三日目 ●後編●

ウリーとレオンに引っ張られるようにして図書館を後にした夏目。どうしたらいいのかわからず、ただされるがままになっているだけだ。


「あの、ロゼーターさんは…」


「彼女はあそこの人とは仲良くないので来ませんよ」


ロゼーターの姿が見えず、ウリーにそう尋ねるとレオンが当たり前のかのようにそう答えた。夏目は、ただぽかんとするしかなかった。呆れた、などではなくただどうしたらいいのかわからないで。

図書館から出て森の小道を通り過ぎたところで、きゃっきゃっと賑やかな声が聞こえた。木と木の隙間から大きな湖が姿を表す。夏目の心は何処かそわそわと、落ち着きがなかった。


「千羅さんはいますか?」


夏目を自分の後ろに隠すようにしてウリーは、湖の前に立ちそこにいるであろう人魚たちに話しかけた。


「かぼちゃ頭さん、何しに来たの?」


「質問に質問で返さないでいただけますか?」


「ふふっ、そうカリカリしないで。千羅、ね。えぇ、いるわ、奥にいる」


人魚たちはクスクスと笑い、単語を区切るような話し方をし、ウリーを茶化す。それを面白く感じないのがロゼーターだった。来ないとは言ったもののやはり、夏目のことが心配だったのだろう。こっそりと彼らの後をつけてきていたのだ。自分のおもちゃを取られてしまった子供のように拗ねて、一言も話さなかった。


「人間の匂いがするわね」


ぱちゃんっ、と水が跳ねる音と共にその場には似合わない低くも高くもない声が響いた。女とも、男とも聞こえないようなその声に夏目は肩をピクリと揺らし、少しだけウリーの体から顔を覗かせた。ほんの好奇心だった。しかし、それが自らの首を締めることになるともそのときの夏目には、夏目以外の人にも予想は出来なかった。


「ウリー、貴様人間を連れて来たな」


夏目が顔を覗かせ、真っ先にみたのは燃えるような深緋の鱗と、氷のように冷たい瓶覗の瞳だった。焦げ茶の髪は一つに結われ左側に流している。パッと見女だと感じた夏目だったが、声を聞いて女であると確信するには少し苦しかった。容姿は愛らしい少女なのに、声は男のようなものだったから。


「ふん、小娘か」


「鼻がよろしいようですね」


「俺を舐めるな。何年生きていると思ってる」


「わかっていますよ…、少しお願いがあって来たのですが」


「そんなところだとは思っていた。貴様は不幸しか運んでこない」


不服そうに腕を組み、ウリーをキツく睨みつける。夏目は自分ではないとわかってはいたが、ビクリと肩を揺らしウリーの後ろに身を隠してしまう。


「それで?何の用だ。話だけは聞いてやろう」


「えぇ、実はですね。この方……夏目さま?」


くるりと首だけを後ろに向けると、夏目の姿はそこにはなかった。どうしたのかと思い上や横と目をやる。すると、さっきまで静かにしていたロゼーターが声をあげた。


「下よ、下!」


「えっ、あぁ、夏目さま!」


ロゼーターに言われて、彼女にいたことに驚きつつも下を見るウリー。彼女の言った通り、夏目はウリーの足元でうずくまっていた。恐怖などで隠れていたわけじゃあない。不安で隠れていたのだ。


「夏目さまどうかなさいましたか?」


優しく声をかけるウリーとは裏腹に夏目の声は震えていた。自分でも、周りの人にでもわかるくらいに。


「ぇ、あ…あの……」


「何処か具合でも……?」


「馬鹿、怖いからに決まってるじゃない。ナツメはあんたたちとは違って繊細なの、女の子なの」


ほら、ナツメ、と優しくロゼーターは声を掛ける。すると、夏目はゆらゆらと焦点の合わない瞳をロゼーターに向けた。そして長い睫毛が白い頬に影を落とした。


「え、ちょ、ナツメ!?」


「夏目さま!?」


ぐらりと夏目の身体は傾きそのまま倒れ込む。間一髪というところで、ウリーが彼女の身体をしっかりと抱きとめたおかげで地面にぶつかることはなかった。


「恐怖で倒れたのかい?これだから人間は嫌なんだ」


「千羅あんたねえ!」


今にも飛びかかりそうなロゼーターをレオンが引き止め、なんとかこの場を収めようとする。


「そうじゃない、と言えるか?言えないだろう?全く…いい迷惑だよ、こっちに来な。その子が目を覚ますまでの間部屋を貸してやろう」


千羅は不機嫌そうに眉間に皺を寄せると、指を鳴らした。それと同時に湖の水は左右に避け、半透明の通路が姿を現した。


「そこなら歩けるだろう。何安心しろ、別に取って喰おうとは思っていない」


「えぇ、わかっています。ロゼーター貴女はどうしますか?」


「行くに決まってるでしょ!!ナツメを一人になんかさせやしないわっ」


「ボクとウリーさんのこと忘れてるみたいですね…」


千羅の言葉に三人はそれぞれの答えとも言えるように、ゆっくりと半透明の通路に足を踏み入れた。

歩き出してすぐ、下へ降りる階段が見えた。それを宙に浮く千羅に続くように三人は降りる。夏目はウリーに横抱きにされていた。当然だろう。気を失ってしまっているのだから、自分で歩くことは出来ない。


「ほらこの部屋を使いな。そこの人間でも息はできるだろう。ただし、目が覚めたら出ていってくれ。出て行かないで何かあったとしても、俺は責任は取らないからな」


千羅は冷たくそう言うと、部屋を出て行く。その後ろ姿をキツく睨みつけるのはロゼーター。彼女らの間に何があったのかは、ウリーたちにはわからない。それは、ロゼーターが千羅が彼女らが話したがらないからだ。深く踏み入れる理由もないと思ったウリーたちは、彼女らに問うことも詮索することもなかった。


「何よ、あの態度!本当にムカつく!」


ロゼーターは小さく地団駄を踏むとまた、文句を言い出した。その様子を横目に、ウリーは大きなシングルベッドの上で気を失う夏目を心配そうに見つめていた。


「夏目さん、怖かったんでしょうか?」


「そうですね……、千羅さんと初めて会う方は怖いとは思います。彼女は人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていますから」


「あー…」


「それに、夏目さまは弱い方です。弱くて儚くて脆い。この世界では一番弱い存在ですから…」


優しく汗で額にくっついてしまった髪をどかしながら、ウリーは静かな声でいった。


「私たちのような存在じゃあない」


そういった彼の表情はいつものような、優しそうなおっとりとした表情ではなく冷酷で残酷のようなものだとレオンは感じた。ピリピリと服越しに伝わる痛みは気のせいじゃない、そう思ったレオンはただそうですね、と呟いてそれ以上なにも言わなかった。いや、言えなかったと言った方がいいのかもしれない。ウリーが言えないような雰囲気を漂わせていたから、レオンは言えなかったのだ。

彼らが無言になってから、数十分はたった。まだ、夏目は目を覚まさない。まるで、起きるのを拒んでいるようにも見えた。


「早く目を覚まして頂戴、ナツメ」


ロゼーターは優しい声色で夏目の頬を撫でる。すると、んっと小さな唸り声が聞こえたかと思うと夏目がゆっくりと瞼を開いたのだ。


「夏目さまっ!」


ウリーはすかさず夏目に近寄りながら大声をあげた。起きたばかりの夏目は眉間に皺を寄せると、焦点が微妙に合わない瞳を彼らの方へ向けた。


「…ウリーさん?」


「よかった…もう、目を覚まさないかと思うと私は…」


ぎゅう、と大きな体で夏目の小さな体を包み込むウリー。ベッドに寝そべっている夏目は、ウリーの肩に顔を押し付けられながらなにが起きているのか必死に理解しようと動かない頭を無理矢理動かせた。そして、ようやくウリーに抱きしめられている、という事実を知ると今度は白い肌が真っ赤に染まりあたふたと慌て始めた。


「えっ、あっ、あの、ウリーさんっ」


「夏目さま…」


掠れた声が耳元でし、夏目は肩をピクリと揺らすとそのまま動かなくなってしまった。死んでしまったや、気を失ったわけではない。ただ、羞恥心が限界に達し身体が固まってしまったのだ。


「あんた、いつまでナツメに抱きついてるつもりよ!早く離れなさいっ!」


二人の甘い雰囲気をぶち壊したのは、ロゼーターだった。決して彼女は空気が読めないわけではない。寧ろ、空気が読める方だ。何故二人の邪魔をしたかというと、一刻も早くここを出たかった、ただそれだけだった。


「痛い、痛いですよロゼーター!」


「ふんっ、知らないわよ!」


ウリーのふくらはぎあたりを思いっきり抓ったロゼーター。勿論、彼女は知らん顔をしている。


「貴様ら少しは静かに出来ないのか」


不機嫌そうな声と共に扉がギィと音を立てながら、開かれた。そこには、千羅が腕を組みながらいた。


「む…目が覚めたのか」


「え、あぁ、はい。今さっき目を覚ましたところです」


「そうか」


千羅はぶっきらぼうにそういうと、夏目に近づき左手首を掴む。当然のことだが、ロゼーターがヒステリック気味にキーッと文句を言い出した。


「ちょっと、センラ!何するのよ!」


「少しは黙れないのか、小鼠」


「なっ、なんですってぇ!?」


「こら、ロゼーター静かにしなさい」


「ウリー、離しなさいっ!ちょ、聞いてるの!?離せって言ってるのよ!」


千羅に食ってかかるロゼーターを見てられなかったのか、ウリーは彼女の首根っこを掴むとレオンと一緒に扉の外へ追い出した。


「えぇっ!?なんで、ボクまで追い出されるんですかっ!?」


「そうよ、なんでコイツと私が…っ!」


「一人より二人の方がいいでしょう。静かに出来ないのなら廊下で騒いでください」


「なんて理不尽なっ!!」


「もう、何よう!」


ロゼーターとレオンの抗議の声が廊下から響くものの、ウリーの耳にはすでに入っておらず無視される始末。そんな様子を心配そうに見つめる夏目と、呆れたように見つめる千羅。


「平気そうだな。心配するほどのことでもない」


「ありがとうございます…?」


夏目は一体何をされたのかわからず、はてなを浮かべながらとりあえずお礼を言った。


「…そういえば俺に何か用があったんだったな。話ぐらいは聞いてやると言ったから、聞いてやろう」


「えぇ、実は彼女は選ばれしものなんです」


「…大方、予想はついた。女神の唄、を探しているんだろう?」


千羅のその言葉にコクリと頷いたウリー。夏目は二人の様子をじいっ、と見つめていた。


「お前、名は?名は何という?」


夏目のことを指差しながら千羅静かな声でそう尋ねた。


「えっ、あ、わっ、私は上島夏目です」


突然話しかけられ驚いたのか、夏目は肩を大袈裟なほどに上下に動かしてから小さな声で自分の名前を名乗った。


「なつめか、いい名だな。漢字は?」


「春夏秋冬の夏、顔とかの目で夏目です」


「ふむ、夏の目か」


何度か頷くと千羅は、初め会った時とは違う反応を見せた。


「いいだろう。その願いきいてやらんこともない」


夏目に興味が湧いた、と言うと彼女の顎に手を添え上を向かせる。


「ただし、俺が願いを叶えるのは夏目だけだ。話を聞くのも、協力するのも夏目ただ一人だけだ」


「……手伝っていただけるだけでも十分です」


「ふん、つまらない男だ。夏目、ついてこい。俺の部屋にそれに関する書物がある」


ぐいっと夏目の腕を掴み、引っ張ると千羅は睨みつけるようにしてウリーに向かってそういった。


「あぁ、そうだ」


何かを思い出したのか、千羅は夏目の腕を掴んでいた手を離した。しかし、離したのと同時にガシャンッと花瓶などの硝子が割れる音が部屋中に響いた。勿論、廊下にいたレオンやロゼーターたちにも聞こえた。


「なんの音!?」


「どうかしたんですか!?」


バンッと扉が壊れてしまいそうなほど強い音を立てて、レオンとロゼーターが中に入ってきた。


「うっ…」


「ナツメ!!?何があったわけ!?」


顔を真っ青に染めたロゼーターは真っ先に夏目に近づく。小さな呻き声をあげた夏目は、壁に背をぶつけ痛みを堪えているのか目を固く閉じ、背中をさすっていた。


「センラ、この子に何をしたの!!答えなさい!!」


つり上がったロゼーターの瞳には、千羅が写っていた。千羅はというと、口角を上げながら彼女たちを見ていた。手をよく見ると、小さな果物ナイフが握られていた。


「貴様を試そうと思ってな。夏目、コレが見えるか?」


「…み、見えます」


「それじゃあ、今コレは何処に行くと思う?」


「ど、何処にって……」


果物ナイフをちらつかせながら、千羅は夏目の瞳をジッと見つめた。それはまるで、蛇が獲物を見つけたようなほど鋭く艶かしかった。思わず、夏目はコクリと小さな喉を鳴らした。


「ほれ!」


そういうと夏目の頬を果物ナイフは、掠めた。壁にナイフが刺さるのと同時に、し夏目の病的なほどに白い頬に鮮やかな赤い血が流れた。


「夏目さま!!」


「センラ!!!」


ウリーとロゼーターの悲鳴に近い叫び声が部屋中に響いた。その声をうっとおしそうに聞く千羅。


「今、俺はわざとお前から外れるようにナイフを投げた次は当てるつもりで投げる」


「あんた、何言ってるのかわかってんのッ!?ナツメは、選ばれしもの!殺してでもみなさい!国家を敵に回すことになるのよ、このパラレルワールド全体での指名手配犯になるのよ!それをわかっててやっているの!!?」


「ロゼーターの言う通りです!殺さずとも怪我をさせただけで貴女は犯罪者となるんです、それをわかった上で夏目さまにナイフを投げると言うのですかッ!?」


白い頬から垂れる血をウリーは抑えながら、千羅と夏目の間に割り込むようにしてそう尋ねた。

選ばれしものとは、夏目たちの住む世界でいう皇后陛下たちと同等もしくはそれ以上の立場の人間である。赤の女王でさえ、手にかけることは許されない。神と言えるような存在だ。だから、仮に選ばれしものが犯罪を犯そうが、非常識なことをしようがパラレルワールドに住む人々は何も文句は言えず、それが正しいと考えるしかない。いや、考えるしかないのではなくそれが当たり前なのだ。この世界ではその考え方が当たり前なのだ。


「外野は黙れ。俺はこの夏目という小娘と話している」


ギロリ、と効果音がつきそうな勢いで千羅に睨まれロゼーターとウリーは言葉を失った。


「夏目、お前を試そうじゃあないか」


「試す……?何を、試すんですか?」


「簡単さ、覚悟だよ。覚悟」


「かくご…」


「そう、覚悟。この先、俺はお前と一対一で話したい。協力するのも全て夏目、お前だけだ。だが、どうも俺たち人魚はお前ら人間が嫌いだ。傲慢で身勝手なお前ら人間が嫌いなんだ」


声に抑揚をつけながら、千羅は冷静に言った。いや、内心冷静ではなかった。昔、人間にされてきたことを思い出しふつふつと怒りが湧き上がっていた。それを抑えるために、必死に冷静でいようとしていたのだ。


「俺たち人魚は昔からお前らに利用されてきた。利用されるだけされ、最期は殺される。俺たちは道具なんかじゃあない。生きているんだ、人間と同じに。息をしているんだ」


ナイフに写る千羅の表情は怒り、憎しみが現れていた。その中には悲しみなどの感情も混じり合い複雑そうにウリーには思えた。


「だから、そう簡単に協力するわけにはいかない」


「それで、私を試すんですね」


「あぁ、そうだ」


コクリと頷く千羅を見て、夏目は意を決したのか真っすぐ彼女を見つめながら口を開いた。


「わかりました、どんなことでもします」


「どんなことでも?死ねと言われれば死ぬか?」


「それで、女神の唄への協力をしてくれるのなら死にます」


夏目のその言葉にその場にいた全員が息を飲んだ。


「夏目さま何をいっているのかわかっているんですか!!?」


「ナツメ、あんた何をいってるのよ!!センラ、あんたもあんたよ!!」


「夏目さんそんなことをするくらいなら、他へ行きましょう!絶対そっちの方がいいに決まってる!!」


目をめいいっぱい見開き、夏目の腕や足を掴み止めにかかるウリーとロゼーターとレオンの三人。それもそうだろう。主がとんでもないことを言い出しているのだから。驚くのも無理もないし、止めるのも当然といえば当然のことだ。


「……俺がこのナイフをお前に向けて投げる。お前がもし、コレをかわしたりウリーたちが止めに入ったら俺たちは協力はしない。そして、この森に入ることを禁じさせてもらおう」


ナイフを自分の顔の真横に持っていき、手首のスナップを効かせるようにして千羅は投げた。投げられたナイフは一直線上の夏目へと向かっていた。夏目はそのナイフを避ける素振りは見せなかった。ただ、真っすぐとナイフを見つめている。


「夏目さま、避けてくださいお願いします!!!」


「ナツメ、死んじゃうわ!!お願いだから、避けて!!!」


ウリーとロゼーターと悲痛の叫び声をあげたその瞬間、ナイフは夏目の額から数センチのところでぴったりと止まり宙に浮かんでいた。そんな不思議な光景……夏目にとっては不思議な光景、ウリーたちにとっては普通の光景に四人は息を飲んだ。


「気に入った。まさか、本当に避けないとはな…」


クスリ、と千羅は苦笑いを浮かべながら夏目を見た。


「っはあ……こ、こわかっ……」


それとほぼ同時に夏目は腰を抜かしたのかぐったりと壁に寄りかかり、肩と胸を大きく上下に動かして息をしていた。


「ナ、ナツメ……」


「な、夏目さま……」


大きな瞳に大粒の涙を浮かべながら、ウリーたちは夏目に近づいた。


「ナツメの馬鹿ッ!!本当に死んだらどうするつもりだったのよ!!センラは、本気だったのよ!あんた、一歩間違えてたら死んでたんだからね!!?」


「そうですよ、夏目さま!!私たちを置いて逝かないでください!!私、夏目さまに何かあったら綾子さまに顔向けできません!!!」


鼻を鳴らしながら、腹の底から出したような大声でウリーとロゼーターは騒いだ。夏目は少し頬を緩ませながら、すみませんと謝る。


「さて、行くか。着いて来い夏目」


そういうと千羅は、夏目の方へ近づき彼女を荷物のように肩に抱えた。


「え、あ、あのっ」


自分で歩ける、という夏目の言葉を無視し千羅はさっさとその部屋を後にしてしまった。

千羅に連れて来られた場所は、薄暗い書庫のようなところだった。幾つもの古びた本、その間に挟み込まれた巻物……夏目は両の目を見開きながら部屋を見渡す。


「こういうところには来ないのか?」


「本は好きですけど、こんなにたくさんあるところは図書館以外ないです」


「そうか、まあ、ここに置いてある本はお前の好きなようなものではないだろうが」


クスリと笑う千羅。夏目もその笑顔につられてか少し形の良い眉を寄せながら笑った。


「女神の唄、だったな。それの話は確か…」


腕を組みながら千羅は、山積みにされている本の中から目当ての本を探そうとする。埃を被り、虫に食われ、本と呼べるのかわからないようなものを一冊、千羅は手に取る。ペラペラと丁寧な手つきで一枚一枚めくる。


「コレだな。古くて読みにくいが、それは勘弁してくれ」


そう言うと部屋の端に座っている夏目に向かってその本を投げつけた。わぁっ、と声をあげ夏目はその本を何度か跳ねさせながら受け取る。

夏目は先ほどウリーに教えてもらったばかりの言葉を必死に思い出しながら、本に書いてある文字を読んでいく。


「おい、小娘」


「は、はいっ」


「まさかだとは思うが、貴様文字が読めないわけではないだろう?」


千羅は読むペースが遅いのに疑問を感じ、その疑問を夏目本人にぶつけた。すると、夏目は表情を暗くし顔をしたに向けながらそうです、と呟いた。その言葉に信じられないと言いたげに千羅は溜め息をつくと、彼女の隣に座る。


「"ここに書してあるものは、我々人魚にしか伝わらないものである。他の者に教えるのは決して許されない。ただし、選ばれしものは除く"」


突然、言葉を訳してくれた千羅に驚きを隠せない夏目は目を点にして彼女を見た。すると、それを不服そうに見つめ返す千羅。


「………なんだ?何か文句でもあるのか?」


「い、いや……優しいな、って思って…」


夏目ははにかむようにそういった。褒められ慣れていないせいなのか千羅は、頬を甚三紅色に染める。口を金魚のようにパクパクと動かし、夏目をジッと見つめる。


「お、お前…な、なにを、いっ…」


口元に手を当てながら、夏目を見つめるその姿は女とは思えないほど凛々しかった。頬は赤く染まっていたが。


「ま、まぁ…いい。続きを読むぞ」


目線を本に戻すと冷静を装いながら、薄い唇を開き続きを読んで行く。夏目は慌てながら言葉に耳を傾ける。


「"女神の唄は我々が引き継ぎ歌うのみ。真の意味はこの森の奥にある屋敷に行けばわかる"だ、そうだ」


「森の奥の屋敷……そこにヒントが、答えがあるんですね」


「そのようだな。求めていたものはこれだけでいいのか?」


千羅にそう尋ねられ、夏目は下を向いた。夏目としてはもう少し詳しく知りたかったのだ。なんせ、やるべきことについて夏目は何もわかっていないのだから当然といえば当然だろう。


「あの…千羅さん…」


「なんだ?」


「この、やるべきことを全部やったらそれをどうすればいいんですか…?」


「あのかぼちゃ頭から聞いていないのか?」


「何も…やるべきことやれば叶う程度のことしか…」


その言葉に驚きを隠せないのか目を見開き千羅は、夏目をジッと見つめた。暫くして溜め息をつくと、呆れた口調で簡単な説明を口にした。


「女神の唄は扉の開き方、月のしずくと太陽の涙は扉を開くために必要、愛は願いを叶えるための必要条件」


「とびら…ひつようじょうけん……」


「女神の唄はそのままの意味で唄だ。月のしずくは固体、何かの塊だろうな。太陽の涙は液体。愛は形にないものだな、感情」


「うた、こたい、えきたい……かんじょう」


夏目は千羅の言った言葉を一つひとつ復唱し、頭に刻み込んだ。忘れてはいけない、そう思いながら。そんな彼女の様子を頬杖をつきながら千羅はジッ、と見ていた。特になんの意味もなく、ただ見ているだけ。暇つぶしにはなったのだろうか、千羅は夏目に見えないように笑うとおい、と声をかけた。


「森に行くのか?」


「え、あ、はい。ウリーさんたちに言ってから行こうと思います」


「それなら、明日にしろ。今日はもう遅い」


「え?」


「お前……倒れてから数十分は目を覚まさなかった。それがどういうことか知らないのか?」


あり得ない、と言いたげに夏目を見る彼女は夏目にとったら不思議で仕方がないだろう。何故なら、このパラレルワールドでの時間の流れは夏目の世界の時間の流れとは少し違っている。たかが数十分でも一、二時間以上は時間を無駄にしているということだ。

夏目はそれを知らない。今までそんなことはなかったからだ。時計で時間を確認することはあったが、こんなに長くいたのか程度にしか思っていなかったから。深く考えたことはなかったからだ。


「外を見てみろ、もう夜だ」


千羅の言葉に夏目は大きな瞳をさらに大きくさせ、近くの窓に張り付いた……が、ここは地下のため窓からは外を見ることはできなかった。夏目は慌てて部屋の外に出て、空を見上げた。そこには紫黒の空に点々と輝く星、丸々とした大きな黄檗色の月。夏目が最後に見たのは空色のキャンパスに白い絵の具を垂らしたような青空だった。それなのに今見える空は美しい闇夜。夏目はただ目を点にするしかなかった。


「どうして…」


「夏目さまっ!!」


「ウ、ウリー…さん…」


走る夏目の姿を見かけたウリーは、慌てながら彼女の元へ近寄る。だが、夏目はわなわなと震え大きな瞳をまん丸にさせてウリーを見つめた。


「どうか……しましたか?」


「もう、夜…なんですか?」


「えぇ、夜です」


「……さっきからそんなに時間は経っていないのに…どうして……」


目線を空からウリー、地面へと下げた夏目。そんな彼女の様子に違和感を感じたウリーは、ソッと近寄る。


「体が冷えてしまいます、中に入りましょう。話はそれから…ね?」


ぐいっ、と肩を引き寄せ夏目を千羅の屋敷へ入れようとする。しかし、夏目はその手を振り払い黙り込んでしまう。突然のことにウリーは驚きを隠せずにいた。振り払われた手はジンジンと痛み、行く当てもなく宙を彷徨った。


「夏目……さま……?」


ウリーの不安そうな声が虚しく闇夜の中に木霊した。

千羅とロゼーター、レオンの前で夏目とウリーはただただ黙ってしたを向いていた。飛び出した二人が帰ってこないのを心配して出て見たら、これだ。ロゼーターは心の底でそう呟いた。


「何があったのかいい加減話してくれないかしら?黙っていたって何にも始まらないことぐらいわかるでしょ、ナツメ」


小さな手で夏目の手を取り、なだめるかのように優しく話しかけるロゼーターだったが、彼女はその言葉に反応はせずしたを向いているだけ。ウリーも同じでただ静かに黙って椅子に座っている。


「ウリーさん、話してくださいよ。二人がそんなんじゃあ、帰れませんよ」


レオンはいつものようにおちゃらけた雰囲気でそういったが、ウリーが言い返すことはなくシーンと沈黙が流れる。それに耐えられなくなったのかロゼーターが、ああっと声を荒げた。


「もうっ、腹が立つわ!センラのとこにいるだけでもムカつくのに、ナツメやウリーまでこんなになっちゃって!なんなのよ!あー、ムカつくムカつくっ!!」


パタパタと地団駄を踏むあたり、堪忍袋の緒が切れたのだろう。ロゼーターは今までの不満を口に出しながら、黙っている二人に怒りをぶつける。それを見兼ねたのか千羅は夏目とロゼーターの間に割り込む。


「とにもかくにも、今夜はここに泊まれ。明日森に行くんだろう?なら、ここに泊まった方が楽だ」


「まあっ、森に行くの!?そんなの私聞いてないわよっ!」


「俺の部屋で見た本に女神の唄へのヒントがあったんだ。それが森にある、ともな」


「なるほど……確かに、今から屋敷に戻ってまた明日ここに来るのも大変ですし、千羅さんのお言葉に甘えた方が得策ですね」


「私は嫌よ!!ステファンたちのところに泊まるわっ!!センラと一晩過ごすなんてあり得ない!!」


キーっと騒ぐロゼーターの横で冷静なレオンは、千羅と話を進める。その間も夏目とウリーは気まずそうにしたを向いているだけ。


「僕が二人について居ますから大丈夫ですよ!!」


なんとも頼りなさげに胸を叩くレオン。


「……心配だけど、まあ、いいわ。あんたに任せたんだから、何かあったら承知しないわよ!!」


ロゼーターはキーっと騒ぐと嵐のようにその場を走り去っていった。千羅は呆れた様子でその後ろ姿を見つめていた。


「部屋は一人一部屋ずつ用意させよう。一晩ぐらいなら平気だ」


「それはありがとうございます」


「食事もいますぐ作らせる。その間に風呂にでも入っていればいい」


そういった千羅の目線は夏目へと向いていた。それに気づいているのかわからないが、夏目はただぼうっと下を見ていた。千羅は黙って部屋を後にした。部屋に残された三人は、重たい空気の中誰も口を開こうとはせずにぼうっとしているだけ。


「夏目さー…」


「どうして…」


レオンが夏目へ声をかけようとした時だった。今まで黙っていた夏目は口を開いたのだ。ゆっくりと、震える声で確かに話した。


「どうして……いろんな隠し事をするんですか…」


ハッ、とした顔で夏目を見るウリー。夏目の大きな瞳からは大粒の滴が溢れ、白い頬を弧を描きながら伝わっていく。ひくひくと痙攣する赤い唇、細い肩は小さく揺れウリーの胸を締め付けた。


「夏目、さま…」


「隠し事は、嫌です……隠されているのが、怖い…怖いんです」


小さなことで泣く夏目にうっとおしいなどという感情はなく、寧ろ愛おしいとウリーは感じていた。この幼い少女が愛おしいと、抱きしめてしまいたいとウリーは思った。しかし、彼女を抱きしめることは彼にはできなかった。壁がある。主従という壁が。夏目がそう意識しなくてもウリーにはあるのだ。彼女に仕えなければならない理由が。


「夏目さま…泣かないでください。貴女が泣くと私まで悲しくなってしまいます…」


「もう、隠し事しないで…」


「わかりました……これからは、隠し事は一切致しません。ですから、もう泣き止んでください…」


ウリーは震える指先を夏目の白い頬に当て、溢れる滴を優しく掬いあげた。滴はジワリと彼の手袋に染みを作っていく。


「……何が何だかわからないけど、いいんですかね」


少し脱落したように呟くレオンとは裏腹に、夏目とウリーは二人だけの世界に入っていた。


「夏目さま、目が腫れてしまいますのでこれで目を…」


「あ、ありがとうございます…」


両手で彼の渡す受け取ると、言われた通りにハンカチを目に当てた。


「おい、食事の用意ができる前に風呂を………なんだこの空気」


ガチャリ、と音を立てながら部屋の中に入ってきたのは千羅だった。彼女は夏目たちの様子を見て、目を見開きながら冷静にツッコミを入れた。レオンは少しありがたい、と思いながら仲直りしたんですよと笑顔で彼らの代わりに答える。すると、千羅は溜め息をついてから夏目たちの方へ向かった。


「風呂の用意ができた。服も用意させたからさっさと浴びてこい」


「あっ、は、はい……ありがとうございます」


夏目ははにかむようにしてそう言うと、両手で服とタオルを抱きしめながら部屋を出た。部屋を出ると、千羅の屋敷の召使いであろう人に連れられ風呂場へ向かった。


「ウリーさん、あんなこと夏目さんに言ってましたけど………いいんですか?」


夏目の姿が見えなくなるとソファの上に体育座りをしながら、レオンはウリーにそう問うた。ウリーは近くの椅子に深く腰掛け、長い足を組みそうですね、と答える。


「……夏目さん気がついたんじゃないですか?」


「そんなはずないです。私のことを知ってるのは貴方と白うさぎさんと私自身だけですから」


「そりゃあそうですけど……じゃあ、なんで夏目さんがあんな態度を?ウリーさんだけには心を開いていたようにボクには見えたんですけど」


「時間の感覚を言わなかったからですか?いや、そんなことはないとは思いますが」


「千羅さんが何か言った、とか?」


深く被った帽子の奥でレオンは千羅を睨みつけた。千羅は居心地が悪そうにして小さく唸るようにしていった。


「俺は何もいってない」


「本当ですか?」


「本当だよ」


えー、と唇を尖らせながらレオンは千羅からウリーへと視線を変えた。


「夏目さまには知られてはいけないのですよ」


しぃと口元に人差し指を当てるウリー。いつものような笑顔ではなく、冷たい氷のような眼差しで彼らを見つめながら。

夏目が戻ってきたのはそれから数十分した後だった。女にしては短い入浴時間だった。ロゼーターやステファンは風呂に入れば一時間は出てこないだろう。


「服のサイズはぴったりなようだな」


「あの、何から何まで……」


「いい、気にするな」


「は、はい…」


夏目は人間を嫌う千羅が優しいことに少し胸を撫で下ろす。それと同時に何故ここまで優しくしてくれるのか不思議に思っていた。

彼女に続いて、レオン、ウリー、千羅という順に風呂に入っていった。全員が風呂に入り終わると、千羅の屋敷の召使いたちが用意してくれたであろう食事がズラリとテーブルの上に並んでいた。


「うわあ、すっごい美味しそう!」


レオンはあいもかわらずぶかぶかの服を身に纏いながら、そういった。彼の言葉通り、並んでいる料理はどれもこれも美味しそうだった。色とりどりの野菜に、身が透き通った魚、甘い匂いのスイーツ、小麦の香ばしい香りのパン……夏目はぐぅ、と腹の虫を鳴かせた。


「そう急かさなくてもいい。好きなものを好きなだけ食べればいい」


「は、はい…」


頬をほんのりと薄紅色に染めながら、夏目は静かに頷く。

各々席に着くと、レオンが真っ先に食事に手を伸ばした。その様子は子供、そのものだった。レオンは見た目は子供のようだが、中身は大人とほぼ変わらない。知性も周りの人々よりも高い。自営業だってできているくらいだ。


「夏目さあん、コレすっごく美味しいですよ」


そう言いながら夏目のために野菜や魚を皿の上に乗せ、それを彼女に手渡す姿ははしゃぐ子供のようにしか見えなかった。


「夏目、コレは俺の好物なんだ。お前も食べてみろ」


皿の上に山盛りに乗せられたフルーツに、夏目は驚きながらもそれを手渡して来た本人……千羅に礼を言うと受け取る。


「夏目さま、ジュースをお取りしまょう」


鮮やかな猩々緋色の飲み物をグラスに注ぎながら静かな声でウリーはいった。夏目は猩々緋色の飲み物に恐る恐る口をつける。ぶわり、と口の中に広がったのは甘酸っぱい味だった。何かのフルーツなのだろうか、そう思いながらもう一度口につけた。


「口に合うか?」


「あ、はい…とても、美味しいです」


「それなら良かった」


そんな会話を交わしながら四人は食事を済ませた。

食事が終われば、腹を満たせたせいなのか睡魔が夏目を襲った。こくりこくりと頭を揺らしながら、ソファに身を沈める彼女の姿を愛おしそうに見つめるウリー。


「夏目さま、ベッドへ行きましょうか。一人で歩けますか?」


優しく彼女の背中に手を当てながら、そう尋ねるウリーだったが半分寝てしまっている夏目の返事は曖昧なもので、少し頬を緩めると彼女の膝の裏に手を差し込み横に抱きながら夏目を持ち上げる。

夏目たち三人の部屋は一つの大きな部屋にされていたが、その部屋はとても広く三人でいるには大きすぎた。ベッドのサイズも大きく、一つのもので三人寝れてしまうんじゃあないか、というぐらいの大きさ。


「ふかふかですねえ、これなら明日朝起きても体は痛くなさそうです」


「そうですね…」


身をベッドに委ねながら、とろんとした口調でそういったレオン。彼の言う通りベッドはふかふかとしていて、転がっただけで眠ってしまえそうだし、疲れなど吹き飛んでしまいそうなくらいの柔らかさだった。


「よ、っと……」


完全に夢の世界へいってしまった夏目を、ベッドの上に降ろすとウリーは優しい手つきで布団を彼女にかけてやる。


「夏目さん気持ち良さそうですね」


「この生活にも慣れたからでしょう」


「それは関係ないと思いますけど」


レオンとウリーはお互い顔を見合わせ、ベッドの上でスヤスヤと眠る夏目を見つめた。


「さて、私たちももう寝ましょうか。明日は早いでしょうし」


「そうですね、そうしましょうか。おやすみなさい、ウリーさん、夏目さん」


「おやすみなさい」


二人はほぼ同時にベッドの中に入ると、目をゆっくりと閉じた。




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