二章 こんにちは、探偵


         二章


      こんにちは、探偵


       1


 お風呂なんて、入っていられなかった。あたしは即座に坂林に電話をかける。

 いきなりその場にへたり込んで、顔を真っ青にしている娘に、母はどうしたのかと尋ねたが、何よりも先にあたしがすべき行動だと思ったのは、坂林への電話だった。

 プルルルル。

 コールが二回なったところで通話が開始される。

「もしもし! ハルちゃん!」

 その声にはいつものおどけた調子は微塵もなかった。

「坂林くん、ニュースの、あの強盗殺人の女の子って……」

 あたしは震える声を絞り出す。

「……正直、僕も信じられないよ。……写真の彼女は、美樹ちゃんに間違いないのかい?」

 あたしも見間違いだと思いたかった。けれど、どう思い返してみても、写真に写っているのは『美樹ちゃん』だった。

「し、信じたくないけど、あの写真に写ってたのは美樹ちゃんだった……」

 震えが徐々に上にあがってきて、やがて涙が目に溜まり始める。悲しみはまだやって来ていないのに、自然と涙腺が緩む。

「……許せないね」

 電話の向こうで、坂林が唸るのが聞こえた。

「僕は、たいていのことは許せるつもりでいるけど、これだけは絶対に許せないね」

 どうして今日会ったばかりの、ほとんど他人と言える『美樹ちゃん』に対して坂林がそこまでのことを言えるのか、あたしには理解できなかった。

「どうして、そんなに怒ってんのよ。美樹ちゃんはあんたにとっては赤の他人でしょ?」

「そりゃ、確かに僕は今日会ったばかりで、話をしたこともないけど……」微妙に口ごもる坂林。「でも、ハルちゃんの親友なんでしょ。それに、あの子を見たときは幸せそうで、これから『彼』と会うのを心底楽しそうにしていた。その幸せをぶち壊す男は、同じ男として許せないよ」

 格好つけてるつもりなのだろうか。フクロウみたいな顔の男が、よく言ったもんだ。

「これからその彼と付き合って、幸せな生活が待ってたかもしれないのに、それを壊した犯人が許せないって言うの? 相当な博愛主義者ね、あんた」

「違うよ。僕は犯人のことが許せない。ただそれだけさ。男として、犯人がやったことを許すわけにはいかないってだけさ」

 は? なぜ、ここで男として云々が出てくるのだろうか。

「どういうこと?」

「僕の個人的な考えなんだけど……犯人はたぶん、その『彼』だ」

 …………。

 一瞬、坂林が何を言っているのかわからなかった。

「彼? ってもしかして、美樹ちゃんの言ってた……?」

「恐らくは」

 はは。あたしは鼻で笑う。

「そんな、だって美樹ちゃんの彼氏が、なんで」

「何でかは、まだわからないよ。けど、十分怪しいだろ? だって美樹ちゃんその彼氏に会っている途中か分かれた直後に襲われてるんだから」

「……どうしてそれがわかんのよ」

「ニュースでやってたじゃないか。遺体が発見されたのは五時だって。僕たちと美樹ちゃんが会ったのが二時ごろ。デートがたったの一、二時間で終わるとは思えないから、デート中だったって可能性は高いだろ?」

 確かに好きな人とのデートをそんなに早く切り上げるわけがない。美樹ちゃんはあれほど浮かれていたわけだし。

「だからって、彼氏が犯人とは限らないでしょ? 彼氏と別れたところを狙われたのかもしれない」

「殺された場所はホテルだよ? ビジネスホテルだったみたいだけど、そんな場所に、彼氏と別れてすぐに別の男と行くかい? 犯行現場から考えてみても、やはり犯人はその彼氏の可能性が高いと思うんだ」

 ホテル……。そういえば一つ前の事件のときもそうだった。

「でも、もしかしたら、違うかも」

「そう。まだ断定はできない。けど、状況的にはやっぱりその彼氏が一番怪しいだろ?」

 あたしはあの満面の笑みを浮かべていた美樹ちゃんの顔を思い出していた。幸せそうな顔。十七歳の少女の顔。そして、耳に残る嬉しそうな声。

「許せないよね。絶対に許せない。許されちゃいけない」

 あたしはどうしようもない虚無感に襲われながら、ただ立ち尽くしていた。

「……もしそれが本当だったら、許せないね。あたしも絶対に許せない。あんなに嬉しそうな美樹ちゃんを裏切って、殺すなんて」

 まだその彼氏が犯人だと決まったわけではない。むしろ、そうでない方があたしは美樹ちゃんのためにいいと思っている。

 だけど少なくとも美樹ちゃんを殺した犯人をこの手で殺してやりたいという気持ちだけは心に宿っていた。

「……僕たちで、犯人を捕まえないか」

 今回の電話で、あたしは幾度となく耳を疑うようなことを坂林から耳にしてきた。美樹ちゃんの死。彼氏による犯行説。けれど、これは、正気の沙汰とは思えなかった。

「あんた、ドラマの見すぎ」

 一介の少女とオッサンに過ぎないあたしたちが、殺人犯を捕まえようなんて、不可能に決まっている。

「本気だよ。僕たちが動かないと、犯人は捕まらないかもしれない」

 何を言うか。この事件の捜査は警察が二年以上前から始めている。それなのに捕まらないのだ。あたしたちが動いたって、事件が解決するわけなんてない。

「あたしたちに、何ができるって言うのよ」

「僕なら、ある程度の情報収集ならできるし、横の繋がりで警察の情報をある程度は知ることができる」

「は?」何言ってんだ、こいつ。「情報収集? 横の繋がり? 何よ、AVショップの横の繋がりって」

 まさか、顧客の中に警察官がいるってわけでもないだろう。

「え? え、AVショップ?」驚きの声を上げたのは坂林だった。「何それ。え、ええ?」

「は?」わけがわからないのはあたしも同じだった。「それはこっちのセリフよ。今日自分で言ってたじゃん。AVショップの店員だって」

「言ってないよ、そんなこと。……ああ、そうか。違法行為とか云々と、僕のキャラでそういう繋がりになったんだな……」

 あたしの考えていたことをピタリと当てる。

「違うって言うの? じゃあ何? 薬の密売人とか?」

「それも違うよ。僕は、探偵だ」

 思わず再び鼻で笑ってしまった。

「探偵だって? 探偵って、犯人はおまえだ、とか言うあの?」

 それこそまんまアニメの世界だ。

「いや、そういう探偵とは違うんだけど……」少し考えた後、「まあ、その探偵だよね。大きな意味では」

 あたしの中で、探偵のイメージと言うのはシャーロックホームズのようなもので、シャーロックホームズのイメージというのが、スマートで知的でクールな男性という像だった。そして、それらは一つも坂林には当てはまらない。

「冗談はやめてよ。こんなときに。……もう縁を切るわよ」

 坂林を黙らせるための魔法の言葉を口にする。けれど、坂林は黙らなかった。

「本当だよ」

 脅しをかけても尚、引こうとはしなかった。

「そう。そこまで言うんなら、証拠、今ここで見せてよ」

 アホみたいな申告にあたしは半ば適当にそう言った。そんなこと無理だとわかっていた。例えどんな信憑性の高い証拠があったとしても、電話越しではあたしに見せることはできない。

「わかったよ。その代わり、あんま気持ち悪がらないでね」そう前置いてから坂林は言った。「星川春乃。ハルは春夏秋冬の春に、ノは画数が二の乃。十七歳。住所は埼玉県朝霧市千鳥一の一の――」

 あたしは今まで坂林に本名を名乗ったことなどなかった。仕事をしているときの名前は『ハル』。だから、苗字が知られるわけもなければ、住所なんか当然わかるはずもないのだ。それなのに……。

「あんた、それ、どこで」

「僕は探偵だよ。ちょっと調べれば、その程度のことはわかる」


         2


 小学三年生の二月十四日。バレンタインデー。金曜日の帰り道、あんなことがあったにも関わらず、毎日は繰り返される。

 しかし、いくら日常的な朝がであってとしても、今日は特別な日になる。きっと何かが起こる。バレンタインデーなのだから。

 僕の部屋。目を覚ますと、様々な物が床に転がっていた。ランドセルから飛び出した教科書やノートの類。鉛筆削り。ビーズ。ティッシュボックス。漫画。消しゴム。

 昨日、僕が暴れまわった跡だ。悲しみ、喪失感、虚しさが僕にヒステリーを起こさせた。

 一通りぶちまけた後は、ベッドで泣き続けた。途中、シゲ兄が何事かと心配して僕の様子を見に来たのだが、シゲ兄の声を僕は全て無視した。

 顔を見ることなどできなかった。泣き顔を見られたくなかったというのもある。しかし、今シゲ兄を見たら、自分がどんな行動にでるかわからなかったのだ。

 ご飯は、食べなかった。お風呂は入ったが、それでもみんながご飯を食べている間。特にシゲ兄とは顔を合わさないように入った。

 敵わない恋敵の存在。しかも、それが今まで憧れていただ人物なのだから、僕の感情は疎ましく思う気持ちと仕方なく思う気持ちが波のように交互に打ち寄せ、僕を混乱させた。

 学校は休むことにした。お母さんはあっさりと休むことを許可してくれた。昨日から調子はずっと悪いといい続けていたおかげだ。

 アキ兄やシゲ兄たちはいつもどおり学校に行くため家を出て行く。たぶん、帰ってくるときには両手にチョコレートをいっぱい抱えていることだろう。

 アキ兄は近くの市立中学に通っている。そして、アキ兄はそこでもアイドルのような扱いを受けていた。中学校は小学校に比べて学年のクラスが多い。だから、それだけファンの子も多くなるということだ。

 現在中学二年生のアキ兄は、三年生からも一年生からも慕われている。部活は入っていないのに先輩や後輩に名前が知れていることはすごいらしい。シゲ兄が言っていた。

 そして、シゲ兄も凄まじい人気……。

 そこで僕はベッドに横になった。また奥歯がギシギシと音を立て始めたからだ。あまり強く刺激を与えすぎると歯の健康に悪い。ストレスも精神的にも身体的にも健康に悪い。

 それら全てを抑えるためにも、僕はもう一度眠りにつく必要があった。

 もう、お母さんは学校に欠席の由を電話したはずだ。落ち着いて眠ることができる。

 逃避の手段として、もっとも有効なのは睡眠だ。だから、僕はこれからずっと寝てすごそうかと、本気で検討した。

 布団を被り、目を瞑ると、一階から水の流れる音が聞こえた。最初は気になって、なかなか寝付けなかったのだが、やがては遠くを走る車の音や、さえずる鳥の鳴き声と同化した。

 僕の、一時的な逃避の始まりだ。


 トントントン。

 ドアのノックされる音で僕は目を覚ました。

「お昼、おかゆ作ったけど、食べれる?」

 お母さんの声がドアの向こうから響いてくる。時計を確認すると、もう十二時半になっていた。ぼんやり、夢と現実の境界を行き来している間に、いつの間にか五時間近くも経っていた。感覚的には十分も寝ていないような感じなのだが。

 僕は、昨日のお昼からご飯を食べていない。けれど、それでも僕は食欲がなかった。

 お腹が空いていないわけではない。けど、それは我慢できる程度の空腹で、胃が痛むほどの空腹ではなかった。

 それに、おかゆではどうにも食べる気がわかなかった。

「いい。もう少し寝てる」

 そう、ドアの向こうのお母さんに返す。

「じゃあ、目が覚めたら食べに来てね」

 お母さんはそう言い残して僕の部屋の前を去っていった。


 そして、次に僕を起こしたものは、携帯の着信音だった。僕のお父さんが小学三年生になったのと同時に買ってくれたのだ。最新機種の携帯電話。ちゃんとメールも使えるやつだ。

 その携帯電話が誰かからのメールを着信した。そして、僕のクラスでは携帯を持っている子は一人しかいない。サヤちゃんだ。よって、僕にメールを寄越してくるのもクラスではサヤちゃんだけ。

 両親やアキ兄、シゲ兄も携帯を持っていて、僕のメールアドレスを知っているのだけれど、両親が今、僕にメールしてくるとは考えられないし、アキ兄は普段からあまり僕にメールを送ってこない。何か用事があるときだけだ。

 そしてあと考えられるのはシゲ兄だったが、メールの送信者がシゲ兄であれ、サヤちゃんであれ、それは間違いなく『バレンタイン』に関係のある事柄が載っているに違いなかった。

 携帯のディスプレイに表示されている時刻は二時四十分を示している。今日はその学年も五時間授業。ちょうど帰りの会が終わり、みんなが帰路に着く頃――。

 メールの内容がバレンタインに関することである限り、それがいい知らせになりえるはずがなかった。サヤちゃんがシゲ兄に告白したというメールなら、それは僕にとって最悪のメールと言えるし、告白できなかった、とメールが来たとしても、それはどちらにしろ僕を追い込む物以外の何物でもない。

 たかがメールを開くくらいで、自分がここまで怖気づくとは思ってもいなかった。見るか、見ないか、それによって一生が左右されるような、そんな気分。

 アドレナリンだったっけ? それが手の先に集まって、震えを催す。

 それでもその携帯を使用し続ける限り、いつかはメールの内容を見なければならない。

 ――もしかしたら、僕の登録しているサイトからのメルマガかもしれない。

 そう自らを説得して、納得できない自分を押し殺して受信ボックスまで進む。

 やっぱり、それはサヤちゃんからのメールだった。告白した、という文面が視神経を通って脳に打撃を与える。軽い、吐き気のようなものを感じた。

 危うく携帯を投げそうになった。

 僕の持っていたプライドにひびが入り、中から赤黒い液体が漏れ出す。

 不条理な怒りがこみ上げてくる。

 僕はいったい誰に、何に対して怒っているのだろう。自分でもわからない。

 メールはまだ続いていた。

 見なくても続いている文章はわかった。

 『付き合うことになったよ』。

 そして、その文章を見てしまったら、僕は表面上だけでも祝福してあげなければならなくなる。自分は辛いというのに、恋愛成就を祝う文面を考えなくてはならない。それは、もはや拷問とほとんど変わらないのではないだろうか。

 それでも、僕はサヤちゃんの『友達』としてやはり祝福メールは送らなければならない。

 そのために、僕は、メールの続きを、読む。

 次の瞬間、僕は唖然としていた。肩の力が抜ける。

 続きの文面。そこにはこう書かれていた。

 ――でもね、フラれちゃった。ごめんねって言われた。困った顔してた。

 文章を見たときの僕の感情は、まさに虚無だった。怒りも悲しみも喜びも驚きも全ての感情が停止した。

 そんなバカな――。

 それが正直な感想だった。思わず笑ってしまう。

 フラれた。

 サヤちゃんが、シゲ兄に。

 僕はわけがわからず、ひたすら笑う。

 ――え? サヤちゃんがフラれただって? そんなまさか。

 僕はベッドに仰向けに倒れこんだ。

 画面に映し出された文字列を何度読み返してみても、そこにはやはり同じ文章が書かれていた。

 ははは。

 おもしろくもないのに、笑える。


         3


 坂林は相変わらず『いつもの場所』で待機していた。土袋駅、ツチフクロウの像の前だ。

 美樹ちゃんが殺された昨日の晩、坂林は自分が探偵であると名乗り、あたしの本名や家の住所を述べて見せた。

 その証明の仕方は、確かに気分のいいものではなかった。というか、ものすごく不愉快な気分になった。たかが住所や名前ではあるけれど、それが坂林に知られているという事実は、まるで坂林に自分の情報は全て筒抜けになっているのではないかという疑念を生み出した。

 昨日の電話であたしがそのことを切り出すと、

『僕は探偵は探偵でもパソコン関係を専門にしているからね。いくら何でも、ハルちゃんを四六時中監視しているわけじゃないよ。あくまでも僕個人が収集できる情報は電子情報だけ。ハルちゃんがいつどこに行ったかをブログとかに書き込めば、僕はそれを見てハルちゃんのその日の行動がわかるけど、そういった手順を踏まないと、では無理だよ』

 あたしは『一人では無理』というところを詳しく尋ねた。仲間がいれば、あたしの行動を四六時中監視できるようになるのか、って。

『探偵にもいろいろあるのさ。僕みたいなハッカーから、浮気調査等を得意とする尾行タイプの人や、銃やら薬やらの違法物を取り扱う物品タイプとか……。尾行を仕事にしてる人に頼めば、ハルちゃんの住所はわかっているんだからほとんどの行動は筒抜けになるだろうね。まあ、僕はそんなことしないけど』

 最後にそんなことはしないと、ちゃんと否定しておく。ストーカーではないことを明確にするためか。

 しかし、探偵というのはそういう風に分野ごとに分かれるものだったなんて全然知らなかった。そもそも、探偵という職業の存在すら怪しいものだと思っていたあたしは、探偵について興味を持ったことすらなかった。

 探偵の『横の繋がり』というのは大きな力である、と坂林は言う。それを使えば、犯人は見つかるかもしれないと。

「でも、まずあたしたちで操作する前に、警察にその彼氏のことを言えばいいじゃん。もしかしたら警察が見つけてくれるかも……」

 あたしはそう答えた。

 わざわざ、そんな聞くからに危なげな連中に頼まなくても済むし、警察の方が探偵よりも優れていると思ったのが本音だ。まあ、警察も嫌いだけど。

『ダメだよ。美樹ちゃんがエンコーをやっていたことはもうすでに警察は突き止めてる。警察署に行って美樹ちゃんの友達ですなんて言ったら、間違いなく身辺を調べられるよ。そしたら、犯人云々の前にハルちゃんが補導されちゃう』

「そんなこと別にいい。犯人が捕まるのなら、別に補導されたって――」

『警察が相手にしてくれるかわからないんだよ。特に、未成年の、それもエンコーをやっていた少女の証言だ何て、取り合ってくれるかわからない……。もし、取り合ってくれたとしても警察は真剣には動いてくれないよ。だって、その彼の情報っていうのも『カッコイイ人』ってだけだろう? 行くだけ損だよ』

 その辺りは坂林のほうが詳しいのだろう。その坂林がそう言うのだから、恐らくはマトモに取り合ってくれないのだろう。まあ、警官があたしみたいのに好意を抱いていないと言うのはわかっていたけれど。そう考えると、警察官に頼るのもしゃくか。

『明日、土袋で会えないかな。もちろん、事件のことを調べるために。僕はこれから調べまわったり、知人に電話を入れて助っ人を集めようと思う。なーに、仲間の中には警察に繋がってる人もいる。警察の情報だって調べればそのうちわかるさ。僕もちょっとネットで情報を収集してみる』

 そこで一旦区切ってから、あたしに問うた。

『さ、決めるのはハルちゃんだよ。ハルちゃんが犯人捜しなんてやらない、と言うのなら僕も忘れる。もし、少しでも犯人を捜し出したいって言うんなら、僕は全力で協力するよ』

 頭の中には美樹ちゃんの笑顔を甦っていた。中学を卒業してからできた、数少ない親友の一人。ニュースでは下腹部を刃物でさされたことによる失血性ショック死だと言っていた。死ぬほど血を流すのは、どれだけ恐ろしいことなのだろう。そんなに血が出たなら、腹の痛みは想像を絶するものだったに違いない。

「犯人を野放しになんて、しておけない」

 あたしは受話器に向かって、吐き出すように言った。

『そう。それでこそハルちゃんだ』

 坂林は落ち着いた口調でそう言った。

『それなら、明日午後三時にいつもの場所で大丈夫かな?』

 あたしは頷いた。

『わかった。僕も精一杯頑張らせてもらうよ』

「じゃあ、よろしく……」

『了解。じゃあ、また明日ね』

 そこで通話が切れた。


 そうして、あたしは午前二時過ぎにこうして土袋駅へとやってきた。まだ、三十分以上も時間があると言うのに、坂林はもう待ち合わせ場所にいた。

 いつもとは違う。これは遊びではない。ふざけちゃいけないんだ。

 そう思うと、全身の筋肉が強張った。美樹ちゃんの死を思い出すと、また手のひらに爪の痕ができそうになる。

 柱の影に見えるツチフクロウ。その横に立っているフクロウのような顔をした男の肩を、あたしはとんと叩いた。


        4


 気づけば、僕は飛び出していた。

 寝癖のついた髪形も気にせず、パジャマを脱ぎ捨てジーンズとシャツを着、ジャケットだけ羽織って部屋を出た。

 突如、階段を駆け下りてきた僕の姿を見て、母は目を丸くしていたが、それも無視して僕は玄関を飛び出す。

 わけがわからない。だから、サヤちゃんにわけを聞かなくては。

 フラれた? サヤちゃんがフラれるわけなんてないのだ。僕の憧れ、完璧な人間なのだから。シゲ兄も完璧な存在だ。だから悔しいが二人は釣り合うと思ったのに。これ以上の組み合わせはないと思ったのに。そう諦めていたのに。

 でも、シゲ兄はそれを認めなかった。

 シゲ兄にも問わなければならない。けれど、今はシゲ兄よりも先にサヤちゃんだ。シゲ兄はきっと話したがらない。もっと状況を理解してから問い詰めないと、適当に誤魔化される。

 それに何より、今はまだシゲ兄の顔を見たくない。

 自転車を引っ張り出して、急かされるようにサヤちゃんの家に向かう。

 サヤちゃんのマンションまではものの三分程度で着く。同じ小学校に住んでいるのだから、当然家は近い。

 サヤちゃん、会ってくれるだろうか。僕は不安に思う。

 僕がそうだったように、サヤちゃんもきっと悲しみ、苦しんでいるはずだ。一人にしておいて欲しいと思っているのかもしれない。

 追い返されるなら、それはそれでいい。大事なのは、誰かが心配して来てくれたという温もりだ。例え、門前払いをされたとしても、サヤちゃんは僕を求めたからこそ僕にフラれたとメールをしてきたのではないだろうか。

 少なくとも僕は信じる。サヤちゃんは僕を必要としていると。

 見慣れた風景が後方へと消えていく中、サヤちゃんの住んでいるマンションだけが常に視界に入った。そして、マンションの入り口へと到着する。

 オートロックのドア。ガラスの扉の横には0から9までの数字と、『呼び出し』と『取り消し』の計十二のボタンによってできている機械があった。これで、部屋の住人に扉を開けてもらうのだ。

 と、僕がサヤちゃんの部屋番号を入力したところでふと気づいた。

 サヤちゃんはまだ帰ってきていないかもしれない、と。

 僕はメールをもらってから、そう時間を置かずに家を出た。もし、あのメールを出したときにまだ学校にいたとしたら……。それに、シゲ兄はまだ帰ってきていなかった。僕たちの家はサヤちゃんのマンションより学校に近い。なのに、シゲ兄がまだ帰ってきたいなかったということはサヤちゃんも高い確率で帰ってきていないということだ。

 ……焦りすぎだよ。

 僕は取り消しボタンを押して、マンションの玄関を出る。外に出ると、凍えるような風が僕の頬をつついた。

 サヤちゃんが傷ついてるところを狙って優しさをアピールするなんて、僕は最悪だな。

 自虐的に物言う。

 何だかんだ言って、シゲ兄よりも先にサヤちゃんに会いに来たのはそういう理由からなのかもしれない。

 自分の中のこういういやらしいところが、僕は大嫌いだった。僕はいつも人の気持ちを計算している。それがどれだけ愚かなことか。

 外見がよければ普通の人よりは確かに好かれる。頭がよくて、運動神経がよければ、もちろんそれもプラスの要素だ。

 しかし、だからと言ってそれらを後ろ盾に威張り散らすやつは嫌われる。それも、プラスの要素が大きいだけ、その反動は大きく、一気に評判はがた落ちする。

 だから僕はみんなに好かれ続けるように、細心の注意を払って行動をしている。自慢はできるだけ控える。謙遜も適度でないと嫌味なる。僕はそれらのバランスを考えて、クラスメイトたちと接している。

 だから友達たちとわいわい楽しんでいるときのことを後になって思い返してみると酷く空虚な気持ちになる。

 先ほどまで、自分は楽しんでいる演技をしていたのだと、そう考えてしまう。

 だから、そんな悩みなんてないようなシゲ兄やサヤちゃんが羨ましい。そして、それは尊敬や憧れにも繋がる。素の姿がみんなに好かれるなんて、僕には不可能だ。

 僕は、入り口前の自転車置き場から自転車を引き出してくる。

 ダメだ。一人でいると嫌なことばかり考えてしまう。僕の悪い癖だ。

 とりあえず帰ろう。話は、シゲ兄から聞けばいい。

 もしシゲ兄から聞き出すことができなかったとしても、明日サヤちゃんから直接話を聞けばいい。

 そうだ。僕には明日も明後日もある。僕が内面で何を考えていようと、とにかく周りには嫌われなければいいのだ。

 自転車に跨り、発進する。

 そのとき、僕の目はサヤちゃんの姿を捉えた。

「サヤちゃん」

 俯いていた顔を上げてみせる。少なくとも、泣き顔ではなかった。

「トシちゃん」

 僕を見止めると、柔らかく笑んだ。

「もう、体調よくなったの?」

 一瞬、なんのことだかわからなかったが、そういえば僕は体調を崩していることを理由に学校を休んでいたんだ。

「うん。ゆっくり寝たらだいぶ、ね」僕はゆっくりとサヤちゃんに近づいていった。本題を切り出さなくては。「それより――」

 僕がそうい言ったところで、サヤちゃんは深く頷いた。

「うん。フラれちゃった」

 哀愁の帯びた笑みを浮かべた。

「どうして……」

 サヤちゃんも首を傾げた。

「さあ。でも、やっぱり、あたしじゃ無理があったんだよ」

「そんなことないよ!」

 思考より先に言葉が口を出た。

「サヤちゃんは、僕から見ても可愛いし、無理だなんて、そんな」

「ありがとう」

 そう、こんなサヤちゃんをフるシゲ兄の神経がわからない。

「シゲ兄、何考えてんだよ、ほんとに。……シゲ兄は、バカなんだ……」

「シゲルくんのこと、そんなに責めないで」

 優しい声で言う。

「そんな……。だって、許せないじゃん」

「あたしは大丈夫。心配してくれてるみたいだけど、ほんとに大丈夫だから。それにシゲルくんのことも恨んでないし」

 そして今度は、真っ白な笑顔を僕に向けた。

「でも、これで吹っ切れた。シゲルくん、中学生になったら会えなくなるもん。私立中学に行くんでしょ?」

「たぶん……」

 たぶん、ではなくシゲ兄は間違いなく私立中学に行く。今月の頭にシゲ兄は私立を合格している。僕たちが数年後に通うであろう市立中学とは違うところへ行くのだ。けど、それをはっきりと伝えることは、僕にはできなかった。

「そしたら、どっちにしろもう会えなくなるし、卒業式じゃシゲルくん、女の子に囲まれて大変だろうし。まあ、今日も大変そうだったけど」

 遠くを見るような目をして言った。

「サヤちゃんも同じ中学受験すればいいじゃん!」

 上空を見上げていた、視線が僕に向けられる。その目は相変わらず、漆黒の色だった。

「そうだね。そうしようかな」

 徐々に元気を取り戻していくサヤちゃん。

「……諦めちゃ、ダメだよ」

 そこで、僕は自分が何をしたいのかわからなくなる。

「うん。一度好きになった人を、そう簡単に諦めちゃダメだよね。そうだ! そうだよ、トシちゃん」

 そう言って、自転車から降りてサヤちゃんと向き合っていた僕を、サヤちゃんは強く抱きしめた。

「ありがとう。だいぶ元気になった。じゃあ、トシちゃんも明日は学校来てね! じゃ」

 そう言うと、駆け足で玄関に吸い込まれていった。

 好きな人を簡単に諦めちゃダメ。その言葉はそのまんま自分に跳ね返ってきていた。サヤちゃんの温もりが、まだ両肩に残っている。

 僕はサヤちゃんが好きだ。だから、できることならサヤちゃんともっと仲良くなりたい。

 けど、サヤちゃんがシゲ兄にフラれたと聞いたとき、僕はショックだった。やっぱり、サヤちゃんには幸せになってもらいたいと思ってしまう。

 矛盾した感情が僕の中でぶつかり合う。けど、シゲ兄ならサヤちゃんを幸せにしてくれる。そう考えると、僕の感情を押し殺すことができた。

 とにかく、ここにいても仕方ない。サヤちゃんが帰ってきたということはシゲ兄はもう家に戻ってきているだろう。

 シゲ兄の話を聞いてみないことには何も始まらない。

 ペダルを思い切り踏み込み、家に向かって自転車を走り出させる。


 家に着くと、もう玄関にはシゲ兄のスニーカーが端のほうに揃えられて置かれていた。

 シゲ兄はもう帰ってきている。

 ダイニングの方からバラエティ番組の音声が聞こえてくる。恐らく、兄はダイニングでくつろいでいるのだろう。

 僕は切り出さなければならない。

 シゲ兄が彼女をフった理由を。

 そして、僕は説得しなければいけない。

 もう一度考え直すよう。

 どうして僕はサヤちゃんとシゲ兄が付き合うことを願っているのだろう。昨夜は泣きながら二人は付き合わないで欲しいと祈っていたのに。些か、不思議な出来事ではあるが。

 僕はその理由に気づいている。

 靴を脱ぎ、端に揃えると、ダイニングへ向かった。テレビの音声がより一層大きく聞こえる。

 ドアをスライドさせる。シゲ兄は椅子に腰掛けてテレビを見ていた。シゲ兄は僕が入ってきたのに気づいて、こちらに顔を向ける。

「おお、どうやら元気になったようだな」

 シゲ兄も僕が学校を休んだ理由を体調の不具合のせいだと思っている。まさか自分が僕が今日学校を休んだ理由に深く関係しているなんて、微塵も考えていないに違いない。

 僕は、テーブルの上に置かれたリモコンを使い、テレビを消す。瞬く間に静けさが部屋に沈殿した。

「あ、何だよ。見てるよ、テレビ」

 そう、非難の目を向けてくる。

 それに対して僕はシゲ兄を睨むように見据える。

「大事な話があるんだ。聞いてよ」

 だからテレビの雑音は邪魔だと、暗にそう伝える。

「大事な……話、か」

 シゲ兄も僕がこれから何の話をしようとしているのか、感づいたようだった。

 傍らに置かれたコップを手に取り、中の茶色の液体を、シゲ兄は一口飲んだ。

「……なんだよ」

 わかっているくせに、自分からは口にしたくないらしい。

「サヤちゃんのこと」

 僕が言うと、やっぱりという顔に変わった。

「そういうデリケートな部分は、いくら兄弟でも話したくないな」

 シゲ兄の表情も、いつの間にか真剣なものになっている。一直線に僕を見つめ、その目には意思の強さが見て取れた。

「別に僕はシゲ兄と兄弟だから聞いてるんじゃないよ。僕はサヤちゃんの親友だからその相手の男になぜサヤちゃんをフったのか、聞きに来たんだ」

 屁理屈。自分でもわかっていた。

「それなら余計干渉すべきじゃないだろ。いくら仲がよくたって人は人。友達であっても、他人を無闇に干渉するもんじゃないよ」

「シゲ兄はわかってないんだよ。失恋がどういうものか。……シゲ兄はモテるから、今までフられたことなんかないでしょ?」

「…………」

 黙って眉を顰め、座ったまま僕を見上げる。

「どうせシゲ兄のことだ。はっきりと断ったんでしょ? はっきりと……。どうして、サヤちゃんのどこに不満があるって言うんだ!」

 シゲ兄はリモコンに手を伸ばす。

「おまえには関係ない」

 しかし、僕が先にリモコンを掴み、体の後ろに持っていく。

「サヤちゃんは完璧だよ。他の女の子と比べ物にならないくらい輝いてたでしょ? シゲ兄もそれは認めてたじゃないか。なのに、なんで!」

「何度言えばわかんだよ。おまえには関係ない」

 そう言ってから、シゲ兄はまるでテレビが見れないならここに用はないと言わんばかりに立ち上がって部屋を出て行こうとした。

「待ってよ」僕はシゲ兄のシャツの肘の部分を掴む。「行かせないよ」

 ちっ、という舌打ちの音が聞こえた。

 そして、シゲ兄は呆れたような表情を浮かべながら振り返った。

「おまえもほんとにしつこいな。おまえには関係ない。何度言えばわかる」

「何度言われても関係ないよ。シゲ兄が答えるまで、僕は死ぬまで聞き続けるよ」

 シゲ兄は僕の手を、腕を振るって強引にね退けた。けれど、そのまま自室に走り出したりはせず、僕を見下ろす形で対峙した。

「おまえじゃ、絶対に僕の言い分を理解することはできない」

 見下すような、そんな顔。

「ああ、理解できないね。サヤちゃんのどこに不満があるのか、僕には全然わからないよ!」

「理解できないんじゃ、話しても無駄さ。じゃあ、僕は部屋に戻るよ」

 踵を返したシゲ兄の肘の部分の服を、再び掴む。

「何なんだよ。いい加減にしろよな。おまえは僕のいうことを理解できないんだろ。それなら言っても無駄だって言ってんだろ」

「いいから、言ってよ」

「言ったら言ったでもっとわかりやすく説明しろって言い出すだろ、おまえ。それが面倒なんだよ」

「言って」

 しばらくシゲ兄は僕を睨んでいた。

 僕も怯むことなく睨み返していた。

 やがて、シゲ兄はつぶやいた。

「じゃあ、言ってやるよ。理解できなくても、僕は説明しない。自分の内面で、勝手に整理してくれよ」

「そんなこと、最初からそのつもりだよ」

「僕が、なぜサヤちゃんをフったかだよな?」

 どこに不満があるというのか。まさに才色兼備というに相応しいサヤちゃん。

 シゲ兄は、答えた。

「年下だから」

 瞬間、全身の血の気が足元まで下がっていくのを感じた。体温が一気に低下していく。

「え?」

「それだけだよ。サヤちゃんをフった理由は。小学三年生じゃ、幼すぎるだろ」

 何を言ってるんだ。『年下だから』。たった、それだけで?

「何言ってんの。サヤちゃんは十分大人びてるじゃないか。シゲ兄だってそう言ってた。サヤちゃんを一目置いてたじゃないか」

「でも、どう足掻いたところで小学三年生だろ?」

 全身の力が入らなかった。魂でも抜けてしまったのではないかと思うくらい、思い通りに力が入らない。

「ひどい。たったそれだけで……」

「たったそれだけだって? まあ、やっぱおまえには理解できなかったか。僕は一向に構わないけど」

「年下っていうだけで判断するなんて、考えられないよ」

「そんなこと言ったって仕方ないだろ。好みは人それぞれだ。おまえがサヤちゃんのこと好きだってのと同じように」

 え……。

 唐突な言葉に、一瞬詰まる。

 それでもここで黙ったら逃げられる。

 強引に言葉をひねり出す。

「――ああ、サヤちゃんは好きだよ。大親友だ」

 僕のそのセリフにシゲ兄はシニカルに笑った。

「そっちじゃないだろ。まあ、バックレるならそれもいいけど」

 シゲ兄はゆっくりと歩き出す。

「待って」

「何度目だ? それに、僕はおまえの質問に答えた。あとは自分の中で解決しろ。言ったはずだ」

 僕は俯く。そう、もうシゲ兄は僕の問いに答えた。だから、もうそのことについては聞けない。けど、最後に一つ聞いておきたいことがあった。

ためしに、サヤちゃんと付き合ってあげられないの? ちょっとの間だけでも……。それでもし上手くやっていけるようなら本当に付き合えばいいし、ダメなら別れれば」

「おまえはバカか。僕は、そんなこと絶対にしたくないね」強い口調で言った。「それはサヤちゃんを侮辱する行為だろ。思わせぶりな態度で、飽きたらポイだって? ふざけてんのか。それに、僕は他に好きな人がいるんだ。なんにしろ、それは無理な提案なんだよ」

「好きな人?」

 それは初耳だった。

「そうだよ。一個上」

 臆することなくシゲ兄は答えた。

 別に隠すつもりはないらしい。しかし、それは僕にショックを与えた。シゲ兄の口から自らのそういった感情を聞いたのは生まれて初めてだった。

「好きな人がいたなら、何で教えてくれなかったんだ」

 もし知っていれば、僕は昨日の歩道橋で、サヤちゃんに助言してやることができた。

「別にいいだろ。僕の自由だ」

「よくなんか、ない」そいつのせいで、サヤちゃんは……。「その人の、名前は……」

「それは答えられない」

「どうして!」

「答える必要もなければ答えたくないからだ。もう僕は部屋に戻るぜ。おまえに構ってるとイライラしてくる」

 そう一方的に言って、シゲ兄は早足で階段を上っていってしまった。

 僕は一人、ダイニングに残される。手に持っていたリモコンを壁に叩きつけた。電池が飛び出し、辺りに転がる。

 コロコロ……。コロコロ……。

 僕は僕の中を黒い液体がゆっくりと駆け巡るのを、突っ立ったまま、感じていた。


       5


 あたしと美樹ちゃんが最初に知り合ったのは、土袋のはずれ、とあるB系のショップでの出来事だった。中学を卒業してすぐの頃、あたしはジャラジャラしたアクセサリーやら、露出の高めの服を好んで来ていた。まだガキだったあたしは、露出度を高くすれば大人っぽく見えると、そう決め付けてそういうファッションをしていたのだ。

 当初、あたしはまだ客を選ぶ洞察力が発達していなかった。とりあえず、お金を出してくれそうな人には着いていく、という至ってシンプルな選び方をしていた。

 その日のお客は、名前は忘れたけれど確かまだ二十になってなかったと思う。高校、大学には進学せず、どっかの工事現場で毎日働いていると、本人は言っていた。

 それほど大金をはたいてくれるわけではなかったのだけれど、まだ未熟だったあたしはオッサンを相手にするよりは安くても若い人を相手にする方が気が楽だと思ったのだ。

 その男は下はジーパンで、様々なシルバーチェーンを垂らし、腰パンよりさらに低い位置でジーパンをはき、上半身はタンクトップで、シルバーペンダントをジャラジャラ首からかけていた。頭は限りなく金に近い茶髪が、目を隠す程度まで伸びている。今思えば、あたしはよくそんなダサイ格好をしたやつと並んで歩けたと思う。今のあたしのセンスでは、絶対にそんなやつを横においておきたくない。余談だが。

 さておき、このときあたしは男に付き合わされてそういう系統のショップを訪れていた。

 ショーケースの中の銀色のアクセサリーの数々。刺繍入りの学ラン。ヤンキースのキャップ。スウェット。ド派手な柄のTシャツ。

 それほど大きな店ではないので、それだけの商品を置くと、必然的に通路は狭くなる。お客はそれほど多くいるわけではないが、それでも数人は見られた。

 そんな中、お客のヤンキー男は何を考えてか、狭い道をわざわざ胸を張って歩いて通った。きっと店内にいる他のお客さんより自分が『優位』だと、示そうとしているのだ。

「おお、ハル。これなんか似合うんじゃねーの?」

 男はTシャツを手に取り、あたしに見せる。

「欲しいのあったら何でも言えよ。買ってやっから」

 いっちょ前に彼氏気取りだ。まあ、貢いでくれるのなら何でもいいけど。

 男はまたしても通路いっぱいに体を広げ、右に左にユラユラと肩を振りながら歩く。

 と、正面から同じような動きで歩いてくる男がやってきた。

 すれ違う際、どちらも道を譲らない。肩が激突した。

 あちゃー。これは厄介なことになりそうだ。あたしはその場の空気を感じ取って、そう推測した。

 先に食って掛かったのは向こう側の男だった。

「邪魔だよ」

 ガンを飛ばしながらあたしのお客の横を通り過ぎていく。

 が、茶髪の男が黙っているはずがない。

「てめえがぶつかってきたんだろうが」

「あん?」

 相手の男は坊主に剃り込みをいれていた。店内だというのに、真っ黒なサングラスをかけている。

 坊主が言った。

「そんなとこにボケッと突っ立っとる方が悪いだろうが。あ?」

「俺は突っ立ってなんかなかったわ。歩いとったわ、ボケ。目ぇ大丈夫か。そのサングラス、安物じゃねえの?」

 よく見ると、坊主の後ろには少女の姿が見受けられた。察するに、彼女のようだ。

 その茶髪の小ばかにしたような態度に、坊主は切れた。サングラスを外すと、思いっきり茶髪に投げつけた。サングラスは真っ直ぐ、茶髪の顔面の方へ飛んでいった。それを、茶髪は手でガードする。サングラスは地面に落下した。茶髪は、今の攻撃で切ったのか、手の甲から血を流していた。

 今度は茶髪に火が入る。

 地面に転がったサングラスを思いっきり踏みつけた。パシャリと音を立て、粉々に砕ける。

「いてえなあ、コラァ」

「おいおい、弁償してくれるんだろうな、そのサングラスゥ」

 ダメだ。どっちも我を忘れている。あたしは厄介ごとに巻き込まれるのはごめんなので、誰かに咎められる前にその場を去ろうと思った。あたしは入り口の方へと歩いていった。

「彼氏、置いてくの?」

 不意に後ろから声をかけられた。振り返る。声の主は、坊主の後ろに立っていた『彼女』だった。

 何だ、この女。

 一瞬、あたしはあたしたちもケンカになるものだと思った。アンタの男、うちの彼氏に何しとんじゃ、みたいなノリで。

「別に。彼氏じゃないし」

 あたしは事実を伝える。

「じゃあ友達?」

「お客さん」

「お客さん?」

 目の前の少女は首をかしげた。

 近くで見ると、なかなか小奇麗な顔をした子だな、とふと思う。

「あんたこそ彼氏いいの? ほら、殴り合い始めてる」

 これは間違いなく警察が来るな、と判断したあたしはいち早く立ち去らなくてはと思った。

「お言葉だけど。あれ、彼氏じゃなくてお客さん」

 ニヤリと笑うと、少女は言った。

「お客さん……って、ひょっとしてアンタも?」

 まさか、と思った。そんな、こんなところで同業者に会うとは思ってもなかった。

「なら早く逃げた方がいいよ。警察が来るから」

 あたしはそう言うと、足早に歩き出す。少女も後ろからついてきた。

「そうする」

 自然と、あたしらは横に並ぶ形になった。

 店を出て、とりあえずは駅を目指す。駅前ならば次の行動も取りやすい、との判断だ。帰るにしても、茶髪を待つにしても、とりあえずは駅に行かなくては。

 同じく駅を目指しているのだろうか。あたしの隣には依然、少女が並んでいた。

「名前、聞いてもいい?」

 いきなり少女が切り出した。何で急に、とも思ったけれど、まあこれも何かの縁だ。名前くらい、とあたしは自分の名を名乗る。

「本名じゃなくていいなら。一応、お客さんたちには『ハル』って呼んでもらってる」

「ああ、やっぱり本名は隠す? あたしは『美樹』。あたしも偽名だけど」

 あたしの場合は偽名ではなく、名前の二文字を取っただけなんだけど、とは言わなかった。

「ハルちゃんは、この仕事始めてどのくらいなの? っていうか、年、聞いてもいい?」

 やけに馴れ馴れしいな、とも思ったけれど、仕事柄こういう性格のお客も相手にしたことがあったので、別に不快には思わなかった。

「あたしは今年の十二月で十六歳。だから、高校に行ってたら高一だね」

「へえ、じゃあ今はまだ十五歳? じゃああたしの一個下だ。あたし、あたし今十六。高校に行ってたら高二だよ。同い年か、年上かと思ったけど、うわあ、まさか年下だったなんて」

 あたしもてっきり少女は同い年くらいかと思っていた。独特の柔らかさのある少女だと、あたしは思った。

「じゃあ、ひょっとしてハルちゃん、この仕事始めたの今年になってから?」

「まあ、そりゃ去年までは中学生だったわけだから」

 さすがに中学生で、この仕事をやろうとは思わないし、いくらなんでも無理があるというものだ。

「それじゃ、あたしと仕事をしてる期間、同じくらいじゃない? あたし、四月からやってるんだけど」

「あたしは五月入ってからかな、確か」

「わあ、やっぱそうか。新入社員って感じだね」

 いや、わけがわからん。

「……ミキさん、お客さんどうするの?」

 少女――美樹ちゃんはこちらを向く。

「うーん、どうしようか。あれじゃ、警察呼ばれただろうし、そうなると面倒だねぇ」

 少し考え込むような動作を見せる。

「あ、それからあたしのことはさん付けじゃなくて呼び捨てでいいよ。もしあれならちゃん付けでもいいし」

 交通量の多い表通りに出る。ここまでくれば、あの店の騒ぎに巻き込まれることもない。

「あたしはもう帰るかな。今日はもう仕事入ってないし」

 この頃はまだそれほどお客さんがいない時期。週に五人くらいだったか。それも日に二人、三人付き合うことになる日も少なくはなかった。かなり不定期。

「これから何か用事、ある? ハルちゃん」

 何かを期待するような目で、美樹ちゃんはこちらを見る。

「いや、別に用事はないけど……」

「じゃあ、よかったら一緒にお茶しない?」今にも抱きついてきそうな勢いだ。「これからあたし、次の人がいるんだけど、予想外に今の仕事が早く終わったというか、切り上げたというか、まあとにかく暇なの! 駅前のどっかの店に入って。ね?」

「ねって言われても……」

 正直、このときはあたしは人付き合いがあまり好きじゃなかった。プライベートな時間まで、誰かと行動をするなんて鬱陶しいとすら思っていた。

「わかった。じゃあ、おごってあげるから」

「いや、おごるとかそういうんじゃなくて……」

「パフェ。パフェ食べよ」

 聞いてねえ。

「ポテトも、食べたいなぁ」

 そして、再びこちらに顔を向ける。目がキラキラと輝いていた。

「ね?」

 しつこい……。あまりのしつこさに、あたしは怒りを通り越して呆れてしまった。すごい社交性。

 はあ、とため息をつくとあたしは美樹ちゃんを見た。

「ま、いいか。お茶くらい。その代わり、あたしばんばん食べるよ、遠慮せず」

 ニカっと笑う美樹ちゃん。

「おっけーおっけー。さっきの人から、前払いでお小遣いもらったから」

 こう見えて抜け目のない子だな。手強い。

「よし、あたしもパフェにシャーベットにケーキに……」

「そんなに食べたら太っちゃうよ」

 横で邪気のない顔で美樹ちゃんは言った。やっぱり手強い。

「いいの。あたしは体質的に太らないから」

 あたしも笑って見せた。

「おお、初めて笑ったね、ハルちゃん」

「え、そう?」

「うん」

 これが、あたしと美樹ちゃんの最初の出会いだった。

 そして、カフェでメアドを交換したあたしたちは、急速に仲良くなっていって――。


         6


 僕は息を顰めてシゲ兄が来るのを待っていた。僕の周りには草、草、草。普段であれば、決して僕は地面に座ったりはしない。けれども今僕が鎮座している場所は紛れもなく地面だった。それも虫が多く住んでいそうな草の中。公園を囲む茂みの一角。

 目の前には細い歩道が見える。そしてその向こうには対照的な大きな通りが。

 僕の傍らには布に巻かれたバットが転がっていた。それは昔、シゲ兄が使っていた代物だ。これからそのバットは一人の人間の命を奪うための凶器と化す。果たして、本来の役割とは違う使われ方をして、バットはうまくその効力を発揮することができるのだろうか。

 この公園の周りはほとんど人がいない。理由は、目の前を通る大通りが原因。

 僕は誰かがやってくる音が聞こえればそちらに注意を向けた。それがシゲ兄である可能性は高いからだ。

 公園の内部は見事なまでに無音だった。もちろん、車が通り過ぎる音はそこら中に反射して騒音となって公園を駆け巡ってはいた。けれど、音と言えばそれだけだ。風がないせいか、妙に静かだ。木の葉同士の擦れる音も聞こえない――って、時期的に木の葉はみんな枯れてしまっているのか。

 公園中央に立つ外灯も、僕が待ち伏せているこの場所までは光を届けることができないようだ。それはむしろ好都合。暗闇は、絶好の隠れ家を僕に用意してくれる。

 先ほど見た噴水(当然、水の放出は止められていた)。昼間は子供たちの遊び場の中心になって、水を煌かせている言うのに、夜は沼のごとく静まり返っている。まるで二重人格だ。人が近くにいるときは踊り、舞い、優雅な姿を見せるというのに、人気ひとけがなくなった途端、朽ちたようにその場に滞る。

 不意に僕自身に似てるな、と思った。

 似てる? 僕が噴水に? どこが。

 くだらない。こんなくだらない考えはよそう。今はそんなことに神経を使っている場合ではないのだ。

 今はシゲ兄を見張らなければならない。見逃すと面倒なことになる。これ以上、僕の内面を掻き乱されるのはごめんだ。だから、僕はよりいっそう通りに注意を払う。


 シゲ兄はあのままダイニングを出て、自室にこもってしまった。昨日とはすっかり立場が逆になる。

 僕は急いで階段を上り、シゲ兄の部屋の扉をノックしたのだけれど、シゲ兄は無視を決め込んでいるらしく、全くの無反応だった。ノブを回しても扉は開かない。鍵がかかっているようだ。

 部屋の中からは大音量の音楽が聞こえてきた。これではいくらノックしても、曲の一部程度の認識しか与えられない。僕は拳に痛みを感じながらドアを叩くのを止めた。

 シゲ兄はいつも冷静だ。そして頑固だ。このままノックを続けたところでシゲ兄は用でもない限り出てこない。それに、例え出てきたとしても僕なんかまたしても軽くあしらわれてシゲ兄を問い詰めることもできない。

 問い詰める? 何を問い詰めるんだ。

 なぜサヤちゃんをフたのか、シゲ兄はその理由を述べたじゃないか。これ以上、僕は何を知りたいと言うのだ。シゲ兄の彼女についてか? 違う。そんなことはどうでもいい。じゃあ僕は何をしたいんだ?

 行き場を失った僕は、気付けば自室に戻っていた。一日のスタート地点であると共にゴールでもあるベッドに僕はまるで銃で撃たれたかのように真後ろに倒れこんだ。

 体の中で感情がグルグルと光に集まる蛾のように蠢いていた。サヤちゃんをフったシゲ兄を恨む気持ち。サヤちゃんにフられてしまったことを悲しむ気持ち。それらの波が交互にやって来て僕にぶつかり、暗い海の中へと引きずり込もうとする。

 ベッドのわき、不意に携帯が光っているのが目に入った。新着メールを知らせるランプ。僕は携帯を手にとって確認作業を行う。

 メールの送り主はサヤちゃんだった。僕は急いでメールを開いて文を読む。

『シゲル君のことは本当に気にしていないから。だからシゲル君にも何も言わないでね。それじゃ、また明日学校で』

 サヤちゃんはフラれた理由を知らない。だからシゲ兄のことを許せるなんて言えるんだ。突拍子のない怒りが僕を襲う。シゲ兄は君を年下ってだけでフったんだぞ? そんな人間をあっさりと許してしまっていいのか。

 指を駆使して携帯の画面に文字を打ち込んでいく。感情の波に僕は流されていた。それは自分でも自覚している。けれど、どうしようもできない。海で波から逃れようともがいても、波は決して放してくれないのと同じように。

『シゲ兄は君を年下っていう理由だけでフったんだ。だから、シゲ兄を許しちゃダメだ』

 僕は何がしたかったのだろうか。今思えばこれで何がどうなるわけでもないっていうのに。僕は、シゲ兄の評価を下げることで、少しでもサヤちゃんの目が僕に向くようにしたかったのだろうか。

 けれど、返ってきたメールを見た僕は即座に目を覚ました。

『どうしてそれをあたしに言ったの?』

 一瞬にして血の気が引いていくのがわかった。僕は何ていうメールを送ってしまったんだ。サヤちゃんはフられたわけを知らなかった。知らないままでよかったのに。そんな辛い事実をサヤちゃんに知らせる必要があっただろうか。全ては僕のエゴだ。何を勘違いしていたのだろうか。僕は何を望んでいたというのか。

 思いっきり振りかぶると、僕は携帯を壁に叩き付けた。想像では粉々になって辺りに破片が飛び散る図を思い描いていたのだけれど、そんなことはなかった。形を保ったまま携帯電話はベッドの上にボトリと落ちた。案外丈夫にできている。

 この行動が示すもの。それは僕の中の真っ黒でドロドロした感情が僕の体の中に留めておくことができなくなったからに他ならない。このタールのような感情は麻薬と同じで理性を狂わせる。僕は部屋を飛び出して隣のシゲ兄の部屋の前に立つ。

 ノックとは言えないような強さで扉を叩く。木でできた扉に穴が開くのではないかと思うほどに。

 さすがのシゲ兄も部屋を壊されては困ると思ったのだろう。すぐに出てきた。

「うるせえな。いい加減にしろよ」

 その顔は今までに見たこともないくらい憤怒していた。いつもクールなイメージがあるだけに僕は少したじろぐ。

「サヤちゃんからメールがあった。話がしたいから紅葉公園まで来てだって」

 もちろんこれは嘘だ。シゲ兄を呼び出すための、サヤちゃんの中からシゲ兄を消すための、僕の唐突な作戦の一部。

「そんなの知ったことか。僕は行かない。そう伝えておいてくれ」

 そう一言だけ言うと扉を閉めようとした。僕はドアノブを今までにないくらい強い力で握る。

「ダメだ。シゲ兄にはちゃんと説明する義務がある」

 瞬間、シゲ兄の扉を引っ張る力が弱まる。

「そんな義務はない」

 口ではそう言うものの、内心はそうは思っていないように見えた。もう一押し。

「シゲ兄がどうしようと、サヤちゃんは待ってると思うよ。納得が行かないだろうからね。自分がどうしてフられたのかもわからないなんて、理不尽だよ」

「知らないほうがいいこともある」

 この言葉に、僕はサヤちゃんから返って来た文章を思い出す。冷や汗がにじみ出てくる。サヤちゃんはあのメールで傷ついた。傷つけてしまったのは僕? いや、違う。全ての原因はシゲ兄にある。

「それでもサヤちゃんは知りたがっている。行ってあげるべきだ」

 シゲ兄は再び扉を閉めようと無言で腕に力を込めた。

「待って」

「時間は?」とっさのことで何て言ったか聞き取れなかった。僕がきょとんとしているとシゲ兄はもう一度言った。「時間は?」

「ああ、時間ね。紅葉公園の噴水の前で六時に待ってます、だって」

 シゲ兄は自分の部屋の中を覗き込んだ。恐らく時計を見ているのだ。

「あと一時間程度か。六時だったら夕ご飯までには帰ってこれるな」

「行ってくれるの?」

 何故か僕はこのときぎゅっと手を握っていた。爪が皮膚に食い込むくらい。手にペットボトルを持っていたら握りつぶしてしまうくらい。

「ああ、わかった。行くよ。それで話がつくなら」

 そのままシゲ兄は部屋の中へと姿を消した。これで準備はできた。もう後戻りは出来ない。

 シゲ兄は優しいから、行くと言ったら絶対にすっぽかしたりはしないだろう。

 けれども何だろう。この気持ちは。僕はシゲ兄のことが好きだ。人間として尊敬している。みんなから好かれ、勉強もでき、スポーツもでき、僕の誇るべき兄弟。けれども何だ。なんで、僕はこんなにもシゲ兄を殺したいと思うのだろうか。

 シゲ兄は六時に紅葉公園に現れる。紅葉公園は周りが木に囲まれていて、外からでは内側の様子が伺えない。また紅葉公園自体、日が暮れてからやって来る者はほとんどいない。いるとすれば時間を持て余している中高生か、アルコールにやられて休憩を取るために立ち寄ったサラリーマンくらいだろう。けれど、六時という時間帯ではそういった人種もまだ集まっては来ない。

 サヤちゃん。可愛そうなサヤちゃん。シゲ兄にフラれてしまったサヤちゃん。シゲ兄。サヤちゃんをフったシゲ兄。全てにおいて完璧なシゲ兄。そんなシゲ兄を僕は愛しているし、同時にこれ以上ないくらいの憎しみを抱いている。

 僕はシゲ兄からもらった野球帽を被った。邪魔な髪は帽子の中でまとめる。二年位前にシゲ兄が使っていた金属バットを倉庫から見つけ出す。それは小学生でも使いやすいよう、軽量化されていて、普段、バットを持ちなれない僕の手にもよくフィットした。

 すでに辺りは赤黒くなっていた。夕焼けと暗闇の中間。それはまるで今の僕の心情のようだ。

 それから僕はバットを布で包み、それを前かごに入れ、何とかバランスを取りながら紅葉公園に向かった。


 僕は監視する目を休めるために地面に横たわる闇と同化しつつある金属バットに目をやった。意味もなく手に取ると、バットを覆っていた布がはらりと落ちる。金属バットは金属独特の冷気を帯び、それが直接僕の手に伝わってくる。外気の寒さと同調して、とても嫌な感覚だけれども、僕はそれをギュッと握り締めなければならない。

 これから人を殺そうというのに、それも最愛の兄を殺そうというのに僕の心はひどく落ち着いていた。緊張もなければ不安もない。なるようになれ、と言った気持ち。

 それは投げやりというよりも、全てがうまく行くという自信から来ているものなんだと思う。全てがうまく行くということが、具体的にどういうことなのかはわからないけれど。

 シゲ兄の部屋に乗り込んだあのときを嵐に例えるならば今はまさになぎ。一切の風が止み、世界が静止している状態。それは、冷静というものとはちょっと違った感覚。

 こんなに落ち着いているのに、少しの風でも凪は凪でなくなる。

 僕はこの無風の状態のうちに、この奇行が示すものを分析しようと思った。全ての事象にはなんらかの原因があると、誰かが言っていたように思う。それならば、僕がシゲ兄を殺そうと思うのにも原因があるはずだ。

『どうしてそれをあたしに言ったの?』

 サヤちゃんからのメールが脳内によみがえる。

 僕はサヤちゃんにシゲ兄がひどい男だってことを伝えたかったんだ。

 どうして?

 どうしてそんなことを伝える必要がある。

 それはサヤちゃんがろくでもない男に傷つけられるのが嫌だからで……。

 違う。そうじゃない。シゲ兄はろくでもない男なんかではない。優しくて勉強もできてスポーツも万能で大きな家族愛も持っている。

 それにサヤちゃんを傷つけたのは僕のメールじゃないか。

 あの文章がサヤちゃんに与えるダメージ。ちょっと考えればわかることだった。

 シゲ兄も言っていたじゃないか。理由を話せば傷つけることになるって。

 じゃあ何で僕はあんなメールを送ってしまったんだ。

 冷たい風が吹いた。今は二月の中旬。僕の吐いた白い息が公園の端の方へと流されていった。

 僕はサヤちゃんが好きだから、シゲ兄を諦めさせるために――。それなら、なんでサヤちゃんの住むマンションの前で『諦めちゃダメ』なんて言ったのだろうか。

 わかってる癖に。僕はなんでそんなことを言ったのか、自分自身がよく知っている。

 要はポイントをゲットしたかったのだ。サヤちゃんの中で、僕と言う存在を上位に置くための偽善行為。本当はうまく行くなと思っているにも関わらず、口では『うなく行くといいね』とあたかも応援しているような態度を見せる。

 僕はシゲ兄に付き合っているならもっと早く言ってくれればよかったと言った。

 それは果たしてサヤちゃんを傷つけたくなかったからなのか?

 もし、僕がシゲ兄からそのことを聞かされていれば、間違いなく僕はそれをサヤちゃんに伝えていただろう。

 そうすれば、サヤちゃんはシゲ兄を諦め僕に傾くかもしれないから。

 そうだ。メールでも同じことが言えるじゃないか。

 あのメールを送ればサヤちゃんの中でシゲ兄という株が暴落すると思ったのだ。

 そうすれば上位にいるであろう僕にサヤちゃんは寄ってくる。

 なんと卑しい考え。

 なんと貧相な考え。

 しかもその策略は見事失敗に終わる。

 サヤちゃんの中で、株が暴落したのはシゲ兄ではなく恐らく僕。無神経でエゴの塊であるだけでなくシゲ兄を落としいれようとまでしたこの僕の評価はワイヤーの切れたエレベーターのようにものすごい勢いで落下した。

 依然、シゲ兄はサヤちゃんの中でトップで輝いているはずだ。

 そうか。なるほどね。僕の内側はこういう風になっていたのか。

 ドロドロした黒いゲルの正体はこういった感情だった。

 そして僕がシゲ兄を殺そうとしている理由もわかった。

 サヤちゃんを守るためとか、サヤちゃんを傷つけたせいとか、そんな風に合理化してきたけど、蓋を開けてみればそれらの理由付けは全くもって筋違いじゃないか。言い訳もいいところだ。

 嫉妬。

 一言で言うなればまさにこの感情だ。

 メールでの作戦が失敗に終わった今、シゲ兄を空の上から引きずり落とすにはもうこの方法しかないのだ。シゲ兄を殺す以外の方法は。

 真っ向勝負を挑んで勝てる相手ではないことは血の繋がった僕がよく知っている。エアーズロックにスケボーで突っ込むようなものだ。無謀すぎる。

 それならば消してしまえばいい。どんなに足の速い選手であっても参加権が剥奪されれば金メダルを取ることは絶対にできない。シゲ兄から参加権を奪うには殺す以外に手はない。

 不意に自転車の音。

 僕は手をギュッと握った。バットがいつでも稼働可能な状態にしておく。

 自転車はライトをつけていた。逆行になって顔までははっきりと見えかねたが、自転車は間違いなくシゲ兄のものだった。

 僕の感じる時間がゆっくりとしたものになる。これはありがたいことだった。これでシゲ兄に攻撃をしかけるタイミングを取りやすくなる。

 近づいてくるにつれ、顔が少しずつ見えるようになってくる。間合いもちょっとずつ縮んでいく。シゲ兄とのお別れの時間までもう少し。

 心拍。変化なし。呼吸。変化なし。決心。変化なし。

 僕は冷静だった。シゲ兄が僕の間合いに入った瞬間、僕は茂みから飛び出す。

 金属の柵越しに一瞬、ほんの一瞬ではあるが僕とシゲ兄は対峙した。

 次の瞬間、遠心力を帯びたバットが慣性の法則に則ってシゲ兄の前頭部を打ち砕く。

 モグアとかフグヌとかそれに近い語感の言葉を発してシゲ兄は吹っ飛ぶ。車道の方へ。

 車道は、歩道に反して交通量が多い。特に、砂利やら木材などを積んだトラックが多く走っている。

 シゲ兄はちょうど木材を積んだトラックに激突した。辺りに血が飛び散るが、僕は茂みの中に避難して血飛沫ちしぶきをかわす。

 ブレーキ音。激突音。男の悲鳴。クラクション。また激突音。悲鳴。クラクション。

 僕は混乱に乗じて、その場を去った。バットは布をぐるぐる巻きにして自転車の前かごに入れた。

 幸い、僕の存在に木を止めたものは一人もいないようだった。そのまま直進する。

 後方から悲鳴が聞こえた。そりゃそうだ。あれだけの大事故。悲鳴の一つも聞こえてこなければ人間としてのモラルがみな欠如していることになる。

「大丈夫か!」

「子供だ。救急車」

「誰かぁ、警察を!」

「シゲルくーん!」

 キキー。思わず僕はブレーキをかけた。

 僕は目を見開いて耳を澄ます。

「シゲルくん。どうして! シゲルくん! シゲルくん! シゲルくん!」

 年配の男性たちの声の中に一際目立つ声。小学生くらいの女の子の声。聞きなれた、サヤちゃんの声。

「そんなバカな」

 誰に言うでもなく一人呟いた。

 どうしてサヤちゃんがここに……?

 しかし、考えてる余裕なんてない。

 警察や救急車がじきに来る。

 それまでにこのバットの処理をしなければならない。

 自転車を再び発信させる。

 ――いつの間にか僕は笑っていた。

 勝利。そんな言葉が僕の中に浮かぶ。

 完璧であったシゲ兄を僕は倒したのだ。それもこんなにあっけなく。

 心に、兄弟を失った悲しみなんてなかった。自分よりも強い者を倒した喜び。それだけが僕の感情を支配していた。

 風が気持ちいい。肌に突き刺さるような冷気が心地よい。

 笑い声を殺しながら、僕は一刻も早く家に戻るため、ペダルを思い切り踏み込んだ。



         7


「やあ、ハルちゃん」

 いつもと変わらない口調の坂林。けれども振り返った顔に、いつものようなたるんだ感じはなかった。そう感じた理由はきっと、目がいつもと違ったから。

「よーっす。坂林くん」

 だからと言ってあたしは急にキャラを変えたりなんかできない。真剣にやらなくちゃいけないことはわかっている。けれど、こればっかりはスイッチ一つで切り替えたりはできない。

 坂林はあたしを見て微笑んだ。

「安心したよ。思ったよりも元気で。正直、さすがのハルちゃんも落ち込んでると思った」

 確かに昨日の夜はひどく落ち込んだ。美紀ちゃんとの思い出があたしの中で止めどなく溢れて、精神を涙の海へと引きずり込んで行った。

 ベッドに蹲って約一年ぶりに号泣した(ちなみに一年前は某映画のラストシーンで、一滴だけ涙をこぼした)。朝、起きたらまぶたが腫れて河豚ふぐみたいな顔になっていたのも事実だ。

 けれど、そんな気落ちしているあたしは『あたし』じゃない。そんな姿を人に見せるわけにはいかない。あたしは『友達の死に気を病む女の子』なんてキャラじゃないのだ。『友達を殺した犯人をぶっ飛ばすために立ち上がった愛と正義のヒーロー』の方が似合っているのだ。……いや、ヒーローではなくはなくヒロインか。

「坂林くんこそ、顔がいつもよりマトモになってる」

 あたしは意識を外側に向ける。

「これが僕の仕事のときの顔だよ。今日は遊びじゃないからね。ヘラヘラもしてられないよ」

 やはり坂林くんも真剣なのだ。そりゃそうだ。一人の人間が死んでいるのだから。

 ある程度の期間付き合っていると、その人物の持っている本当の姿みたいなものが見えてくる。坂林はちゃんと時と場所をわきまえることのできる人間だ。あたしが気落ちしているときに自分だけちゃらんぽりんなことをやっているわけにはいかない。そう考えて、こうして真剣な態度であたしに接しているのだと思う。

「頼りにしてるからね。名探偵」

 坂林は自らの頭に手を添えた。

「別に名探偵ってわけでもないけどね」

 そしてそのままの体制で駅構内の内側に向かって一歩踏み出した。

「あれ、どこに行くの?」

 ゆったりと肩を揺らしながら歩いている坂林が、首だけこちらを向けた。

「僕の友人のところさ。今回の事件を解決へと導く名探偵ってところかな。ま、詳しいことは電車の中で話すよ」

 止まる気配を見せず、どんどん先へ進んでいくのであたしも慌てて肉付きのいい背中を追う。

「電車ってどこに行くの?」

秋野原あきのばら

「秋野原? ってあのオタクの聖地の……」

「そう。その名探偵くんは秋野原で小さな事務所を開いているんだ。今からそこに向かう」

 秋野原と聞いて浮かんでくるイメージは嫌なものばかりだった。近年、テレビで秋野原特集などをテレビで多く放送するようになったが、それを見るたび出てくる人物を「何だこの新種の生物たちは」と思っているあたしである。秋野原にいいイメージは残念ながら持っていない。

 それに坂林の友人って……。ダメだ。マトモな人物像を描くことができない。

「あれ、ハルちゃん、ひょっとして秋野原に変な偏見持ってない?」

 あたしの顔を見て察したのだろう。坂林が尋ねてきた。

 その問いに答えないで、あたしは坂林の顔をじっと見た。冷たい視線で。

「え、何、何? あれ、もしかして僕のこと何か誤解してない? いや、確かに僕は毎日パソコンを何時間も使ってるし、普通の人よりも深いところに踏み込んだりはしてるけど、いや、でも、ゲームとかフィギュアとかは集めてたりしないよ、僕は」

 両手をぶるんぶるん振って否定する。

「……本当にぃ?」

「人を見かけで判断するのはよくないよ」

 ……まあいい。この男の家が不気味なフィギュアで埋め尽くされていようとそうでなかろうと、あたしには関係のないことだ。

「あ、その顔は信じてないな」

 そんなことは本当にどうでもいいことなので、あたしは坂林が何か言い続けているのを受け流しつつ、あたしはパスネットを使って山手線の改札を抜ける。

 秋野原に向かうためにあたしたちは下野・東京方面の電車に乗った。まだ三時にもなっていない平日の今の時間、車内はかなりいていた。あたしが席に座ると隣に坂林が座った。内心、かなり鬱陶しかったのだけれど、名探偵のことについて話を聞かなければならないので、そこは我慢することにした。

「あのね、誤解がないように言っておくけど、僕は萌えとかそういうものに興味があってパソコンをやっているわけじゃないわけで、僕にとってパソコンは言わば――」

「あー、もうわかったから」電車に乗ってもまだ下らないことを言っていた坂林に静止をかけた。「いいから、あんたのお友達の名探偵のことについて、話してよ」

 坂林は弁明をストップさせられ不満そうな顔をしていたが、自らの言い分を述べるのと、名探偵がどんな人物なのかをあたしに伝えるのとで、どちらを優先させるべきか、坂林は悟ったらしく渋々話し始めた。

「これから会おうとしている彼の名前は逸見いつみシゲル。年は二十五歳」

 それを聞いてあたしは驚いた。

「二十五歳!?」

 下手したらついこの間まで大学生だったってことじゃないか。それで名探偵だって?

「何でそんなに驚くかなぁ。僕が二十八歳だって知ったときは大して驚かなかったくせに。三歳しか変わらないよ?」

「そんときはまだあんたが探偵だって知らなかったからだよ。びっくりしたのはあんたが探偵だって聞いたとき」

 まあ驚いたというよりは信じられなかったと言った方が正しいのだけれど。住所をぴたりと当てられたときも驚いたというよりも気持ち悪かった。すぐ後ろにメリーさんが立っているような感覚がした。

「んで、その二十五歳の名探偵はどんな人なの?」

「ああ、そうそう。話がずれたね」

 あたしが話を戻さないと、また余計な方向に話が進んでいきそうだったので。

「シゲルくんと僕は同期なんだよ」

「同期?」

「そう、同期」坂林は図太い人差し指をぴんと立てた。「僕たちはとある探偵の元で数年間一緒に働いた仲なんだ。僕は大学生だった頃に小遣い稼ぎに。彼は探偵になるために弟子入りって感じかな。その当時、彼は高校生――って言ってもそのときはもう辞めてたみたいだけど」

 いろいろ驚くべき要素がありすぎて、あたしはどこで目を見開いていいのかわからず、瞬きを何回も繰り返す。

「そのとある探偵の人にはネットで会ったんだけどね、そこで見事僕の腕を買ってくれたわけだよ。まあ、あのときは結構無茶しててね。バレないように違法行為を繰り返してたよ。あの頃は僕も若かったなぁ。いや、今も若いんだけどさ、ははは。有料会員登録のサイトを回っては何とか無料ただで会員になる方法はないかって模索して、見つけ出したときのあの感動は忘れられないね。何度やっても楽しかったよ。それからネットストーキングって知ってる? ネット上で付きまとう行為のことなんだけど――」

 どこかで読んだことがある。オタクという種族は話題が自分の専門分野になると饒舌になるとか。坂林はその手の類の人種であることは人目で明らかだったが、この壊れたラジオみたいにあたしの興味がないことをベラベラといつまでも喋っている姿を見て、あたしの推測は確信へと変わった。

 しかし、坂林が暴走してくれたおかげであたしは坂林にに質問すべきことを絞ることができた。

「止まれ」

「ん?」

 笑顔のまま表情が停止する。どうしてそこまで楽しそうに自伝を話すのだろうか。

「そのシゲル――さん、って人はそこまでして探偵になりたかったの?」

 シゲルという人物がどういう人物か掴むために、あたしは問うた。

「うーん。彼の内面に関しては僕も断言はできなけど、たぶんそうなんじゃないのかな」

「まあ、高校辞めてまで探偵のところに弟子入りに来る人だもんねぇ。やっぱりそうかぁ」

 何となく親近感のような物が沸いていることに気付く。恐らく、学歴が中卒という共通点がそうさせているのだろう。

「彼が辞めるまで通ってた高校は慶陽けいようだったんだよ。それを蹴って弟子入りをしたんだから大した根性だよ」

 坂林は苦笑した。

「へえ、慶陽……って慶陽!」危うく聞き流すところだった。「慶陽ってあの慶陽義塾……」

「そう。慶陽志水。志水市にある。ハルちゃんの住んでる朝霧市の隣だから、わかると思うけど」

 高校に行く気のなかったあたしでもその名前は知っている。中学のトップクラスのやつが受験するような高校だ。一説によるとその高校に合格すればもう未来の心配はしなくてもいいという。そんな将来安泰の道をわざわざ離脱してくるなんて。

「頭がいいのか悪いのかわからないよね。少なくとも僕は高校を辞めるなんて無謀なことはできないよ」

「無謀ねぇ。あたしなんか高校に行ってすらないんだけどなぁ」

「あ」坂林の表情が強張った。「いや、ハルちゃんは利口だと思うよ、うん。お金をたくさん稼いでるし、高校に行かないってのも合理的だと思う。芸能人なんかは高校にあまり顔出さないって言うし。それと同じようなもんでしょ」

「下手なフォローをどうも」

「いやぁ……そんな、ははは」

 その名探偵が一気に違う世界の人間になってしまったように思えた。そのシゲルくんとやらはどうやらおぼっちゃんらしい。

「それにしても、その名探偵さんは大丈夫なんでしょうね?」

 その探偵に関する情報で、あたしがもっとも知りたい情報。それはその人物がマトモかどうか。

「大丈夫、って人格的にってこと?」

「そ。あんたよりもひどいのが出てきたら、いくらあたしでも耐え切れないわよ」

 秋野原を拠点に置いているくらいなのだから坂林のような人間を想定しなければならないのだろうけれど、もしフクロウよりももっと醜悪な――例えばガマガエルみたいな男が現れたとしたら、あたしは男の見えぬところでゲロゲロォとため息を吐くだろう。それどころか吐きっぱなしになってしまう。

 まあ、見た目の問題は仕方ない。こればっかりはどうにもならないので許すほかないのだけれど、さかってる犬のごとき下劣さと豚のような卑しさを内面に潜めた男だったとしたらあたしはその足で事務所を飛び出し、電車に飛び乗り、あっという間に帰宅するだろう。

「人格は問題ないよ。根はいいやつだから。ちょっと嫌味だけど」

「『根は』って何だよ。それに嫌味って」

「いや、なんというか、説明しづらいな。まあ、会ってみればわかるよ」

 何だ、その説明。あたしの中で不安という言葉がハツカネズミのように増えていく。

「なーんか、聞いてて心配になって来たんですけど」

「え、あれ? 僕の説明の仕方がわるかったかな」

「高校を辞めて探偵の弟子入りするような脳みその持ち主で、秋野原に事務所構えてて、人格にも少なからずの不安が見え隠れしてて、その情報でマトモな人物像を描けって方に無理があると思うんだけど」

「あ、その情報じゃ確かに変人以外の何者でもないね」

「変人じゃないって言うの?」

「変人ではないよ。さすがに」

 それから坂林は少々考え込むような動作を見せた。

「ねえ、ハルちゃん。シャーロックホームズって知ってる?」

 何を唐突に。しかも質問の内容がまるで小学生を対象にしたみたいだ。

「シャーロックホームズくらい、あたしだって知ってるわよ」

 その答えに坂林は満足げに笑った。その笑みは止めてくれ。不気味だ……。

「これから会いに行く彼は、まさにシャーロックホームズみたいな奴だよ」

「はい?」

 自分が今、電車に乗っているということも忘れて頓狂な声を上げた。

「頭脳明晰、運動神経抜群、その上イケメンだしね」

「そりゃあんたと比べればある程度の人はみんなイケメンにランクインするでしょうね」

 シャーロックホームズみたいな男。全く想像できなかった。いや、想像はできるのだけれど、それが坂林の友人であり、それも秋野原に事務所を構えているなんて、そんな情景が浮かんでこなかった。

「ひどいなぁ。僕、そんなにひどい顔をしてるかな?」

「もしシャーロックホームズみたいな人だったら、こんな事件あっという間に解いちゃうわね」

 あたしは坂林の一言には耳を傾けず、代わりにちょっとした皮肉を言っておく。

 けれど、隣に座る不細工はどういう受け取り方をしたのか、神妙な顔で首を横に振った。

「シゲルくんはね、この事件を初期の頃から追ってるんだ」初期の頃からだって? いったいどうして。「それが誰かに雇われてなのかはわからない。それは知らなくてもいいことだからね。けど、まだ解決できていない。警察ですら容疑者の一人も上げられないような現状じゃ、当然っちゃ当然なんだけど」

 そりゃ、警察がてこずっているって言うのに一般人がほいそれと犯人を見つけ出して捕まえて見せたら、それは警察の面子めんつが丸つぶれってもんだろ。

「それでも僕の知っている同業者の中じゃ、この事件の情報を持っている者でシゲルくんの右に出るものはいないと思うよ」

 だからこれからそのシャーロックホームズに会いに行くのか。

「その人とあんたが手を組めば事件は解決できるの?」

 実はちょっと期待していたのだけれど、しかし返って来たのは気のない返事だった。

「さあ。それは僕にもわからない」

「わからないって、昨日電話じゃあんなに自信満々だったくせに」

 あのときの坂林はちょっと見直した。あそこまではっきりとした物言いができる男だとは思っていなかったから。それなのに。

「そう……だよね」ポツリと呟いた。「美紀ちゃんの仇は取らないといけないんだ。そうだよ。ハルちゃんは犯人を捕まえると決心したんだ。ここで僕が沈んでちゃダメなんだ」

 自分に熱く言い聞かせる坂林。客観的に見ると、やはり不気味以外の何者でもないのだけれど、坂林が全力で協力してくれようとしている意思は痛いほど伝わった。

『まもなく秋野原到着です』

 車内にアナウンスが響く。

「さあ、行こうかハルちゃん」

 坂林は早々に立ち上がって扉の前に立った。

 電車は減速し、駅の前に止まる――と、同時に坂林がバランスを崩し金属の手すりに激突した。すぐ隣の席に座っていた女性が不愉快そうにフクロウ面を睨んだ。

 恥ずかしいのであたしは他人のふりをして隣をすり抜ける。

「あ、待ってよハルちゃん」

 名前を呼ぶなっての。あたしは振り返らない。

 ったく、頼もしいのか頼もしくないんだか。


         8


 なぜあそこにサヤちゃんがいたのか、僕の頭の中でそんなことが敵意を持ったミツバチのように常に僕の思考を覆っていた。何かを知ってあの場にいたのか、それとも偶然あの場にいただけなのか。いや、偶然ということはほとんどありえないだろう。用もなくあの辺りをうろつくことはまず考えられないし、第一にあの周辺には公民館もコンビニもスーパーもラーメン屋も何もない。あるのは工事現場と畑と工場。その先には高速道路があるのだけれど、僕たち小学生には全く無縁のものなので、やはり用があったとも思えない。

 僕がシゲ兄を殺そうとしていたのを知っていたのだろうか。僕の殺意に気付いて後を追って――。バカな。そんなわけない。あれは突発的な感情であり、僕自身ですらあの時初めて自分の中のヘドロに気付いたというのに、それより先にサヤちゃんに感づかれるなんてありえない。

 本人に会って直接聞くわけにもいかないし、何より僕はあの事故、、以来学校には行っていない。なぜならシゲ兄が死んで、僕は表面上、、、落ち込んでいたからである。

 アキ兄はさほど気にしていないような顔をしていたが、シゲ兄とアキ兄は仲がよかった。二人は兄弟であり親友であった。親友と弟を二重になくした悲しみは、きっと計り知れないものであるはずだ。

 シゲ兄が車に撥ねられたという知らせは、僕が家についたときにはもうあったようで、玄関に入ってすぐ、まだ靴すら脱いでいない僕に母が駆け寄ってきて、シゲルが……シゲルが……と恐怖を孕んだ顔で繰り返した。

 どこに行ってたんだ、と問われた僕はコンビニと答えた。僕は手に持っていた週刊誌を見せ、これを買いに行っていたと言った。意味もなく外出をしていると怪しまれるかもしれないという危惧があったので、帰りにコンビニに寄って買ってきたのだ。バットは違う公園で水で洗い流し、トイレの横に備え付けられた不燃物のゴミ箱に突っ込んできた。誰か知らない子がそれを見つけ持って帰るか、あるいは清掃員の人がどうにか処分してくれるだろう。

 一番最初の電話は、サヤちゃんからもらったらしい。やはりあの場にはサヤちゃんがいたのだ。電話に出たのはアキ兄で、サヤちゃんは泣き叫ぶようにしてシゲ兄が轢かれたということを伝えたという。

 そんな……シゲ兄が轢かれた……。それも重体で命が危ないなんて。何でシゲ兄なんだ。あの優しくて頭がよくてスポーツ万能のシゲ兄が……信じられない。僕はそういう顔をして、病院に向かう車に乗り込んだ。車の中には僕、アキ兄、母の三人がいた。僕は外を流れていく銀杏いちょうの木やファミリーマートの看板やらを何の気なしに見ていた。車内は重い空気が流れ、とてもじゃないが何か物事を話せるような空気ではなかった。

 父にも連絡を入れたそうなのだが、どうにも抜けられないらしい。まあ仕方ない。某大手電子機器メーカーに勤める父が、部署の重要な位置にいることは僕も知っている。具体的にどんなことをしているのかは聞いたことはなかったが、何かを作る仕事をしていると言っていた。

 病院まではやたら遠い。シゲ兄はあと一歩で三途の川を渡ろうとしているというのに、どうしてこんなにも遠い病院に運ぶのだろうか。考えてみて、僕ははっとした。シゲ兄はそれだけ危険な状態にあるのだ。最近、テレビでやっている医者が主人公のドラマの中で言っていた。ここでは治療できない。もっと施設の整った病院に運ばないと。きっとシゲ兄もあのテレビの中に出てきた心臓に障害のある男の子と同じ状態にあるのだ。誰もが助からないと思うような絶望的な状態。

 そりゃそうだ。あんな大きな鉄の塊と激突すれば誰だって無傷ではいられない。その上、シゲ兄はまだ小学生なのだ。いくら他の子と比べて、力が強くて、体力があったとしても、それでも子供には違いない。骨は細いし、体に蓄えられている血も少ない。僕は見た。道路に広がった真っ赤なカーペットを。まるで熟れたトマトのようになったシゲ兄の姿を。

 僕たちは巨大で金属質な建物に到着する。大学病院。とてもこの中で幾人もの人間が死んでいったとは思えない清潔さが建物を取り囲むように漂っていた。

 まるで一流ホテルの入り口のように汚れ一つないガラスのドアを通り抜けると、やはり病院というよりは市役所に近い感じの印象を受けるロビーが広がっていた。

 そんな陰気など微塵も感じられない建物の中、母は今にも死にそうな顔で総合受付へと歩いていった。アキ兄もいつもに増して生気がない。

 戻ってきた母は黙って歩き出した。どこに向かうのだろうか。そのとき一番最初に僕の頭の中に浮かんだのは風邪を引いたときにく小児科の診療室だったのだけれど、シゲ兄は重態なのだ。これから向かっているところはきっと手術室なのだろう。僕らはいくつかの診療室や検査室の前を通り過ぎ、手術室に向かう。

 が、不意に母は立ち止まった。目の前には自動ドアが立ちはだかっている。その上に書かれた高度救命救急センターの文字。え、手術室じゃないの? 金属質な扉の上に赤い手術中』の文字が点灯。僕はそういうイメージを持っていた。母は、自動ドアを潜るとその先に進んでいった。唖然としながらも僕はそれについていった。


 それから数十分、僕たちは中にある手術室の前の椅子で待機した。

 やはり手術室の上には赤く光っている『手術中』。それが消灯した。

 中からはテレビで見たまんまの『手術を終えて結果を報告しに来た医者』が出てきた。

 医者は役者のような演出はせず、平然と言った。

「残念ですが――」

 隣でアキ兄は自らの腕に爪を立てていた。皮が向け、血がにじみ出ている。

 母はその通告に、泣き喚きその場に崩れるかと思ったが、そうはしなかった。目を瞑り、静かに耐えているのを僕は自らの顔を覆った指と指の隙間から窺っていた。

 肩が震える。

 僕は、人を殺した。


 そうして、僕は今シゲ兄の通夜の真っ只中にいる。そして実の兄の葬儀中だというのに、シゲ兄が死んでしまったことを悲しいこととは思わず、まるで当然のこととして受け止めている僕がいた。

 しかも思考はなぜサヤちゃんが事故現場にいたのか、なんて保身的なことばかりに傾いている。

 自分がここまで冷たい人間だったなんて思ってもいなかった。クラスの人間を、学校の人間をどこか冷めた目で見ていることには自覚はあった。自分よりも劣った存在。つまりそれらは犬や猫と同意。いや、犬や猫ならまだ可愛げがある。そう、豚や牛だ。利用するためにあるだけの存在。

 クラスメイトたちと僕は違う。そういう認識が常にあった。誰が死のうと僕の人生にはこれっぽちも影響をきたたさない。何故なら僕の中で彼らのランクは家畜と同位なのだから。豚や牛が何匹死のうと、人間はそれを哀れんだりはしない。それと同じだ。

 それじゃあ僕の中でシゲ兄は豚や牛と同じ認識になってしまったのだろうか。

 ――それはまずありえない。

 僕は今もシゲ兄のことを尊敬している。素晴らしい兄だったと誇っている。どんな勘違いをしたって、僕の中でシゲ兄はいつも雲の上にいる。

 ならばいったいどうして……。

 それはシゲ兄が死んで当然の人間だと思っているからではないだろうか。サヤちゃんを悲しませたシゲ兄を許すわけには行かない。ゆえに殺したのだ。だから悲しみはない。確かに尊敬はしていたがそれ以上に憎しみの対象になっていたのだ。嫉妬。そうだ嫉妬だ。嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬。

 僕はそう何度も言い聞かせた。言い聞かせた? 何を。どういうことだ?

 思考を断ち切った。下らない自己分析を繰り返すだけ無駄だと気付いたからだ。

 視線を場内に向けた。黒と白の二色が辺りを埋め尽くしている。空気は灰色をしていた。

 見慣れた顔がいくつも並んでいる。親戚の面々、何度かうちに遊びに来たことのある顔の数々。それからシゲ兄のクラスメイト数人。そしてサヤちゃん――。

 サヤちゃんの隣にはサヤちゃんのお兄さんであるシンイチくんが座っていた。さらにその隣にはサヤちゃんのお母さん、そしてお父さんも。

 シンイチくんは現在中学一年生だ。シゲ兄の一つ上、アキ兄の一個下。そのため三人は非常に仲がよかった。学年なんて気にせず、気の知れた仲のようだった。

 現在、読経の中、一人ひとりが焼香台の前まで進み、額縁の中のシゲ兄に一礼して焼香を済ませていく。

 血縁者から順々に行い、それらの人が終わると今度は一般の人の番となる。見たこともないオジサンたちがたくさんいた。父に対して深々と頭を下げている姿を見て、会社の部下か何かなんだろうと察した。

 シゲ兄のことを何も知らないくせに形ばかり通夜に現れて……。僕の中に憤りが生まれた。奴らは絶対にシゲ兄のことをしのんでなんかはいない。父にいい印象を与えるためにこの場を利用しているのだ。何て卑しい。

 それからシゲ兄の友人たちが陰鬱な表情を浮かべながらこちらに向かって歩き出す。

 中には見慣れた顔もあって親友の死に胸を痛めている様が外側からでも窺えた。また、女子のほとんどは目に涙を浮かべていた。行事があるごとにシゲ兄に近づいていっていた群集の中に混じっていた子も多いはずだ。彼女らはこれからどうするのだろう。シゲ兄のことはきっぱり忘れるのだろうか。忘れられるのだろうか。

 焼香の後、去っていく人たちを僕はずっと見つめていた。みな、まるで太陽を奪われた月のような顔をしていた。光がない。絶望の影が目に宿っている。僕はシゲ兄の持っていた影響力の大きさに今さらながらにショックを受ける。

 誰もがシゲ兄に羨望していたはずだ。そして誰もがシゲ兄を信頼していた。シゲ兄の一番近くにいた僕はそれを知っている。

 けれど嫉妬されることはない。シゲ兄は自分の有能さを回りにひらめかせたりはしなかったからだ。無意識のカリスマ性。生まれながらの才色兼備。歩いているだけで華になる存在。

 全ての中心となっていた人物が失われたのだ。教室に、グラウンドに、体育館に、そして心にポッカリと穴が開いた状態。それを埋めることのできるピースは、そう簡単に転がっていないとてつもなく大きなモノ。

 見た目以上にタフさを兼ね備えているアキ兄の胸にもシゲ兄は打撃を与えた。

 この場内にいる人物の中で心を痛めていない人物は、恐らく父の同僚で仕方なくここに来た者と僕を除いて恐らくいないはずだ。

 大なり小なり――ではなく、必ずしもシゲ兄を知るものは大きく胸を痛めていた。

 シゲ兄が事故死。

 骨が飴細工で作られていたのではないかと勘ぐられるほどことごとく破損した人骨じんこつ。体の表面から皮膚という臓器が消え去ってしまったのではと勘違いするほどの裂傷。シゲ兄は最初の木材を積んだトラックに撥ねられた後、さらに後ろから来た大型トラックに轢かれ、その上対向車線を走っていた乗用車に引きずられた。

 あのとき、もうすでにシゲ兄はほとんど死んでいたのだ。もはや医者でも手の施しようはなかったと聞いた。

 光り輝くカリスマが一瞬にして汚らしい肉片に変わる瞬間。僕はそのきっかけを作った。そして、その惨事を見ていたサヤちゃん。シゲ兄の奇声。サヤちゃんの悲鳴。僕の内側の笑い声。

 僕の視界をサヤちゃんが横切った。一瞬、幻が見えたのかと思ってその姿に目をやると、どうやら焼香がサヤちゃんの番だったらしい。

 そしてそれに続いてシンイチくんも台の前に立つ。

 シンイチくんもサヤちゃんに似て端正な顔立ちをしている。背が高くて鼻筋の通ったキリッとした顔。雰囲気としてはアキ兄に似ているところがある。

 シゲ兄やアキ兄と並んでも見劣りしない人間。シンイチくんはそういう数少ない人間のうちの一人だった。

 二人は焼香を済ませると僕の前を再び横切る。シンイチくんは悲哀に満ちた目で前を見据えていた。サヤちゃんは――。

 僕の心臓がドキリと脈打つ。同時に動揺が僕を包み込む。

 サヤちゃんは僕の方を見ていた。それも訝しげな眼差しで。涙目の向こう側に見えたサヤちゃんの心は僕のことを疑っていた。

 シゲ兄がトラックに撥ねられたあのとき、サヤちゃんはすぐ近くにいた。けど僕が見た限り、サヤちゃんはシゲ兄の方ばかりに気を取られていたから僕が近くにいたことに気付いてなんかいないはずだ。

 いや――もしかしたら僕の後姿を見たのかもしれない。待て待て。あのとき、僕は髪を束ねて帽子の中に入れていた。後姿どころか、前から見ても遠目では僕だと判断することはできないんじゃないのか。他の判断材料は服――大丈夫だ。事故があった昨日、僕は有り触れた服を着ていたはずだ。ジーパンに真っ黒いコート。それじゃあ何だ?

 僕は思い至る。これならばあの場にサヤちゃんがなぜ居合わせたのかも説明がつく。

 シゲ兄が僕に殺されることを察してサヤちゃんに連絡を取ったのだ――違う。もし察していたのならばあんなに簡単に殺せるはずがない。シゲ兄は僕の殺意に気付いてなかった。だが、しかし連絡を取ったという着目点は我ながらいいと思う。そう、たぶんシゲ兄は確認の電話をサヤちゃんに入れたのだ。シゲ兄がサヤちゃんを呼び出したのだ。

 サヤちゃんの家の電話番号――そんなのシンイチくんの家の番号を知っているシゲ兄なら知っているに決まっている。

 そこで二人の間に矛盾が生じる。シゲ兄はサヤちゃんに呼ばれたということでサヤちゃんに電話をかけたと言うのに、サヤちゃんはそんなことをまったく知らない。どういうことだ? しかし日ごろ探偵の真似事をしているシゲ兄ならば当然気付いたはずだ。僕が嘘をついて呼び出そうとしていることに。そして、恐らくそれはサヤちゃんにも伝えた。僕のおこなった奇行を。

 そうなると僕はかなりピンチなんじゃないのか。サヤちゃんも有能な頭を持っている。僕の犯行に気付いているかもしれない。だからあんな冷ややかな目を。

 いやいやいや。待て待て待て。シゲ兄は未だ事故死として処理されている。犯人も何も、あれは事故なのだ。僕が捕まることなんて決してない。サヤちゃんにしても、なぜ僕がサヤちゃんの名を使ったのか、という点を不審に思っただけだろう。それならば後ほど弁解すればいい。

 そうだ。葬儀を終えた後、直接本人に聞こう。通夜振る舞いとか言ったか。葬儀に足を運んでくれた人たちに挨拶をし、簡単な食事でもてなす席。きっとサヤちゃんたちも残るはずだ。そこで詳しいことは聞こう。それから判断すればいい。

 判断? 何の判断だよ。

 ……もういい。どうせ思考にストップがかかることは目に見えてる。僕は今、自分のこともわからなくなってる。

 とにかくサヤちゃんに話を聞いて、それからは流れるがままに流れていけばいい。なすようになれだ。

 そして葬儀は終盤に近づき、一人が立ち上がり、別の一人が斎場を出て行く。印象の向上を狙ってシゲ兄の葬式を利用しようとした連中はもうとっくに姿を消していた。

 僕もいい加減立っているのにはうんざりしていたところだ。それに、サヤちゃんの話を聞いて、早くこの緊張の呪縛から解き放たれたい。葬儀終了まであと少し。


         ※


 僕とアキ兄は歩いて自宅へと向かっていた。市の斎場から僕の家までは徒歩十分程度で着く。父と母はいろいろと忙しいとのことでまだしばらくは帰れない。なので、僕とアキ兄は二人で家路に着くことになったのだ。

 通夜振る舞い、サヤちゃんの姿もシンイチくんの姿もなかった。席にはサヤちゃんの両親だけが残っていた。曰く、サヤちゃんは気分が優れないから先に歩いて帰ったという。シンイチくんはそれの付き添いということだった。

 僕の中のモヤモヤは最大限まで膨らんでいた。蛇の生殺しのようなこの状況。奪回するためにサヤちゃんに話を聞こうと思っていたのに。

 気分が優れない……果たして本当だったのだろうか。サヤちゃんは僕を避けているように思えて仕方なかった。

 不意に、普段は無口のアキ兄が声を漏らした。

「サヤちゃん、可愛そうにな」

 僕は声の方に顔を向けた。

「何が?」

「シゲル、全身ズタボロだっただろ。自分が好意を抱いている人物が目の前で血だるまになるんだ。精神的ショックは計り知れないはずだよ」

 サヤちゃんの悲痛な叫び声が甦る。シゲルくん! シゲルくん!

 耳を塞ぐ代わりに頭を振って声を振り払う。

「……というか、何でサヤちゃんがシゲ兄のこと好きだってこと、知ってるんだよ」

「別に可笑しなことじゃないだろ。俺はおまえらと同じ南小卒だぜ。知り合いは山ほど在学してる。特に女子たちの間じゃ、サヤが告白したっていうのは大事件として広まってたみたいだから」その伝手つてで知ったってわけか。「それにおまえも可愛そうだよな。サヤにフラれた直後に大事な兄貴を失うなんて。本当に地獄だろうよ」

 地獄ねぇ……。確かに数週間前の僕がこの状況にいたら泣き喚いて発狂寸前だったかもしれない。僕はシゲ兄が大好きだから。

「……僕は別にサヤちゃんにフラれてはいない」

 嫌な話題だ。何とかして変えたい。プライベートな部分なのであまり踏み込んではほしくない。例え、僕の尊敬するもう一人の兄、アキ兄であっても。

「同じだよ。叶わぬ恋なんだよ。おまえのは」

「僕じゃシゲ兄に勝てないって言うのか」

「そうじゃない。勝てる勝てないの問題ではないのさ。すべてのことには超えられない壁ってのがあるもんなんだ」

 壁、ね。

「超えられない壁が全てのものにある、アキ兄はそう言うんだ」冷たい視線をアキ兄に送った。「それじゃ、アキ兄が超えられない壁ってのは何?」

 少し頭に来ていた。何でもそつなくこなせる人物にそんなことを言われると、誰でも頭に来るだろう。

「俺はシゲルが怖かった」

 少しも考えず、そして躊躇せずに言った。

「怖かった? どういうこと?」

 意味がわからなかった。シゲ兄は誰にでも社交的で優しい人間だった。尖ったところなんてない、全身を優しさという言葉でくるんだみたいな人間。それが怖いなんて。

「俺よりもシゲルの方が優秀だったからな。弟に抜かされそうになる兄の気持ち。おまえはわからないだろう? 身長だってそうさ。あいつはどんどん伸びて、俺とそれほど変わらないくらいまで背が高かった」

 僕は末っ子だから一番年上であることがどういうことなのかはうまくつかめなかった。けれど、自分よりも年下の人物が自分よりも優れていたとしたら、それは確かに敵意の対象になるかもしれない。

「もちろんおまえもずば抜けて頭がよかったからな。おまえのことも怖かったよ」

 そう付け足しやんわりと笑った。

 アキ兄はすぐ後ろに迫っていたシゲ兄の影に怯えていたわけだ。もう抜かされるのではないか。顔を横に向けると、そこにはシゲ兄が立っているのではないか。そういう恐怖。

 シゲ兄があまりに優れているがために生まれた壁。それがアキ兄の目の前に立ちはだかり進路を妨害している。

 それなら――。

 僕は問うた。

「じゃあシゲ兄はどうなんだよ。シゲ兄の超えられない壁ってのはいったい何なんだよ」

 声を荒げる。二月の夜。息は白く濁っていた。

「シゲルの壁も恋愛だよ」

 シゲ兄の壁が……恋愛?

「嘘吐け。シゲ兄が恋愛で悩むことなんかありえないよ。成績優秀スポーツ万能。才色兼備のシゲ兄は女の子からモテモテで……」

「女の子からはだろ?」

 アキ兄の冷えた言葉が僕の声を差し止めた。

 即座には理解が不能だった。

「え?」

「シゲルがモテたのは女の子からなんだろ?」

 眉を顰める。

「何が言いたいの? アキ兄は」

「おまえ、昔からシゲルと仲良しこよしやってた癖に何も気付かなかったのか? シゲルになついてたおまえならとっくに気付いてたと思ったが」

 怒鳴る。

「そんなにもったいぶってないで教えてよ。シゲ兄の壁って、いったい何なんだ」

 そしてアキ兄はまたあっさりと解答を述べた。

「あいつが好きなのは男なんだよ」

 目の前にいきなり見たこともない数学記号を持ってこられたときのように、僕の思考は完全に停止する。

「ホモ……?」

 何とか声に出してそう尋ねた。

「さあ……。でもたぶんバイセクシュアルだと思うけど。女に全く興味がないってわけでもないようだったし」

「バイセクシュアル?」

 聞きなれない単語に僕は問い返す。

「男でも女でも好きになるという性癖の持ち主のことだ」

 さっかくの説明も回路がショートした状態じゃ記録機能も働かない。ただ、単純な問いを返すだけ。

「好きな人が男って……その人っていったい……」

 全く想像もつかない。シゲ兄が好きになるような男。

 けれどもこれまたアキ兄は何てことないように答えた。

「サヤちゃんの兄、シンイチだよ」


         9


「このビルの三階が逸見シゲルくんの事務所だよ」

 あたしたちは雑居ビルの前に立っていた。三階の窓にはデカデカと逸見探偵事務所と書いてあることを期待して目を上げたのだけれど、事務所があるはずの三階の窓には水色のブラインドの影が映っているだけで何も書かれていなかった。

「本当にここなの?」

 心配とか不安とかいう言葉が、湧き水のようにあたしの中で増えていく。

「ここさ。二十五歳にしちゃ立派なもんだろ」

 確かにそれほど小さくもないし、汚くもなかった。小奇麗な感じ。

「一階と二階と四階はどうなってんの?」

「さあね。でもたぶんどこかの株式会社とか有限会社の仕事場になっているんじゃないのかな」

 見た目で飲食店や娯楽施設の類でないのは明確だったので、まあその辺りが妥当だろう。

「それで三階が探偵事務所……」

 辺りを見回す。予想外にまともな建物が並ぶ。秋野原と言えば、もっと不気味で気色の悪いというイメージがあったのだけれど、こういったマトモな土地も残っているようだ。

「さあ行こうか。連絡はすでに入れてある。僕たちのために時間を取ってくれたんだ。待たせては悪いよ」

 携帯を取り出し時刻を確認。まだ三時を少し回ったくらいだ。

「何時に待ち合わせたのさ」

 三時ちょい。待ち合わせの時刻にしてはずいぶん中途半端だ。早めに乗り込むのか今現在遅刻気味なのか。

「四時だよ」

 あたしはもう一度携帯を取り出して時刻を確認する。

「三時二十三分。まだ三時半にもなってない!」

 いくらなんでも早すぎだ。

「いいんだよ。ちょっと早いくらいのほうがね。それに外は寒いじゃないか」

 確かに寒くはあるけれど、でも早さは『ちょっと』のレベルではない。

 しかし、坂林はあたしの忠告を無視してビルの中へと歩き出した。こいつ……客として来てるときと大分態度が違うな……。探偵として動いてるときは態度が大きくなるのか?

「何してるの? ハルちゃん。置いてくよ」

 普段、渋谷や銀座を歩き回っているときには聞くことのできないような言葉が坂林から放たれた。置いてくって? あたしを?

 あたしは駆け出す。坂林にとび蹴りを入れる勢いで。そのままスピードに乗ってジャンプ――。

 が、坂林はとっとと階段を上っていってしまう。ちっ。探偵モードの坂林はつまらない。まあしかしそれはマジメにやっているということでもある。ならあたしは不真面目か、というとあたしはこれでもマジメだったりするので、そこは勘違いしないでもらいたい。

 外見はちゃんとしているのだけれど、階段はコンクリートに何の塗装もされておらず、よく言えばポピュラー、悪く言えば在り来たりな風景が視界に広がる。

 一階は見たところ株式会社のようだった。入り口のガラスに山本㈱と書かれていた。二階は素通りする。何の事務所か確認せずに階段を上った。

 そして到着。入り口の扉の曇りガラスの部分には例のごとく『逸見探偵事務所』とゴシック体の太字で書かれていた。探偵事務所はこうでなくっちゃ。

 坂林は扉をノックすると中へと入った。あたしもそれに倣う。目の前には清潔感の漂う空間が広がった。

 真っ白い蛍光灯。真っ白い床。入って右側に見られた茶色のソファとガラス板のディスク。右側には鍵付きの大きな棚が置いてあった。正面にあるのは木製の仕事机。その上に置かれた書類やノートパソコン。そしてその前に座る一人の男。

「何だ。坂林じゃないか」そう言って自らの左手首に目をやった。「まだ三時半にもなっていない。遅刻なんてのは話にならないが、早すぎるというのも迷惑行為に他ならないんだぜ。社会人ならそのくらいの常識はわきまえろよ」

 あたしは目を疑った。

「まあまあシゲルくん。客人はもっと手厚く扱うべきだと思うけどね」

 そしてあたしは耳を疑った。

 この、目の前にいる人物がやはり『逸見シゲル』なのだ。

「客人? 私にとって君の訪問は厄介以外の何者でもないんだがね」

 ずいぶんと辛口なことを言うもんだ。まあ、日ごろはあたしも似たようなことを坂林に言っているけれど。

「君にとっては厄介かもしれないけど、僕も君の調べている事件に関して一枚噛むことになってね。協力を仰ごうと思って相談しに来たのさ」

 仏頂面を変えないまま、名探偵は立ち上がりソファの横まで歩いた。

「協力ねぇ。まあ座れよ。詳しいことはそれからだ」言って、男はこちらを見た。何か問われるかと思ったが、しかし問いは坂林に向けられた。「そこのお嬢さんは君の彼女か何かかい? 援助交際は立派な犯罪だよ」

「失礼なことを言うね。彼女は今の雇い主さ。少女連続強盗殺人事件について調べてほしいってね」

「それは失敬」再度あたしに目が向けられた。「失礼したね。君もどうぞ、腰をかけて。詳しいことはそれから窺うとしよう」

 促されては立っているわけにもいかない。坂林の隣に座る。坂林周辺は少し湿度が高いように感じられたが、気のせいということで自分を偽っておこう。そこに来て、あたしはやっとシゲルの顔を直視する。

 知的で物静かそうな感じの顔。体つきも決して肉がついているわけではなかったが、力強さが感じられた。

 一言で言おう。シゲルはかなりのイケメンだ。町を歩けば十人中十人の女の子が振り返ってしまうくらいのイケメンだ。坂林と比べるとアリとゾウ。いや、もっと距離は離れている。アリと金星の大きさ比べ。若々しいのに紺色のスーツを決め込んでいるというギャップがまたいい。

 あたしは隣に座る巨漢を見て、思わずため息を吐いた。

「あれ、ひょっとして僕と見比べた?」

「比べるまでもないでしょ」

 小声で尋ねてきた坂林にそう囁き返すと、心なしか坂林は肩を落とした。

「それじゃ、話を聞こうか。君はなぜ探偵を雇ってまでこの事件に介入しようと思ったのかを」

 先ほどまでとは打って変わって柔らかな表情になっている。営業スマイルってか。

「あたしの友達が殺されたの」

 もっとも端的な理由を述べる。

「なるほど。それで犯人を早く見つけ出して捕まえたい、と」

 頷きかけて、あたしは首を横に振った。

「捕まえるのは当然だけど、その前に顔面に思いっきりパンチを叩き込まないと気がすまない。いや、殴るだけじゃつまらない。一生男として使い物にならないように膝蹴りを――」

「気持ちはわかる」あたしの熱弁に割って入ってくる。どうやら暴走をストップさせたかったらしい。「だが、犯人とは言え必要のない暴力を振るっては君もなんらかの処罰を受けることになるがね」

 目の前のイケメンはニヤリと、皮肉めいた笑みを作る。

「構わない。それで気が晴れるのなら。それにあたしまだ未成年だしぃ。捕まっても何年も牢屋に入れられるわけじゃないだろうし」

 坂林が隣で苦笑いをしている。ポツリ呟くように言う。

「あのね、法律には刑法と民法ってのがあってその――潰しちゃったら民法の方でたぶん損害賠償もかなりの額取られると思うんだけど」

「そんなのはいくらなんでも知ってるわよ。要は潰さない程度にやればいいんでしょ」

 ま、どうせ捕まれば犯人は一生牢屋だ。使う機会もないだろうから潰しちゃっても人生に支障はないと思うけど……。こんなセリフは口には出せない。

「ところで」呼びかけられて、あたしはシゲルの方を向く。「君のいう友達の『美樹ちゃん』という子。美樹というのは本名かな」

「んーん。本名は水野咲」

 水野咲という名前はもう頭に焼き付いて離れなかった。

「水野咲。昨日殺された子じゃないか。昨日の今日で坂林を雇ったって言うのか?」

「いや……雇ったというか……」

 なんと言うべきなのだろうか。あたしは言いよどむ。協力者? 下僕? 感覚としては下僕の方が近い気がするけど。

 滞っていたあたしを見て、坂林がわざとらしく咳払いをしてから話し始める。

「お金はもらってないよ」

 シゲルは予想外だったのか、僅かに眉を顰めた。

「見直したな。君はいつからそんな慈善事業をするようになったんだい?」

 またしても皮肉的に言う。いつのまにか、営業スマイルは消え、また例の冷たい目に変わっていた。

「慈善事業なんかじゃないさ。僕は自分のためにこの事件を調べようと思ったんだ。それに、君だって誰かに雇われてこの連続強盗殺人を調べているわけじゃないんだろう?」

「ふん。確かにそうだがね。けれども私はこの事件について、探偵になる前から調べているんだ。だから私の場合雇い主がいないのは仕方がないことなんだよ」

 探偵になる前からだって? それじゃいったいいくつの時から調べているというのだ。

「ちょっと待ってくれ。この連続強盗殺人が起こり始めたのは二年前。少なくともその頃には君はもう探偵になっていたはずじゃないか。探偵になるより前から……? ……まさか、警察も見落としているような事件が昔あったとでも言うのか?」

 そういえばそうだ。

 確かにおかしい。高校を中退して探偵になったというのだから、探偵になる前と言ったら十年近く昔の話じゃないか。

 しかしシゲルは嘲笑うかのように、

「君も探偵ならわかるだろ。私たちにとっての情報というものが何なのか」

 と言った。

 あたしは坂林の顔を見た。困ったような顔をしていた。

「……僕たちが協力すれば事件を早く解決することができると思うけど」

「はっ。早く解決することができるだって? 君がいれば? 自惚うぬぼれるのもいい加減にしろよ。確かに君は優れたハッカーだけどね、今回の事件に関してはそんな能力は屁も同然だぜ」

「僕はクラッカーだよ。それから屁も同然と言うのはひどいんじゃないのかな。被害者の身辺調査、現場の情報、それから事件関係者の個人情報の奪取だっしゅ。これらのことに関しては十分僕も役に立つと思うよ」

「そんなのは私だって一人で調べられるさ。わざわざ君の手を借りることもない」

 あれ、この二人は親友だったんじゃないのか。あたしはふと思う。この場に流れている空気。これはどう見ても親友の間柄に流れる空気ではない。

「そうかい。僕は役立たずというわけか」

「そうだ。少なくとも役には立たない」

 随分とはっきりと言うもんだ。坂林が傷つくとかは考えないのだろうか。あたしも人のことを言えないが。

 二人はしばらく見つめ合う。本当に空気が重い。

 坂林は少なくとも何かしらの情報を得られると思ってここに来たのだろう。それに二人の互いに対するはっきりとした物言い。二人はただの知り合い以上の関係であるというのは間違いないのだろう。しかし、まだ何も情報を得られていない。それどころか協力を仰いだはずなのに敵対されつつある。

「それじゃあ」坂林が沈黙を破った。「情報を売ってくれないか。額はそっちが決めてくれれば――」

「断る。情報を売る気はない。売ろうにも値段がつけられないくらい貴重なものだからね。それに、君には得意のハッキングがあるじゃないか。自分で調べればいいだろ」

「この事件についてはある程度は僕も昨日のうちに調べたさ。だけど、君が探偵になるより以前にこの連続殺人が起きていたとは思えない。いくら調べてもそんな情報はなかった」

「ああ、そうだろうね。警察ですら気付いてないだろうから。だから言っただろ。この情報は貴重なんだ。私は誰にも話さないし、いくら金を詰まれてもそれは同じだ」

 坂林はぐうの音も出ないといった感じだった。

「それからはっきり言おう」シゲルは坂林を見据えた。「私はこの事件に関して君に協力するつもりは毛頭ないし、協力してもらうつもりもない。旧友相手に悪いのだが、こればっかりは私は一人で挑むつもりだ」

 隣のフクロウ男は難しい顔でシゲルの言うことに耳を傾けていた。

「……何がそこまで君を動かしているんだ。高校を辞めてまで探偵になり、君は生涯をかけてこの事件を解決させようとしている。いったい、君に何があったんだ?」

 ふん、とシゲルは鼻で笑った。

「それもトップシークレットさ」

 その態度がどうにも小馬鹿にしているような感じでどうにも腹が立った。

 どうしてあたしたちはわざわざここに来てやったと言うのに、こんな対応を受けなければならないのだ? 理不尽な怒りがこみ上げてくる。

「ちょっと」あたしの声にシゲルは驚きもせずこちらを見た。「あたしはどうしてこの事件に関わろうと思ったのか、あんたの質問に答えたのよ。だから、あんたも答えなさいよ」

 横のフクロウはキョトンとした顔であたしの顔を見ていた。

「なるほどね。確かに君は私の質問に答えてくれた。だけど、君は断ることもできたわけで――」

 いい加減ムカつきがマックスゲージを突破したので、あたしは机を思いっきり叩き立ち上がった。

 フクロウはこれ以上ないくらい小さな目を見開き、前の名探偵は相変わらず冷ややかな目であたしを見ていた。

御託ごたくはいいからとっとと説明しなさいよ。さあ」

 あたしは全力で男を睨んだ。それこそシゲルの顔に穴があいてしまうのではないかと思うくらいに。

「ははっ」突如、笑い声を漏らすシゲル。「おもしろい子だな、君は」

「ふさけないで」

 一歩踏み出す。胸倉を掴むために。

「わかったよ」言われて、足が止まる。「話そう。私がどうしてこの事件にこだわるのか」

 あたしは拍子抜けしてしまい、再び腰をソファに腰掛けた。

「〝死んだ親友の仇を取るためと死んだ妹を取り戻すため〟だ」

 あたしは眉を顰めた。

「……どういうこと?」

「そのまんまの意味さ」

「そのまんまの意味でわからないから聞いてるんですけど」

「私は理由を述べた。これでプラスマイナスゼロだろ? 悪いけど、これ以上は坂林に情報を与えてしまうことになるからね。これだけでも出血大サービスなんだ。あとは坂林に聞くなりなんなりして、そちらはそちらさんで解決してほしい」

「何よ、無責任な――」

 そう言いかけたのだけれど、横から鼻で笑う声が聞こえたので、あたしはそちらに顔を向けた。見ると、坂林が苦笑混じりの笑みを浮かべていた。

「君に妹さんがいたなんて初めて聞いたよ。それに君の親友と妹さんもこの事件の被害者だってことがわかった。どうやら被害者の一人ひとりを洗っていけば君の素性もちょっとは掴めるかもしれないな」

「ふん。皮肉を言うなよ。それにこの事件の被害者と認識されている人たちの中には私の身内はいないよ」

 君の素性だって? その言い方じゃまるで、シゲルという人物について何もわかっていないみたいじゃないか。

「僕の情報検索の力をなめないでくれよ。この十数年の事件を洗うことなんか造作のないことなんだよ」

「そうか。期待して待ってるよ」

 またしても勢いをがれてしまうあたし。どうして今日の坂林はこうも話に割って入ってくるのだろうか。

「それじゃあ、行こうか。ハルちゃん」

「はい?」

 立ち上がる坂林。急な展開にあたしは戸惑う。

「情報はもらった。彼がこれ以上話す気がない以上時間の無駄さ。行こう」

「え、いや、でもせっかくここまで来て……」

「だから特別サービスをあげただろ? 普段、私は自分のことを人に話したりはしない」

「し、知らないわよ、そんなこと」

 しかし坂林はあたしを放ってもうすでに曇りガラスの扉を開いていた。

「ちょっと待ちなさいよ。あんたはどうして今日に限ってこんなに動きが俊敏なのよ」

 デブ男は振り返らない。無視を決め込んでいるのか、聞こえていないのか。

「君の前での坂林がどんなだかは知らないけれど、彼は普段、こんな感じだよ」後ろから声がした。「ま、君の前の姿が地なのか、それとも今の姿が地なのか、それは僕にもわからないけれどね」

 あたしはその呟きを独り言だと認識した。だから返答はせずに坂林の後を追う。「おやおや、スルーですか」

 外の空気は冷たい。シゲルとの会話は決して楽しいとは言えるものではなかったが、早々に戻りたくなる。肌に突き刺さるようなこの冷気を目の前にすると、暖かい逸見探偵事務所が恋しくなった。。

 階段を降り、通りに出る。相変わらず人通りは少ない。坂林に並ぶ。

「ねえ」坂林に声をかける。「本当に帰っちゃうの?」

 シゲルの言うようなとても重要な証言を得られたようには思えなかった。むしろ、けむに巻かれたと言った感覚の方が強かった。

「うん。ハルちゃんはまだ何か聞きたいことがあったのかい?」

「山ほど」

 そこで坂林はムカつくほどあっけらかんと笑った。

「ははは。そうかい。でも彼は絶対に教えてくれないと思うよ

「何でよ」

「天才特有の頑固なんだよ。自分がこうと決めたものは何と言われようが絶対に変えないってね」

 他人に流されないってのはいいと思う。あたしも他人にとやかく言われるのは嫌いだし、何か言われたって納得が行くまでいわれた通りには動かない。うん、それはいいんだけれど。

「それにしたって自分がなんで犯人を捕まえたいのかを隠そうとするなんて、極端だよ。そりゃ知られたくない過去の一つや二つはあるだろうけど、ちょっとくらいは、ねぇ?」

「彼は過去から自分の素性が割れるんじゃないかと心配してるんだよ。どんな有能な探偵でも過去の記録は消せないからね」

「そうそうそれだ」あの事務所の中で何度か出てきた言葉。素性。「まるであんたはあの名探偵のことを全然知らないみたいな感じだったじゃん。あれはどういうことなの?」

 道が開ける。大通りに出た。

「うん。僕はシゲルくんのこと何も知らないよ。誕生日、生まれた場所。年も名前も」

「は?」思わず鼻で笑ってしまう。「何の冗談?」

「冗談なんかじゃないさ」

「冗談以外の何だって言うのよ。だって、あの名探偵の名前は逸見シゲルでしょ? 知ってるじゃん。年だって二十五歳でしょ? そうでしょ?」

「そうだよ。少なくとも僕の知っている逸見シゲルという人間はね」

「何言ってんの?」

「偽名の可能性があると言っているんだよ。というか、たぶん偽名だね。それに慶陽志水中退というのも嘘かもしれない。調べたところ、彼が在籍していた記録はない。見過ごしかもしれないけど」

 眉間に皺が寄る。理解不能。高校が慶陽じゃないだって? あんたがシゲルは慶陽にいたって言ったんじゃないの?

「そんなもん隠して何の意味があるのさ」

 身元を隠して、過去を隠して、それじゃあまるで犯罪者じゃないか。

 ……犯罪者?

「僕たちは仕事柄人に恨みを買うことが多くてね。堂々と素性明かして仕事をしていたら、それこそ身内に迷惑をかけるどころか、親戚中マークされれば下手をしたら死ぬしかなくなる。大げさだけどね。でもまあ、そういうのに用心する意味もあって、結構素性を隠してる人も多いんだよ」

「……ちょっと待って」一つだけ聞き逃せないものがあった。「今、『僕たち』って言ったわよね?」

「え、うん、言ったけど」

「ひょっとしたらひょっとしてなんだけどさ。あんたも偽名だったりする?」

 坂林の表情がピタリと無表情になる。

 静寂。いや、性格には静寂ではない。あたしたちの周りは足音や会話に包まれている。

 沈黙。あたしはジッと坂林の様子を伺った。

 坂林はゆっくりと首を横に振った。

 あたしはそこでなぜか安心した。

「ハルちゃんに隠しても仕方ないから言うけど、僕の坂林武治たけはるって言うのも偽名なんだ」

 耳を疑った。

「え?」

「ごめん。騙すとかそういうんじゃないんだ。今は誰にでも坂林って名乗るからハルちゃんだけ特別ってわけじゃないんだよ。ほら、ハルちゃんも仕事のときに名前隠すでしょ。それと同じで――」

「わかってるってわかってるって大丈夫大丈夫」慌てて坂林の言葉を切った。なんか知らないけど心臓の脈の大きさがやばい。目の奥がジンとしている。「あたしだって坂林くんに本名隠してたんだから。オッケーオッケー」

 何を焦っているんだ、あたしは。

 こんな男の本名がわからなくたって別に日常に支障はない。美樹ちゃんの敵討ちにも問題がない。

「……大丈夫? ハルちゃん。何かゴメン」

 あたしの顔を見て坂林が呟いた。

「まあ、ショックはショックだったけどさ。冷静になって考えてみれば、あたしがあんたの名前を知らなくたってどうってことはないし、どうだっていいんだよね」自分に言い聞かせる。言い聞かせるって何だよ。事実でしょうが。「ところで、これからどこに向かうの? もう帰宅?」

「いや、これから美樹ちゃんが殺されたホテルに行こうと思ってたんだけど……。ハルちゃんも行っておきたいだろう?」

「そうだね。美樹ちゃんが最期に行った場所にあたしも行ってみたいから。最期に美樹ちゃんは何を見たのか」

 美樹ちゃん。そうだ、あたしは美樹ちゃんの仇を取るために今日こうしてここにいるのだ。この男と馴れ合うことが目的ではないのだ。

「それじゃあ、急ごう。もうすぐ日が暮れるから」

 駅に向かいながら隣を歩くフクロウ面が言った。

 あたしは、この男の本名を知らない。


         10


 シゲ兄が同性愛者だったなんて――いや正確には両性愛者かもしれないけれども――それもサヤちゃんのお兄さんのことが好きだなんて。

 アキ兄は僕が知っているものだと思っていたらしい。普段の僕はシゲ兄と仲がよかった。いや、仲がよいというよりも僕はシゲ兄のことを尊敬し崇高していた。シゲ兄も僕のことを本当によく可愛がってくれていた。

 故に僕もシゲ兄の性癖に気付いていると思ったのだと言う。

「……でも、それはアキ兄の直感でしょ? 確証があるわけじゃ、ないんでしょ?」

 僕は問うた。

「そりゃそうさ。あいつだって自分の性癖については兄弟であっても知られたくなかったはずだろうからな」

 不意にあの言い争いが思い出された。

 シゲ兄は自分に好きな人がいると言っておきながら、決してその人の名前は口にはしなかった。そうか。それはその人物がシンイチくんだったから。

「でも俺はシゲルの好きなヤツはシンイチだったと確信してる」

 言い切る。その声は自信に満ち溢れたものだった。

「どうしてそこまで言い切れるのさ」

 いくら優れたアキ兄と言えども神通力じんつうりきを持っているわけではなかろう。

「ふん」鼻で笑われた。「おまえらは本当に似てるよ。おまえらは隠してるつもりかもしれないけど、態度に出るんだよ。ある程度一緒にいりゃわかるよ」

 おまえら、というのは僕とシゲ兄のことだろう。

「態度に出るって言うんなら、じゃあ、僕の好きな人、当ててみろよ」

 僕は普段、家でサヤちゃんの話はしない。それに、アキ兄とサヤちゃんが同じ小学校に在籍していた期間はわずか一年。アキ兄が六年生のときに僕たちは入学し、翌年にはシゲ兄は卒業している。

 学校でサヤちゃんと遊ぶ姿を何度も目撃していたであろうシゲ兄ならともかく、サヤちゃんを認識してるかどうかも危ういアキ兄に言い当てられるわけないと思った。

「シンイチの妹のサヤちゃんだろ?」

 悩むことなく答えた。

「な」言葉が出てこなかった。驚愕。なぜ、アキ兄もそれを知っているのだ。「まさかシゲ兄から――」

「あ、正解? まさかとは思ったけど、やはりか……」って、もしかして鎌をかけたのか? 「それからシゲルって。もしかしてシゲルにも言い当てられたのか? あ、そう。じゃあおまえってそれほどよく態度に出るヤツなのね。俺は、前にシンイチからおまえとサヤちゃんがよく遊んでいるという話を聞いていたから、もしかしたらと考えたわけだけど。確かに可愛らしい顔立ちの女の子だよな、サヤちゃんは。なるほどね」

 僕は押し黙る。黙って話を聞く。それしか選択肢がないように思えた。

「シゲルの場合も同じさ。俺たち三人組は昔から仲がよかった。みんな学年が違ったけど、小学校のころから俺、シンイチ、シゲルはいつも一緒にいた」そういえば、その三人で写っている写真を僕は数多くアルバムを通して見てきた。「俺が小五のときかな。三人で集まって暴露会やったんだよ。好きな人はいるか、ってね」不意にバレンタインデーの出来事が思い出された。帰り道での暴露会。サヤちゃんがシゲ兄のことを好きだと知ったあの瞬間。再び黒い感情が僕の中を駆け巡る。しかし、今、それもこんなところで爆発させるわけにはいかないので、大きく深呼吸をして落ち着かせる。幸い、アキ兄は僕の異変に気付いた様子はなかった。「そこでシゲルはシンイチの方をジッと見ながら『いねえよ』と答えたんだ。シンイチは気付いてない様子だったけど、俺は理解した。今、この場でシンイチに告白しようかどうか迷ったんだと」そんな馬鹿な、と笑い飛ばせない僕がいた。告白するタイミングを見計らう気持ち。これもバレンタインデーの日に体験したことじゃないか。一世一代の大勝負。ビルとビルの間に張られた縄を命綱なしで綱渡りするような心境。興奮。恐怖。アキ兄はきっとシゲ兄の表情を見逃さなかったのだろう。たぶん、シゲ兄はそのとき、どうするのが一番いいのか必死に考えていたはずだ。そして、それは顔にも出てしまったはずだ。「動揺がもろ目に出てた。シゲルにしては珍しく目が浮いてたからな。俺はそれ以上追及しなかったけど、それからシンイチといるときのシゲルを見てたらやっぱ顔に出るんだよ。今度、アルバム見てみな。あいつら二人で写ってる写真と集合写真じゃ、同じ笑顔でも全然違うから」

 確かに好きな人の前では好意が何らかの形で表情に表れる。単純に嬉しくて最高の笑顔になる者。逆に悟られないように自分を押さえ込み、かえって無愛想な顔になってしまう者。無意識のうちに視線がその人物の方に向いている物。いろいろな種類がいるけれど、自分の感情を殺すのはそう簡単なことではない。顔に出てしまう。それはシゲ兄だって当てはまるはずだ。

 シゲ兄の内面をこれっぽっちも見ていなかった自分が恥ずかしかった。アキ兄は僕やシゲ兄のことをちゃんと把握しているのに、僕はアキ兄のこともシゲ兄のことも何も知らない。これが年の差というものなのだろうか。やはりアキ兄も僕の兄だ。シゲ兄とは違った点でとても優れている。ちゃんとものすごい長所を持っている。羨ましい。

「ねえ、アキ兄は好きな人いないの? 僕やシゲ兄の好きな人を知っているくせに自分だけ隠しておくのはずるいんじゃない?」

 アキ兄のことをもっと知りたい。僕は初めてそういう感情に捕らわれた。

 ずっと僕はアキ兄を雲の上の人のような存在として受け止めていた。それは兄弟でももっとも年が離れているせい。五歳も年が離れている。だから趣味も思考も好みも知識も僕なんかとは比べ物にならないくらい発達していて、僕なんかじゃ話相手にもならないと心のどこかで思っていた。それに普段は物静かで僕ともあまり話をしないし(僕が距離をとっているせいもあるかもしれないけれど)。

 しかし、アキ兄は今すぐ近くにいる。そのことを知った。完璧であると信じていたアキ兄にも悩みはあった。知りたい。完璧な人間がどのようなことに悩むのか。どのようなものを求めるのか。

「おいおい。俺はおまえらから直接聞き出したわけじゃないんだぜ。それなのに、俺の場合は自白だなんて、理不尽だ」

 甘ったるい苦笑いを浮かべる。

「知っちゃったものはしょうがないよ。知った以上、アキ兄も暴露しなくちゃ。もしかして、アキ兄の好きな人も問題ありなの?」

「とんでもない」砂糖のような、蜂蜜のような苦笑をアキ兄は崩さない。「僕はヘテロだよ。男には興味がない」

 残念。これでもしアキ兄もシンイチくんのことが好きだったら美少年三人の不気味で奇妙な三角関係が完成したというのに。

「それじゃ、女の子が好きなわけだね。誰? 僕の知ってる人?」

 アキ兄はゆっくりと首を横に振る。

「今、好きな人はいないよ。高校に行ったら探すつもり。それまでは彼女とかも作るつもりはないしね」

「好きな人がいないだって? そっちの方が変だよ。誰か気になる人とかはいないの? 可愛いなぁとか思う人は」

 顎に手を当て、わざとらしく考えてるポーズを取る。本当に悩んでいるように見えて、本当は悩んでいないというのが、外から見てわかった。この人、はなから言うつもりはないらしい。

「好きな人はいないが……大事な人ならいるかな?」

 僕は眉間に皺を寄せる。

「何その臭い演出は。好きじゃないのに大事な人ってどういうことだよ。いったい誰のこと言ってるの?」

 そしてまた、戸惑いのない明瞭な声が僕の鼓膜を振るわせた。

「おまえだよ。おまえ」途端、僕は笑ってしまう。照れもせず、満面の笑みでよくそんな滑稽で気障きざで不気味で鳥肌がたつような寒々しいことを言えたものだ。アキ兄は鋭いところがある一面、こういうところが鈍かったりするようだ。僕が噴出したのも気にせず、長男は続けた。「俺はもう、兄弟を失うのはつくづくこりごりだ。おまえが死んだら俺、一人っ子になっちまうしな。言っとくけど、どっかの誰かさんとは違って俺は正常だからおまえに恋愛感情とかそういうのを持ってたりはしないぜ。――シゲルは本当にいいヤツだった。最高の弟であり最高の親友だったよ。今も、あいつが死んだっていう実感はわかねえけど、あいつが病院に運ばれて、死んだって聞かされたときは轢いた犯人を見つけ出してぶっ殺してやろうかとも思った。おまえもそうだろ?」

 少し胸が痛んだ。シゲ兄を殺したのは僕なのに。そして、シゲ兄が死んだことに関してはどうも思っていない自分がいるのだ。アキ兄はこんなに熱くなっているというのに僕は依然冷え切ったまま。この温度差が切ない。

 しかし、このまま黙って固まっているわけにも行かないので僕は頭を縦に振った。嘘は泥棒の始まりと言われ、その嘘が何かいい結果を生み出すことはないということを僕はよくよく知っていたのだけれど、僕は殺人鬼なのだ。この程度の罪を重ねたところで未来に影響が出てくるとは思えなかった。

「警察の話じゃ男はシゲルがバランスを崩して道路に飛び出してきたって証言してるらしいじゃないか。バランスを崩して? あいつが? たかが自転車だぜ? ありえない。例え、何かトラぶって……チェーンが外れて絡まったりとか、ブレーキがぶっ壊れていたとしてもあいつならそれなりに対処できたはずだ。それを、ふざけやがって。絶対にトラックの運転者のミスだ。そうに決まってる。絶対|路側帯をはみ出してのスピード違反だ」

「……ろそくたい?」

「あの車道の両側にある白線だよ。歩道と車道を分ける」さすがは中学二年生。よくそんなことを知っているものだ。「バランスを崩したシゲルはすぐに白線よりも外側に逃げようとしたはずだ。けど、白線の外側まで車輪が来ていたせいで巻き込まれちまったんだよ」

 本当は全然違うけれど。事実は僕がバットでヒットさせたせいで車から逃げるとか、そういう理性を働かせられなかっただけだろうなのだけれど。僕はアキ兄を否定しない。

「それじゃ――やっぱり運転者が……」

 罪が運転者に向くのであればこれ以上都合がいいことはない。

「……なんてね。そんなものは警察が調べればすぐにわかってしまう。ブレーキ痕を調べるだけで、俺の今の推論が完璧に間違っていることは立証されると思うよ。悔しいけど、やっぱりこれは事故だ。言ってしまえばトラックの運転手も事故の被害者なんだよ。車はダメになる。時間は削られる。精神は磨り減るし、名誉も汚される」アキ兄は僕の頭に手を置いた。クラスで小柄な方に入ってしまう僕の身長は一二二センチメートル。中学二年生で真ん中より少し後ろにいるアキ兄は確か、一六〇くらいと言っていた。「おまえはシゲルがいなくなって寂しいだろうし、トラックの運転手のことが憎いかもしれないけど、感情に呑まれるなよ。おまえにはおまえの人生があるんだ。シゲルが死んだからっておまえまでダメになることはない。な」

 そこで笑顔を僕に投げかけた。

 そこで僕は身震いした。

 寒い。寒すぎる。

 外気が冷え冷えしている。僕の心も驚くほど冷暗としている。

 息が白い。僕の中身も素晴らしいくらいに真っ白だった。

 これがアキ兄? いつもクールで格好よかったアキ兄なのか?

 アキ兄は腐臭を放っているように思えた。臭い。

 以前までの僕であれば僕のことを考え苦悩してくれるアキ兄の優しさに僕も涙しているところだっただろうが、今は違う。ただただ寒い。猛烈に強烈に臭い。

 恐らく、僕の冷めた感情は表情にも表れているはずだ。無表情。冷たい眼差し。けれど幸いアキ兄は自らのセリフに照れているのか顔を僕に見えないように僕がいる方とは反対側に顔を向けていた。

 自分の演説に自ら照れてみせる兄。ハハッ。どうしようもない長男。そんなんだから迫ってくるシゲ兄に怯えたりするんだ。壁があるのなら破壊すればいい。かの有名なベルリンの壁だって壊されたんだから。どこかで聞いた話によると、ベルリンの壁は誤報によって破壊されたらしい。壁を壊すなんて簡単だ。ひょんなことで瞬く間に消え去らせることができる。

 僕は障害になったシゲ兄という壁を打ち破った。打ち破って僕は欲しいものを手にする。それはつまりサヤちゃんを僕のものにするということ。

 どうしようもなく寒く凍えそうな帰路を行く。隣では急に黙り込んでしまった長男がまっすぐ前を見据えていた。

 明日は告別式。学校には行けない。

 本来、今日サヤちゃんに事故のことを聞きたかったのだけれど、先に帰られてしまってはどうすることもできない。告別式のとき、みんなは学校がある。きっとサヤちゃんも来ない。

 だから二月十七日木曜日。僕はなぜあの場にいたのかをサヤちゃんに話を聞くつもりだ。サヤちゃんのことを気遣うフリをして近づき、被害者遺族の肩書きを利用して事故のことを聞き出す。そして、なぜあそこにいたのかも。

 僕はずる賢い。自分でも笑えて来るほどに。そう、この頭の回転はシゲ兄譲り。

 僕は美しい。自分でも見とれるほどに。そうだ、この顔のよさもシゲ兄譲り。

 僕はシゲ兄のパーツでできている。サヤちゃんはきっと僕のことが好きになる。そうすれば事件のことについても協力的になってくれるはずだ。何かを知っていたとしても黙っておいてもらうことができる。

 自信を持つんだ。警察もあの惨事が僕の手によって起こされたものであるとは気付いていない。サヤちゃんさえ黙っていてくれれば何も心配することはない。

 上手くいく。これまでだって全てを上手くやってきた。そしてこれからも全ては上手くいく。いかせて見せる。

 アキ兄がこちらを向いた。

「さあ、早く帰ろう。明日も告別式で忙しい」

 その顔を見たとき、僕はクラスメイトを見ているときに感じるあの劣悪なものを見るような感覚に捕らわれた。

 すでにアキ兄は僕の中で雲の上の存在ではなくなっていた。

「……うん」

 それでも僕は演じた。内部で変化があったことを察せられてはまずい。

 表情のコントロールには自信がある。長年の愛想笑いで顔を作る神経が発達したのだ。

 僕たちは暗闇の中を家に向かって歩いた。

 多量の闇と冷気は僕の持っていたアキ兄に対する尊敬の念を凍結させた。


         ※


 二月十七日木曜日午前八時十分。僕は教室の自分の席に座っていた。珍しく、僕に近づいてくるものはいない。

 一昨日の段階でシゲ兄の死は学校中に広がったらしい。当然、このクラスも例外ではない。シゲ兄が事故死したこと、そして僕が昨日一昨日と忌引きで学校に来なかったことをみな知っている。そのためみな、僕に気を使っているつもりなのか、それとも単にどう話しかけていいのかわからないのか、挨拶はすれど世間話を持ちかけてくる人間は一人もいやしなかった。

 まあそんなことはどうでもいい。僕は別に世間話をしに来たわけではない。サヤちゃんに話を聞くためにやってきたのだ。なぜあの場にいたのか。何か知っていることがあるのかどうか。

 昨日の告別式にはやはりサヤちゃんは来なかった。学校があるのだから仕方がないし、それに通夜の晩に気分が悪いとも言っていた。それも少なからず関係しているのだろう。

 シゲ兄の体は燃え尽きた。昨日の時点でもう完璧にこの世のものではなくなった。憧れていたと同時にライバルだったシゲ兄は消え去った。もう僕の邪魔をするものはいないのだ。

 サヤちゃんの心も手に入れる。

 けど、すぐはダメだ。まずは優しくサヤちゃんに近づき心のケアをしなくては。そうやってサヤちゃんの中に僕の割合を増やしていく。シゲ兄が死んですぐは確かにサヤちゃんの中はシゲ兄の存在で溢れているだろうけれど、それも時間が経てばどうにかなる。いずれは僕に傾く。

 さあ、早くサヤちゃん。

 時計を見やる。時間は八時二十分を指していた。朝の会が始まる時間は八時二十五分。クラスメイトのほとんどはもうすでに到着していた。相変わらず僕に話しかけてくる者はいないけれど。

 もうそろそろ来てないとまずい頃なのに。サヤちゃん遅いな。

 一瞬、嫌な可能性が頭に過ぎった。

 僕は隣に隣の席の女の子に話しかけた。

「ねえ、サヤちゃん、風邪とか引いてたりした?」

 少女は僕に急に話しかけられて少したじろいだが、すぐに答えてくれた。

「わかんない。でも、一昨日から休んでるし、今日もまだ来てないみたいだからもしかしたら今日も休みかも」

 え……。休み?

 嫌な予感が的中した。

「ありがとう」

 とりあえず礼を述べ、僕は前を向く。

 二十三分。先生が入ってきた。

 先生は僕を見つけるとわざわざ哀れそうな顔を作って近づいてきた。

「ちょっと廊下に来てもらえるか」

 僕の脳裏には二つの可能性が浮かぶ。シゲ兄の死に関すること。僕が事件に関与していることがバレたということ。

 どちらにしろ、僕は頷いて先生についていった。三年一組は階の一番端にあった。時間的に児童のほとんどは教室に収まっている。教室を出て階段の前の方まで歩くと、誰一人いなくなった。

「お兄さん、大変だったな」

 そっちか。とりあえずは一安心する。しかしそんな素振りは見せず、節目がちに俯く。

「みんなシゲルくんが亡くなって悲しんでたよ。あんな活発で明るい子がいなくなって寂しいって」

 先生は一人語り、遠い目をしていた。きっとこの人もシゲ兄ファンの一人なのだ。

「学校で気分が悪くなったりしたらすぐに先生に言ってな。しばらくは辛いだろうけど、無理はするなよ」

 はい、と小さく答える。

「うん。俺からはそれだけだから。もう戻っていいぞ」

 そう言うと、教室に向かって歩き出した。僕もそれに続く。

「あの、先生」

 後ろから声をかけると、先生は心配そうに振り返った。

「ん? どうした?」

「サヤちゃんは、どうかしたんですか?」

 急にシゲ兄のことと違うことを聞くのは変だろうか。

 しかし先生は訝しげな様子も見せずに言った。

「鈴野さんか。気分が悪いから今日も休むらしい。おまえら、仲がいいもんな。心配か」

「ええ、まあ。サヤちゃんもシゲ兄が死んでショックを受けてたみたいだったので、心配で」

「優しい子だな」

 そう呟くように言って微笑んだ。

 クソッ。せっかくサヤちゃんに会いに来たって言うのに休みかよ。

 これじゃあ何のために学校に来たのかわからない。

 けど、僕はそんな苛立ちを表には出さず、先生の一言に照れた様子で頷くだけだった。


         11


 あたしと坂林はホテルの前に立っていた。いや、決してこの見るからに不潔そうな男と二人で入ろうってわけではない。あたしは『ヤらないエンコー』がポリシーなので。それにここはラブホテルではなかった。

 ホテルサンセット。渋山にあるビジネスホテル。美樹ちゃんが命を奪われた場所。幸せいっぱいで来たのであろう場所。

 あたしたちはこの建物を見るためにやって来た。

 詳しいことは何も知らない。でも、ニュースで言っていた話によると美樹ちゃんは腹部を複数回刺されショック死していたという。何とも痛々しい。そして悔しい。親友がそんな目に合わされたなんて……。

 最後に会ったあのとき、美樹ちゃんの目は喜びに満ちていた。心底幸せそうだった。めちゃくちゃ綺麗だった。輝いていた。けれど、その全てをクソ連続殺人犯が破壊したのだ。

 腹部を刺されたことによるショック死ということは、生きたまま、意識を保たれたまま何度も何度も美樹ちゃんは腹に刃物をつきたてられたということだ。自分の愛する人に。

 ああ、それは何と言う苦痛だろう。肉体的ダメージもさながら精神にも原子爆弾並みの壊滅と絶望を与えたに違いない。事実、美樹ちゃんはそれに耐え切れずに自律神経のバランスを致命的なまでに崩し、その結果美樹ちゃんの体は機能を停止させた。

 犯人は美樹ちゃんの体を壊しただけでなく、精神をも破壊したのだ。

 許せない。絶対に許せない。

「ハルちゃん」坂林があたしの横に立って言った。「もう、心の準備はできた?」

 もちろんこれは事に及ぶ勇気ができたか、とかいう低レベルな問いではない。坂林はすでに美樹ちゃんの事件についてある程度の情報は手に入れていた。どうこからそんなものを入手したのかはわからないが、恐らくはインターネットとか横の繋がりとかいうやつだろう。朝早くから情報収集をしていたという。坂林はここに移動する電車の中で美樹ちゃんがどのように殺されたか、警察の捜査はどのくらい進んでいるのか、現場の状況、それらのことを話してくれると言った。

 しかしあたしは断った。

 坂林曰く、美樹ちゃんはテレビで報道されていたよりも残酷な殺され方をしていたらしい。そう前置いて話を始めようとしたところにあたしが口を挟んだのだ。

「まだ心の準備ができてない」

 腹を何回も刺されるよりも残酷な殺され方。それはもう拷問以外の何でもない。そんな死に方を美樹ちゃんがしたなんて想像できなかったし、したくもなかった。

 それに、電車の中ではまだ『坂林』というのが偽名だという坂林の言葉がグルグル回っていたのだ。

 結局、電車の中では黙ったまま渋谷までの数十分を過ごし、駅から徒歩数分のところにあるホテルに着くまでもほとんど会話はしなかった。

 あたしは坂林を見やる。

「……心の準備ならとっくにできてるよ。さあ、早く話して」

 その返答に坂林はわずかに口元を綻ばせた。

「じゃあ、場所を変えようか。こんなところで立ち話も不自然だからね。静かな飲食店にでも入ろう」

 これから重大な話をしようって言うのに飲食店に入るなんて気が進まなかったけれど、他に静かに話のできそうな場所のあてもなかったので仕方なく付いていった。

 しばらく大通りを外れわき道を歩く。渋山は一歩大通りを外れるとこうした暗がりのある道がたくさんある。数分後、再び大通りに出る。そこであまり人が入っていなかった、しかし大きめなカフェに入った。

 コーヒーと紅茶の独特の香味。あたしたちは一番奥の窓際、人気のない席を選んで座った。店内には聞いたことのない音楽がかかっていた。洋楽であるようだけど、最近の曲ではないようだ。静かな店内にゆったりと響く。

 さっそくウエイトレスがお手拭を持ってやってくる。あたしはレモンティーを坂林はエスプレッソを頼んだ。そして、坂林は早々に喋り始める。

「もう一度聞くけど、心の準備はできたんだね? 君にはちょっとダメージが大きいかもしれないよ」

 あたしは坂林を睨みつける。

「あたしは大丈夫よ。心配しないで。あたしはタフだから、ちょっとやそっとじゃ泣き崩れも喚いたりもしないわよ」

 はあ、とため息を吐くフクロウ男。

「それじゃ話させてもらうよ。まずは美樹ちゃんがどのように殺されたか」

 周りの僅かな騒音も大きく感じる。そんな精神状態にあたしはなった。坂林の言葉を聞き逃すまいと全神経が研ぎ澄まされていた。

「ニュースでは腹部を何度も指されたと言っていたね。あれは多分報道規制何かだと思うけど、実際は腹部ではない。もっと下。下腹部の下。つまり……陰部を複数回に渡り刃物を突き刺す形で傷つけられている」

「刃物を突き刺す?」全身が嫌な汗に包まれる。まさか。そんな。ふざけてる。「それって……ナイフを突っ込んだってこと?」

「膣内もひどく傷つけられてるそうだからそういうことだと思う」

 そんな。刃物で刺されたとき美樹ちゃんは意識があったはずなんだぞ。馬鹿にしてる。犯人は腐っている。

「それからこれも詳しくは報道されてなかったことなんだけど、美樹ちゃんは両手両足をしばられていたらしい。それに猿轡さるぐつわもされてたらしい。タオルを噛まされてガムテープで口を覆われてたようだよ。動きを封じるためと叫び声をあげさせないためだね。その状態になるまでの過程はわからない。双方の合意でそういう状態になったのか、それとも力ずくでそういう状態にさせられたのか」

「双方の同意だって?」その言葉には黙っていられなかった。「あんた、美樹ちゃんがそんなこと同意すると思ってんの? あの子がSMするように見えんのかよ。あ?」

 慌てて坂林は首を横に振った。

「そういうことじゃないよ。可能性の話だ。それに声が大きい」

 言われてあたしは周りを見渡す。確かに、何人かはこちらの方を見ていた。すぐに目をそらしたが。

「あんた、いくら可能性の話だって美樹ちゃんを侮辱するようなことを言うのはさすがに怒るよ」

「……うん。そこは確かに僕の配慮が足りなかったかもしれない」

 と、少し坂林が肩を落としたところにちょうどウエイトレスがコーヒーと紅茶を運んできた。あたしは紅茶を受け取り、自らの前に置き息を吹きかけ一口口に含む。

「まあ……うん。続けて」

 砂糖とミルクを入れ、スプーンでかき混ぜている坂林に話を促した。

「現場には凶器は残されていたけど包丁だった。百円ショップなんかで売ってる普通の包丁で刃渡り十三センチ。指紋はなし。というか、犯人の指紋はどこからも出ていない。手袋をしていたか、ふき取ったか」

 あたしはレモンティーには口を付けず、黙って探偵の顔を見つめていた。

「それから犯人の外見だね。金髪にジーパン、上はジャンパー。サングラスもかけていたらしい。髪はショート。色白。身長は美樹ちゃんとほとんど変わらないくらいだったらしいから一六〇前後と思われる。細身だったけど、筋肉質っぽかったってホテルの従業員は証言してるらしい」

 そういえば犯人像についてはニュースでもいくらかやってたな、と思いながらあたしは聞き返した。

「で、あんたのことだから他の事件も調べたんでしょ。他の事件も、その男が犯人なの?」

「犯人も恐らく一緒。手口もだいたいみんな一緒だよ。みんな下腹部にナイフを突き立てられて死んでる」

 みんな同じ手口。あたしの中で溶岩が蠢き始める。ゴゴゴゴゴゴゴゴゴと。

 何人もの女性をそうやって甚振いたぶって殺してきたのだ。変質的な男。ハエとゴキブリをミックスしたみたいな不快感の塊。生理的嫌悪感を持ってして叩き潰してやりたい気持ちになる。

「じゃあ、そいつを探し出してとっ捕まえればいいってわけね」

「ああ、そういうことだね」

 そこでやっと一息吐いたのか坂林は回していたスプーンを止め、エスプレッソに口を付けた。どうでもいいけど、コーヒーをズズズと音を立てて飲むなよな。

「それからもう一つ。どうでもいいことかもしれないけど、重要な項目がある」

 コップを静かに置いて言った。

「どうでもいいのに重要って矛盾してない?」

「いや、そうかもしれないけど……。この連続強盗事件の被害者はみな、密室で殺されているんだ」

 口を付けていたレモンティーを危うく噴出すところだった。

「ゴヘッ、オホッ。み、密室ぅ?」

 そんな単語、ドラマでも耳にしない。するとすれば小説の世界だけだろうか。

「そうだよ。これからその状況も説明するね。美樹ちゃんの事件も密室殺人なんだよ」

 美樹ちゃん、と言われれば聞くしかない。

「……わかりやすくお願いね」

 要領はいいほうだけど、あまりごちゃごちゃ並べられるとパニックになる。何せ、そういう推理ドラマみたいな話はあまり好きではない。要点をまとめて言ってもらいたい。

「わかってるよ。まず、従業員が証言しているんだけど、美樹ちゃんは殺される直前に一人で外に出て行ってるんだ。それはいい?」

「うん、それで」

「美樹ちゃんは外に出て行ったはずなのに死体は三階の部屋の中で発見されたんだよ」

「は?」

「外から戻ってきたのを従業員が見逃した、あるいは見間違いという可能性も考えられるけど、フロントには防犯カメラがしかけられていて、その映像にはちゃんと美樹ちゃんが出て行くのが映っているんだ。外から美樹ちゃんが戻ってきた様子もない。そして当然のことだけど、裏口とかは鍵がかかっていたそうだし、それに元々一階には客室がないんだ。だから部屋の窓の鍵が開いていて、そこから侵入と言うのも難しい。ちなみに一回にはトイレがあるらしいんだけど、そこに窓はないらしいからそこからの進入も無理みたいだよ」

「で、鍵のかかった三階の客室で美樹ちゃんは見つかったの?」

「いや、密室って言っても別に鍵がかかってたわけじゃないんだ。今言ったように、ホテルに出入りするためにはフロントの前を通らなければいけないんだけど、そこには出て行く美樹ちゃんしか映っていないんだ。だから、美樹ちゃんが客室で発見されるはずがない。もっと言ってしまえばホテルの全体が密室だったと言える。玄関以外のところからは入れないにも関わらず、玄関は人の目があって使えない。つまり、人の目と言うのが鍵の代わりになってしまっているわけだ」

 もうこの段階で理解が不能になりつつあった。

「これが一回だけだったら、何とかカメラの目を潜り抜けて戻ったとも考えられるんだけど、全ての事件で起きているとなるとこれは何か意味のある現象、あるいは犯人消失のトリックの鍵と考えなければならないわけで――」

「ちょっと待って」

「ん、どうしたんだい?」

 今、大事なことをサラリと言ったような気がした。

「犯人消失ってどういうこと?」

「ああ、そうか。それは説明がまだだったか。死体が急に部屋に現れたりするのとは反対に犯人は部屋から姿を消すんだよ。カメラにも映らずにね。まるで煙のように消えてしまうんだ」

 消えてしまう。煙のように? ミステリー小説じゃあるまいし。

「つーか、それかなり重要なことじゃない? 密室とか犯人消失とか」

「まあ確かにマスメディアに知られれば大きく騒ぎ立てられるだろうね。だから、警察も黙っているのかもしれないけど。でも犯人を捕まえるための手がかりにはならない。犯人は金髪のショート。ジーパンを履いていてジャンパーを着ていてサングラスをかけた少し身長の低めな細身の筋肉質な男。これが見た目で犯人を探し出すための手がかり。密室とかそういうのはマスコミにでも任せておけばいい」

「言ってることはごもっともだけれど……」

 なんか釈然としない。

 あたしがブツブツ言っているのも気にせず、坂林はエスプレッソをまた一口飲んだ。今度は不愉快な音を立てなかった。

「それで、これは個人的な解釈なんだけど、いいかな?」

 この男の特性を見つけた。それはコーヒーを飲むと話が次の段階に進むというもの。

「え、まあ、うん、言ってみて」

 今のあたしに話の展開をコントロールする権力はない。坂林のペースにまかせるのみ。

「犯人は女性に強い恨みを持っているように思える。でなければこれだけ執拗に包丁で突き刺すなんてマネはしないと思うんだ」

 それはあたしも感じた。悪意。混沌。暗闇。狂気。普通の精神の持ち主ならばこんな風な人の殺し方はしない。

「でもそれだとイケメンだという美樹ちゃんの証言に矛盾する」

「どうして?」

「普通女性に悪意を向ける人物なんてのは限られてる。過去に酷い扱いを受けたとか、自分にコンプレックスを感じているとか。でも、もし犯人がイケメンだったとしたらそんなことに悩んだりしないと思うんだ」

「でも、それは一概に言えないでしょ。あたしはイケメンだって性格が破綻してたらフるよ。ボロクソ言ってね」

「少なくとも美樹ちゃんは優しいいい人だって言ってたよ」そうだ。そんなあからさまにおかしなヤツだったら美樹ちゃんは近寄ったりしないはずだ。「だから、これは嫌な考えなんだけど、ひょっとしたら犯人は女性を殺すことで快楽を得るような人種なのかもしれない」

 嫌悪感がドバーっと血管を流れて体中に巡る。黒い衝動。それはまるで坂林の飲んでいるエスプレッソのようにどす黒い。

「最悪。それだけは絶対にありえない。もしそんな理由で美樹ちゃんを殺したんだって言うんだったらあたしがこの手で殺してやる」

「僕だって不愉快さ。実に不愉快だ。快楽殺人者なんて僕は大嫌いだよ。殺人の中でももっとも下種な類だと思うね」

 坂林は両手を組んで静かにけれど激しい口調で言った。組まれた手には力が宿っていた。

「まあ、どんな理由があるにせよ、美樹ちゃんは殺していいような人間じゃなかったんだ。いや、美樹ちゃんだけじゃない。犯人に騙されて殺されていった女の子たちを思うと許せない。理由なんか関係ない」

 金銭目的。怨恨。快楽目的。どれも下らない理由だ。そんなものは女の子を殺していい動機になんかならない。

 坂林がコーヒーに口をつけた。また話題が変わる予兆だ。

「それからもう一つ。被害者には共通点――とは言えないかもしれないけど、被害に合う女性には傾向があったんだ」

「何よ」

「みな、一般世間が美人と評価する女の子たちだ」

 美樹ちゃんの顔が浮かぶ。愛らしい笑顔。可愛らしい口調。魅力的な動作。美人――言われなくても美樹ちゃんの容姿が平均以上であるということは認識していた。しかし。

「美人ってだけで狙われたっていうの?」

「まあ、正確には可愛らしいタイプの美人が狙われてるみたいだね。美樹ちゃんを見ればわかるだろう。ああいう感じの子だ」

 ああいう感じの子だと言われても、美樹ちゃんほどの容姿を持った子はそうそういないと思うけど。

「そしてさらに調べてみた。そしたら――これはあくまで僕の主観の問題なんだけど――殺された少女たちはみな、顔が似てるんだよ」

 あたしは眉を顰めて坂林の口が開くのを待つ。

「とは言っても瓜二つってわけではない。けれど、確かにバラつきはあるけれどもみな似てるんだ。しかも調べた限りだと性格までも似ている。体格は小柄。顔は可愛い。性格は明るめ。この三つの要素を殺された少女たちはだいたいコンプリートしている」

 要素をコンプリート? 可愛いとか小柄とか明るいとかってまるで自分の好みを言っているいるみたいじゃないか。……好み?

「気付いた? そうだよ。恐らく犯人は自分の好きな女性像に当てはまる女の子を次々に殺してる。陰部に刃をつきたててね」

 そんな。アホな。好かれたから殺された? ふざけてんのか。そんなバカみたいな理由がどこにあるって言うんだ!

 意義を申し立てようとあたしがいきり立った時にはもうすでに坂林はすごい勢いエスプレッソをゴクンゴクンと飲んでいた。話題が変わる。坂林は空になったカップを叩きつけるように置くと、真剣な眼差しになった。

「ハルちゃん。それで僕から一つお願いがあるんだ」坂林は息つく間もなく続ける。「君に仕事を辞めてもらいたい」

「はあ?」

 何をこんなときに言い出すかと思えばまた意味のわからないことを。

「このままではハルちゃんが殺されるかもしれないんだ」

 随分とはっきりと言ってくれたもんだ。

「どうして?」

「さっき説明したとおり、犯人は自分の好みの女性を殺している可能性が高い。殺された女の子の顔はみんな似てるって言ったよね」

「はん。それで?」

「ハルちゃんもその殺された女の子たちに似ているんだよ」


         12


 放課後、僕はサヤちゃんの住むマンションの前にいた。もう夕焼け。空は淡橙色に染まりお日様は立ち並ぶ家々やビルの陰に隠れようとしていた。

 今日、授業でやったこと。僕の脳みそはそんな下らないことを記録してはいなかった。しかし算数も国語も理科も社会もまだ授業を聞かなくたってわかる範囲だし、ノートやプリントの記入はばっちりだったのでまあ問題はない。それに四時間目にあった習字の時間も僕はボーっとしながらもお手本と比べても見劣りしないくらいの精度で書き上げることができた。

 ではそれらのとき、僕は何を考えていたのかというとそれはもちろんサヤちゃんのことであった。朝、サヤちゃんが欠席すると知った僕は早々にお見舞いメールを送ったのだけれど、なかなか返事が返ってこない。気分が悪くて携帯を見ていないだけかもしれないという可能性は十分に考えられたわけだけれど、返信が来ないことに僕は嫌な予感に取り付かれてしまった。

 もしかしたら何か知ってしまったのでは。もしかして本当は気分が悪いのではなく警察に話をしているのでは。今、僕のことを調べまわっているのでは。

 一度考えてしまうと、取り付かれたようにそのことばかりに意識が向けられてしまう。

 メールの返信が来たのは午後、僕たちが給食を食べているときだった。ごめんね。返信遅れちゃった。気分が悪いから今日は休んだんだ。もうだいぶよくなったから明日には学校に行けると思う。

 僕はお見舞いに行くよ、と返した。

 メールは五時間目の国語が終わった後に受信した。わざわざ悪いよ。大丈夫。心配してくれてありがとう。

 僕はその内容を読んでホッと肩を撫で下ろした。いつものサヤちゃんだ。僕に不信感を抱いている様子は感じられない。

 それでも僕はサヤちゃんがどうしてあの事故現場にいたのかを知りたくてこうしてサヤちゃんのマンションの前まで来ている。右手にはビニール袋。中には二リットルのアクエリアスが入っていた。お見舞いの品だ。

 ここ数日サヤちゃんとは顔を会わせていなかったので僅かながら緊張する。夏休み明けの学校と一緒だ。特に理由もなく体が強張る。

 それにサヤちゃんはシゲ兄が死んで大変ショックを受けているはずだ。葬儀の時に会えなかったせいで、いまさらどういう態度で会えばいいのか難しいところがあった。

 明るいのはまずおかしい。かと言って辛気臭い感じで会いに行くというのもどうかと思う。

 そこで僕が考えたのは悲しさを乗り越えて明るく振舞っている、という態度だった。あまりやり過ぎると演技がかってきて途端に嘘臭くなるけど、適度にやる分にはこれ以上の雰囲気はないように思えた。

 よし。これで行こう。

 僕は実行に移すためにマンションの入り口である自動ドアの前に立った。

「おや」

 不意に後ろから声をかけられた。聞いたことのある声。これは――。

「あ、シンイチくん」

 紺色のブレザーに青いネクタイ。アキ兄と同じ制服姿のシンイチくんが僕の真後ろに立っていた。

 シンイチくんはシゲ兄のお葬式のときには見せなかった人懐っこい感じの笑みを浮かべた。

「サヤに会いに来たのかい?」

 僕はコクリと頷く。

 するとシンイチくんは少し儚げな目になった。

「シゲルが死んだ日からずっと気分が悪いって言ってね。聞いてると思うけど、サヤはあいつが事故にあったのをすぐ近くで見てるんだよ」僕はどう答えていいかわからず、とりあえず一度頭を縦に振る。「あいつ死んだんだよな……。今も実感わかないよ。最初聞いたときは思わず笑っちゃったし。何の冗談だって――」そう語尾を延ばしたシンイチくんは慌てて僕を見ながら言った。「と言っても、君やアキラくんが受けたショックに比べれば俺のダメージなんて微々たるものなんだろうけどね」そこで僕から目を逸らしてまるで空でも見つめるように上を見上げた。「親友を失うのはやっぱり身が引き裂かれるほど辛いけど、家族となると次元が違ってくるもんな。俺だってサヤが死んだとしたらシゲルには悪いけど、もっとショックかもしれない」

 ハハッ、と小さく、それも苦笑気味に笑った。

 親族と親友か。果たして僕はどちらの方が悲しいのだろうか。シゲ兄とサヤちゃんだったら――比べるまでもなくサヤちゃんを失った方が悲しいに決まってる。シンイチくんは親族を失う方が辛いと言うけれど、それは一概には言えないものだと僕は思った。

「何か悪いね。呼び止めたりこんなところで熱く語っちゃったりして。さ、一緒に行こうか」

 自動ドアが開き、たくさんの郵便受けが目に付く。二番目のドア。シンイチくんは右のほうにある機会に暗証番号を入力した。すると扉がゆったりと開く。

「サヤちゃん、そんなに調子が悪いんですか?」

 ガラスの板の間を通り抜け、ロビーを歩いているところでシンイチくんに尋ねてみた。

「いや、大したことはないと思うんだけどね。別に熱があるわけでもないようだし。ただ食欲がないらしい。仮に食べたとしてもすぐ戻してしまうみたいだよ」胸が痛んだ。僕がシゲ兄を殺してしまったことでサヤちゃんはここまで苦しんでいるなんて。シゲ兄を殺したことに後悔はないけれど、サヤちゃんにその瞬間を見せてしまったことには後悔。「人が、それも親しい人が目の前で車にねられたら、そりゃショックだよ。それも死んじゃったとしたら尚更ね」

 サヤちゃんの部屋は五階。僕たちはエレベーターを使って目的地に向かう。狭い室内。僕らと一緒に沈黙が同車する。

 チン。『5』の文字が点灯している。扉が開いた。

「君は強いね」不意にシンイチくんが呟いた。僕は怪訝そうな顔を作ってシンイチくんに向けた。「アキラくんも今日、学校に来てたよ。知ってるとは思うけど。君たち三人が仲がよかったのは知ってるよ。特にシゲルは兄弟の真ん中ってこともあってアキラくんとも仲がよかったし、君とも仲がよかったって聞いてる。俺なんかより、ずっと一緒にいる時間は長かったはずだ。なのに、君たちは強いよ本当に」いきなり何を言い出すのかと思った。僕が強い? 「今日だって俺は学校をサボろうかと思ったよ。今の状態じゃ友達と話してたっておもしろくないし、むしろ話し声とかじゃれる物音とかがやけ鬱陶しく感じてね。だから、家で自室で一人でいようと思った。正直、勉強とか友達付き合いとかも今はどうでもいいって感じだし」

「はあ」

 とりあえず相槌を打った。

 内面の吐露か。僕は通夜の日のアキ兄を思い出す。初めて見たあそこまで小さくて下らないアキ兄の姿。僕は今までシンイチくんのこともシゲ兄やアキ兄と並ぶ優れた人種だと思っていた。けど、友達付き合いがどうでもいいだって? 物音が鬱陶しく感じる? それは溜まったストレスが行き場を失って自分の中に留めておくことができなくなった現象。逃避や八つ当たり。

 そしてそれを僕に話すことで自分の弱さを再認識しようとする。自分は親友を失ったことに心を痛めている。そういう自分に酔うために。

 うんざり。

 またしても優れていると思っていた人の像が崩れた。

「なのに君はこうして妹の心配までしてくれて、本当にすごいと思うよ。心が優しい証拠だし、君が強いということの印だ」

 僕は決して強くなんかないさ。嫉妬で人を殺すようなむしろ下位に属すような人間。強いのも優しいのもいい子ちゃんも外側だけ。蓋を開ければ中からはハイエナが飛び出してくる。

 いい加減シンイチくんの話にもうんざりしていたのだけれど、もう少しの我慢。部屋に着けばシンイチくんは自室へと消えてくれるだろう。

「君の強さを少しでもサヤにわけてやってくれないかな」

 ははっ、何が君の強さだ。こういう場面に限って人は臭いセリフを吐きたがる。

「お力になれれば」

 謙虚な態度で返事を返す。もうサヤちゃんの家の前に着いた。やっと開放される。

「ちょっと待っててね。サヤを呼んでくるから」

 そう言うと、金属質なドアを開け中へと吸い込まれていった。部屋の中からは数人の人間がやりとりする声が聞こえてきた。残念ながらどれが誰の声なのかまでは聞き取れないが。

 それから数分後、思ったよりも早く扉が開く。サヤちゃん大丈夫? と口に出しかけたところで出てきたのがシンイチくんであったことに気付き慌てて言葉を飲み込んだ。

「ごめんね。今、サヤ髪とか直してるから。仲がいいんだからそんなことは気にしなくてもいいと思うんだけど、やっぱ女の子だから人前に出るときの格好には気を使うのかな」

 気分が悪いというのにさすがはサヤちゃんだ。気が乗らないからと言って身繕いを怠ったりしない。いつも可憐で華やかなサヤちゃん。

「時間には余裕があるので、サヤちゃんに急ぐ必要はないと伝えてください」

 まあ、サヤちゃんのことだから僕が外で待っているとしても妥協はしないだろうけど。

「そうは行かないよ。お客さんを待たせるのは人間として恥だからね。そうだ。上がって待ってる? お茶くらいは出せるよ」

 僕は首を横に振った。

 中で待つということはすなわちシンイチくんと二人で待機するということだ。そうなると、シンイチくんはどんどん喋りだし、また玄関からここに来るまでに体感したあの不愉快な気持ちを味わわなければいけなくなる。そんなのはごめんだ。

「そうかい」あっさり引き下がってくれてよかった、と思ったのも束の間。「それじゃあサヤの仕度が終わるまで少し話でもしようじゃないか。いいかな?」

 よくねえよいいから帰れよ、とも言えず僕は黙って頷いた。

「はあ。構いませんけど」

「君はシゲルの夢について知ってるかい?」

 この人はシゲ兄の話をするときに遠い目をする。

「夢? さあ。でもシゲ兄のことだからスポーツ選手とかなりたがってた思いますけど。それか警察官とか……」

「何だ。意外だなぁ。君ならシゲルからいろいろ聞かされてると思ったんだけどな」眉間に皺が寄った。僕ならいろいろ聞かされていると思った? アキ兄も同じことを言っていたけれど、不幸にも僕はシゲ兄のことをほとんど何にも知らない。「……探偵だよ。シゲルがなりたがってたものは」

「はい?」

 僕は思考中だったためとその言葉があまりに現実味に欠けたものだったために上手く情報がキャッチできなかった。

「探偵だよ。しかも浮気調査とか猫探しとかそういう地味な仕事をする探偵じゃなくて、殺人事件とかを解いたりする探偵になりたいとかアホなことを言っていたよ

 そういって軽快に笑った。

「それってシゲ兄から直接聞いたんですか?」

「ああ、そうだよ。アキラくんと三人で遊んでいるときに聞いたんだ。あいつ、金田一少年の事件簿を集めてるのは知ってるかい?」

 そういえばシゲ兄の部屋にはMDコンポの横にある小さな本棚の中にズラーッと金田一少年の事件簿が並んでいたのを思い出す。

「ええ、集めてましたね」

「あいつ、あれを読んで小三のときにはもう探偵になりたいとか言ってたんだよ。そんな実際の殺人事件に一般人である『探偵』なんかが一緒に捜査できるわけないのに、結局死ぬまでその主張は譲らなかったなぁ」

 シゲ兄が探偵。本当にシゲ兄の考えることはわからない。何で探偵? 確かにシゲ兄は頭もそこそこいいし、体力もある。要領もいいから探偵に不向きではないと思うけど。

 そういえば、よく探偵の真似事をしていた。お遊びでやっているものだとばかり思っていたが、本物の探偵を目指していただなんて。笑えてくる。

「なあ? 可笑しいだろ。馬鹿そうに見えて実は頭がいい――と思わせといてやっぱり馬鹿だったんだよ、あいつは。探偵なんかなっても才能の持ち腐れだってのに。言っても聞かないんだよ、強情だから」

 そういうところは頑固だったからな、シゲ兄。まあでも反対の言葉に耳を貸さないほどシゲ兄は探偵になりたかったんだろう。

 というかシゲ兄はシンイチくんのことを好きだったはずなのだ。そんな人の言葉に耳を傾けないなんてやっぱりよっぽど真剣に探偵になると決めていたのだ。

 馬鹿だ。やっぱりシゲ兄はひたすらに明るいだけで何も考えてなかった。せっかく私立の中学を受験するというのに探偵になるのでは学歴もなにも関係ないじゃないか。両親を嘲笑うかの行動だ。

 だんだん陽気になってきた。笑える。おもしろい。

 今ではほんの数分前と打って変わってシンイチくんともう少しおしゃべりをしたい気持ちに捕らわれていた。この人間は人を元気にする力を持っている。

 もしかしたらシゲ兄はこの力にやられてしまったのかもしれない。全ての陰鬱を吹き飛ばすシンイチくんのパワーに。

「シンイチくんは、シゲ兄の好きな人を知っていますか?」

 気付けば口が動いていた。返事を返すことすら面倒に思っていたというのに思いのほか口が滑らかに活動したのだ。

 そしてその洞穴から出てきた言葉はシンイチくんの内部に大きな影響を与える危険性を孕んだものだった。

「さあ」

 さすがにシンイチくんでも知らないようだった。僕はアキ兄の言っていたことを話そうか本気で迷った。話してしまいたい。言ったらおもしろそう。シンイチくんのリアクションを見てみたい。そういういくつもの誘惑が僕を襲ったからだ。

「あいつ、好きな人の話の時だけははぐらかしてたからなぁ」数日前、数週間前、数年前を思い出すように目を下に向けた。「全然、女の話しないんだぜ、あいつ。だから好みもわかんないし。たまにこいつゲイなんじゃないのかと疑ったりもしたな」その懐疑の念が実際に正解だったりするということを僕はこのタイミングで口にするべきか再び思案する。「でもあいつが一番大事にしてそうな人ならわかる気がする」

 ん? どっかで聞いたフレーズだな。

 どこだっけか。考えるまでもない。すぐに思い出した。通夜の夜のアキ兄のセリフ。

「シゲルが一番大事に思ってた人物、それはたぶん君だよ」

 ほら来た。アキ兄と同じ言い回し。

「どうしてそう思うんです?」

 僕は冷たい口調で問う。

「どうしてそう思うかと聞かれたって、そう見えたんだよ。視覚的な感覚を言葉で説明するのは難しい。ま、ただ一つ言えるのは君のことを話すときのシゲルの顔は楽しそうだったな。そういえばあいつこの間――みたいな感じでいきなり切り出しては君の話をしてた。そういうときはたいていアキラくんもニコニコと笑ってたな。本当に仲のいい兄弟だと思ったよ。羨ましかった」

「羨ましい、ですか」

 僕たちはただ他に同レベルの人間が身近にいなかったから兄弟で仲がよくなっただけ。そんな絆なんて美しい言葉が使えない仲のよさ。自分よりも劣っている存在を排除していった末に残った三人。それがたまたま兄弟だったのだ。そしてそれから鈴野兄弟と出合ったことで今の形が形成された。

 突如ドアが開いた。いつものサヤちゃんが出てくる。

「やっほ」

 気分が悪いというシンイチくんの話が嘘だったみたいに元気な声。

「おいサヤ。お客さんが来た途端に急に元気になりやがって。現金なヤツめ」

「はいはい。お兄ちゃんは入った入った」

 そう言ってサヤちゃんは大きく開いたドアの向こうに進むように促した。

「入った入ったっておまえらは入らないのかよ?」

「うん。ずっと家にいたからちょっと外を歩いてくる。お母さんにもそう言っておいて」

 もう少し、僕はシンイチくんと話をしていたかった。シゲ兄のことについてもっと詳しく聞きたかった。客観的に見ての僕たちの繋がりについて、もっと証言を集めたかった。

「わざわざありがとう」

 頭を七十度に下げたサヤちゃんを前に我に返る。

「あ、うんうん。いいんだよ。特に用事もなかったし――あ」僕はペットボトルの入った袋を顔の前まで持ってくる。すっかり忘れていた。「これ、サヤちゃんにお見舞い」

 二リットルペットを手渡す。サヤちゃんに渡すと、いくらか持っていた左手が軽くなった気がした。たぶん、左肩から翼が生えて来たらこういう感覚になるだろう。

「ありがと。わざわざ来てくれただけじゃなくてアクエリまでもらっちゃって」もう一度扉をオープンし、青いラベルのペットボトルは玄関横の靴箱の上にドシリと置いた。「お兄ちゃん、お母さん。トシちゃんからお見舞いの品もらった。ここに置いておくね」

 返事も待たずにドアはガチャンと激しく音を立ててしまった。すぐに素早い足取りでエレベーターの方へと向かう。

「どうしたの? サヤちゃん、そんなに急いで」

 しかし返って来たのは僕の質問に対する答えではなかった。

「あたしに何か聞くことがあって来たんでしょ?」

 一瞬にして全身の血液という血液が液体窒素と化したように全身が急激に冷却される。

「違う。僕は本当にお見舞いに……」

「ウソ」サヤちゃんは僕を簡単にあしらった。「じゃあトシちゃんが聞きたいこと、私が当ててあげようか?」息を呑むだけで頷くことはできなかった。「〝どうしてあの場にあたしがいたのか〟。……図星、みたいだね。顔が真っ青」

 真っ青だって? 何でここで真っ青になるんだ。それを聞きに来たのだろう? そのまま話に乗ればいいじゃないか。

「……すごいね。ちょうど疑問に思っていたところだったんだ。だって、用事もなければあんなところうろつかないでしょ? そんなこと、どうでもいいことかもしれないんだけど、でもそのせいでサヤちゃんはシゲ兄が事故にあう瞬間を目撃してしまったんだ。だからその用事がなんだったのか、少し気になって」

 エレベーターのボタンを押した。一階から箱が上昇してくる。

「用事ね。あの場にいた理由。オッケー。順を追って説明してあげる。でもその前にあたしも一つトシちゃんに聞いておきたいことがあるの」

 僕に?

 エレベーターが五階に到着し、チンと音を立て扉が開く。

「何?」

 僕は冷や汗よりももっと濃度の濃い嫌な汗を全身に纏っている。エレベーターに乗ったサヤちゃんは狭い機内で僕をジッと見て言った。

「どうして《、、、、》事故、、が《、》きたあのとき《、、、、、、》、てこな《、、、》かったの《、、、、》?」

 一瞬、動揺が最高水準まで達したが、誤魔化すために間髪いれず聞き返す。

「どういうこと?」

「あのとき、トシちゃんは公園の中にいたんでしょ?」

「公園? あの事故現場近くの? いないよ。だってあのとき僕はコンビニにいたんだから」

「嘘」

「ホントだよ」

「……ああ、そう。嘘を吐くんだ」

「嘘じゃないって。真実だよ」

 僕の脳内はこのとき、パニックという言葉で満ち溢れていた。自分の言葉すらも嘘っぽく聞こえてしまう心境。何を言っても客観的に見て信憑性がかけているように思えてしまう。

「そう。それなら順を追ってあたしがなぜあそこにいたのか説明してあげる」逃げられない。エレベーターの中にいるので物理的にも逃げられなければ、この追い詰められた状況では精神的にも逃げ出せない。「最初はシゲルくんから電話があったの。俺に話があるのなら電話で聞くってね」お葬式の時に考えた嫌な予感が的中したことを知る。ああ、やっぱり。僕は今まで意図的にその可能性を考えないようにしていたのだけれど、現実はそう甘くないっていうのか。「でも、あたしは別に話すことなんかなかったし、シゲルくんがどうしてそんなことをいきなり言い出したか、全く見当もつかない。それで詳しく話を聞いたらトシちゃんがあたしの名前を使ってシゲルくんをあの公園に呼び出そうとしていたことがわかったの。だからあたしもシゲルくんに言われて紅葉公園に向かった。そこでシゲルくんが車に撥ねられたのを、見たの」

 完全に僕の危惧が的中してしまった。これには驚きとか不安とかいう感情よりも先に僕は感動してしまった。しかし、こんなときに感動している場合ではない。

 チン。一階に到着してサヤちゃんは先にエレベーターを降りた。僕も何事もないような素振りでエレベーターから降りる。

「さあ。僕はシゲ兄にそんな嘘を吐いた覚えはないけどな。サヤちゃんこそシゲ兄に騙されてるんじゃないの?」

 サヤちゃんが振り返る。冷たい目。あ、これはお葬式の時に僕に向けたあの訝しげな眼差しだ。

「そんな言葉じゃあたしは納得しない。はっきり言おうか。あたしはトシちゃんがあの事故の発生に何か関係があるんじゃないかと思ってる。例えば、自転車のブレーキを壊しておくとかチェーンが外れるようにしかけておくとか。そういうことをしてシゲルくんをあの交通量の多い場所で転ばせようとしたんだ。だからあの公園に呼び出そうと思った」

 本当はもっと直接的な攻撃をしかけたのだけれど、さすがにそれを言い当てられえることはなかった。しかしサヤちゃんの言っていることはほとんど正解だった。僕の殺意まで推察しているなんてすごい。

 とはいえここで僕がシゲ兄殺害を認めるわけにはいかなかった。認められるわけがない。

 僕は目に涙を浮かべる。そして静かな口調で怒りを示す。

「僕がシゲ兄を殺したなんて。そんなことあるわけないじゃないか。僕だってシゲ兄が死んで死ぬほど悲しいんだ。それなのに……ひどいよ。うう……」

 泣き脅し。これならサヤちゃんだって――僕はサヤちゃんを見やって驚いた。白けたような眼で僕を見ているのだ。

「嘘泣き」

 まるで僕の内面が見えているかのように呟いた。

「そんな……どうしてそんなこというのさ!」

 僕はまだ続ける。そう簡単に引くわけにはいかない。

「だってあんた、悲しいそうじゃないもん」涙が止まる。「シゲルくんのお通夜のときだってそう。一人だけ悲しんでないんだもの。アキラくんやご両親は本気で泣いているのに、一人だけ嘘泣きって言うのは目立つよ」

 わかるのか? アキ兄やその他大勢をも騙したこの涙が偽者であると、サヤちゃんはわかっているのか?

「長い付き合いだからね。わかるよ」

 僕の心情まで読めるのか? ははは、まいった。そして困った。さすが、僕が惚れた女だなんて古い不良漫画みたいなことは言ってられない。僕は顔を上げ、サヤちゃんの顔を見つめる。いや、無意識のうちに睨んでいた。

「もう嘘泣きは終わり?」皮肉めいた笑みを浮かべて言った。「トシちゃん。あたしはあんたがシゲルくんを殺した犯人であるという証拠を見つけ出すから。そしたらあんたも終わりだから」

 そう一言言って微笑んだ。相変わらず可愛らしい。

 自動ドアを抜け、外に出る。風が冷たい。

 僕たちは無言でマンションの周りをグルっと一周する。その間僕はずっと馬鹿の一つ覚えみたいにどうしようを連発していた。

 どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。

 捕まるのなんてゴメンだ。捕まりたくない。殺人は重罪だ。僕は未成年とは言え、人生を棒に振ることになるのは確実だ。

 マンションの入り口まで来ると、僕とサヤちゃんは別れを告げた。アクエリアスありがとう、じゃあね。うん、じゃあね。

 僕は自転車に跨って家に向かう。

 どうしようどうしようどうしよう。

 ……どうにもならない。

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