第一幕:セトとユリア

 使い古された白木のベッドの上で、毛布に包まっていたかたまりが、もぞりと動く。それは、しばし毛布の下でうごめいてから、やがて、赤みがかった金色の頭を覗かせた。眠たげな碧い眼が周囲を見渡す――


「どうも。お邪魔しています」


 その顔が自分のほうへと向けられるのを見計らい、セトは紅茶が注がれたカップを持ちあげて挨拶をした。毛布をかぶったままの少女ユリアは、年季の入ったダイニングテーブルについているセトを見つめて、瞬きを繰り返す。


「……セト?」

「はい、なんでしょうかユリア」


 極々自然に返事をしながら、セトはカップのふちに口をつけた。おかげで、最後の言葉は若干くぐもっていたけれど、セトはそんなことは気にしない。音をたてて紅茶をすすった。


「なんで、紅茶飲んでるの」

「喉が渇いたからです」

「なんで、紅茶のある場所とか知ってるの」

「キッチン周りで、日常的に使われている痕跡のある棚を当てずっぽうで開けてみたら、見つかりました」


 おそらくはこの家の主であろう少女を前に、セトは堂々と家捜ししたことを告げる。すると、ユリアはぽかんと口を開けて固まった。セトはその顔をじっと見つめて、言った。


「あまり女性が大口を開けるものじゃないですよ。ただでさえ男っ気がないようなのに、キミがそんなようでは嫁の貰い手がいなくなります」

「お、おおお大きなお世話だよ!」


 寝起きだったユリアが、顔を真っ赤にして怒鳴る。そして、その言葉を受けて、セトもうなずいた。「それもそうです。キミが嫁にいけようがいけまいが、ボクには全くもって関係ありません」


 実際問題、セトもユリアが嫁にいけるかどうかなんてことに興味はない。よって、セトはすぐにその話題から離れるべく、言葉を続けた。


「それでは、他に聞きたいことはありますか?」


 とたん、ユリアが静かになる。やがて、何かに思い当たったかのように「あ」と、声をもらした。


「わたし、たしか、セトを召喚するために地下の書庫に――」言いながら、ぐるりを見渡したユリアが、困惑しているような表情でセトへと視線を戻す。「もしかして、ここまで運んできてくれたのって……セト?」

「はい、そうなりますね」


 他人事のように肯定の返事をして、セトはカップを置いた。カップの口をつけた部分を、人差し指と親指とでつまむように拭い、セトは語る。


 あの奇妙な空間でユリアと出会ったあと。気がつくと、セトは本の積みあげられた見知らぬ部屋にいた。そこで、改めて自分の肉体が存在していることを確認したセトが周囲の探索をしていたところ、無数の本の下敷きになって意識を失っているユリアを見つけたのだ。大方、積みあげてあった本が崩れたのだろう。とりあえず息があることをたしかめ、セトはユリアを休ませるための場所をさがして家の中を歩き回った。その最中でわかったことは、どうにもこの家が人里離れた森かどこかに建っているらしいということと、ユリアが一人で暮らしているらしいということ、そして、


「ボクの想像以上に、キミが重たかったということくらいです」

「うるさいセトの馬鹿!」


 ユリアによって投げられた枕が、セトの顔面に直撃する。セトは盛大に椅子ごと後ろへとひっくり返り、床で後頭部を強打した。小さなうめき声が、口からこぼれる。けれども、セトは枕を投げつけられたことも、打ちつけた後頭部の痛みも気にはならなかった――ただひとつ、ユリアの口にした言葉以外は。


「心外です。状況が呑みこみきれていないとはいえ、ボクは馬鹿扱いされるほど頭の悪い人間じゃないです」


 起きあがった拍子に外れてしまったフードを直すこともせず、セトはふくれっ面でユリアを見た。先天性色素欠乏症――アルビノであるセトにとって、明るい日差しの射しこむその部屋は、いささかまぶしく感じられる。けれど、その中にいるユリアを睨むように見据え、セトはおもむろに口を開いた。


「そもそも、キミはなぜ“存在している”んですか?」


 静かな声音で、セトは問う。しかし、ユリアはその問いかけの意味がわからないようだった。もともと丸い目をさらに丸くして、そこにセトの姿を映しだすだけ。セトはユリアから目をそらすことなく、それを細めた。


「リ・コーダーの存在は、アカシック・レコードに一切記録されていない。それゆえに、リ・コーダーには、アカシックの歪みを正そうとする力によって、内外から修正の力がかけられている」


 これは、キミ自身が言ったことです。と、セトは言う。


「そしてその内、物質的な修正の力に対する対策として、守護者となるガーディアンをリ・コードによって召喚し、外敵を退ける。対する概念的な修正の力への対策として推測できるのは、やはり、リ・コードという能力ですが……ここで矛盾が生じます」


 人差し指を立て、セトは続けた。


「ボクの推測では、リ・コーダーは自身の存在を維持するために、概念的な修正の力に対して、常に自身の存在というものをリ・コードし続けなくてはならないはずです。しかし、リ・コーダーに関する情報は、アカシック・レコードに一切記録されていない――つまり、リ・コーダー自身を形成しているアカシック・コードは確認する術がないという状態ですが、キミは今ボクの目の前に存在しています。なぜですか?」


 微動だにすることなく、セトは言葉でユリアに詰め寄る。「なぜ、理論上では存在し得ないはずのキミが、ここに存在しているんですか?」


「え、ええと」

「答えることができないとなると、ボクはキミの話が嘘であると判断して帰らせてもらいますが、かまいませんか?」


 淡々とセトが告げると、そこでようやくユリアは我に返ったようすだった。「ま、待って!」と、ユリアの大きな声が響く。


「今は、あなたが生きていた時代とは違うの!」


 そう声を大きくしながら、ユリアは慌てたようにベッドから飛び降りてくる。


「もしかしたら、国だって違ってるかもしれなくて」

「では、それを証明してみせてください」セトは、ユリアを一蹴した。「先ほどの質問への回答でもかまいませんが」


 あくまで冷静に受け答えするセトに、ユリアは言葉をさがすかのように目を伏せる。そして、ぽつり、ぽつりと話しだした。


「……リ・コーダーは生まれつき、自分を形成するアカシック・コードを無意識のうちに理解していて“自分が存在している”ことをリ・コードしてるの。どうして理解できているのかはわからないし、無意識のことだから自分を形成するアカシック・コードを誰かに伝えることもできないんだけど、リ・コーダーとして生まれたんだったらそれは当たり前のことで……」


 だから、リ・コーダーが存在する理由を証明するのは難しい。ユリアがそう続けようとしているのを察して、セトは目を閉じた。


「なるほど。証明はできていませんが、矛盾はありません。たしかに、生まれつきリ・コーダーであり、自身を形成するアカシック・コードを理解しているというのなら、無意識下で自身の存在をリ・コードによって構築していたとしても、おかしくはありません。そうでなければ、生命として誕生することそのものが不可能です」


 ただ、それでもまだ理解できないことがある。アカシック・レコードに記されていないリ・コーダーという存在が誕生できる理由。セトには、神にも等しいアカシックから認められていない存在が、なんのきっかけもなしに、この世に誕生できるとは思えない。あるいは、アカシックの力が及ばない何かが、リ・コーダー誕生のきっかけとなっているのでは――


 目を閉じたまま、口もとに手をやり、セトは思考にふける。すると、ユリアの動く気配がした。かと思えば、首もとをするりとかすめる手の感触。セトは驚いて目を開いた。けれど、とたんに目を刺した窓からの日差しに、思わず、セトは顔をしかめる。


 まぶしい。胸のうちで苦々しく呟いたとき、セトの頭に慣れた感触が戻ってきた。わずかではあるけれど、光を遮って落ちた影。自分の着ている服のフードだと、すぐに気づいた。瞬きを繰り返してセトが光に目を慣らしたのなら、明るい日差しの中に、困ったように笑う少女の顔がある。


「ごめんなさい、まぶしかったよね。今、カーテンを閉めるから」


 言うや否や、ユリアは小走りに窓へと駆け寄って、カーテンを閉めた。セトの目を刺激する光が、微かに弱くなる。知らず、セトはユリアの駆けていったほうへと目をやっていた。


 日差しのこぼれる窓から窓へと駆けていっては、ユリアは分厚いカーテンで、その光を遮断していく。全体的に色あせている部屋の中で、自身の存在を主張する濃いワインレッドのカーテン。それが閉ざされていく度に、部屋は暗くなり、セトを刺激する光も大人しくなっていく。最後のカーテンが閉じられるのを見届けて、セトは呟くようにユリアの背中へと問いかけた。


「キミは、ボクがアルビノであることを知っていたんですか?」

「え?」きょとんとしたユリアが、セトを振り返る。「それは、見ればわかるよ。だって、セトの髪は白いし、目だって赤いもの」


 当然のように告げられたユリアの言葉に、セトは少しだけ目を細めた。「……そうですか」


 一言そう口にして、セトはゆっくりと立ちあがる。飲みかけの紅茶を飲もうとカップに手を伸ばしかけ、そこで、倒れたままになっている椅子に意識がいった。一瞬、セトは椅子を起こそうかと考え――そして、面倒だという結論に至った。


 テーブルの上のティーカップを手に取ったあと、再び、暗くなった部屋の床に座りこむ。そんなセトの一連の行動を見ていたのだろう。ユリアが妙な顔をしていることには気づいたけれど、気にせずセトは紅茶を口へ運んだ。セトが紅茶をすする音が、いやに静かな室内に響く。低い鐘の音が、さらにそれに重なった。


「あ、もうお昼だね」


 部屋のすみにあった振り子時計を見あげ、ユリアが言う。「お肉は今はないし……お昼ごはん、お魚のムニエルでいいかな?」


 それに対して、セトは紅茶をすすりながら、くぐもった声で返す。


「嫌です。ハンバーグがいいです」


 はっきりと意見と要望を告げたところ、なぜか、ユリアは黙ってしまった。セトはそのことに軽く首をかしげ、そして「ああ」と指を立てる。


「付け合わせにニンジンはいりません。嫌いなので」

「そこまで聞いてないよ!」


 ぴしゃりと、怒ったような声でユリアに返された。


 ――解せない。食べたくないことを正直に述べ、代案として食べたいものを挙げ、さらには絶対に自分が残すであろうものを伝えたというのに、どうして怒られなければならないのか。自然と眉を寄せるセトに、けれども、ユリアはため息を吐いただけだった。


「あのね、セト。さっきも言ったけど、今はお肉は家に置いてなくて」

「だからどうしたというんです?」心底、奇妙な話だと思って、セトは問う。「キミはリ・コーダーで、キミがリ・コードすることによって“どんな奇跡も起こせる”んでしょう? アカシック・レコードを書き換え、肉が“ここに在る”ことにしてしまえばいいんじゃないんですか?」


 すると、ユリアはセトから顔を逸らした。ワインレッドのカーテンが、きつく握りしめられる。


「……できないの」

「はい?」セトが怪訝な顔で首をかしげば、ユリアは続けた。


「今のわたしの力じゃ、これ以上のものをリ・コードすると、キャパシティ・オーバーになってしまうから」

「キャパシティ・オーバー……念のために聞いておきますが、それはどういう状態を指すのですか?」

「言葉どおりだよ」


 ユリアの目が、静かに伏せられる。


「アカシック・レコードに記録されていないのは、厳密に言うと、リ・コーダーだけじゃないの。リ・コーダーと深く関わりを持っているものや、リ・コーダーがリ・コードしたことによって存在するもの――すべてが、アカシックの意思に反するものなの。だから」

「“常に修正の力がかかる”」


 繋がるはずだっただろう言葉を引き継いで、セトは呟いた。ユリアが、セトを振り返る。セトは意味もなくカップを揺らして、波打つ液体を見おろした。


「それはつまり、現状を維持するためには、キミが“常にリ・コードをし続ける”必要があるということです」


 セトはティーポットを手に取り、その中に入っていた紅茶をカップに注ぐ。カップいっぱいに注がれた状態になっても、それを続けると、カップのふちから、注がれた分だけの紅茶があふれ出る。そのようすを見届けて、セトはユリアへと視線を戻した。「ユリア、キミが言いたいのはこういうことですね?」


 例えば、リ・コーダーの力量をティーカップのような器に見立て、リ・コードし続けるものを器に注がれた紅茶とした場合。カップに入る容量を超えてもなお注がれた紅茶は、今のようにカップからあふれ、留めることはできない。ユリアの言うキャパシティ・オーバーとは、まさしく容量超過を意味している。


「ボクが推測したところでは、キャパシティ・オーバーぎりぎりまで能力を使っているのは、ガーディアンであるボクという存在そのものですが――そんな程度の力量で、ボクを苦しめるものをなくすことができるとは思えません。ハンバーグを作る挽き肉すら、リ・コードできないんですし」


 言いながら、セトは身体をかがめるようにして、なみなみと紅茶の注がれたカップに口をつける。とたん、ユリアがむすりとした。


「もう、わかったよ! そんなにハンバーグがいいなら、わたし、お肉買ってくる。セトは留守番してて」


 ユリアのその言葉に、セトはちょっと目を大きくする。


「いいんですか?」

「何言ってるの。セトがムニエルは嫌だって言ったんじゃない」

「いえ、そうじゃないです。本当にボクが留守番をしていていいのかと聞いているんです」


 リ・コーダーであるユリアには、常にアカシックによって物理的な攻撃を加えられる可能性がある。そして、その攻撃を払うために、セトはガーディアンとして彼女に召喚された。だというのに、ユリアがガーディアンであるセトを家に残して、一人で買いものに出かけるのでは守りようがない。もっとも、セト個人としては、出かけるのは面倒くさいので願ったり叶ったりなのだが、どうにもユリアの意図がつかめない――怪訝な思いでユリアに目で問うと、彼女は少しだけ言葉に詰まった。そうして、どこか困ったように眉を寄せる。


「だって、まだ日が高いし……アルビノの人は紫外線に弱いんでしょ?」

「はい、そうですね。ボクも日光は好きじゃないです」

「だったら、しかたないじゃない」と、ユリアはそう言った。「セトの具合が悪くなったら困るもの」


 それは、ガーディアンが体調を崩して、いざというときに頼れなくなることに対してだろうか。とはいえ、そうであるのならば、そもそも自分がユリアの“身を守るための手段”として選ばれたことが理解できない――


 しばし、セトは目を閉じて逡巡する。それから、ゆっくりと目を開けて、ユリアを見た。


「気が変わりました。ボクも一緒に行きます」

「え? で、でも」

「ただし、出かけるのは日が落ちたあとです。昼食は魚のムニエルで我慢します。これなら、かまいませんね?」


 現段階で、ユリアが同行を渋るだろう事柄に対する打開策を提示して、セトは笑う。ユリアが反対することはないと、半ば確信していたからこその笑みだった。ユリアは、しばし考えこんでいたようだったものの、やがて、セトの思惑どおりにうなずいた。


「セトがそれでいいならいいよ。でも、寄り道はできないからね。街までは少し歩かなくちゃいけないの」

「キミはボクをなんだと思っているんです? 子どもじゃないんですから寄り道なんてしませんよ」


 紅茶を飲み干し、カップのふちを拭いながらセトが言ったところ、どういうわけか、そこでまたユリアが沈黙した。さっきから、どうしたというのだろうか。不思議に思って、セトはまじまじとユリアを見る。「どうかしましたか、ユリア」


 すると、ユリアは「なんでもない」と、かぶりを振った。


「そうですか」


 セトは、うなずいた。


「では、早く食事を作ってください。お腹が空きました」


 ぽつりと、ユリアが呟く。「……大きな子ども」


 そのとき、ちょうど部屋のすみに置かれたノートパソコンへと目を向けていたセトは、ユリアを振り返って首をかしげた。


「はい? なんですか、それは」

「なんでもないったら――それじゃあ、わたしはお昼ごはんを作って来るから、セトは大人しくしててよ」

「それでは、棚の本をお借りしても?」

「本? それくらい断らなくても好きにしていいよ。クローゼットの中は、さすがに困るけど……」

「安心してください。ボクはそんなつまらないものに興味はありませんので」


 そう返すと、セトはさっさと本の背表紙へ目を走らせ始める。ため息を吐いたユリアが、部屋を後にする足音を耳にしながら――



  ※



 やがて日が落ち、森の虫たちが鳴き始める。外套を羽織ったユリアが玄関に立って、セトを振り返った。


「セト、何してるの? 早くしないと、お肉屋さん閉まっちゃうよ」

「わかってます。今行きます」


 開いた本に目を落としたまま答え、セトは部屋の床から立ちあがる。背中を丸めながら、玄関から数歩ほど離れた距離まで来たとき、ふと何気ないようにユリアが言った。


「セトって猫背だよね」


 思わず、閉じようとしていた本を持つ手に力がこもる。勢いよく閉じられた本の音に、ユリアが少し飛びあがった。


「他人から見たボクの印象の一つとして挙げられるものが、それであるということは理解しています。ですが、一応これでも気にしているので、あまり言わないでください。次に言ったら一週間、口を利きません」

「え、あ――ごめん」

「わかったなら、いいです」


 呆気に取られているユリアの横を通りすぎ、セトはドアをくぐって外へと出る。空には月が昇りかけていたものの、西のほうはまだ燃えるような色を残している。セトが目深にフードをかぶって待っていると、戸締まりを終えたユリアが駆け足で追いついてきた。


 ユリアの住む家は、古めかしいレンガ造りの家だった。壁の一部は蔓性の植物に覆われ、その先は煙突にまでとどいている。その一方で、庭には花壇や鉢植えがあり、さまざまな花が咲き並んでいる。おそらく、こちらはユリアが頻繁に手入れをしているのだろう。井戸の近くには、使い古されたジョウロが置かれていた。


「ねえ、セト? えっと……その本、気に入ったの?」


 先ほど、セトの地雷を踏んでしまったことを気にしているのか。ユリアがおずおずといったようすで、声をかけてくる。セトはユリアの問いかけに対して、小脇に抱えた――持ち歩くには、少しばかり不便な――厚めの本を、ちらりと一瞥した。それから、すぐに視線を前へと戻す。


「はい、ちょうどさがしていたものだったので」


 セトが言葉を返したら、ユリアは見るからにほっとしたようだった。細く息を吐いて、まじまじとセトの抱える本を見る。


「たしかそれ、世界各地の伝承の本だよね。“ちょうどさがしてた”って言ったけど……セトはそういうの、好きだっけ?」

「いえ、これといっては」

「え? じゃあ、なんでさがしてたの? それに、こんなときまで持ち歩いて」

「女性との買いものは厄介だと聞いたことがあるので」

「いや、お肉を買うだけなんだから、そんな厄介なこととかないよ」


 ユリアが苦笑するのを見て、だけれど、セトは小さく呟いた。「そうであればいいんですが」


「どういうこと?」

「いずれ、わかります」


 短く返して、セトは口を閉じる。ユリアは不思議そうにしていたけれど、セトに言うつもりがないと察したようで、それ以上の追求をしてくることはなかった。


 ユリアに連れられ、セトが訪れたのは、レンガ造りの建物が並ぶ古風な街だった。建物のあちらこちらには修復された痕跡があり、ユリアからは、国の遺産として当時の街の景観を可能な限り維持するように定められていたはずだと聞かされた。ユリアの言葉が断定的でないのには、彼女自身が長らく街を訪れていなかったためであるらしい。幸い、街の景観を守ってきたここでは、彼女のおぼろげな記憶がまだ通用したため、すんなりと肉屋へたどり着くことができたものの、下手を打てば、ユリアに街中を連れ回されるところだった。


 セトは何事もなく肉屋へと入っていったユリアを見送り、建物の壁に背中を預けた。持ってきた本を開き、ユリアが店から出てくるのを待つ。外はまだ寒いからと、ユリアには一緒に中へ入るよう言われたのだけれども、セトは首を振ることでそれを拒んだ。通りを行き交う人々には目もくれず、視界に入る無数の文字を読み解き、情報を知識として頭に入れていきながら――ひたすらに、セトは警戒する。かつて、生きていたころと同じように、恐れを抱いて警戒する。きっと、それは誰かのためであり、誰のためでもないのだろうと、セトは思う。


 セトが願い、祈ることができるのは、ただひとつ。自らが犯してしまった過ちの、その清算だけ――


 通りを吹き抜けた風が、どこか物悲しく鳴いた。


 そして、それは突然。本に目を落としていたセトの前。そこを通りすぎようとしていた一人の男が、動いた。


 閃く鈍色。石畳を蹴って、セトはそれをかわす。けれど、微かにその先端がかすめた。布の裂ける音。振り抜かれたナイフが、街灯の明かりに、ぎらりと光る。本を片手に開いたまま、空いた手で腹部を押さえ、セトは背中を丸めた。


「通り魔ですか。こちらも物騒になりました」


 口ではそう言いつつも、セトには確信めいた思いがあった。これは、起こるべくして起こったことだと。目の前の男は、ただの通り魔ではなく、アカシックの修正の力に突き動かされた人間であると。


 では、どうするべきなのか。セトが思考を巡らせようとしたとき、通行人の悲鳴に混じって、ユリアの叫び声が聞こえた。「セト!」


 どうやら、ちょうど店から出てきたところだったらしい。買いもの袋を提げたユリアの姿を男の後ろに見つけ、セトは内心で歯噛みした。


 不幸中の幸いというべきなのか。ユリアの叫びは、その他大勢の悲鳴に紛れて、男の耳には届いていないようではある。とはいえ、ユリアが男の近くにいるという状況は、好ましいはずがなかった。


 セトは、男のナイフがかすめた腹部を押さえる手に力をこめながら、じりじりと後退する。このままではセトのみならず、ユリアもまた、この白刃の餌食になる。誰かに助けを求めたいところではあるが、この世界にセトやユリアの味方などは存在しないと考えるのが妥当だ。現に通行人たちは逃げ惑うばかりで、警察を呼ぶことすら思いつかない――否、この場合は警察も味方にはなり得ないと考えるべきか。


 瞬時に思考を巡らせたセトは、身をひるがえして路地裏に駆けこんだ。男はナイフを振って通行人を追い払うと、すぐにセトのあとを追いかけてくる。ユリアの声を背中で聞きながらも、セトはただ路地裏の奥へと走った。


 切り裂かれた上着のポケットの隙間。そこから、指先へと伝わる感触に顔をしかめる。


「――本当は、使いたくはなかった」


 ぽつりと、口から小さく言葉がこぼれた。だけど、それでも、セトは使わざるを得ない。あくまで、セトは“非力な科学者”として生きてきたのだから。


 十字路で、おもむろに足を止めたセトは、追いかけてくる男を振り返り、手中に収めていたそれを投げつけた。金属質のそれが、硬い音をたてて地面に転がる。瞬間、細い路地は瞳を貫くような閃光と、爆音に満たされた。


「セト!」


 悲痛な声が、呼んでいる。けれどもそれは、爆音の最中では微かなもの。その音を耳で拾い取れたのは、ただただ幸運なことだったとしかいえない。


「逃げるが勝ちですね」


 入ったときとは別の路地から通りへと顔を出し、セトは腹部を庇っていた手を離した。そうして、ユリアの手を取る。閃光弾の光と爆音に気を取られている街の人間を残し、二人は走りだした。セトとユリアとでは、歩幅が違う。走っている間、何度かユリアがつまずきそうになっていたことには気づいていたものの、足を止めているだけの余裕はなかった。


 セトが安全だろうと判断したのは、街外れの森に入っていくらか走った後。木立の中で足を止めたセトは、息を整えながら、そこで初めてユリアを振り返り――思わず、目を丸くした。


 月明かりに照らし出されたユリアの碧い瞳からは、大粒の雫があふれていた。泣いている。セトの頭の中に浮かんだのは、そんな言葉だけだった。一目瞭然の事実を認識しただけで、他には何も浮かんではこない。どうしていいのかわからず、セトが握っていた手を離そうとしたら、逆に強い力でつかまれた。


「ユリア――?」


 戸惑いながらも、その名前を口にする。返事はなかった。ユリアの震える手が、セトの腹部へと伸ばされる。先刻、通り魔の振るったナイフがかすめたところだった。


 そこでようやく、セトは少女が泣いている理由を理解する。口で言うよりも、実際に確認したほうがいいだろうと考え、セトはユリアを止めなかった。


 怯えるように、けれども、やさしく、ユリアの手が裂けた服の上から腹部を撫でる。かといって、それでセトの腹部に痛みが走ることはない。


「安心してください。あの男のナイフが切り裂いたのは、ボクの服だけです」


 セトの言葉に、ユリアは弾かれたように顔をあげた。まっすぐに向けられたユリアの視線を受け止め、セトは続ける。「ポケットの中に閃光弾をしこんでいました。先ほどの光と音の正体は、それです」


 ユリアは目を大きくしたまま、必死にセトの言葉を理解しようとしているようだった。そうしてやがて、その意味を理解したのか、顔をくしゃくしゃに歪める。ぼろぼろとこぼれ落ちる雫が、月明かりに光った。ずっと引き結ばれていた唇が、ふいに緩む。


「よかった……」


 蚊の鳴くようなか細い声で、そう呟いた。かと思えば、ユリアはセトの服にしがみついてきた。セトのそれよりも細い腕が、指が、驚くほどの力でもって、すがりついてくる。だのに、どうしてか、セトの目には、その身体が今にも崩れ落ちそうに見えてならなかった。ためらう手で、セトはユリアの身体を支える。


「心配、してくれたんですか」


 セトの問いかけに、ユリアは泣きじゃくりながら、ただただ何度もうなずいた。セトの中で、決して相容れない感情が再び渦を巻く。


 暗い宵闇の中。鏡もない森の中では、セトが自分の表情を確認する術などなかった。けれど、セトは思った。今の自分は、きっと、子どものように泣きじゃくるこの少女のような顔をしているのだろうと。


 どうすればいいのかなど、セトにはわからなかった。泣き続けるユリアを家まで連れて帰り、少女が泣き疲れて眠るまで、ただその傍にいた。目もとを腫らし、ベッドの中でようやく眠りについたユリアの寝顔は、ひどく幼く見える。そのあどけない寝顔を見つめて、セトはしばしの間、物思いにふけっていた。時計の秒針が時を刻む音と、ユリアの寝息だけが、部屋を満たしていく。


 やがて、セトは音をたてないようにベッドから離れた。カーテンで閉めきられた窓へと歩み寄り、手を伸ばす。やはりと、セトは口の中で呟いた。セトが触れたカーテンは、まだ新しい。生地の厚さを考えると、おそらくは遮光カーテン。


 この部屋の日当たりは、良好だ。かといって、西日がきついということもない。常人からしてみれば、遮光カーテンなんてものは必要ないはずだ。だというのに、この部屋――否、この家中のカーテンが、つい最近、これと同じものへと変えられている。念のため、ひととおり部屋を物色してはみたものの、日の光で変質してしまうようなものなどは、特に見つからなかった。家主であるユリアの肌もまた、ほどよく日に焼けていることから、彼女が暗い部屋を好む性格ではないというのは容易に推測できる。そうなると、今ここで日の光を嫌うものは、ただひとつだけ――


「ユリア・セブンフィールズ、キミは何を考えている?」


 返る答えがないと知りながら、セトは眠るユリアへと問いかける。


 そもそも、なぜユリアはセトが斬りつけられたことで泣いたのだろうか。セトが死ぬとでも思ったのだろうか。


 だとしたのならば、なおさらおかしい。すでにセトは一度死んだような存在だ。今ここで息をしているセトは、リ・コーダーであるユリアの手によって召喚された、よみがえっただけの存在だ。仮にセトが死んだとしても、再び召喚すればいいだけの話ではないのか。あるいは、ユリアにそうすることができない理由があるとでもいうのか――否、あったとしてもセトにはわからない。


「キミは、なぜそうまでボクにこだわる?」


 ガーディアンを召喚するにあたって、ユリアは生前のセトを知った。だからこそ、彼女はセトをガーディアンとして選んだ。ならば、ユリアはセトを哀れみ、同情したというのだろうか。セトという存在にこだわるのは、それが理由だとでもいうのだろうか。


 だが、そうであっても、おそらくは彼女の持つ知識は断片的なものでしかない。すべてを知っていたのなら、ユリアが自分を選ぶはずはない。


「キミは、どこまでボクのことを知っている――」


 本を抱える手に力をこめながら、セトは自身の服の胸もとを、きつく握りしめた。

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