8.まつりのあと


 散太の身体は段々冷えゆくようだった。体力が残り少ないのだろう。時雨は温めるべく、出来るだけ彼の身体に身を寄せた。

 それから散太の手を握った。彼の指は、普段とは感触も温度も全く異なっていた。

 そもそも、彼の指に触れたことなど何度かしかないし、散太はそんなこと記憶にないんだろう。だが時雨はしつこく覚えていた。

 散太は今の姿を見られるのが嫌なようだが、時雨にとっては嫌ではなかった。むしろ、自分が見守ってやらなければ。見届ける、という言い方がしっくり来るか。どうやら、彼はまだ仕事をやり遂げていないらしい。彼の仕事を最後まで見届けるのは自分だと、時雨は思っていた。

 昨晩から引き続き、雪がチラつく夜空の中、人々が次第にさわさわとし始めた。

 時雨が前を向くと、その理由を解することが出来た。


「え……嘘」

「こんなの見たことある?」

「ここって、電気白だけじゃなかった……?」

 

 バスロータリーの奥の、広場の方を見ると、さっきまで見えない風景がそこにはあった。

 時計台の前、広場の中心にあるクリスマスツリーの電光が、淡いピンク色に変化していたのだ。

 ゆらめく光。点灯する光は、先ほどまでは雪に隠れた白であった。その光は控え目すぎて、人が立ち止まるには主張が足りなかった。それが今では、暖かくも冴え冴えとした、ピンク色にはっきりと光っている。その光は、微かに降る雪の白い欠片をゆらゆらと染め、桃色のツリーを作り上げていた。

「綺麗ね……」

 そう、ポツリと言う声が人混みの中から聞こえてきた。皆、うっとりとツリーを眺めていた。路線バスの中から気が付いた乗客もがガラス越しに指を差した。

 皆が息を止めて同じ方向を見て、広場にいる全員がツリーを見ている瞬間が確かに存在したのだった。


 やがて、時が静かに流れるように、時雨の目の前にいた制服姿の女子高生たちが喋り始めた。

「私、生まれてからずっとここに住んでるけどさ、このツリーがピンクなんて見たことないよ」

「電球、変えたのかなぁ」

「LEDにしたのかね」

 そう言って、女子高生たちは通り過ぎて行った。夜遊びをしていたのか、帰路を急ぎ小鳥のようにさざめいて去って行く。

 街もそれに合わせて、少しずつ喧騒が戻って行った。どうやら、マジックタイムは終わりのようだった。ツリーは穏やかに、元の白色に戻って行った。


「……ロマンチストめ。……と言うか、いつまでも夢見がちなのかな……」

 時雨がぼそっと言い、隣で自分に寄りかかっている男に視線を下ろすと、彼の姿もまた変わっていた。

 天然の茶色い髪に、華奢なような白い肌。焦げた茶色の、長い睫毛。時雨が初めて見た時から、彼は自分にとって特別だと思った姿だった。

 先ほど夢見がちだと言ったが、散太はまだ少年のようだ。恋愛経験もなければ、恋愛もまだ信じていない。そんな散太を時雨はどうしても放って置けない。

「おい……、大丈夫か?」

 そう言って、頬をぴたぴたと軽く指の付け根で叩けば、散太は薄っすらと目を開け、白い息を吐いて時雨を見上げた。

 散太の唇が薄く開いて言葉を紡いだ。その唇が元の血色ある色に戻っていたから、彼が無事なのを知り、時雨はホッとした。


「時雨……、俺、疲れた……。もう限界かも……」

「うん、解ってる。よくやったな」

「ん……」

「よく頑張った」

 散太は言葉を終えると、またずるずると時雨にもたれたので、時雨はどさくさに紛れて散太の肩を撫でさすった。散太は再び目を閉じて、白い息で時雨に訊ねた。

「……どうだ、綺麗だったか……? あれを見て皆、恋したくなったかなぁ……」

「なっただろ。お前はどうだ?」

「ん……」

 言ってから、時雨は口が滑ったと思った。どうも、昨晩からの、外で散太と二人でいるという状況に舞い上がってしまって、余計なことを喋りすぎる。そんなことを時雨が思っても、全ては後の祭りだ。

 再び、時雨の好きなハニーブラウンの瞳が開くと、思わず時雨は吸い寄せられるようにその瞳を見詰めた。

 散太は答えた。

「俺、見てないからわかんない」

 全く、この天然め。時雨はそう心の中で呟くと、散太に対して半分背を向け、掴んでいた彼の腕を背中越しに首元に引いた。

「歩けないんだろ? 負ぶってやるよ。それともお姫様抱っこがいいか」

 そう言われて、散太は素直に時雨の背中に乗った。時雨には、彼の身体が鶏ガラのように軽く感じた。体力の使い過ぎで、体重まで減ったのだろうか。やっぱり時雨は少しだけ心配である。

 彼の脚を割り、太腿を抱え、背中に負ぶった。散太は大人しく時雨の首元に手を廻した。素直に自分に密着した散太に、時雨は納得した。

 足元に気を付けながら、時雨はゆっくりと歩き始めた。そして呟く。

「……ここにいる全員に奇跡が起きた。全員に、だぞ。お前は本当に凄い」

「そうかな……あれ、どこへ行くんだ」

「飲み物買ってやるって言っただろ」

 そう言って、時雨は大手のコーヒーチェーンに入って行く。

 クリスマスイブの雪の降る夜、大の男がもう一人、大の男を背負ってコーヒーチェーンに入ろうとも、何もおかしいことはない……?

「いいいらっしゃいませ」

「えーと、ホットコーヒーのショートを一つと……、おい、散太お前何にする?」

「ほうじ茶ラテ……」

「ホットのほうじ茶ラテの、トールを下さい」

「かかかしこまりました……」

 二人は、店内にいた客と店員の好奇の目を一身、いや二身に浴びながら、ドリンクが出来上るのを待つ。

 出来上がると、また小さなケンカのような言い合いをしながら、二人は店を出て行ったのだった。


「おい、俺持てないからお前が持て。――ぅちっ!! 散太、お前もっとちゃんと持てよ!!」

「だって、しょうがないじゃん……」

 そう言いながら散太はクスッと笑って、時雨の肩に腕を乗せながら、彼の顎の下で二つのボール紙に包まれた紙コップをクロスさせて、持っていた。

 時雨の歩くスピードで、背中が揺れる。そのたびにカップの中身も揺れ、時雨がおののくのを散太は心地よさげに眺めていた。

 自分は風呂も入っていない。たんまりと汗を掻いて、汗臭くびっしょり濡れた身体で、時雨に股を開いて密着している。全く人生に何が起きるか解らない。

 時雨の背中は大きい。多分、自分のより大きいなと思うと少し悔しい。老人の姿をさらした散太にとって、時雨の整った容姿はコンプレックスなのだ。さく、さく、と音を鳴らす歩幅は大きくて、散太は時雨の首元で呟いた。

「……前から思ってたけど……、時雨、脚もなげえなぁ……。トナカイの生まれ変わりは皆、脚が長いのか?」

「さあな」

 時雨の答えは相変わらず不愛想だ。昨晩の告白は散太の夢だったのだろうか。そう言えば、時雨のトナカイの仲間というのは存在するのだろうか。全く散太は聞いたことがない。今度ゆっくり聞いてみようと、散太は時雨の背中に揺られながら思っていた。

 また散太は呟く。

「トナカイってさ……走るの速いらしいぜ。お前もちょっと、走ってみろよ……」

「馬鹿かお前は。黙って乗ってろ」

 叱られて、散太はフフッと笑った。

 重いだろうに、時雨は順調に進む。時雨の行先はどうやら、路線バスのバス停。

 バスは動いているだろうか。昨夜はバスの中に閉じ込められるのは嫌だと思っていたが、それならそれで時雨と話すことが、もしかしたら沢山あるのかもしれない。コーヒーでも飲みながら、遅れるバスに二人揺られて帰ろうか。

 バスが運休なら、今度こそタクシーか。それとも……昨日考えたように、ビジネスホテルに二人で泊まるとしたら、何かが変わる?

 そんな風に考えている自分に散太は驚いた。


 散太は思っていた。今年のクリスマスは、自分にとって『特別』だった。

 クリスマスは来年も来る。それが、こんなに待ち遠しいと思えたのは生まれて初めてだ。

「……大好き。」

「あ? 何か言ったか?」

なんも。」

 散太はそううそぶいて、時雨の首元をぎゅっと抱き締めた。













 ……そんな二人を、街なかから見守る影が一つ。


「……あれは、確かにサンタクロース登録番号5016×○△×、都築散太さんですね」

 そう言って、小柄な体躯の少年とも呼べる青年は、丸眼鏡の細いフチを指で持ち上げながら、遠い前を歩いて行く散太の負ぶわれた尻を眺めていた。

 年は中学生ほど、頭は赤いニットの帽子を深く被り、まるで外国の少年のように見えた。本当に、外国の血が混じっているのかもしれない。

 手元で扱っていた、タブレットの画面に目を落とす。そこには、確かに先ほど唱えた会員番号と、散太の顔写真が載った画面があった。

「……彼を負ぶっているのは誰でしょう。とにかく、私が辿り着くのが遅かったのがそもそもの落ち度です……」

 少年は、そう悔しそうに独り言を唱えた。それから、気持ちを切り替えたようにタブレットを斜め掛けたバッグの中にいそいそとしまうと、クリスマスイブもたけなわの街の中に消えて行ったのだった。

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