14.ないしょのはなし


「ほら」

 部屋の隅のコート掛けから、もそもそと時雨が取り出した物に、散太とノエルは顔を揃えて覗き込んだ。

 それは勿論『トナカイ友の会』の会員証などではなく、れっきとした時雨の大学の学生証だった。

 『馴鹿となかい 時雨』という姓名の印字とともに、いつも通り、むっつりとこちらを睨む時雨が写っている。

 それは、銀行のローンカードのコマーシャルよろしく、カードを顔の左横に掲げている実物の彼と、全く同じ表情であった。

 それを見た散太とノエルは、同時に二人とも「はぁ……」と長い溜め息を吐いたのだった。



「すると……何ですか、馴鹿時雨さん。あなたは純粋に何の他意も無く、散太さんの隣に居ただけだと」

 ノエルは、まるで騙されたと言わんばかりに憎々し気な口調で言った。どっかりとソファに体重を預け、前髪を左手で掻き上げる仕草は大人気に見えた。

「まあ、全く他意がないっちゅうわけじゃないんだけど……」

 時雨はそう含みのある口調で呟きながら、ちらと散太を見た。

 他意とは、きっと散太に対する下心のことだろう。それ以外の他意は全くなかったに違いない。

 散太も、力が抜けたようにノエルの隣にどっかりと座った。全く何ということだろう。本当に騙されていたのは散太の方である。これまで散太は、時雨を本物のトナカイだと思っていたのだから。

 しばらくすると、ノエルが話を続けた。

「ま……、話は解りました。あなたが特に何も隠そうとしてるわけでもなさそうですしね。

 今日も無事に散太さんがお仕事を出来たわけですから、散太さんのお友達として散太さんを見守ってくれたことに感謝いたします。」

「お前に感謝される謂われはないのだが……」

 大人びた14才に、上から目線で物を言われた時雨は不満がありそうだ。腕を組んで立ったまま、眉根を寄せてノエルを見下ろしていた。

 散太は黙って聞いていたが、ノエルは傍の冷めた紅茶をぐびぐびと一気に飲んだ。それから、気を取り直したのか眼鏡をくいと上げて言った。表情は、すっかり最初の柔和なものに戻っていた。

「何にせよ、僕の話すべきことは全てお話出来ました。

 散太さん。こんな深夜にご訪問してしまい、申し訳ありませんでした。見つけたからには、即座にお会いしてあなたの身の安全を確認したかったので……」

「別にいいよ」

わたくしめのお話は解って頂けましたでしょうか」

「うん、よく解ったつもり」

「ありがとうございます!」

 ソファに隣同士に座りながら向かい合ったノエルは、散太の手をむぎゅ、と熱く握って来た。散太もとりあえず握り返す。「待て待てい……」と時雨が台詞で横やりを入れて来たが、妨げにはならない。

 それからノエルは近くに置いた鞄から、一枚の紙を出して来た。

「こちら、僕の連絡先です……。良かったら、ご連絡下さい。ぜひ、定期的にやり取りを致したいです。僕の携帯番号とメールアドレス、SNSのIDが書いてあります」

 合コンのやり取りには丁寧すぎる、お見合いパーティーでの相手のような台詞を、可愛らしい中学生の外見の彼は言った。

 差し出された名刺には、確かに斜体で印刷された『新谷 のえる』の文字と連絡先があった。守秘のためか『トナカイ』の文字は一言もなかった。

 散太は答える。

「うん、解った。ありがとう」

「ぜひ、お役に立ちたいと思っていますので」

 それでは、と言ってノエルは立ち上がった。一体、何がそれではなのか。

 外は雪が止んだとは言え、深夜で、勿論バスもすでに運行を終了している。

「ノエル君、それではってどうするの?」

 再び赤いニット帽を被り、コートを着込んだ彼に、散太は腕を組みながら言った。

 時計は深夜一時。未成年を外に放り出す訳にはいかない。


「タクシーを呼ぶのも何だし……、あの、もし良かったら泊まっていきなよ。どうせ時雨も一緒だし……」

「どうせって何だ」

「ありがとうございます。でも、ご心配には及びません」

 そう言って金髪のハリーポッターは、にっこりと笑った。廊下を渡ると玄関のドアをためらうことなく開け、キャメル色のムートンのミトンを丁寧にはめた。

 赤い帽子にカーキ色のコート、ミトンをはめた彼は、実に可愛らしい。耳当てなんかも似合いそうな感じだ。


「どこかに泊まるの……?」

 そもそも彼はここまでどうやって来たのだろう。散太がいよいよ本格的に止めようとすると、ノエルはそれを制するように、鈴の鳴るような声で凛として言ったのだった。

「また、後日お会い出来ることと思いますので、楽しみにしております。

 それでは、今日のところは失礼致します」

 そう言ってくるりと背を向けたのだが、ちらと振り返ると時雨に向かって片眉を上げて言った。


「時雨さん、散太さんのお宅に泊まられるのですか? 良ければ、乗って行かれます?」

「いや結構。」


 一瞬のぴり、とした雰囲気を最後に、ノエルはそれ以上の文句を飲み込んだ。従順に、「そうですか。それでは。」と唱えると、散太を見て微笑んだ。

 それからぺこりと頭を下げたと思ったら、その次の瞬間には、ノエルは二人の眼前から素早く姿を消した。


「……なっ……?!」

 気が付くと、彼の姿は既に十メートルは離れた家の門のところに居た。

 それは大きな歩幅で、門までの距離を一歩二歩と駆け出して行ったのだ。

 それを見た次の瞬間には、今度こそ本当に彼の姿は消えていた。


「…………は、速っ!!」

「なるほど。本物のトナカイは、走って帰るのか……」


 散太と時雨は、玄関先で縦に重なりながら、白い息を吐いてノエルの残像を眺めていた。

 トナカイは走るのが案外速いと、散太が言ったのは本当だった。本物は時速八十キロで走るらしいのだ。そこまでとは言わないものの、ノエルは人間離れしたスピードで走るらしい。

 そしてその卓越した脚力で、近くの街かそれとも自分の家か、彼の目的地まで走るのだろう。彼らしく、脇目もふらず、真っ直ぐに。


 見た目が可愛らしいのに、とてつもなく頑固で、変わり者で、つまるところとても真面目な少年であった。内面の燃え上がる情熱には少々辟易したものの、悪い子ではなさそうだ。

 次に会う機会も、きっと本当にあるのだろうと散太は考えていた。そこを散太はふいを突かれた。


「散太」

「ん? ぅぬむっ……っ?! …………っっっ」

 呼ばれて振り返ったところを、時雨に唇を塞がれた。

 本当にキスというものは息が苦しいということを、散太は今日、身をもって知ったのだった。

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