第六幕:断罪の慟哭

 息せき切らして駆けつけた先は、崖にも近い急斜面の頂だった。見おろせば、見慣れた金色が狼の群れに取り囲まれている。


「ユリア!」


 躊躇することなどなかった。叫ぶようにその名を呼んで、セトは斜面をすべり降りる。狼の群れがセトを振り返り、その向こうに、小さく縮こまるユリアの姿が見えた。「セト、なんで」


 泥まみれになって、地べたに座りこんでいるその姿から察するに、ユリアは斜面から転げ落ち、足をくじいてしまったのだろう。呆然とセトを見つめるユリアは、けれど、すぐに我に返った。


「来ちゃだめ! 逃げて!」


 必死の形相で、ユリアが叫ぶ。その言葉を聞いて、セトはひとり嘆いた。


「ああ、こんな状態の中でも、キミはボクの身を優先するのか」


 これから自分は彼女を助けて、その後に存在そのものを“否定”しようとしているというのに。


 もっとも、そんなことを露とも知らないユリアが、セトの身を案じるだろうことは、想像するに難しくはない。長くはなかったとはいえ、一緒に過ごしてきた時間の中で、それだけは学んできていた。


 ただ、それでも、やるせない。


 立ち尽くすセトを警戒する狼たちは、それでも、ユリアへの執着を隠そうとしない。身動きの取れない獲物よりも先に、新たに現れた敵対因子を排除しようとするほうが先決で、動物の本能に則った行動だというのに。


 しかし、セトはわかっていた。それも無理のないことなのだと。アカシックが修正しようとする力によって突き動かされている狼の群れには、そんな選択肢はないのだということを。


「だめ――いや――」


 一体、何をそんなにも恐れることがあるのだろうか。恐怖に震えるユリアを怪訝な思いで見つめながら、セトは“端末”を開く。それと同時に、ユリアが立ちあがった。


「セト、逃げて!」


 その手に固く握りしめられた熱冷ましの薬草が目に留まったとき、セトはただ「哀れだ」と思った。首にさがっていたペンダントを握り、力任せに引きちぎる。


「驚きです。こんなものが“歪み”をつくりだし続けていたなんて」

「え……?」


 ユリアが瞬く一方で、セトは手のひらに収まる金属の歯車を見つめた。


 そう、これだ。この歯車こそが、唯一“遺されていた”歪み。だからこそ、この歯車を持つ今のセトに対して、アカシックは“何の認識もできない”――だからこそ、アカシックの力に突き動かされている狼たちは、同じ“在ってはならない存在”でありながら、アカシックが認識することのできないセトよりも、認識できるユリアを排除しようとする――


 セトは憤りに胸を焼かれるまま、電子端末へと手をかざした。「消えてください、不愉快だ」


 端末の画面に映された文字の羅列が、変化していく。そして、それと同じくして、狼たちの身体にも異変が起き始める。ユリアの表情が、凍りついた。


 一頭、二頭と、狼が消えていく。文字どおり、跡形もなく。端末が映しだす“言葉”のとおりに。


 そうして、最終的にそこに残ったのは、


「うそ」


 驚愕に目をみはったユリアが、ぽつりと声をもらした。「今の、まさか」


 足を引きずり、ユリアはセトに近づこうとする。けれど、セトはそれを許さなかった。ユリアを拒むように、巨大な炎の壁を燃えあがらせる。一瞬だけ燃えあがった炎はすぐに消え去ったものの、セトの拒絶の意思をユリアに伝えるには十分だった。唖然としたようすで、ユリアが立ち尽くしている。そうして、セトは言い放った。


「来ないでください。ボクは“被害者”であるキミを、この手で殺めることはしたくありません」

「セト……?」


 なにを言っているの。今にもそう言いだしそうなユリアの顔を見て、セトは淡々と言う。


「ボクは、すべての始まり。キミたちの祖先にあたる最古のリ・コーダーです」


 小さく息を呑む音が、セトの耳にも届いた。けれども、やはり、ユリアもリ・コーダーの端くれ。すぐに、その矛盾に気づいた。


「そ、そんなはず――だって、リ・コーダーのことはアカシック・レコードからは削除されるはずで――だから、リ・コードでよみがえらせることなんて、できなくて――」


 ユリアは、ひどく困惑しているようだった。戸惑いに揺れるその瞳を、セトは他人事のように眺めながら、当然の反応だと内心で思う。特に意味もなく、歯車の中心に開いた穴に人差し指を入れ、セトは指先で歯車を回し始めた。


「キミは知らないでしょうが、アカシック・レコードは、あくまでアカシックが記した予定調和の“記録”でしかありません。だからこそ、リ・コーダーの力によって改竄できる――ですが、それとは別に、アカシックは“記憶”を持っているんです」


 アカシックの記憶。ユリアが、そう言葉を反芻する。セトはそれに対して、返事をすることも、うなずくこともなかった。ただ、事実を告げるためだけに話し続ける。


「“記録”は書き換えることができますが“記憶”は改変を加えることができません。人間と同じようなものです。おそらく、キミはアカシック・レコードではなく、アカシックという存在そのものにアクセスし、その記憶の中からボクという存在を構築するアカシック・コードを見つけだしたのでしょう――膨大な情報を内包するアカシックの記憶にアクセスして、キミがキャパシティをオーバーせずにすんだのは、奇跡的なことです」


 もはや、ユリアは言葉を発することもできなくなっていた。瞳がこぼれ落ちそうなほどに目を見開いて、ただただセトを凝視している。


「ボクたちリ・コーダーは、この世界に存在するウィルスです。アカシック・レコードに記録されていないがゆえに、存在するだけで周囲に影響をもたらし、本来ならば存在するはずのものまで、アカシック・レコードから抹消してしまう――朱に交われば赤くなるとは、よく言ったものです」


 セトやセトが持ちこんだものと接触したことで生まれてしまったリ・コーダーは、まさに被害者以外の何者でもない。だけれど、この世界はその被害者にも容赦はなかった。歪みとして、セトの犯した罪として、例外なく全ての存在を否定した。


 そして皮肉なことにも、それを知ったときに初めてセトは気づいたのだ。平行世界という存在を証明しようとしたセトは、一見すると同じようでいて、まったく異なる世界へと降り立っていたことに。実験は、失敗していたということに。


「ボクは利己的な理由で、この異世界に介入し、それを歪ませました。だからこそ、その歪みを正さなければならない。そして、そのためにはリ・コーダーを生みだし続けていたボクの遺物を抹消する必要がありました。その点では、ボクはキミに感謝しなければいけませんが」


 薄く笑い、セトはユリアを見る。


「わかりますか、ユリア。キミは存在してはいけない――ましてや、生まれてきてはいけない存在だったんです。アカシックという世界の意思から見ても、リ・コーダーという存在から見ても」


 なぜなら、彼女はリ・コーダーでありながら、リ・コーダーの存在を抹消せんとする存在を、ガーディアンとして呼び覚ましてしまったのだから。


 顔面蒼白になったユリアは、何も言わない。否、きっと何も言えないのだろう。何しろ、彼女は自分の取った行動によって、この世界に存在するリ・コーダーすべての未来を絶ってしまったのだ。この心やさしい少女が、平然としていられるはずはない。沈痛な面持ちの少女に向けて、セトは笑う。だから言ったじゃないですかキミは必ず後悔すると――


 それでも、ユリアは青ざめたままだった。まだ頭が混乱しているのか、それとも、先に絶望することに至ったのか。怒ることもなく、嘆くこともない。まるで人形のようになってしまったユリアを前に、セトは饒舌に語った。


「この歯車さえ抹消すれば、ボクがこの世界にいたという痕跡は完全になくなります」狂ったように、取り憑かれたように、ただセトはとうとうと語る。「多少の時間はかかりますが、リ・コーダーはアカシックの正常な働きによって、確実にその数を減らしていくでしょう。以前キミが言っていた生まれつきのリ・コーダーというものが誕生しなくなりますから、リ・コーダーはある種の絶滅危惧種のようなものとなります。もっとも、世界が望む種の絶滅を危惧するのは、当のリ・コーダーくらいなものでしょうが」


 けれど、それは唐突に途切れた。ユリアが、口を開いたことによって。


「でも――でも、それじゃあ、セトはどうなるの……?」


 その瞬間、セトがどれだけ泣き叫びたかったか、きっとユリアにはわからないのだろう。泣いて、叫んで、愚かだと罵って、そうして――どれだけの贖罪の言葉を尽くしたかったか。


 ユリアは、この期に及んでまで、まだセトのことを案じていた。セトが、ユリアという存在を否定してもなお、彼女はセトを否定しようとはしなかった。


 それだけ。たった、それだけ。だというのに、セトは目に映る世界が淡く色づいていくのを感じたような気がした。


「どうもなりません。キミが、ボクという存在を維持するためにリ・コードし続けている以上、キミがアカシックに消滅させられるまで、この世界に存在し続けるでしょう。ボクが自ら存在を維持することも可能ですが、ボクにはそうする理由がありませんから、これまでと変わりません」答えて、セトは心穏やかに微笑する。「キミが消えるときに、ボクも消えます」


 その事実に、恐れはなく、悲しみもない。それどころか、胸の安らぎさえ感じている。


 初めてだった。歪んで狂ったこの世界を、残酷な秩序を振るい続けるこの世界を、これほどまでに愛しいと思えたのは。


 けれど、


「それが、セトの抱えているものなんだね」


 そう呟いて、ふいにユリアが笑った。一抹の不安が、胸に立ちこめる。


「ユリア……?」

「ずっとわからなかった。ずっと、知りたかった」と、ユリアは微笑みながら語った。「セトは――この世界を歪ませてしまったことに、ずっと罪悪感があったんだね。だから、いつも、あんなにつらそうな顔をしていたんだね」


 セトの胸の中の不安が、少しずつ、少しずつ、膨らんでいく。もう何も言わないでほしい。そう願ったのに、ユリアは秋晴れの空のように清々しい顔をして、瞳に強い意志を宿す。


「だったら、わたしは、すべてをリ・コードする」


 ユリアは言った。


「過去、現在、未来、アカシック・レコードに記されていなかったすべての不測のできごとを、正しく、このレコードに書き直す」


 アカシック・レコードに記されていないことを知る術など存在しない。ただひとつ、アカシックの記憶にアクセスすることを除いては。


「まさか、キミはアカシックにアクセスしようというんですか!」


 唯一の結論に至ったとき、セトは知らず声を荒げていた。


「無茶だ! そんなことをして無事でいられるはずがない! 失敗すれば、キミは――!」

「大丈夫だよ」


 ユリアが、笑う。ひどく穏やかでいて、あたたかく、慈愛に満ちたまなざしで。


「わたしは、あなたをアカシックの記憶の中から見つけだして召喚した。きっと、今度もうまくいくよ」

「そんな、確証がどこにあるんです? あれは偶然だったと、どうして考えられないんです?」

「――わたしは、あなたと出会えた奇跡を、信じてる」


 迷いのない、芯のとおった声だった。セトは、知っている。こういう声で言葉を紡ぐ人間は、決して、自ら折れることはないということを。それゆえに、彼らは自分と同じように「天才」と称されていたことを。だからこそ、セトは恐れた。目の前に立つ、年端もいかない少女がしようとしていることを、恐れた。


「何を、言っているんですか――」


 震える唇で言葉を紡ぎ、セトはユリアを思いとどまらせようと言葉を探す。だのに、肝心なときに限って、言葉が見つからない。思い当たらない。ユリアは微笑んだまま、静かに目を伏せる。


「待ってください――やめて、ください――」


 セトの制止の言葉にも耳を貸さず、ユリアはその身に黄昏色の光を帯びる。セトもよく見慣れた、世界を形づくる言語が、ユリアを取り囲むように浮かびあがる。螺旋を描く記号の帯。見る間に長さを増してゆくその帯は、もはや生物が処理できる情報量を超えていた。


「だめです、ユリア!」


 碧い瞳が、見開かれる。とたんに秩序を失い、崩れてゆく記号の帯。空虚な少女の目から、雫が落ちた。


 瞬く閃光。セトはとっさに端末を投げ捨てた。ユリアへと、手を伸ばす。けれども、それは空をつかんだ。セトの目を焼いた光が消えたとき、そこにはもう、何もなかった。


 足もとが、覚束なくなる。何もなくなった空間を見つめたまま、セトはその場に崩れた。頬を、涙が伝う。


「馬鹿だ」


 ぽつりと、そんな言葉が口をついて出る。セトは「馬鹿だ、馬鹿だ」と、ただひたすらに繰り返す。そして、その一言を発するたびに胸に降り積もっていく、こらえきれない感情。


「キミという人は、どこまで馬鹿だというんですか!」


 爆発したように叫び、セトは拳を地面に撃ちつけた。


「わずかな時間でいい――ボクは――ボクは、他の誰でもない――ユリア、キミと一緒にいたかった……!」


 ――それだけで、ボクは十分にしあわせだったというのに。


 切実な願い。けれども、その願いはもう叶わない。それどころか、声さえも、もう届きはしない。熱冷ましの薬草が咲かせる小さな花が、風に揺れている。セトは、獣のように吼えた。遺された歯車を握りしめて、その慟哭を森に木霊させた。

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