3.恋愛の掟
この時期、ケーキ屋にはクリスマスのための限定のケーキが数々並ぶ。それを味わうのも悪くない。そう思いながら、散太は小雪のちらつく中に首を竦めて時雨の後を付いて行った。
時雨はバス通りを一本横に入った。その先には、地元では割と知られたケーキ屋がある。美味しいと評判のケーキ屋で、カフェスペースも併設している。どうやら時雨はそこへ向かっているらしかった。そのまま歩くと、目印の黄色い屋根が見えた。
カラン……。
透き通ったガラスの扉を開け、時雨が先に入って行く。後から散太も付いて行くと、スポンジの焼き上がるような甘い香りが二人を迎えた。
「いらっしゃいませー」
「こんにちは……」
頭を下げた店員のその下にある、透明なショウケースの中の眺めは、いつもと違っていた。
定番の苺のショートケーキには、クリスマスらしき金の地のプレートが刺さり、『Merry Xmas』と緑字の印刷がされている。その他のケーキも同様だが、いつも姿を見せる定番のケーキたちは、今日は無い物も多い。代わりに、眺めのよい下二段に渡り、華やかに鎮座ましましていたのは、クリスマス限定の鮮やかなケーキたちだった。
チョコレートのダークブラウンに苺の赤が映える、チョコレートケーキ。あるいは、輪切りにされたドライオレンジに一段と暗いビターチョコレートがかかった、大人の洋酒香るオレンジピールのケーキ。綺麗なピンク色のフランボワーズのムースや、淡いグリーンのピスタチオのムース。
見ているこちらの気分が浮き立ちそうな、クリスマスカラーのケーキたちが鎮座していた。
散太は腰の高さに屈んでショウケースとにらめっこをし、どれにするか悩んだ。フランボワーズも良いが、ここは王道に苺か。それとも、一人分のブッシュドノエルはどうだ?
暫く逡巡した挙句に、一人分のブッシュドノエルにしようかと顔を上げた時、隣に立つ時雨が店員に告げた。
「この、『ホワイト・テンダネス』の、二人用のセットを下さい」
「あぁ?」
散太は思わず、間抜けな声を漏らしてしまった。だって、何故時雨が二人分のセットなど頼む必要があるというのか。もし時雨が二人分を一人で食べるのではないのだとしたら、当然一緒に食するのは散太だということだからだ。散太は特に今まで、時雨が二人分のケーキを食べるほど甘党だということは聞いたことが無いし、現場を見たことも無い。
呆気に取られたのは散太だけではない。向かいに立っていた、ちょっと可愛いらしき女性店員も、一拍返事するのを遅れた。その後で、取り繕うように返事をしようとしたが、出した声は裏返っていて素っ頓狂であった。
「は、はいっ、少々お待ちくださいませ!」
そう言ってぺこりと頭を下げた店員は、逃げるように奥へ行ってしまった。勿論注文された品を準備するためではあるが、二人の前から逃げたというのも半分当たっているだろうと散太は思った。
散太は、もう一度確かめるようにショウケースを覗き込んだ。
時雨の言う『ホワイト・テンダネス』とは、先ほど散太が眺めていた並びには無い。その隣の、別棟のガラスケースの中の、複数人数用のケーキたちの群れの中にあった。
『ホワイト・テンダネス』の見本は、四号。つまり、直径がおよそ十二センチメートル。二人から三人ほどで食べるのにちょうど良い大きさだ。
散太の手のひらより少し小さいほどの大きさの円柱形に、温かみのある、イエローがかったホワイトの雪が、キューピーの頭のように形良くデコレートされている。
その横には、透明なベリーソースの泉がとろとろと湧き出て、苺やラズベリー、レッドカラントなどが計算し尽くされたバランスで転がっている。
美味しそうかと問われたら、間違いなく美味しそうに違いないのだ。
「飲み物は何にする?」
散太が頭を抱えて混乱をこじらせていると、隣に立った時雨は、いつもの上から人を見下ろすような視線で散太を見ながらそう言った。
どうやら店内のメニューによると、二人用のセットとは、希望する4号以上のケーキ一つに当たり、二人分の飲み物が付けられるようだ。
前を向いた時雨は言った。
「俺はホットコーヒーにするが」
「――お、俺はホットの紅茶! ストレートで!」
飲み物まで同じにされてたまるかという変な意地で、時雨と違う飲み物を頼んだ散太だったが、その必死の抵抗は何も結果を生み出さない。逆に、注文が全て決定してしまった。
「かしこまりました~」
目の前に戻ってきていた店員に、再びそう頭を下げられ、散太はがっくりと肩を落とした。
ひと呼吸した後に、散太は隣の時雨を見上げ、意義を唱えた。
「……二人用のセットって、何だよ! 勝手に決めやがって……」
「一人ずつ頼むより安いんだ。いいじゃないか」
そう答える時雨は、口の端に余裕の笑みすら浮かべていた。遠くのメニュー表を指さしながら、嬉しそうに言う。
「ほら、大分お得だ」
「そういう問題じゃねえ……」
散太が脱力しながら言うと、サービングトレイを持った店員が、カウンターの前にいそいそと戻って来た。トレイには、湯気の立ったコーヒーと、よく温められた紅茶のポットが乗っている。
「お待たせ致しました。ケーキは席までお持ちいたします!」
「それはどうも」
「……」
案内された席は、夏場にはオープンテラスになる、ガラス張りの外から見える席ではなく、トイレにほど近い、奥の、外からは見えにくい壁際の席だった。
目立つ席ではないことを幸いに、散太は案内された席に渋々と座った。テーブルと揃いの木の椅子に座り、店員がケーキを置いて去ると、テーブルに肘を着いて散太はブスッと主張した。
「きっちり半分に分けろよ……同じケーキを突つき合うとか、絶対イヤだからな……」
「解ったわかった」
珍しく、時雨はそれ以上嫌味を言うこともなく、大人しく散太の言うことを聞いた。ナイフで綺麗に半分に分けられたケーキは、青い小花が周りを縁取る、可愛らしい柄の二枚の小皿に、丁寧に乗せられた。
その仕事は散太にとって、とても自分より身体の大きな、大の男がしたように思えなかった。散太はほっと溜め息を一つ吐くと、その仕事に免じて、気分を直すことにした。
ケーキはとても美味しかった。白い円柱形の土台は、スポンジではなくチーズスフレであった。ホワイトチョコレートと合わさった、ふんわりとしたスフレの層の上には、絹のようなレアチーズの段が。一番上にあるベリー系のソースとよく合い、酸味と甘さが絶妙で、散太は数口味わうと、これを選んだ時雨に感謝の念を抱いたくらいだった。
「……お前、よくこれを頼んだな」
散太が何とか憮然を保って言うと、時雨からはまた意外な答えが返って来た。
「数日前からここを通るたびに、美味しそうだと思っていた」
そう言った時雨は満足そうに、俯き加減にケーキをつついていた。
時雨がケーキ屋を覗く? この仏頂面のクールぶった男が?
いつもの時雨からは予想もつかなくて、散太は眉根に皺を寄せ、満足気な表情を浮かべる時雨を訝し気に見ていた。
もしかして、聞いたことはなかったが、時雨には女がいるのだろうか。
その彼女と、クリスマス当日に一緒に食べるつもりで下見を重ねていた?
散太は、目の前にいる男――特に冬の間は自分の相棒のはず――に、自分の知らない一面を見たようで、腑に落ちない気持ちを味わっていたのだった。
二人がそんなことをしていると、背後から明るい声が聞こえた。
散太が何となく後ろを振り向くと、真後ろの席に座ろうとしていたのは、どうやら二人の年に近い女子大生のようだ。
二人組で、二人とも似たような明るすぎないブラウンのセミロングの髪型をして、ブランドのバッグを荷物入れに入れながら、それぞれ頼んだケーキを食べようかと席に着いたところ。
散太はポットから注いだ二杯目の紅茶に口を付けようとしながら、聞こえてくる話し声に耳を澄ませた。
「……でね、多分プレゼントくれるはずなの。でもあの人、センスがいまいちまだ怪しくて」
「気に入らないものもらうと本当困るよね。使わないわけにいかないしさー」
「そうなの」
「むしろ、こっちから欲しい物をおねだりするっていうのは?」
「いいねー。でも、もし他にもプレゼントをくれそうな人がいるなら、誰にどれをおねだりしたのか忘れちゃう」
「そういうのは、同じ物を全員におねだりすればいいんだよ。それで、一つを残して他はブランドリサイクルに出すの」
「それいいねー!」
……散太は、聞こえてきた話に頭痛がし始め、こめかみを押さえるようにテーブルに肘を着いた。目の前の時雨は、聞いているのかいないのか、相変わらずの涼し気な顔だった。それでも、彼にもきっと聞こえているに違いないのだ。
散太は、気を紛らわそうとガラス越しに見える外の通りを眺めたが、クリスマス前の通りを歩くのは、カップルばかりだった。皆、楽しそうな顔をしているが、本当に心から楽しんでいるのかは解らない。後ろの席の女子大生のように、皆が心に一物を抱えているのかもしれない。並んで歩く男性を可愛らしく見上げる女性も、同様に愛しそうに隣を見下ろす男性も……。
人の心の何が嘘で、何が本当かは、外側から見ている限り解らない。そして、他人のことは外側から見る以外の方法はない。よって、他人の本当の気持ちは誰にも解らない……。悲愴な結論に行き着き、散太は溜め息を吐いた。するとさすがに、目の前の時雨が散太をチラと見て話し掛けて来た。
「どうした?」
散太が下から掬い上げるように見た時雨の顔は、相変わらず涼しいような、それとも少しだけ散太に同情をしているような。
散太は恥を忍んで、時雨に素直に白状した。
「何でもないよ……ただ、やっぱりクリスマスというものに幻滅しただけ」
「ん?」
散太は、顎をしゃくって後ろの女子大生たちを示したつもりで、続けた。
「みんなさ、ああやってクリスマスにかこつけてブランド物を欲しかったり、運命の相手でもない相手を、天秤にかけたりするだけ……。クリスマスっていうのは、綺麗ごとを抜いたら、本当はそういう日ってこと。」
「……」
「だから、俺が皆の願いを叶えたり、奇跡を起こしたりすることは意味のないことだと思うんだ」
黙って聞いてくれている時雨に対し、散太はここ数年思っていた本当の気持ちを口にすることにした。
「クリスマスなんて、一生に一度じゃないんだよ。毎年来るの。だから特に特別じゃない。来年は、同じ人と愛を誓っているとは限らないんだよ」
散太はそう言って、また遠くの窓の外を眺めた。窓の外には相変わらず、行き交っても行き交っても後を絶たないカップルたちが、上辺に笑顔をたたえて歩いている。
「恋って何なんだろうなぁ……」
そう、散太がぽそっと言うと、それまで黙っていた時雨が向かいで頷いた。
「恋なんてそんなもんだ。仕方ないさ」
「『そんなもん』て、どういうもんだよ」
「説明は難しいが」
「その、難しいものに振り回されて、毎年俺は消耗してるんだぜ……」
そう最後に呟いて散太が口を噤むと、時雨も黙ってコーヒーカップを一口啜った。それ以上何も言うことが無くて、二人は黙ってカップを空にした。
ただし、しばらく経ってガラスの外を眺めていた散太の顔色が変わった。
「おいおいおいおいおい……。あれやばくないか?」
気が付けば、窓の外はボタン雪のような重たい雪に変わっていて、道にはもこもこと雪が積もり始めていた。
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