる限りの協力はしたいと思います」

 そして小さくお辞儀した。

 再び視線があたしに集まる。司会進行はどうやらあたしの担当らしいから次の作業はあたしが指示しなければならないということになる。

「えー、じゃあ次は――」と、その時ウエイトレスがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。「コーヒーを飲みながら、あたしが調べて手に入れた情報をみなさんに教えたいと思います。中には推論の域を出ないものもありますけど、それはまあ目を瞑っていただくとして、とりあえずコーヒーを受け取りましょうか」

「エスプレッソのお客様」

 あたしが手を挙げると、目の前に香ばしい真っ黒な液体が置かれた。

 秋穂ちゃんはココア。イズミさんはモカ。アイちゃんはカプチーノ。そしてアオイの目の前にはレモンスカッシュとスパゲティが置かれた。

 ウイトレスが去っていくのを確認してからあたしは口を開いた。


 だいたいのあたしが坂林から聞いた話と拓人の密室の推理。それらを順序だてて説明していった。この話しをしているときはさすがのアオイも真剣に話を聞いていた。スペゲティを食べながらではあったけれど。

「女を殺すことで快感を得てるだって? 犯人はそんな腐った思想の持ち主なのか?」

 空になった皿をスプーンとフォークでカチカチ鳴らしながら、アオイが顔を歪めて言った。

「いや、あくまでも一例だよ。他に理由があるのかもしれない」

「なんで女のアソコにナイフ突き立てる必要があんだよ。快楽目的以外に何か理由が考えられるか?」

「それを考えるためにこうして大勢の意見を聞こうとしてるんでしょ? アオイさん」

「それに女装だって? とことん変態極めてるようだな、その犯人は。変人に的を絞って調査すればすぐに見つかんじゃね? オカマバーとか行ってよ」

「犯人が女装してる可能性があるからオカマバーって、それちょっと短絡的過ぎだよ」

 あたしとアオイはすっかり打ち解けて討論している。アオイは見た目は成人男性なのだけれども、中身はあたしと同年齢程度に感じられた。

「それにしても、初めて知ったよ。そんなこと、ニュースじゃやってなかったじゃん。密室についても傷口についても」

 あたしの横でそう秋穂ちゃんは零した。

「坂林くんが言ってたけど、どっちも規制がかかったんじゃないかって。まあ、密室の方は事件とは直接関係ないから放送されなかったとも、説明がややこしいから放送しなかったとも考えられるけどね」

「でも……被害者がみんな身長一六〇センチ前後だったなんて。そういえばリカコも一六〇センチくらいだったっけか」

「名塚先輩もそうでした。わたしと同じくらいの身長で」

「美樹もそうだったよね。ハルちゃんと双子みたいに並んでたもん」

「イイノちゃんもそうだったな」

「優子もそうでしたよ」

 それぞれ自分たちの亡き友人の姿を思い出していた。

「つーかよ、身長一六〇センチ前後ってここにすでに三人の女の子が犯人のターゲットになりえるんじゃないかい? 星川ちゃんに久住ちゃんに照井ちゃんの三人」

 やはりそう指摘してくるか。というか、ちゃん付けか。

「被害者はみんな心なしか顔が似てるんだったよな? それも含めると印象的には星川ちゃんが一番危なくないか」

「確かにハルちゃんは美樹と並べば姉妹に見えるほどなんていうか、雰囲気が似てたよね」

 坂林だけじゃないんかい。みんなが一致してあたしをレッドゾーンに追い込んできやがる。

「あ、でも照井さんも危なくないですか」

 赤ぶちメガネのカンナちゃんはアイちゃんを見て心配そうな顔をした。

「んー。言われてみればその通りだね。アイさんも可愛らしい顔をしてるし、微妙にリカコの面影が見て取れなくもない」

「それならカンナちゃんだって可愛らしい顔をしてるじゃん。身長だって一六〇だし」

「わたしはたぶん大丈夫ですよ。全然不細工ですし、メガネもかけてるんで被害者さんたちには似ても似つきません」

「ま、確かにメガネっていうパーツは大きいわな」

 デリカシーもなくそう言ったのはやはりアオイだった。

「まあ、あたしは大丈夫だよ。イケメンどころか、あたしには普通の彼氏も今はいませんから。それに、エンコーの方も事件が解決するまでは休業するつもりだし。だから、気をつけるのはカンナちゃんとアイさんのお二人」

 まあ、これだけ注意していればこの中から次の被害者が出ることはないと思うけど。

「何にしたって次の被害者が出る前に犯人を捕まえればいいってことよ。だからそのためにもみんなと情報を共有して、意見し合って解決の糸口を見つけ出そ」あたしは五人の顔を見た。「何か意見か情報がある人いますか? いたら、小さく挙手してください」

 それからしばらく様子を窺ったのだけれど、結局誰も手を上げなかった――と、思ったらアオイが手をゆっくりと上げた。

「アオイさん、意見? 情報?」

「情報なんだけど、星川さん、犯人は彼氏になって被害者に近づくって言ってたよね?」静かに頷く。またどうしようもないことじゃなければいいのだけれど。「オレ、イイノちゃんが殺される直前に付き合ってたと思われる人物の名前、知ってるんだけど」

 一瞬、空気が凍りついた。

「そ、それ」声に笑いが混じってしまう。こんなに簡単に犯人を特定できてしまっていいのだろうか。「マジ?」

「たぶん。イイノちゃんとは幼馴染って言ったじゃん? あいつ、彼氏なんか作るタイプじゃなかったから、よく覚えてるんだ。シゲルさんって言ってた」

 全身がしびれた。シゲル……。あの探偵。逸見シゲル。

 逸見シゲルは目を見張るほどのイケメンだった。そして、優れた知能を持った人間である。この事件にも深く関わっていると言う。

 切れていた電線の先と先が、不意に接触したような衝撃。激しく火花が飛び散る。

 あいつが犯人だったら警察が知らない事件をも知っている理由の説明がつく。

 シゲルという名前のイケメンが、この東京に何人もいるものか。あたしは思わず立ち上がる。

「ど、どうしたのハルちゃん?」

 秋穂ちゃんが驚きの声を上げる。

「……もしかして、今オレが言ったシゲルって人物に、心当たりでもあるの?」

 鋭い。さすがは年長者なだけはある。

「アオイさんの言うとおり、ちょっと思い当たる人がいてね……。ちょっくら、その人ん所に乗り込んでくるわ」

 この衝動とも言うべき感覚はどうにも抑えられなかった。あたしが呼び出しておいて、一番最初に抜け出すなんて、最低の行為以外の何物でもないことくらいわかっていた。けれども、感情の高ぶりはいつまで経っても治まらなかった。

 あたしは千円札を財布から取り出すと、テーブルに置いて駆け出す。

「おいおい、待てよ」アオイに呼び止められる。「オレたちも連れて行ってくれよ。仲間になったんだろ、抜け駆けはなしだぜ」

 四人がキョトンとしている中、一人だけが状況を把握し、的確な要求をあたしに申し出ている。ああ、アオイは見た目とは裏腹に頭の切れる人間なんだと思った。

 しかし。

「ごめん、それはできない。まだ確証もないし、これから坂林くんと会うの。あいつ、知らない人がいると緊張して志気が下がるとか何とか言い出すから、やっぱりあたし一人しか行けない」

 まだ坂林に連絡を取ったわけではなかったが、これから坂林に電話をかけて、早急にシゲルの事務所に向かってもらう。それに、アオイから得られた情報も伝えなくては。

「ダメだ、オレたちも連れて行け」困った。そう言われてはみんなを置いて行けなくなってしまう。呼び出したのはあたしなんだから、やはりみんなの了承なしには抜け出せない。「と、言いたいところだけど、やっぱ一人で行けよ。オレたちがいると困るみたいだしな。その代わり、絶対に報告しろよ。一秒でも早く教えてな」

 笑顔で手を振るアオイ。

 へ?

「いいの?」

 あっさりと許可が下りて、あたしは思わず拍子抜けしてしまう。

「いいも何も、迷惑になるって言うんなら無理は言わないさ」

 あたしの中で株が急上昇する。あいつはすごいいいヤツだ。気配りもできるし、物事をはっきりと言う。

「……わかった。ちゃんと報告するから!」

 あたしは手を振りながらカフェを出た。

 アオイに多大な感謝の念を抱きながら。


 車内に秋野原に到着することを知らせるアナウンスが響いた。あたしは立ち上がる。

 カフェから土袋駅まで走る間、あたしは坂林くんに連絡を取ろうと電話をかけたのだけれど、電波が届いていないか電源が入っていないかのどちらかの理由で留守電すら残すことはできなかった。

 こんな大事なときに、と憤りを覚えたが、もしかしたらあいつはあいつで何かを調べているのかもしれない。地下とかスタジオとかに入って。

 一応今すぐ連絡するようにメールは送っておいた。けれども、秋野原につくまでの間に連絡が来ることはなかった。

 仕方ない。一人で乗り込むか。

 相手は殺人鬼かもしれない。けど、あたしも腕にはそこそこの自信はあった。さすがに銃や日本刀を持ち出されたらそれは大ピンチなわけだけれど、今まで犯人が使ってきた凶器はみな包丁かナイフ程度の刃物。その程度だったら、まだ何とか防げる。

 それでもやっぱり一人で行くのはちょっと怖気づく。坂林に連絡がつかないのであればアオイを連れてくればよかったかな、と少し思ってしまう。

 改札を抜けて、昨日坂林に連れられて歩いたルートを辿る。大通りを抜け、わき道に入る。急に人通りが少なくなる。その道を少し進んだところにあるのが逸見探偵事務所。

 心拍数が上昇する。それは恐怖のせいでもあるし、高揚のせいでもあった。逸見シゲルがこの事件の犯人であってほしいとも思ったし、できれば犯人であってほしくないと思った。

 とにもかくにもこんなところでビビってるわけにはいかない。秋穂ちゃんやアオイ、イズミさんにアイちゃんにカンナちゃんを置いてきてしまった以上、もう戻るわけにはいかないのだ。

 一つ、息を吐いて一歩踏み出した。

 その時。

 馬鹿でかい着信音がポケットから鳴り響く。心臓が止まるかと思った。

 人がせっかく闘志を高めて乗り込もうとしているときにいったい誰だ。画面を見なくてもその主が誰かはだいたい想像がついたけど。

「もしもし」

『もしもし、坂林だけど』

 やはりデブフクロウこと坂林だった。

「ちょうどいいところと言うか、間が悪いと言うか」

『え、何? 今、取り込み中?』

「いや、大丈夫。それよりも今日集まって被害者の友達の話を聞いてみたらとんでもない情報が得られたの」

『どんなことだい?』

 坂林は相変わらずさほど興味がないといった感じで返事する。だから、あたしは坂林の興味を引くこと間違いなしのワードを出す。

「犯人の名前」

『…………』黙り込んでしまった。ざまあみろ。『……まさか、シゲルくんとか言い出すんじゃないだろうね』

「は?」あたしは目を白黒させた。「何であんたがそれを知ってんのよ」

 まだあたしは何も言っていない。驚かすつもりで、逆にこっちが驚かされてしまった。

『その反応じゃ、やっぱりシゲルくんみたいだね。そっちでか……』

「そっちでもって、坂林くんの方でも何か見つかったの?」

『うん』どうでもいいことのように答える。『被害者の携帯の電話帳のデータを調べだしたんだけど、どのアドレス帳にも決まって『シゲル』とカタカナの入ってたってことがわかったんだ。もちろん、その『シゲル』のアドレスはフリーメールアドレスで、そこからの特定はちょっと不可能っぽいんだけど』

 被害者の携帯に共通の名前。それは、もうほとんど決定打じゃないか。

「じゃ、じゃあもう逸見シゲルが犯人で決まり――?」

 このビルの三階に美樹ちゃんを殺した犯人がいる。

『いや、まだ決まったわけじゃないよ。シゲルというのも偶然かもしれない。それに、シゲルくんが関わっていたとしても、シゲルくん自身が犯人とも限らない。別の誰かに勝手に名前を使われただけかもしれない』

「偶然? そんな偶然がありえるの? 逸見シゲルが犯人だったらいろんな点の辻褄が合う」

『そう。だから僕はシゲルくんが無関係とは言っていない。何らかの形で、この事件に関わっている確立はハルちゃんの言うとおり非常に高い。……だから、僕は昨日からずっとシゲルくんの身元を洗ってる』

「またそれ?」

『犯人はシゲルくんの周りにいる誰か、あるいはシゲルくん本人かもしれないけど――僕はそういう非常に近い人物が犯人だと思ってる。だから、シゲルくんの身元を割り出すことは犯人を見つけ出す手がかりにもなるんだ。それに、彼は僕のハッキングの技術をちょっとなめてるところがあったからね。懲らしめるためにもちょうどいい』

 ん? 最後はちょっと私情がからんでいるように感じたが。

 というか、さっきからこの電話越しの坂林はいつもより妙にハイな気がするのだけれど。

「あんた、ひょっとしてお酒飲んでる?」

『お酒は飲んでないよ。僕の様子がおかしいと感じ取ったならさすがだね、ハルちゃん。安心して。これはちょっと疲れてるだけだから』

「疲れてるのにハイなの?」

『徹夜なんだ。今は疲れや眠気を通り越して覚醒状態になってるわけだね』

 徹夜って……。もう四時になるぞ。いったい何時間寝てないんだよ。

「何でそんな頑張ってんのさ。まさか全部一人で調べてるの?」

『全部はさすがに無理だね。同業者の知り合いのうちの何人かにはもうすでに協力も要請してるし、被害者全員のアドレス帳にシゲルって入っていたっていう情報も調べたのは僕じゃないしね』

「じゃあ何を寝ないで調べてるの?」

『シゲルくんのことだよ。彼の過去や正体を調べてる。こればっかりは他の仲間を頼ることができないから手こずってるんだ』

「頼ることができないって何でよ。自分一人の力で事件を解決させたいとかいう願望?」

『違うよ。そんなんじゃない。ほら、前に話をしたろ、シゲルくんと僕はとある探偵の下で働いてたって。そしていつも僕が頼っている仲間というのは、その師匠の人脈なんだ。だから当然、その人たちはシゲルくんとも繋がってる。探偵同士が互いを詮索しあうのは基本的にはタブーだからね。もし、僕がシゲルくんを調べようって言うんなら、それは僕個人でやらなければならないんだ』

「その『シゲルくん』が殺人犯かもしれないから調べてくれって言うのもダメなの」

『たぶんダメだね。あくまでも僕やシゲルくん、他の探偵たちは仲間なんだ。どんな理由があろうと、仲間を裏切ることはできない、彼らはそういう考えの持ち主だから、いくら説得しても無理だよ。仲間内の争いには手を貸してくれない。それに実際問題、シゲルくんは犯人じゃない。身長が違いすぎるからね。犯人は身長一六〇センチだけど、シゲルくんは一七〇近くある。いくらなんでも一〇センチ近い身長を誤魔化すのは難しいと思うよ』

 そういえば、昨日ここに来たときも名探偵の顔は自分の目線より上にあったような気がする。

 何だ……。やはりシゲルは犯人ではないのか。

「あのさ、今からあたし、名探偵のところに乗り込もうとしてるんだけどさ、止めた方がいいかな?」

『え! 今どこにいるの?』

「だから逸見探偵事務所の前」

『何してるんだ。そんな危険なところに一人で行くんじゃないよ』

 まるで子供を叱るみたいな言い方に、少し腹を立てる。

「危険って何でよ。犯人じゃないんでしょ。それに、元々あたしはあんたと一緒に乗り込むつもりであんたに電話したのよ。電話に出ないそっちが悪いんじゃない」

『電話に出なかったのは謝るよ、ごめん。だけど、一回戻るんだ。駅前で待ち合わせしよう。確かにシゲルくんがカメラに映った犯人でないことは間違いない。けど、シゲルくんが犯人と協力関係にある――つまり、共犯者ではないと決まったわけではないんだ。そうでなくても、犯人と接点のあるシゲルくんの付近は危険だ。犯人の方がシゲルくんに近づいている可能性もあるわけだし』

「あっそ。それで坂林くんはあとどれくらいでこっちまで来れるの?」

 電話の向こうから様々な音が聞こえてくる。衣擦れや床を駆ける音が聞こえてくる。どうやら出発の準備をしているようだ。

「つか、今、ひょっとして家?」

 トントントンという足音はフローリングの床を駆けるときに発せられるものであったし、クローゼットを開く音がしたということは、少なくともそこは寝泊りできるスペースであることを示していた。

『そうだね。やはりシゲルくんのことを調べるのは自宅か事務所じゃないと。今はいつでも仮眠が取れるように家で調べていたんだ』

「で、あとどのくらいかかるの?」

『今から家を出るから、そうだな、一時間でそっちにつくと思う。喫茶店かどこかに入って待っててくれればすぐに――』

 一時間なんてナメてる。こっちは仲間たちを放ってここまで来たのだ。みんなはあたしの報告を待っている。

「それじゃあたしは逸見探偵事務所で待ってるから。待ち合わせ場所は探偵事務所で。じゃ」

 反論は聞かずに電話を切った。

 これで坂林は焦るはずだ。五分くらい到着は早まるだろう。

 さてと、乗り込みますか。

 坂林からの着信があると面倒なのであたしは携帯の電源を切ってから、愛想のない色をした階段を上った。三階、逸見探偵事務所にはすぐに到着した。

 ドアチャイムが見当たらないので、ノックをしてから入ろうか迷ったが、結局余計なことはせずに普通にドアを開けた。

「いらっしゃい」

 落ち着いた、かつ人を見下したような声が部屋に響いた。

「って、おやおや。坂林の依頼人の方じゃないですか。どうなさいました? あいつに愛想でも尽かしました?」

 ソファの前に立って皮肉的な笑みを浮かべている。

 本当に人を馬鹿にするのが好きなやつだな。ルックスがいいやつ、あるいは高学歴なやつにありがちな性質。こいつはどっちにも当てはまるからきっと自分以外を二酸化炭素程度にしか思っていないに違いない。

「あんたに用があって来たのよ」

「それは私に何か調べて欲しいものがあるということかな?」

「あたしが知りたいのはあんたのことよ」

「ははっ」小さく笑ったかと思うと、シゲルは黒いソファにどさりと腰を下ろした。「冷やかしなら帰ってくれ。私は君に自分の過去を話す気など毛頭ないのだから」

 全く相手にされていないようだ。そうかい。そっちがマジメに話を聞く気がないのなら強引にでも意識をこちらに持って来させる。

 本来なら、もっと穏便に切り出すつもりだったのだけど、この態度じゃ、まあ仕方ないね。

「連速殺人犯の名前がわかったの」

 名探偵の眉毛がピクリと動いた。今まで無関心を貫いているようだったのに、やはり効果は絶大なようだ。

「ほう、それはそれは。彼、坂林もやるじゃないか」

「残念ながらこれはあたしが自力で調べたの。犯人は被害者の彼氏だった。そして、一番最初の被害者の彼氏の名前は『シゲル』」

 今度はもっと大きなリアクションだった。目つきが変わったのだ。一瞬ではあったけれど。次の瞬間にはまたシニカルな笑みに戻っている。坂林が名探偵と呼ぶだけのことはある。まるで怪人二十面相だ。

「それで私のところに来たというわけか。ところで、その名推理に水を差すようで悪いのだけれど、君は全国にシゲルという名前を持つ人間がどれだけいるかご存知かな?」

「さあね。でも、あたしの人生の中ではシゲルって名前の人は二人しか知らない。一人は中学のときに一人、そういう名前の男子がいたわね。苗字も顔も思い出せないけど。そして、もう一人は『逸見シゲル』。あんたね」

「光栄だね。君の世界の数少ない『シゲル』の中に私が登録されていて。しかし世界は広いということは知っておくべきだ。東京だけでも百人以上、シゲルという名の人間を見つけることができるはずだ」

「けど、事件に関わっている『シゲル』となればその数は一桁にまで減るはずよ」

 シゲルははっきりと見て取れるほど露骨に眉を顰めた。それから不快そうに言う。

「君は私が犯人だと言いたいようだね。だがねこれは私自身にしかわからないことだろうけど、私は本当に犯人ではないのだよ。それに君の推理の原点になっているその『被害者の彼氏の名前がシゲル』という証言が信憑性のあるものかどうかも疑わしいし、何よりそんなものだけじゃ私を犯人呼ばわりすることなどできないのだよ、残念ながら」

 よく喋るな、とあたしは思った。やはり、この男は何かを知っているのだ。それを無理やりに誤魔化そうとするから無意識のうちに言い訳みたいな言葉の羅列になり、口数も増えていく。まさに自分で自分の首を絞めているような状況。

 それにしても、昨日はあれだけ冷静な態度で、どれだけあたしが怒鳴っても全く動じなかった男が、ここまで取り乱すとは。これは関係がるとかそういうレベルではなく、もっと深く関わっているのではないだろうか。

「あたしは別にあんたが犯人だって言いたいわけじゃないわよ。いくらなんでもあたしだってそこまで馬鹿じゃない。犯人が偽名を使った可能性が高いってことくらいちゃんとわかってた」

「何だ。わかってるじゃないか。そう、これから殺す人物を相手に本名を名乗る人間などいないからね。その偽名が偶然、、私と一致してしまった。ただそれだけのことだ」

「偶然? また安直な言葉を使って誤魔化すのね。あたしは読書とかあんまりしないからよくはわからないんだけど、どっかの名探偵が推理の鉄則は『偶然は必然と思え』みたいなことを言ってなかったかしら」

 もし、この犯人の名前が『シゲル』というのが偶然だったとしたらできすぎていると思った。あたしはカフェでその名前が出てきたとき、全身に鳥肌が立ったのだ。二人のシゲル。そして、その二人には様々な共通点がある。一つ、容姿端麗であるということ。二つ、今回の事件に深く関わっているということ。そして三つ目。それは二人とも身元がはっきりしないということ。

「それじゃ、君のお友達、水野咲が殺されたのも必然だっていうつもりか? 偶然、犯人に選ばれたのではなく、水野咲は選ばれるべくして選ばれたと」

「それはわからない」

 というか、屁理屈ではないか、それは。

「ほらみろ。君にだって必然と偶然の差異は理解していないんじゃないか」

「一つの出来事に対して、その事象が偶然起きたのか、それとも必然的に起きたものなのか。それをどちらで解釈するかは個人の自由よ。それで、あたしは二人の『シゲル』という人物の存在を偶然とは考えなかった。ただそれだけ。そして、そのおかげであんたが事件に深く関係していると言うことの確認ができたわ」

 シゲルは黙ってこちらを見据えていた。だから続ける。

「あんたのその焦りよう、絶対に何かを知っている。あなたは犯人が何者か知っているんじゃない? あなたが昨日言った過去の事件、それも何か重要な意味を持っていそうね」

「私が犯人を知っているだって? 私だって長い間、犯人を捜しつづけて来たんだ。知っていればとっくに警察に手配している」

「犯人がわかってコンタクトを取ったはいいけれど、それからずっと犯人に脅されている、とかは?」

「漫画や小説じゃないんだ。警察署に逃げ込めば絶対安全だ。それにいざとなれば戸籍を捨てるということもできるからね」

 その口調はわずかにだが、余裕を取り戻しているように感じた。しばらく黙っていたのは気持ちの整理をつけるためか。

「とにかく、あんたは事件に深く関係していると確証が得られたわけだ。坂林くんに報告すればきっと喜ぶでしょうね。あんたの身元を掴むために徹夜だってさ。でもそれが事件の突破口になるのはもう間違いないことなんだから、坂林くんの苦労も報われる」

「ほう、あいつは本気で私のことを調べているのか。本来なら身内同士の詮索はタブーのはずなんだが。まあ、私も人のことを言えないか。私も不可抗力とはいえ、坂林の身元を探る結果になってしまったのだから」

 シゲルは皮肉めいた笑顔を復活させて言った。

 わざとらしい。坂林の身元をあんたが知ってるからってどうだって言うのだ。

「そう。坂林くんの身元をねぇ。ま、あたしはもう帰るわ。こっちの用は済んだわけだし」

 釣り糸を垂らしたって無駄だよ。そんなあからさまな擬餌ぎじに食いつくほどマヌケじゃない。

「待てよ。君ばかり話して私は何も話していない。これはフェアじゃないんじゃないかな」

「フェアもクソもないわよ。それに、あんたはさっき十分喋ってたじゃない。多分、あたし以上喋ってたはずよ。言い訳ばっかりね」

 最大限の皮肉を言ってやったつもりだったが、呆気なく苦笑いで回避されてしまう。

「じゃ。お邪魔しました」

 もう振り返るつもりはなかった。

 あたしは事務所の出入り口に向かって歩き出す。

「君は知らないかもしれないがね、坂林は君に雇われる前にこの事件を調べていたのだよ」

 振り返るつもりはなかったのに、帰る気満々だったはずなのに、あたしはその言葉に振り返ってしまった。

「どうして」

 生じた疑問が、あたしの意思とは無関係に口から発せられた。

「理由は簡単。彼の妹もまた、この事件の被害者だからだ」

「妹……」

 坂林に妹? それも殺された? 事件の被害者だって?

 あたしは全く知らない情報を突きつけられて戸惑った。

「そこで話しを聞くのもいいが、落ち着いて聞きたいのならソファにでも座ったらどうだ?」

 シゲルはすっかり自分のペースを取り戻していた。同時にあたしは完全にペースを乱されている。

 だから、それが明らかに怪しげな撒き餌であっても、あたしはついつい食いついてしまう。気付けば、名探偵と向き合う形で座っていた。

「君は飯野明日香は知っているか?」

 飯野明日香……それは一昨年の暮れに殺された一番最初の犠牲者。

「彼女こそが坂林の八歳離れた実妹じつまい。坂林の本名は、飯野正治まさはる

 いきなり本題から入ってくる。飯野正治。あたしはその名前を頭に刻み込む。

「飯野明日香のことを調べたら一発で出てきた。さすがに驚いたよ。あいつも身元のガードは鉄壁だったからね。まさかこんなところであいつの身元を知ることになろうとは思っても見なかった」

 得意げに笑うシゲル。あたしは黙って聞き入る。

「近所で話を聞いてみたら坂林と被害者はかなり仲がよかったらしいね。年の離れた兄弟というものは家で話もしないほど仲が悪いか、休日を共にするほど仲がいいか、そのどちらに分かれるからね。坂林はどうやら後者であったようだ」

 坂林は、自分の個人情報をシゲルに特定されたことを知っているのだろうか。……たぶん知っているのだろう。この名探偵が被害者の親族を調べるであろうことは同じ探偵である坂林だって重々承知のはすだ。

「それで、あんたはあたしにそれを話してどうするつもりなの?」

 自分の博識さを披露したいだけか。けど、この男がそういう人物でないことは昨日のあの徹底した秘密主義を見ただけで想像はつく。

 それならばこれは何らかの意図があっての行動なのだ。

「どうもしないさ。ただ、君から一方的に情報をもらうのは悪いと思ってね。それならばこちらからも情報をプレゼントしようと思っただけさ。ギブアンドテイクの精神だよ」

 昨日はそのギブアンドテイクですら出し渋ったって言うのに。これは明らかな嘘だ。

「続けるよ。……ところで、君は被害者に見られる共通点についてはもう気付いているのかな?」

「身長が一六〇センチ、みな揃って美形、性格は社交的。それが何?」

「そう。それなら、もう一つ。君も気付いている可能性は大いにあるだろうけれど、被害者三人は、みな顔が似ているのだよ。顔のどこのパーツが似ているというわけではなく、雰囲気というやつが似通っている」

 雰囲気か。顔写真で確認いたわけではないので、どこがどう似ているのかについてはあたしもあまり詳しくは知らなかったのだけど、なるほど、目が似ているとか鼻が似ているではなく、雰囲気が似ている、か。

「それから、君が自覚しているかどうかわからないが、君もその雰囲気というものが被害者五人と酷似しているのだよ。わかるかい?君も十分に被害者になり得る素質を持ち合わせているわけだ」

「それは殺人予告か何か? 悪いけど、あたしはそう簡単にはやられないよ」

「そういう意味じゃない。私が言いたいのは、被害者全員に似ていると言うことは、は《、》の《、》にもよく《、、、、》ているということだ《、、、、、、、、、》」

 あたしは眉を顰める。同時に、こいつが何を言いたいのか、徐々にわかってきた。

「君と坂林がどういう関係かは知らない。だが、君が正規の依頼人ではないことは、依頼料をもらっていないという坂林の言葉から推測できる。君がどれほど坂林に信頼を置いているか、これも私は知る由もないわけだけだが、それでも無償で協力してくれる坂林に感謝の念は抱いているのではないかな?」

 あたしのために、あるいは美樹ちゃんのために徹夜で捜査してくれている坂林には多大な感謝の念を抱いていた。今では厚い信頼も置いている。

「もしそうなら、君は大きな間違いをしている。奴は、君のために犯人を捜しているのではなく、自らの妹の復讐のために捜査をしているのだよ。あいつが何といって無償の捜査協力を申し出たのかは定かではないが、もし『君のために一緒に戦いたい』なんていう寒々しい言葉を吐いていたとしたら、それは君を騙すための作られた言葉だ。奴の本心ではない」

 坂林は自分のために捜査している? あたしや美樹ちゃんのためではなく? 

 あの日の電話の、坂林の声が甦る。

 ……許せないね。

 ――あの子を見たときは幸せそうで、これから『彼』と会うのを心底楽しそうにしていた。その幸せをぶち壊す男は、同じ男として許せないよ。

 あの言葉は嘘だったって言うのか? 坂林は美樹ちゃんのことなんかどうでもいいと思っている?

「どうして君にそこまでして好いてもらいたいのか。そこに、君と飯野明日香が似ていると言う点が絡んでくる。私の推理では、恐らく奴は君のことを奴自身の妹、飯野明日香に見立てている」

 このセリフ、ある程度は予測していたとは言え、やはり他人の口から言われると受けるショックは大きい。

「君と坂林がどういう関係であれ、面識を作るためには、まず知り合わなければならない。君と坂林、どちらが声をかけたんだい?」

 あたしは自分から客集めはしない。だから、当然声をかけてきたのは向こう。

「まあ、恐らく坂林の方からだろうがね。さて、なぜ君に声をかけたのか。それはたぶん、君が飯野明日香にそっくりだったから。つまり、最初から奴は君をとしては《、、、、》ていない《、、、、》。奴の世界に、君という存在はないのだよ」

 この言葉は予想していなかった。坂林はあたしを、あたしとして認識していない?

「そんな阿呆みたいなこと……」

 勝手に口から漏れていた。

「ああ、馬鹿みたいな話だ。しかし、これが坂林武治、あるいは飯野正治という男の正体なのさ」

 ふふんとシニカルに笑うシゲル。

「……あたしは信じない」

「信じるかどうかは君次第だ。しかし、その様子だと君は坂林に大きな信頼を持っていたようだね」

「うるさい!」

 あたしは拳を思い切り机に叩きつける。そして、立ち上がった。

「あんたは、あたしを動揺させて捜査を撹乱かくらんさせようって言う、そういう魂胆こんたんね」

「さあ。だが、私が述べたことは事実に基づく極めて信憑性の高い推理だと思うが?」

「何が信憑性が高いよ。ただの与太話よたばなしじゃない」

「言っただろ。信じる信じないは君次第だと」

 今度は机に蹴りを二発ぶち込む。ガシャン! ガシャン! そのまま玄関に向かって歩き出す。

 やっぱり最初から引き上げておくべきだったのだ。人のプライバシーを知ろうとするから罰が当たったに違いない。

「おや、お帰りかい。それなら坂林によろしく言っておいてくれ」

 最後までうざったい奴だ。

「うるさい」

 扉を破壊するように開けると、一歩一歩、足を地面に叩きつけるようにして進んだ。

 ビルの周りをうろうろしていても仕方ないので、あたしは無意識のうちに駅へと向かっていた。

 すれ違う人たちが数人、振り返るこちらを見た。

 やばいな、怒りや不快感を抑えることができない。きっと、今のあたしの顔はすごいことになっている。

 大通りに出た。多くの人間が入り乱れる。外の空気に当たれば頭も冷えて落ち着くかもしれないと少し考えていたのだけれど、事務所を出て五分、一向に頭の霧は晴れそうにない。

 駅前、見覚えのある顔を見つける。

「ハルちゃん」

 そして聞き覚えが響いた。

「ハルちゃん」

 あたしの名前を呼びながら駆け寄ってくるフクロウ面の男。

 坂林……。

「……どうしたの。そんな顔して。まさか、奴に何か言われたの?」

 今の顔はどんな顔になっているのだろうか。自分では認識ができない。怒りの形相か、それとも沈鬱な表情か。

 あたしは下を向いたまま、小さく答えた。

「……飯野正治。一番目の被害者、飯野明日香の兄」

「ああ……」全てを理解したような声だった。「そのことか。全てを聞いたんだね。シゲルくんが僕のことを調べていたのは知っていたよ。僕の妹――明日香が殺されたときから、彼に僕の身元が特定されるということは予測していた。いくら今現在身元を偽ろうとも、過去は消せないからね。明日香について調べられたら僕と明日香のツーショット写真だって彼なら入手することはできるだろう。まあ、シゲルくんに知られたところで他人に広めたりはしないだろうと思ってあまり気にはしていなかったんだけど。……まさか、こういう圧力をかけてくるとはね」

 言いながら歩き出す。

「だからってそんな心配そうな顔をする必要はないよハルちゃん。僕たちはシゲルくんのことを何も知らないし、向こうは僕たちの個人情報を知っている。けど、彼の目的は自らの優位性を示すことで僕たちを動揺させることなんだ。気にすることはない。それじゃあ、あいつの思う壺だよ。もうすぐ僕はあいつの過去を手繰たぐり寄せてみせる。そうすれば五分と五分……いや、逆転する事だって可能だよ」

「そうじゃない」

 あたしが引っかかっているのはそこではない。

「そうじゃないって、どういうことだい?」

 足を止めて振り向く坂林。

 あたしはその顔を一直線に見る。

「あんたは、どうしてあたしに手を貸してくれるの?」

「それは一昨日、電話で話した通り――」そこで坂林の急に目が変わった。一度、目を見開いてから敵意を持ったものになる。「――まさか、シゲルくんが何か言ったのか」

 何故か、あたしは視線をずらす。その点においては上手く答えることができそうになかったから。

「……なるほど。どうせ推理と名目して下らない話を聞かされたんだろう。わかった。全てを話そう。僕の本名も過去も、明日香のことも。もう隠す必要もない」

 そしてまた歩き出した。

「とりあえずどこかに入ろう。そうだな、マクドナルドでいいか」

 坂林はそう強い口調で言った。


         6


 続けざまに親しい人を亡くすなんて何て可愛そうな子なんだ。

 世間は僕を見てこう哀れんだ。兄を事故、、で亡くし、その上、親友がそのショックで自殺、、までしてしまうなんて。

 幸いと言うべきか不幸にもと言うべきか、サヤちゃんは頭骨が砕けたせいで脳みそがペースト状になってしまい、救急車を待たずして息絶えてしまった。

 学校、、から《、、》ってきた《、、、、》僕はその知らせを、顔を真っ青にしたお母さんの口から聞いてその場に崩れた。あまりに唐突過ぎて感情が滞ってしまったような顔をして。

 回収したバットはとりあえず倉庫に隠しておいた。もちろんいつまでも置いておくわけにはいかない。機会を見つけて、より確実に処分できる場所へと持っていく予定だ。

 僕は自室に篭りたいと申し出ると、それに対する返事も聞かずに部屋へと飛び込んだ。もちろん、それは『親友を失った悲しみと戦うために、一人にしておいてくれ』という演技の一環ではあったが、このときの僕にはもう一つ重要な意味があった。

 泣き顔を保てなかったのである。

 僕はちょっと気を抜けば、声を上げて笑い出しそうだった。

 愉快だった。最高だった。

 フラれるかもしれないとか、警察にチクられるかもしれないとかそういった不安が一度に消えたのだ。

 あらゆる束縛から解放された僕は、毛布に包まり、息を殺した笑った。大丈夫。部屋の外からは嗚咽を漏らしているように聞こえるはずだ。

 それからしばらくして、警察が我が家を訪ねてきた。このときも恐怖と言うものは皆無に等しかった。僕は大好きな兄と親友を失ったかわいそうな子供。そういう刷り込みは完璧だった。

 サヤちゃんの死は自殺、事故、他殺の三つの面で捜査されているらしかった。しかし、どれにも問題点があるらしかった。

 まず自殺だと仮定した場合、遺書などがないこと、また落下の際に悲鳴を上げたことなどが問題になってくると言う。

 普通、自殺者は悲鳴を上げないものだということを知らなかった僕は、警察はあっさりと自殺として処理してくれるだろうと考えていた。遺書がないのは突発的なものであるからと、推理してくれると思っていた。

 続いて、事故だったとするときの問題点だけれど、これは至極簡単。サヤちゃんが靴を履いていなかったという点である。誤って落ちてしまったのならば、玄関からそう遠くないとは言え靴を履いているのが普通である。しかし、サヤちゃんの靴は家の玄関に綺麗にそろえられていた。

 そりゃ、そうである。あのとき、サヤちゃんは僕に追いかけられていて、靴なんか履いている余裕はなかったのだから。

 最後に他殺の可能性。それはサヤちゃんを殺す動機を持った人間が見つからないこと。

 どうやらサヤちゃんは本当に誰にも僕のことを話してはいなかったらしい。これにはさすがの僕も助かったと肩を撫で下ろす思いだった。

 警官が僕に聞きたいことと言うのは昨日サヤちゃんとあった際に何か言ってなかったかとか、何か思いつめていたことはなかったかとか、怪しい人につけられてるという話は聞いたことがなかったかとか、事件を左右するようなことばかりだった。

 僕はそのどれにも無難に答えておいた。

 昨日会ったときは普通に学校の話をしました。

 そういえば、シゲ兄の死に大きなショックを受けていたようです。

 不審な人物については、サヤちゃん、何も言ってなかったと思います。

 警察官二人組みは、僕のその返答を聞いて曖昧に頷いた。

「どうもありがとうございました。失礼します」

 男たちはあっという間に去っていった。きっと、小学三年生である僕からでは有益な情報は得られないと早々に切り上げたのだろう。馬鹿め。貴様らが欲している情報を一番多く持っているのはこの僕だと言うのに。

 部屋に戻る途中、僕よりも遅れて帰ってきていたアキ兄が僕に話しかけてくる。

「気をしっかり持てよ。サヤちゃんの後を追おうなんて考えるなよ」

 目に涙を浮かべながらそう呟いた。

「僕は大丈夫だよ」

 寒気を感じながら、僕は笑みを返す。

 頼れる存在だったアキ兄の言葉も、今はただ寒々しく感じるだけ。これ以上、不快な思いはしたくないので、足早に自室に駆け込んだ。

 そして、その翌々日にはサヤちゃんの通夜が執り行われた。もちろん、僕も沈鬱な表情で参列した。

 黒い額縁の中で、サヤちゃんは笑ったまま動かずにいた。白と黒の会場。その中には大勢のクラスメイトたちの姿があった。誰もが俯き、目を潤わせている。

 一週間の間に、親しい人のお葬式に二度も出席するなんてそうできる体験ではない。そう近いうちに何度もあると、まるでお葬式自体が生活の一部のような錯覚に捕らわれる。

 不意に親族席に目を向けると、一際目立って項垂うなだれている少年の姿があった。シンイチくんだ。

 今の僕と一番近い立場にある存在。あるいは全く真逆の立場にある存在。親友を失い、今度は妹まで失ってしまったシンイチくん。

 無関係の彼には悪いことをしたな、と僕の良心が僅かに痛んだ。もし一ヶ月前の僕が、シゲ兄を亡くし、サヤちゃんまで死んでしまうという状況に立たされたら気がおかしくなっていたかもしれない。そう考えると、やはりシンイチくんには悪いことをしたな、としみじみ思った。

 やがて、お坊さんが入ってきて読経を始める。親族席から一人一人お焼香を済ませていく。僕も立ち上がると、嗚咽を漏らしながらサヤちゃんの遺影を見やる。笑っているサヤちゃん。僕は静かに頭を下げた。抹香を一掴みし、香炉の中にさらさらと落とす。

 サヤちゃんは本当にいい子で優しくて、可愛い子だった《、、、》。惜しまずにはいられない。

 自分の席に戻ると、僕は再び涙を流した。親友を失った者の反射行動。

 入れ違いでお焼香を済ませて来たアキ兄が僕の隣に座る。目には涙を浮かべていた。

 ああ、寒い寒い。

 あんたはサヤちゃんとほとんど接点がなかったじゃないか。なのに、よくもまあそれだけ感情を高ぶらせられるものだ。

 僕たちの後ろの席に座るクラスメイトの面々もお焼香を済ませ、それを見計らったかのようにお坊さんは読経を終えた。司会の男性の『導師がご退場なさいます』の一言でお坊さんは会場から出て行った。

 そうしてサヤちゃんの通夜は終わりを告げ、一人、また一人と席を立っていく。

 僕たちは通夜振る舞いに参加することになっていた。シゲ兄のお葬式のとき、サヤちゃんの両親も顔を出してくれていたからだ。あの時はサヤちゃんやシンイチくんは出席しなかったのだから、今回はも僕たちは参加しなくてもいいような気がしたのだけれど、シンイチくんの様子を間近で確認しておこうと思い当たり、アキ兄と共に通夜振る舞いに出席することにした。

 斎場と同じく一階にある別室へと移動する。大皿に盛られた料理と、それを取り分けるための小皿がテーブルの上に並べられていた。僕たちは適当な椅子に腰掛けた。

 それから数人の人たちがそれぞれの席に着いていく。前の方の席に座っていた人たちもいるから、恐らくはサヤちゃんの親戚の人たちだろう。その中に知った顔はなかった。

 料理に手を付けながら待っていると、一通りの席が埋まった頃、喪主であるサヤちゃんのお父さんが姿を現した。その横にはぴたりと寄り添うようにお母さんが、そしてやはり俯いたままのシンイチくんがいた。

「本日はお忙しい中、通夜にご弔問ちょうもんいただきありがとうございました。サヤも、喜んでいることだと思います」

 そう形式にこだわった礼を述べると、深々と頭を下げた。いつもは気さくなサヤちゃんのお父さんも大切な娘を失ったせいで生気がほとんど抜け切っていた。その隣でシンイチくんも暗い表情で体を垂直に屈折させている。

 数日前は僕もシンイチくんのいるところに立っていた。そう考えると少し、不思議な気持ちになる。

 鈴野一家は一人一人に頭を下げに周りだす。

 僕はその様子を見ながら、のり巻きを食べていた。最初は手を付けるのに抵抗があったのだけれど、一口食べだすと手が止まらなくなる。

 もうそろそろうちに挨拶に来るというところで僕はお茶でのり巻きを流し込んだ。

「本日は、どうもお忙しいの中、ありがとうございました」

 サヤちゃんのお父さんが僕たちに向かって一礼する。僕たちもそれに合わせて頭を下げる。

「まさかサヤちゃんまで――」

 不意に、僕の横でお母さんそう漏らし、涙を流した。恐らくシゲ兄のことを思い出しているのだろう。最後に付属した『まで』という単語がそのことを示している。

 サヤちゃんのお母さんも涙を流していた。目にハンカチを当てている。

 僕とアキ兄は黙ってい座っていた。シンイチくんも、黙って俯いていた。何て声をかけていいのかわからない。嫌な距離感が生まれている。

「本日は本当にありがとうございました」

 最後にサヤちゃんのお父さんがもう一度だけ深々とお辞儀した。それから次の席へと向かい、歩き出す。

 シンイチくんもそれにならって歩き出すのだけれど、アキ兄の後ろを通り過ぎるときに、何かぽつりと呟いた。

「アキラくん、後で話がある」それからこちらも見やる。その目にはどこか鈍い光が宿っているように見えた。「君もアキラくんと一緒に来てくれないか。サヤとシゲルのことで話があるんだ」

 サヤちゃんとシゲ兄のこと? 嫌な予感。

「……ええ、僕は構いませんけど」

 動揺がバレないように取り繕いながら頷く。

「それじゃあ、また後で」

 言い残すと、すぐさま次の席に向かった。


         ※


 両親にはシンイチくんと話をして来ると言って、先に返ってもらった。斎場から家までは歩いて帰れない距離ではないのでアキ兄と一緒に帰ってくることを条件に了承してもらったのだ。

 一通り挨拶を済ましたシンイチくんは外で待つ僕たちの元へと歩いて来た。

「悪いね、待たせて」

 その声は穏やかなものだったけれど、目が据わっていた。呼び止めた理由は、やはり只事ではないようだ。

「いいよ。気にするな。そんなことよりも、俺たちに話って何だ?」

「率直に言おうか。サヤとシゲル、二人は事故でも自殺でもなく他殺かもしれないっていうことだ」

 僕は顔が真っ青になりそうなくらい驚いた。いや、実際に真っ青になっていたかもしれない。幸い、外は暗く、顔色が窺えるような状況ではないのでアキ兄たちに察せられることはないだろうけど。

「サヤちゃんと、シゲルが他殺? 殺人ってことか?」

「その通りさ。二人は何者か――しかも、恐らく同一人物によって殺されたんだ」

 怖いくらい真剣な表情だった。

「……何を言い出すのかと思えば。確かにシゲルだって自転車で転ぶようなドジはしないし、サヤちゃんだって何かのはずみで転落したりなんてことはない。けど、二つのことは実際に起きたことなんだ。警察だって、シゲルの死は事故だって断定してる」

「サヤの死だって警察は突発的な自殺だと思っているみたいだ。突然パニックを起こして飛び降りたんだってね。馬鹿な話しだろ?」

 警察はサヤちゃんが飛び降り自殺をしてくれたと思ってくれてるのか。それは僕にとってありがたい情報だった。

「――なら、俺たちはその現実を素直に受け止めていくしかないんだよ」

「違うぜ、アキラくん。俺がこんなことを言っているのはサヤやシゲルの死から目をそむけているわけじゃないんだよ。確証があって言ってるんだ」

「確証だと?」

「ああ、その証拠は俺の家にあったシゲルのバットがサヤが飛び降りた直後に消えていたってことだ」

 全身が粟立つ。やはりシンイチくんもそのことには気付いたか。

「シゲルのバット? 何だそれ?」

「シゲルが事故に合った翌日の日に、黒川公園のゴミ箱に入ってるのを見つけたんだ。ほら、俺とシゲルは小学校の時、よく野球やってたから何となくあいつのバットに似てるな、と思って、つーか、あいつのバットなんじゃないのかって思って持って帰ったんだよ。黒川公園は小さな公園だからあいつがあそこで野球の練習をしたとは考えられなかったけど、でも、そんな野球もできないようなところにバットが捨てられてるってことは、やっぱ普通の忘れ物じゃないと思ってね」

「そんで、そのゴミバットを持って帰ったわけか」

「仕方ないだろ。シゲルが死んだ直後だったんだ。懐かしかったってのもあったし、あのときはちょっと狂ってた」苦笑するシンイチくん。「でも、それが今こうして俺に疑念を持たせるきっかけになってくれた。シゲルが俺に真相を突き止めてくれって訴えかけてるんだよ」

「そんで、そのバットがなくなって、それがどうして二人の死が他殺になるんだよ」

「誰かがうちに侵入してバットを持っていったんだぜ? それと時を同じくしてサヤが転落死した。この二つの出来事が偶然重なったと、アキラくんはそう思うのか?」

「バットを持っていった犯人がサヤちゃんを殺したと? けど、それじゃあその侵入者はどうしてそのバットが欲しかったんだよ? そんなただのバットを」

「それは……いろいろ考えられるさ。例えばシゲルファンの女とか」

「馬鹿馬鹿しい。その女がサヤちゃんを突き落としたって言うのかよ」

「いや、その……」

「第一、そのバットとシゲルの事故はどういう関係があるんだよ」

「それはだね……えーと、そう、ダイイングメッセージとか」

「事故現場から黒川公園までどのくらい離れてるのか、おまえ知らないのか?」

 そのままシンイチくんは黙ってしまう。

 息を殺して横から聞いていた僕は、ホッと胸を撫で下ろす。バットの消失とサヤちゃんの死を結び付けられたときは危うく貧血でも起こしそうになったのだけれど、シンイチくんの推理の爪が甘くてよかった。肝心なところがすっぽ抜けているおかげで、アキ兄もまともに取り合おうとはしていない。

「でも、でも俺の勘が言ってるんだよ」シンイチくんは自らの頭を指差し言った。「警察にバットがなくなってることを話しても、それほど重要なこととは思われてないみたいなんだ。俺が、いくらサヤは自殺するような人間じゃないと言って、バットの話を根拠に他殺だって訴えても全く聞く耳持たずだぜ? だから、せめてアキラくんなら俺の話を聞いてくれるんじゃないかと思って……」

 津波のようにドッと言い終えると、シンイチくんはまたしょんぼりと肩を落とした。

「……もし、シゲルが事故ではなく他殺だって言うんだったら俺はシゲルを殺したヤツを許せない。一生、恨むだろうな。一生を無駄にしても探し出すだろうな」アキ兄がポツリと呟いた。「俺の大事な兄弟を奪いやがって。もし、それが事故ではなく人間の仕業だったとしたら、俺は犯人を捕まえてシゲルと同じ目に合わせてやる」

「アキラくん……」

「……俺はシゲルの死は事故であってほしいと思ってる。もし人為的にシゲルがああいう目に合わされたんだとしたら、俺は犯人を許せない。もう一度言うようだけど、一生をかけても消せないくらい強い気持ちだ。……だから、犯人なんてのはいない方がいいんだ。怒りのぶつけ所ができたら、自分の感情を抑えられなくなる」

 吐き捨てるよう言うアキ兄。

「俺は反対の意見だよ。犯人がいるかもしれないって言うのに野放しにしている方が落ち着かないね。……わかったよ。アキラくんがそういう考えなら、俺は一人で調べる。犯人を見つけ出して、捕まえたら、そのときはアキラくんに知らせるつもりだけど、それまでに入ってくる情報はアキラくんには報告しないよ。……気が変わって、俺と一緒に捜査してくれるって気持ちになったら、いつでも俺に言ってくれ」

 シンイチくんはそう言うと、アキ兄から目を逸らした。

 そしてその視線は僕に向けられる。

「君は、どう思う? サヤの親友として、あいつは自殺するようなやつだと思うか? シゲルは本当に事故で死んだんだと思うか?」

 一人でも多くの賛同を得ようとする目。

「僕は、アキ兄と同じ意見だよ……」

 他殺を認めるわけにはいかない。警察が事故や自殺として処理してくれるのならそれに越すことはない。

「そうかい」シンイチくんは寂しそうに呟くと、僕たちに背を向け斎場へと歩みを進めた。「今日は、サヤのためにありがとう。それじゃ、二人とも、おやすみ」

 言い残すと、斎場の玄関を抜け、光の中へと消えていった。

「俺たちも帰ろう」

 アキ兄が提案する。僕は頷いて共に帰路についた。


         7


 マクドナルドの地下フロア。そこはほとんど満席状態だった。土曜日と言うこともあるのだろう。若者たちで満ち溢れていた。もっとオタクみたいな奴らが集結しているのではと危惧もしていたのだけれど、全然そんなことない。普通にカップルだってちらほら。

 幸いにもフロアの角に空席を見つけたので、あたしはコーラとポテトの乗ったトレイを置いた。坂林も何バーガーかはわからないが、ハンバーガーを三つと、やたらとでかいアイスコーヒーをトレイに乗せていた。

 人がこんなに大勢いてはマトモに内緒話もできないと思っていたけれど、それはむしろ逆で、これだけ賑わっていると、隣の席の人間の声だってよく聞き取れない。ノイズが多いのだ。

「まずは、僕の名前だね。本名は確かに飯野正治に間違いないよ」

 フクロウ面の男は、ガムシロップとミルクをそれぞれ三つずつ容器に流し込みながら、言った。

「それが――あんたの本名」

 一瞬、あたしは目の前の男を何て呼んでいいかわからず戸惑ってしまった。どうやら、坂林はそれを見透かしたようだ。

「あ、呼ぶときは坂林って読んでね。あだ名みたいなもんと思って」

「そう――それじゃ、いつもどおり坂林くんって呼ぶけど」あたしもコーラに口をつけて喉を潤す。暑いわけでもないのに、喉がからからに干からびていた。「……もう一度聞くけど、あんたはどうしてあたしに協力してくれてるの? 何の利益にもならないのにあたしのためにどうして?」

 坂林はハンバーガーの包み紙を開く。

「利益にはなってるさ。普段だったら、ハルちゃんとこうして食事をするだけでもデート料を払わなければいけないけど、今はそういうこともない。本来なら発生してるはずの料金を払わなくてもいい。どうだい? ちゃんと僕にも利益があるだろ?」

「それは詭弁きべんだね」

「まあね」

 男は手に持っていたベーコンレタスバーガーを一口頬張った。どうやら緑色の包み紙はベーコンレタスバーガーだったらしい。

「あんたは、電話で美樹ちゃんの幸せを奪った犯人が許せないって言ってたわよね」シャキシャキと音を立てながら頷いた。「でも、所詮は赤の他人」あたしを見る目が、鋭利なものになる。「じゃあ、どうして協力してくれるのか。あたしの高感度を上げるため? もしそうだったら見事成功してるわね。今、あたしの中であんたの株は急上昇中だから」

「そへはよはった」

 口にものが入っているせいでうまく発音できてない。あたしは坂林の笑顔を無視して続ける。

「でも、目的はそこじゃない。あんた、言ったわよね? 五人の被害者とあたしが似ているって。つまり、それはあんたの妹さんとも似ているってこと。あんたはあたしや、美樹ちゃんを――飯野明日香さんに見立てて接しているんじゃない? だから、こうしてあたしに協力して、美樹ちゃんの事件も解決させようとしている。明日香さんを殺した犯人も捕まえられるし、明日香さんそっくりの美樹ちゃんの仇を取ることもできる」

 そして、明日香さんそっくりであるというあたしの印象も上げることができる。

 坂林は食べかけのハンバーガーをトレイに置くと、ティッシュで手を拭った。

「なるほど。君は、僕が美樹ちゃんが明日香に似ていたから、その犯人を捕まえようと張り切っている、そう言いたいんだね?」直後、坂林の目つきが変わった。「それは違うよ。ハルちゃん。僕は別に美樹ちゃんが明日香に似ているからとかそういう理由で事件を解こうとしているわけではない」

「じゃあ、何で? 明日香さんの仇を取るため?」

「確かにそれはある。否定はしないよ」

 あたしは呆れたような表情を作った。ショックを覆い隠すために。

「あ、そう。じゃあ、電話で言った『幸せを壊すのは許せない』云々は嘘だったんだ」

「嘘なんかじゃないよ」

「嘘じゃない! 他人のためにそこまでしてくれる人間がいる? いるわけないじゃん。明日香さんの仇を取りたいんだったら一人で調べればいい。あたしなんかと一緒にいるより、よっぽどはかどるでしょ?」

「だから、嘘じゃないって言ってるじゃないか」

「あんたがあたしに協力する理由、当ててあげようか? あんたは事件の被害者はみんな似てる、そしてあたしもその被害者たちに似てるって言った。あんたはあたしを明日香さんに見立てて接しているんだ」

「ふざけるな!」

 坂林の怒声に、一瞬店内が沈黙に包まれる。何人もの人間がこちらにちらちらと目を向ける。

 しかし、坂林は熱が入ってしまったせいかそんなことには全く気付かないと言った様子で喋り続ける。

「僕は君のことを明日香の代わりだなんて思ったことはない。いや、君だけじゃない。どれだけ明日香に似ている人間が現れたって、僕はその人物を明日香の代用みたいに見たりはしない」

 近くの席の人たちがこちらに耳を立てているのを肌で感じる。

「……それじゃあ、何であたしに手を貸してくれるの? ふざけないでマジメに答えて。お茶を濁すようなことを言うのもやめてよ」

「電話で言ったことをくつがえすつもりはない」

「ふざけるなって言ったはずよ。あんた、あたしのことを馬鹿にしてるの?」

「誤魔化そうってわけじゃない。あのときの言葉は、僕の素直な気持ちを伝えたまでだ。僕はあの電話をかけたとき、明日香のことを思い出していたんだ。笑顔で遊びに行くと言って出て行った明日香が目の前に浮かんできてね。それで許せない気持ちになった」

「ほら、やっぱり明日香さんに重ねてるんじゃない」

「違うね」

「違わない。それにその説明じゃ、あたしに手を貸してくれる理由になってない。結局は美樹ちゃんの死を知ったときに明日香さんを殺されたときの怒りが戻ってきたってわけでしょ? それなら、別にあたしに協力をするなんて言わないで一人で調べればよかったじゃん」

「君に、二年前の姿が重なって見えたんだ」

「二年前の姿? 二年前の明日香さんの姿があたしに重なって見えたって? はっ、それじゃあ結局――」

「二年前の僕の姿が重なって見えたんだよ」坂林の視線は一直線にあたしを貫いていた。あたしは動けずに、そのまま坂林を見つめる。「二年前、明日香を失った直後の僕の姿がハルちゃんに重なって見えた。だから、手を差し伸べずにはいられなかったんだ」目を逸らすことができなかった。あたしの意思とは無関係に両眼は坂林を捉える。「僕は探偵だったから、ある程度事件のことについては自分で調べることができたけど、君はただの女の子だ。何をしていかもわからないと思った。二年前、僕は全力で犯人を調べたけど結局は行き詰った。そのときの焦りとか苦しさを僕は知っている。何かしなければいけないのに、何もできないと言う焦燥感や虚無感。一人でそれらのものと戦うのは苦痛なんだ。だから、次の誰かにそんな思いをさせたくなかった。僕の目の前に現れたその次の誰かがハルちゃんだった。だから、僕は君の力になれればと思った」

 あたしの頬に水滴が走った。眼球が熱い。

 坂林は、言い終えると黙って食いかけのベーコンサラダバーガーに口を付け出した。あたしも、他の誰かに涙を見られぬように、袖口で目元を拭いながらコーラのストローを咥える。

 どうやらあたしの勘違いだったようだ。この男は人の気持ちがわかる人間なのだ。普段はどれだけ滑稽で間抜けな態度をしていたとしても、ここ一番のときにはちゃんと的確な行動を取れる男。

「僕じゃ役不足かもしれないけど、それでも犯人を捜し出してみせるよ。約束をしたからには死ぬ気で頑張るよ」

 食べ終えたバーガーをコーヒーで流し込みながら、坂林は意気込んで見せた。

「死ぬ気で頑張るって、そんなに探偵の仕事に情熱持ってんの?」

 涙が止まったのを確認してから、笑いかける。

「仕事だからじゃない。ハルちゃんのためだからさ」

 照れもせずに言い切った。

「はいはい。臭いセリフをどうもありがとう」

 いつもなら気持ち悪いの一言で一掃しているところだが、まあ今日はこのくらいで勘弁しておいてやろう。

「相変わらず手厳しいなぁ。人がいいセリフを言ってるのに」

 笑みを浮かべながら、あたしはやっとここでポテトに手をつけた。こうしてゆっくりポテトを摘めるのも一段落がついたおかげである。

 五、六本食べたところで、あたしはシゲルとの会話について坂林に切り出す。忘れないうちに、そして早いうちに坂林には伝えておかなくては。

「あいつ、絶対事件に関わってるよ。シゲルっていう名前が、偶然あいつと重なったってわけじゃないみたい」

 あたしは犯人の名前がわかったと言ったときのあの名探偵の焦りようを思い出す。

「それは、僕もほぼ確実だと思ってるよ」

「というか、ひょっとしたらあいつが犯人、あるいは共犯なのかもしれない」

「……それは、また、言い切るね。シゲルくんが何か口を滑らせたのかい?」

「いや、そういうわけじゃないけど。でもあたしが『犯人の名前はシゲル』って言ってからちょっと問い詰めたらかなり取り乱してたから」

「取り乱す? 彼が? どんな風に?」

 驚いた様子で坂林は言及してきた。

「やたら喋り出すは、馬鹿みたいな屁理屈を言い出すは、それからあたしを動揺させようと坂林くんのことにまで触れてきた」

「あのシゲルくんがそこまで……。それで彼は僕の個人情報を流すなんて強硬手段を取ったわけだね。確かに嫌疑をかけられたら、普通はそれを晴らそうとして口調が早くなったり、主観でものを言ったりするようにはなる。けど、その上に他人を陥れるようなことを言うなんて、まるで彼自身に何かやましいことがあるみたいだ。過去を調べられたらマズイみたいな」

「あたしはあいつがこの連続殺人の犯人の共犯者なんだと思う。どういう風に関係してるのかはわからないけど……」

「そうだね。その可能性も検討しておいた方がいいかもしれない。これは……一層、シゲルくんの過去を探るのには力を入れないといけないね」

 力強く言った後に、坂林は黄色い包みを手に取った。そして、包装紙を外してチーズバーガーを取り出した。

 やる気を表明した直後に食うのかよ。

 全く。これだけマイペースな奴はめったにいない。マジメな話をしているところでメシを食いだす人間なんて――。

 そこで不意に大切なことを思い出した。

 秋穂ちゃんやアオイに経過報告をしなくては。

 無茶言って飛び出して来た手前、そこはちゃんとしなければならない。

 携帯を取り出す。

 圏外。

「あれ、ハルちゃん、誰かに連絡?」

 そういえばここは地下だった。ということは、連絡を取るためには外に出なくては。

「今日、集まりがあるって言ったでしょ?」

「ああ、そういえばあるって言ってたね。それ、これからなの?」

「いや、もうさっき集まったんだけど、シゲルって名前が出てきたところで飛び出してきちゃった」

 瞬間、坂林は呆れたような顔になった。

「あの、それはマズイんじゃない?」

「大丈夫よ。みんな、了承してくれたから。結果報告が条件だったけど。それでほら、今から電話をしようと思ったんだけど」

 電波が立たない。

「それじゃあ、ゆっくりしてる場合じゃないね」

 坂林は急いで手に持っていたチーズバーガーを口へと押し込む。

「……ま、いいさ。どうせ五、六分くらい遅れたところであまり変わらないだろうから」

 とは言っても、もう坂林の手からはチーズバーガー消えていた。

 しょうがない。それじゃあ、あたしもポテトを食べるペースを上げなくては。もっとも、元々のペースが遅いので、完食まではあと数分かかるだろうけれど。

「そういえば、坂林くんはアオイさんのこと、知ってるの?」

 アオイは確か飯野明日香の向かいの家に住んでいたとのことだった。それならば、当然坂林もアオイのことを知っているはずである。

「アオイさん?」

 ストローを咥えながら、坂林は顔をしかめた。

「知らないの?」

「いや、どのアオイさんかわからない限りはなんとも……」

「ああ、小島アオイ。あんたの家の前に済んでたっていう」

 即座に坂林の表情は変わった。しかめっ面から笑顔へと。

「ああ、アオくんね」

「アオくん?」

 思わず吹き出す。あのツンツンヘアーの男が君付け?

「アオイくんのことさ。僕がまだ両親と住んでいたときは近所では彼、アオくんって呼ばれてたんだよ。まだ中学生だったからね、その当初は。今はさすがに、そうは呼ばれてないと思うけど」

 そういえば、あたしも近所ではハルちゃんって呼ばれてた。拓人もおばちゃんたちからたっくんという愛称で可愛がられていた。というか、拓人の場合、その愛称は現在進行中だ。近所のちびっ子から奥様たちまで、拓人のことを知ってる人物は彼をたっくんと呼ぶ。

「あたしは大学生になってもくん付けされてるやつを知ってるけどね」

「へ? 誰のこと?」

「ま、あんたには関係ないけどさ」

 坂林はフクロウのようにコクリと小首を傾げた。

「でも、そのアオイくんがどうしたんだい?」

「今日の集まりに来てたんだよ」

「へえ」坂林はフクロウのように目を丸くした。「男性にも声をかけたんだ。僕はてっきり、女の子だけかと思ってたよ」

「いや、あたしも女の子だけの予定だったんだけど……。今日、集まってみたら一人だけ男がポツンと」

「一人だけ? アオイくん以外はみんな女の子?」

「そう」

 そこで、なぜか坂林は苦笑いを浮かべる。

「はは、彼、全然気まずそうだった?」

「むしろ、すんごい図々しかったんですけど」

「だと思ったよ。彼の神経図太さは相変わらずのようだね」

 何かを思い出しているのか、焦点がどこか宙を待っていた。懐かしんでいるようにも見える。

「もう、かれこれ五年以上前の話なんだけどね、休みの日になると、彼の友達を数人を連れて……数人と言っても多いときは十人くらいかな、明日香と遊ぶという名目でうちにやって来るんだよ。それで上がりこんでくる。僕がせっかくの休日を部屋で満喫しているというのに、アオイくんがノックして入って来るんだよ。僕の部屋にあるゲームソフトを借りにね。うちにはソフトがたくさんあるから遊び場としては最適だったみたいだね。アオイくんがそう言っていたらしい。明日香から聞いたよ。その当初はかなり迷惑に感じていたけどね。ほら、二十歳前後ってまだ慈しみの心とかを持ち合わせてないじゃない。それで、リーダーのアオイくんのことを嫌悪してた時期もあったけど。やっぱり彼、変わってないみたいだね。全く。それはいいことなのか、悪いことなのか」

 ダムが決壊したみたいな勢いで思い出を語る坂林。『明日香』という名前が出てくるときだけ、妙に優しい顔になる。

「そうね。でも、あの人がいるとどんどん話が進んでくから助かるよ。自分の意見は迷うことなく口に出すから、参考にもなるし。まあ、みんながコーヒーやら紅茶やらを飲んでる中、一人だけスパゲティ食べんのは勘弁して欲しいけど」

 あたしは声に出して笑った。坂林もニコリと顔を弛緩させる。

「彼は悪気はないんだよ。根はいいやつだから」

「それはわかるよ。なんか、そういうオーラ出してるもん」

「うん。オープンなだけなんだよ、彼は。明日香の葬式のとき、号泣してた男はアオイくんだけだった。僕だって、泣かなかった。いや、泣けなかった。二十六歳の男としてのプライドが邪魔をしてね。人が死んだって言うのに、そんな下らないものを気にしていて。だから、そういうところは、僕よりもアオイくんの方が人間として優れてるんだろうね。アオイくんは泣くことができて、羨ましいと思った」

 確かに坂林は自由気ままに生きているように見えるけれど、あまり感情を表には出せないのだろう。いつもヘラヘラしてるのは、きっと素顔を隠すためなのだ。

 それに対してアオイは、あのカフェでも犯人に対する怒りを爆発させてたくらいだ。明日香さんのお葬式でも泣いたと、自分で言っていた。

「そうか、彼もこの事件を……」

 嬉しそうに目を細めた。自分の妹ために動いてくれる人間がいることが嬉しいのだろう。

「そうだね。犯人を捕まえたいって、あの人、熱弁してた。ぶっ殺してやりたいって」

「ハルちゃんと同じようなことを言うんだね」

「あたしは何もそこまで言ってないでしょ」

 坂林はうはははと笑った。あたしはポテトを食べ終えて、席を立つ。

「じゃあ、行こうか。みんなも連絡を待ってるだろうし」

「そうだね。早く知らせた方がいい」

 トレイを手に持つと、カップやポテトのケースをゴミ箱に流し込み、トレイはゴミ箱の上に置いた。

 店を出て、携帯を確認してみるとちゃんと電波は三本立っている。

 よし、報告をしなくては。


         8


 それから月曜日。僕は学校を休んだ。親友と兄を失って精神的に大きなダメージを受けた僕は、誰とも会わずに閉じこもっているいう演技をしなければならなかった。

 シゲ兄だけなら、まだ悲しみを乗り越えて学校に来ている健気な子、という評価を得ることができる。しかし、その上親友を失っても尚、学校に行っては、それはさすがに神経の図太いやつ以外の何者でもない。

 学校を休んでも、勉強に関しては何の問題もなかった。僕はもう小学校のうちに覚えるべきことはだいたい覚えてしまっている。教科書の類は算数も国語も理科も社会もシゲ兄のお古で一通り目を通してあるのだ。

 それに唯一僕と同程度の能力を持っていたサヤちゃんも、今はもういない。だから、誰かに追い抜かれるということもない。

 僕は朝食のときや洗面のとき以外、ほとんど時間自室にこもっていた。食事をとるときも無言。昼食、お母さんも無理に話題を作ろうとはしないので、ダイニングにはテレビの音だけが響いている。

 アキ兄はちゃんと学校に行ったので、お母さんと二人きりの寂しい食事。僕はそれを済ますと、また部屋に戻った。

 自室では、これと言ってやることがなかったので読書をしていた。外国の、主人公が仲間たちと一緒に冒険をするという安直な児童向け小説。クラスメイトの一人がおもしろいと言って薦めて来たので、図書室で借りて中頃まで読んでいたのだけれど、大しておもしろくない。

 それでも感想を聞かれたときに答えられないとまずいので、しっかり最後まで目を通さなければならない。平凡なやつらと話を合わせるのは大変だなぁ、とつくづく思った。

 と、そこに携帯電話が鳴り響く。見慣れない電話番号。番号の配列からして相手も携帯だということはわかるのだけれど。不審に思いつつも、とりあえず出てみる。

「もしもし」

『もしもし。鈴野シンイチです』

 僕は顔を顰めた。何で、シンイチくんから電話がかかってくるんだ?

「ああ、はい。どうかしたんですか?」

 考えるよりもまず、用件を聞き出さなくては。

『ちょっと聞いておきたいことがあるんだけど、今、大丈夫かな?電話に出れるってことはもう家に帰ってるってことだよね?』

 もう家に帰ってる? ずっと家にいた僕はその言葉に違和感を感じたが、そういえば今日は平日なのだ。シンイチくんは、今日も僕は平常どおりに学校に行ったのだと思ったのだろう。

「あ、いえ、今日は調子が悪かったんで学校を休みました……」

 わざとらしく弱弱しく言ってみせる。

『え。あ……ごめん。調子悪いときに電話かけちゃって。じゃあ、また日を改めてかけ直すよ』

「いや、大丈夫です。家にいる限りは、落ち着いていられるんで」

 サヤちゃんの言っていた症状を思い出す。家でジッとしていれば全然平気なのだけど、学校に行こうとすると吐き気に見舞われるという精神のダメージがもたらすショック症状。僕も今そういう状態なんだと言う風にシンイチくんに思わせる。

「それで、聞いておきたいことって何ですか?」

 僕はシンイチくんに携帯の電話番号を教えたことはなかったが、恐らくサヤちゃんの携帯か、あるいはメモ書きのようなものから手に入れたのだろう。そこまでして僕に聞いておきたことというのはいったい何なのか。

『うん。実はね、シゲルが事故にあった日、事故が発生した時間。君はどこにいたかということなんだ。……あまり思い出したくないことかもしれないけど、思い出してもらえるかい?』

 何て端的な質問だろう。シンイチくんはやはり頭がいい。もう核心にたどり着きつつあるというのか。

 しかし、僕だって間抜けではない。

「たぶん、そのときはコンビニにいました。雑誌を買ってたんです。それで、帰ってきたらシゲ兄が事故にあったって……」

 思い出して涙ぐむ、と言った感じに声を震わす。

『ああ、ゴメンよ。泣かないでくれ』そう言うが、それは聞くからに事務的な返答であり、内心ではそんなこと微塵も思っていない様子が電話越しからでも伝わってくる。『ちなみに、そのコンビニはどこだったか思い出せるかい?』

 ほらね。本当に悪いと思ってるのなら、ここまで突っ込んだことは聞いてこない。僕に気を使ってるフリをしながら、ずかずかと内面に入り込んでくる。

「近くの、交差点のところにあるセブンイレブンです。たいていはあそこで買ってるんで」

『なるほどね』鉛筆が紙の上を走る音が聞こえる。僕の証言をメモしてるな。『それから、サヤがき《、》とされた《、、、、》とき、君はどこにいた? まだ学校だったかい?』

「いえ、たぶん下校中だったと思います」

『誰かと一緒に帰ったのかい?』

 アリバイのあるなしが知りたいわけね。

「いえ、一人でです」

『ほう? そりゃまたどうして。いつも一人で帰ってるの?』

「その日は友達が、シゲ兄が死んだことで気を使ったのか、誰も僕に話しかけて来ませんでした。僕も、誰かと笑い話をしながら帰る気分ではなかったので、一人で帰りました。いつもはサヤちゃんと帰ってるんですけど、サヤちゃんも休んでましたし」

 その証言も嘘はなかった。あの日、クラスメイトたちのほとんどはあまり僕に近づいてこなかったし、サヤちゃんを説得する予定だったので、誰かと一緒に帰る気分ではなかった。

『その気持ちはよくわかるよ。この前も話したけど、仲のいい連中とつるんでも、気が晴れないんだよね。シゲルのことがどこか引っかかって。わかったよ、ありがとう。聞きたいのは今の二つのことだったから』

 そう言うとシンイチくんはそそくさと接続を切ってしまう。僕は釈然としない気持ちのまま、通話の切れた携帯を見つめていた。

 シンイチくんはどうやら本当に犯人探しを始めたらしい。

 しかも、僕に電話がかかってきたと言うのはどういうことだろう? シンイチくんは僕を疑っているのか? それとも聞き込みをすべき人間の一人として電話をして来たのだろうか。

 恐らく後者だろう。

 僕がピンポイントで疑われることなどありえない。

 シンイチくんは、とにかくシゲルくんやサヤちゃんと関係者を洗っているのだ。関係者の中に犯人がいる、という確信に基づいてではなく、たぶんその行動理由は他に何をしていいかわからないから、だろう。

 しかし、二つの事件を他殺として調査しだした者が現れたという事実には変わらない。

 サヤちゃんが死んだ翌日の土曜日、金属バットは隣の市まで行き、ゴミ捨て場に投棄してきた。さすがにもうこれで見つかる心配はない。

 僕に繋がる証拠は全て処分した。シゲ兄を襲ったときの洋服はまだ家にあるけれど、それでも奥深くにしまい込んだ。だから、シンイチくんがいかに有能であろうとも、僕にたどり着くことはできない。

 とはいえ、言動には気をつけなくては。あからさまな失敗よりも、自分でも気付かないような些細なミスの方が怖い場合もある。特に、勘の鋭いシンイチくんのような人間が相手のときは。

 今さっきの電話で、自分はおかしなことを言ってなかった再確認する。もし、何か矛盾することなど言っていたとしたら、早いうちに言い逃れを考えておかなくては。

 玄関の開く音が家に広がった。

 時計をを見ると、四時を過ぎていた。どうやらアキ兄が帰宅したようだった。

 僕はベッドから起き上がって、アキ兄がいるであろうキッチンへと向かう。聞きたいことがあったからだ。それはもちろんシンイチくんのこと。

 キッチンに到着すると、制服姿のアキ兄が立ったままコップに麦茶を注いでいた。

「よお、ただいま。もう、調子は治ったのか?」

 麦茶を飲みながら僕に問うた。

「今はそんなに悪くないけど、まだちょっとたまにフラつく」

 曖昧に笑って見せた。アキ兄は馬鹿だから僕の演技を見破られる心配はない。

 僕はふらりと椅子に腰をかけた。つられてか、アキ兄も僕の斜め前に座る。

「親友と兄貴を失ったんだから仕方ないさ。ゆっくりと気持ちの整理をつければいい。シンイチだって、何だかんだで今日、学校休んでたみたいだし。あいつも近いうちに親友と妹を失って、まだ気持ちの整理がついてないんだろうな。俺も、シゲルが死んだときは親友と弟を同時に亡くしたような気になったけど、おまえらは本当に兄弟と親友を同時期に失ったんだもんな。俺なんかと、比べ物にならないくらい辛いだろうさ」

「……シンイチくん、今日、学校休んだの?」

 僕はアキ兄のポエムをスルーして、重点に触れる。学校にも行かずに調査してるってか、シンイチくんは。

 そういえばそうかもしれない。シンイチくんから電話があった時刻、あのときはまだ中学校では授業中だったはずだ。

「そうだよ」

 僕の質問にアキ兄は微塵も気にする様子なく答えた。

 アキ兄にシンイチくんから電話を報告しようか迷った。この男にシンイチくんから電話があったことを知らせたらどういう反応を示すだろうか。

 シンイチくんが本気だということを知り、彼に協力しだすだろうか。それはまずい。いくら普段は無能なアキ兄であっても、僕やシゲ兄の兄には違いなく、隠し持っている有能さがいつ発動されるかはわからない。

 しかし、それよりも。

 アキ兄は二人が他殺だったとは信じていない。あるいは信じたくないと言っていた。ならば、アキ兄にちゃんと報告してアキ兄の意見を聞いてみた方がいいのではないか? もしかしたら、シンイチくんから何か有益な情報を引き出してきてくれるかもしれないし。

 吉と出るか、凶と出るか。まあ、凶が出ることはまずありえないだろうけれど。

「そういえば、ついさっきシンイチくんから電話があったよ」

 アキ兄は眉を顰めた。

「うちにか?」

「っていうか、僕の携帯に」

 さらに眉間の皺は克明になる。

「何でおまえの携帯に? そんで、何だって?」

「よくわからないんだけど、シゲ兄が事故にあったときとサヤちゃんが飛び降りたときにどこにいたか聞かれた」

 これだけ言えば、僕たちよりも頭の回転の劣るアキ兄であっても何が言いたいかわかるだろう。

 僕が伝えたいのは、シンイチくんが僕に牙を向けてきたという事実。

 すっかり僕の演技に騙されているアキ兄は、僕がシゲ兄を殺したかもしれないなんて考えもしないだろう。

 さて、アキ兄はどういう反応を示すか。

「それ、本当だな?」

 僕が頷いたのを確認すると、アキ兄は顔を顰めたまま、自らの携帯を取り出すと誰かに電話をかけ始めた。

「もしもし、俺だけど」

 静かな室内では、携帯から発せられる通信相手の小さな声も聞き取ることができた。

『もしもし。どうしたの、アキラくん』

 声は携帯を媒体としているせいで、やや濁っていたが、それでもその声がシンイチくんのものであることはわかった。

「おまえ、アリバイ確認とか言って電話してきたんだってな? 今、聞いたよ」

 ほほう。僕は内心、細く笑んだ。なるほど、アキ兄はそう出るか。

『ああ、そのことね』

 シンイチくんは気楽そうにそう呟いた。

「アリバイ確認ってどういうことだよ。おまえは俺たちのこと疑ってんのか?」

 いきり立った様子で尋ねた。

 『僕のことを』ではなく『俺たちのことを』と言う辺りからアキ兄は僕のことを少しも疑っていないということが推測できる。

『ちょっと待ってよ。逆だよ、逆。むしろ、俺は犯人じゃなさそうな人のアリバイを確認して、真っ白にしておこうって狙いなんだよ。消去法ってやつさ』

 さすがのシンイチくんも、アキ兄の口調に焦ったように答えた。

「なるほどな。疑わしいやつは最後まで取っておくってわけか。ところで、俺のところにはまだアリバイ確認の電話が来てないようだけど、ひょっとしてその最後のお楽しみが俺なわけ?」

 アキ兄は不機嫌そうに、そして嘲笑気味にそう言った。

『そ、そういうわけじゃないよ。ただ、俺は今、サヤのクラスメイトを洗ってるんだ』

 僕はその言葉に、耳をそばだてる。

「どうして、またサヤちゃんのクラスを?」

『サヤとシゲルは同じ小学校に在学中だった。だから、単純に考えてもし犯人がいるとするならば、南小関係者の中にいると考えるのが妥当だと思うんだ。それなら、もっと限定してサヤと深い関係を持った人物、それも女子に絞ろうと思ってね』

「は? 女子? どうして」

『俺がまず考えたのは、なぜサヤは殺されたかということだった。そこでパッと思いついた動機ってのが嫉妬だった』

「確かに確かにサヤちゃんは頭もよかったし、運動神経もよかったさ。それを誰かが嫉妬して、サヤちゃんを殺したと?」

『その通り』

「んなわけねえだろ。第一、それでどうして女子に絞れるんだよ。男子だって嫉妬はするぜ」

『けど、普通、男子は女子に嫉妬したりしないと思うんだ。だから、もし犯行の動機がクラスメイト同士の嫉妬によるものだったとしたら女子っていうキーワードまで絞れて来るんだ』

「はは、酷い推理だな」

 アキ兄は笑っていた。

 しかし、僕は固まっていた。

 シンイチくんは推理でサヤちゃんを殺した動機が嫉妬によるものだと言っていた。それははなはだ見当はずれもいいところなのだけれど、しかし動機だけで言えば見事別の的を射ていた。僕はシゲ兄を嫉妬を理由に殺している。

「それじゃ、シゲルはどうして殺されたんだ? また嫉妬か?」

『違うよ。もし、犯人がサヤのクラスの女子だと仮定するならば、たぶん犯人もシゲルに告白をしたんだ。そしてフラれた。その腹いせに』

「そんな理由で人を殺すかよ」

 殺すんだよ。

 僕はサヤちゃんをその理由で――。

 違う違う違う違う。

 サヤちゃんを殺したのは口封じのためで、仕方がなかったのだ。

『まあ、何だかんだ言っても、実際はアリバイ確認をするに当たって、南小のやつで電話番号がわかったのがサヤのクラスメイトだけだったっていう理由も関係してくるんだけどね。今の嫉妬云々というのはは後付のこじ付けみたいなものなんだけど』

「何だよ。確信があって言ってたんじゃないのか?」

『確信なんてないさ。そもそも、犯人が南小の関係者かどうかってことすら怪しいんだから。ただ、一つだけ考えたことがあるんだ。もちろん、これも俺の空想の話であって、何の根拠もないわけだけど、この前の夜、うちからバットを持ち去った理由の解釈もすっきりできる』

「バットって、シゲルが使ってたっていうアレか」

『そう。聞いてくれるか』

「ああ、話してみろよ」

『要点だけ言おうか。はっきりしてるのは二つ。一つ目、サヤが殺された理由と言うのは犯行を目撃してしまったから。二つ目、うちからバットが持ち去られたのは、そのバットが何らかのトリックに使われた重要な証拠だったから』

 再びの的中に、僕は軽い目眩を覚えた。

「……順を追って説明してくれ」

『シゲルが撥ねられたとき、サヤは事故現場のすぐ近くにいたんだ。そしてシゲルがトラックに轢かれる瞬間を目撃してしまう。これはアキラくんも知ってるだろ?』

「聞いたよ」

『そこでだ。仮にあの事故が人為的に起こされたものだったとしたら、犯人はあの場にいたことになるだろ?』

「ちょ、ちょっと待て」声を荒げるアキ兄。「事故が人為的なものだと仮定するのはいいとして、どうしてそこから事故現場に犯人がいたことになるんだ? 事故が起きるように自転車に細工をしたとしたら何も事故現場にわざわざ足を運ぶ必要はないだろ。むしろ、怪しまれるかもしれないというデメリットの方が大きい」

『自転車に細工なんて、そんな可愛いものじゃなかったんだよ、恐らくね』

「どうして言い切れる?」

『それは自転車の細工じゃ、例えばブレーキ線が切れるようにしておいたとしても、それがいつ発生するかは計算なんてできないだろ? それに、ブレーキがおかしいとシゲルに感づかれる可能性もある。その上、事故が起きたのはあの交通量の多い大通りだった。たまたまあそこでブレーキが切れたということも考えられなくもないけど、そう考えるよりはあの事故は犯人が直接手を下したことで起きたものと考えるほうが自然だ』

「……その直接手を下すってのが、あのバットを使ってってことか」

『そう。犯人はシゲルが目の前を通り過ぎるタイミングを狙って、恐らくバットを突き出したんだ。突き飛ばされたシゲルは道路の方に自転車ごと倒れこむ。あとは、あそこは交通量が多いからね。倒れた瞬間車が来てドカーンだよ』

 見事な推理だと思った。まるでサヤちゃんからその話を聞いたんじゃないかってくらいキレイな推理だった。

「それで、サヤちゃんはその犯人がシゲルを突き飛ばす瞬間を見てしまった。だから口封じのために殺された。……おまえの言いたいことはつまりこういうことだな?」

『そうだよ』

「なるほどな。それならば確かにサヤちゃんが殺された理由、それからバットが持ち去られた理由もわかる。だがしかし、おまえのその推理には大きな問題も残る。それは、どうしてサヤちゃんは犯人を目撃したにも関わらず、そのことを警察に言わなかったか、だ」

『そこも抜かりはないよ。可能性は三つ考えられる。一つは、サヤは本当は何も見てなかったのだけれど犯人が見られたと思い込んだというもの。二つ目、サヤは目撃をしたはしたのだけれど、はっきりとは見えなかった。だから警察にも明言することができなかった。……そして三つ目は、犯人が知っている人物だったから警察に言うことを躊躇してしまった。この三つだ』

「一つ目と二つ目は、まあよしとしよう。けど、三つ目のはおまえ……」

『結果的に言わせてもらうと、僕は三つ目の可能性が高いと思う。理由は……ここでバットが関係してくるんだけれど、シゲルのバットを拝借できる人物なんて言うのは、やはり南小の関係者じゃないとありえないからだ。あのバットがどこに置いてあったのかはわからないが、教室であっても体育倉庫であっても、部外者がそう易々と忍び込める場所ではないからね。となると、当然サヤも犯人の顔を知っていたことになる。だから、果たして嫌疑がかかるようなことを言っていいのかどうか判断しかねた。そうしている間に、サヤは犯人の手にかけられてしまったんだ』

 正確にはあの日、僕はサヤちゃんに姿を見られていない。しかし、サヤちゃんは僕が犯人であるということを知っていたのは事実だ。そしてサヤちゃんは証拠がないことを理由にまだ明言はせずにいた。だから、シンイチくんの言っていることは幸いにしてほとんどが空論なわけだけれども、性質が悪いことにシンイチくんの導き出した結論はまたしても正解に限りなく近いものだった。どうして全くもって見当はずれな推理から、限りなく真相に近い答えを出すことができるのだろう。シンイチくんの持っている天性の才能なのか。それとも、死んだサヤちゃんがシンイチくんに力を貸しているのか……。

 そしてさらに問題はバットだ。

 シゲ兄のバットから、ここまで特定されるとは。

 不意に気付く。

 シンイチくんはあのシゲ兄のバットがどこにあったのかを知らないようだけれど、果たしてアキ兄はどうなのだろうか?

 もし、うちの倉庫にしまってあったことを知っているのならば非常にマズイ。いや、マズイなんてものじゃない。その事実がシンイチくんの推理と結べ突けば僕がシゲ兄を殺し、そしてサヤちゃんの命を奪ったという真相に直結する。

「となると、問題はどうしてシゲルは殺されなければならなかったか、だ。正直、俺はシゲルのことをそこまで恨んでいる人物なんて思いつかないんだが」

『それは、俺もだよ。あいつはああ見えて気配りができるやつだったから、みんなから好かれてたと思うよ。少なくとも、俺が卒業する一年前まではね。……そう、そこがどうしてもわからないんだ。いったい、誰がシゲルに殺意を抱いたのか』

「……待てよ。シンイチ、おまえさっきサヤちゃんは嫉妬で殺されたって話しをしたよな? シゲルも、そうなんじゃないのか?」

『え?』

「あいつは、恐ろしいくらいに優秀な男だっただろ。兄である俺すらも追い抜いていくくらいの。嫉妬の対象に、なり得るんじゃないのか?」

『シゲルに嫉妬か。……でも、シゲルが飛びぬけてるのはみんな当然のことのように受け止めてるんじゃないのかな。確かにあいつはすごいけど、でもあいつはやっぱり天才なんだし、少なくとも俺はシゲルがすごいのは『普通のこと』として受け止めてたけどな』

 受話器を握るアキ兄の顔に陰が落ちた。

「俺は今まで何度もシゲルに嫉妬してきたよ」シゲ兄に追い抜かれるのが怖いと言っていたアキ兄の言葉を思い出す。「殺そうなんて思ったことは一度もないけど、それでもいなければよかったと思ったことは何回かあるぜ、俺。邪魔とかムカつくとかそういう次元じゃなくて、存在が許せないって気持ち」

『…………』

 電話線の向こう側にいるシンイチくんの固まっている様子が目に見えた。僕ですら、数秒の間瞬まばたきをするのを忘れていたくらいだ。

「あいつは中学、二月の頭に私立受かってんだけど、同じとこ受けて落ちたやつが嫉妬のあまり――ってことは考えられないか?」

『なるほどね。受験を経験してない俺は、二月が受験シーズンであるってことをすっかり忘れてたよ。その線で当たってみよう。そうか。シゲルに劣等感を感じた犯人は逆恨みして――』そこでぴたりとシンイチくんは黙った。『ん、いや、でも――』

「どうした?」

『いや、シゲルに劣等感を感じるなら何も学力だけじゃないんじゃないかなって思って。あいつはスポーツ万能だったし、整った顔立ちもしていた。シゲルのせいでスポーツで活躍できないやつとか、シゲルのせいで好きな子に振り向いてもらえないやつとか、そういうやつもシゲルに嫉妬してるんじゃないかと思って。サヤの説と同様に』

「運動神経いいやつは片っ端からシゲルに殺意を抱きえるってわけか?」アキ兄は苦笑いを浮かべた。「学力なら今は受験シーズンだから、それでより一層シゲルのせいで追い詰められたってのはわかるけど、何でスポーツとか恋愛の問題が今更持ち上がるんだよ。体育はいつも通り行われてるだろうし、恋愛にしたって季節は関係ない。何も、卒業式を間近にして急な殺意を覚えるようなできごとは起きないはずだ」

『確かにスポーツは関係ないかもしれないけど、恋愛の場合は、二月というのは重要な月だよ』

「二月……おまえが言いたいのはバレンタインデーのことか?」

『そうだね。そして、今、俺の中で一つ繋がったピースがあるんだけど、バレンタインデーの日、サヤはシゲルに告白をした』

「聞いたよ。じゃあ何か? おまえはサヤちゃんを狙う男がシゲルに嫉妬して殺したって言うのか?」

『あるいは、ね。そして、そうするとなぜあの事故が起きた日、サヤは事故現場の近くにいたのか想像がつく。犯人に呼び出されたんだよ。犯人はサヤの前でシゲルの存在を消そうとしたんだ。シゲルという華やかな存在を血で塗りつぶすためにシゲルの死を見せ付けたんだ』

「はは、まさか。シゲルの存在を消す? わざわざ呼び出したりしたら怪しまれるじゃないか」

『けど、ただ殺しただけじゃサヤの中のシゲルは一生消えない。シゲルを思い出させたくない存在に仕立てる必要があった。だから、犯人は怪しまれることを覚悟でサヤの目の前で殺したんだ』

 サヤちゃんに恋愛感情を抱いている者が犯人。もはや笑うしかない。そこに至るまでの過程は大きく道をはずれ迷走してるにも関わらず、最終的には正しいゴールにたどり着く。

『あとは、そうだねぇ……犯人はどうしてシゲルのバットを凶器に選ぶ必要があったのかっていう点が未解決か。バットなんか自分の家に一本くらいあるだろうに。それとも、犯人はバットが手元になかったのかな。学校に置き忘れたとか、あるいはそもそもバットを持っていなかったとか』

 僕は自分のバットなんて持っていなかった。シゲ兄やアキ兄と混ざって野球をやることがなかったため、僕はグローブすら持っていない。

『もしかしたら、偶然家にシゲルのバットがあったとか。間違えて持って帰ったりとかしててさ』

 はははははははは。

 その通りだよ、シンイチくん。

 うちにあるバットが偶然シゲ兄のものしかなかったんだよ。

 シンイチくんは僕が犯人であることをサヤちゃんから聞いてるのではないだろうか? じゃなけりゃこんな無茶苦茶な推理で真実が導き出されるわけがない。

『要点をまとめようか。犯人はたぶん男だね。それもサヤに好意を抱いていた、あるいはシゲルのことをライバル視していた。南小の関係者で、サヤとシゲルに面識を持っている。シゲルのバットを使わなければならない理由があった』

 途端、アキ兄はどこか一点を見つめて目をパチパチと激しく瞬かせた。

 そして、ゆっくりと僕を見る。

『俺はシゲルとサヤの共通の知人を洗ってみるよ。特に南小関係者を中心にね』

 シンイチくんのその声は、恐らくアキ兄の耳には届いていないだろう。なぜならアキ兄は僕を見たまま固まっていたから。

 そりゃそうさ。これだけのヒントがあればどんなに間抜けで把握力のないやつだって答えを見つけ出すことはできる。

 アキ兄も始末しなければならないのか。それならばシンイチくんも泳がせておくのはまずいんじゃないだろうか。

 とうとう僕の周りには親しい人がいなくなるのか。自嘲気味に笑う。

 その感情は、僕の内部からあふれ出し、口元を僅かに綻ばせた。それを見たアキ兄はハッとしたように受話器を持ち直した。

 ああ、シンイチくんにチクるつもりですか。それならばその前にその口を包丁でかっ裂いてやろう。大丈夫。お母さんは今、どこかに出かけている。いきなり変な男が入ってきたことにすればいい。その男がアキ兄を死に至らしめ、僕の腕と腹部に何針も縫う大怪我をさせた。そういう状況を作り出すのだ。

 僕は立ち上がってアキ兄に近づく。

「シンイチ」

 集中力を高める。包丁を手にする前に捕まっては終わりだ。力勝負じゃ、さすがに勝てない。

『何? 誰か怪しいやつ、いた?』

 一気に流しの下の棚を開け、そこから包丁を取り出しアキ兄の首に突き立てる。これはシミュレーション。あと数秒後には現実になる。

「怪しいやつも何も……」

 思いっきり床を踏みしめ、流しの前まで二歩で移動する。

「犯人はな……」

 棚を開く。黒色の取っ手が並ぶ。僕はそこから無造作に一本を選び、

「……いないんだよ」

 は?

 僕は唖然として固まった。

「言っただろ。やっぱりこれは事故死なんだ。シゲルもサヤちゃんも不慮の事故だったんだ。そこに第三者の介入はない。だから、犯人捜しなんてしたって無駄なんだよ」

『何だよ、いきなり。今までマジメに俺の話を聞いてくれてたじゃないか』

「おまえの話は仮定が多すぎるんだよ。しかもそれだけ適当なことを並べても犯人を特定する有力な手がかりはなかったろ」

『ちゃんと俺の話聞いてた? 有力な手がかりはあるでしょ。犯人は男でシゲルとサヤと面識があって――』

「それは単に絞り込んだだけだろ。それだけじゃ犯人は捕まらない。いや、そもそもいないんだから捕まえられるわけないんだけどさ。おまえがやってることは時間の無駄だし、関係のない人に嫌疑をかけてその人を不愉快にさせる」

『べ、別に誰彼構わず疑ってるわけじゃないよ。それに、俺は別に誰も不愉快になんか』

「少なくとも、俺はおまえにシゲルが死んだ日のことを思い出させられて不愉快な思いをさせられたんだがな。おまえが一人ではしゃぎ散らしてる分には構わないけど、他人に迷惑をかけるのは止めろよ」

『そんな、アキラくん……。いきなり、どうしたんだよ』

「どうもしないさ。ただ、そろそろ事故の話をするのも億劫おっくうに感じて来たから話を切り上げようと思ってね」

『……そうかい。わかったよ。気分を害させて悪かったね。ごめん。それじゃ』

「じゃあな」

 シンイチくんは吐き捨てるように別れの言葉を告げると、すぐにプーという電子音と共に通信を遮断した。

 僕は包丁から手を離すと、棚を閉じる。

 アキ兄はコップの中に半分ほど残っていた麦茶を一気に流し込むと、コップを片付けるために立ち上がってこちらに近づいてきた。

「シンイチの声も聞こえたか?」僕は黙って頷いた。「そうか。けどな、あいつの言ってることは妄想話だ。信じるに値しない」

 コップを流しに置いたアキ兄は、そう僕の隣で呟くように言うと、そのままキッチンの出口に向かう。

「シゲルは事故死だったんだ。誰が悪いわけでもない。あいつの運が悪かっただけなんだ」

 最後にもう一言だけ言い残してアキ兄はキッチンを出て行った。


         9


「あ、もしもし、秋穂ちゃん? もう、みんな帰っちゃった?」

 かれこれあのカフェを飛び出して二時間半になる。

『んーん。まだいるよ。みんな、ハルちゃんからの電話を待ってたの。自己紹介だけで終わっちゃ、帰るに帰れないしね』

 そういえば、あたしは大きな収穫を得た気で飛び出してきたけど、みんなは何のことだかさっぱりわかっていないのだ。まずは、シゲルという人物がどういう人物なのかを説明しなければならない。

「あ、ちょっと待って」

 あたしは受話器から顔を離すと、隣を歩く坂林に話しかける。あたちたちは今、秋野原駅を目指して徒歩していた。

「坂林くん。まだ、被害者の知り合いたちが集まってるらしいんだけど、一緒に行かない? あたしは詳しい話をするために、一度みんなが集まってるカフェに行こうと思うんだけど」

 坂林は困ったように唸った。

「うーん。でも、僕が行っても仕方なくないかい? 僕の持っている情報は全てハルちゃんだって知ってることなんだから」

「何言ってんのよ。あんただって明日香さんを殺された被害者の一人でしょ?」

「そうは言ってもねぇ……。女の子に囲まれるのは嬉しくはあるけれど、精神が磨耗まもうされるからね」

「男は一人じゃないわよ。アオイさんがいる」

「だからより行きたくないんだよ。僕の素性を知ってる人物に会うのは極力避けたいんだ。その上、彼は何を喋りだすかわからないから一層――あ、坂林ってのが僕ってことはアオイくんには言わないでくれよ」

「えー、どうしようかなぁ。坂林くんが近くにいないと、あたしアオイさんに坂林くんの過去のことを聞いちゃうかも」

 あたしは横目で坂林を見た。苦虫を噛んだような顔でうめいている。

「……うぬぬぬ。脅しかい……わかったよ。じゃあ、こうしよう。僕がシゲルくんの素性を特定したら、その情報を持って君たちの集まりに顔を出すよ」

「それ、顔出したくないからってわざと長引かせたりはしない?」

 坂林は不服そうな顔をする。

「僕はそんな卑怯なことはしないよ。それに、今はシゲルくんの化けの皮が剥がれかけてるって話を聞いてモチベーションは上がって来てるところなんだから、どんどん調べちゃうよ」

「それなら今日中に特定しちゃってよ」

 笑って言う。横を歩くフクロウは苦笑する。

「できる限りならそのくらい早く特定したいけど。でも、彼に関する情報は顔写真くらいなんだよ。契約も全て逸見シゲル名義で行ってたしね。かと言って、逸見シゲルが彼の本名ではないみたいだし。東京都の高校中学を中心に、七、八年前の証明写真を集めて照合してる。さすがに小卒はありえないからね。少なくとも中学校の証明写真は残ってるはずだ」

 そんなもんどうやって調べるんだよ、と疑問に思うが、いろいろ横の繋がりがあるのだろう。探偵同士の詮索のし合いはタブーとか言ってたけど、それでも坂林に手を貸してくれる人間はいるのではないだろうか。

「がんばって。応援してるから」

 そこであたしは右手に電話を持っていることを思い出す。

「あーっと」慌てて耳に押し当てる。「ごめんごめん。ちょっと坂林くんと話してて」

『はは、いいよいいよ。今、隣にいるの? そのお客さんであると共に探偵の坂林さんって』

「うん、いるよ。それでね、その坂林くんを今そっちに連れてこうと思ったんだけど、やっぱり本人が渋ってさ。今、調べてもらってことがあるんだけど、それが特定できたらちゃんと顔出すって」

『へえ。じゃあその新しい情報と坂林さんの登場を楽しみに待ってるって言っておいて』

「言っておくけど、坂林くんは見た目は探偵というよりもオタクだよ」横から不審そうな眼差しが飛んでくる。「まあ腕は確かだけど。調べてもらってることが特定されれば、展開は一気に進むかもしれない」

『早く、事件を解決しないといけないからね。がんばってもらわないと』

「そうだね」心から頷く。これから先は坂林の努力次第。「あ、それからあたしも一旦そっちに合流するよ」

『あ、そう? でも、ハルちゃん疲れてない? こっちを出てくときはダッシュだったけど』

「大丈夫だよ。事件を解決するまではおちおち休んでもいられないよ」

『そうだね。じゃあ、待ってるよ。あたしたちはまだあのカフェにいるから。駅に着いたらまた電話して』

「了解。じゃね」

『うん。また』

 電話を切ると、ちょうど秋野原駅に到着した。あたしは携帯をポケットにしまいながら坂林を見やる。

「秋穂ちゃんも坂林くんに期待してるって」

「それにしちゃ、僕のことをオタクとか言ってたみたいだけど」

「だってそれは事実じゃん」

「いや、まあ広義ではオタクかもしれないけど……」

 駅構内に入って切符は買わずに改札はプリペイドカードで通り抜ける。坂林はあたしの言葉に肩を落としていた。

「あ、僕、東京方面だからこっちだ。ハルちゃんは土袋に戻るんでしょ? ならここでお別れだね」

 改札を抜け、階段を目の前にして坂林はあたしに言った。

「あ、そうなの? あんたの自宅ってそっち方面なんだ。へぇ……つーか、それじゃあんた結構いい所に住んでるわけだ」

「そうでもないよ」

「そうでもあるでしょうが。一等地に住んでるの? ねえ!」

「ほら、ハルちゃんの方、もうあと一分くらいで――あ、ほら、電車来たよ」

 ガタンゴトンキキーと音を立て、土袋方面行きの電車が到着する。

「あ、もう。タイミングの悪い。また今度会ったときには詳しく聞くからね。いったいどんな豪邸に住んでるのか」

「豪邸なんか住んでないよ。ただのマンションだよ。というか、あの電車には乗らないの?」

「乗る! じゃあね。あいつの身元調べ、よろしく頼んだよ」

 あたしは階段を駆け上る。

「わかってるよ。じゃあ、また今度」

 手を振りながら階段を上り、電車に駆け込む。直後、プシューと音を立て扉が閉まった。ギリギリセーフ。

 さて、土袋に到着するまでの間にシゲルについての話をまとめなくては。

 あたしはつり革に全体重を預けて、話の要約に努めた。


         ※


 あたしが土袋に到着して秋穂ちゃんに電話をした頃には時刻を確認するとすでに五時になっていた。三時間前後みんなを待たせたことになる。そのことに関しては申し訳ない気持ちでいっぱいだった。けれどそれとは反対に、事件解決の糸口を見つけたと報告ができるという点で喜ばしくもあった。あたしは小走りで数時間前に訪れたカフェを目指す。

 駅から数分走ったところでそのモダンな感じの建物は見えてきた。ドアを開けるとチリンと鈴がなった。店員がこちらを見たので待ち合わせだと告げる。カフェの端の方のテーブル席に五人は相変わらず座っていた。

「みんな、ごめん」

 息を切らせながらあたしは元いた自分の席に座る。

「大丈夫? ハルちゃん」

 秋穂ちゃんがあたしの背中に手を当て、気気遣ってくれる。

「星川ちゃん、そんな焦んなくてもよかったのに。俺たちは俺たちでのんびりやってたから、急がなくても全然大丈夫だったぜ」

 アオイの前にはチョコレートケーキが置かれていた。それを見てあたしは少なくともアオイは本当にのんびりやっていたのだと察する。

 まあいくらみんなが本当にのんびりやっていたとしてもそれが人を待たせていい道理にはならないわけだけど。

 店員があたしの元にオーダーを取りに来る。ちょうど喉が渇いていたのでレモンティーを注文した。

 それからあたしは早々に話を切り出した。

「結果から言うと、あたしが今会ってきた人は犯人ではない可能性の方が高いと思う」

 みんなそれぞれ肩を落としているように見えた。やはりあたしがあれだけ興奮した様子で飛び出していったので、みんな口には出さないが期待していたのだ。

「でも悪い知らせだけじゃないんだよ。さっき、秋穂ちゃんに電話でもちょこっと言ったけどその会って来たシゲルっていう人は多分大きく事件に関係していると思う」

「どんな風に?」

 アオイが話の詳細を求める。

「何か知ってるみたいだった。何かを隠してる。しかも、それは多分犯人を捕まえるための手がかり」

「……そのシゲルっていう人物はどんな人なんですか?」

 呟くように尋ねたのは照井アイちゃんだった。

「探偵よ。あたしの助っ人の坂林くんとは全く別の探偵ね。そのシゲルは容姿はいいんだけど、中身は偏屈家で嫌味な奴」

「イケメン探偵って漫画みたいね」

 そう笑みをこぼしたのは高村イズミさん。

「なるほどな。確かに探偵が犯人と繋がってるなんて、これ以上おもしろい展開はないな。そのシゲルっていう探偵と坂林くんっていう探偵の探り合いってわけね」

 アオイがそう暢気そうに言った。

「とは言っても、全然そのシゲルの正体はわからないんだけどね。坂林くんがいくら調べても彼に関する情報が出てこないって。そもそもわかってる情報が顔だけってのが問題なんだけど。今はその顔写真からこの付近の中学高校の証明写真と照らし合わせてしらみ潰しにやってるらしい」

「虱潰しって! 東京だけでいったいどれだけの中学高校があると思ってんのよ」

 秋穂ちゃんが驚きの声を上げた。

「さあ。でも、一応埼玉の方とか神奈川の方の方も調べてみるんじゃん? どうやって調べてるのかは見当もつかないけど」

「す、すごいですね。そんなことできるんですか。その坂林さんって」

 メガネっ子のカンナちゃんも感嘆する。

「まあ、あいつは何だかんだですごい人みたいだね。学生時代にネットで本職の探偵にスカウトされたって自慢してたよ、確か」

 へぇと女性陣がそれぞれ小さく声を漏らす。

「あ、でもさ。そういえば俺の家の前にもすごい人がいたんだよ。飯野ちゃんの兄貴なんだけどさ。すんげーゲーム持ってんの。ありゃオタクだよ。でもさ、何かパソコンもすごいらしくてさ、飯野ちゃんが言ってたけど何か最終的にはあの人も探偵になったとか言ってたな。今はどうかわかんないけど、もしかしたらその坂林って人の知り合いに、そいついるかもな」

 いや、あんたの言ってるそのオタクが坂林だから、と危うく突っ込みそうになったが、辛うじて口にチャックをする。つーか、やっぱ坂林くん、いろんな人からオタクって思われてんじゃん。

 そこに店員が近づいて来て、アオイの話が中断される。あたしの前にレモンティーを置いた。おお、ナイスタイミング。とりあえずアオイがそのかいの《、、、》に《、》ん《、》でいた《、、、》オタク《、、、》の話をし始めないとも限らないので、この辺りで話題を戻しておく。

「それでね。そのシゲルが言ってたんだけど、そいつも過去に友達とか妹さんを犯人に殺されてるんだって。みんなもそんな話は聞いたことないでしょ? 飯野明日香さんよりも前にこの連続殺人の被害者がいたなんて。だから、そのことの詳細を掴めれば事件は進展するはずなのよ」

「飯野ちゃんよりも前の被害者……? 手口はこの連続殺人と一緒なのか? つか、それっていつの話だ」

「詳しくはあたしもわかんない。でも、坂林くんの話だとシゲルが探偵になった理由ってのがその犯人を捜し出すことだったらしいから、あいつが本当に二十五だったと仮定すると……だいたい十年前ね」

「十年? 俺が十歳の時にはもうこの事件の犯人は殺人をしてたってのか? いったいいくつなんだよ、この犯人は。その最初の殺人をしたのが十五歳前後と見積もっても、今、二十五以上か」

「シゲルと同い年か、シゲルより年上の男ってことね。まあ、犯人とあいつは顔見知りみたいだから年が近いんじゃないの?」

「そうか。やっぱ二十五前後か。二十五じゃ、普通はもう大学も出てるよな。つーことは社会人ってことだよな」

「そうなるね。普通に考えればだけど」

「んんー」少し考え込むような素振りをアオイは見せた。大げさに顔を顰めている。「ちょっと星川ちゃん……つーか、秋田ちゃんと照井ちゃんにも聞きたいんだけどさ、その、エンコーとかやってるとお客さんからどのくらいもらうの?」

 あたしたちは顔を見合わせた。

 いきなり何の話だ?

「あたしは人によるけど、あたしは目安としちゃ一時間五千くらいかな」

 とりあえず答える。

「うわ、たけー。スタジオに二時間入れるじゃねえかよ」口をすぼませ、声を上げるアオイ。「そっちは? 秋田ちゃんと照井ちゃん」

「あたしもそんくらいかなー」

「私もだいたいそんなもんですね」

 二人はこくんこくんと頷きながら答える。

「ああ、でもそれとは別に食事を奢ってもらったりとか洋服を買ってもらったりするよ」

 言うと、アオイはさらに目を丸くした。

「洋服って、一着何千円もすんだろ。そういえば女装して入れ替わりトリックを使うのに洋服のプレゼントがどうのこうのって言ってたもんな。ってことは、やっぱりか」

「やっぱりって何が?」

「犯人は会社員ってことだよ。それも、高給取りさ。犯人がどれだけ女の子たちにプレゼントを贈ったかは知らんけど、食事代とか諸々の経費ってのは結構出ると思うんだ。とてもじゃないがフリーターじゃ無理だよ。まあ、親と同居してるとか言うんならまた話は別だけど」

「言われてみれば、犯人も人間なんだから生きていくためにはお金が必要になってくる。それに被害者に近寄るためにもお金は必要になってくる。その財源がどこか、確かにこれは手がかりの一つになるかも」

「だろ? ちょっとは約に立つっしょ? 俺も」

 ちょっとどころか、大いに助かってる部分があるけどね。

「お金かぁ。あたしは、この仕事のおかげであんま気がつかなかったなぁ」

 隣で秋穂ちゃんがそう漏らした。

「あたしも学生なんでバイトとかはしてますけど、でも生活費がどうのって言うのは気が付きませんでしたよ」

「学生じゃまあそうだろうな。俺も高校時代は飯代とか親にせびってたし」

 アオイの高校時代か。今の金髪ピアスの姿からは何となく想像ができなかった。

「つーか、アオイさん高校出てるんだ?」

「ん? まーな。一応これでも一般的な人間だからさ。これでも地元じゃそこそこの高校に行ってたんだぜ。今は頭、全金ぜんきんだけど、高校時代はちゃんと真っ黒だったし、ピアスの穴は開けてたけど、ピアス事態は付けてなかったしさ」

 やっぱり想像できない。マジメな生徒の格好をしたアオイなんて。

「ところでハルさん、さっきまであたしたち、この事件の被害者のお墓をみんなで回ろうって話をしてたんだけど、一緒にどう?」

 正面に座る泉さんがあたしに話しかける。

「ああ、そうだね。やっぱり、事件に関わる以上一回挨拶に出向いといたほうがいいね」

「予定いつごろなら大丈夫そう?」

「あたしは別にいつでも大丈夫だけど」

「一応、急だけど明日って案が出てるんだよね。ちょうどみんな用事がないって言うし。明日、どう?」

「うん、いいんじゃない?」

 そこでアオイが話に入ってくる。

「よし、じゃあ決定だな。明日、土曜日」

「明日って、時間はどうするの?」と秋穂ちゃん。

「今日と同じで二時に土袋でよくないか? あ、でも、どっか遠いところにお墓がある人いる?」

 アオイはざっとあたしたちの顔を見る。そこであたしは手を上げる。

「つーか、美樹ちゃんはまだお墓ないんだよね」

「あ、そーか。……じゃあどうする?」

「うん、でも、美樹ちゃんはまた今度でいいよ。お墓ができてからで。明日、みんなの予定が付くんだったら挨拶して回ろ」

「うん」

「だな」

「んん」

「ですね」

「……はい」

 一同が静かに頷いた。

 それからあたしはレモンティーを口に含んだ。ずっと喉が渇いていたので、スーッと体中に染み渡っていく。程よい甘みが心地よい。

 氷がからんと音を立てた。その音を聞いて、あたしはその場が静寂に包まれてることに気付く。

 ありゃ。どうしよう。もうあたし、話すことは全部話したぞ。

「一応、あたしの話すことは以上なんだけど……」

 一騒ぎあった後の沈黙。やけに気まずい。誰も次の動作が取れないといった空気が流れる。何か話題を提供しようと思うのだけれど、雑談をする流れでもない。仕切り役のあたしが役不足みたいで、何か困る。

「んじゃ、解散ですか」

 雰囲気を読んでか読まずか、アオイがいきなり席を立ってそう口走った。

「誰か、まだ話したいことある? 俺はもう提供できる情報はないんだけど」

 そしてまたアオイはあたしたちの顔を見た。

 誰も何も言わない。

「誰も特にないようだから、じゃあ解散でいいか。行こうぜ」

 アオイのその促しによって、あたしも席を立つことができる。みんなも同じようだった。

 さすがはアオイ。本当に助かる。

「あー、ここのスパゲティはなかなか美味うまかったな。今度土袋に来たときはバンドのメンバーも連れて来るかな」

 独り言を言いながら会計に向かう。そののんびりとした口調が停滞した静寂をどこかへ追い払ってくれる。

「あたしもスパゲッティ食べればよかったな」

「おう、星川ちゃんも今度来たとき食べるといいよ」

 ニヤリとこっちを向いて笑った。その笑顔はまるで子供みたいな顔で、あたしもつられて笑う。見ると、イズミさんもカンナちゃんもアイちゃんも、そして秋穂ちゃんも微笑んでいた。

 あたしは会計を済ましながら思う。今日、こうしてみんなと会うことができてよかったな、と。


         ※


 坂林からの電話は唐突にかかってきた。

 午後十一時、机の上に置かれていた携帯から軽快な音楽が流れ出した。部屋でベッドに座ってテレビを見ていたあたしは急いで携帯に駆け寄った。画面には電話番号と共に『坂林』という文字が浮かんでいた。

 二つの可能性があたしの脳裏をぎる。こんな時間に坂林から電話がかかって来るということは急を要する知らせということだ。そしてその急な知らせというのは二パターンしか考えられない。いい知らせと悪い知らせ。

 次の被害者が出てしまったのか、それともシゲルに関する情報が掴めたのか。どちらにしろ話が進展するのは間違いない。あたしは通話ボタンを押した。

『もしもし?』

 受話器から坂林の声が聞こえた。慌てた様子から、やはり緊急の話なのであると察する。

「もしもし、あたし。どうしたの?」

『シゲルくんの身元が特定できた』

 パソコンのキーを叩く音が電話の向こうから聞こえてくる。

「ホントに? もう?」

『彼の本名はミツイアキラ。現在、年は彼の言うとおり二十五歳だった。ちなみに彼は慶陽志水になんて入学すらしていなかった。中卒だよ、彼』

 中卒……。高校中退ではなく、端から行っていない。

『さらに僕はシゲルくん――まあ便宜上、今まで通りシゲルくんって呼ばせてもらうけど――の過去についてさらに洗ってみたんだ。彼には二人兄弟がいる。ミツイシゲルとミツイトシという名前の二人だね』

 あたしは最初に言っていた『シゲル』のセリフを思い出す。

「……妹が殺されたって言うのは?」

『嘘だろうね。というか、今ざっと調べた限り、彼の周りで殺人事件があったという情報は得られなかった。つまり、親友が殺されたって言うのも怪しくなってきたわけだ』

 ヒントと言ってあたしたちに与えてくれたあの情報がそもそもでたらめだったってこと? フェアだとか何とか言っておきながら何て卑怯な。

『ただ……』

 坂林は妙に声を低くして言う。

「ただ?」

『彼の弟、ミツイシゲルが事故死している。ミツイシゲルが小学六年生、十二歳のとき。だからシゲルくん――ミツイアキラが十四歳、中学二年生のときだ』

 あたしは思考をフル回転させて状況を把握しようとする。

「死んだのは妹ではなく、弟だったってこと?」

『そういう解釈をすることもできるね。けど、調べていくうちにもう一人、彼の身近に不審な死を遂げている人物がいたんだ』

「不審な死? いったい誰?」

『ミツイアキラと友好関係にあったと思われる人物で、スズノシンイチという人物がいた。そのスズノの妹であるスズノサヤがミツイシゲルの事故死と前後して自殺している』

「ま、待って。何でいきなりそんなに知らない人たちの名前が出て来るの?」

 いくつもの名前が出て来て、頭の情報処理能力はすでにパンク寸前だ。

『仕方ないよ、この辺りは交錯しているんだ。ハルちゃんは基本的には頭がいいんだからよく聞いていれば理解できると思うんだけど、そのスズノシンイチと事故死したミツイシゲルも友好関係にあるんだ』

「……うん、理解できるよう頑張るけど。それでその二人がどうしたって?」

『その前に、シゲルくんの言っていた言葉を覚えているかい?』

 また唐突なことを言い出す。ただでさえこっちはいっぱいいっぱいだっていうのに。

「確か、〝死んだ親友の仇を取るためと死んだ妹を取り戻すため〟だっけ?」

『そう、その通りだよ。じゃあ今言った人物の中で、妹を亡くし、尚且つ親友をも失った人物は誰か? わかるかな?』

「待ってね」それぞれの人物配置を確認する。ミツイアキラ、ミツイシゲル、ミツイトシが三兄弟で、その上の二人と友好関係にあったスズノシンイチ。そしてその妹、スズノサヤ。この中で名探偵の出した条件に当てはまる人物は――。「スズノシンイチだね。あいつの言った条件と合致するのは」

『そう。つまり、こうは考えられないかい? 彼はスズノシンイチ《、、、、、、、》の《、》立場、、で《、》ヒント《、、、》を出してきた』

「……何で、そんなことを」

『わからない。けど、ここに何か重要なことが隠されてるんじゃないかと僕は思う。僕らを騙すのが目的だったら最初っから適当なことを言えばいいのに、わざわざ過去に自分の身近で殺人があったという事実を述べている。それに何か意図が隠されてるんじゃないかと思えて仕方ないんだ』

「……あの名探偵がどういう目的であたしたちにヒントを出したのか……か」

『それから可笑しな点はまだあるよ。シゲルくんは自分の身近な人を殺した『犯人』を見つけるために高校にも行かず探偵になったのだと言っていたのだけれど、ミツイシゲルは事故死、スズノサヤは自殺として処理されている。どちらも他殺ではない。つまり、犯人、、なんてのは《、、、、、》からいないんだ《、、、、、、、》。けどシゲルくんはどちらの人間の死を他殺によるものだと断定している。それはなぜか? そして、その確信を当時中学生だった彼はどのように得たのか』

「名探偵の身元がわかれば事件は一気に解決するかと思ってたのに、わかって見たらわかって見たで、謎がごろごろ出てきたってわけね」

『確かに、わからないことだらけだけど、全ての謎が解ければ、それが全て有益な情報になる。話は大詰めまで来たってことだよ。もうすぐ、もうすぐだ』

 犯人はもう尻尾を見せている。次はそれを掴むのだ。そして手繰たぐり寄せる。

『ピンポーン』

 不意にドアチャイムの音が鳴り響く。うちではなく、受話器の向こう側から。

『こんな時間に誰だろ。ちょっと待ってて』

 トン、と向こう側の受話器を置く音。それから坂林のドタドタという足音が遠ざかっていくのが聞こえる。あたしも、いったい誰だろとか思いながら受話器を耳に当てたままベッドに倒れこんで待機する。

 坂林も言っていたが、いよいよクライマックスだ。あたしたちが事件を解決することで美樹ちゃんたち被害者が救われればいい。犯人が逮捕されることで無念が晴れればいい。

 いくら犯人を捕まえたところで美樹ちゃんたちが生き返るわけではないし、その事実が天国にいるであろう被害者のみんなに伝わるとも限らない。それはわかっている。けど、あたしが納得するために、あたしがこの憤りを消滅させるためにあたしは最後まで駆け抜ける。美樹ちゃんのためにあたしは必死で捜査した。犯人が逮捕されるという結果だけではなく、その過程こそが重要なのだ。

『う、うわあああああああ』

 突如、受話器の向こうから悲鳴が上がる。

「坂林くん!?」

 反応はない。まだ玄関の方にいるのか、それとも……。

「どうしたの? 坂林くん!」

 ガシャーン。何かが落下したのか金属質な音が聞こえてきた。

 坂林が……訪問者に襲われてる……!

『うぐああああ。くううう』

 その声はだんだんと大きくなる。受話器のある方へと坂林が移動している証拠だ。大丈夫、死んではいない。

「坂林くん!」

『は、ハルちゃん……』

 搾り出したような声で坂林が返事をする。

「どうしたの!?」

『襲われた。犯人に』

「犯人って……怪我は?」

『大丈夫。命が危ないような怪我はしてないよ……。ただ、ナイフでやられて、頬をパックリやっちゃったみたいでね。救急車を呼ばないといけないから、切るよ』

 ブツ。プープープー。空虚な電子音が響く。

 坂林が……狙われた……。


         10


 あの電話の一件から数日が経ったある日、僕の部屋をアキ兄が突然訪ねてきた。あの電話以降、僕が二人を殺した犯人だと感づいたであろうアキ兄は僕とどこか距離を置いていたので、その訪問には僕も訝しまずにはいられなかった。

「大事な話がある」

 扉を開けると、アキ兄は真剣な表情で、けれどいつもと変わらない口調で言った。

「何?」

 僕はとりあえずアキ兄を部屋の中に招き入れると、僕はベッドに腰を下ろした。アキ兄は僕の勉強机から椅子を引っ張り出して来て僕と向き合うように座る。

「シゲルとサヤちゃんのことだ」

 予想をしていたとはいえ、やはり口にされると反射的に顔が歪む。

「それが?」

 僕が問うと、アキ兄はより一層顔に影を落とした。

「シンイチの意見を散々否定してきた俺が言うのもなんだけど、やっぱり二人の死は他殺だと、思うようになったんだ」

 何を今さら言い出すんだ。僕の中で不審はさらに強まった。

「おまえに聞いて欲しいんだ。そして理解して欲しい。シゲルとサヤちゃんの死には事故や自殺にしては可笑しな点が多すぎる。この前電話でシンイチも指摘していたろ?」

 僕は黙って頷いた。

 アキ兄の意図が全く読めない。

「それで俺も犯人を捕まえるために捜査をしようと思うんだ」

「はぁ?」

 思わず声を上げてしまう。

 犯人はこの僕だ。アキ兄もそれは気付いているはずだ。なのに犯人を捜すための捜査だって?

「このまま二人を殺した犯人を野放しにはできない。それじゃ、殺された二人の無念だって晴れないと思うんだ。それに、俺やおまえだっていつまでもずるずると引きずることになる」

 何を考えてるんだ? アキ兄は。

「おまえはシゲルが死んでから変わってしまっただろ? シゲルがいなくなった悲しさを、自分がシゲルの代わりになることで和らげようとした。けど、そんなことはしなくていいんだ」

 また得意の勘違いか……? いや、でも今回はあまりに――。

「おまえはおまえのままでいればいいんだよ。シゲルの代わりなんかする必要はない。おまえがどうしてもシゲルが必要なんだって言うのなら……俺が兄として、シゲルの代わりになって見せる」

 あまりに飛躍しすぎている。勘違いとかそういうレベルではない。だって、アキ兄は一度僕が犯人であるということを察したのだぞ?そしてその事実にたどり着けばもはや疑う余地はない。僕が犯人だということに気付けば、シンイチくんの言っていた疑問も全て解け、その全てが僕が犯人であることを示す証拠になる。なのに、なのに――なぜアキ兄はわざわざその事実を見ようとしない。

「俺は中学を卒業したら高校には行かず、探偵になろうと思ってる。シゲルは探偵になりたがってたからな。シゲルの代わりを務めつつ、シゲルの死の真相に迫る。まさに一石二鳥だよ」

 事実を見ようとしない? というか、アキ兄は別に犯人がいるということを自分に言い聞かそうとしている。

 気付いてしまった事実を書き換えようとしている。

 ああ――。

 そこで僕はぴんと来た。

「おまえは俺の大事な家族だ。これ以上、おまえを悲しませたりはしたくないし、おまえを失いたくない。だから、俺は探偵になり、この事件の犯人を捕まえる。シゲルを求めるのなら、俺はシゲルにだってなってやる」

 アキ兄は僕が全ての犯人だと気付いたからこんなことを言っているのだ。

 今、言ったようにシゲ兄を失ったアキ兄にとって僕は唯一残された兄弟。僕が捕まればアキ兄は一人になる。

 いや――それよりも。

 アキ兄は僕がシゲ兄やサヤちゃんを殺したという事実を認めたくないのだ。道徳的に言って、家族の中にそんな人間がいることを容認したくないのだ。

 つまり、これは逃避だ。

 アキ兄は中学でもトップクラスの頭を持つ。それなのに高校に行かないなんて、大金の小切手に火をつけるような、あるいはそれ以上に馬鹿げた行為である。人生を捨ててまで、アキ兄は自らの中の事実を捻じ曲げようとしている。

 傑作だった。笑声しょうせいが零れる。

「ははははは」

 部屋中に僕の笑い声が響いた。

「俺は、シゲルとサヤちゃんを殺した犯人を人生をかけて捕まえてみせる」

 ははははは。ああ、おもしろい。せいぜい頑張ってよ、アキ兄。

 人生を無駄にしてまで演じる一人芝居を。

 僕の笑い声の中、アキ兄は真剣な表情だった。

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