第9話

 絶望を胸いっぱいに抱きながら、それでもなんとか寝巻きに着替えたフィロは、タオルで軽く髪から水気を取り、浴室から出た。

 いいことなど何もない人生だが、今日ほど最悪な日はないだろうと思う。

 何がきっかけとなり、この呪いは発動したのか。けれど、それがなんなのか全くわからない。それだけに、恐怖はさらに大きくなった。

 いつもの場所に腰をかける。眠気が一気に吹き飛んでしまったからだ。もう眠ろうという気すら起きない。

(……こうやって孤独に過ごしていれば、私も……救われる…?)

 そう考えて、フィロは自身のその考えに頷いた。当たり前のように、ごく自然に。

(そうよ。私は、こうやって一人で、静かに絶望を味わいながら死んでいくにがお似合いなのよ。それなのに、何故……あの人のことを気にしてしまっていたの?)

 もともと住む世界が違うのに、自分はあの青年のことを気にしすぎたのだ。だからこそ、気になったし、そのことに苦しんだ。気づけば、自分がしていることはただ退屈な毎日を過ごすことではなく、突然日常に現れた、兄無礼千万な青年を気にすることだったのだ。

 心乱されていたから、混乱した。

 だから、首にあるあの痣が反応してしまったのだ。それ以外に考えられない。

 なれば――。

(今まで通りに振舞っていればいいんだわ)

 すとん、とその考えが胸に落ちていく。それが、自分にとって当たり前に思えばいいのだ。それだけで自分は救われる。もしかしたら、この痣だってこれ以上開かないかもしれない。そうすれば、自然と自分の死期は遠ざかってくれる。

(……え?)

 瞬間に、また自分が混乱した。今、自分は何を思った。何を考えた。

(私……、一体、何を……)

 思っているのか。願っているのか。本音では。

 いや、そんなはずはない。あれほど願っていたのだ。そんなことを思うなど、自分自身が認めない。苦しくなることを受け入れなければ、それが当たり前の日常であり、光ある場所を歩くことが許されなくなった自分が願わなければならないこと。

 だからこそ、この離宮に閉じ込められるように、まるで隠されるように生活させられているのだ。だからこそ、ここで神経をすり減らし、自身で進言してくるのを両親は待っているのだ。進言したとしても、それを決して受け入れず、絶望させ続けるのだ。

 荒い息が出る。

 苦しい。悲しい。辛い。寂しい。

 どうすればいいの。

 助けて。

 ―――――助けて。


 こん、と。


 扉を叩く音がした。

 びくりと体が竦み、顔が、視線が、扉の方を向く。とニラが少しずつ開いていくのを、ただじっと凝視しているしかできない。

 入ってきたのは、先ほど追い返したはずの、あの青年。

 光の下にいることが当たり前で、けれど、だれかを光の下に連れて行くこともできる人。

「入るからなー……?」

 少しだけ遠慮しながら、しかし彼は扉をどんどん開けていく。そして、寝巻きに一応着替え、大きめのタオルを頭に被せたまま、絶望の瞳と表情を自分に向けている少女を見た瞬間、彼は動きとともに思考も止まった。

 一体、誰が予想していたか。

 一体、誰がこんな状況を考えていた?

 ずっと助けを求めようと手を伸ばしては諦めてきた少女が、目の前にいる。仕方がないと、全部を諦めてしまった少女が目の前にいるのだ。その首元には、赤い赤い花の痣。初めてそれを見たとき少し変わっていると、止まった思考が少し動き出した。では、それはどう変化しているのか。

 瞬時に理解した。

 ――花が、少しだけ開いているのだと。

「あんた……!」

 思わず声を上げてしまったが、彼女はそれにすら反応しなかった。ただ、絶望を宿しやその表情で、瞳で、自分をじっと凝視しているだけだった。

 手を伸ばし、彼女の肩に触れた。幸い、彼女が寝巻きを身につけてくれていたため、変な気遣いをする必要はあまりなかったが、それよりも、青年には怯えることがあった。

「どうしたんだよ!? 何があった!?」

 声をかけるが、彼女は反応しない。虚ろな瞳を、ただ空間に向けているだけだ。

 何度か肩を揺さぶったが、反応を示してくれない。

「おいっ!!」

 じれたような声が出てしまったが、それだけではない。このままにしておくと、彼女が儚く消えてしまいそうだったのだ。それに、青年が恐怖した。

 はっとしたように、彼女の身体が一度大げさなほど、びくん、と跳ね上がるように反応した。

「…………あなた、は」

 本当に小さな声で、彼女はそう呟いた。

「……現実、に、戻って…」

 そう言いかけた彼女は、そのまま力をなくして目の前の青年の胸の中に倒れこむ。彼は驚いたが、そのまま優しく彼女を受け止めた。

 細い身体を抱きしめながら、苦しい気持ちになる。何故、この少女がこんな扱いを受けているのか。不思議でたまらなくなった。確かに、呪いのことは聞いている。けれど、それはこの世界に住む上流階級の人間ならおそらくほぼ全員が把握している事柄だろう。

 この国の姫は、呪いを持っていると。

 この、小さな身体は、一体どれほどの長い間、このような重圧に耐えてきたのか。

「何も知らなくて……助けてあげられなくて、ごめん」

 自分の腕の中で意識を失っている、美しい少女。長い金の髪は、まるで黄金の滝を思わせるほどに美しく、今は閉じられているあの真紅の瞳は、いつも静かに何かを待っていた。涙すらも簡単に見せてくれないこの少女は、では、一体どれほどの間隠れて涙を流していたのか。

 どれほどの間、障子はこのくらいところにいたんだ。何をするにも、すべて許可が必要で、それでも、そんな許可が下りることすらも稀で。必死に、少女自身も気づかぬうちに、生きることにしがみつくぐらいしか彼女にはできなかったのだ。

 青年は、少女を抱きしめた。

 そして、ゆっくりと身体を横抱きにして浮かせ、少女が使っているだろう寝台までつれていった。

「……まるで、女中の部屋だな……」

 ある藻にはすべて簡易な物でしかない。それは、青年が呟いた通り、女中たちが使う部屋に設置されている物とおそらくなんら変わりない物ばかりだった。青年の記憶違いでなければ、自国の女中たちに部屋は、こんな簡易的な物が並んでいたように思う。

 いつから。

 この少女はいつからこんな生活を続けている。

 助けようとした人間は、今までに現れなかったのだろうか。こんな儚い少女を、どうしてこの国の王と王妃は平気な顔をして放置し続けているのだろうか。

 理由は、直接聞くしかない。青年は少女をベッドに寝かせ、上から柔らかく掛布をかける。体が冷えないよう、首元まで隠れるよう、しっかりと。

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