第10話



     ◆     ◆     ◆



 夢を見る。それは、幸せだったあの頃の夢。

 まだ太陽という光の下を歩けていた頃のことだ。

 そばには母がいて、そばには父がいて、そばには兵士がいて、そばには女中がいて。

 皆がその場で笑っている空間だった。笑顔が尽きない場所だった。笑っても笑い足りないほどの空間で、それがさらに心地よくて。いつまでも続くと信じて疑わなかったあの頃の私。けれど、現実は違うのだと、もうよく知っている。

 どれほど幸せな時間が続いていたとしても。あの時、あの瞬間、あの人に出会ってしまったのだから、それはもう変えられない未来だった。

『……あなたが、彼と彼女の子供なのかしら?』

 そう言って近づいてきた人は、あまり綺麗とは言いがたい姿をした女性だった。煤などで汚れたのだろう、ドレスを身に纏い、長い長い髪はまとめられる事無くそのまま流れている。

『あなたはだぁれ? お客さま?』

『……お客、そう。私はこの城に招かれた客よ。そして、あなたに会いに来たと思うの。あなた、名前はなんと言うのかしら?』

『私? 私はトリアンダーフィロだよ』

『トリアンダーフィロ。そう。それがあなたの名前なの』

 そう言って、その人は私に近づいてくる。

 遠くでその光景を見ているわたしは、きっと必死に叫んだだろう。

 その人に近づいてはいけないと。

 その人に名を告げてはいけないと。

 それを伝えてしまえば、あなたは――。

『ねえ、フィロと、呼んでもよろしい? お名前が長いもの』

『ええ、もちろん! 皆私のことは好きに呼んでくれているから、あなたも好きに呼んでほしいわ。そのほうが、仲良くなった感じがするもの!』

 そう言って、笑顔で返す私。

 遠くで眺めている私は、なんと愚かなと嘆いていることだろう。

 けれど、その人はとても教養のある方だった。間違いがあればそれを優しく指摘し、それを直せば、きちんと褒めてくれる。甘やかされて育った自分にとって、時には厳しい言葉に心くじけそうになるときもあったけれど、それがその人の優しさだと気付くのに、時間はかからなかった。

 けれど、その人は必ず気付いたらいなくなっている。

 そう、たとえば、人の気配や遠くから人の話し声が聞こえた時。もしくは私を呼ぶ声が聞えた時。

 それまでは一緒に遊んでくれていたその人は忽然と姿を消すのだ。

 最初は何か不安に思っていたけれど、それでもその人は忽然と姿を消したかと思うと、また唐突に姿を現すのだ。

 驚きは隠せなかったが、この人がいてくれて楽しいと感じる時間のほうが長く、私はその内気にしなくなった。

 そして、そんな毎日がしばらく続いたある日――。

『ねえ、フィロ。あなたの名前にはどんな意味があると思う?』

『? 分からないわ』

『そうなの。あなたの名前は、とても美しい花の名前から取られたものよ。ご両親から聞いていないのかしら?』

『聞いたことないわ。父様も母様もいつもお忙しそうだから…』

『……そう、お忙しいの』

 そう言って、その人は私をじっと見つめた。

『?』

 不思議に思って、私は見返す。

『いいえ、なんでもないわ。気にしないで。今日はお庭のお花で冠でも作りましょう』

 そう言って、その人は私を誘って花園へと進んでいく。私はその人の後ろをチョコチョコとついていく。

 その日は、とても晴れた日だった。

 雲ひとつない快晴。まぶしいほどの太陽は地上を照らし、生命に光を与えている。きらきらと輝く花たちは色とりどりで、私の目を楽しませてくれるには十分だった。

『さあ、フィロ。出来たわ』

 そう言って、その人は私に出来上がった花の冠を差し出し、頭の上に乗せてくれた。様々な花で編みこまれたそれはとても美しく、私を幸福へと引き上げてくれるのは簡単だった。

『この花の冠の中に、あなたの名前のヒントが隠されているわ。きっと分かると思うから、それ以上は教えてあげない。あたったら、ご褒美を上げるわ』

 そう言って、その人はふと微笑んだ。その微笑みは今まで見たことがないほど綺麗な微笑で、私は少しうれしくなった。これで、この人がずっとそばにいてくれるような気がしたからだ。

『分かったわ、絶対に当てて見せるわ!』

 そういった私は、その人の目にはどんな風に映っていたのか。

 うんうんとうなりながら考えていると、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえたような気がしたけれど、今はそれどころではない。もしかしたら、次はないチャンスかもしれないこの瞬間を無視など出来ないのだ。

 声がだんだんちかづいてくるきがしたけれど、まだ気にしていられない。

『フィロ、わかったかしら?』

『ちょ、ちょっと待って! もう少し…!』

 そう言って、私は手に持った花冠を見つめる。その中で、一つ、とても存在感を放っている花が一つだけあった。真っ赤な赤い花。何枚もの花弁が折り重なり、とても豪華な花。

『あ! 分かったわ! 薔薇でしょう?』

 ぴんと思いつき、私は弾んだ声を出した。

 そして、私の答えを聞いた瞬間。周りに大勢の大人が囲っていることに気がついた。それも、私が慕っているその人を拘束するような形で。

『え、何…?』

 そんな言葉しかいえなくて、私は目の前の光景を呆然と見つめた。

 手に持っていた、その人が作ってくれた花冠も、ぽとりと地面に落ちる。

『―――――正解よ、フィロ』

 そう言って、その人は武器で牽制されているにもかかわらず私に近づいてきた。その時、私は始めて、その人の顔をまともに見たんだと思う。顔、というよりも、眸を。

『ここまで、とても長かったわ。ええ、とても長かった……』

『え……あ、の…』

『この国の大事な宝物を、どうやって壊してやろうかと、ただそれだけを考えて、それだけを見つめて。私はここまでやっと上り詰めたのよ』

 何を言われているのか。理解できない。

『ねえ、フィロ。あなたは、私をとても慕ってくれていたわね』

 そう言って、目の前の人は、その手を私に伸ばしてきた。

『あなたは、とても愛らしい。とても聡い。とても賢い。とても明るい。けれど、私が求めているのはその感情、その表情ではないの』

 この人は、一体何を言っているのだろうか。

『私が見たいのは、あなたが絶望に落とされたときの表情――ええ、とても美しいでしょうね』

 その手が、私の頬に触れた。

『――フィロ……いえ〈トリアンダーフィロ〉。あなたは幸せになることなどできない』

 がりっと、そのつめが私の頬を傷つけた。

『ねえ、こんな裕福な暮らしで、とても嬉しいでしょう? 楽しいでしょう? 何の不自由もないこの空間は、あなたにとってとても幸せな空間なのでしょう?』

 先ほどの、優しさを感じた笑みなど、幻覚だったかのように。今。目の前にいるその人は、歪んだ嗤いをし、私を見つめている。周りの人間の牽制が強くなっていくのにもかかわらず、その人はただひたすらに私に語りかけてくる。

『ねえ、こんなにも恵まれ、幸せに暮らしているのなら一つぐらいの不幸があってもいいと思わない、フィロ?』

 瞬間、今まで頬にあったその人の手が、首を締め付けた。片手ではなく、両手で。苦しさで、思わずその人の手を引っかいてしまう。けれど、その人はそんなことは全く気にしていないようだった。

 一体何が起こっているのか、正直わからない。けれど、このままここにいるのは危険だということは分かる。どう考えても、自分は目の前の人に首を絞められている。周りにいた大人達も、自国の姫が首を絞められるというこの状況下で、下手に手が出せなくなっていた。

 今下手に手を出してしまえば、そのまま姫の首をへし折られてしまう可能性がある。

 周りから見て、その女はそれほど強い力を入れていると分かるほど姫を締め上げているのだ。

『ねえフィロ』

 呼びかけられたけれど、それに答えられるはずもない。

 むしろ、力がさらに強くなり、苦しさが倍増する。必死に手を振りほどこうとし、首元を思わずかきむしってしまうほど。しかし、その様子を見ていたその人は哀れんだ眸を向けるのではなく。むしろ喜々とした表情でそれを眺めていた。

 狂った嗤い声を上げる。ひとしきり笑った後、フィロを自分の方へと引き寄せ、鼻先があたるほど間近に接近する。

『――私は、この国が捨てた魔女一族の最終血統。魔女狩りを行ったこの王国を、私は絶対に許さない。だから、この王族に呪いを残しに来たわ』

 魔女。最終血統。

 フィロにとっては何を言われているのか分からない。

『フィロ、よくききなさい。私の目を見て』

 そういわれた瞬間に、はっと目の前の人と目が合った。その瞳の中にあるのは、憎悪。

『この国に、後継者なんて残させないわ。滅びればいい。残させてたまるものですか。だから、ねえフィロ。あなたに私がとっておきの〝呪い〟をかけてあげるわ。もし、あなたに心に残るほどの異性との出会いがあり、恋に落ち、愛をささやきあったのなら――あなたの名にふさわしく、薔薇の如く散っていくがいい!』

 その人は、私のその呪いの言葉を吐いた後、右の首元にキスをする。瞬間、まるで烙印を押されたかのような痛みが襲い、それと同時に、私を掴んでいる手に力がなくなり私のそばに倒れこんだ。絶命したのだ。

 この人は、間違いなく、自分の命を使って、私に呪いを残したのだと。理解するしかなかった。

 痛みが引いた後、残ったのは、きつく閉じられた、薔薇の蕾の形をした痣。

 この日から、私の生活は一変した。

 何を言っても聞いてもらえず、行動も制限された。助けを求めてもそんなことは無意味だったのだ。

 母の温かな腕の中に飛び込むことも出来ず。

 父の頼りになる背中に飛びつくことも出来ず。

 一日中泣きじゃくり、それでも誰も手を差し伸べてくれることはなく――。

 そのうちに、涙は枯れた。感情もなくなっていった。何をしても無駄なのだと言うことだけが、自分の中に残った。そして、退屈な毎日が始まったのだ。



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