Akashic Re:Code

由良辺みこと

序幕:出逢い

 街の賑わいから離れた薄暗い路地裏。まるで、身を隠すかのようにして男は低く地べたに座りこみ、電子端末を操作していた。よどみなく、巧みにキーボードを操るその手は、けれども、ひどく震え、ひどく汗ばんでいる。男は、自らの導きだした可能性に怯えていた。どうか、どうか自分の思い違いであってくれと、そう祈るような思いで、一心不乱に文字を打ちこみ続ける。


 ところが、ふいに男の手は止まる。乾いた唇が、音にならない言葉を形づくった。震える手は端末から離れ、力なく、おろされる。呆然と端末の画面を見つめたまま、男は呟いた。


「ボクは、取り返しのつかないことをしてしまった」


 目深にかぶったフードごと、頭を抱える。男の中にあったのは、例えようのない絶望だけだった。


 はじまりは、自分の生まれ持ったこの力を、才能を、試してみたいがためだった。本当に、ただそれだけだった。それが、なぜこんなことになってしまったのだろうか。過ぎたるものはいずれ己の身を滅ぼす――かつて、男の育ての親が言っていた言葉。今になって思い出したところで、すべては手遅れだというのに。


 そのとき、男の視界に影がかかった。「おにいちゃん、どうしたの? どこか、いたいの?」


 あどけない少女の声。男は弾かれたように顔をあげる。いつの間にか、男の前には見知らぬ少女が立っていた。何も知らない無垢な瞳が、男を見つめている。遠くから、母親と思しき女の声が聞こえてくる。そんなところで何をしてるの、具合の悪そうなおにいちゃんがいるの、まあどうしたのかしら病院まで歩けるといいのだけれどもしそこのお方――


 他意などはない、純粋な親切だった。ただ男の身を案じて声をかけてきた母娘に、けれども、男は開きかけた口を閉じた。歯を食いしばり、怯えるそれを隠すように、きつくこぶしを握る。


 そうして、男は母娘の前から逃げだした。呼び止めようとする声が聞こえてきても、振り返ることすらしない。それどころか、両手で耳を塞ぎ、早口に呟く。だめだと、だめなのだと、そう何度も繰り返す。


「ボクは誰とも関わってはならない――どんな人間であろうと、これを知れば、必ず――」


 差し伸べられる手も、追いすがる声も、男は一様に振りきって、逃げた。人ひとり寄せつけず、この世のありとあらゆるものを恐れているかのように、男はひたすら何もいない場所を探し求めた。


 やがて、男が行き着いた先は、廃棄された町工場だった。薬品と埃にまみれ、よどんだ空気が充満する廃工場には、人はおろか、鳥や獣さえも近づかない。男は、ろくにものを食べることもせず、眠ることもせず、ただ息を潜めて、工場の最奥に隠れ住んだ。無音の孤独に打ち震えながら、それでも、どうか誰も気づいてくれるなと、誰も見つけてくれるなと、信じてもいない神に祈った。


 あるいは、男が敬虔な信者であり、心から神に祈っていたのであれば、果たしてその結末は変わっていたのか。それとも、神の力でもってさえも、男の負った運命を変えることはできなかったのか。男が工場に隠れ住むようになってから数週間が経ったころ。男の切なる祈りも虚しく、それはやってきてしまった。


「あの男の持つ技術は切り札になる! 何があっても必ず見つけだせ、必ずだ!」


 荒々しい男の声が、聞こえてくる。無数の足音が響く中、男は息を潜めながら端末のキーをひとつ叩いた。とたん、どこかでした――ひとつの爆発音。続いてひとつ、端末のキーが叩かれる。再び、爆発音が響いた。


「なんだ、何が起こった!」

「あいつだ、あの男の仕業だ!」


 男がキーを叩く度に、爆音が轟く。壁越しに届く声に、焦りの色がにじんでいく。


「くそ、完全に退路を断たれたぞ!」

「落ち着け! まだ奴はこの辺りに潜んでいるはずだ! 力づくで止めろ!」


 その言葉とともに、部屋の扉が勢いよく開かれた。黒服の男たちが、暗がりの部屋へとなだれこんでくる。「いたぞ!」と、黒服の一人が声をあげた。それを待っていたかのように、男は黒服の男たちに顔を向ける。そして、その口もとに薄らと笑みを浮かべた。


「アナタたちの敗因は、ボクのテリトリーに入ってきたことです。ボクにまつわるすべては、ボクがこの手で抹消します。こんなものは、あってはならない」


 そして、男は一冊の黒い手帳を握りつぶし、最後のキーを叩く。光が、熱が、衝撃が、男を襲い、廃工場を呑みこんだ。それが、


「それが、あなたの最期だった」


 ふいに聞こえた声に、男の意識が覚醒する。開けた視界に映ったのは、白一色で塗りつぶされた奇妙な空間と、そこに佇む一人の少女の姿だった。


 ――自分は、誰とも関わってはいけない。


 長いこと自身に言い聞かせ続けてきた言葉が、反射的に男を動かす。男は床とも地べたともつかない場所にへたりこんだまま後じさろうとして、ようやく気づいた。爆発によって粉々に吹き飛んだはずの自分の身体が、まだ存在しているということに。


 なぜ。思わず男が触れた左胸から伝わるのは、規則的な鼓動。紛れもない生命の証、心臓の音――


 これは、なんだ。何が、起こっている。


 その思考は混乱の最中にあったものの、男はあくまで冷静に事態の把握に努めた。目を細くし、注意深く周囲を観察しながら、先ほど聞こえた声を思い返す。


 ――それが、あなたのサイゴだった。


 声のトーンは落ち着いていたけれど、その声色は高く、どこか、あどけなさを残していた。大人ではなく、男でもない声。周囲に他の人影がないことから、男は先刻の声の主が眼前に佇む少女であると判断した。次いで、先刻の声が紡いだ言葉。あれは、男自身に向けられたもののように思えた。それも、まるで男がすでに死んでいること、ましてや、その生涯までをも知っているかのような、


「キミは“何”です?」


 男が、その問いを目の前の少女に問いかけるまでに要した時間は、一秒となかった。男の目には、この空間よりも何よりも、少女の存在のほうが奇怪に映った。なぜなら、男にとって、すべては終わった――否、“終わらせた”はずのものであったのだから。


 一方で、男から警戒に満ちた眼差しを向けられた少女は、微かに瞳を揺らした。果たして、それは男の反応へ対する驚きか、恐れか。けれども、少女の顔にはすぐに穏やかな表情が浮かぶ。


「わたしは、リ・コーダー。すべての魂を司るコードを操る者――なんて言っても、やっぱりわからないかな」


 少女は、にこりと笑った。


「あなたは、アカシック・レコードって知ってる?」


 投げかけられたのは、唐突とも思える問い。男は目を眇め、これに短く答えた。「……一応は」


 アカシック・レコードとは、一般的に、過去、現在、未来において、この世界で起きるすべての事柄が記録された神の帳簿のことを指す。この世のすべての喜劇と悲劇が記されたいわば台本のようなものであり、人が“運命”や“宿命”と呼ぶ、決して抗えないもの。


 けれど、少女は言う。そのアカシック・レコードには、“一切記録されていないもの”が、ひとつだけあると。


「それが、わたしたちリ・コーダーなの」


 リ・コーダーは、アカシック・レコードを構成する言語であるアカシック・コードを用いることで、その記録を改竄――リ・コードする存在なのだと、少女は言った。


「わたしたちリ・コーダーは、どんな奇跡も起こせる力を持ってる。でも、一方でアカシック・レコードに宿る意思――アカシックからは、修正の力をかけられてもいる」


 アカシックは、“本来ならば存在しないはずの異物”をアカシック・レコードの歪みと判断する。ゆえに、アカシックは自らの記録を正しく、在るべき状態へと戻すため、歪みとなる異物を消去させようと力を働かせる。それは、人々の無意識に働きかけ、物理的に異物を排除させる力であったり、異物を構築するアカシック・コードを書き換え、概念的に排除する力であったりする。「だから」と、少女は笑った。


「わたしは、あなたをガーディアンに選んだの」

「ガーディアン?」


 それが、何がしかの役割を持ったものの呼び名だということは、わかる。けれど、おそらく男はその呼び名に関する正しい知識を持ち合わせてはいない。男が首をかしげて聞き返せば、少女は「そう」と、うなずいた。


「ガーディアンっていうのは、リ・コーダーが自分の身を守るために、アカシック・レコードの中から選んだ守護者のこと。大体は、悲運の死を遂げてしまった人たちが選ばれるんだけど、リ・コーダーはその人の過去を望むものへとリ・コードすることを条件に、自分を守ってもらうの」


 悲運の死――その言葉を口の中で繰り返し、男は言った。


「それで、ボクがキミのガーディアンとして選ばれたわけですか」


 たしかに、男の生涯は幸運なものであったとは言いがたい。男が自ら選んだ死さえも、傍から見たのならば、悲運なものでしかなかっただろう。そして、それがゆえに、少女は続けるのだ。


「わたしは、まだまだ未熟なリ・コーダーだけど、あなた一人だけを過去から現代によみがえらせることくらいならできる。そしたら、わたしも、がんばるから。あなたを苦しめるものなんてなくせるように、がんばるから」


 そう言って、少女はその白い手を差し伸べてくる。「だから、もうひとりぼっちで生きていかなくていいんだよ」


 それらは、男が切望することに他ならなかった。少女の甘言に、ふたつの思いが男の胸の内で渦を巻く。不可能だと、あきらめろと告げる声。首をもたげる“まだ終わってはいないのかもしれない”という可能性――


 気がつけば、男は少女へと手を伸ばしていた。自身のそれよりも一回り二回りも小さいその手を、すがるような思いで握りしめ、男は少女の瞳を見据える。まっすぐな碧い瞳に、膝をつく男自身の姿が映りこんでいた。


「ひとつだけ、予言しましょう――キミは、必ず、後悔する」


 けれど、目の前の少女は、その言葉の真意を問おうとすることもしない。ただ、屈託もなく笑っただけだった。


「わたしは、ユリア・セブンフィールズ。あなたは?」

「セトです」


 それが、男セトと、少女ユリアの出会いだった。

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