第32話 勇気でも度胸でも

 理由はわからないが、あんな切羽詰まった、それでいて自信無げな声の菅谷は初めてだった。

 私は急いで制服を脱ぎ捨て私服に着替えて家を出た。自転車にまたがり小鹿野さんの家に向かう。

 菅谷は理由なしに人を呼びつけることはしない。何かに気づいたんだ。

 途中、前方に猛スピードで走る自転車のライトを見つける。たぶん菅谷だ。大通りでないとはいえ、県道の抜け道として車が通る夜の道を、菅谷の自転車は見てる者がヒヤッとする速度で駆け抜けた。後を追う私も必死だった。


 小鹿野さんの家の前に着く。

 もう暗くなっているのに、家には灯りが1つも点いていない。

 菅谷は汗だくで息を切らしながら、スマホで小鹿野さんに電話をかけている。

「スマホも、家の電話も出ない……」

「出たくないんじゃない?」

 ひとりになりたいんじゃないかな? いや私たちと話をしたくないのかも。だって、私たちがしたことって、結局……。


 菅谷は、呼吸を整えながら、私の前に立って言った。

「三宅、俺は今、かなり不安だ」

 眼鏡の奥が、めずらしく自信がない眼をしている菅谷。

「確信が100%あるわけじゃない。だが、放置できない可能性なんだ」

 そう言って私の両肩をつかんできた。その手が少し震えている。

「三宅……小鹿野は、お前の手から勇気をもらったと言ってたよな。勇気、いや度胸でもいい、俺にも分けてくれるか?」

「あんたにしてはめずらしいよね弱音吐くなんて。いいよ、勇気でも度胸でもいくらだってあげ……」


 いきなりだった……。


 いきなり、唇を……。


 体中から力が抜ける。


 脚が、震えてきた。


「ありがとう」

 唇を離し、透き通った笑顔で静かに微笑ほほえむ菅谷。

 私の心臓の音が、今まで聞いたことがない大きな音を立てている。

 鼓動が、痛い。


 菅谷は首に巻いていたタオルをほどくと、庭にあるグレープフルーツ大の石を包んだ。

 何してるのこの人。理解できない。

 スマホを操作して、どこかと話をしている。

「はい、住居不法侵入が発生しています。住所は川越市……」

 今目の前で起きている事が現実の事と思えない。

「救急車の手配もお願いします」

 なに、なんなのいったい。

 菅谷は、私の手に、スマホを握らせた。

「じゃ、行ってくる」

 迷いのない笑顔を見せたあと、菅谷は一転して雄叫びをあげて、小鹿野さんの家の玄関に突進した。

 石を包んだタオルをふりまわして、引き戸へぶつける。

 ものすごい音をたてて引き戸が破壊された。

 そのまま小鹿野さんの家に突入した。

 中から、誰かと言い争う叫び声がする。

 物が破壊される音が立て続けに響く。

 真っ暗だった小鹿野さんの家の中から明かりが漏れる。でもオレンジの光源は、天井ではなく、下から照らされ揺れている。

 火だ。火が出たんだ。

 なに、どうしたのよ、何が起きてるのよ!

 手の中の菅谷のスマホから、誰かの声が聞こえる。

「大丈夫ですか! 今近くのパトカーがそちらへ向かっています!」

 炎と煙が大きくなって、破壊された玄関から夜空へのびていく。

 イヤよ、こんなのイヤよ。

 遠くでサイレンの音が響きだした。


「誰か……お願い……誰か、誰か来てえ!」


 私は、力の限り叫び続けていた。

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