第8話

 しばらくしてから、彼はそろそろ時間だからといって帰っていった。その間、延々と彼に質問攻めにされていたフィロは、これは一種の拷問なのではないだろうかという陰鬱な気持ちだったが、彼が帰った瞬間の開放感で思わず飛び上がりそうになったのは秘密ごとだ。

 ソーサーやカップなどを軽く片付けてからフィロは外にいるであろう衛兵に合図して、そのまま窓のそばに寄っていく。すでに時刻は夕方になっていた。日が完全に傾いている。

 フィロは蝋燭に火をつけて、部屋の中を少し明るくする。

 ほてほてと部屋の中を歩きながら本棚に近づいて、一冊の本をとる。その場でページをぱらぱらと確認してから本を閉じ、棚に戻す。その繰り返しをしばらくしているうちに、火は完全に落ちた。

「……もう、こんな時間……」

 あの男性が来ると、時間に経過がとても早い。代わりに疲労を感じるのも早いが。それでも、何に変化もなかった毎日がどんどん色づいていくような感覚になる。人との会話がこんなにも自分の心を踊らせるものだとは思わなかった。

 考えて話しながらも、どこじゃ素直な気持ちを彼に言えていた気がする。彼が一体どういった存在なのか、名前もわからない男性なのにこんなにも警戒が薄れているのは少し危ない気もする。けれど、自分自身がそれを望んでいるからか悪い気分ではない。むしろ、すがすがしい気分だった。胸に溜まっていた黒く澱んだ何かが少しずつ浄化されていくいうな、そんな不思議な感覚。

 多分、この浄化作用のようなもには彼にあるんだと、フィロは感じていた。

(どうして、あの人はここに来るんだろう……? 少なくとも、私の噂は知っているはずなのに)

 そんなことを考えてしまう。

 もしかしたら興味本位でただ気まぐれにきているだけなのかもしれない。それでも、その行動が今はとても嬉しいと感じている自分がいることに、フィロは気付いていなかった。



 その日の真夜中。なかなか寝付くことができなかったフィロは窓辺の椅子に座って夜空を眺めていた。

(……私には、やっぱりこういう夜の闇の方が似合っているわ)

 一人、夜空を眺めながら彼女は胸中でそう思った。一人でいる時間は好きだ。何も考えなくていいから。何にも心を奪われなくていいから。

 自分の首元に手を持っていく。呪いを受けてから、何年も経つのにピクリとも動かない薔薇の花をかたどった蕾のままの痣。痛くもないし、熱いと感じたこともない。まるで、生まれたときからずっとそこにあったかのような感覚さえしてくる。けれど、それはないということも知っている。自分がこの痣を受けたのは、記憶に鮮明に残っているから。

 一瞬にして、自分がひどく落ち込んだと理解した。何故、どうして。こんなものを受けなければならなかったのか。

 いまでも、そんなことを考えてしまう。こんなもにを受けなければ、自分はこんな苦しい生活を送らなくても良かったかもしれない。

 何度もその考えに行き着いたことはあったけれど、やはり恨むことも怒ることも、長続きはしなかったのだ。

(受け入れるだけ……っていうのは、とても楽で、簡単なことなんだな)

 本当にそう思う。空を見上げると、闇の中に星の光がぽつぽつと目視できる。何度も見上げてきた夜空。何度も見つめてきた星たち。それは、今日も今日とて、いつもと変わらない輝き、位置。なぜか、とても安心している自分がいて、フィロは不思議に感じた。

 そろそろベッドで横になろうかと、そう思ったとき――無情にも、何故か自身の離宮の扉が小さな音を立てて開いた。

「っ!?」

 突然のこと過ぎて何がなんだか理解できないうちに、ここ数日で見知った顔が目に入る。何故、この人は懲りもせずに、しかもこんな真夜中にここを訪問するのか。

「……あなたには、学習能力がないようですね?」

「そんな冷たいことを言わないでくれ。お姫様」

「言いたくなるような行動を起こしている自分がいけないということすらも理解できないとは。嘆かわしいですね」

 遠慮にないその物言いに、さすがの彼も傷ついた表情を隠すことができないでいた。

「……あなたは、それほどまでに鋭いことを言う姫だったか…?」

「それは、あなたの態度の問題でしょう。わざわざ私のところに来ることもなければ、こんな言葉を浴びせられることもないでしょうし」

 彼女にとっての正論は、彼にとっても正論だった。

 当たり前のようにここにきたが、本来、彼はここに来てはいけない人物だ。勿論、身分的な問題である。

 何より、呪い持ちの姫君の部屋に来るなど、あってはいけないことである。この国の王と王妃もそれらを禁止しているのだ。それなのに、勝手に訪ねてはフィロを困らせることをしてくる。

「そんなことよりも、何故こんな時間まで起きているんだ?」

「……その言葉、そっくりそのままお返ししましょう。だいたい、わたくしが眠っていた場合、あなた様はどうするおつもりだったのです?」

 フィロのその言葉に、彼は口を閉ざした。何も考えていなかったのだろうということは彼の表情からも分かることだった。なんて分かりやすい人なのだろうと思わず思ってしまう。

 無意識に、微笑みそうになる。

 その瞬間、首元が一気に熱くなり、そして激痛が走った。

「――っ!?」

 なんとか声をあげずにすんだが、きっと顔色は悪いし、冷や汗もきているだろう。それほどの激痛だったのだ。悲鳴を我慢できたことが奇跡に等しい。

 しかし、目の前の彼はまだ気付いていない様子だった。フィロは何気なさを装って言葉を発する。

「申し訳ありませんが、わたくし、いまからお湯をいただこうと思っております。ので、失礼していただいてもよろしいですか?」

 必死で笑顔を作りながらも、言葉の端には棘を忘れず、さっさと出て行けという。さすがに、風呂に入ると遠回しで伝えられた言葉にたじろぎ、彼はしぶしぶ部屋から出た。

 その様子を見送ったフィロは言葉通り、ふらふらと覚束ない足取りでお風呂場まで歩く。身につけているものを全て脱ぎ捨て、お湯が張ってある浴槽にゆっくりと身を沈めていく。暖かな温度のお湯が、フィロを優しく迎えてくれた。

 今まで詰めていた息が一気に楽になった感覚になる。

 あの痛みは一体なんだったのか、あの熱は一体なんだったのか。考えても出ない答えに、フィロは困惑する。

 もしかしたら、今まで人と接点がなかったから、痣がなんらかの反応をしたのかもしれないと考えた。しかし、それにしては急すぎる。いくら人と接点がなかったと言っても、毎日それなりに人と最低限の会話はしているからだ。それは食事を持ってきてもらった時や、まだ自分が起きている時間に衣服を持っていってもらう時や持ってきてもらった時など、そういったところでのわずかな会話になるが。

 人と向かい合って話をしていないというだけで、会話自体はしているのだ。

 では、彼と、城の者たちとの会話では何が違うのか。

 考えても今のフィロにはよくわからない。

 フィロはため息を一つつき、お湯から身体を出す。そして、浴室の中に設置されている等身大を写す鏡の前に立った時、ざっと顔が青ざめたのが自身でもわかった。

(な、んで――)

 恐怖した。

 何故、どうして。

 そんな言葉が頭の中を駆け回って、そして、混乱させる。

 思わず、浴槽から勢いよく飛び出し、近くにあったタオルを引っ掴み自分の身体に巻きながら、鏡に手をつく。

 向き合いたくない現実。

 けれど、自覚しなければならない現実。

 どうして。何故、このタイミングで。

 こんなことに気づいたのだろうか。


「――痣が……開いてる……」

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