第二幕:名前

 セトがそれに気づいてから、時計の長針が五四〇度ほど回った。要約すれば、かれこれ一時間半。本人は気づかれていないつもりなのかもしれないのだが、それの足音にも、周囲から向けられる好奇の視線にも、ずっとセトは気がついていた。


 あとからあとから、ついてくる気配――セトが気取られないように背後へと視線をやれば、二メートルほど離れたところに、みすぼらしい身なりをした子どもの姿があった。孤児なのだろうか。その傍らに保護者と思しき者の姿はなく、子ども自身もまた、一人であることを気にする素振りはない。着ているのは薄汚れたシャツ一枚だけで、靴も履いていなかった。伸び放題になった髪は汚れで黒ずみ、顔のほとんどを覆っている。


 その子どもが何を考えているのか、何の目的があるのか、なぜ他の人間ではなくセトの後をつけてきているのか。セトには、全くわからない。ただ、子どもの存在が害になることはなかったため、セトもそこまで気にしてはいなかった。


 訪れて間もない街の中を歩き回り、そこにある建物や文化、生活水準を調べ、事前に用意していた情報と照らし合わせていく。それはまるで、パズルを組み合わせていくような感覚だった。自らの理論と答えがひとつ、またひとつと合致していく快感に、背筋がぞくぞくした。ただただ、セトは“答え合わせ”をすることに夢中になっていた。けれど、そんなセトの意識を動かしたのは、他でもない孤児の存在だった。


 それまで、つかず離れずの距離で、セトの後をついてきていた子どもが、ふいに立ち止まる気配を感じた。本当なら、無視してもいいはずだった。それよりも、もっと調べなくてはならないことが、山とあった。セトの“答え合わせ”は、未だ終わってはいない。だというのに、どうしてか、セトは孤児のことが気にかかってならなかった。


 それは、あるいはセト自身が孤児として過ごした経験を持つからであったのかもしれないし、別の理由であったのかもしれない。ただ気づけば、セトは足を止めて、背後を振り返っていた。


 あのみすぼらしい身なりの子どもは、セトが先ほど通り過ぎたパン屋の前で、ぽつんと立ち尽くしていた。振り返ったセトに気がつくようすもなく、指をくわえてパン屋の中を見つめている。ふらりと、セトは足を踏み出した。


「お腹が空いているんですか?」


 傍らに立ち、そう声をかけたとたん、子どもの肩が大きく震える。怯えるように、長い前髪の下から覗いた赤い瞳は、これ以上にないくらい見開かれていた。


 自分のものと同じ色の瞳。それを見つめ返して、セトは再び問う。「お腹が、空いているんですか?」


 繰り返された問いかけに対して、子どもはしばし目を白黒とさせていたが、やがてはおずおずとうなずいた。


「おなか、すいた」


 その口から紡がれた言葉は、ひどく幼く、たどたどしい。けれど、ひとまずの会話は成り立ちそうだった。逃げるでもなく、泣くでもない。自身を見あげるだけの子どもと目線を合わせるべく、セトは道の真ん中にしゃがみこむ。


「パンが、食べたいんですか?」

「パン、たべたい」もう一度、子どもはうなずいた。「おなか、すいた」


 素直な答えを聞いて、セトは改めて間近で子どもを観察する。大きめのシャツを着ているせいで、身体の線はわかりにくいものの、露出している首筋や足は、ひどく痩せ細っている。ろくにものを食べていないことは容易に想像できた。なぜなら、両親に捨てられたセト自身もまた、今は亡き育ての親に拾われるまでは、目の前にいる子どもと同じような状態だったのだから。


 かつて抱いていた飢えと、乾きが、よみがえる。目の届くところで、当たり前のように存在する食べものに、飲みものに、ぬくもりに、この手だけが届かない――


 風が吹き、セトがかぶるフードを揺らした。香ばしいパンの香りが鼻をくすぐり、すぐ傍らで小さな腹の虫が鳴く。


 セトは小脇に抱えていた電子端末を広げた。キーをいくつか叩き、上着のポケットに手を入れる。あたたかで柔らかな感触をつかんで取り出せば、セトの手の中にはキツネ色に焼けたパンがあった。


「あ……」


 子どもの目が、セトの持つパンへと釘づけになる。空腹でたまらないのだろう。ひどく物欲しそうにしながら、けれども、子どもはセトの手からそれを奪い取って食べようとはしない。律儀なのか、はたまた、大人という生きものの恐ろしさを知っているのか。生憎と、そこまでを計り知ることはできなかったものの、セトはこの反応に好印象を抱いた。口もとに笑みを浮かべ、手にしたパンを、そっと子どもへと差し出す。


「どうぞ、さしあげます。今のボクはもう、空腹ではありませんので」


 赤い目が、ひとつ瞬いた。たちまち、その表情がまぶしさを覚えるようなものへと変わる。一瞬、育ての親が向けてくれていた微笑みを思い出した。当たり前のように存在する食べものを、飲みものを、ぬくもりを、セトにとってのすべてを与えてくれたのは、他の誰でもないあのひとだった――


 セトからパンを受け取った子どもは、一心不乱にそれへとかぶりつく。「喉に詰まらせますよ」と、そんな忠告をしながら、セトは子どもの頭に手をのせた。自分の手が汚れることなんて、気にもならない。


「ボクはセトといいます。キミはなんというんですか?」


 パンにむしゃぶりつく子どもは、セトを見ることもないまま、首を横に振った。


「しらない」

「それはつまり、名前がないということですか?」

「しらない。でも、セトがそうおもうなら、きっと、そう」

「そうですか」


 と、セトは短く相づちを打った。


「孤児としては全くないケースではありませんが――名前がないと不便ですね」

「フベン?」

「はい、不便です。主に、ボクがですが」


 セトはそう返したのだけれど、名前を持たない当人は意味がよくわかっていないようだった。パンを口いっぱいに頬張り、首をかしげている。口の周りには、パンくずがついていた。セトはそれを払ってやってから、あやすように子どもの頭を軽く叩き、しばし思案する。


「キミは、男の子でしょうか? それとも、女の子でしょうか?」

「オトコノコ? オンナノコ?」

「……そのようすだと、自分でもよくわかっていないようですね」


 そもそも、この子どもは、男や女という性別が存在することも知らないのかもしれない。無論、セトは男と女という生物の違いは知っている。手っ取り早く確認する方法も、思いつかないわけではない。が、それはこんな人通りの多い街中でやることでもない。


「では、こうしましょう」


 指を立て、セトはひとつの“提案”をした。その“提案”に、子どもは、ひどく喜び、ひとつの“選択”をした。そして――



  ※



 薄暗がりの中、セトはゆっくりと目を開ける。ワインレッドのカーテンで閉めきられた部屋が見えた。わずかにできたカーテンの隙間。そこから射しこむ光が、夜明けを報せている。


 ――夢。夢をみていた。とても懐かしい、夢。


 セトは夢の内容を思い出して、小さくかぶりを振った。人のぬくもりにふれたせいで、感傷的になっているのかもしれない。膝を抱えるようにして眠っていたセトは、自分ではかけた覚えのない毛布を手に取って、改めて部屋の中を見渡した。ユリアが眠っていたはずのベッドは、もう、もぬけの殻になっている。昨晩、眠りに落ちた少女にかけた毛布が、セトにかけられていたことから考えても、すでにユリアは起きているのだろう。


 セトはぼりぼりと頭をかき、懐に抱えていた本を小脇へと移動させた。振り子時計の文字盤を見やると、時刻はまだ五時も回っていない。


「彼女は年寄りの早起きか」


 小さく、セトはそう独りごちた。とはいえ、目が覚めてしまった以上はしかたがない。二度寝をする気分にもなれず、セトはユリアをさがすために立ちあがった。かけられていた毛布を、本来あるべきベッドの上へと放り投げ、昨日の一件で穴が開いてしまった上着のポケットに手を入れる。そこでふと、セトは昨日ユリアに「猫背」と言われたことを思い出した。


「…………」


 セトはちょっとだけ意識して、背筋を伸ばしてみた。部屋の姿見を覗きこんでみる。鏡に映ったセトの姿は、猫背ではない。そのことを確認して、セトはひとり満足した。姿見から視線を外すと、のろのろと家の中を歩きだす。けれども、その背がすぐに丸まってしまったことに、セトは気づかなかった。


 その後、セトはひととおり家の中を見て回った。しかして、ユリアの姿はどこにも見当たらない。玄関から外に出てみると、朝日がセトの目を刺した。目深にかぶったフードを手でさらに引き下げ、セトは庭先の花壇に歩み寄る。葉や花びらにのった透明な滴が、朝日を反射して煌めいている。ちらと見やった井戸の周りには、小さな水溜りができていた。


 昨日、今日と、雨は降っていない。おそらくは、ユリアが花に水をやっていたのだろう。植物に水をやるのなら、早朝がいいという話はセトも聞いたことがある。ユリアがこんな時間に起き出したのは、彼女が普段から花の手入れをしている証拠だろう。けれど、


「ここにもいない、か――」


 明るい庭先をぐるりと見渡して、セトは小声で呟いた。一体、ユリアはどこにいるのか。セトは徐々に高くなろうとする日を恨めしく思いながら、日差しを避けるように家の裏手に回る。そうしてようやく、さがしていた少女の姿を見つけた。


「ユリア」


 家の壁に背を預け、膝を抱えてうずくまる姿に声をかける。それに対して、ユリアは何も答えなかった。ただ、背中を丸めて小さくなって、じっと足もとを見つめている。


 ユリアが何を考えているのか、セトにはわからない。ユリアが、セトをガーディアンに選んだ理由も、セトが傷ついたと思って涙する理由も――今、こうして膝を抱えている理由も。だからといって、それらの疑問を、今目の前にいる少女にぶつけることで何かの答えが出るとも思えない。とりあえず、セトはうずくまるユリアの隣に腰をおろした。


「夢をみるの」


 ふいに、ユリアが言った。刹那、セトの脳裏に今朝みた夢のことがよみがえる。けれども、セトはそれを口にはせず、黙ってユリアの話に耳を傾けていた。


「何度も何度も、同じ夢。わたしはいつも、夢の中でたった一人の人を助けようとしてる。なのに、何度やっても、何度繰り返しても、わたしはその人を助けることができないの」

「悪夢ですか」と、相づちを打つ。だが、昨晩はユリアがうなされているようすはなかった。セトは怪訝に思いながら、隣に座るユリアを見た。「なぜ、急にそんな話をするんです?」


 すると、ユリアは口を閉ざした。足もとへと向けていた顔を少しだけあげ、その正面にある石碑を見る。


「ここ、お母さんのお墓だから」


 静かに告げられた言葉に、セトは逡巡した。覚えたのは、微かな違和感。


「キミの母親は、リ・コーダーだったんですか?」


 問えば「そうだよ」と、ユリアが答える。


 それを聞き、セトは墓石へと目を向けた。腕を伸ばし、指先で冷たい石に触れる。


「キミたちリ・コーダーはアカシックの力により、自身が存在していることをリ・コードできなくなった時点で消滅する。つまり、死んだところで肉体も残らない」


 淡々と、セトは言った。反対に、ユリアは何も言わない。セトはただ言葉を続けた。


「それを埋葬するということは不可能ですから、これは形骸的なものということになりますが」一度、そこで言葉を切ったセトは、ユリアのほうを見やった。けれども、ユリアは怒るでも嘆くでもなく、じっと墓石を見つめている。そのようすをしばし見つめて、セトもまた墓石に目を戻した。「キミがここを墓だと言うのなら、別にそれはどうでもいいことです――それで、ここに刻まれている文字は?」


 石に刻まれた不恰好な文字をセトが指でつつくと、応じるようにユリアの腕が伸ばされる。細い腕がセトの伸ばした腕の上で交差し、指先は音もなく墓石の文字をなぞった。


「ユリア・マリアス・セブンフィールズ。お母さんの名前だよ」

「“ユリア”?」


 思わず、セトはそう聞き返していた。怪訝な声色になったそれが、セトの口から返ってくることを予めわかっていたのだろう。ユリアは「うん」と、うなずいた。


「この家で生まれた男の子は“ユミル”、女の子は“ユリア”――そう名づけられるのが、古いしきたりなんだって」


 どこか名残惜しむかのように、ユリアは墓石に刻まれた文字を一撫でして、手を離す。セトはその仕草を目で追いかけ、ユリアへと移した。自分のそれとは正反対の碧い瞳が、墓石を映して揺らめいている。


「なるほど。ミドルネームがあるのは、個人を識別するためですか」

「そうだよ、セトは本当に頭の回転が速いね」


 ユリアは言葉に何を含ませるでもなく、ただ薄く笑った。セトは、ユリアの胸の内を推し量ろうと、黙ってその顔を見つめる。一方のユリアは、決してセトと目を合わせようとしなかった。静かな声で、言葉を続ける。


「うらやましいな。わたしは、あまり頭がよくないから」


 そう笑ったユリアの表情に、自嘲するような色が見えたのは、セトの気のせいだったのだろうか。セトの薄く開いた唇から「いえ」と、否定する言葉が滑り出た。


「あまりよくない、という言葉では語弊が生じますね。キミの場合は、ただの馬鹿です」

「ひどいなあ」と、ユリアが笑う。


「事実です。大体、外敵から身を守るためのガーディアンに、ボクのようなひ弱な存在を選ぶこと自体が奇怪です。理解できません。それに――」


 言いかけて、セトはかぶりを振った。


「いえ、これ以上はやめておきましょう。終わりがありませんから。それで、キミの本当の名前はなんというんですか?」


 セトに「馬鹿だ」と断言されてもなお、笑みをたたえていたユリアの顔から、ほんの一瞬、表情が消えた。


「ないんだ」

「は?」

「わたしの名前、ないの」


 墓石から目を逸らしたユリアは、その日、初めてセトを見て、笑った。知らず、セトの眉が寄る。


「どういう意味ですか?」


 ――どうしてか。そのとき、セトは自分の発した声がユリアを責めているように聞こえた。それを感じ取ったのか否か、ユリアは再び自分の足もとへと目を落とす。


「……名前は、初めてガーディアンを召喚したときに両親からつけてもらうものなの。だけど、わたしは落ちこぼれだったから」


 本来なら、ユリアは両親が生きているうちに、ガーディアンの召喚を成功させなくてはならなかった。最大の保護者である肉親が生きている間に、自身の身を守る力を得るというのは、生物としても至極当然のことである。だが、ユリアはそれを成し遂げることができなかった。墓石に刻まれた文字の風化具合から推測するに、彼女の母親が死んでから、年単位の時間が経過している。つまり、ユリアがガーディアンであるセトを召喚したときには、すでに彼女の両親は死んでいた。それがために、ユリアには名前を与えてくれる存在がいない――


 セトは、リ・コーダーの平均的な寿命がどの程度であるのかを知らないし、一般的なリ・コーダーがガーディアンの召喚を成功させる平均年齢なんてものも、わからない。ゆえに、セトには一概にユリアが「落ちこぼれ」であるのかどうかを判断することはできないのだが、ユリアは自分が持つリ・コーダーとしての能力をひどく低く評価しているようだった。


「あのときだって、そう――お母さんが、アカシックに消されてしまうときも――わたし、何もできなかった」


 ユリアの細い腕が、一層強く、その膝を抱いた。それを見つめ、セトは口を開き、


「ユリア、キミは馬鹿ですか」


 心底、呆れた目でユリアを見おろした。うつむいていたユリアの顔が、再びセトへと向けられる。何がなんだかわからない。そんな顔をするユリアに、セトはすぐさま自らの失言を訂正した。「いえ、すみません。間違えました。キミは馬鹿です。それも正真正銘の“大”がつくほどの」


 ユリアは、ハトが豆鉄砲をくらったような顔をしている。かつて、セトがまだ科学者として生きていたころ。他の科学者たちに意見をすると、決まってこんな顔をされたのを思い出した。当時は、どうしてこの程度のことも自分で考えられないのかと、心底疑問でならず、周囲の科学者たちを侮蔑さえしていたものだった。だけれど、今セトの前にいるのは、傷心した一人の少女で、


「アカシック・レコードにコードが記録されている一般市民ならともかく、リ・コーダーを構築するコードは、本人でさえわかっているとは言いがたいものです。そのアカシック・コードを知る術がないのであれば、キミがリ・コーダーとして優れていようがいまいが関係はありません。ユリアが気に病むだけ無駄なことです」

「セト――」


 小さな声で、ユリアがセトの名前を口にする。セトはそれには応じなかった。ユリアの呼びかけを振りきるように、さっさと立ちあがる。


「それより、お腹が空きました。何か作ってください」


 うずくまったままのユリアを見おろして言えば、彼女は慌てたように目もとをこする。そして、セトを見あげて、また笑った。


「うん、ありがとう。わたし、セトがひとりぼっちにならなくてもいいように、がんばるから」


 それは、おおよそ咬み合わない会話。


「…………」


 セトは、少し黙った。上着のポケットに手を入れて、ユリアに背を向ける。


「まあ、キミの程度は知れていますから、期待しないでおきます」

「もう! わたしだって、がんばってるんだから!」


 ユリアのあげた不満げな声には、先ほどの調子は、もうなかった。


 後から追いかけてくる足音を耳にしながら、セトの思いは過去へとさかのぼる。その昔、彼が生きていたころに出会った子ども。名前を持たなかった子ども。純真無垢な、セトの記憶にのみ残る幼子。かつて、パンを与えたその幼子に、セトはもうひとつの贈りものをしていた。ではこうしましょう、ボクがキミに二つの名前をあげます、キミはその二つのうちから好きなほうを選んで使ってください――


 今でも、よく覚えている。セトが幼子に与えた二つの名前。それは、


「ユミルとユリア、ですか」


 小さく口にした言葉は、風にさらわれて、誰に届くこともなく、ただ消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る