第四幕:運命の歯車

 キッチンから、醤油の焼ける香ばしい匂いがする。おそらく――というよりも、十中八九――ユリアが料理をしているのだろう。この家のキッチンに立つのはユリアだけであって、キッチンからなんらかの料理の匂いが漂ってくるのは、常ならなんら不思議なことではない――のだけれど、そのときのセトはそこで疑問を抱いた。


 目を落としていた本から顔をあげ、時計の文字盤へと目を移す。遮光カーテンで閉めきられて薄暗い部屋の中でも、確かな時の刻みを教えてくれるそれは、正午をすぎてから、まだ三時間ほどしか経っていないことを示していた。


「夕食にしては、早すぎるな」


 ぽつりと呟いて、セトは軽く首をかしぐ。これまでにも、ユリアがこんな時間にキッチンへこもっては、クッキーやマドレーヌなどの焼き菓子を焼いていたことはあった。それは、いわゆる「おやつ」というもので、毎日ではないにせよ、できたてのそれらをユリアはセトに振る舞ってくれていた。だのに、今この家のキッチンから漂う香りは、どうにも食事を連想させるものでしかない――


 昼食は食べた。朝食は言うまでもない。そして、夕食には早すぎる。


 妙だ。セトが怪訝な顔でキッチンのほうへと目を向ければ、ちょうどユリアが出てきたところだった。一方で、ユリアもセトのいるだろう場所を把握していたのだろう。目が合うと、うれしそうに笑った。そして、手にしたトレイを軽く持ちあげて見せる。


「ねえセト、おやつにしよう!」


 いつになく、楽しそうな顔をしたユリアの言葉に、セトはますます怪訝に思うばかりだった。


 とはいえ、セトもユリアのつくる料理は嫌いではない。むしろ、ニンジンさえ入っていなければ、好きな部類に入る。セトは抱いていた不審を好奇心へと変え、本を閉じた。


 本を脇に抱えたまま、セトがテーブルにつくと、ユリアはやはり上機嫌なようすで、トレイの上の「おやつ」を並べ、向かいの席に座った。


 古びた木製のテーブルの上。そこに並んだのは、緑がかった液体の入ったティーカップと、焼けた醤油の匂いを漂わせた平べったい「奇妙なおやつ」――


 セトが黙ってそれを手に取り、口にくわえれば、ユリアはにこにこと楽しそうに話しだす。


「あのね、これ、ニッポンっていう国のお菓子とお茶なんだ――あ、お菓子のほうがオセンベイで、飲みもののほうが、リョクチャっていうんだけど――わたしのおじいさんがニッポンの出身だったらしくて、ときどきだったけど、お母さんが作ってくれてたお菓子なの」


 それで、と。そう続けようとしていたユリアが、ふいに口を閉ざした。かと思いきや、どこか不安そうに、おずおずとセトを見る。


「セト、オセンベイ、口に合わなかった?」


 ちゃんとレシピどおりにやったはずなのに。消え入りそうな声で、そう呟いたユリアに、セトは「いえ」と、くぐもった声で返事をした。


「でも、さっきから全然食べてないじゃない。ずっとくわえたままで」


 さっきまでの機嫌のよさはどこへいったというのだろうか。急に情けない顔になって肩を落とすユリアを見つめ、セトはもごもごと口を動かす。焦げた醤油の味が、じわりと口の中に広がった。


「唾液でふやかしているだけです」


 とたん、ユリアはきょとんとし、表情を引きつらせる。


「だ、唾液って」

「はい。いわゆる、つばですね」

「言わなくていいよ! ちゃんとわかってるから!」


 たちまち、ユリアが声を大きくした。ころころとようすの変わるユリアに、セトは眉根を寄せ、首をかしげるしかない。セトは唾液によって、いい具合にふやけた菓子に歯を立てて噛みちぎり、それを咀嚼して飲みこんだ。


「キミはなんなんですか、さっきから。妙に機嫌よさそうに話していたと思えば、おかしな顔になって、終いには声を荒げる。ボクには、わけがわかりません」


 セトの疑問へ対する返事は、どこかあきらめたような、呆れたようなため息。ユリアはたたずまいを直し、ティーカップに口をつけた。そのようすをじっと見つめ、セトは続ける。


「もっとも、感情の起伏が激しいという点と、まがりなりにも、キミが女性であるという点を踏まえて推測すると、月経を迎えているという可能性もあるのですが」


 ティーカップに口をつけていたユリアが、むせた。


「へ、変なこと言わないでよ!」

「――という、キミ自身の言動から、そうではないとボクは考えます」


 顔を真っ赤にして、椅子から立ちあがったユリアを尻目に、セトは淡々と言う。ユリアはというと、ただただ赤くなって、魚のように口をぱくぱくとさせているだけだ。


「まさしく金魚ですね」と、セトは微笑した。「昔、日本へ行ったときに見ました」

「え?」と、ユリアの目が瞬いた。「セト、ニッポンに行ったことあるの?」


 あどけない表情になって、ユリアが問いかけてくる。セトは「はい」と、うなずいた。


「ただ、ボクの記憶にある日本には、こんな奇怪な形をしたせんべいはありませんでしたが」


 言いながら、セトは欠けたせんべいを手にして、ユリアの目の前でくるりと回してみせる。セトの記憶にあるものと同じ香ばしい匂いを放つそれは、けれども、記憶にあるそれとは、どうにも趣が異なっていた。弧を描くふちは、どういうわけかぎざぎざとしており、中心には丸い穴が、ぽっかりと空いている。その形状は、どう考えても不自然で、ユリアが意図的につくった形のようにしか思えない。


「クッキーのような型抜きを考えたにしても、このセンスはとても奇抜です。このせんべいは、まるでなにか……機械の歯車のようです」


 四半世紀も生きていないだろう少女が、好んでつくる形とは、なかなかに考えづらかった。ユリアは、この少女は、本来どんな形にしようとしていたのだろうか。けれど、さまざまな憶測を巡らせながら、セトが盗み見たユリアは、口もとに笑みを浮かべていた。


「そうだよ、それは歯車」

「は?」


 思わず、気の抜けた声が口から出る。そんなセトにはおかまいなしに、ユリアは微笑んでセトを見ていた。


「歯車は、わたしにとって、とても大切なものなの」


 笑みを崩すことなく、言葉を続けるユリア。そのまなざしは、いつもの――ユリアが、セトを見つめるときの、ひどくやさしいものと同じように思えるのに。


「大切なひとが、のこしてくれた、たったひとつの証」


 だのに、なぜだろう。


「そのひとが生きていた――たった、ひとつの」


 やさしくあたたかい碧い瞳が、かなしげに揺れて見えるのは。


 涙の膜に、覆われているように見えるのは。


「ユリア……?」


 妙だ。おかしい。セトが、そう思ってその名前を口にしたとき、ユリアは、ひどく、きれいな顔で笑った。


「やっぱり、思い出すわけ、ないよね。だって、知らないんだから」


 笑って、呟いて、ユリアは首にさがっていたなにかを、服の下で握りしめる。


 こぼれ落ちた、石英のような雫。ユリアは片手で目もとを拭い、セトから顔を背けた。


「ごめん、ちょっと風に当たってくる」

「ユリア――」

「大丈夫。すぐに、戻るから」


 セトの声をさえぎって、ユリアは逃げるかのように、部屋を飛びだしていく。


 ユリアの言葉が、セトの頭の中で木霊した。ヤッパリ、オモイダスワケ、ナイヨネ。ダッテ、シラナインダカラ――


 セトは直感した。やはり、ユリアは何かを知っている。ユリアは、セトの何かを知っていて、自ら望んでセトをガーディアンにした。


 問いたださなくては。その目的を。その真実を。


 人間というものは、弱っているときにこそ、秘めごとをもらす確率が高くなる。ならば、今しかない。この機を逃すわけにはいかない。今こうして自分が存在している間にも、被害は、歪みは、確実に拡大しているのだから。


 まだ、外は明るい。日が短くなっても、まだ太陽は天上にあった。けれども、セトはそれを気にはしなかった。ユリアを追って屋外へと飛びだす。


 光が、セトを襲った。瞳を焼き、露出した肌を焼き、光はセトを阻む。まるでユリアと彼女が抱える秘密を守らんとでもするかのようだと、柄にもなく、ありもしないことを思った。


 ――けれど、だけれど、もしも、それが真実であったとするのなら、


「自ら否定しておきながら、今さら守ろうだなどと……勝手な、世界だ」


 苦虫を噛みつぶしたような気持ちで呟き、セトは腕で目を庇う。天上の光が、セトの視界さえをも蝕み、ユリアの姿を隠す。白く、焼かれていく、世界。熱に晒されて、急激にあがっていく体温。額に、脂汗がにじんだ。


 だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。執念にも似た思いで、セトはユリアを追うべく、耳を澄ませる。遠く、風の中に混じって、少女の泣き声が聞こえた。


 嘆きの声を頼りに森へと足を踏み入れたセトは、すぐにユリアを見つけた。セトが追ってきていることにも、気づいていないのだろう。ユリアは薄暗い木立の中で、声を限りにして泣いていた。一本の落葉樹の根もとで、ひどく小さくなって、泣いていた。なんでと、どうしてと、悲痛な声が森に木霊する。


 セトは、落ち葉を踏みしめながら、背中を丸めたユリアとの距離を縮めていく。一歩、また一歩と、足を踏みだす度に心臓が脈打つ。


 知らなくてはいけない、ユリアの知っている真実を。語らせなくてはいけない、ユリアが自分を選んだ思惑を。そう、例えユリアに拒まれ、罵られ、二度とその笑顔が自分に向けられなくなっても。


 そう、例え、ユリアが――


「……どうしたら、いつになったら、わたしはセトを助けられるの……?」


 なぜ、だったのだろう。ふいに耳に入ったその言葉を聞いて、心臓をわしづかみにされたような、そんな感覚に陥ったのは。


 気づけば、セトの足は止まっていた。動けと、口の中で何度繰り返しても、その足は動かない。まるで意思と身体が分離してしまったかのように、動かない。それどころか、セトの身体はセトの意思に反して、ユリアとの距離を取り始める。泣き続けるユリアを残して、その場から立ち去ろうとする。


 いつしか、セトは再び白くまばゆい光の下へと戻ってきていた。視界が白一色に塗りつぶされて、なにも見えない。わからない。ただ、自分の身体が崩れ落ちていくのを感じていた。


「ボクは、なにをしている……?」


 自問した声は、自分でも驚くほどに弱く、かすれていた。忌々しい光に焼かれながら、セトは白に塗りつぶされた世界で、ユリアと出逢ったときのことを思い出す。自分が告げた不吉な言葉にも、笑みを絶やすことのなかった少女。心のどこかで、不思議な力強さを、感じていた。


 だけれど、実際にふたを開けてみれば、なんてことはない。ひとりの少女だった。セトが傷ついたと思えば泣き、母親を助けられなかったと泣き、そして今も――セトを助けられないと、泣いている。


 その言動に対する疑問は尽きることを知らない。けれど、それ以上に自分の取った行動への疑問のほうが大きかった。


「なぜ、ボクは問いたださなかった?」


 今さらになって、命が惜しくなったとでもいうのか。己の命など、とうの昔に尽きているというのに。


 今さらになって、たったひとりの少女を哀れんだというのか。その少女を苦しめる原因は、他でもない自分自身であるはずなのに。


「なぜ、ボクは」


 そこまで呟いて、セトはゆるゆるとまぶたを閉じた。


 考えても、答えは出ない。だったら、思考を放棄するしかない。心を、殺すしかない。そうして、目的のためだけに。


「セト!」


 声がした。ひどく、耳に馴染む声だ。ひどく、胸を揺さぶる声だ。


 この感情は、なんだろうか。悲しくて、あたかかくて、狂おしいほどに――


「セト、いやだ――いやだよ! 起きてよ、目を開けてよ!」


 ぽたりと、頬に落ちた生温かい滴。続けて落ちてくる二粒、三粒。


 これは、雨ではない。自然と、そのことがわかっていた。目を開ければ、なにが視界に映るのか。それすらも、手に取るようにわかった。


「ユリア」


 セトの目を焼かんとする光から庇うかのように、ユリアが顔に覆いかぶさっている。碧い瞳から、ぼろぼろと涙をこぼしながら、ただセトを見おろしている――予想と寸分違わない状況を瞳に映して、セトは知らず、笑みを浮かべていた。泣くじゃくるユリアの頬に手を伸ばし、その涙を親指で拭う。


「セ、ト」


 その口が、途切れがちに自分の名前を紡いだ。たちまち顔をくしゃくしゃに歪めて、さらに涙をこぼす少女。その姿に、セトはようやく気づいた。今、自分が抱えている感情が、なんであるのか。


 それは、この手で殺してしまうにはとても惜しくて、この手で殺せるほどに弱い感情でもないことを。


 セトの伸ばした手を、ユリアが両手で包む。自分のそれよりも小さく、柔らかな手。失いたくないと、そう願ってしまった。


「……すみません、心配を、かけました」


 もう大丈夫だと、その意思を伝えようとしてユリアの手を強く握る。器用なことにも、ユリアは泣きながら笑って、かぶりを振った。


「いいの。セト、起きられる?」

「はい、なんとか」

「じゃあ、家に入ろう? こんなにお日さまが照ってるんじゃ、身体によくないよ」

「そう、ですね」


 うなずいて、セトは身体を起こす。それを手伝うように、ユリアはセトの背中に手を回した。寄り添い合うようにして、やがて二人は家へと歩きだす。


 セトを支えて前屈みになっていたユリアのシャツの襟元から、金属質に光る何かが、するりと滑り落ちた。けれど、それはセトの視界にもユリアの視界にも映ることなく、繋がれたひもによって宙に留まる。ユリアの胸元で、ちらちらと光を反射しながら揺れるそれは、ひとつの歯車だった。

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