第2話 駄菓子屋のおばあさん

 懐かしい風に誘われ、道彦は風上に向かって歩いていた。

 どこか記憶の奥底にみたことのある景色と匂いを感じる。

 小さな角を曲がると、そこには、寂れた駄菓子屋が一軒現れた。

 道彦は、一瞬、頭のてっぺんに痛みを感じた。

 痛みというよりは衝撃波を受けたようだった。

 記憶の奥底にある引き出しが開かれた。

 それは本来、閉ざされたままにあるはずの引き出しだったのかもしれない。

 六歳の道彦が駄菓子屋の前に佇んでいる。

 彼は、店の中をそっと覗いている。

 道彦も六歳の自分と一緒に、中を覗いてみるが、暗くてよくみえない。

 彼は、店の中程にある一つの棚の下あたりを見詰めたまま微動だにしなかった。

 道彦も彼と同じく音を立てることなく、その姿をみていた。

 六歳の自分が動いた。

 首を横に向け、店の更に奥をみていた。

 道彦もまた彼と同じく店の更に奥をみてみるがなにもみえない。

 いいや、二つの小さな光りがみえた。

 そのときだった。

 彼、六歳の自分は突如その場を立ち去っていた。

 道彦は、彼の走る後ろ姿を見送った。

 その右手には、なにか青いものがヒラヒラとしているように、道彦にはみて取れた。

 道彦は、またさっきと同じ痛みを頭のてっぺんに感じた。

 道彦は、思い出していた。

 六歳の頃、スナック菓子のおまけのヒーローもののカードが流行っていた。

 そのカードを何枚も保管できるホルダーが欲しくて欲しくて仕方なかった。

 しかしそれを手に入れるには、カードとは別に、当たりくじを引かないとならないものだった。

 そのホルダーがあの駄菓子屋にはあった。

 道彦は六歳の頃、そう、この駄菓子屋で、そのホルダーを盗んだのだった。

 道彦は、自分の仕出かした過ちを記憶の奥底に封印していたのだ。

 四十年以上もの間、忘れるという形で。

 道彦の目の前には、先程と変わらぬ風景があった。

 寂れた駄菓子屋が道彦の目の前にあった。

 そうだ、あのときのことを謝ろう、今更ではあるけれど、自分にケジメを付けよう、と道彦は思った。

 あのときのお婆さんはもういないだろうが、その息子なり娘がいるかもしれない。

 道彦は、駄菓子屋に足を踏み入れた。

 店には、昔ながらのお菓子や玩具が、ところ狭しと並んでいる。

 道彦は、本来の目的を忘れて、懐かしさの余り、色とりどりの駄菓子や玩具たちに、見入ってしまっていた。

「道彦ちゃんね? 道彦ちゃんじゃないの!」

 自分の名前を呼ばれ驚いて、声のする方に顔を向けると、道彦は息を飲んだ。

 そこには、あの六歳の頃と同じ、座布団の上に座っている、駄菓子屋のお婆さんの姿があった。

 四十数年前と何ら変わらない姿のお婆さんが、そこにいた。

 道彦は、腰が抜ける思いでいた。

 辛うじて、お婆さん、と声に出していえた。

 まだ生きてたの、と道彦の消え入りそうな声だった。

 お婆さんに届いたかどうかは、直ぐには、わからなかった。

「やっぱり、道彦ちゃんね」

 お婆さんの屈託のない笑顔が、道彦には眩しかった。

「冗談きついやあね。わたしゃ、お婆ちゃんの娘。でも、わたしも、もうお婆ちゃんやけどね」

 皺だらけの口を大きく開けて、高笑いする娘のお婆さんは、快活であった。

 姿はお婆さんであったが、話振りや笑い声は若かった。

「なんでぼくの名前を知ってるの」

 道彦は、一度引いた血の気が戻り、それに従って、思考も戻ってきていた。

「なあにを、子供んときとおんなじ顔しちょって、なあんばいっちょるの」

 娘お婆さんはまた豪快に笑う。

 散々笑い散らかすと、すっと奥に引っ込んで、直ぐに戻ってきた。

 その足取りも若さを感じた。

「道彦ちゃん、これ覚えておるけ?」

 娘お婆さんの手には、青いヒラヒラのホルダーがあった。

「ひっ!」

 道彦は気絶しそうになったが、呼吸を整えて言葉を繋いだ。

「それ、ぼくが盗んだホルダー……。どうしてここにあるの……」

「覚えていやしたけ、よかった。そう、一度は道彦ちゃんが盗んだホルダーや……」

「一度?」

 道彦は娘お婆さんがなにをいっているのかわからない。

「そう、一度。一度は盗んだけど、そのあと直ぐにお母さんと道彦ちゃんと店に来て、あんたは泣きながらお婆ちゃんに謝って返しにきたの、覚えてらんのけ?」

 道彦は記憶の奥底を探るが、その記憶は何処にもなかった。

 道彦は首を横に振った。

「お婆ちゃんは、盗んだのは悪いことだけど、正直に返しに来た道彦ちゃんを大層誉めてたんよ」

 道彦は手にしていた鞄を落とし、膝に手をついて聞いていた。

「こんど道彦ちゃんが来たときに、このホルダーをプレゼントしたい、っていって取っておいたんよ、お婆ちゃん。でも道彦ちゃんはあのあと直ぐにね、引っ越して行っちゃってね、渡せないでいたのね」

 道彦は肩を震わせた。

「でも良かった……。こうして無事、このホルダーが道彦ちゃんの元に届いたから……」

 お婆ちゃんも喜んでるよ、といって、奥の部屋の更に奥にある仏壇に、娘お婆さんは手を合わせた。

 道彦の目にもぼやけていたが、お婆さんの遺影が映っていた。

 道彦は駄菓子屋を後にした。

 手には、青いヒラヒラのホルダーがあった。

 道彦は振り返り、遠くにみえる駄菓子屋をもう一度この目に焼き付けた。

 深く深く頭を下げた。

 脳天にまたあの衝撃波を感じた。

 おぼろ気ながら、お婆さんの笑顔がみえた気がした。

 首筋を優しい風が過ぎるのを感じた。

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