6.願いを叶えて
モーニングメニューが始まってしばらくすると、窓の外が明るんできた。
散太は時雨と腹ごしらえをした。昨夜、カレーを残した時雨も今朝は頼んだトーストとサラダのモーニングセットを、全て平らげた。散太も同様だ。
今朝は朝食がもたれる、ということは無かった。
朝食を食べると、夜まですることがない。
二人は店を出ると、昨日入れなかった漫画喫茶に再び挑んだ。事前にファミレスで電話をかけて置いた。電車が動き出すと同時に席には空きが出たらしく、二人はリクライニングソファ席をゲットすることが出来た。
それから、二人は結局順番にシャワーを浴び、漫画を読み、昼寝をして、夕方に備えた。
二人はすでに、いつもの雰囲気だった。気まずさもなく、まるでいつもの散太の部屋にいるように寛ぎ、十分に力を蓄えた。
そして、日が傾きはじめると、いざ街中へ出陣することにした。ぱたんと、ちょうど読み終わった漫画を閉じると、散太は言った。
「――よし、行くか。」
「ああ」
時雨も、読んでいた少年漫画を閉じた。時雨だって小説だけでなく、マンガも読むのだ。青少年向けの、お色気が入っている漫画を一体どんな顔をして読むのか、散太はいささか興味もあった。
別にその顔は、いつもの時雨だった。
店から出ると、今度は散太がぴたりと足を止めた。
「あー、ちょっと待て、時雨……」
「ん?」
「その前に行きたいところがある」
散太がそう言い、ざくざくと道を踏んで回った場所は、昨日行ったケーキ屋だった。
店の前には、OPENという黒板が出されている。積雪の翌日でも、どうやら開店しているようだ。
店の前で時雨はぴたりと立ち止まった。散太が何を考えているのか、探るように散太を見ている。散太は躊躇している時雨を手招きして、ガラスの扉を開けた。ひと呼吸後に時雨も入ると、散太は昨日のようにカウンターの前に行った。
息をすうと吸うと、言った。
「この、ブッシュドノエルの二人分のセットを下さい」
「かしこまりました」
時雨は、眉を上げて散太の顔を見た。散太は、真っ直ぐにレジの方を見て行動を貫くのみ。今日は散太が飲み物を聞く番である。
「コーヒーでいいか? 俺は紅茶にする」
「あ、ああ」
「コーヒーとホットの紅茶を下さい。ストレートで」
「かしこまりました」
昨日と同じ、店員がケーキを用意して、席まで持って来てくれる。今日は散太がコーヒーと紅茶を運び、案内された積もった雪の見える窓際の席に座った。
目の前に置かれたブッシュドノエルは、二、三人分の大きさの太い丸太だ。昨日の食べっぷりから、やはり甘党ではないことが発覚した時雨にとっては、やや大きめな大きさかもしれない。
「どうして……」
呆然と言うのが正しい表情で、時雨は席に座って膝の上に手を投げだしたまま、そう呟いた。散太は気にせず言う。
「昨日、俺はブッシュドノエルにしようかと思ってたんだ。それをお前が勝手に決めやがって」
「……」
「甘い物でも食った方が、力が出るかも。付き合えよ」
「……散太。別に、俺に気を使う必要はないんだぞ」
「解ってる」
そうは言うものの、散太は確かに時雨に気を使っているのだ。
だって、今までに二年…、いや三年か? ほど寒いクリスマスイブの夜に、自分に付き添ってくれていたのだ。イブの日を潰していたのは時雨の方だ。
もし時雨が今この状態を望んでいたというなら、これくらいの願いは叶えてやってもいい。いや叶えて当然だ。
「きっちり半分に分けるぞ……」
そう言って、散太はテーブルに水平になるように顔を低くして、丸太んぼうのケーキを横から眺めた。チョコレートのスポンジと、淡いブラウンのクリームが何て美味しそうなんだ。その上には、小さなサンタがちょこんと乗っている。あれは俺だ。どうせこれくらいのちっさな願いしか叶えられないのならば、全力でやらなければ。
そう思って散太が屈んでいると、向かい側で時雨が言った。
「散太、……ありがとう」
「どういたしまして」
時雨に礼など言われたのは初めてだ。昨日から、初めてのことばかりだ。
ちらと見たら、時雨がまるで泣きそうな表情をしていたから、散太はぎょっとした。頼むから、この期に及んで泣かないでくれ。そんなことになったら、本当にどうしたらよいか解らない。
その後、散太と時雨は無言でケーキを食べた。その沈黙は悪くなかった。
食べ終わり、フォークをカランと置いたところで、散太は言う。
「――よし……」
今度こそ、本当に出陣だ。糖分を取って、頭も冴えた。カフェインでアクセルも踏んだ。今年もクリスマスが始まる。ブーツの足をぎゅっと踏み締めて、むくむ足を堪えながら人々の願いと向き合わなければ。
見れば、一人の、自分と同じように力の漲ったらしき男が目の前に居た。顔を見ると、黒々とした瞳と目が合った。
彼の願いを叶えたのは、どうやら俺らしい。ならば他の人の願いだってきっと叶えられるはず。――彼の願いだって、いとも簡単に叶えたんだ。他の奴の願いを叶えるのだって、きっと楽勝だろ?
「散太……」
「行こう、時雨」
そう言って、二人はケーキ屋を後にした。
街の雪化粧は壮観だった。排気ガスに濁った建物の鼠色が真っ白い色で隠されて、空気までもが浄化されているようだった。
時計台のある広場の中央のツリーの葉にも雪が積もり、白色電灯がその奥から照らし、雪を透かしていた。踏み締められて今夜凍ろうとしている足場の悪い道にも、帰途に着く人々は行き交い、そしてその中の半分くらいはクリスマスの夜に落ち合った恋人たちだった。
散太は、広場を取り囲む駅ビルの目立たない一部に場所を定めた。それから、トンと背中を壁に預けた。傍には時雨が立っている。彼の黒い髪と瞳は雪の中に映え、色の白い顔は蒼褪めているようだ。
「行くぞ……時雨」
散太がそう告げると、時雨はコクンと頷いた。
いよいよ時は来たのだ。
カーン……、と音が鳴った。時計台の下に設置された仕組みが、アナログな方法で鐘を叩いた音だ。時刻は7時を知らせていた。
それと同時に、雪がチラチラとまた高い空からチラつきはじめた。時雨は空を見る。これも何かの知らせかと思ったのだ。だが、これはただの偶然だった。時雨が散太を再び見ると、彼の瞳は紫色に変わり始めていた。
時雨の傍の古い電灯は、先ほどからチカチカと点滅していた。もう電灯が切れかけているのだ。しかしそれが、パッと電光が点くと、もう点滅することはなかった。
時雨は散太を振り向いた。
「……散太」
電灯を直したのは散太だった。散太は、広場の方を真剣な顔をして見詰めながら、時雨に答えるように呟いた。
「まずは小手調べだよ。電灯の中の蛍光管が、今夜くらい持てばいいだろ……」
聖なる夜の雰囲気に沿うように。そう言うとそれから散太は、立っている場所から通りを挟んだ90度向かい側の、貴金属店に魔法を掛けた。
今、まさに一組のカップルが店に入ろうとしていた。二十代半ばの、男性のジャンパーの背には虎の模様が付いており、女性のスカートはこの雪の中に短かった。古式ゆかしいヤンキー感漂う二人は、付き合って一年ほど位の、相手のことを一通り知り尽くした雰囲気が出ていた。
が……。
「おめでとうございます、お客様! 当店一万人目のお客様でございます!」
「え……え!?」
男性の後に付いて女性のブーツのヒールが、ちょうど自動ドアをくぐって店の床を踏もうとした時、店員たちの賑やかな声が、彼らを迎えていた。
驚くカップルたちに、手もみをする、にこやかな七三の髪に分けた店員は続ける。
「プレゼントと致しまして、当店のペアリングをプレゼントさせていただきます!」
店員の言う声に、カップルたちは戸惑った。
「え……、そっか……。で、でも、もうペアリングは持ってるしね……二本目っていうのも、どうしよう……」
確かに、彼らの薬指には鈍い銀の光の指輪が嵌まっていた。戸惑うカップルに、店員は営業スマイルを浮かべる顔の、眼鏡の位置を指でクイと上げながら続きを言う。
「結婚指輪なんかいかがでしょう……。その場合は、半額にさせて頂きます。もしくは婚約指輪でもよろしいかと」
「え……」
店員に言われ、カップルたちは互いに顔を見合わせた。付き合って一年、そろそろその先のことも考えてみようということなのだろうか。実は大工の見習いの彼氏の方は、指輪を買おうにも貯金の残高と秘かににらめっこしていたという最近の事情もあった……。
「オーダーメイドやセミオーダーも可能ですので、ぜひどうぞご検討下さいませ。期限は永久に有効でございます……」
そう、丁寧に頭を下げる店員の前に、カップルたちはしばらく考えて静止していた。
その様子を眺めていた時雨は、道のこちら側で微笑んだ。
あくまで、プレゼントはプレゼント。断ることも出来る。購入するか否かは当人たち次第。ただ、二人は自分たちに起きたハプニングに、きょとんと互いの目を見詰め合って、今後のことを想像するきっかけにはなったに違いない……。
「散太はやっぱり、結構ロマンチストなんだな。指輪とは……」
そう言って、散太を振り向く時雨に、散太は未だ集中を切らさずに答えた。人混みに向けて意識を集中している。
「まだだ、まだまだだよ……今夜は長いんだ……」
そう唱える散太の瞳は、紫を通り越して灰色がかって来ていた。こめかみを、汗がつうと伝った。
散太の言うことは正しい。今夜は長い。時雨は、ただ散太の様子を見守るのみだ。
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