7.サンタの願い


 散太はそれから数時間連続して、奇跡を起こし続けた。

 昔からの知り合い同士らしき社会人のカップルは、道端で相手の肩を小突くようにして何やら言い争いをしていた。どうやら互いに相手の浮気を疑っているようだった。しかし、本当のところはどちらも仕事が忙しくてイライラとしていただけで、いつになく素直になるように散太がちょっとだけ魔法をかけると、二人は勝手にラブラブモードに戻った。

「ごめんね……、今日、ケーキも何も買ってないの」

 そう、女性が弱音を吐き出すように男性に呟けば、

「これから買って、俺のうちに行こう」

 彼氏が彼女の腰に手を回して、二人は彼氏の部屋へ帰って行った。それを見た時雨は、彼らの棘立った仕事の疲れが少しでも癒されるといいと思った。

 そのカップルとすれ違ったのは、結婚してマンネリムードの夫婦……。落ち着いた低いヒールを履いた妻の思い出の品が、肩に掛けたショルダーバッグからぽろりと落ちた。それはもう何年も使い込んだ手帳だったが、夫がそれを拾うと、裏表紙には若い頃の二人の写真が貼ってあった。夫は、妻がまだそれを持ち歩いてくれていることに感動し、妻は顔を赤らめた。

 夫は、まだ愛情が新鮮だった頃の、昔の記憶を思い出した。

「覚えてる? あの店……」

 昔のことを話しかけられた妻は、顔を綻ばせて夫に頷いた。

「今日はクリスマスイブよ。空いているかどうか……」

「マスターに電話をしてみればいいさ。十年ぶりになるかな。きっと覚えてる」

 そう言い合った二人は、これから久しぶりに外食をすることになった。

 複数人の男女で広場に固まっていた、大学生らしきグループの中には、両想いの組み合わせの男女がいた。二人は、ふとした瞬間にその目と目が合った。それだけで、若い二人の物事の始まりには十分だった。

 その、グループの隣を通り過ぎようとした三十代女性は、急に電話に着信が鳴り、開いてみると、昔片思いだった相手からだった。どうやら相手の間違い電話だったのだが、互いに戸惑いながらも、やがて会話が弾み始めた。今度、いつか会うのだろうか。笑って、広場に立ち止まり会話をしている女性のそのまた隣では、一人の会社帰りの女性が、雪が残る道の真ん中で靴のヒールが折れてしまった。

「キャッ!!」

 彼女は二十代で、最近恋人と別れたばかりだった。同年代だった彼氏は二股をかけ、それを知った彼女は絶縁したのだ。いまだに心は痛んでいた。受付嬢の彼女はそれでも毎日こうして長い髪を綺麗に巻き、ヒールを履かなければならないのに、神様は辛いことしか与えない――そんなことを女性が考えていると、そこに中年男性が駆け寄り、彼女の手を取って、助けた。男性は女性よりもかなり年上だったが、白いものが混じる髪は上品そうにセットされ、ダンディだった。

 彼女は、膝を数回はらうと、にっこりと笑って立ち上がった。

「こんな夜に知り合うのも、運命かもしれませんね」

「ええ、本当に……」


 そんな会話が、雪残る広場のここかしこで展開されていた。こんな夜も珍しい。

 勿論、これらはきっかけに過ぎないのだ。今後、展開するかどうかは本人たち次第……それでも、彼らに出会いと、これから考えてゆく機会チャンスを与えているのは、紛れもなく、時雨の斜め後ろで意識を集中している一人の青年の仕業だった。


 時雨は、これまでにない散太の勢いに息を呑んでいた。目の前の広場一面には、次から次へと魔法としか言いようのない出来事が起きていて、時雨は、ここでただ一人口を薄く開いて、白い息を吐きながら、それらの様子に目を奪われていた。

 ふと広場の時計台を見ると、時計の針は、時雨たちがここに着いてからもうすぐ三時間を指そうとしている。

 ――凄い。あまりに勢いが凄すぎる。このペースだと、肝心の散太の体力は間に合うのだろうか? 時雨がハッとそれに気付き、後ろを振り返ると、そこには、普段時雨が見ている散太の姿はすでに無かった。


 そこに居たのは、一人の老いた男の姿だった。

 不揃いに伸びた髪は白く、顔面に影を作り、陰になった目の表情は見えない。目の縁や頬の下部には、深く皺が刻まれていた。肌の色はくすみ、シミがあり、その内側の肉はこけ落ち――。

 時雨が振り返り、目を見開くと同時に、老人はしわがれた声で言った。


「こっちを、見るな」


 それを聞き、時雨は見開いた目の瞳孔を、さらに開いた。

 脚の力が弱まり、壁に寄りかかっていた老人は、首元に飾っていた赤いマフラーを痩せた皺だらけの指で持ち上げ、口元を隠した。それから、紺色のピーコートの後ろに付いている、フードを前に起こして、頭からすっぽり被った。このピーコートは珍しく、フード付きにアレンジされた物だったのだ。だから散太はこのコートを選んだ。自分の衰える姿を、他の者の視角から隠すために。


 散太が正式にサンタクロースになってから解ったことは、クリスマスイブの日に仕事をしている最中は『本来の』サンタの姿に戻るということだった。

 昔から、サンタクロースが老人の姿だというのは、皆ご承知の通り。あれは、サンタクロースが皆老人というわけではなく……、仕事をしている最中だから老人の姿になっているだけなのだ。身体が本当に老人になってしまえば、誰がサンタクロースなのか、普段生活している姿からは見破られようがない。完璧な変装だ。

 初めの時は、散太も、ガラスに映った自分の姿を見て愕然とした。それが数年経った今でも、自分がサンタであることを心から受け入れられない理由の一つでもある。

 周りの男女は、いや、男女に限らずカップル同士は、こうして華やいだ空間で願いが叶えられる時を楽しむというのに。彼らの願いを叶えている自分と来たら、醜い老人の姿になり、中身までまるで本当の老人になってしまったようで。目の前で自分が起こしているはずの奇跡が、まるでガラスを一枚隔てた、別の世界で起こっている出来事のようで、哀しくて。

 そして、今年に至っては、時雨にこの姿を見られることが何より嫌だった。


「頼むから、見るな……!!」


 自分を凝視する時雨に耐えられなくて、散太は俯き、言葉を繰り返した。時雨はそれを聞くと、散太の元まで駆け寄り、彼の身体を抱き締めようとした。が、両手を宙に浮かせたまま戸惑っていた。当たり前だ。力強く抱いたら年老いた身体は折れてしまうかもしれないし、何より、こんな見た目になった散太を抱きたいとはきっと思わない。

 去年までは平気だった。時雨の前で今の姿になることも。それが仕事上で必要なことだから。しかし、今ではもう違う。時雨は、曲りなりにも散太のことを好きだと言ってくれた。そんな相手に、今の散太の姿を見せることはあまりに……あまりに惨めだ。

 それでも、耐えるより他に方法はない。散太はフードを一層深く被ると、無言で道行く人の願いを叶え続けた。夜の灯りが雪に反射し、白く霞みがかかったようなクリスマス・イブの夜に――。


「散太……?」

「まだ……まだだ……」

 そう言って、散太は皺だらけの手でこめかみの汗を拭った。力を出すのは、一年のうち今日しかないのだ。時雨の言葉を信じるなら、この日を楽しみに待っていた人間だってきっといるのだ。目の前の人々が本当にそうかは散太には解らないけれど――解らないからこそ、一人でも多くの人間に微かな奇跡を届けなければ。

 届いているか。本当に。求めていた誰かに。

 疲れは着実に散太の身体を蝕み始めていたが、それでも散太にとってまだ仕事を十分に済ませたことにはならなかった。駅前の広場には、次から次へと人が途切れることはない。この中の、一人でも多く。それでも、次第に散太の集中力は途切れ始めていた。これで終わりか、と思うと、散太の指先から力が抜けそうになった。

 その指先を、温かい指先が包む。

 隣を見上げると、時雨が優しく散太を見詰めていた。時雨の手は、散太の手よりも一回り大きかった。いつもよりも更に背も高いようだ。今の散太には、その時雨の姿が眩しい。

「――大丈夫か。疲れたなら、俺に寄りかかってもいい」

「うん……」

「終わったら、温かいコーヒーを飲もう。お前の好きな、紅茶でも何でもいい。俺が奢ってやるから」

「うん」

 それを聞いて、散太の涙腺はじんわりとほどけそうになった。傍から見れば、孫とお祖父ちゃんの組み合わせなのかもしれないが。

 まだお祖父ちゃんならいい。格好があまりにみすぼらしかったら、聖夜の夜も彷徨うあてのないホームレスかと思われるかもしれない。さすがにそれは嫌だな……、などと、散太はこの土壇場で自嘲気味に笑った。

 もう、何も怖い物はない。傍に時雨が居てくれるなら。


「時雨……。今夜、お前が隣に居てくれることが、今年、俺にとっての奇跡だ」

「……散太。」


 散太は時雨に寄りかかって目を閉じた。具合の悪いふりをして、時雨に抱いていてもらうのだ。そして、最後に一つ、大仕事をしようと意識を集中させていた。

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