5.コートのトグル
散太はしばらくの間、胸が悪くてムカムカとしていた。
先ほど食べたあんかけ五目焼きそばが、消化不良で詰まっているのだ。
それもこれも、時雨のせいだ。先ほど時雨が行った告白のせいで、散太の胃袋の調子がどうもおかしくなった。
時雨が言ったのは、恋の告白以外の何物でもない。
もしこれが、時雨が「何、真に受けてる? 全く冗談の通じない奴だな。これだから恋愛のひとつもしたことが無い奴は困る」とでも今すぐ言ってくれれば、散太はどれだけ楽になったことか。
しかし、どれだけ待っても時雨は散太が望む言葉を言うことはなかった。
「……」
気まずすぎる沈黙の中、両隣と向かいの並びの部屋から音漏れするカラオケの歌声が響いてくる。散太と時雨はと言えば、互いに硬直したまま、素人たちの中途半端な歌声を聞いている。
「……あー、散太、ごめん……」
突然、時雨は散太に対して謝罪の声を発した。散太はドキリと飛び上がった。
散太は裏返りそうな声を何とか堪えて聞く。
「なななに何が?」
「俺、余計なことを言ったと思う。明日は大事な日なのに……」
時雨の珍しい殊勝な態度に、散太は余計に嫌な汗を掻いた。今日は風呂に入れないと言うのに。
「いいいいやいや別に。大丈夫だけど……」
最大限に平然とした返事をしたつもりだったが、その時に時雨がサッと立ち上がった。散太はもう一度、ソファで飛び上がった。
「……あー、俺、ちょっと出て来るわ……」
「え、どこに?」
出て来ると言ったって、外は雪である。他に行く当ても無いし。
散太が思わず聞くと、時雨は散太を見下ろしながら答えた。
「外に出て、雪の様子を見て来るだけだ。そのうち帰って来るから心配するな」
そう言いながら、時雨は壁のコートを取った。
「頭冷やして来る……」
そう言い置いて、時雨はさっさと出て行ってしまった。
散太は、個室にぽつねんと取り残された。周りの歌声が、独りになった部屋に余計に聞こえるようになった。マイクのキーンとする音も、時折あがる笑い声も、である。
散太は、そっと個室のドアを開けてみた。通路の両隣を見回したが、時雨の姿はない。
コートを持って行ったところを見ると、本当に外に行ったのだろう。気まずくなった雰囲気を察して、散太に気を使った。きっと先に寝てるようにということなのだ。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて……」
そう言って、散太はぽこりと横になった。それから一度ガバッと起き上がり、男子トイレに行った後に、冷たいウーロン茶をドリンクバーで取って、それからコート掛けからコートを取り、自らに掛けてもう一度横になった。
(……眠れない)
しかし目はギンギンに冴えている。当たり前だろう。思いもよらない告白を受けた後なのだ。
散太の心臓は、いつまでも跳ねている。
(……あいつ、いつから俺のこと……)
散太は考えた。時雨がいつから自分のことをそんな風に思っていたのか。散太が鈍いからなのか、全然気が付かなかった。いや、時雨も全くそんな素振りを見せなかった。きっと、散太に気を使っていたのだと思う。散太が恋愛経験がないのを知っていたし、何分男同士である。
恋愛経験がないということは、女性が好きではないという可能性もあるから、時雨も散太に思いを寄せたままだったのかもしれないが……。散太は残念ながら、男性を恋愛対象に見たことは無かった。
(ごめん時雨……)
散太は、心の中で謝った。時雨のことは、友達にしか考えられない。しかし同時に、誰よりも大事な友人であると思い返す。
(もし返事をしたら、どうなるんだろう……)
散太は、ごめんと言いながら頭を下げる自分の姿を思い描いた。時雨もきっと納得する。そうしたら、彼は散太の傍から離れてはしまわないか? 散太は、そう考えてぞっとした。唯一、サンタの仕事を理解してくれる相手がいなくなってしまう。イブの夜も一人になる。
(じゃあ、どうしたらいい……)
散太は悶々とした。
全く。ただでさえ、今日は雪も降り、明日はイブなのだから、頭は余計なことを考えずに力を蓄えておきたかったのに、いつのまにか寝ているのはベッドでもない安物の今まで誰が座ったか解らないソファであるし、毛布も無ければ風呂にも入れない。それもこれも、時雨の誘いに散太が乗ったからだ。そして、時雨のせいでこうして余計なことを考えて眠れないでいる。
(どうしよう)
とりあえずは眠りたい。時雨が帰って来る前に。帰って来たら、寝たふりをしよう。何と話をすればいいのか解らない。散太はそう心に決めたのだが、時雨の食べ残したカレーの皿の、ルウと米粒の端が乾燥してカピカピになっていくのを見詰めているうちに、ソファのビニール革をわあんと噛み締めたい気持ちになった。腹の内の五目焼きそばは、いまだ消化できずに腹につかえているし、全く気持ちの落ち着く個所が解らない。
それでも散太は、どうやら眠りに着くことに成功したらしい。
夜更け過ぎにふと目を覚ますと、部屋の中の明かりは極限まで絞られていた。
そして、足元のL字に続くソファを見れば、散太と同じように自らのコートを掛けて眠っている時雨の姿が見えた。その姿を見て、散太は事実ホッとしたのだった。
そして再び、今度は安心して眠りに着くことが出来た。
「……おい散太。起きろ」
「……ん~~……。何だよ、時雨……」
「朝の五時だ。さっき、フロントから電話があった。ここからは出なきゃならない。この店は、朝は五時までだからな」
「何をう……。朝五時っつったら、外も真っ暗だろ……。そんな中に客を追い出すなんて、何て非情な店だ……」
散太が目を擦りながらそう言ったら、傍にいた時雨の顔が笑った。
「最初から決まってることだ、お前、滅茶苦茶な言い分だな」
時雨は、ソファに寝ていた散太の傍に屈んでいたらしい。近くに見えた時雨の顔を、散太は寝起きの頭でしばし見入った。
「外は、昨日の夜から雪は止んでた。積もってはいるが、歩けないほどじゃない。ファミレスで朝飯を食うのはどうだろう」
「雪……」
雪のことを言うのを聞いて、昨夜を思い出した散太は、今度こそぱっちりと目が覚めた。
二人はカラオケの会計をワリカンで済ますと、暗くまだ電灯が頼りの道のなかを、二十四時間のファミレスに向かった。
二階にあるそこは、階段を転ばないように上ると、ガラガラに空いていた。二人は暖かい中、数組しかいない店内の中央辺りに席を取った。
「六時からじゃないとモーニングメニューってやつが頼めない」
「おおう……、じゃあ、それまでポテトかドリンクバーで凌ぐっていうのは」
「よし、それで行こう」
昨夜のケーキ屋とカラオケから、ここまで場所としてはどこも暖かくて快適だ。ただ、さ迷ったという感覚はある。ソファは狭かったし、風呂に入っていないから少々疲れている感はある。散太は、首をコキコキと鳴らした。それを見て同様にする、時雨も同じようだ。
コートを脱ぐ時雨に、散太は言った。
「なぁ……、お前こそ、あのグレーのチェスターコート、もう着てないのな」
「ん?」
時雨は、今では茶色のダッフルコートを愛用している。散太は、白いダッフルコートを着ていない自分を言及する時雨も、昔のコートを着ていないことをちくりと刺したかったのだ。
「捨ててはないんだろ? 何で今では着てないんだ」
「トナカイに徹することに決めたからだ」
早朝の寝不足そうな店員がポテトを運んでくる際に、淀みも無くまるで何でもないように時雨がそう言うから、散太はまたあんぐりと口を開けた。
時雨はフォークを箱から取り出しながら、言った。
「このコート、色味もトナカイらしいし、トグルも何だかトナカイのツノみたいなのが気に入って、これを着ている。そもそもダッフルコートとは、サンタと同じ北欧の方で始まったコートらしいし」
トグルは、動物の角であることはあるが、まさかトナカイではあるまい。もしそうだとしても仲間の角を使われた衣服を着るのはトナカイの生まれ変わりとしてどうなのだろう。
時雨のことはクールで理知的な男だと、散太はずっと思って来たが、どうやら一概にそうでは無かったということが、昨日から解り始めて来た――自分を好きだと言うのも含めて。
それから――と時雨は続けた。フォークで揚げたてのポテトを突き刺しながら。
「お前のあの白いダッフルコートと、揃いになるかと思っている」
それを聞いて、やはり散太は顔を蒼くした。この男は、どうやら中々強敵だ。
「まあ、俺の決心だと思ってくれればいい……」
思ったよりも何を考えているか解らないし、一筋縄ではいかない雰囲気だ。散太は、怖れてポテトにも手を出せなかった。
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