エンコータンテー

幽霊

一章 バイバイ、日常

         一章


      バイバイ、日常



         1


 やっぱり男はお金をたくさん持ってなくっちゃ。そうでなければ接客する価値がない。あたしがしていることはボランティアじゃない。若さと可愛さを武器に戦っているのだ。なんちって。

 今、あたしは頭の前方部分が薄くなりつつある男の横を歩いている。腕を組んで。寄り添う形で。

 言っておくけど、この男は彼氏なんて大層なものじゃない。あたしの時間を買いに来たお客さん。よく言えばそんな感じ。はっきり言ってしまえばカモそれもこのカモは上の上。特上鴨ロース。背負ってるネギも無農薬の高級ネギ。

「今日はありがとうね、ハルちゃん」

 ジーンズにシャツ姿の男が言った。シャツはお世辞にも似合っているとは言えないような、赤に紺や黄色の縦縞の入ったもの。ジーンズは比較的普通なのだけれど、つけてるベルトが金色に輝いている。チョイ悪オヤジファッションってか。

「いや、こちらこそ。晩御飯、ありがとうね。おいしかった」

 小さな、けれどコースで四千円も取られるようなフランス料理屋。今晩はそこでごちそうになった。

「喜んでもらえると嬉しいよ。お酒、大丈夫だった? ハルちゃん、まだ未成年でしょ?」

「平気。飲みなれて――はいないけど、全然飲まないわけじゃないから」

 やはりステーキには赤ワインだよなあ、とほんの数十分前の出来事を思い出す。こんがりと焼けたガーリックの匂い。グラスに注がれる夕焼けのような赤。右側に見える、白い皿に盛られた緑。バターやジャムに彩られた小麦色。さっき、満腹になったばかりだと言うのによだれが出てくる。

「ははは、ハルちゃん、全然酔っ払わないんだもの。僕よりもお酒、強いんじゃないの?」

「そんなこと、ないと思うけどなぁ。川崎かわさきさん、飲みすぎなんだよ」

 まあ、確かにあたしは強い方だけどね。ここは謙遜も兼ねてそう言っておく。

 あたしたちは駅に向かって歩いている。それぞれの帰路につくためだ。さっきさり気なく携帯で時刻を確認したところ、もう九時になろうとしていた。ここ、六反田駅に到着したのが七時半のことだったから約一時間半のお仕事だったわけだ。

 もうそこに駅が見えてきて、男はあたしに小さな封筒を渡した。そうお札がぴったり入るくらいの。

「一時間半に交通費、それで一万円でいいかな」

 一応目安としては一時間五千円ということでやっている。一時間半ということは給料は七五〇〇円。二五〇〇円の交通費か。悪くない。

「ありがと」

 封筒を手提げの中に入れる。ちなみに、この手提げバッグは一応ブランド物だ。あたしがこの仕事を始めて、最初の頃にお客さんからもらった物で、それ以来ずっと愛用している。それはブランドだから愛用しているというわけではなくて、たまたま使い勝手がよかったから愛用しているのだ。

 中には自らの意思でそういったものを買い集めるって子もいるけど、幸か不幸かあたしにはそれが理解できない。ファッションにお金をかけるのは確かにいいことだとは思うのだけれど、だからって持ち歩きもしないバッグに大金をつぎ込むのもどう? って感じ。

 宝の持ち腐れ。ただのコレクター魂か。物を集めようと思ったことは、小学校の頃にキレイな石を集めるのがマイブームだったとき以来一度もない。

 駅に到着してあたしは他の客から支給されたプリペイドカードを使って改札を抜ける。これはあたしがその客に頼めばいくらでも支給してくれる。だから、実質あたしは交通費ゼロなのだ。

 川崎もプリペイドカードを使って改札を抜けた。当然、あたしがプリペイドを使ったのを見ていた。けど、だからと言って交通費を返せとは言わない。というか、川崎はあたしがただ同然で電車に乗ってきていることを知っていて交通費を別に入れてくれる。これが紳士というものであり、大人というものである。

「ハルちゃん、埼玉だよね? なら土袋つちぶくろ駅だね。僕は反対側だから、ここでお別れだ」

 そう言って微笑むオッサン。

 あたしは片手を上げて別れを告げる。

「じゃ、また御飯、ご馳走してね」

「わかったよ。僕も楽しみにしてる。時間があったらまた電話するね」

 川崎はエスカレーターに乗ってホームへと降りていく。あたしも川崎が見えなくなったのを確認すると、エスカレーターに乗った。

 ふう。

 ため息を吐く。このため息は川崎といることを不快に思って吐いたものではない。これで今日の仕事も終了だ、という弛緩のため息。

 これであとは家に帰って風呂に入り、歯を磨いて眠るだけだ。もちろん間には細かな作業は入るが、頭の中ではそういうものは簡略化されて、眠りまでの最短ルートが描かれている。

 ちょうどエスカレーターの真ん中らへんに来たときに列車到着のアナウンスが響いた。2番線、下野しもの・土袋方面行き電車が参ります。白線の内側までお下がりください。

 あたしがホームに到着した時には、もうすでに電車が来ていた。いつもは線路の向こう側にいる川崎に最後に手を振ってやるのが通例だったのだけれど、まあ今回は間が悪かったと言うことで勘弁してもらおう。

 満員電車とまでは言わないが、なかなか混んだ車内は座る場所がなかった。土袋までは十二駅もあるが、座れないものは仕方ない。つり革を掴むと、自分の右肩を枕代わりにして眠りにつく。立ち寝も慣れたものだ。

 とは言っても、さすがに爆睡はできない。少しでも深いところに入ろうものなら、たちまちに膝の力が抜け、その不意打ちに脳は驚き、瞬時に目が覚める。

 そんなことを七、八回繰り返したところで土袋駅に到着した。ここで東武東上線に乗換えだ。改札を出て、東武東上線の改札へと向かう。車内で少し寝てしまったからだろうか。眠気がより色濃いものとなってあたしを飲み込もうとしていた。ああ、あのワインも今になって効いてきたのかな? まぶたを閉じかかって、半分になった視界の中、東武東上線の改札を発見する。切符はいらない。またプリペイドカードを使って改札を通り抜けた。

 階段を上ると、そこには準急の列車が発車時間が来るのを黙々と待機していた。東武東上線の土袋駅は、終点であると共に、始発駅でもあるのだ。幸い、席にはまだ余裕があったので急いで乗り込むと席に座った。

 両手で頭を抱えるように支え、そのまま目を瞑る。力が抜けていき、やがて心地よくなってくる。プシュー、ドアが閉まる音。ガタン、体が左に倒れかける。眠気にやられて無防備だったあたしの肩が、隣の人物に強くぶつかった。

「すいません」

 隣の人物の顔は確認せずに、とりあえず謝っておく。

「あ、いえ。僕のほうこそすいません」

 若々しい声。少年のように澄んだ声。重いまぶたを何とか持ち上げて、その人物の顔を見る。小奇麗な顔をした少年の顔が、網膜に焼きつく。

 はあ。やっぱり彼氏にするならやっぱりこういう色男だよね。お金も大事だけど、そんなことよりもまずは容姿。お金はどうにもなるけど、容姿ばかりはいくらお金を積んでも限界がある。

 そんな物思いふけりながらあたしは眠りに落ちていく。

 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。車輪が刻むこの独特のテンポはこれ以上ないくらいの子守唄になり得る。この音を録音して、眠る前にベッドの横で流しておきたいくらいだ。

 眠りの中で、時間は不規則に流れていく。一秒がとても長かったり、三十秒が一瞬で終わったりする。

 そんな変則的な時の流れの中で、あたしは聞き覚えのあるアナウンスを聞く。

『次は朝霧台あさぎりだい。次は朝霧台。武蔵野線ご利用の方は乗り換えです』

 朝霧台、どこかで聞いたことのあるような名前だ。はて、どこだったっけ。

『お出口は右側でーす』

 そこであたしはパッと目を開いた。夜露台はあたしが降りる駅!

 慌てて、飛び跳ねるように席から立ち上がる。降りる前に左側の席の人物の顔を見る。あの漫画から抜け出てきたような、少年のような人物の顔をもう一度見ておきたかった、のだが――。

 体の力がガクッと抜ける。元いたあたしの席の左側に座っているのは、襟元をピシッと閉めて、頭の七割ぐらいが白くなったオッサンだった。白馬に乗った(別に乗ってないけど)王子様はあたしが寝てる間にどこか他の駅で降りてしまったようだ。

 もったいないことをしたなぁ。あんなキレイな男の子、この辺りじゃ見れないしなぁ。

『一番線、ドア閉まります』

 おわあ、人々を押し退け、閉まりかけたドアをすり抜けるようにして降りる。

『駆け込み乗車は、非常に危険ですのでお止めください』

 駆け下り下車だから、あたしは関係ないっと。

 ま、縁があればまた会えるさ、王子様よ。縁がなければいくらかっこよくても他人なわけだし、それなら想い続けても無駄なわけだから潔く諦めよう。

 改札への階段を上る。あたしの横を何人ものサラリーマンが駆け抜けていく。恐らく乗り換えの電車がもうすぐ到着なのだろう。ご苦労なことだ。

 埼玉県朝霧市。田舎に強引にビルやら工場などを持って来た、と言えば、大まかの説明は済んでしまうところ。駅の付近はまだいい。バスに乗って少し揺られれば、たちまち辺りは畑に囲まれる。確か、特産品はニンジンとか言ってたっけ。

 あたしは改札を抜けると、駅前のロータリーに止まったバスに乗る。ちょっと走ると周りが畑になっている前述の“バス”だ。

 座席はすでに埋まっていた。疲れた顔をした一家の大黒柱が席という席を埋め尽くしていた。

 天井からぶら下がる白色のわっかを掴むと、あたしは携帯を取り出した。

 そこで初めてメールが来ていたことに気づく。それも二件。

 今、やっと一仕事が終わったところだと言うのに……。

 そう気分を鬱蒼とさせながらメールを開く。友達からのメールだったらよかったのだけれど、案の定、それは明日の仕事に関するメールだった。

 メールの主は二人ともあたしの常連客だ。それもカモレベルがトップクラスにランクされる二人。たんまりお小遣いをくれるし、せがめば何でも買ってくれる。

 職業不明のデブ男と自称IT関係のダンディー系の男。はっきり言ってしまえば、どちらも生理的に受け付けないタイプである。

 高い利益を求めるのなら、それだけリスクが大きいというわけだ。

 ダンディータイプの男は紳士を気取っている癖して、何かとうるさい。あたしに敬語を強要する。淑女たるものどうたらかんたらとあたしに説教まがいのことを言ってくる。

 たぶん、あたしに説教する自分に酔いしれているのだ。家庭じゃ奥さんの尻に敷かれてんじゃねえの? とも考えた。第一、紳士が援助交際すんなっての。

 それでもあたしがその男に会っている理由は、その男は金になるものを買ってくれるからだ。主にアクセサリーの類が多い。

 淑女たるもの、身だしなみには気を使わなくてはね、と言いながらネックレスやらリングやら財布やら服やらありとあらゆるファッション系統のものは買ってくれる。

 さすがは今流行はやりのIT企業!

 そのほとんどは家に帰ってから取り外し、まとめて換金所に持っていく。そして現金に換えてから、とりあえず貯金する。

 あたしの通帳はもう数百万! すごい、あたし! 大金持ち!

 それはともかくとして。

 もう一人の職業不明のデブはとりあえず一言で言うと気持ち悪い。いや、デブであるとか顔が気持ち悪いとかそういうものの以前に下心丸出しのところが気持ち悪い。

 実際のところ、あたしはそいつのことをデブデブ言っているが大して太っているわけではない。せいぜい小太り程度。身長はあたしより頭一つ分高いくらいだから――一七〇前後。それで体重は七〇くらいだと思う(まあ、見た目で)。顔も二枚目、とはお世辞でも言えないが、まあそこら辺にいそうな平凡な顔をしている。例えるならフクロウとかミミズクとか、そういう顔。際立って不細工というわけではない。

 こいつの気持ち悪いところは表情と反応だ。あと動き。丸っきり女っ気のないところで生きてきました、っていう童貞の動き。

 前を向いてるふりしてこちらをちら見してたりとか、手相がどうとか言って手を握ろうとしてきたりとか、おまえは昭和初期の野球少年か、と突っ込みたくなるような挙動。

 それからこいつは本当に何でも買ってくれる。というか、何でも支払ってくれる。映画もおごってくれるし、DVDやCDだって買ってくれるし、漫画だって買ってくれる。他にも化粧品や香水。これ欲しい、での一言であー、はいはいとすぐにお札を取り出す。まるでドラえもんだ。財布が四次元ポケット。

 たまに不安になる。この男の金の出所でどころが。どこかやばいお金なんじゃないかって、真剣に考えたことがある。

 もしそうだったらあたしも捕まっちゃうのかなぁ。よく似たような事件がテレビでもやってような……。

 とは言っても、そいつが巨悪に手を染めているようには見えなかったし、そんなことができる器でもなさそうだ。せいぜいできて詐欺くらいだろう。そのくらいの犯罪なら、巻き込まれてもなるようになれって思ってしまうのだ。

 甘い味を覚えてしまったらなかなか離れられない。こんなに楽に稼ぐ方法は他にないからね。

 あたしは二人にオーケーメールを送る。自称紳士の方の男――村山は基本的には夜、見るからに怪しげなキモ男――坂林さかばやしは主に昼間に会おうと言ってくる(平日の昼間に会おうなんて、いったいどんな仕事をしているんだよ)。まあ、時間がかぶった場合はデブの方をドタキャンすればいい。少し強く言えば、渋々引っ込むはずだ。

 バスはすでにいくつかの停留所を経て、住宅に挟まれた道を通っている。見慣れた風景。この辺りは商業ビルなんてありやしない。主に目に入るのは一軒家かアパートだ。マンションは数えられるほどだけ。

 右側には木々が広がっている。それは公園というのは名ばかりの場所で、敷地の七割くらいを山が占めている。まあ、それでもこの辺りでは一番大きな公園なので休日や放課後ともなると小学生が鬼ごっこや野球をしに集まってくる。かくいうあたしも小学生のときは近所の友達を集めて遊びに行ったものだ。小さなカセットデッキを持って、『山』の上部にある広場でダンスの練習をした。

 不意にポケットの中の携帯が震えだす。万年マナーモードのあたしのそれは、震えることで着信を知らせてくれる。

 この早い返信は十中八九、デブによるものだ。あたしのメールに対して、奴は待ち構えていたかのように即効メールの返信を出してくる。

 あたしは新着メールを開いた。

『明日、三時から会えるかい? 三時に土袋駅で待ち合わせ、で大丈夫かい? 正確な座標はいつもの場所で。どこか行きたいところがあったら言ってね。連れてってあげるから』

 この文面を見ればわかってもらえると思うけど、変質的だ。まず『かい?』を連続で使う時点で気色の悪さを増加させているし、待ち合わせ場所を座標、なんて普通は言わない。親しい友達同士で、おふざけでこういうメールを送るのならわかる。けど、坂林はこのメールを本気の大真面目にあたしに送信してきている。少しズレタ人丸出しの文章だ。――いや、こいつが真っ当ぶって絵文字を使ってきてもムカつくけどね。

 ちなみに、いつもの場所というのは駅の構内にあるフクロウの像――通称ツチフクロウの前のこと。

 このメールはとりあえず保留しておく。返信はもう一人の方のお客、村山の話を聞いてからだ。坂林のことはとりあえずは放っておいても何の問題もない。(そういう意味では最高のお客さんだ)。

 そして、バスはあたしの降りるべき停留所に到着する。セキスイ工場前ー、セキスイ工場前ー。一九〇円をお金の投入口に投げ込むと、あたしはワンツーのステップでバスを降りる。あたしに続くようにして、三人のサラリーマンもバスを降りた。ちょうどこの近くにはマンションが二つほどあるのだ。みな、そこに住んでいる人なのだろう。それぞれ自分の家のある方へと歩き出した。あたしも歩き出す。あたしの家はここからさらにセキスイ工場の前を歩かなければならない。手提げカバンを右肩にかけ、それを揺らしながら夜道を歩く。

 しばらく歩いたところで、右手側に急な坂が現れる。この坂を上ったところにあるのがあたしのうち。中学時代、友人を招いた際にはよく文句を言われた。何で、あんたの家はこんな急な坂の上にあるのよ、って。知らんよ、そんなこと。

 確かに急な坂ではあるし、体力を消耗すると言うのも頷ける。けど、慣れれば大したことない。むしろ日ごろだらけがちなあたしにとって、この坂はいい運動になる。足の脂肪も落ちるしねー。

 そして坂を五〇メートル上ったところで右側にあるのが我が家だ。まあ、比較的新しい感じの家。あたしが生まれる少し前に建て替えたというマイホーム。

 ああ、今日も疲れた、とドアの取っ手を掴んだその時、向かいの家のドアが開いた。思わず苦笑いを浮かべる。

「おお、やっぱ春乃か」

 そう玄関から顔だけ出し、声を上げたのはあたしの二つ上の言わば幼馴染、岩波拓人いわなみたくと。大学一年生だった。

「何してんの、たっくん」

 聞かなくてもわかった。こいつがなぜ玄関から顔を出し、にこにこと笑んでいるのか。

「やだなぁ。春乃が帰ってきたと思って飛び出してきたって言うのに」

「あー、そう。で、何? 用事?」

「別に。ただ出てきただけ」

 もう一度言っておくが、拓人は大学一年生で、あたしよりも二つ年が上だ。もう来年で二十歳はたちになる。なのに、拓人の精神年齢は依然、小学生で止まったままなのである。

「んじゃ」

 あたしは左手を上げて別れを告げる。

「ちょ、ちょっと待ってよ、ストーップ!」

 言ったと同時にバランスを崩して玄関から転げ出てくる。下が紺のジャージで上が白のトレーナー。どうやら寝間着のようだ。

「やべっ、寝間着が汚れちった。……まあ、いいか」

 簡単に砂を払うと、一旦玄関に戻り、靴を履いた姿で再び現れる。あたしは恒例のバカ騒ぎかとうんざりしつつも付き合ってやることにする。

 相変わらずにこにこしながら拓人はこちらに近づいてきた。

「やあやあ、おひさー。四日ぶりくらいだね。ちょうど僕が風呂入ってるときとかに帰って来るんだもん。さすがの僕も真っ裸じゃ飛び出せないよ」

「別に出てこなくてもいいでしょ、いちいち」

「いやいや、だってさ、最近この辺りの僕の親友たちも忙しいみたいでさ、なかなか顔合わさないんだよね。だからせめて春乃だけでもと思って」

「別にあたしじゃなくたって、他の人を待ち伏せてればいいじゃん」

「だって、それだと僕、明らか変人じゃない?」

 今、こうして飛び出てくるのは変人じゃないのか、と口に出しかけたが、どうせ理屈の通った答えは返ってこないので止めておく。そもそも、本人はこうしてあたしの足音を聞きつけて飛び出してくることを、おかしなこととは思っていないのだから何を言っても無駄だ。

「んじゃ、もう会えて気が済んだでしょ。じゃあね」

 拓人に背を向け、家に入ろうとするあたし。が、その肩を何の躊躇いもなく拓人は掴んだ。

「せっかくだから、なんかちょっと話でもしようよ」

 正直なところ、いち早く家に帰って休みたいところだった。が、拓人といるとどうも調子が狂う。昔からそうだった。この邪気のない笑顔を見ていると、まあ少しくらいなら、と妥協してしまう。

「……話するって言ったって、何の話するのよ」

 振り返ると、ちょうどあたしと同じ目の高さに拓人の目があった。中学校のときからほとんど変わっていない身長。

「うん、そうだなぁ……」

 拓人は空を見上げた。ボーっと遠くを見つめ、話題を探しているようだ。というか、話題がないなら話をしようなんて言わないでほしい。

「ああ、星がキレイだね」

 突如呟く。

「え、ああ……」あたしも空を見上げる。そこにはいつもと変わらない空があった。「……そう?」

 正直な感想を言う。別に拓人と話を合わせる必要はない。

「そうだ、春乃、仕事、どう?」

 どうやら星云々は独り言だったようだ。

「どう、ってどう?」

 拓人はあたしの仕事を知っている。そんで、いくら精神年齢が低いとは言っても、あくまでも大学生。一般教養とモラルくらいは兼ね備えているに違いない――と思っているのだけれど。

「儲かってるんでしょ?」

 だいぶ立ち入ったことを聞いてくるな、とはもはや考えない。なぜなら、毎度毎度のことだからだ。知識はあっても、小学生の精神ではデリカシーと言うものをたずさえてはいない。聞こえがいいように言えば、素直なのだ。自分の持った疑問や不思議に。

「おかげさまでね。本日も一万の収入」

 封筒を取り出してひらひらさせる。拓人は目を丸くした。

「へえ、やっぱ儲かるんだね。僕もやろうかな、エンコー。あ、もちろん僕がお金もらう方ね」

 どこまで本気で言っているのかわからないから困る。どこからが冗談で、どこまでが素直な意見なのか……。

「まあ、何事も経験だからね。一度くらいはやってみたらいいんじゃない?」

 適当な言葉で受け流す。

「もうー、止めてよ。さすがに冗談だよぉ」

 だからどこまでが冗談なのかわかんないんだっての!

 拓人は体をクネクネさせて笑う。

「そんなことよりたっくん、大学の方はどうなの?」

 あたしは強引に話題を変える。エンコーのことは、あまり立ち入られてほしい話題ではない。

「ああ、大学ね」あっさりと話のすり替えに成功する。「うん、難しいよ。やっぱ高校とは違うね。まあ、じきに慣れるだろうけど」

 目の前の少年のような青年は、阿呆に見えて、本当に阿呆なんだけれど、学力だけはなぜか高い。なので、実は東京のなかなか名の知れた私大に行っていたりする。

「確か、法学部だっけ?」

「そそ」

 あたしは高校には行っていないので大学に関する知識は乏しいのだけれど、それでも、その大学の法学部はそう容易く入れるところではない、と言うのは知っていた。

 そこは素直にすごいと思う。

「法学部って、たっくん弁護士にでもなるの?」

 法学、というくらいだから弁護士とか、検事とか、あたしはそういう仕事を想像した。

「いやいや、それは僕なんかじゃ無理だよ。僕は公務員志望。そうだなぁ、市役所とかは結構いいって聞くけど。あ、でもゴミ処理とかもやらされるらしいね。それも悪くないけど」

「ゴミ処理? 何で市役所の人がそんなことすんのよ」

「あはは、春乃は知らないのか。清掃車、あるじゃん? あれも市役所に勤めてる人の仕事なんだよ。事務の仕事とかとローテーションで回って来るんだよ」

 へえ、全然知らなかった。清掃車を運転する仕事と、市役所の椅子に座って書類をまとめる仕事とは、あたしの中で全く結びつかなかった。別の関係のない職業だとばかり思っていた。

「その顔はちょっとは感心したようだね。僕のこともちょっとは見直した?」

 おっと、思わず力の抜けた顔になってしまっていた。まずいまずい。これ以上こいつのペースに乗せられては。急いで通常の状態に戻す。

「ま、初めて知ったことだったから。そういえばたっくん、年上だったんだなって、ちょっと思った」

「それは喜んでいいのかな? それともなげくべきかな?」

「どうぞ。どちらでもご自由に」

 幼き年上の声をするりとかわす。

「もう、つれないなぁ」サラリとした黒髪の生えた頭を、苦笑を浮かべながらボリボリとかく。「ほんじゃあ春乃は、何になりたいの?」

 また戻ってきた。あたしの触れられたくない話題。あたしの生き方の核心に触れる質問。拓人はあっけらかんとした様子でそれを切り出した。

「あたし、あたしか」少し考える素振りを見せる。が、実際のところは何も考えていない。あたしはこのタブーに触れられたときの対処法は、すでに見出していた。「あたしは、お嫁さんになることかな」

 まるで小学生だ、と自分でも笑いそうになる。しかし、よくよく考えてみればあたしがマトモに生きたいのであれば、残された道がこれしかないというのも事実だ。あたしはそれを受け入れている。そう、高校に行かないと決めたときにはすでに。

「お嫁さんか。いいね、今どきそんな乙女チックな解答が返ってくるとは思わなかったよ」バカにしてる風でもなく、拓人は言う。「もし貰い手がないようだったら、僕が貰ってあげようか」

 ずいぶんとさらりと言った。

「ご冗談を」

「うん、冗談」一発、ぶん殴ってやろうかと、足を一歩踏み出す。「ストップ、殴らないで」察した拓人も素早く下がった。「あまりに春乃が乙女チックなことをいうもんだから、僕もそれっぽいことを言ってみたんだよ」

「それっぽいことって、アンタじゃそういうセリフ似合わないから」

 いや、むしろ本気で言い出しそうで怖いから。幼稚園児が将来を約束するみたいなノリで。

「僕はキザなセリフは似合わないって言うのかい?」あたしはそれに対し、即効頷く。「あ、そう。まあ自覚はあったけどね。キザなセリフを言うようなタイプじゃないって」

 へえ、拓人にも自己分析なんて高等技術ができたのか。ちょっと驚きである。

 今度はあたしの方が拓人の肩に手を置いた。

「さあ、話に切りがついたところで、お別れしようじゃないか」

 そう言ってから素早く拓人に背を向け、ドアの取っ手をしっかりと掴んだ。

「じゃね。またいつか」

 目をパチクリさせて拓人はただぼけっとしていたのだが、そこでようやく我に返ったように言葉を発す。

「ん、そんなに帰りたいのか。ならしょうがない。僕だって子供じゃないからね。無理は言わないよ」拓人も自宅の方へと歩き出した。「明日、また足音聞きつけて飛び出せばいいだけの話しだし」

 そこで思わず突っ込む。

「明日は出てこんでいい!」

 笑顔の拓人が振り返る。

「冗談だよ、冗談。じゃね」

 背中越しに両手を振って見せた。

「はいはい、じゃあね」

 拓人が自分の家の前の玄関に到着したのを見届けると、あたしも扉を開いて中に入った。

 最後、ドアが閉まる瞬間、不意に外の風景を見る。

 拓人がこちらを向いて変な顔をしていた。両手で顔をぎゅっと顔を中央に寄せ、しわくちゃになった顔。

 そしてそれを凝視する間もなくドアは自然に閉まった。思わず、苦笑を浮かべる

 小学生かよ……。


         2


 僕は、自分で言うのもなんだが、クラスではトップクラスの人気を誇っていた。クラスには男女問わず友達がいたし、他にも学年を問わず、僕に寄って来る者は多くいた。

 小学三年生の僕は、その事実に優越感に浸っていた。他の誰よりも人気者であると。

 僕はどのような人物が人気者になれるかを、幼いながらにして知っていた。だから、その条件にのっとって行動していれば、自然と僕の周りには人が集まってきた。

 まず第一は人を楽しませることができるということ、これが小学校では上位に置かれる。つまらない奴は自然とグループから追いやられ、いつの間にか孤立することになる。

 次に大事なのは信頼性。僕たち子供は頼りになる人物のところに集まる習性がある。あいつのところへ行けば何とかなる、あいつのところへ行けば助けてくれる、そういう信頼を得ることができれば、それこそ入れ替わり立ち代り友人たちが話しかけてくるようになるのだ。

 そして、僕が人気者になるにあたって、決して少なくはない影響を及ぼしたのが容姿だ。

 僕には二人の兄がいるのだが、どちらも端正な顔立ちをしていた。長男は中学二年生。次男は小学六年生。二人とも二月十四日にはたくさんのチョコレートをもらっていたし、一説によると、兄二人は男子からもチョコレートが送られてきたとか言う話もあった(些か不気味な噂ではあるが)。

 そして僕もその遺伝子を受け継いでいるようで、比較的端正な顔立ちをしていた。

 小学三年生である僕が、他学年からの支持を受けている理由の一つとしては次男、シゲちゃんの愛称で知られているシゲ兄の存在が上げられた。シゲ兄のファンだった子たちが、同じ血の流れている僕にも関心を持ったため、僕が入学して早々、一年生の教室の前で上級生たちが僕を待っている、という実に奇怪な状況に起きたのだ。

「可愛い」「お人形みたい」と言われ、僕がその声の主の方を見るとキャーという甲高い声が上がった。軽く笑んで、手を振って見せると今度は至る所から歓声が飛び交った。

 そんなことがあったせいで、最初からクラスメイトには一目置かれた存在になっていた。出席番号の関係で僕は窓側の列に座っている。すると、廊下側から熱い視線を注がれるのだ。一番最初に行う自己紹介の時は大変だった。なぜなら、僕のときだけその場の雰囲気が変わるのだ。空気が急に重々しくなる。例えるなら、そう、テレビで見たオリンピックの決勝戦。期待の眼差し。

 僕は小さくもなく、かと言って大きくもない声で自分の名を言った。聞きなれない名前のせいだろう。みな、首を傾げていた。

 好きな食べ物、嫌いな食べ物を述べ、よろしくお願いしますと頭を下げてから自分の席へと戻った。

 すると、一つ席を挟んで隣の席の女の子が話しかけてきた。

「えーと、トシちゃん?」

 僕の名前をしっかりとは聞き取れなかったのだろう。だから、そういう略した形態で僕を呼んだのだ。シゲ兄もシゲちゃんと呼ばれている。まあ、僕のあだ名もトシちゃんでいいかな?

 僕は微笑んで答える。

「うん、えーと、君は――」

 目の前の女の子もニカッと笑って僕の問いに答えた。

「あたしの名前はサヤって言うの。鈴野サヤ。よろしくね」

「よろしく、えーと、サヤちゃん」

 これが僕とサヤちゃんの最初の出会いであった。そしてサヤちゃんとは、クラス替えのあった三年生でも同じクラスになった。サヤちゃんは僕にとって学年の中でもっとも親しい友達となっていた。


         3


 翌朝、あたしが目を覚ましたのは十時半だった。今日は九月五日水曜日。当然、世の高校生は夏休みが終わり、普通に登校しているはずだ。にも関わらず、あたしがこうしてのんびりと起床できる理由は、あたしが高校には行っていないからに他ならない。

 はうー、と腕を上に伸ばし背中の筋肉をほぐしてやる。ベッドから体を起こすと、フローリングの床に足をつけた。ひんやりと冷たい。ついこの間まで太陽がガンガンで、気温もボーボーだったって言うのに、九月に入ってからは急に冷えだした。ま、あたしは寒いのも嫌いじゃないからいいんだけどね。

 本日のお仕事は二つほどもうすでに決まっていた。昨日、あたしにメールをよこした二人だ。拓人と別れた後、あたしはお風呂に入って、上がってから携帯を確認すると、やけに気取った男――村山からメールが入っていたのだ。品田駅近くのとある名の知れたホテルのバイキングに連れてってくれるそうだ。あたしは即オーケーを出す。そこは確か、テレビでも紹介されたレストランだ。眩しくきらめく店内、現在に生き残った上流貴族のような男性、あるいは女性が、楽しそうに、なおかつどこか偉そうに肉や魚を皿に持っているという映像が甦る。

 こりゃ、あたしも下手な格好していけないな、と思った。

 三時からはデブ――坂林と会う約束がある。終わりが四時だとしても村山との待ち合わせは七時に待ち合わせということになっている。四時に開放されれば、ギリギリ着替える余裕がないでもないわけなのだが、しかし五時、六時となると一度家に帰るということはできなくなる。

 やはり最初から着替えて行った方がよさそうだ。

 そんなことを考えながら一階に降りると、ダイニングでテレビを見ていた母があたしに気づく。

「おはよう」

「おはよう」

 テレビ画面は今日のニュースをやっていた。つい先日まで総理大臣が辞任した云々で大騒ぎをしていたのだが、今はだいぶ落ち着きつつある。

 あたしは冷蔵庫を開けると、中からウーロン茶の入ったペットボトルを取り出す。棚からコップを一つ取ると、小麦色の液体を透明な容器に流し込む。そして、いっぱいになったら今度はそれをあたしの中へ流し込む。

「ぷはあ」

 寝起きで乾いていた体が潤っていく。一杯お茶を飲んで落ち着いたところで、あたしは椅子に座った。

 今、テレビでは石油価格の値上がりに関わることを放送していた。ガソリンの値上がりはもちろんのこと、お菓子やカップ麺まで高くなると報じている。

 あたしは立ち上がって冷蔵庫の横に置かれている棚――調味料や炊飯器、コーンフレークや食パンなどがおかれている棚からクリームパンを手に取る。再び冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルに登場してもらい、先ほど使ったコップにお茶を注いだ。

 袋を開け、一口二口と食べていると、不意に母があたしに話しかけた。

「これから遊びに行くの?」

 母は(父もだが)あたしがどういう仕事をしているのか知っている。そして、母は仕事のことを『仕事』として認めてはいない。

「うん。ああ、晩御飯は今日いらないよ。また外で食べてくるから」

「そう」

 母も父もあたしがこういう仕事をしていることを咎めたりしない。積極的に肯定はしないけれど、それでもあたしの人生なのだから自由に生きろと、そういう風な意思が働いていることは容易に見て取れた。

 母は年のわりにはかなり若く見える。二十代後半でも通りそうなくらいの若々しさ。あたしはたぶん、母に似たのだとよく思う。

 あたしは一旦いったん、クリームパンをテーブルに置き、ウーロン茶で喉の通りをよくする。と、そこに母はあたしがパンを置くのを待っていたかのように話しかけてきた。

「今さっきテレビで特集をやってたんだけどね」そう前置きをする。「東京の七本木のホテルで女の子が殺されたって事件があったの覚えてる?」

「うん、覚えてるよ」

 確かそれは六月の頭くらいに起きた事件ではなかっただろうか。腹部を何回も刺されたことによる出血性ショック死がどうたらって言う連続殺人、、、、事件だ。そしてその犯人は未だ不明である。

 この話をあたしに切り出すと言うことはつまり、母はあたしがその殺人犯に狙われることを懸念けねんしているのだ。

「でね、その番組でちょっと気になることを言ってたのよ」そこで少し言いよどむ。「その被害者の女の子が、どうやらあなたと同じことをしていたみたいなの」

 これにはさすがのあたしも眉をひそめた。あたしと同じこと? つまり、エンコー?

「ってことは、犯人はお客さんってこと?」

「あんたも初耳だったでしょ? いえね、まだそこまでは特定できてないみたいだけど、それでもそのことと今回の事件は何か繋がりがあるんじゃないかって、警察も考えてるみたいだって」

 なるほど。だからここまで心配していたのか。確かに、ちょっと怖い話だな。そういえば、着衣の乱れがどうのこうのとも言っていたような……。

「わかった。つまりお母さんはあたしに気をつけろって言いたいんでしょ」

「そ。だからできるだけ人の少ないところは避けるようにね。あなたが死んじゃったらお父さんも泣いちゃうから」

 いい年こいて何を、と口に出さずに呟いた。

 心配されるのはいいことだ。うざったいけど。

 それよりも。

 エンコーで殺されるなんて哀れなものだ。きっと、それは客の逆恨みによるものに違いない。あたしもそうなのだが、旨味が出切ったカモはとっとと切り捨てるというようにしている。するとそうしたお客がまれに付きまとうようになることがあるのだ。あたしたちはお金を貰うことでお客と食事をしたり、映画を見たり、街を歩いたりするわけだが、中には擬似恋愛を本物の恋愛と勘違いするボケがいるのだ。

 そういうやからはたいていがストーカーになる。家の住所を調べ上げ、電話番号も探し出し、様々な迷惑行為を行うようになる。

 だからあたしは一番最初にあった時点で『あ、こいつはダメだ』と思った奴はいくら次回呼び出されても断るようにしている。最初で断っておけば少なくともストーカーまではならない。たった一回の面会ではさすがにそういうのある客でも勘違いをしないですむからである。

 まず、金のないのに無理してひねり出しているやつはダメだ。なけなしのお金をつぎ込んだ相手をそう簡単には忘れられないからだ。あれだけお金をあげたんだから、あれだけプレゼントを買ってあげたじゃないか、と変質的に付きまとう。

 次に腕っ節の強い奴、これもダメ。いざ暴力を振るってきたとき、あたしが勝てるくらいの相手じゃないとマズイ。下手したら命の危険に晒される。それにそういう連中はときとして暴力団に通じてる場合がある。これが一番厄介。警察に訴えることすらできなくなるからだ。だからそういう連中とは全く関係がなさそうな連中をあたしは選ぶ。

 まあ、他にも何かに依存してたりとか、お金を払えば何してもいいと考えてるクズみたいな奴らは即効バイバイなわけだけど。

 果たして、ニュースでやっていた被害者の少女はどのパターンなのだろう。ストーカーによるものか、暴力団によるものか。はたまた全く予想もできない異常者によるものなのか。

 まあ、あたしの知っている事例は全て同業の仲間たちから聞いた話だ。あたしのお客の判断基準云々は彼女らが実際に体験したことや、彼女らの友達、またさらにその友達が体験した事例などを参考にしたもの。

 だから少女が特殊な状況下で殺された、というのならあたしは想像もできないわけで、想像ができないということはつまり予防もできないというわけで、ああ、やっぱり今後は気をつけたほうがいいな、と思う。

 あたしはパンを口に詰め込むと、ウーロン茶で流し込み、席を立つ。自室へ戻ると、あたしは着替えを片手にまた部屋を出る。

 お昼まではまだ時間がある。中学を卒業してから日課になった朝シャンをすることにする。聞くところによると、男性の中には香水の匂いよりもシャンプーの匂いの方がいいという人がいるらしい。

 あたしは髪が肩まであるので、十分に時間をかけてゆっくり髪を洗う。トリートメントも忘れない。髪も一つの武器だ。侍でいう刀と一緒だ。手入れをおこたるとその切れ味が落ちてしまう。

 ゆっくり時間かけ十数分。体も洗い、スッキリしたところで上がることにする。シャワーでもずっと浴びていたおかげで体の芯まで温まっていた。昼とは言えもう秋だ。ちゃんと温まってから出ないとすぐに寒くなってしまう。

 服を着ると、タオルで丁寧に髪の水分をふき取る。手櫛てぐしを入れながらドライヤーをかける。このとき、ドライヤーとの間に、距離を置くことを忘れない。根元までしっかりと乾いたところで、ドライヤーの電源を切った。

 サッパリ爽快! 棚に置かれた置時計を確認すると時刻は十一時半。もうそろそろ昼食か。今日は何だろう。確か、昨日はたらこスパゲティだった。

 自室に戻る前に、キッチンに顔を出してみる。見ると鍋を使って、何かを揚げる作業をしていた。

「何作ってんの?」

 母はこちらを振り返る。よく見ると、手にはパン粉がついていた。

「トンカツ」

 言ったと同時に油の中に白い塊は吸い込まれた。ジュクワーという音が部屋の中いっぱいに広がる。

「もうできる?」

「もうできるわよ」

「じゃ、できたら声かけて。部屋にいるから」

 そう伝えると、あたしはキッチンを出た。

 階段を上り、自室に着くとあたしはベッドに倒れこむ。枕元に置かれた携帯を手に取った。

 あたしは不意に友人たちに母から聞いた出来事を話さなければ、と思った。テレビの特集でやっていたと言っていたが、あたしの『仲間』の中にはニュースを見ない子も少なくない。もし被害者の女の子の殺された理由が、エンコーに関係があるのなら、また警察がエンコーによるものだと考えているのならば、多かれ少なかれあたしたちの仕事に影響が出てくる。あたしたちはさらに自分の身の安全を確認しなければならないし、警察の目が厳しくなってくると、自然と仕事も減っていく。

 アドレス帳に載っている名前の中から、特に仲のいい子を数人選んでメールを送った。

 内容は昨日の事件のことや、先ほど母から教えてもらった事件とエンコーの関連性について。

 ちょうどメールを送り終えたところで、一階からあたしの名前を呼ぶ声がした。

 昼御飯だ。トンカツ。

 夕食はバイキングだって言うのに。一切れか二切れ食べればいいかな?

 あたしは携帯をズボンのポケットにしまうと、自室からダイニングへと向かった。


         ※


 土袋駅には、待ち合わせ時刻よりも一時間近く早く着いた。家を出たのが一時頃。そこから電車で一本、終点土袋に到着したのは二時五分のことだった。

 服装は何だかんだ言って、普段とあまり変わらない。それでも一応は質素にまとめてみたつもりだ。ピアスはシルバーの目立たないもの。スカートの丈もいつもよりは長めのものを履いてきた。上はデニムジャケットを着用し、下にはロゴなしの黒いシャツを着た。あとはちょこちょこっと貴金属を身につけたり。足元にはブーツだ。今回はとある有名ブランドの香水をほんの少し香る程度まとった。

 さて、どうやって時間を潰そうかと考える前に、とりあえずは待ち合わせ場所であるツチフクロウの前に行ってみる。ツチフクロウがあるのは東口だ。

 階段を上ると、フクロウの石像が見えてきた。そして、その前にフクロウを擬人化したような男――坂林が立っていた。

 案の定、と言ったところか。

 坂林は待ち合わせ時間の約一時間前にはすでにその場所に立っているのが常であるようだった。

「おいーす」

 あたしが背後から声をかけると、一度ビクリと肩を動かした後、満面の笑みでこちらに顔を向けた。

「こんにちは、ハルちゃん」

 デブフクロウはジーパンに紺のポロシャツというシンプルな格好だった。

「あっれ? ハルちゃん、いつもより大人っぽいね」

 坂林はあたしよりも頭一つ分身長がでかい。あたしは少し見上げる形になる。

「まあね。夜は高級バイキングだから」

 デブが悲しそうな顔をする。

「それって、僕とは違うお客さんと?」

「そんな感じ」

 あたしは歩き出す。再び駅構内へと戻るため、上ってきたばかりの階段を下る。坂林は依然悲しそうな顔のままあたしについてきた。

「僕よりもそっちの人の方がいいの?」

 これがこいつの悪いところ。あたしの希望を聞いてくれるし、あたしを特に束縛もしないのだけれど、こいつはとにかく嫉妬深い。あたしの気を常に惹いておかないと落ち着かないのだ。

「いいっていうか、そっちの人はあんたと違って大人だからね。大人な店に連れてってくれるの」

 聞きようによっては危ない意味に聞こえなくもないが、まあそんなことはどうでもいい。

「大人って……。僕だって大人だよ。高級料理が食べたいなら、何でも言ってよ」

 いや、別に食い気があるわけじゃ……。あたしってそんな風に見られてるのか?

「『僕だって大人』って言うけどね。あんたまだ三十とかそこらでしょ?」

「いや……僕、これでも二十八なんだけど」

 と、そこで思わず振り返って男の顔を見る。

 二十八だって? こいつが客になって、もう三ヶ月程度が経つが、全く知らない事実だった。

「二十八って、二十八歳? 本当に?」

「ひどいな、僕、そんなに老けて見える?」

 そうじゃない。

「老けてるとかそういう以前に、二十八歳のどこからそんなにお金が出てるの? 二十八歳で社長とか言わないわよね」

「やだなぁ、社長なんて大それたもんじゃないよ、僕は」

「んじゃあ、どっからこの資金は出てきてるのよ!」

 あたしはてっきり三十過ぎの働き盛りだから、金銭に余裕があるのだと思った。けれど、二十八じゃ普通に働いてたらまだこれからってときじゃないか。ということは一般的なサラリーマンではないということだ。

 これは……あたしの危惧していたことが現実になるのか?

「資金源は内緒」

 あたしはフクロウみたいな不細工面をにらめつける。

「教えてよ」

 デブは、たいていあたしが一睨みすればたちどころにあたしの言うことを聞くようになった。が、今回は、

「嬉しいなあ。ハルちゃんが僕に興味を持ってくれて」

 答えるつもりはないようだ。

「あたしが興味があるのは、あんたじゃなくてそのお金の出所」

「お金の出所は僕のお給料だよ」

「二十八歳でそんなに経済に余裕ができる職業がどこにあんのよ。もしかしてまだお母さんと一緒に住んでるとか、そういう理由?」

 パラサイトシングル。だとしたら気持ち悪い度は格段にアップする。

「そんな、こう見えても僕はマザコンじゃないし、一人暮らしをしているよ」

「じゃあ何でほいほいあたしにお金が出せるのよ」

 坂林はこのやり取りを心底楽しそうに行っている。目を思いっきり細めながら、坂林は答えた。

「それは僕が自営業だからだよ」

 自営業? 自営業って、家でスーパーやらタバコ屋やらを経営してるってことか? けれど、そんな商売じゃじゃすぐに貯金は底をつく。それほどこの男はあたしに貢いでいるのだ。

「まさか、麻薬とかそうものの密売じゃないでしょうね」

 これには坂林も驚いた様子だった。

「そんなあ、さすがにそんな危険な仕事はやりたくないよ。警察に捕まること必須じゃないか」

 長い通路を歩いていく。壁にはJRのポスターが何枚も貼られている。

「じゃあどうやってお金作ってんのよ。もしかしてボンボンなの?あんた」

 もしそうならとっとと縁を切る。自立していない男は、客になる資格を持たない。他の子はどうだか知らないけれど、あたしは認めない。

「だからボンボンじゃないよ。僕は自分で結構な額を稼いでいるのさ」

「じゃあ、自営業って何をやってんの?」

「それは、秘密だね。やっぱり、ちょっと表立って言えることじゃないから。恥ずかしいしね」

「へえ、やっぱり法に触れることなんだ。そういうことだったら、もうあたし、今後あんたとは一切会わないから」

 そう、自分の身を守るために危険な要素のある男は即行切り離す。だから本当にこのデブが法に触れることをしているのであれば、あたしは躊躇なくお別れする。

 とは言っても、どうせこいつの言っていることは嘘だ。どう見ても麻薬とか銃とか、そういうものには縁のない顔つきだ。

 そうだなぁ、もし法に触れるとすれば――。

「ええー、待ってよ。法に触れるって言ってもそんな露骨に触れるものじゃないよ。ハルちゃんには迷惑かけないから、絶対。仕事柄、ちょっと法に触れるのは仕方ないことなんだ」

 あたしはなんとなく、こいつの仕事がわかったような気がした。

 こういう平々凡々な男が――それもこのような人種が法に触れる仕事をしていると言えば、多くはこれなんじゃないかと思う。

 ポルノとかそういうアダルト関係。裏ビデオとかそういう不気味な代物。

「アンタ、自営業って言ってたけど、堂々とは看板を出してないでしょ」

「ん、まあそうだね。看板を出してないわけではないけど、法に触れるところは直接会ってから話すようにしてるから」

 そりゃ看板に下手な言葉を入れて、警察がやって来でもしたらそこで終わりだから。常連の客にしか教えないわけだ。

「…………」

 あたしは黙ってJRの改札をくぐる。

「……あれ? 僕の職業、興味なくなっちゃった?」

 後ろから寂しげな声が聞こえてきた。

「聞いても教えてくれないんでしょ。それに、だいたいあんたの職業はわかったし」

 プリペイドを持っているのは坂林も同じであるようだった。切符売り場にはいかず、直接改札を抜けた。

「うん、まあ……そうだけど……」背後でモゴモゴと喋る。「ところで、法に触れることをすると一切会わないっていうのは、その……」

 要はあたしともう会えなくなることを恐れているのだ。よし。やはりこのカモの餌付けは完璧なようだ。

 確かに厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだから麻薬やら拳銃やら捕まったら大罪になるもので稼いだお金なら、粗大ゴミよりも処理に困るものになるわけだけれど、まあポルノ云々だったら警察も甘いはずだ。捕まってもあたしまでは影響がこないと思う。だから。

「いいわよ。まだしばらくは見捨てないで上げる」

 エスカレーターでホームに向かっている途中で言ってやる。平日のお昼。広大な敷地の土袋駅でも今は数えられるほどしか人はいない。

 あたしの二段下にいた坂林は両手を上げ、ピョンピョン跳ねてよろこんでいる。ガキか。

「ところでハルちゃん、これからどこに行くの?」

 テンションが上がっているデブは乗りのりで聞いてくる。

渋山しぶやま

「って若者の町の?」

「その『若者の町』って言い方、おっさんくさいんですけど」

「いや、僕はおっさんじゃないよ。まだ花の二十八歳。心は少年さ」

「はいはい」

 少年なのは、心じゃなくて精神年齢の方だろうが。

「それで、渋山で何をするんだい?」

「買い物。ほしい物があるの」

「ほほお、ちなみにそれは何?」

「ちょっと派手めなシャツが欲しくなってね。いいお店知ってるからそこに行こうかなぁって」

「いい店って、僕も一緒に入っても大丈夫なの?」

 言われてみて、大丈夫かどうか考えてみる。店の雰囲気的に。

「うん、まあ追い返されることはないと思うよ」

 あまりにも浮いた存在になるだろうけれど。

「…………」

 あたしの言うことは何でも聞いてくれるからといって、さすがに周りの目線は気になるか。さすがに可哀想かな。

「うおっし。ハルちゃんのためなら火の中水の中。例え浮こうとも、僕はどこまでもついていくよおぉ!」

 どうやら無用な心配だったようだ。

「気持ちわるいから、もう少し黙っててくれない」

 電車を待つ何人かの人がこちらを睨んできたので、あたしは思わず注意する。

「うわ、心に矢が刺さったよ。でも、ハルちゃんだったら何でも許せちゃう」

「……うるさい」

 だから声のボリューム落とせっての。恥ずかしい。

 やがて緑色と銀色の車両が駅に到着する。あたしたちはそれに乗り込んだ。さすがに車内では坂林も騒いだりはしなかった。

 実はあたしが今日渋山に行こうと思った理由はもう一つあった。

 それは渋山駅の五つ先に品田駅――つまり村山と待ち合わせしている駅があるからだ。

 どこか遠くで遊んで坂林と別れた後、長時間電車に揺られていくよりも、近くで遊んでそのまま五駅、という方がいいに決まっている。

 が、でもそのことは坂林には言わない。さすがに気を悪くすると思ったからだ。

 坂林をしばらく見てきてわかったことだが、こいつはあたしに何かを言われることを苦には思っちゃいない。むしろ喜んでいる。だからあたしは平気で『気持ち悪い』とか『オッサンみたい』とか言える。そう、たぶん坂林からしてみればあたしを友達のように見ているのかもしれない。だから友達同士であれば何を言われても許せてしまう、そういう風に感じているのかもしれない。

 けど、さすがに次の待ち合わせの場所が品田駅だから渋山で遊ぼう、とは言えなかった。それはあまりにも虫が良すぎるというか、坂林のことを馬鹿にしすぎている。

 あたしが坂林を利用していることには変わりないが、それでも坂林には気持ちよく帰ってもらいたい。それがあたしの仕事であるのだから、それを全うするのは当然だったし、それにわざわざ気分を害させることもない。

 まあ結局のところ、あたしは坂林を騙して、利用しているだけなんだけど。

 何だかんだ言っても、やっぱり一番大事なのは自分なんだよね。


         3


 サヤちゃんはとても可愛い子だった。大きな目は丸く輝いていて、茶色がかった髪は肩まで伸びていた。肌は色素がないんじゃないかってくらい白かったし、小さく結んだ口、その上にある形の整った鼻。学年、いや学校でも一位二位を争う可愛さの持ち主だった。

 服のセンスもいい。

 周りの同級生たちの中にはすでに着飾ることを覚えた子たちもいたのだけれど、それでもサヤちゃんが一番ファッションと言うものをわかっていた。

 ジーパンを最初にはき出したのは確かサヤちゃんだし、洒落たパーカー着だしたのもサヤちゃんだったし、ワンポイントでアメリカアニメのバッジを一番に付けて来たのもサヤちゃんだった。

 周りの人たちは僕のことをお人形みたいと黄色い声を上げるが、当の僕からしてみれば、そのお人形みたいという称号はサヤちゃんにこそぴったりだと思った。

 僕は漆黒の髪を首が隠れる程度伸ばし、前髪は眉が隠れるか隠れないくらいの長さだった。そして、ジーパンをサヤちゃんの次にはき出したのは僕で、ジーパンには白くて長めのベルトを通したり、チェーン状のシルバーアクセサリーをぶら下げたりもした。

 僕とサヤちゃんは同学年の誰よりもずば抜けて輝いていたと思う。チェーンをジャラジャラと鳴らす僕に、先生は何度か注意をしたが、僕はその都度つど頭を下げ、許可を求め続けた結果、最終的に先生は黙認するようになった。兄たちも同じような手で先生たちを黙らせてきたと、シゲ兄は言っていた。だから僕も同じ手を使って先生にお願いをしたのだ。

 というか、シゲ兄と比べたら僕はまだ可愛い方だった。シゲ兄は学校指定の通学帽をかぶりたくないと、自前のお洒落な水色の帽子を通学帽と称しかぶってきていたし、ランドセルは学校に置きっぱなしで、手提げバッグに荷物を詰め込んで登校していた。

 まあ、さらにそれを上回るのは長男であるアキ兄であった。中学二年生であるにも関わらず、髪を飴色に染めていた。身長は百七十五と言っていたっけ。スラっとしていて、まるで外国の俳優のような佇まいだ。その上、運動神経と頭もよく、定期考査では全て満点に近い点数を取ってきていた。五段階通知表も体育以外は全て5だったと思う。体育が2だったのは兄はほとんどの体育の授業を見学していたからだ。汗をかくことはやりたくないと家で漏らしていた。それさえなければ、アキ兄はどこの高校だって行けるという話だった。

 シゲ兄は今年、私立中学を受験するらしい。シゲ兄ももちろん頭がいい。運動神経もピカイチだ。クールに決めようとするアキ兄とは違い、シゲ兄は快活な少年で、体育の授業もきちんと参加していた。素行の悪ささえなければ、これ以上ないというくらいの優等生だった。

 そして僕。僕はアキ兄のようにクールではなかったし、シゲ兄のように活発でもなかった。普通の子供。僕はそんな感じだった。

 まだ小学三年生ということもあり、汗をかくことにはそれほど抵抗はなかった。泥まみれになるのはごめんだったけど。

 頭の方も兄たちと同じ遺伝子を受け継いでいるのか成績は申し分なかった。兄たちの指導のもとで、僕は一学年、二学年上の勉強もした。英語も小さきときからやっていた方がいいとアキ兄に進められ、初歩的な英会話程度はできるようになった。

 国語、漢字テストが行われた。紙面にはもう僕の中では常識になりつつある漢字ばかりが並んでいた。部首や画数の問題も出ていたが、なんのこともない。それらのことも兄たちの薦めで脳の片隅にインプット済みだった。

 答案が返ってくる。すると、僕の周りには人の輪ができた。

 答えを見に来るもの。僕の点数を確認しに来るもの。それらの生徒の中に、いつもサヤちゃんはいた。

「テスト、どうだった?」

 そう微笑みかけてくれる。

「満点。サヤちゃんはどうだった?」

 そこで笑みは苦笑いに変わる。

「あたしはダメ。部首が苦手なんだ、あたし」

 舌を出して、頭をかくサヤちゃん。僕はその姿を見ると、なぜか幸せな気分になった。

「部首かぁ。確かに覚えにくいよね。でもね、コツがあって――」

 僕が漢字練習帳を開くと、サヤちゃんは覗き込んできた。サヤちゃんの顔が僕の顔の横にある。シャンプーの匂い。自分とは違う、シャンプーの匂い。

 僕は自分の練習方法をサヤちゃんに事細かに説明した。漢字は熟語で覚えれば覚えやすいと、部首は一つ一つの漢字を覚えていけば、どれが部首になるものなのか、検討がつくと。

 ノートは見直す際、わかりやすいようにまとめていた。似たような形の漢字を並べ、覚えておくといい熟語は別のページに書き出した。

「うわ、まだ習ってない漢字もある。すごいね、トシちゃんは」

 すごいね、とは僕は多くの人に言われてきた。先生やクラスメイトたち。果ては年上の先輩たちや年下の後輩たちまで。そしてそれらを僕はもうすでに半ば聞き流していた。

 けれどサヤちゃんに言われると、途端に嬉しくなって思わず笑顔になってしまう。

「うん、なるほどね。こういう風にまとめれば見やすし、よく覚えられそう!」

 サヤちゃんはニッコリと笑んだ。

 そこに一人の男子が駆け寄ってくる。ビシッと漢字の並んだノートに好奇心を覚えたのだろう。練習帳を覗き込んで声を上げた。

「うわ、すごい。トシちゃん、よくこんなに勉強できるね」

 感嘆の声。そのせいで、他の生徒たちも何事かと集まってきた。こういうことはよくあったが、僕はこのとき何故か無性に腹が立った。

「じゃ、トシちゃんありがとう。あたし、向こうでさっちが待ってるから」

 そう言ってサヤちゃんは友達の元へと駆けていってしまう。さっちと言うのは川上かわかみさつきちゃんのことで、さつきちゃんは僕たちの隣のクラス、三年二組の生徒だ。二組ではトップクラスのファッションセンスを持っている彼女はサヤちゃんとも僕とも気が合った。 サヤちゃんは教室を出て行った。きっと二組に遊びに行くのだ。

 慌てて僕も追いかけようとする。しかし。

「こういう風にすれば漢字が得意になるのか」「俺もマネしよう」「見せて見せて」

 僕の周りは僕のノート目当ての友人たちが集まっていて、どうにも僕が席を離れられる状況ではなかった。

 待って。僕も行くんだ。

 そう心の中で念じたのだけれど、サヤちゃんとさつきちゃんは、とっとと廊下に姿を消してしまった。


         4


 あたしが美樹みきちゃんの姿を見つけたのは、渋山駅を出て、渋山駅のシンボルと言ってもいいほど有名な犬の銅像の前を通り過ぎようとしていたときだった。

 あたしの『仲間』であり、その中でも特に仲のいい親友である美樹ちゃんに、あたしは何の躊躇もなく声をかけた。

「美樹ちゃーん」

 突如名前を呼ばれて一瞬びっくりした顔でこちらを見た。どうやら今の今まであたしの存在に気づかなかったらしい。

「うわっ、びっくりした。ハルちゃんじゃん。大人っぽい格好してるから、全然気づかなかった」

 大人っぽいって……。あたしそんな普段と変わらない格好をしているつもりなんだけどな……。強いて言うなら少しいつもより力を入れて化粧をしたってくらいだけど……。普段の薄い化粧のあたしって、子供っぽいのか?

「今日はどうしたの……」と言ってから、ようやくあたしの後ろにいるフクロウ面の男に気づいた。同じ職業柄、美樹ちゃんもすぐ察したようだ。「……あれ、ひょっとしてお仕事中?」

 小声で尋ねる美樹ちゃんに、別にあたしは隠す様子もなく答える。

「うん。仕事」

 さらに美樹ちゃん声をひそめてあたしに問う。

「いいの? お客さんの前でそんなこと言って」

「いいの。毎度毎度のことだから。ね、坂林くん」

 本人の意向であたしは坂林のことを君付けで呼んでいる。まあ、こっちもさん付けよりは呼びやすいからいいのだけれど。

「ハルちゃんのそういうサバサバしたところも僕は好きだよ」

「――ほらね」

 そんなところに魅力を感じられても、あまり嬉しくないが。

「ところで、美樹ちゃんはどうしたの? お買い物?」

 近くにお客さんらしき人物もいないし、確か美樹ちゃんも埼玉に住んでいる。わざわざこんなところに一人で遊びに来るはずもない。

「んーん。待ち合わせしてるの。男の人と」

 男の人? と聞いたとき一瞬『仕事』かと思ったけれど、それならはっきり『仕事』という筈だ、とすぐに考えを改める。

 よく見れば、美樹ちゃんはいつもよりおめかししているように思えた。なるほど、つまりこれからデートなわけだ。

「男の人って――彼氏?」

 聞くと、美樹ちゃんは照れくさそうに答えた。

「いや、彼氏じゃないんだけど、っていうか元々はお客さんだったんだけど……。これからプライベートで会うの。でもめちゃくちゃ格好いい人なんだよ。驚いちゃうくらい。付き合うことになるかわからないけど、今日は絶対落とすつもり! ……だから、いつもよりキレイな格好してるんだけどね」

 早口でその彼のことを喋る美樹ちゃんはとても幸せそうだった。これぞ恋する乙女。

「ほら、この洋服だってその人が買ってくれたものなんだよ。今日のデートで着てきてって!」

 あたしは振り返って、後ろに立っているフクロウを見て苦笑いしたくなった。あたしもいい出会いをしたいなぁ。

「美樹ちゃんがあたしから離れてくのは寂しいなぁー」

 そう言ってあたしは美樹ちゃんに抱きつく。

「こらこら。あたしだって男の人がいいの。いくらハルちゃんでも女の子じゃダメー」

 きゃははと二人で笑う。

「うまく行くといいね」

 親友の幸せを祈って、そう応援を送る。

「ありがとう」

 これで成功したら、もしかしたら美樹ちゃんはエンコーを止めるかもしれない。貯金は結構貯まったと、この前話していた。とりあえず十代を普通に過ごす分にはあまるくらいの額があると。

 仲間が減るというのは個人的には寂しいけれど、みないつかは足を洗わなくてはならない。美樹ちゃんが離れていくと言うのであれば、喜んで見送ってあげよう。

 一瞬、あたしは事件のことが頭を過ぎったのだが、この幸せそうな美樹ちゃんの気分を害すのはためらわれたので、また今度別の機会に注意を促すことにしようと思う。

「じゃ、あたしはこれから仕事がてら服を見に行ってくるから」

「はは、ハルちゃんたらお客さんを自分の付き人みたいにしてるじゃん。ダメだよ、ちゃんと仕事は仕事でやらないと」

「いいの。好きなところに行っていいって言ったんだからあたしは服を見に行くの。遠慮なんかしないわよ」

「ハルちゃんらしい」

 そう言ってクスクスと笑う。

「んじゃ、デート頑張ってね。あたしはお仕事頑張るから」

「わかった。じゃ、また今度ね」

「うん。いい結果報告、待ってるよ」

 最後にまたニコッと微笑むと、美樹ちゃんは駅の方へと歩いていった。

 不意に坂林が話しかけてきた。

「可愛い子だね。お友達?」

 こいつ、美樹ちゃんにまでちょっかい出す気か?

「お友達だけど、あんたには手を出させないよ」

「あはは、大丈夫。僕はハルちゃん一本だから。嫉妬しないでよ」

「…………」

 あたしは坂林を置いて歩き出す。

「あ、ちょっと待ってよ。冗談だよ。冗談」

 走ってきてあたしの横に並ぶ。

「ったく。あまりあたしの気に触るようなこと言うと、置いてくから」

 はあ、はあと若干息を切らせながら頷いた。

「ふう、でもあの子うまくいくといいね」

 横に並ぶ男の顔を見る。

「……機嫌取りのつもり?」

「いや、本当に。可愛い子には幸せになってもらいたいと言うのが全世界の男たちの願いですから」

 その顔には幸い、下心は見えなかった。とりあえずは本音と思っていい。というか、顔に似合わないようなことを言わないでもらいたい。

「あの子はあたしと同じ頃にこの仕事を始めて子だからね。言わば、同期よ。そんな子が幸せを掴もうと努力してるんだから――何が何でも掴んでもらいたいわよね」

 美樹ちゃんと出会ってから、あたしたちは一度も恋愛についての話はしてこなかった。それは隠してきたからなのか、それとも本当に縁がなかったからなのかはわからない。けれど、美樹ちゃんのあの笑顔が、泣き顔に変わるのは見たくない。親友として、彼女が落ち込んでいる姿を見たいとは思わない。

「あーあ、でもいいいなぁ。あたしもいい出会い見つけてとっととこの仕事やめようかな?」

 この仕事は別に嫌いじゃない。年上の男の人があたしに気を使って、いろいろとしてくれるのは嬉しいし、楽しくもある。けれど、この年頃、一番楽しむべきは恋愛ではないだろうか。

「ええ!」

 突如、坂林は奇声を上げた。

「ダメだよ。やめちゃ。僕、寂しいよ」

「何よ、あんた。びっくりした。別にいいでしょ。他に女の子なんて山ほどいるんだから。あたしじゃなくたって」

「僕はハルちゃんじゃないとダメなんだよ。他の女の子じゃ、絶対嫌だ」

 駄々をこねる子供のように必死に何かを訴えかけようとしている。

「何よそれ。じゃあ、あたしがやめたらどうする気? ストーカーにでもなる口?」

 その問いに、坂林は急に小さくなる。

「いや、そこまではしないよ。うん」

 ストーカーという単語に反応して縮こまるとは、こいつまさかストーカーになる気か?もしかして、もうストーカー化してる?

「本当に? 絶対にストーカーにはならない?」

「な、ならないよ。絶対に。だって、ストーカーになったら……ハルちゃんい嫌われるじゃないか」

 はい? 一瞬意味がわからなかった。

「どういうこと?」

 下げていた頭を上げて、こちらを見つめる。

「僕がストーカーになったらハルちゃん、僕のこと嫌いになるでしょ?」

「まあ、そりゃあね。迷惑だし、気色悪いし」

「だから嫌われるのがわかってストーカーになるくらいだったら、ハルちゃんが帰ってくると信じてずっと待っていたほうが気が楽じゃないか」

 いや、それは一概には言えないんじゃないのか? 待つのが嫌いな人だっているだろうし……。

「でもあたし、元からあんたのこと好きじゃないんですけど」

 そう、そもそもそうだ。好き嫌い以前に、そういう対象には入っていない。

「でも嫌いではないわけだよね?」

「ん……」確かに本当に嫌悪を抱くような奴だったらとっとと切り捨ててる。今も付き合いがあるということはつまり、少なくともそれほど強い嫌悪は抱いていないということだ。「まあ、そうなるかな?」

 その答えに満足したのか坂林は微笑んだ。

「それで十分。嫌われてなければ普通には接してもらえるからね」

 ってそれはまるでいじめられっ子の発言だな、心の中で呟いてみてふと思う。

 こいつ、ひょっとして元引きこもりとかいじめられっ子とかか?ま、どうでもいいことだけれど。

「まあ、とにもかくにも、まずは美樹ちゃんの成功を祈ろう。あたしがやめるかどうかはそれからだ」

 そう言うと、隣で坂林は呻いた。

「むう、じゃあ僕はどうすればいいんだ? あの子には幸せになってもらいたいし、けどそうしたらハルちゃんがやめちゃうかもしれないわけだし……」

 そうしてしばらく考えた後、吹っ切れたように坂林は言った。

「もお、いいや。あの子の告白が成功して、けどハルちゃんの仕事はやめさせなければいいんだ。これしかない!」

 全く。理不尽なことを言い出す。

 けど、坂林のセリフは、どこか微笑ましかった。


       5


 夏休みが終わってからはあっというまだったように感じた。気がつけばもう十月に入っていた。学活の時間、僕たちは運動会の個人種目の選手決めを行うことになった。

 このとき、僕は学級委員長だったので前に出てクラスメイトたちをまとめる役目をになっていた。副委員長はサヤちゃんだ。

 三年生になり、『生活』の代わりに『学活』の授業が加わるようになったことにともない、学級委員という係りが新たに設けられることになった。そのとき推薦で僕の名前が挙げられ、僕は了承した。特に断る理由もないと思ったからだ。みんなが嫌がるほど面倒な仕事でもないし、飼育係よりはよっぽどマシだと思った。

 僕が委員長になると、副委員長はサヤちゃんが推薦された。クラスのツートップ。

 運動会は五〇メートル走、綱引き、パン食い競争に借り物競争、そして色別リレー。これらの競技が一人一つ割り当てられるように選手を決めていかなければいかなかった。

 やはり人気だったのはパン食い競争だった。他の競技に比べてこれはパンのおまけがつく。それが恐らく魅力だったのだ。男子の多数はパン食い競争に名乗り出た。女子の多くは五〇メートル走と借り物競争に挙手をした。パン食い競争は男子で埋め尽くされているし、綱引きは女子には向かない。

 結局、パン食い競争は男子がじゃんけんで決めることになり、負けた男子が綱引きに回るということになった。

 サヤちゃんも借り物競争に参加することになった。

 僕はというと、ほとんど強制的に色別リレーに入れさせられる。

 色別リレーというのは、クラスで一番足の速い子が選手に選ばれ、各クラスの一年から六年までの生徒が、組対抗で走るリレーのことだ。男子女子、一人ずつ選ばれるそれに僕は選ばれた。確かに僕はクラスで一番足が速いが、僕としてはサヤちゃんと一緒に借り物競争に出たかった。

 まあ、仕方ないか。

 それから今度は団体競技のクラス対抗リレーの順番を決めることになった。男女混合で走るもので、一番足の速い人がたいていはアンカーになる。よって、アンカーは僕がなることになった。

「すごいじゃん、トシちゃん。頑張って!」

 そうサヤちゃんが言った。

 ぜひともこれは頑張らなくちゃな、と僕は思った。


 運動会では毎年、応援合戦が行われる。僕の学校は三クラスあって赤、白、青の三つの組に分かれて鼓舞し合う。互いに相手を応援しあい、尚且つ自分たちの士気も高めるのだ。

 僕たちは一組であるから、組は赤組であった。

 応援合戦を行うにあたって、各クラスから一人、応援団長が選ばれる。それはつまり、組の代表者である者を決めるということ。みんなまとめることができ、慕われている人物が選ばれる。

 今年の赤組の応援団長はシゲ兄だった。

 シゲ兄は前にも述べたとおり運動神経抜群で、持ち前の明るさから周りからも慕われていた。満場一致で決まったという。

 僕はそんな兄を誇らしげに思った。

 応援合戦は協調性が問われる。掛け声もそうだが、何より『波』が難しい。

 旗を持ったシゲ兄がみんなの前を駆け抜ける。目の前に赤い旗が来たとき、一斉に立ち上がりまたすぐに座る。ぶっつけ本番ではうまく行かないと、体育館を利用してそれぞれの組は『波』も含め、いろいろな練習を行っていた。

「赤は、燃えるような太陽の色!」

 シゲ兄がそうこちらを向いて叫んだ。同じフレーズを僕たちは復唱する。

「赤は、燃えるような太陽の色!」

 これは毎年、それぞれの組の色に基づいて言わされるフレーズ。

「赤は、煮えたぎる血の色!」

「赤は、煮えたぎる血の色!」

 去年、僕は白組だった。白組は『光の色』をテーマにしたフレーズを繰り返していた。

「赤は、勝利を目指す情熱の色!」

「赤は、勝利を目指す情熱の色!」

 それから青は去年、『水の色』ということで何かを叫んでていたと思う。確か、全ての生命の始まり、海の色は青! みたいな。

 一通り、フレーズを叫び終えたシゲ兄は、先生の指示に従って三三七拍子をはじめる。

「三三七拍子!」

 笛をピッピと鳴らし、右手と左手を交互に上に上げていく。それに合わせ僕たちも手を打つ。

 そして、最後に。

「赤組、優勝ぉ!」

「おー!」

 の掛け声で終了。

 兄も大変である。人気があるのはいいことに違いないのだけれど、その代わりにいろいろな面倒が起きてくる。

 ま、応援団長に関してはシゲ兄は楽しんでいると言っていた。

 あんな無意味に大声で叫ぶことのどこが楽しいんだ? とも思ったが、本人が楽しいと言っているのだからシゲ兄からしてみれば楽しいことなのだろう。とやかくいう筋合いはない。

 シゲ兄は旗を置いて六年生の列の中に戻っていく。何人もの生徒がシゲ兄に声をかけているのが、三年生の列からでも見て取ることができた。兄はみんなに返事を返しながら自分の位置へと戻っていった。

 なるほどね。シゲ兄が好き好んで応援団長をやっている理由がわかった気がした。

 やっぱりシゲ兄は周りの人たちに慕われることを楽しんでいるのだ。素直に喜んでいる。誰に好かれたい、ではなく誰からも好かれたい、という思想をシゲ兄は持っているのだ。

 運動会当日まで、残り三日となっていた。

 僕はサヤちゃんにいいところを見せるために全力を尽くそう、と密かに闘志を燃やしていた。


 そして、運動会の日がやってくる。天気は快晴。十月といえば空気が冷たくなり出す季節だけれど、今日はポカポカしていて暑いくらいだ。もう少し曇っていてもいいんじゃないかというくらい、太陽は輝いていた。

 僕たち赤組は赤いはちまきを頭に巻いている。開会式での選手宣誓、赤組の応援団長のシゲ兄は、赤組代表として、正々堂々戦うことを誓った。

 校歌を唄い、ラジオ体操で体をほぐした後、いよいよ各種目が始まる。一番最初は五〇メートル走。一番前数列が一年生の列だ。小学生に初の運動会。あたふたしている様がどうにも可愛らしい。パンという破裂音と共に、みなよちよちと走り出す。

 続いて二年生、いくらかたくましくなってはいる。とは言っても、僕たちより一つ年下だ。まだ可愛らしさが残っている。そして僕たち三年生。見知った顔がスタートラインに並ぶ。赤のはちまきをつけているのは、クラスではそこそこの速さを誇る女の子。白と青のはちまきをつけている子達を見る。どちらも足が速い子ではなかった。これなら、勝ち目はあるかもしれない。そう手を強く握る。

 パン、と響き渡る銃声。応援の声が怒号する。

 同じ一組の子、赤のはちまきを着けたあの子が見事トップでゴールインを果たす。

 続いての赤組はまたまた中の上程度の男子。周りを見渡すと、実力的には似たような面々がそろっていた。これも勝ち目はあるかもしれない。内心で、がんばれと叫んだ。

 が、結局その子は二位で終わった。ギリギリのところまでったのだけれど、ゴール直前で白組の子が一歩前に出た。

 おしかった。たぶん、気持ちで負けたんだな。勝てない相手ではなかったと思う。

 さて続いては――。

 ――と、見ているだけでも十分楽しめるのが、運動会のいいところである。勉強も嫌いではないけれど、こういう大々的なイベントはやはり気分が高まる。

 組単位での勝ち負けがあるのも大きい。みな、負けじと全ての力を発揮しようとする。

 一年生から六年生までいる小学校の運動会は、一つの競技を行うだけでも結構な時間を消費する。二種目目のパン食い競争が終了したときには、もう開会式が終わってから三十分が過ぎようとしていた。時計の針は十時を指している。そして三つ目、いよいよ団体競技に入ることになる。一年生、二年生の低学年全員による、踊りだ。

 テレビアニメのテーマに合わせて、青いビニール紐のついたバトン(近くで見るとわかるが、実はテープを巻いたラップの芯)を両手で器用にクルクル回す。あるいは、片手で掴み、腕を振り回しながらダーッと駆け回る。最後は中央に集まって、それぞれの決めポーズ。辺りからは拍手喝采が巻き起こる。

 僕も無意識のうちに手を打っていた。自分らが一年生、あるいは二年生だったとき、これだけの動きはできただろうか? そう思うと、賞賛の拍手を送るしかない。

 続いては三年生、四年生の団体競技。僕たちの番だ。体育の時間、僕たちはずっと練習してきた。特に、寒くなってからは耳や肌に直接当たると、激痛が走った。

 僕たちは音楽に合わせて縄跳びをするというパフォーマンスだ。

 駆け足とびをしながら移動して、大きな円になったり、無数の小さな縁になったりを繰り返す。小さな円どうしが近づいて合体したりとか、大きな円から小さな円が分かれていったりとか、これが、縄跳びをしながらだとなかなか難しい。体力の消耗も激しいし、円になったときに、一度みんなで交差跳びをしたり、綾跳びをしたりもするのでもう最後のほうにはヘトヘトになる。

 最後の決めは、二重跳びができる人たちが円の中央に入っていって、音楽に合わせて一斉に二重跳びを十回行う。そして、みんなで縄跳びを手に持ち、ポーズ。終了。

 全身汗だくになりながら、僕はサヤちゃんと並んで退場する。サヤちゃんと僕は二重跳びができたので、円の中央で、隣り合うようにして飛んでいた。

「ああ、もう疲れちゃったぁ」

 自分たちの席に戻ると、サヤちゃんはタオルで汗を拭いながらそう漏らした。

「そうだね。僕も疲れたよ」

 僕も汗を拭う。フェイシャルシートで汗を拭い、制汗スプレーで体を冷やす。

「あ、それいい香りだね。何てやつ?」

 サヤちゃんも僕と同じ作業しながら、そうたずねてきた。

「ああ、これ? この前、お母さんと一緒にお買い物行ったときに買ってもらったんだけど、新発売みたい。貸してあげようか?」

「わー、見せて、見せて」

 そう僕の横にやってきて、ラベルをジッと見つめている。

「使ってみてもいい?」

「いいよ」

 シューっと、サヤちゃんは自分の手の甲に噴射する。

「やっぱりいい匂い。あたしも今度からこれにしようかなぁ」

「だよね。僕も買ってみて、よかったと思ったもん」

 制汗スプレーを使っている子たちは、少なくとも僕たちのクラスには僕ら以外いなかった。

 女の子たちでもタオルで汗を拭うという作業で終えているのがほとんどだった。男子にいたってはそのまま友達とどこかに遊びに行くものも多くいた。

「あ、スプレーだ。貸してくれない?」

 一人の女子が僕にそう聞いた。

「どうぞ」

 そう笑んで、スプレー缶を手渡す。

 シューッと体全身に吹きかけていく。

「スッキリした。ありがとう」

「うん。どういたしまして」

 やっぱり、彼女らは汗の臭いを不快には感じるのだろうが、こういういい匂いというものに関しての知識が乏しいのだろう。まあ、小学生なのだから仕方ないと言えば、仕方ないが。

 その点、サヤちゃんは僕と同じくらいファッションというものをわかっている。サヤちゃんは汚れにも気を使っているのだろう。体育着にはほとんど土はついていなかった。他の子たちとは大違いだ。

 そして、午前の部の最後を飾るのは組対抗の応援合戦。これは総合順位を決めるための得点とは無関係のものなのだが、それでも自分たちのやる気を相手に見せ付けようとするため、運動会のプログラムの中でもトップクラスの盛り上がりを見せる。

 赤組、白組、青組がちょうど三角形になるようにそれぞれ向かい合う。先頭はそれぞれの応援団長が旗を持って立っている。

 一番最初は、僕たち赤組がパフォーマンスを見せることになっている。

「赤組ぃ!」

 シゲ兄の声が一段と大きく響く。真っ赤な旗を掲げ上げる。

「応援合戦、始めるぞぉ!」

 おおー、と僕たち赤組は総勢で雄叫びを上げる。

「赤はぁ、燃えるような太陽の色ぉ!」

 いつになくすごい迫力で叫ぶ、シゲ兄。

「赤は、燃えるような太陽の色」

 練習通り、僕たちもシゲ兄の言った言葉を復唱する。

「赤はぁ、煮えたぎる血の色ぉ」

「赤は煮えたぎる血の色!」

「赤は、勝利を目指すぅ、情熱の、色ぉ!」

「赤は勝利を目指す、情熱の色!」

 そう言って、僕たちは一斉にしゃがみこむ。

シゲ兄はすでに、列の左端に移動していた。

「行くぞ!」

 シゲ兄が走り出したのに合わせて、左から諄々に、みな『ワーッ』と声を上げながら立ち上がる。シゲ兄は赤い旗をなびかせながら、何往復も僕たちの前を駆け抜けた。

 さすがシゲ兄。赤い旗を持つ姿も様になっている。そういえば、『ワーッ』の中に『キャーッ』という女の子たちの黄色い声も混じっているような。

 そして、三往復か、四往復を終えたところで、シゲ兄は中央で立ち止まった。旗をピッと上に掲げる。それを合図にして、僕たちは練習でやったように総勢立ち上がる。

「赤組、優勝するぞぉ!」

 勇ましい兄の声。

「オオウ!」

 それに合わせて、それぞれが気持ちを乗せて大声で返答する。

 僕もサヤちゃんも『おう!』と空高く右手を伸ばした。

「これで、赤組の応援を終わります。続いて、白組と青組にエールを送ろりたいと思います」

 これが僕たちの小学校の応援合戦。他のクラスもお互いにベストが尽くせるようにと、鼓舞しあうのだ。

「フレェ、フレェ、白組」

「フレ、フレ、白組、フレ、フレ、白組!」

 『フレ、フレ』に合わせて手拍子を叩く。

「頑張れー、頑張れー、白組」

「頑張れ、頑張れ、白組、頑張れ、頑張れ、白組」

「フレェ、フレェ、青組」

「フレ、フレ、青組、フレ、フレ、青組」

「頑張れー、頑張れー、青組」

「頑張れ、頑張れ青組、頑張れ、頑張れ、青組」

 そして、最後に三三七拍子を行って、もう一度赤組優勝、と叫び赤組のパフォーマンスを終了した。

 これでとりあえず山を越えた。午前の部、僕が関わる種目はこれで終わったのだ。

 続いて、白組の番になり、その後青組も集団での鼓舞を終える。

 最後は先生がマイクで、弁当についての説明と午後の種目の開始時刻を発表して解散になった。僕は人込みの中からサヤちゃんに声をかけると、保護者たちの多く集まる方へと向かう。

 恐らく、お母さんが来ているはずだ。それにアキ兄も何だかんだで来ているかもしれない。昨日は運動会なんてもう興味ない、とは言っていたけれど、それでも仲のいいシゲ兄の応援団長姿、そして末っ子の僕が色別リレーを走る姿を、少しは見たいんじゃないかな、と思った。

 僕たちは一度、サヤちゃんのお母さんのところへ向かう。サヤちゃんのお弁当をもらうためにだ。僕とサヤちゃんは一緒にご飯を食べるということで意見が合致していた。そこでサヤちゃんは『じゃあ、あたしがトシちゃんのところに行くね』と言ってくれた。やはりサヤちゃんは優しい。人間ができている。

 サヤちゃんのお母さんには何度かあったことがある。僕がサヤちゃんの家に何度か遊びに行ったことがあるからだ。僕とサヤちゃんが親友だということも、お母さんは知っている。

「あら、トシちゃん、こんにちは」

 サヤちゃんのお母さんが僕を見て微笑む。サヤちゃんのお母さんは、サヤちゃんに似て美しい人だ。若さの中に大人っぽさを兼ね備えたような、そんな不思議な風貌の持ち主である。

「こんにちは」

 僕も微笑み返す。

「お母さん、あたし今日、トシちゃんと一緒にご飯食べるからお弁当ちょうだい」

 そう催促する。その声にお母さんはわかってますよと紙袋の中から布に包まれた四角い物体を取り出した。お弁当箱だ。

「一緒に食べるって、どこでたべるの?」

 サヤちゃんにお弁当を手渡しながら問うた。

「トシちゃんの家のところ。別にいいでしょ?」

「家族水入らずなんじゃないの? トシちゃんのお父さん、お母さんも、迷惑なんじゃない?」

 そんなお母さんの杞憂を、僕は慌てて否定する。

「いえ、別に家族水入らずってわけでもないですし、サヤちゃんなら大歓迎だと思いますよ」

「そお?」

 僕は大きく頷いた。

「そう。それなら行ってらっしゃい、サヤ。迷惑かけちゃダメよ」

「迷惑なんかかけないよ」

 そう言いながら歩き出す。

「それじゃ」

 離れる際、僕は一度頭を下げた。僕はこのとき、すでにある程度の礼法は覚えていた。僕のお母さんや、アキ兄から無意識のうちに教えられたものだ。

 僕を形成しているほとんどの要素は、兄や両親からすり込まれてきたものだ。家の環境が、家族との会話が、この僕を形成している。

 僕とサヤちゃんが歩いているのが目についたのだろう。僕のお母さんは座ったまま、大きく手を振って自分がどこにいるのかを必死にアピールしていた。

 そちらを見ると、やや茶色がかった長髪の男――アキ兄もビニールシートの上に座っていた。

「アキ兄、よっ!」

 僕はアキ兄の視界に入るところに立ち、右手を軽く上げる。どこか違う方向を見つめていたアキ兄がこちらに気づく。

「おう、よお」

 こちらをちらりと見るだけで、特に何の動作もしない。アキ兄は極端に無愛想だ。

 さらに近づくと、もうすでにシゲ兄もシートに座っていておにぎりを食べ始めていた。

 僕とサヤちゃんはあいている場所を見つけ、座り込む。

「よお、おまえも確か色別だよな」

 おにぎりを口に含んだまま、モゴモゴと喋るシゲ兄。

「そうだけど、シゲ兄、口に物を入れながら喋るのは汚いよ」

「そんな硬いこと言うなって。あ、えーとそっちの子はサヤちゃん、だったかな?」

 急に名前を呼ばれて少し驚くような顔をするサヤちゃん。

「あ、はい。そうです」

「あー、そんな硬くならないでいいよ。えーとサヤちゃんは何に出るの? たぶん、五十メートルにもパン食いにもいなかったと思ったけど」

 その言葉にきょとんとするサヤちゃん。

 固まったサヤちゃんの代わりに、僕が疑問をぶつけることにする。

「シゲ兄、どうしてサヤちゃんがどっちの競技にも出ていないっていうことを、覚えてるの?」

 出たのならまだしも、出ていないということを確信を持っていえるということは、その競技にサヤちゃんが出ていないか確認したからに他ならない。なぜ、サヤちゃんに注目していたのか、僕はそういうニュアンスを含んでたずねた。

 幸い、僕の込めたニュアンスがうまく伝わったらしい。

「いや、だっておまえの友達でしょ。何回かうちに来たことあるし。それに目立つし」

「目立つ?」

「あー、だってほら、サヤちゃんって普通の子と違うじゃん、なんか。僕たちと似てるっていうか」

 言いたいことはわかる。サヤちゃんは言わばこちら側の人間なのだ。

「だから、何で僕がサヤちゃんが前の競技に出てないのを知ってたかっていうのは、つまりそういうわけ」

 サヤちゃんは頬を赤くして、頭をペコリと下げた。

「目立つなんて、そんな」

 シゲ兄の前ではさすがのサヤちゃんもかしこまってしまうようだ。まあ、女の子からの人気も高いシゲ兄を前にしてじゃしょうがない。一種のアイドル。僕も血の繋がりがなかったら、目を見て話すこともできないかもしれないくらいのオーラを放っている。自信、優しさ、明るさ、華やかさ、全てを身にまとっている。

 僕なんかより、百倍くらい大人に見える。

「いや、お世辞じゃなくてさ、本当に。あ、話は戻すけど、サヤちゃんは何に出るの? おまえは確か、僕と同じで色別だよな?」

 サヤちゃんに尋ねた後、一旦こちらも顔を向ける。

「うん。僕、クラスで一番足が速いから」

「男子女子合わせて、クラストップか?」

「うん。というか、学年トップだと思う」

「そんなひょろっとした体でよくそんなスピードが出るな」

 僕からすれば、シゲ兄のように筋肉をつけて鎧みたいになった体で、どうして僕よりも速く走れるかの方が不思議なのだけれど。

「あたしは、借り物競争に出ます」

 ニコリと笑って、サヤちゃんは答えた。

「へえ、やっぱりそうか。あと残ってるのは色別と綱引きと借り物だけだもんね。綱引きはやらないだろうし、色別は違うだろうしね」

「そういえば、そうなりますね」

「わかってるなら何で聞くんだよ、シゲ兄」

「いや、今になってそういえば借り物競争しかないな、と思ったもので」

 シゲ兄は次のおにぎりに手を伸ばしながら言った。

「ま、頑張って。借り物競争。応援団長として、精一杯応援させてもらうよ」

 照れ笑いをするサヤちゃん。

「はい、がんばります」

「がんばって、サヤちゃん」

 僕もそう声をかける。

「何言ってんだよ。僕らも頑張るんだよ。おまえが遅かったら、アンカーの僕が恥かくことになるんだから」

「ああ、そうか。シゲ兄も色別か。六年生の男子だし、自然にアンカーになるわけね」

「白も青も僕よりは足が遅いけど、そうは言ってもクラス代表だから、相当足速いぜ。さすがに出だしでリードされたら追い抜けない。」

「大丈夫。心配しなくても、僕は余裕でバトンを次の人に渡せるよ」

「そ。なら心配はしないよ」

 僕もお弁当箱の中のおにぎりに手をつける。

「シゲ兄こそ、アンカーでこけたりしないでよ。シゲ兄、張り切りすぎると失敗する性質たちだから」

「それじゃあ適度に張り切ることにするから安心しろよ」

 そこでシゲ兄はおにぎりを食み出した。僕も倣って、一かじりする。

 それからは僕もシゲ兄もサヤちゃんも黙ったままだった。ただ淡々と口を動かしている。しかし、それは決して嫌な沈黙ではなかった。風が頬を撫でていって、気持ちいい。

『まもなく、午後の部を開始します。玉入れに出る生徒は入場門まで集まってください』

 放送委員の声が校庭に響いた。

「次が三、四年生の綱引きで、その次が五、六年生の棒倒しか。それでその次がいよいよサヤちゃんの出番だね」

 シゲ兄がポツリと呟いた。

「そして、その次が僕たち五、六年生による組み体操ってわけだ」

 そうだ。まだ六年生、最後の見せ場が残っていた。組み体操。

「シゲ兄、そういや組み体操の話、家で全然しなかったよね。どんなことやるの?」

 こちらを向くと、ふっくりと口元をほころばせる。

「ひ、み、つ」

 僕はその悪童のような顔を見て呆れる。

「秘密って……。子供じゃあるまいし」

「うるさいな。見てのお楽しみってやつだよ。男のロマンだろ」

 どこが男のロマンなのか。血のつながった兄であっても何が言いたいのかはよくわからない。

「お、ほら一、二年生の入場だ。応援団長として応援しなくちゃな」

 とっとと立ち上がって、靴を履き人ごみの中に溶け込んでしまう。どうやら組み体操の内容を隠し通すつもりらしい。

 まあいいや。そんなに興味があるわけでもあるまいし。

 玉入れは三セット行い、勝ち点の多い組から一位、二位、と決まっていく。

 赤組は残念ながら三位、ビリだった。

 それから三、四年生たちの綱引き。これは僕たちのクラスメイトも参加している。これは見事赤組が一位を獲得した。そして、続く五、六年生の棒倒しでも赤組が一位を獲得。

 そして続く種目は、いよいよサヤちゃんの出る借り物競走である。

「こればっかりは運だからな」

 いつのまに戻ってきたのか、シゲ兄が僕の隣でそう呟いた。

「関係ないよ。サヤちゃんはクラスでも足の速さはトップクラスなんだ。どんなものでも即行見つけてゴールするさ」

 パン、と銃声が空に響き、土を蹴る数人の足音が校庭に広がっていく。最初は一年生のグループだ。

 一年生ということで簡単なものを用意されていたのだろう。みんな先生や両親の手を引っ張ってゴールへ向かう。

 続いて二年生。これも数人の生徒は先生や友達の手を引っ張ってゴールに向かう者がいた。が、中にはパイプ椅子を手に持ってゴールを目指す者、タオルをぶんぶん回しながら走る者、紙に書かれたお題は学年が上がるにつれてちょっとずつ難しくなるのだろう。

 そしていよいよ三年生。サヤちゃんの番だ。パン。軽快な破裂音と共に、サヤちゃんは勢いよく駆け出した。一番に落ちている紙を拾う。簡単なものでありますように。僕も客席から祈りを送った。

 サヤちゃんは紙を開いて中を確認する、と同時にこちらに目を向け、駆け足で向かってくる。

「あれ、サヤちゃんどうしたんだろ」

 僕がつぶやくと、シゲ兄も曖昧に、

「さあ、何だろ。タオルか何かじゃないのかな」

 と自分の考えを述べた。

 しかし、僕たちの前まで駆けてきたサヤちゃんは紙をこちらに見せながら、まさかのそこに書かれている言葉を叫んだ。。

「応援団長っ!」

 一瞬、僕もシゲ兄も固まった。が、シゲ兄はすぐに「ああ」と声を漏らして校庭の方へ駆け出す。

「行こう!」

 シゲ兄とサヤちゃんは並んでゴールへ向かって走っていった。残念ながら、前にはもう二人ほどの生徒がいる。各クラスから二人ずつ――つまり六人の選手の中で、サヤちゃんは三位だった。

 任務を終えたシゲ兄は、サヤちゃんよりも先に僕のところへ帰ってきた。

「いやぁ、前の二人はメガネとハンカチだったよ。勝てるわけない。二人ともすでに手元に持っていたっていうんだから」

 それはどうあがいても勝ち目はない。前の二人は紙を見て、そのままゴールに向かえばいい。シゲ兄を呼びに来たサヤちゃんに逆転のすべはない。

 そうして、他にもバスケットボールとか、カラーコーンとか、難易度の高いものもみな、必死に探して、見つけたら片手に持ちゴールに向かい、それの繰り返しで借り物競争も終わりを告げた。

 サヤちゃんが戻ってくる。もうじき、借り物競争の選手は退場門より、退場する。

「んじゃ、僕もそろそろ準備しなくちゃ」

 シゲ兄は立ち上がって入場門の方へと歩いていった。シゲ兄が『お楽しみ』と言っていた組み体操がこれから始まる。

 何をするのだろう。シゲ兄のあの何かを含んだ笑み。ただの組み体操ではないのだろう。

『次は、五、六年生による組み体操です』

 アナウンスが入ったと同時に、アップテンポの音楽が大音量で流れた。これは民謡をトランス風にアレンジした曲だ。リズムに合わせて、何人もの上級生たちがグラウンドに集結した。ダン、ダンという重低音が校庭に響き、上級生たちは三人組みを作り、あっという間に『サボテン』を作る。サボテンは二人が横に並んで膝を曲げる。そして、三人目は二人の内側の膝の上に立ってバランスをとるというもの。

 それもあっというまに崩れて今度は『電柱』。電柱はただ単に肩車をしているだけだ。上の人物が両手を左右に広げている様子が、電線に見えるところからそう呼ばれるようになったのではないだろうか。

 そして、それもパッと解かれ、今度は十数人で固まり円を作る。半分が馬になり、その上を残りの半分が馬とびをする。

 今度は飛んでいた側の人が馬になり、馬だった人が逆周りに飛び始める。

 今度は全員が立った状態になり、時計回りに側転を始める。三回まわった後、今度は反対周りに三回まわる。

 今はキラキラキラーという金属音が校庭に響いている。数人の生徒が、その輪から抜け出し、側転しながら校庭の中央へ集まる。その様子はまるで流れ星のよう。

 その中にシゲ兄の姿があった。

「わあ、シゲルくんだ」

 ふと隣を見ると、借り物競争を終えたサヤちゃんが戻ってきていた。

「ああ、おかえり」

「ただいま」

 挨拶もそこそこにシゲ兄の方を見守ることにする。僕がそうしたかったと言うより、サヤちゃんの方が、もうすでにシゲ兄のパフォーマンスに釘付けになっている。

 合計すると五人、中央にいた。そしてさらにシゲ兄は他の四人に囲まれるようにして、集まりの中心にいた。二、三回ピョンピョンとそこでジャンプし始めたかと思うと、シゲ兄は勢いよくバク転を始めた。回りの四人も側転やらハンドスプリングでシゲ兄を囲むようにしてPTAの人たちや先生たちのいる本部席の方へ流れていった。

 そこで一気に曲調が代わる。ダダダダ、というスネアを叩く音。優勝発表とかに効果音として使われるあれだ。あの音が校庭に響く。

 男子が三組に分かれ、中央に集まる。真ん中が特に多い。八人が肩を組んで、まるで『えんじ』でも組んでいるようだ。その上にまた五人の生徒が乗り、その上に三人の生徒が乗った。

 ――タワーだ。僕は瞬時にそう思った。

 以前、確か僕が入学した年もタワーをやっていた。アキ兄たちが小学六年生だったときのことだ。あのときも三段のタワーだった。一番てっぺんにいたのは、アキ兄――。

 しかし今回のはどうもおかしい。三段目に人が三人もいる。一人で十分じゃないのか?と思っていると、シゲ兄はそのタワーを上り始めた。まさか、四段?

 シゲ兄の上っているタワーの周りを女子たちが電柱で囲みながら見守っている。余った男子たちは、二段のタワーを作って女子たちのさらに外側を囲んでいる。

 そして今、シゲ兄がてっぺんに到着した。ダダダダダ……。スネアの音が鳴り響く中、ゆっくりと立ち上がり空に手を伸ばす。しっかりと足を伸ばしきったと同時に、ダン! というとどめの効果音がなる。

 音楽が止まってから、数秒間その体制のままでいた。数秒後、五、六年生たちを囲むようにして盛大な拍手が巻き起こる。どうやら演技終了のようである。そしてしばらく経つと、周りの女子たちは電柱をやめ、小さなタワーも崩れ始めた。

 シゲ兄も満足気な顔をしていた。ここからでもその様子は窺えた。シゲ兄が塔のてっぺんから降りようとしゃがみこんだその時。

 二段目の男子たちが崩れ始めた。まるで砂のお城でも壊すように、少年たちは地面に引き寄せられていく。そんな中、シゲ兄の宙を舞っている様が一際ひときわ目に着いた。

「あああ!」

 数人が叫び声を上げる。みな、その思いがけない出来事に無意識の内に声が漏れているのだろう。しかし、それはまだいい方だ。僕やサヤちゃんはハッと息を呑んだまま、硬直していた。頭が真っ白になって、状況が理解できない。

「シゲル!」

 いつも冷静に、クールで決めていたアキ兄もさすがに声を上げた。

 グラウンドにはすかさず五、六年生の担任数名と学校医の先生が駆けつけた。

 誰も怪我をしていなければいいが。

 もうすでに数人の生徒は立ち上がり、退場門へと歩いてきていた。その中にシゲ兄の姿はない。

「シゲルくん、大丈夫、だよね」

 サヤちゃんのその問いに、僕は答えることはできなかった。空中に放り出されたシゲ兄の姿がフラッシュバックする。小学生の組み体操とはいえ、四段タワーのてっぺんは、地上から五メートル程度はある。それは小学生の軟弱な体からすれば、驚くほど高く、落下の衝撃は体を破壊するには十分すぎる。

 が、その心配は無用だったようだ。人ごみの中に、僕はシゲ兄の姿を見つけた。しっかりと自分の足で歩いている。

 さすがはシゲ兄だと思った。あの高さから落ちても無傷だなんで、格好よすぎる。

 退場門を通り過ぎ、シゲ兄はこちらに戻ってくる。幸い、誰も大怪我をする者はいなかったようだ。

「危なかった。死ぬかと思ったよ。あそこまで激しく崩れたことは今までなかったから、さすがにびびった」

 笑いながらいうシゲ兄。見るところ、どこからも血の流れている様子はない。

「おまえ、本当に大丈夫なのか?」

 アキ兄が近づいてきて、そうたずねる。お母さんも心配そうにシゲ兄を見つめていた。

「ああ、大丈夫だよ。アキ兄とは鍛え方が違うから、僕」

 そこでサヤちゃんもほっと胸をなでおろした。

「ほら、いくぞ」シゲ兄は僕の肩を叩いた。「おまえも色別に出るんだろ? もう並んでるぞ。みんなに迷惑かけるな」

 運動会最後の種目、色別リレー。クラスで一番早いものが集まり、チームを組んで走るリレー。走る競技最大の見もの。優勝を決めるのに大きな影響を及ぼす種目。

 僕はウォーミングアップがてら、小走りで入場門へ向かう。シゲ兄も小走りで僕についてきた。

 入場門の前では、すでに各組ごとに並ばされていて、人数確認が行われていた。僕とシゲ兄もクラスと名前を述べ、列に混ざる。

「おうし、これで最後だ。みんな頑張って来いよ」

 四年生の担任をしている男の先生が、僕たちにそう言った。言われなくとも頑張るさ。サヤちゃんが見ているんだ。手なんか抜けない。

 入場の音楽が流れる。運動会のテーマ曲と言えばこれ。『剣の舞』。早いテンポはやる気を倍増させる。

 僕たちは走ってそれぞれのスタート地点に向かう。トラックは一周が二百メートル。一人百メートルずつ走るので、僕たちは二つに分かれることになる。

 スタート地点には、すでに一年生の女子代表の子たちが三人、緊張しながらスタートの合図を待っている。このリレーは個人の勝敗だけではなく、全体の、組の勝敗に影響する。初めて色別リレーという晴れ舞台で、新一年生である彼女たちの心臓は今にも破裂しそうなほど脈打っているに違いない。

 心の中で、敵仲間関係なく、三人に頑張れとエールを送る。

 そしていよいよ最後のレースが始まる。

「いちについて」三人はギュッと地面を踏み込む。「よーい、どん」

 パン、という音と共にみな全力で駆け出した。

 反対側で待つ男子たちにバトンを渡すために駆けていく。

 これは足の速い子たちの集まりなのだ。順番はすぐに回ってくる。ほら、もう僕はスタート地点に立っている。

 このとき、赤組のバトンは二位の位置にあった。白、赤、青の順番だ。

 そしてこの順番のまま、僕はスタートを切ることになった。

 バトンゾーンを利用して加速する。そして、バトンが僕の手に渡った瞬間、爆発的な力で地面を蹴り、一気に最高スピードに達する。

 白組の子を抜かすのは簡単だった。僕のほうが明らかに足が速かった。

 一位になり、できる限り白組との間に差をつけ、僕は次の走者にバトンを渡した。

 これで僕の任務は終わりだ。息が切れている。今頃になって、体が熱を帯びてくる。はぁ、はぁ。荒れた息を、僕はゆっくりと整える。

 見ると、再び赤組は白組に並ばれようとしていた。今年の白組は、やたら速いな。

 かわいそうだが、今回は赤と白の一騎打ちになりそうだ。青は白と赤が攻防を繰り返している地点より五〇メートルほど後ろでくすぶっていた。

 そして五年生の男子にバトンが渡る。と、そこで赤組が前に出た。よし、そのままシゲ兄まで回れば、もう赤組の勝ちは確実だ。

 六年生女子。大丈夫。赤組は依然、トップの座を守り続けている。

 そしてアンカー。シゲ兄の出番。

 僕と同じように、バトンゾーンをフルに活用して加速する。バトンを握り締めた瞬間、車のアクセルでも踏むように一気にスピードが上がった。

 が、しかし。

 次の瞬間、僕は目を疑った。

 シゲ兄が、転んだ。

 前のめりにずっこける。まるで、そうヘッドスライディングのように。

 白組の歓声。赤組の悲鳴。それから、シゲ兄を慕う生徒たちの息を呑む音。

 シゲ兄はすぐに立ち上がり、駆け出す。しかし、もう白組との差は数十メートルも開いている。

 アンカーのみ、二百メートル、つまり一週走ることになるのだが、いくらなんでもたったの一周で数十メートルの差を埋めるなんて……。

 ざわ。生徒が一瞬、どよめく。僕は何事かと思ってシゲ兄を見た。

 速かった。

 とにかく速かった。

 白組の子も確かに速かった。僕なんか、足元にも及ばないくらい速かったその白組の子を、シゲ兄はゴール直前で追い抜いた。数十メートルの差を埋めて。

 赤組がドッと沸く。白組もため息をついていた。

 すごかった。僕はものすごいものを見た。ものすごいスピード、ものすごい気迫。けれど、なにより僕がすごいと思ったのはシゲ兄の顔だった。あの、いつもどこが余裕を含んでいた顔が、ただ先を見つめて必死になっていた。僕は生まれてから、かれこれ九年間シゲ兄と過ごしてきたわけだけれど、あんな顔、今まで一度も見たことがなかった。

 ゴールしたシゲ兄は、再びいつもの笑顔に戻っていた。シゲ兄の周りには赤いはちまきをつけた子たちで人だかりができていた。それに混じって、一緒に走っていた白組と青組の六年生の姿があった。僕もシゲ兄に近づいていく。

「すごいな、シゲちゃん。化け物かよ」

「俺も後ろから見ててびっくりしたよ。俺も全力で走ってるって言うのに、どんどん離されていくんだもん」

 シゲ兄は頭を掻いて、

「いやだって、まさかこけるとは思ってなかったからさ。ちょい必死になっちゃった」

「ちょいなのかよ、あれで。かなわないか、やっぱシゲちゃんには」

 ニッコリと笑って、頭を掻くシゲ兄。

「ほら、退場するから早く並べ」

 いつまでも喋っているシゲ兄たちに痺れを切らしたのか、先生が僕たちにそう言った。

 注意されてはずっとわいわいやっているわけにもいかず、一旦整列する。その間も、六年生の三人は何かしら話をしていた。

 退場は物静かな音楽がかかった。となりのトトロの主題歌にもなった『さんぽ』だ。

 僕たちが退場門へと向かっている途中、保護者たちはずっと拍手していた。その拍手は誰に向けられているわけでもないのだろう。

『これで、平成十年度運動会の競技を終了します。生徒は閉会式の準備をしてください』

 僕らが退場門をくぐったところで、そうアナウンスが流れた。退場門には数人の女子――十中八九シゲ兄の目当てだ――が、立っていた。シゲ兄を見つけると、急いで駆け寄った。

「大丈夫だった? 怪我は?」

「ハンカチ、水で湿らせたのを持ってきましたけど」

「絆創膏持ってるけど、使う?」

 シゲ兄は、そのどの問いにもアハハ、大丈夫と返事を返して、とっとと退場門から離れていく。そして、僕の隣に並ぶ。

「おう、おつかれ」

 僕の肩にポンと手を置く。

「お疲れ様」

 見ると、そのひじからは血が流れていた。さっき転んだときのものだ。

「どうしたの? 転んだりして。つまづいた?」

「ああ、いや、張り切りすぎて滑った。おまえにしっかりやれってグチグチ言ってた僕がコケちまうんなんて、カッコ悪すぎだよな」

 そう言いつつもガハハと大笑いする。

 格好悪いなんてとんでもない。あれだけ差が開いていたのに、追い抜いてゴールしてしまうのだから。転んだ、という点を差し引いても十分格好いい。

「おーい」

 右手を振りながら少女が――サヤちゃんがこちらに駆け寄ってくる。

「サヤちゃん!」

 僕の雄姿を見てくれた? トップを抜いて、僕の独走態勢。

 すごいね、トシちゃん。そう笑んでくれるサヤちゃんの顔が自然と想像される。

 そして、僕たちの元に到着する。

「サヤちゃ――」

「大丈夫ですか、肘!」

 第一声で、そう言った。

「ん、ああ、これね。大丈夫。全然痛くないし」

「すごかったです。あれだけ差が開いてたのに、一瞬で追い抜いちゃって」

「別にすごくはないよ。ただ、転んだせいで頭が真っ白になっちゃって、無我夢中だっただけさ」

「それでもすごいです」

 シゲ兄は照れ笑いを見せる。

「あ、トシちゃんもおつかれ。すごかったよ。早かった。見ててびっくりしちゃったもん」

 サヤちゃんは僕の想像したとおりの笑顔を向けた。

 けれど、思っていたよりも嬉しくない。どこか、満足できない自分がいる。

 僕たちはそのままアキ兄や、お母さんの元へと歩いていく。僕はその間もサヤちゃんと話をしていた。けれど、サヤちゃんの声が上手く頭に入ってこない。

「おつかれさま、二人とも」

 ビニールシートに座っているお母さんが、そう言った。

「大丈夫だった? シゲル」

 お母さんもシゲ兄のことを案じている。

「なんだよ、大丈夫だって。こんなの、三日もすれば治るさ」

「問題なのはそっちの怪我じゃないだろ」

 不意にアキ兄が声を漏らした。シゲ兄が一瞬、ピクリと肩を震わした。

「足、怪我したんじゃないのか?」

 僕はシゲ兄の足元を見る。確かに、膝からも血が流れている。

「ああ、こっちだって大したことないよ。こっちも三日で治る」

「俺は擦り傷の話をしてるんじゃない。足首かどこか、捻挫でもしたんじゃないのか?」

 お母さんは、アキ兄に聞き返した。

「捻挫?」

「たぶん。タワーから落っこちたとき、痛めただろ、シゲル」

「そんなわけないじゃん。僕、全然元気だったじゃん」

 そうである。捻挫なんてしていたら、シゲ兄はその素振りを見せるはずだ。

「タワーから落ちてすぐのときは、びっこひいてただろ。まあ、退場するときには誤魔化そうとしてたみたいだけど」

「…………」

「すごいよ、おまえは。そんな素振り、全然見せなかったもんな。俺も、今さっきおまえがこけるまでは気のせいだと思ってた」

 え。

 今さっき、転ぶまで? じゃあ、ひょっとして、さっき転んだのって……。

「周りに気を使ったんだろうが、転んだら元も子もないだろ」

「……はぁ」シゲ兄はため息を吐いた。「ったく。すげえのはアキ兄もだよ。どういう洞察力してるんだよ。全く、何でもお見通しってか」

 シゲ兄はその場にドサッと座った。

「ちょっとは考えろ。無理しておまえが走らなくたって、他に足の速いやつはいるだろ」

 かぶりを振るシゲ兄。

「嫌だね。僕はどうしても色別のアンカーを走りたかったんだ。一昨年の兄貴みたいに、カッコよくゴールしたかった」

 ちなみに一昨年、アキ兄は青組のアンカーで、ビリから一気に二人を追い抜いてゴールした。

「何が格好よくだ。おまえのせいでせっかくのチャンスが無駄になるところだったんだぞ」

 ずいぶん辛口なことを言うな、と僕は思った。しかし、シゲ兄は全く気にする素振りも見せず、

「でも、最後はちゃんとトップでゴールしたろ。結果オーライだよ」

 このコメントには、さすがのアキ兄も返す言葉が見つからないようだ。

「……ま、閉会式が終わったら、ちゃんと病院に行けよ」

「あいよ。わかった」

 苦笑いを浮かべながら、嫌々アキ兄の提案を承諾するシゲ兄。

 ポンと、サヤちゃんが僕の肩を叩いた。

「すごいね、シゲルくん。アキラくんも……」

 そう、二人ともすごい。僕なんかが敵う相手ではない。

 特にシゲ兄には敵う気がしなかった。あらゆるものにおいて。


 運動会は、赤組の優勝で幕を閉じた。


         6


 坂林の相手を終えたあたしは電車に揺られ揺られ品田駅に向かっていた。

 村山とは中央改札を出てすぐのところで待ち合わせになっている。現在、時刻は六時過ぎ。駅に着く頃には六時半くらいになっているだろうから、まあちょうどいい。

 足元には坂林に買ってもらった(正確には買わせた)洋服の紙袋が置かれている。まだ仕事を控えているのだから、できるかぎり少量に抑えようと思ったのだが……それでも足元には二袋の大きな紙袋がドンと佇んでいた。

 グーッ。腹の虫がグースカプースカ喚きだそうとしていた。別に高級レストランでバイキングだからお腹を空かして行こう、なんて貧乏くさいことをしているわけではない。断じてそういうわけではない。うん。ただ単に、今日エネルギー消費が激しかっただけ。

 さすがにお腹が鳴ったら恥ずかしいので、駅に着いたら軽食を食べようと思う。まだ村山との約束の時間までには余裕があるからそうすることにしよう。

 電車はすぐに品田駅に到着した。五駅なんてあっという間だ。

 改札を抜け、駅前のコンビニに入る。あたしはそこでカロリーメイトを買った。ペットボトルのお茶も購入する。

 コンビニの前で、駅の方を見ながらベジタブル味のクッキーを頬張る。これで何とかバイキングまでは持つだろう。

 ゆっくりとお茶を飲み、ペットボトルを空にしてからあたしは再び、待ち合わせ場所である改札の前まで歩き出した。

 時刻は六時五十分。自称紳士の村山はこのくらいの時間に待ち合わせ場所に到着する。案の定、改札の前にはビシッとスーツで決め込んだ、いまいち冴えない顔の男が立っていた。村山だ。

「こんにちは、村山さん」

 あたしはペコリと頭を下げる。これがこいつの扱い方だ。

「こんにちは、ハルくん」

 村山はあたしのことを君付けで呼ぶ。よくフィクションの中では女性も君付けで呼ばれたりするけれど、現実で、しかもあたしのことを君付けで呼ぶ人物は未だかつてこの男だけだ。

「今日は食事に呼んで頂いて、本当にありがとうございます」

 心にもないことを口に出す。ときには、嘘を吐くことも必要だ。

「いや、私の方こそ急に呼び出して、迷惑じゃなかったかな?」

「迷惑だなんて、とんでもないです。今日、お呼びいただいたこと、心から感謝しています」

 そのムカつく態度がなければもっとありがたいんだけど。

「はは、では、行こうか」

 あたしの意向も聞かずに、とっとと歩き出す村山。あたしも素直にそれに着いて行く。

 毎度毎度、こいつに会うたびにあたしは笑いたくなる。あたしはこんなキャラじゃないっての。いつものあたしの態度でこいつと接したら、村山は憤怒のあまり卒倒するのではないだろうか。何なんだ、君は! とか叫びながら。

 駅を出てすぐ目の前に、馬鹿でかい建物がそびえ立っていた。品田プリンセスホテルだ。村山が連れて行ってくれると言ったバイキングはその一角にある。大きな建物が並ぶ中、一番背の低い建物の中へと入っていった。

 あたしは思わず目を見張った。

「うはあ」

 薄暗い証明に、ベージュを基調とした店内。どっかのバーを巨大化させたみたいな雰囲気だ。さすがはプリンセスホテル。格が違うな、やっぱり。着飾ってきといて、よかったわ。

 まあ、中にはジーパンTシャツで着ている面々もいるが……というか、着飾ってる人の方が少ない気がしなくもないが、どちらかといえばあたしの方がこの雰囲気に溶け込めてると思うので、うん、よしとする。

 席に着くまでの間に、並べられたデザートが目に飛び込んでくる。ケーキ屋ばりの可愛さ、華やかさ。まるでオブジェでも見ているようだ、とよくケーキを褒める言葉で使うけど、まさにそれ。ほの暗い店内で一際明るくライトアップされているケーキの数々。これでも女の子だ。口の隙間からよだれが垂れそうになる。

 二人がけの席に案内される。一つの横長の椅子と、一人がけの椅子が向き合うように置かれた席。当然、村山は一人がけに座った。

「さあ、好きなものを取ってくるといい」

 一瞬、耳を疑った。こいつ、バイキングで何を言っているんだ。言われなくても好きなものを選んできますよ、さすがに。

「はい、では行ってきます」

 と、村山の前を一礼してから料理を取りに行く。数々の料理が並べられた棚。そこから目に留まったものを少量ずつ皿に盛っていく。あたしは基本的に好き嫌いがない。嫌いなものをいくつか上げるとすれば、肉の脂身、トマト、キウイ。これらは強制されない限り、食べようとは思わない。

 だから、サラダを取り分けるときもトマトは除けて皿に盛る。

 白身魚にローストビーフ、ビラフにソーセージにチーズにカニ。皿いっぱいに好物を彩り席に戻る。すると、村山の前には何やらワインボトルが置かれていた。どうやらあたしが席を離れている間に注文したらしい。

 ……こういうところの酒をボトルで頼むんだから、やっぱ金は余裕があるんだろうな。

 それにしても、こういうところの赤ワインって、どんな味がするのだろう。

 皿をテーブルに置き、腰を下ろしてから村山に問う。

「赤ワインって、どんな味がするんですか?」

 はしたない、と一喝されないよう、さも世間話の一端のように切り出す。

「そうだね、ぶどうジュースを渋くしたようなものだけれど、口ではなんとも説明しにくい。ハルくんもあと三年後にはお酒が飲めるようになる。そうしたら、自分の舌で確かめてみるといい」

「そうですね。ぜひ、そうしてみます」

 『赤ワイン』の味は知ってんだよ、このうすららはげが。その赤ワインの味はどうだって聞いてんだよ。

 しかし、これ以上深追いすることはできない。村山の中では、あくまで可憐な少女を演じなければならない。ということはあたしがお酒を常飲していることが露見するのはまずい。

「では、私も料理を取って来ようかな」

 あたしはその独り言を無視して料理を食べ始める。村山は気にする様子もなく、料理棚の方へと歩いていった。

 料理を選んでいる最中は、必然的にこちらに背を向ける形になる。それに、ここからキッチンまではかなりの距離があるので、仮にこちらを振り向こうともあたしの動向をすぐに確認することはできない。

 あたしは赤ワインのボトルを手に持ち、自分の方へたぐい寄せる。

 さすがに飲むのはまずいので、匂いだけ味あわせてもらうことにする。こういうホテルのワインはどんなものなのか、ちょっとした好奇心に突き動かされて。

 鼻腔をかずめた匂いは、甘いアルコールの匂いだった。赤ワイン独特の渋みとか酸味の匂いが全然しなかった。

 ああ、やっぱりこういうところのワインはいいワインだ。何度かイタリア料理の店でワインをおごってもらったことがあるが、それともまた違った香り。ちょっとでもいいから味見してみてえ……。

 と、ここがホテルのレストラン内であることを思い出す。ワインの飲み口に鼻を近づけてる格好、それがいかに滑稽かは想像せずともすぐにわかった。

 今度、機会があったら坂林にでもおごらせるか。あいつなら二つ返事で連れてきてくれるはずだ。赤ワインを飲むのも許してくれるだろう。しかし問題は……あいつがこの雰囲気に馴染まない、という点か……。

 ボトルの位置は、元の場所から一ミリもずれないように、ラベルの向きも先ほどと同じように置いておいた。あの男は変なところが神経質だから、下手するとボトルがずれてることに何らかの不信感を抱く可能性がある。

 あたしは再び、自らの持ってきた料理を頂くことにする。しばらくすると、村山は片手に皿を持ち、いかにも『優雅に』と言った風に歩いてきた。その動作はいかにも場違いだった。

 皿をテーブルに置くと、大げさな素振りで椅子に座った。あたしがワインに触れたことも気づかずにグラスにワインを注ぎだす。

「いい香りだろ、このワイン。嗅いでみるかい?」

 もう十分嗅いだっつーの。

「いえ、あたしは遠慮しておきます。匂い嗅ぐだけでも酔っちゃいそうで」

 カマトトぶることに関しては、村山のおかげでだいぶ上手くなった。

「ははは、匂いだけでは酔ったりしないよ」

 わかってるわ、そんなこと。

「ああ、そうなんですか」

 ……本当に疲れる。

 話題が途切れたところで、あたしは再びおいしい料理を口に運び出す。いやあ、バイキングと聞いたから、それなりのもんなんだろうなぁ、とかちょっと思っていたけど、これは期待をいい意味で裏切ってくれた。どんどん口の中に吸い込まれていく。

「気に入ってくれたようだね」

 満足げに言う。言葉の影に『私はいろいろな店を回っているから、どこがいい店かというのがわかるのだよ』と言う自己主張が見え隠れしたが、見なかったことにする。

「ええ、とてもおいしいです」

 おいしいというのと、気に入ったというのは事実だ。だから尚更こいつの紹介でこの店を知ったという事実が恨めしい。

 それからあたしはソフトドリンクでコーラを頼む。数秒後、小奇麗なコップに入ったそれをウエイターが運んできた。

 皿から料理がなくなると、あたしは補給するために席を立つ。今度はステーキ、グラタン、ピザなどを皿に乗せた。席に戻ってそれらを片付けると、いよいよデザートだ。

 ガラスの食器の中に収められたムース、ゼリー、ケーキ。フルーツも盛り付けられ、陳腐な比喩を用いるなら、まるで宝石箱のようだ。よくテレビとかのケーキ特集で目にする、ケーキ屋でも見かけないようなケーキたちも目につく。

 あたしの名を呼ぶケーキたちを一通り、皿に乗せ、席に戻る。

 そのデザートの量を見て、さすがの紳士も驚いた。

「ハルくん、大丈夫かね。そんなに持ってきて」

 よく言うじゃないか。デザートは別腹、と。青いゼリー。白いクリーム。ピンクのムース。今までステーキやらムニエルやらを食べていたというのに、まだよだれが口の中に充満する。

「いただきまーす」

 高級デザートは量が少ない。スプーンで一すくいすると、もう容器の半分はスプーンに乗ってしまう。あたしはものすごいスピードでデザートの山を食い尽くしていく。

 村山はその間、目を丸くしながら、それでも自分のワインをちびちび飲んでいた。

 ワインは飲めないけれど、これだけデザートが食べれれば満足かな。

 そして、最後のオレンジムースを口に運び、

「ごちそうさまでした」

 スプーンを皿の上に置く。

 ちょうど、村山もワインが飲み終わったようだ。

「すごいね……。全部食べてしまうとは」

「すいません。あたし、甘いものには目がないもので」

 あれだけの食欲を見せた後で可憐な少女を演じるというのもいかがなものかと思うが、開き直るわけにもいかないので、ここは可憐な少女で押し通すことにする。

 会計で村山は万札を二枚渡した。わーお、食事で万札二枚ねぇ。毎回のことだけれど、思わず目を疑ってしまう光景だ。あたしも(おかげさまで)お金には余裕があるけど、食事に何万円もかけようとは、絶対に思わない。

 それだったらCDやら漫画を何枚も何冊も買った方がよっぽどマシだと思う。まあ、まだあたしがガキなだけかもしれないけど。

 店を出ると、もう外は真っ暗になっていた。もう時計は八時を指している。

「それでは、私は今日はこれで失礼することにするよ」

 そう言ってあたしに茶封筒を渡す。お給料だ。

「はい、そうですか。今日は、ご馳走様でした。とてもおいしい料理でした」

「そうかい。そう言ってもらえると君を呼んだかいがあったと言うものだ。また時間があったら連絡を入れる」

「わかりました。待ってます」

 ペコリと頭を下げるあたし。

「それじゃ、今日は楽しかったよ。帰りは気をつけて」

 村山は駅の方へと歩きだす。

「さようなら」

 そして、もう一度深々とお辞儀。村山が見えなくなるのを確認してからあたしも歩き出す。今すぐに駅に行くと、鉢合わせになる恐れがあるので、とりあえずあと十分ほどコンビニかどこかで時間を潰さなくては。

 その前に、あたしは立ち止まって茶封筒の中身を取り出してみる。

 一万円が入っていた。

 本来なら、一時間だから五千円のはずだ。しかしその倍の額を入れてくれるなんて、さすが自称紳士なだけはある。まあ、この額はきっと自己顕示欲の表れなのだろうが、一応は感謝の念を送っておく。

 さて、先ほどのコンビニで時間でも潰すかな。何かおもしろそうな漫画でもあれば、買ってこうっと。あ、そういえばブックオフにも行ってみようっと……。

 あたしはとりあえずコンビニを目指して再度歩き出す。


       7


 今日は二月十一日、金曜日。冬休みが明け、もうそろそろ僕たちは四年生になるという時期。

 シゲ兄たち六年生は毎日のように卒業式の練習を繰り返していた。

 三年生は卒業式には参加しない。まだ幼いということもあるのだろう。式に参加できるのは五年生になってからだ。

 それでも五年生が合唱の練習をしたり、六年生が卒業証書授与の練習をしている様子は、放課後、体育館の前を通れば自然に見ることができた。

 来年、シゲ兄も中学生になる。つい先日、シゲ兄は私立中学の入試試験を受けに行った。そしてその翌日の発表日。シゲ兄は見事合格した。それが僕にはどうも信じられなかった。自由奔放な性格のシゲ兄。僕の中では中学生=アキ兄という図式が出来上がっていたので、中学生になったらみな、アキ兄のようにクールな大人にならなければ中学生にはなれないような気がしていた。

 シゲ兄が中学生……。シゲ兄が制服? ダメだ。さすがの僕もイメージすることができない。あのわんぱく小僧を具現化したいなシゲ兄が……。今は、運動会で捻挫した足首の包帯は取れてはいるけれど、完全には治ってないので大人しくはしている。それでも中学生になることには、もう足は完治して、また騒がしくなるだろう。

 また、来年、アキ兄は受験が控えていると言う。アキ兄は何とか大学附属高校に行くらしく、その何とか大学はとても頭のいい大学らしい。僕にしてみれば、大学なんてまさに異次元。アキ兄はもうそんなところまで見えているのだからやっぱり大人なのだ。

 今、僕は友達数人と帰宅途中。一週間の内に何往復もしているその道を、僕は今日も歩いている。

 空はもうオレンジ色になっていた。今日は金曜日で、五時間授業の日だった。だから三時にはもう学校は終わっていたのだけれど、放課後サヤちゃんを含む数人でバスケットボールをしたのだ。僕とサヤちゃんは別々のチームだった。特別バスケの上手い僕たちはみんなの意向で分けられることになったのだ。

 僕のシュート。サヤちゃんのシュート。ほとんどこれの繰り返しだった。他の子にもパスを回すのだが、その度にサヤちゃんがカットしてくる。逆に、サヤちゃんが他の子にパスを回そうとすれば僕がカットした。だから、必然的にボールを持っている時間が多くなるのは僕とサヤちゃんで、当然シュートの本数も僕たちが多くなる。

 まあ、終わってから考えれば、他の子には悪いことをしたかな、と思えてくる。バスケを楽しむことができなかったかもしれない。けれど、誰もがみな笑っていた。

 サヤちゃんがいる方向とは別の方向の子にパスを出す。そしてその子のシュートがゴールすると、チームメイト全員で喜んだ。ナイスシュート!

 最後のほうは得点なんかどうでもよくなっていた。シュートが決まれば喜び、点を取られれば取り返そうとする。勝ち負けなんかどうもよくなって、純粋に僕たちはバスケを楽しんだ。

 四時半を告げるアナウンスが校庭に響いたときには、もうすっかり日は西の空へと移動していた。

 バスケのメンバーの半分は僕と同じ地区に住んでいる。サヤちゃんも僕の家と帰る方向は同じだ。校門を出てすぐの間は、バスケの話題で盛り上がる。

「サヤちゃんとトシちゃんすご過ぎだよ、マジで」

 一人の女の子が言う。

「プロになれんじゃん? わかんなけど」

 便乗して短髪の少年も口を挟む。

「無理だよ。あたし女だし。トシちゃんだってバスケット、ずっとはやらないでしょ?」

「うん。楽しいけど、仕事にするのはちょっとね。それに上手いだけじゃなくて、練習に耐える精神力も必要だし」

 スポーツ選手は、そもそも僕は向いていないと思う。確かにこの辺りじゃ運動神経はいい方かもしれないけど、もしプロのスポーツ選手になるのなら、シゲ兄をまず越さなければならない。それは、あらゆる競技において困難だ。

「もったいないなぁ。でも、二人とも勉強できるし、そっち系の仕事でもいいのかぁ。絵も上手いし、歌も上手いし、何でもなれるじゃん!」

「何でもは無理だよ」

 サヤちゃんは笑って謙遜をした。

 いや、サヤちゃんなら何でもなれると思う。芸能人にもなれると思うし、頭がいいのだからどんな資格も取れると思う。実技が必要な資格でも、練習すれば取れるようになるはずだ。

 僕が、兄二人以外で唯一、その才能を認めることのできる人間。それも女の子で。僕でさえ、サヤちゃんには憧れる。みんな、僕とサヤちゃんが並んでいるのを見ると『二人ともそっくり』と言うけれど、そんなことはない。僕は心にどす黒いものを抱えている。僕のことを慕ってくれるみんなことを、どこかで見下している自分がいる。

 自分より劣った存在。おまえらは僕よりも格が下だ。心の中で、無意識の内に叫んでいる僕がいる。

 サヤちゃんはそういう闇がない。誰にでも優しい女の子だ。僕の心の闇を取り払ってくれる。

「ところでさ、月曜、バレンタインじゃん?誰か、チョコレート持ってく?」

 その話題に僕はドクンとする。

 バレンタインデー。女の子が好きな人に気持ちを伝えることのできる日。

「サヤちゃんは、誰かにチョコレート渡すの?」

 僕の心臓は今、子犬が震えているときのように、激しく小刻みに振動している。

 バスケを終えてからしばらく立っているというのに、自分の体が熱いことに気付く。

「というか、サヤちゃん好きな人いる? すごい気になるー」

 話がどんどん進んでいく。サヤちゃんは、いったい誰が好きなのだろう。

「どうなの? 実際のところ」

 少年がニカニカと笑いながら言った。少し品がないように思えたが、ナイスだ、少年。

「うーん。どうなんだろうねえ」

 サヤちゃんは曖昧にそう言って、微苦笑を浮かべる。困っているような、照れているような顔だ。

 聞きたい。サヤちゃんに好きな子がいるのかどうか。

 バレンタインデー。通常ならば女の子が男の子に告白する日。しかし、チャンスさえあれば、僕はサヤちゃんに自分の気持ちを伝えようかと思っていた。

 容姿には自信がある。サヤちゃんと釣り合うのは、学年でも僕だけだ。他に候補はいない。

 だから、もしサヤちゃんに好きな子がいるとすれば、それは僕。そう信じる。僕以外いないのだから。サヤちゃんには僕しかいない。

「ねえねえ、そういえばトシちゃんの好きな人も聞いたことなかったよね」

 突然僕の話題に打って変わる。

「あ、そうだよぉ。サヤちゃんとトシちゃんはクラスの、いや学年のトップツーなんだよ。好きな人が誰か、はっきりさせなきゃ」

 いったいどういう論理で僕の好きな人をはっきりさせなければいけないのか、よくわからなかったけれど、僕はこのとき、とにかくパニクっていた。好きな人を聞かれたからではない。これはチャンスなのか、それともそうでないのか、という選択を迫られたせいである。

 チャンスは早くも巡ってきた。まだバレンタインデーには早いけれど、言うべきか否か。

 当然、みんなの前で告白するというのには抵抗が生じる。やはり、ここはやめておくべきだと、理性は言う。

「もう、トシちゃんまでごまかさないでよ」

 心臓が耳から飛び出しそうだ。そのくらい、心音は僕の内側に響いている。

 言うべきか。言わざるべきか。

 そう頭では討論していたのだけれど、急かされたせいで口は勝手に動き出していた。

「僕が好きなのは――」

 おお、と周りがざわめく。

 何やってんだ、僕の口は。先走るな。

 だけど、やっぱりこれはチャンスなのではないだろうか。

 バレンタインデーの日になったら、もしかしたら僕はすくんで、告白なんてできないかもしれない。それならいっそ、この場で。

「えーと、その」

 自分が情けない。やっぱり僕はダメな人間だ。普段は、あんなに踏ん反り返って歩いているくせに、こういうときには縮こまる。

 この悪い癖を断ち切らなくては。

「僕が好きなのは――さ」

「さ?」

 みんな復唱する。いちいち復唱なんかせんでいい。

「さ――サヤちゃん」

 言った瞬間、僕は目が熱くなった。泣きそうになっている? この僕が?

 まだ何も始まっていないというのに、僕の目には何故か雫が溜まっていた。

 それを何とか、何度か瞬きをして拡散させる。そして、僕はゆっくりとサヤちゃんを見た。

 サヤちゃんはんでいた。

「ありがとう」

 僕の中は真っ白になった。どの意味だ? どの意味のありがとうだ?

 そして――。

「あたしもトシちゃんのこと好き。友達としてね」

 一瞬顔を見せた歓喜が、瞬間的に消えていく。『友達として』?

 え?

「あ、ずるーい。そうやって、トシちゃんも誤魔化そうとする」

 一人の女の子が声を上げた。

 え?

「うおーい。そういう誤魔化し方もあったかい!」

 短髪少年も跳ねながらそう言った。

 え?

「あたしもそういう誤魔化し方すればよかったぁ。今度からそれ使おうっと。好きな人はトシちゃんって」

 え?

 え?

 何を言っているのか。この人たちは、いったい、何を?

 そしてこの事態を理解したのは、僕が告白をしてから十数秒後だった。

 ああ、僕は冗談でサヤちゃんに告白したと思われたのか。

 納得したと同時に、僕は深い絶望感に襲われた。

 僕が気持ちを伝えても、それは周りからは冗談だと思われてしまうのか? 僕とサヤちゃんはそれほど不釣合い?

 ……いや、違う。

 きっと僕とサヤちゃんは釣り合い過ぎているから、かえって不自然になってしまうのだ。

 美女と野獣カップルというのが世の中には存在する。美しい人には、それとは対になる人種こそ釣り合うのかもしれない。

 世の中は非情だ。僕の気持ちも考えずに、そんなルールを作るなんて。

 僕の告白は失敗に終わった。サヤちゃんにとって僕は『友達』。少なくとも、今はそれ以上でもそれ以下でもない。

 後悔の念。焦りすぎた。時と場所を考えていなかった。僕は馬鹿だ。奥歯がギシギシと鈍くきしむ。

「んじゃ、俺こっちだから」

 短髪の少年が手を上げて言う。

「あたしもだ」

 もう一人の女の子もここでお別れだ。二人はこの先を少し行ったところにある住宅街。僕の家があるのは大通りを挟んだ向こう側の住宅街。そしてサヤちゃんは僕の家のさらに先にあるマンションに住んでいる。

 共にバスケをした二人と別れると、僕はサヤちゃんと二人きりになる。どこか、気まずい空気が流れる。僕が一方的に感じているだけかもしれないけれど。

 サヤちゃんの中では僕はただの友達。多くいる友達の中の一人。僕はサヤちゃんにとって、特別でもなんでもない。そう考えると、途端やりきれない思いになる。

 僕とサヤちゃんは歩道橋を渡る。僕らの足の下を、何台もの車が通り過ぎていった。

「ねえ、トシちゃん」

 階段を下りようとしていたとき、サヤちゃんが不意に僕の名を呼んだ。

「さっきの話。本当は誰なの?」

 沈んでいた気持ちが、一気に水面まで押し上げられる。それは心地のいいものではない。焦り、不安、驚き。

「さっきの話?」

 わざとすっとぼけてみせる。

「そう。好きな人が云々っていう話。トシちゃん、ちょっと考えてたじゃん? あれって好きな人を言っちゃおうかどうか、考えてたんじゃないの?」

 うっ。さすがに鋭い。

「でも、とっさに言うのをやめようと思って、すぐに冗談に切り替えた」

「ちが……」ちがう。僕はあのとき、迷った挙句、本音を言ったんだ。そう、言いたいのだけれど、どうにもサヤちゃんの『友達』発言に囚われて……「……くない」

 サヤちゃんはニカっと笑った。

「みんなには言わないから、あたしには教えてよ」

 ドクンと心臓が一際大きく脈を打った。一瞬、吐き気がもよおすほどに。

 これはチャンスなのか。それとも、神様はまだ僕をなぶりたりないと言うのか。

 ここで、さっきのは冗談ではないと、はっきり言うべきではないのか?

「僕は、好きな人は――」

 再び奥歯をかみ締める。強く噛み過ぎて、歯が痛い。手も、ギュッと握っている。伸びたつめが、今にも手のひらに突き刺さりそう。

 ……けれど、僕はもう、今日は踏み出すことは、できそうもない。

「好きな人は――いないよ」

 ここでまた失敗すれば、きっと僕は立ち直れなくなる。一度、態勢を整えなおさなければ。

「嘘だぁ。三年生になって、好きな人がいないなんて」

 サヤちゃんはそうはやし立てる。

「本当だよ。だって学校のみんなは子供っぽいんだもの。もっと大人っぽい人がいいって言うか。あ、サヤちゃんは大人っぽいよ」

 さりげなくアプローチをかけるところが、またいやらしい。僕はそんな自分をうとましく思う。

「ありがとう」

 照れる様子もなく、そう笑んで言った。

「……サヤちゃんは?」

「へ?」

 口が、ほとんど僕の自我とは別に勝手に動いた。

「三年になって、好きな人がいないのがおかしいって言うんなら、当然、サヤちゃんは好きな人、いるんでしょ?」

 しまった、と言わんばかりの表情をするサヤちゃん。

「いや、あたしもいないよ。うん。クラスのみんなは子供っぽし、一緒にいるのは楽しいけど恋愛対象にはならないよ」

 その言葉に嘘はないように思えた。よかった。クラスの、僕が見下している奴らにサヤちゃんが奪われるなんて、もしそんなことになったら僕は情緒が保てない。

 しかし、よしておけばいいのに。このとき、なぜか僕は妙に冴えていた。どうせ、サヤちゃんの口から、僕の名が呼ばれることはないのだ。それなら、もうサヤちゃんの好きな人のことなんて、聞かなければいいのに。

「でも、子供っぽいのが実は嫌じゃないとか……」

 さすがにサヤちゃんはびっくりした表情になった。

「いや、子供っぽいのは好きじゃないよ。あたしは大人っぽい人がいいんだけど」

「それじゃ、うちの学校にはそんな人、いないもんね。大人っぽい人」

 僕は投げやりに言う。大人っぽい人が好き。その範囲に僕は入っていない。それでは、まるで僕が子供っぽいみたいじゃないか。

「そうでもないよ。六年生とか、大人っぽい人もいるじゃん」

「六年? 六年生だってそれほど大人っぽくはないと思うけど……。確かに、僕たちよりは身長だって大きいし、顔つきも大人っぽいっちゃ大人っぽいけど、中身は僕たちとほとんど変わんないんじゃない?」

「そうか、トシちゃんは兄弟だからかえって見えないのかも」

 足が止まった。

 え? 今なんつった。

「……ひょっとして、サヤちゃんが好きな人って――シゲ兄?」

 自分で言って、自分の声を疑った。サヤちゃんが好きな人がシゲ兄? ははは、そんなバカな。

「いや、好きというか、まあ憧れてるというか」

 憧れ。僕がサヤちゃんに向けている感情。恋愛感情に限りなく近いそれ。その感情をサヤちゃんはシゲ兄に向けている。

「ダメだよ。シゲ兄は! 運動神経いいかもしれないけど、バカだし!」

「トシちゃんは実のお兄さんだから気づかないんだよ。シゲルくんは、超カッコいい男の子だと思う」

 そんなの、僕だってわかっている。だから、僕じゃ勝ち目がないから、絶対にくっついてほしくないのだ。

「それに、シゲ兄モテるから競争率厳しいよ!」

「あたし、それなりに自信はあるんだけど……。やっぱ、厳しいかな?」

 厳しくない。シゲ兄には確かにモテるけど、どの子もいまいちと切り捨てていた。その中で、シゲ兄は以前言っていた。『サヤちゃんは普通とはちょっと違う』と。サヤちゃんは六年生の子と比べても引けをとらないくらい大人っぽいし、何より可愛い。あるいは、シゲ兄は付き合うことをオーケーしてしまうかもしれない。もしそうなったら、僕は。僕は――。

「明日、バレンタインだよね。チョコレートシゲルくんに渡そうと思うんだけど、応援してね。トシちゃん。あたしの大親友!」

 大親友。その言葉が太い槍となって僕の胸を突き刺し、大きな傷跡を残す。

「サヤちゃん、あの僕――」

 僕は歩道橋の階段のちょうど中盤くらいから叫ぶ。

「?」

 サヤちゃんは不思議そうに首を傾げる。

「僕――」

 今まで勝手に動いていた口が、急に死んだように動かなくなる。

 目が、今にも地面に落ちてしまいそうなほど重い。これはいったいどういうことだろう。

「僕――」

 俯いたまま、何度もそう繰り返す。けれど、言葉は先に進まなかった。

 そして、やっと出てきた言葉は。

「僕――ちょっと用事があるから、先に、帰ってて」

 尚も首を傾げながら、しかしサヤちゃんは歩道橋を離れていく。

「じゃあ、また明日ね」

「じゃあね、サヤちゃん」

 僕はそのまま階段を下りることも、上ることもせず、中途半端な場所で突っ立っていた。


         8


 かれこれ家に着いたのは、十一時を過ぎてからだった。あれからブックオフで一時間近くも立ち読みをしてしまった。何を買おうかと品定めしているうちに時間が過ぎてしまうのだ。それからコンビニでホワイトチョコレートを買って、それを食べながら電車に揺られて帰ってきた。

 途中、坂林から電話があったのだが、村山の対応した後の疲労が溜まっていたので電話はスルーした。あいつと話をするのは、今のあたしとって苦痛以外の何物でもない。

 それからメールが届いたが、まだ見てはいない。帰る途中が一番ダルイ。一日の疲れがドッと押し寄せてくる。まるでオッサンだな、と自らを揶揄やゆする。

 あたしは朝霧駅で降りる。駅にいる多くは背広を着た中年。仕事帰りってとこか。改札を出てすぐのところには、中学時代の友人が働いているロッテリアがある。さすがにこの時間、バイトはしていないだろうけど。

 バスはギリギリ間に合わなかった。平日、最後のバスはつい三分前に発車してしまったようだ。

 まあ、オッサンたちに囲まれて不快な中帰るよりも、タクシーでゆったりと帰ったほうが精神衛生にいい。タクシー代くらい気にしない。どうせ、金の使い道はないのだ。貯金するだけ。それならこういうときに使うほうが有意義だ。

 駅前にはタクシーが何台も待機していた。バスに乗り遅れた社会人を捕まえるためだ。あたしもその一人。タクシーの前に立ち、少し待つと扉が開いた。あたしは乗り込むと行き先を告げる。

「笹野橋までお願いします」

 運転者は返事をすると、車を発進させた。

 タクシーに乗ると、たまに執拗に話しかけてくる者がいる。しかし、今回の運転者はほとんど話しかけてこなかったので、助かった。

 笹野橋。あたしの家の前にある橋。駅から真っ直ぐ進んでくるとこの橋に行き当たる。タクシーに乗るときは、だいたいその橋を目的地にしてもらった。

「着きましたよ」

 あたしは無言で運転手に代金を払って降りる。車はしばらくして発進した。白いボディが闇に溶け込み、やがて視界から消える。

 その橋から少し歩くと、相変わらず右側に急斜面が現れる。疲労を感じつつも、上るしかない。

「ただいま」

 家に入ると、玄関からでもダイニングに明かりが点いているのは伺えた。

「おかえりー。遅かったわね」

 母の声が返ってくる。

「まあね。ちょっと本屋に寄ってた」

「本屋ってねぇ。用事が済んだら寄り道しないで帰ってきなさいよね。ほら、東京のほうじゃ女の子が殺される事件があったんだから。まだ犯人は捕まってないって言うじゃない」

 母は、一応はあたしの心配をしてくれているのだ。そんなことを素直にありがたく思う。

「大丈夫だって。それにいざとなったら、あたし必殺技があるんだから。ほら、中学入るまでやってた」

「そんなこと言って。相手は刃物を持ってるかもしれないんだから、あんたがいくら頑張ったって歯が立つわけないでしょ」

「まあ、どっちにしろあたしが狙われることはほとんどないと思うけどね」

 いちいち殺人事件にびくびくなんかしてられない。殺人事件が日常茶飯事のこの世の中だ。その程度でびびってたら外出すらできなくなる。

「とりあえず、お風呂入ってきなさい。冷めちゃってたら温めなおすのよ」

 言われなくても冷たかったら温めるさ。

「はーい」

 あたしはお風呂に向かおうと、荷物をその場に置き、ダイニングを出た。そのとき。

 ブルルルル。携帯が震えだす。

 ったく、誰だよ。

 携帯を取り出すと、そこには新着メール二件と表示されている。何の気なしに開いてみると、二通とも坂林からだった。

 あいつ、返信の催促メールか? 今まではそんなことなかったのに……。

 そんなことを考えていたが、文面は二通とも同じものだった。違うのは一通目が届いた時間は十時前で、二通目は今届いたという点だ。

 内容はただ一言。『テレビ、見た?』

 何のことだよ。テレビがどうかしたのか?

 あたしは今一度ダイニングに戻る。

「あら、どうしたの?」

「さあ。ただテレビ見たか? って」

 あたしはテレビの電源をオンにする。

「なんかあったの? ニュースとか」

 母に尋ねた。坂林からのこの不可解なメール。たぶん、何かとても重要なニュースが流れたのだ。

「ニュース? 臨時ニュース? わたし、一時間か二時間くらい前から夕刊読んでたから、テレビは見てないけど」

 急いで一チャンネルにまわす。十七歳女児強盗殺人。右上のニュースタイトルには、そう書かれていた。

「この前の事件の五人目の被害者……」

 なるほど。確かに、ちょっとばかりあたしに関係のある事柄だ。けれど、それでもあたしは関心が持てなかった。自分がこんな事件に巻き込まれるわけがないと、自信を持って言えるから。

「ああ、これについて言いたかったんだね」

 被害者の女性の名前は水野咲。水野咲? あれ、どこかで聞いた名前だぞ。

「でも、あんまあたしこの事件興味ないし、そりゃあちょっとは怖いけど。でも、殺人事件なんか最近じゃ珍しくもないし、まあその程度?」

 そう言うあたし向けて、母は強い口調で言う。

「そういう子が一番危ないのよ。ちゃんと気をつけなくちゃ」

「へいへい」あたしは母に背を向けて立ち上がる。「じゃあ、あたしはお風呂に行ってくるから」

「お風呂、冷めてたら温めて入ってね」

 言われなくたって――って二回目だって。

 水野咲という名前をどこで聞いたのかを思い出しながらあたしがダイニングを出たとき、母がつぶやいた。

「可愛そうに。こんな可愛い子が殺されちゃうなんて」

 その言葉になんとなく振り返った。

 テレビ画面には『美樹ちゃん』の顔が映っていた。

 水野咲……。水野咲……。

 彼氏と待ち合わせと言ってうかれていた美樹ちゃん。あたしの大親友の美樹ちゃん。今日、ついさっき会ったばかりの美樹ちゃん……。

 何で、忘れていたのだろうか。水野咲は『美樹ちゃん』の本名だ。

 そうか。だから坂林は美樹ちゃんの死を知らせるためにメールしてきたんだ。

 あたしはその場にへたり込んだ。


         9


 シゲ兄が死んだ。

 トラックに踏みつけられたシゲ兄の体は、いくら鍛えていたとは言え、それは小学生のもので、あっけなくただの肉の塊へと変貌し、辺りにはシゲ兄の残骸が痛々しく飛び散った。

 一瞬見えたシゲ兄の顔は目を見開き、僕の存在を認めて心底驚いているようだった。

 道路は赤色の絵の具の溶けたバケツをひっくり返したみたいになっていた。

 その光景を別に恐ろしいとは思わない。

 まるで映画のワンシーンのようだと、どこか冷めた感想が頭に過ぎる。

 これで全ては正しい方向へと動き出すはずだと信じていたからだ。事態を狂わしている歯車を取り除けば機械は元通り動き出す。

 実の兄が死んだというのに。

 実の兄を殺したというのに。

 僕を支配していたのは達成感でも焦燥感でもなく、歓喜でも悲哀でもなく、ただシゲ兄がいなくなるということに関するそういう無の感情だった。

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