第五幕:記憶
ユリアに支えられながら、家へとたどり着いた後。その後のことを、セトは記憶していない。気がついたときには、セトは上着を脱がされ、普段ユリアが使っているベッドに横たえられていた。
日光を長時間浴びていたせいなのだろう。身体はひどく熱を持ち、顔や手の皮膚はただれてしまっている――“らしい”。目覚めたばかりのセトには確認することができなかったものの、それでも、頬に貼られたガーゼや、手に巻かれた包帯を目にすれば、何かしらの異常があったということくらいは察することができる。けれど、セトの意識は高熱のせいで朦朧とし、おまけに聴覚が機能しなくなっていた。おそらく、聴覚の問題は一時的なものだろうが、これではユリアから自身の容態を聞くこともできない。
セトの耳が機能していないと気づいたときのユリアの慌てようは、ひどかった。抱えていた数冊の本を取り落とし、みるみるうちに青ざめて、かと思えば、セトの傍へ駆け寄ろうとし、落とした床の本を踏む。それなりの勢いをつけて踏み出した一歩だったのだろう。バランスを崩したユリアは、ベッドで横になっていたセトの上に倒れこみ、意図せず、みぞおちへと頭突きを見舞ってくれた。
そのとき、セトはうめき声をあげてしまったのだろうと思う。ユリアは、慌ててセトから離れようとしていた。だけれど、セトはユリアの背に手を回し、それを阻んだ。そうして、哀れに思えるほど小さく震えるユリアの背中を、撫でてやった。
――これくらいで、ボクは死にはしません。
と。ユリアを安心させようと口にしたその言葉が、正しく発音できていたかどうかは、わからない。それでも、音のない世界で繰り広げられたそれは、まるで無声映画を見ているような記憶として、セトの中に残った。自分のことで、一喜一憂してくれる少女の存在が、いとおしい。そんな気持ちとともに。
けれど、高すぎる熱はセトを苛んだ。熱にうなされながら、セトは夢をみた。それは、物心ついたばかりのセトを捨てた両親や、幼いころから身を焼いてきた日の光でさえ他愛のないものと思えるほど、心底セトが忌々しいと思う者の夢だった。独特な歩き方から発せられる、耳慣れた靴音。忙しない足にまとわりつこうとする、白衣の裾。ぼさぼさの、白い髪。そして、血のように紅い、瞳――
夢の中のセトは、その人物をただ見つめて立ち尽くしていた。一方で、夢の中の忌々しい存在はセトの視線に気づくこともなく、ポケットに両手を入れ、天井を仰ぐようにして、何やらぶつぶつと呟いている。セトは、静かに拳を握った。
この世の何よりも忌々しいその男は、何かに取り憑かれているかのように呟く。これは可能性だ、と。誰も及ばなかった可能性だ、と。あの腰抜けたちではできない、と。実証できるのは自分しかいない、と。
――よせ。
セトは、声にならない声で呟いた。
――やめろ、やめるんだ。
切なるその声は、けれども、届くことはない。ふと動いた紅い瞳が、セトのそれとかち合った。
「かねてより論じられてきた平行世界。ボクが、その存在を証明してみせる」
咆哮。セトの耳にさえ届かないそれは、聞こえるのならば、まるで獣のそれのようだっただろう。セトは男につかみかかり、抵抗させる間もなく、ありったけの力で押し倒した。振りかぶった手にナイフを握り、それを振りおろす。馬乗りになったセトを見あげる、紅い瞳。瞬間、セトはそこにあどけない無垢な光を見た。
覚えたのは、ためらい。男の姿に重なるようにして見えた“それ”は、やがて歪み、にじんで、跡形も残さずに消えた。
そうして、気づけば、セトは振りかざそうとした腕もそのままに、ユリアをベッドに押し倒していた。怯えるように涙する碧い瞳が、セトを見あげていた。嗅覚がとらえた好物の匂いに床を見れば、無残な姿のパンと、スープと、小さなハンバーグ。そこで、セトは自分がなにか、硬いものを握っていることに気づく。嫌な予感がした。まさかと首を巡らせ、セトは戦慄する。悪夢にうなされたセトが、ユリアに向かって振りおろそうとしていた手。その手に握られていたのは、銀のナイフだった。
手が、まぶたが、唇が、全身が震えた。とたんに、力の入らなくなった手から、ナイフがすべり落ち、シーツの上に転がる。
セトは怯える手を伸ばして、ユリアの頬に触れた。碧い瞳の奥にある瞳孔が、大きく開く。恐怖で閉ざされたまぶたに押し出され、ユリアの頬を涙が伝う。疼くような痛みが、胸を襲う。セトは、ユリアの頬に流れる涙を、そっと親指で拭った。
――泣かないでください。
必死にしぼり出した声は、果たしてユリアの耳に正しく届いたのだろうか。目を見開いたユリアが、セトを見あげる。セトの全身を、微かな震えが走った。涙に濡れた碧い瞳を直視できずに、目を伏せる。ああどうか怯えないでほしい、どうかそんな顔をしないでほしい、どうか――
そのとき、ユリアの手が動いた。そして、その冷たい手が触れたのは、セトの左頬。
セトは弾かれたように、ユリアの顔を見た。ユリアは、ひどく気遣うような眼差しをしていた。ユリアの親指が、セトのそれと同じような動きをして、なにかを拭う。このときになって、セトはようやく気づいた。泣いているのは、ユリアだけではないということに。
――なかないで。
ユリアの唇が、そう言葉をかたどった。かと思うと、ユリアは自分の首をとおしていたひもを手繰り、それを外す。ペンダントか、なにかだろうか。ユリアは自分で外したペンダントらしきもののひもを、セトの首の後ろで結んだ。そして、目尻に残っていた涙を拭い、ふわりと笑った。
――げんきになる、おまもり。
たしかに、ユリアはそう口を動かしたように見えた。セトの首からさがり、ユリアとの間で揺れたのは、金属の歯車。セトは、すぐに気づいた。その歯車が、ユリアのつくったせんべいと同じ形であることに。
大切なものなのではなかったのか。反射的に、そう問いかけようとして、やめた。そんな無粋なことを問うには、あまりにもユリアは幸福そうだったから。
だから、決して口にしてはならないのだ。悪夢にうなされたセトが、心から殺したいと思った相手は、他でもない過去の自分自身だったのだということを。そのことを知ったのなら、この少女はきっと悲しみで笑顔を曇らせてしまうだろうから。
例え、遅かれ早かれ、この手で彼女を絶望の底に突き落とすことになろうとも。例え、忌み嫌われるときが来ようとも。今はまだ、このままでいたい――
翌日、セトはひどく奇妙な夢をみて目覚めた。それは、ただひたすらに、自分の後ろ姿を追いかける、夢。現実のセトであれば、背後から飛び蹴りでもしているところだというのに、夢の中のセトが胸に抱いていたのは、絶大な信頼と、憧れ。そして、そんな夢の中の自分を見る“セト”は、決まって、ひどく穏やかな表情をしていた。
「自分自身にあんな目で見られるというのは、ひどく気味が悪いです。いっそ、寒気がするほどに」
やはり、一発でも蹴りを入れておくべきでした。ベッドの上で、ぶつぶつとこぼすセトの傍ら、朝食を一緒に取るべく椅子を寄せていたユリアが苦笑いを浮かべる。
「それよりも、セトの耳が聞こえるようになってよかったよ。熱も下がってきてるし」
「そうですね。ボクももう、キミの頭突きをみぞおちに食らうのは願い下げです」
「う」
夢に対する批判から、彼女の失態へと話題が変わったとたん、ユリアが言葉に詰まった。「だって、あのときは――本当に、びっくりして――だから、その――」
しどろもどろになって言葉をさがすユリアを、しばし眺める。そうしてやがて、セトは喉でくつくつと笑いだした。
「わ、笑わないでよ! わたし、本当に」
「はい、わかってます。キミが心配してくれたことを、ボクはうれしく思ってます」
ふと目を細めて言ったセトに、ユリアは今度は目を丸くして固まる。沈黙があった。だけれど、それは嫌な沈黙ではない。ユリアは、頬を赤らめてうつむいた。「……うん」
熱がいくらか下がり、聴覚も回復してから、セトはユリアと一緒にいられる時間を、幸福だと、そう感じられるようになっていた。ひょっとしたのなら、他の何にも変えがたいのではないかと思えるほどに。そして、セト自身、想像だにしていなかったのだ。まさか、育ての親がよく作ってくれていた料理よりも、ずっと大切に思うものができるとは。
「セト、なんだか楽しそうだね?」
「そう見えますか」
「うん。今までよりも、ずっと」うなずいたユリアは、そうして悪戯っぽく笑う。「もしかしたら、ハンバーグを食べてるときよりも」
きっとそれは、彼女にとっては冗談半分だったのだろう。けれど、ユリアの口にした言葉に、セトは思わず笑っていた。
「そうですね。キミの言ったことは、正しいです」
とたん、ユリアは不思議そうな顔になる。言葉の真意を問いかけてきたものの、セトはそれをのらりくらりとかわした。そうこうしているうちに、セトが言いたくないことなのだと察したのだろう。ユリアも、詮索するのをやめた。空になった食器を重ねながら、にこりとする。
「それじゃあ、この食器片づけたら、熱冷ましの薬草を採りに行ってくるから」
これに、セトは顔をしかめた。
「また、あのまずい薬を飲まなくてはいけないんですか?」
森に自生する薬草を煎じて作る、熱冷ましの薬。ユリアが母親から作り方を教わったというそれの効果は、たしかなものなのだが、いかんせん臭いがきつく、苦味とえぐみがあるのだ。飲みたくないと、セトが顔で示すと、ユリアは「セトのためだよ」と、困った笑いを浮かべる。
「口直しに、なにか作っておくから」
「……そのなにかが、ハンバーグであるのなら努力しましょう」
「うん、じゃあ約束だよ」
そう言って、ユリアが小指を差し出してくる。セトは、つい目を瞬いてしまった。
「指切りですか? 思いの外、キミは日本の文化に毒されているんですね」
「毒されてるって……せめて詳しいって言ってよ」
不満げなユリアの小指と自身の小指とを絡めて指切りをしながら、けれど、セトは言う。
「いえ、毒で間違いありませんよ。そもそも、指切りは遊女が客に対する不変の愛を誓うために、小指を切って渡したことに由来しているそうですから」
「えっ」
「キミも大胆ですね」セトは、解いた自らの小指をまじまじと見つめた。「どこで覚えてきたんです?」
たちまち、ユリアの顔は青くなり、そして次には、リンゴのように赤くなる。
「セトの馬鹿!」
勢いよく立ちあがると同時に馬鹿呼ばわりされ、思わずセトはむっとした。「以前も言いましたが、ボクは馬鹿ではありません」
けれども、聞いているのかいないのか、ユリアは食器を抱えて部屋を飛び出していってしまう。その後姿を見送り、ひとり部屋に取り残されたセトは、やがて、ぽつりと呟いた。
「少し、からかい過ぎましたかね」
ユリアが食事の後片づけをして家を出たのを確認すると、セトはベッドに半身を起こしたまま「世界各地の伝承の本」を開いた。開いた本に目を落とし、ただそこに映される情報を読み解いていく。
それは、もはや、セトの日課とも呼べること。セトがユリアのガーディアンとなった理由、目的を果たすための調査。今に至るまで、ユリアの目がないときを見計らってはひたすらに続けてきた。
ただ、これに関しては、未だになんの手がかりもつかめていない。ありとあらゆる可能性を調べたが、手応えはまるでない。もっとも、だからどうということではなかった。簡単には手がかりは見つからないから、調べるのを投げやりにしていたわけではない。今が心地よいからと、手を抜いていたわけではない。それでも、もしかしたら、セトが望むものは少しずつ変わりつつあったのかもしれない。
ふいに目に留まったのは、獣。同種だろう獣の群れが輪をつくり、ぐるぐると回っていた。それは、狼が狩りをするときの行動に酷似している。ただひとつ、その輪の中心に“なにもない”ことを除けば。
「ユリア……!」
すぐに、わかった。ここに、この“端末”に情報として記されないものが、今この森にあるとするのなら、それは“セトとユリアだけ”なのだから。
「何を、しているんだ、ボクは……!」
アカシック・レコードに記されていない存在の未来を知ることは、何人たりとて叶わない。それを知っていながら――否、知っているからこそ、セトは己を責めざるを得なかった。けれど、今は自責の念に駆られている間すら惜しい。セトは武器に成り得るものを頭の中に羅列していきながら、ユリアが「おまじない」と言って首にかけてくれた歯車のペンダントを握りしめる。そして、本を睨みつけ、
「まさか」
とうとう、気づいた。気づいてしまった。探し続けていた原因の正体と、その在処に。
聴覚は戻ったはずだというのに、その瞬間、すべての音が消えたように思った。
「やはり、この世界は勝手だ」
口をついて出たのは、批難めいた言葉。どうして今このときになって、どうしてもっと早くに、それともこれは罪深い自分への罰だとでもいうのか。セトは消え入りそうな声で呟き、きつく目をつむる。
さりとて、それも刹那のこと。セトは本に見せかけた電子端末を閉じ、外へと駆けだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます