第11話

 はっと目が覚めた。体を思い切り起き上がらせたつもりだったのに、実際は動いていないことを自覚する。

 ベッドの中にいると、冷静な部分で理解した。いつここに来たのか全く記憶にないが、とりあえずベッドの上にいるのだからもうなんでもいい。フィロはベッドの中で大きく息を吐いた。久しぶりにあんなにも鮮明な夢を見た。混乱する思考をいったん整理しながら、フィロは今度こそゆっくりと身体を起こしていった。

 首をめぐらせる。そこには、いつもと変わらない部屋の景色がある。

(……現実も、私には優しくない)

 夢の続きがそのまま現実につながっていることに、絶望感が襲ってきた。

 久しぶりに泣きたいと感じたが、涙が出てこない。出てくるはずがない。何を考え、思い、感じても、それらの感情すらも、今のフィロには理解できないものばかりだからだ。

 夢にまで見るほどの悪夢と絶望を植え付けてきたあの魔女は、ここまでのことを本当に望んでいたのだろうか。あんなにも優しく、そして厳しく自分に接してくれていたというのに。そんなにも、恨まれていたのだろうか。

(今更考えても仕方のないことなのに……)

 何を思っても、何を感じても。

 感情を全て置いてきたあの日にはもう戻れないし、戻ろうとも思わない。

 ベッドの上で上半身を起こしたまま、しばらくそんなとりとめもないことを考えていた。しかし、すぐに飽きた。何かを考えるということはとても疲れる。それが自分自身のこととなるとなおさら。それならば、いっそ何も考えなくていいのではないだろうか。フィロにとって受け入れる現実だけを見つめ、それ以外はすべて排除する。そう、忘れてしまえばいいのだ。

 自分が楽になる方法を見つけ出せ。自分が一番苦しくなくなる方法を探り当てろ。

 ――『ねえ、こんなにも恵まれ、幸せに暮らしているのなら一つぐらいの不幸があってもいいとは思わない、フィロ?』

 はっとした。そして、乾いた笑いがこみ上げてきた。

「なにが……」

 何が、一つぐらいの不幸なのか。あなたに呪いをかけられた瞬間、自分はすべての幸せがなくなった。考えれば考えるほど、虚しくなる。

 普通なら、婚約者がいてもおかしくないし、むしろ結婚してもいいぐらいの歳だ。それなのに、そんなもの自分にはない。それはそうだ。この国の国王は、自国だけに留めず、他国にまで自分の娘は呪いを持っていると言いふらしたのだから。誰がそんな姫を迎えようとするだろうか。

 誰だって、平和で安全な暮らしがしたいものだ。もしも自分に呪い持ちの何者かが来たら自分だって丁重に断る。

 そうやって、自分だった場合を考えては思わず笑いたくなる。そんなことを考えても、何もならないと分かっているのに、どうして人間という生き物はこんなにもくだらないことを考えることができるのか。

 どうなっても、自分が“断る”という立場に立つことは決してありえない。なぜなら、フィロ自身が“断られる”立場だからだ。なんておこがましいことを考えるのか。欲望には手がないのは人間の傲慢さであると思い知る。

「本当に、人間ってなんて傲慢な生き物なのかしら……」

 話から射止めることが大変だと思う程度には、この状況を客観的に見られる。

 どう足掻いてももう抜け出せないこの状況に。

 どうもがいても手を握ってもらえないこの環境に。

 絶望を見出したのはいつだっただろうか。

 ふと窓を見上げてみると、空は少し明るくなっている。夜明けが近いのだろう。しかし、時間の感覚なんて今のフィロにはどうでもいいことであった。朝が来たからといって、状況が変わるわけではない。毎日続いている“呪いを持った姫”という不名誉なものは無くならない。

 いっその事見捨ててくれと、両親に懇願できたならどれほどいいか。しかし、今の現状ではそれすらも出来ないのだ。どれほど泣き叫ぼうが、この部屋から外に出ることは許されない。毎日毎日、同じ景色を見て、同じ本を読んで、同じ時間に寝て、起きる――まるで人形のような生活をいつまで送らなければならないのか。

 むしろ、この年齢まで気が狂わなかったことに対して賞賛を送って欲しいくらいだと、フィロは思った。

 そんなことを考えていると、突然、部屋の扉が小さな音を立てて空いたのを自覚する。

 はっとして扉の方を振り返ると、そこにはあの青年が驚いた表情をして立っていた。

「……目が覚めたのか」

 その言葉と声音は、今までフィロが聞いたことのないほどの安堵と優しさと気遣いがこと持ったものだった。戸惑いを隠すことができなくなる。

「あなたは、倒れたんだ。夢と現実の区別がつかないほど混乱した後に」

 その言葉に、フィロはおもわず椅子から立ち上がった。

「あ、なたは……私に、触れたのですか……?」

「……断りもなく触れたことは、謝ろう」

 フィロの言葉に、申し訳なさそうに謝罪する青年を、しかしフィロは違うことに気を取られその言葉を聞いてすらいなかった。

「私に、触れたのですか…!? お体に異常は!? 何か、異変が起きているなどということはありませんか!? ま、さか……この身の呪いが、あなた様に移ってしまったなんてことは……! ああ、やはり、私は早くにここから消えなければならなかった……!」

「お、おい?」

「…っ、そうだわ、今からでも、国王陛下に進言すればなんとかなるかもしれない。この状況を説明すれば、いくら肉親である私を自分で手にかけたくないと思っていても、そんなことも言っていられないはず」

「おい、きこえて――」

「ああ、早く国王陛下のところへ行かなければ! 呪いが完全にこの方に移る前に、この命を絶たなければ……っ!」

「――っ、聞けって!」

 思わず、青年はフィロに近づき、その肩を掴んで自分の方に向けてしまった。一瞬その状況を理解できなかったフィロは、しかしその状況を瞬時に理解し、恐怖した。思わず、思い切り肩に乗ったその手を払い落とすように叩いた。

 その行動に青年は勿論驚いたが、さらに驚かされたのは、やはり目の前の彼女のその表情だった。今にも泣き出しそうな表情で、しかし決して涙を見せることはない少女。いくら辛くても、苦しくても、決して涙を見せてくれない少女。無意識に、もう一度手が伸びた。

 しかし、それは少女の怯えように青年のほうが躊躇いを見せた。

 これほど恐がっている少女を、どうしてこれ以上追い詰めることが出来る?

 どれだけ願っても、この少女は自分に心を許してくれることはないだろう。何を考えているのかも、教えてくれることはない。幼い頃、彼女がどうやって過ごし、どのように笑っていたのかも、青年は聞くことができないのだ。

 それはとても歯がゆくて、とても――悔しい。

 目の前にいるこの少女を笑顔にすることが出来ないことが、とても悔しい。

 ただ興味本位で近づき、ただ興味本位で話しかけたに過ぎない少女なのに。彼女の首もとにある、あの薔薇の花のような蕾の痣。あれを見た瞬間に、一つだけ直感として分かったことがあった。

 それは、この国の国王と王妃は、この幼き少女を守っているということ。誰とも関わらせなければ彼女が傷つくことはないと、誰とも会話をしなければ彼女は生きることが出来ると。

 しかし、それが原因で彼女をここまで苦しめているということを、きっと彼らは理解していない――いや、理解していないわけではなく、もしかしたらこの状況を打破することが出来なくなってしまったのだろう。

 国内外に問わず、彼女に関わらせないように〝呪いをもった姫君〟としてその存在を公表してしまったがために、彼女が孤独になってしまった今の現状をもうどうすることも出来ないのだ。

 良い噂というものは、広がるのに時間がかかる。それは、人がその人物を選定するからだ。その人物が本当に良い人間なのかを見極めて、そしてそこから噂が少しずつ広がっていくのだ。しかし、悪い噂というのはその人の人物像に関係なく、広がっていくのはとても早い。人間というのは他人の不幸を喜ぶ性質を必ず持っているからだ。

 あの人はこんなにもかわいそうだから、自分は今とても幸せだという現実に浸らなければ、〝幸せ〟は手に入らないと勘違いをしている人間は少なくない。

 そして、この国の国王がとった行動は、それをもたらしてしまったのだ。

 一国の姫――それも、王位を継げるはずのものが〝呪い〟を受けたとなれば、国民は哀れむだろう。そして、かわいそうにと思う。さらには自分達はあの姫様よりも幸せなんだという感情が芽生えてくる。

 そういった悪循環を、予想できなかったのだ。

「……オレの手を取れ」

 思わず、そう呟いた。その言葉を理解できない表情でフィロは見つめる。目の前の青年は一体何を言っているのか。

「…戯れは、よしてくださいませんか」

 力なく振り絞るように言ったその言葉は、相手に届いてくれたのか、不安になる。しかし今はそれ以上の声の大きさはでない。それよりも、不安のほうが大きくなっていく。苦しくて、とても辛い。早く、この世界から消えてしまいたいと願うほど、この命は生きながらえてしまう。望んでもいない現実が、今なのだ。

「何度でも言う。オレの手を取れ。……オレの手を、あなたが握るんだ」

 繰り返し言われた言葉は、幻聴に違いない。手を取れなどと、恐ろしいことを言わないでほしい。

 私はもう――疲れたのだ。

「…私にかまわずとも、あなたなら違う女性を見つけることが出来ましょう。会ってまだ間もない私を気にかけるほど、私はあなたと言葉を交わしていません。あなたと過ごしてもいません。それなのに、何故私を分かったような態度をとるのですか」

 かまわないでほしいと願っても、きっと目の前の青年はそれを受け入れてはくれないだろう。

「確かに、俺はあなたのことを何も知らない。あなたの名すら、オレはまだ聞いていない。けれど、知らないからこそ、あなたを分かりたいと思うのも、また事実だ」

 力強いその言葉に、フィロは目を見開いた。

 何故この青年はそんなことを言うのか。決して解けないはずの心が、凍ったはずの心が、溶け出してしまいそうになる。

「私は、あなたに私のことなど知られたくない。何も、知ってほしくない! 私は、今までずっと独りで過ごしてきた。私の世界に入ってこない下さい……!」

 それは、フィロのささやかな抵抗。これ以上心をかき乱すなと。これ以上かまうなという警告。しかし、青年にそれが伝わるはずもない。否、たとえ伝わったとしても、目の前の青年はそれを聞き入れることをしないのだ。

「それは、とても難しい相談であると、あなたも理解しているのだろう。俺は、あなたの世界に入り込みたい。足を踏み入れたい。あなたに、オレという存在を受け入れてほしいと願っている」

「私は! それをずっと断り続けているはずです……!」

「あなたが断り続けているとしても、俺はそれを受け入れない。あなたが俺を受け入れてくれるまで、無遠慮にあなたに干渉していくまでだ」

 何故。

「どうして、あなたは私なんかを気にかけるのですか。私は呪いを身に持つもの。あなたは王族でしょう。私に関わっていいことなど何一つない。私は呪いを持っている時点ですでに綺麗ではないのです。それなのに、何故あなたは私に関わろうとなさるのですか……」

 弱弱しい声が、静かな室内に響く。

「父上にも、母上にも、メイドにも兵士にも……この国の国民にすらも……見捨てられた私に価値など何もない。それなのに、あなたはどうして私を気にするの。どうして私自身を見ようとするの? どうしてそんな無意味なことに時間を使っているの? 理解できないわ。自分の立場を、理解していないとしか、思えない……」

「あいにくと、オレは自分の興味だけで動ける人間なのでな。興味のないものに時間を裂くほどお人よしではない」

「では、私から興味をなくしてください。私は、死んでいるのです」

 完全なる拒絶を、彼女は伝えた。それは、それ以上にもう彼女には出来ることがないから。それ以外に、彼女が望めるものがないからだ。

 理解できる。それは、青年も理解できることだった。しかし、自分のおかれている立場や地位、それらから来る孤独しか、青年は味わっていないのだ。歩けば、誰もが声をかけ、敬ってもいない自分にひれ伏す。それでも〝存在〟を無視されることは、少なくともないのだ。ほうっておけば向こうから勝手に声をかけてくる。いらない媚も売られる。気付けば、周りを人が取り囲む。その状況に、味方などいないと思ったことは何度もあった。けれど、それでも自分の周りには〝人〟がいたのだ。

 しかし、今目の前で震えているこの少女は、それすらも全てを奪われたのだ。

 ただただ、意味も分からず全てを奪われたこの少女の悲しみや孤独を、自分は理解してあげられない。

 共感することも出来ない。

 それは、酷くもどかしいことであった。

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