二〇一五年十一月二十八日。
Re:entry
二十八日も半分が過ぎて、早くも太陽は西へ傾きつつあった。
バイト先から急いで帰ってきた私は、玄関のドアを開ける。普段なら帰宅は夜遅くになるけれど、どうしてもと無理を言って今日は午前中だけにしてもらったのだ。
ドアの向こうががらんどうな風景は、つい一週間前までは当たり前のモノだったのに。やっぱり違和感を拭い去れないな、と思いつつ私はカバンを床に置いた。
で、電話帳を捲る。
あった。『社会福祉法人 ひかりの家』──ここだ。
電話番号をよーく見ながら、私は固定電話にそれを打っていく。ここが問い合わせに応じてくれるか、否か。それによって私の採るべき道も変わってくる。
少しどきどきしながら、私は受話器を取った。
一昨日、間違いなく拓磨くんがお母さんを探すルートは消滅した。
けれど、私にはまだ出来る事がある。拓磨くんのお母さんの事情を知っている可能性がある団体が、あと二つ残っているからだ。
そう──警察と、施設だ。
拓磨くんには教えてくれなくても、私には教えてくれるかもしれない。そのためにはまず、事実関係をはっきりさせなきゃ。そう思った私は昨日、三鷹にある例のお父さんの実家に寄って、当時の資料をいくつかコピーしてきた。資料といっても新聞のスクラップだけど。
私の見立ては正しかった。九年前、武蔵野市内の交叉点で私の両親の乗った車に横から衝突した車の運転手は、御殿山という名前だ。
これで私は、『脱走した少年の時と同じ事故で両親を失った女』という続柄を、手に入れた事になる。まず、そこのところで『関係者じゃないから』と断られる恐れは、小さくなった。
──『はい、こちら社会福祉法人ひかりの家です』
繋がった。
「あ、あの……私、関前咲良と申します」
──『どちら様ですか?』
「都立高校に通っています、二年です。それと──」
口の中が一瞬渇く。
「昨日まで、御殿山拓磨くんを匿っていました」
……相手から伝わってくる雰囲気が、明らかに変わった。たぶん、よくない方向にだ。
──『どういったご用件ですか』
とにかく、何とかして話を聞き出す口実を作らなければならない。拓磨くんに会うという名目だったら、どうだろうか。どのみち私だけが結果を聞いたって、意味は半減だ。
「実は、その件で御殿山くんと少し話したい事があるんです。取り次いでもらえませんか」
──『それは出来ません』
「なぜ……?」
簡潔極まりない相手からの応答は、既に私に対して消極的な答えしか用意していない事の表れのように思えた。
──『御殿山くんは現在、心身共に憔悴しています。あなたがどういった方か我々の方では存じ上げませんが、あの子の事は今はそっとしておいて頂きたいんです。ゆっくりと時間をかけさえすれば、解決する問題だと思いますので』
ならば、仕方ない。私は切り込む先を変えようとした。
「それでしたらせめて、そちらの方にお話を伺いたいのですが……」
──『御殿山くんの件でしたら、それもお断りです』
駄目だ、これは。
咄嗟にそう感じた。これ以上交渉を続けてもしょうがなさそうだ、打ち切る事にしよう。
「分かりました。ありがとうございます」
──『いえ』
ガチャンと電話を切ると、私は振り向いた。放り出したカバンから財布や貴重品を取って、ポケットに突っ込む。
次は、警察だ。警視庁武蔵野警察署は隣の三鷹駅前に建っている。ここからなら自転車で行けば、そんなに時間はかからない。
ドアを開けて外に出ると、鍵をかける。
「……寒っ……」
そうでなくても曇天で日が差していない上に、風も強い。風邪を引く前に目的地まで行っちゃわなきゃ。
自転車のペダルを蹴って、私は走り出した。
昨日、連絡もなしにお父さんの実家にやって来た私を見て、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんもずいぶん驚いていた。
唐突だったことだけではない。顔、ずいぶん草臥れているように見えるわよ。ちゃんと生活出来ているのか。頻りに心配の言葉を掛けられた。
一昨日までの私なら、きっと鬱陶しがって無視したか、適当な言葉を返しただろう。でも昨日の私に、そんな事はできなかった。
これ以上の心配はかけたくない。強くそう思いながら、私は昨日を終えた。
私は知りたい。
私の、私の周りの人々の身に起こった事の全てを。
私が知らない、何もかもを。
そして、それを伝えたい。中途半端なまま離れ離れになってしまった、あの子に。
今の私は、ただそれだけを願う。
ターミナル駅であるにも関わらず、昔から妙に空き地が多かった三鷹駅の北口。最近はまた、いくつか大きな建設計画が動いている。おかげで駐輪場は減ってしまって、空きを探すのに少し苦労した。
自転車を止めた私は、警察署へと足を踏み入れた。そこはかとないアウェイ感に、緊張はいや増しになる。
「すみません」
受付に声をかけると、制服を着た女性の警官が振り向いた。
「はい」
「あの、会いたい方がいるのですが」
「うちの署員でしょうか? 問い合わせますので、名前を伺っても宜しいですか?」
「名前……」
しまった、覚えてない。というか知らない。
事件の名前からなら辿れないのかな。
「あの、二ヶ月前から起きている市内の児童施設からの脱走事件の、捜索を担当されている方って……どなたですか?」
「名前はお分かりにならないんですね?」
「……はい」
「分かりました。でしたらまず、ここに必要事項を記入してお待ちください」
住所とか名前とか、個人情報を書く欄のある紙を渡された。ここに名前を書いたら、私の素性は一発でばれてしまう。いいや、それは覚悟の上で来たんだし。
汗ばんだ手でペンを握ると、私は名前の欄に手をつけた。
と。
「おや、君は」
後ろから声がかかったのだ。
私は振り向くと、名を呼んだ人の姿を眺めた。缶コーヒーを手にした、背広姿の男の人だ。
あっ、昨日、うちに来たあの人だ……。
「お帰りなさいませ」
「井草さん、彼女は?」
「はい。武蔵野児童失踪事件の捜査官に会いたいと言っています」
「俺じゃないか」
男の人──いや刑事は、漏らすように少し笑った。目線がずれて、私を再び捉える。
「関前咲良──だね。どうした、捕まりに来たのか?」
「…………違います」
「冗談だ冗談、そんな本気の目で睨まないでくれよ」
今、冗談って言った。ということは私、もう疑われていないんだろうか。
心に探りを入れる私の目を、刑事はポケットに手を突っ込みながらじっと覗き込んできた。
「ただし、昨日の君の態度はちょーっと頂けなかったね。そんな気があったかは知らないが、我々警察をおちょくっているようにしか見えなかったぞ」
そこについては、私も反省していたところだ。私は正直に謝った。
「ごめんなさい……。昨日はその、ちょっと……」
ひらひらと手を振って、刑事はそれを遮る。私が黙ると、彼は受付の女性警官に言った。
「井草さん、俺がこの子、引き取ろうか?」
「それで、いいですか?」
私は大きく頷いてみせる。そうだ、会って話を聞きたかったのはまさしくこの人なんだ。
刑事は顎をしゃくって先を示した。
「じゃあ、その辺の個室にでも入ろうか」
ほんのりとタバコ臭い、一階ロビーの隅の仕切られた個室。
どっかりと座った刑事はまず最初に、
「関前咲良です」
「おう、知ってるぞ」
「確か昨日、私の名前を知っている者がいると仰っていませんでしたか?」
柳沢さんはあっさりと首肯してみせた。
「言った言った」
「どうしてその方は、ご存知なんですか?」
「九年前、咲良ちゃんの親を巻き込んだ交通事故の捜査に当たったからだな。咲良ちゃんが知っているかは分からんが、あの事故には御殿山拓磨も関わっていたからね」
さりげなく私の名前を二度も「ちゃん」付けで呼びながら、柳沢さんは語る。そうか、やっぱりそうだったか。私たちの間には、そのくらいしか関わりがないもん。
「ありゃ酷い事故だったな、なにぶん車が車の横っ腹に突っ込んだんだからな。で、それがどうしたんだ?」
「……ずいぶん、お詳しいんですね」
「ああ、だって咲良ちゃんの言ってる『その方』、俺だからな」
…………!?
ちょっと、それを早く言ってよ! 別人だとばかり思ってたよ!
「なんだなんだ、鳩がロケット砲でも喰らったような顔しやがって」
「だって、私てっきり柳沢さんじゃない別の方だと……!」
「悪い悪い」
顔だけで笑いを作る柳沢さん。同じ言葉を繰り返すのが、この人の癖みたいだ。
なるほど、それなら私のことをいきなり馴れ馴れしく『咲良ちゃん』呼ばわりしたのも合点がいく。私たち、ずっと昔に会っていたのだから。
「で、冒頭に立ち返るんだけどさ。咲良ちゃんはいったい何をしに、ここへ来た?自分が疑われている事くらい、当然知っているんだろう?」
「私、まだ疑われているんですね」
「当たり前だろーが。本人の前だから敢えて言うが、咲良ちゃんのしたと
「拓磨くん……?」
「あの子は強情でねー」
苦笑すると柳沢さんは煙草を咥えた。ライターを引っ張り出した時、少し汚れた臭いが宙を漂った。
「別に罪を犯して取り調べを受けているわけでもないのに、あなたたちには何も話したくありません、と宣ってな。咲良ちゃんのこと以外は未だに何も口にしようとしない。仕方ないから昨日は施設に返したが、また今日も喚ぶことになる。見つかったって俺たちの仕事は終わりゃしない、困ったもんだ」
「そうですか……」
拓磨くん、私を庇ってくれているんだな。家を出る直前にはあんなに言い合いしたのに。あんなに睨み合ったのに。思わず口をついたため息が、白く霞んで消えてゆく。
拓磨くんは、頑張ってるんだ。
「──私」
私はやっと、本題を切り出した。
「私、知りたいんです。九年前の事故のことを」
柳沢さんは目を丸くする。
「そりゃあそりゃあ、唐突だな」
「拓磨くんが私と既に関わりを持っていたこと、私も途中で知りました。私も拓磨くんもあの時はまだ、幼すぎました。知るべきことも知らないで、拓磨くんと接したくないんです。ただ漠然と憎しみを覚えるなんて、嫌なんです」
「しかし、咲良ちゃんはもう御殿山拓磨とは会わないんじゃないのか?」
「会いに行きます。その時、拓磨くんにも話すつもりです。九年前に起きた出来事を、あの子も知りたがっていたんです」
半信半疑といった表情の柳沢さんに、私は続く言葉を投げ掛ける。私は本気だ。たかが一度断られたくらいで、拓磨くんとの面会のチャンスを失った気になってたまるか。
「……具体的に、何が知りたいんだ。俺だって何もかもを知っているわけじゃないぞ」
ふーっと煙草の煙を吐き出すと、柳沢さんは尋ねた。
「あの事故のこと、全てを知りたいです」
そう告げると、柳沢さんは露骨にげんなりした顔をする。
面倒なんだろうな。私がじっと待っていると、根比べに負けたように柳沢さんは立ち上がった。
「ちょっと、待ってろ」
それだけ言い置くと、彼はエレベーターへと駆けていった。
あの日、私は家にいた。
まだ覚えている。
あの日、知らない人が玄関まで来てドアを叩いて、警察ですと名乗った。
両親は車で出掛けている最中で、私は独り家でぼんやりテレビを見ていたのだった。
ドアを開けると、背の高い警官が何人もなだれ込んで来た。彼等は私を見ながら何度も電話をしたり紙に書き込んだりしていたけれど、やがて一人が私の目線にしゃがみ込んだ。
彼は言ったのだ。落ち着いて聞いてほしい、君の両親が交通事故に遭った、病院にいるから会いに行こうと。いきなりそんな突拍子もない事を言われた私には、もちろんそれを信じる事なんて出来なかった。
死んでしまうという事の意味すら……私は分かっていなかったのだ。
ポケットから、私はあの手紙を出して眺めた。
すっかり皺くちゃになってしまっているが、それはもう数日前からだ。この一週間、何度これを見返しただろう。せめて何か分からないかと、目を皿のようにして眺めたものだった。
この手紙を書いたのは、拓磨くんのお母さんだ。交通事故で大切な人を失って悲しんでいたのは、私だけじゃない。あの人だってきっと、とてもつらかったに違いないのだ。
柳沢さんが帰ってきた。
「これで説明になるかは分からないが、持ってきてみたぞ」
そう言って彼は、机の上にクリアファイルを放り出す。【捜査資料-2006.9=A22】と書かれたシールが貼られている。
「咲良ちゃんが事件の関係者だから公開できるもんだ。間違っても他人にペラペラ話さないように」
「分かっています。大丈夫です」
「うんうん、その言葉を待っていた」
柳沢さんは何枚かの紙を引き出した。自動車が大破した写真が、幾つも幾つも写されている。
「事故現場を撮影したモンだ。黒い車が横転しているだろう。こっちが加害者に該当する、御殿山の車だ。こっちの青い車には見覚えがあるんじゃないかな」
「……うちの、車でした」
「見ての通り、前面部から右横の側にかけてかなりの部分がぐじゃぐじゃになっている。ブレーキ痕確認などの現場検証の結果、恐らく事故が起こったのはこのプロセスだろうと確定した」
口を動かしつつ、柳沢さんは別の紙も手にした。交叉点や建物が、設計図のように点や線で表現された紙だ。そしてその道路の上に、明らかに異質な物体が落ちているのが確認できる。車だ。
「現場は調布保谷線──新武蔵境通りと、武蔵野市道四十号線の交叉点。当時、咲良ちゃんの両親である関前は車に乗り、おおむね法定速度で交叉点を東から西へ向かって走行中だった。信号はこの時まだ、変わったばかりだった」
私も頭の中で、その光景を想像した。十字クロスの交叉点を、時速何十キロかで通過する乗用車。
そこに突然、強い衝撃が走る────。
「その時、御殿山の車両が交叉点を北から南へ向かって横断しようとした。つまり、赤信号無視だ。推定時速は80キロ。ブレーキは間に合わず、御殿山車は関前車の運転席付近に衝突し、撥ね飛ばされた関前車はスピンしながら信号機に突っ込んだ。御殿山車も衝撃で横転、暫く滑走して止まった」
柳沢さんは地図や写真を捲りながら、丁寧に説明してくれた。ああ、だからこんな事になってしまったんだ……。
「咲良ちゃんの両親は言うまでもなく、即死だった。御殿山車には二人が乗っていたが、一人は頭を強く打って死亡した」
「あれ、もう一人乗っていたんですか?」
「そうさ、何とか生き残ったよ。事故の詳細な状況が分かったのは、その人が病床で語ってくれたお陰だ」
もう一人って、一体誰だろうか。
私はほとんど時間を要する事なく、その答えに辿り着いた。えっ、まさか……。
「言い忘れてたな。生き残った同乗者ってのは、御殿山拓磨の母親である円佳さんだ」
柳沢さんの声が、煙のように揺れている。
騒ぎ出す全身の血に押され、私は思わず身を乗り出した。やっと、やっと答えが見えてきた……!
「そっ、その人は今どうして……?」
「待て待て、急にどうしたんだ?」
「私、その人をずっと探していたんです! 今、どうしているんですか? どこに行けば会えますか!?」
「…………?」
どうしてそんなに興奮しているんだ、とでも言いたげな柳沢さんの顔。そりゃそうだ、私が探す理由なんて私にも分からないよ。私はただ、拓磨くんのためだけに聞いて回っているのだから。
「……どうしても、聞きたいか?」
柳沢さんは、聞き返してきた。
迷う必要はない。私は首を縦に振ってみせる。
また煙草を口に咥えると、柳沢さんはゆっくりと息を吹き出した。冷房が、音の大きさを増した。
再び、口を開く。
「……後悔するかもしれないぞ?」
ああ。
それが……答えなんだ。
まだ聞いている訳ではないけど、私は柳沢さんの次の言葉をすぐに察した。
それでもやっぱり、直接聞きたい。頷くと、柳沢さんは下を向いた。
「そのー、言いにくいんだがな…………亡くなった」
「亡くなった……」
「数ヶ月前の事だ。確か癌だったかな、あの人は長いこと重病を患っていたんだ。それが悪化して、亡くなったそうだ」
「……そんな」
「それがどうかしたのか? 咲良ちゃんには関係のない話だろう」
私は今度は横に首を振ると、手紙を取り出した。自分じゃない誰かに、身体を操られているみたいな感覚がした。
「これ、拓磨くんが持っていた手紙なんです」
不審物でも観察するように、柳沢さんは目を細める。
「施設を出た日に受け取った手紙だって言ってました。差出人は、円佳さんです」
「なに?」
「本当です」
「だって、あの人は……」
私だって知りたいよ、どうして癌で亡くなった人からの手紙が届いているのか。
頭の奥が、ずきずきと痛い。
「……何だか知らないが、とにかく円佳さんは亡くなった。それ以上の詳しい話は、俺は聞いていないな。事故の捜査には関係なかったからさ」
柳沢さんは立ち上がって最後の一吹きを味わうと、灰皿に煙草を投げ込んだ。煙が肺に入ってきて、私は軽く噎せた。
「他に知りたいことはある?」
「いえ、もう……」
「その手紙、ずいぶん汚れてるみたいだけど……うちの署の鑑識に回せば読めるようになるぞ。あいつら暇してるだろうからな」
「……結構です。ありがとうございました」
自分も立ち上がりながら、私はお辞儀をする。
「お時間お取りして、すみませんでした」
「いんや、構わないよ」
柳沢さんは笑っていた。いや、それが顔だけであることは私にも容易に分かる。目はまだ、私の目の奥を捉えて離そうとしない。
「我々警察としては、起きた出来事をはっきりさせたい。誰が関わったのか、誰が関わっていないのか。違法行為を見つけ出す調査機関として、我々はそこのところを知りたいだけだ。だから、さっきも言ったと思うけれど、これからの進展次第では咲良ちゃんにも誘拐の容疑がかかるかもしれない。そこは、肝に命じておくことだよ」
「分かっています」
「それと、御殿山拓磨もこの話を知りたがってたって言ってたな?」
「言いました」
「ふうん……」
柳沢さんは口の中だけで何かを呟いた。いいことを聞いた、とか何とか聞こえたけれど、気のせいだろうか。私は急に不安になった。
早く、ここを立ち去ろう。もう一度礼を言うと、私は小走りで警察署の建物を出たのだった。
絶望。
私の気分を表すのに、これ以上に適切な表現があるだろうか。
拓磨くんのお母さんは、既に亡かったのだ。
探し求めていた存在は、もうこの世には居なかったのだ。
これをどうして、絶望的でないと言えるだろう。
「どうしよう……」
駅前にそびえる摩天楼を見上げながら、私は空に問うた。
仕方がない。お母さんが亡くなったのは、私の所為ではないのだから。そうは理解していたって、いざ面と向かって拓磨くんに話すとなると、口が動きそうになかった。
生きていてくれば、こんな苦労はなかったのに。生きていてくれば、もしかしたら私も色々と話を聞けたかもしれないのに……。
「…………」
その時、何気なくスマホの画面を点けた私は、着信が何件も入っているのに気がついた。
あれ、この番号って確か、拓磨くんのいる施設からの……。着信履歴の一番上を押すと、私は折り返し電話をかけてみた。用件が何であれ、とにかく聞いてみない事には始まらないもん。
「もしもし」
──『咲良くんかね!?』
それはやや嗄れた、男の人の声だった。
咲良『くん』?
あれ、何だろう。この強烈な既視感。この声、前にもどこかで聞いた事があるような気がするんだけど。
「はい、関前咲良と申します」
反射的に自己紹介しながら、私は記憶を辿った。私のことを『咲良くん』と呼んだ人は、私の十七年間の生涯でたった一人だけだ。
──『君から連絡があったと聞いたよ。うちの職員が追い返してしまったそうで、失礼な対応をして済まなかった。…………おっと、名乗っていなかったね』
「井口(いぐち)先生……?」
私が答えを口にすると、彼は電話線の向こうで笑い声を上げた。
──『はは、よく分かったねえ。あれからずいぶん時間が経っているのに』
「声で分かりました」
──『ああ、そうかそうか』
そうだ。
私は、この人を知っている。忘れるはずがなかった。
事故以来、小学校を卒業するまでの間ずっと、私が心のケアを目的に通い続けていた福祉施設『ひかり児童苑』。そこの代表の人が、この声の主──井口
おかしいな、井口先生がどうして施設から電話をかけてくるのだろう?
──『どうだね、久々に話でもしないかい』
「井口先生、別の仕事を始められたんですか?」
──『え?』
「だって、この電話番号って『ひかりの家』の──」
自分で口に出してから、ようやく私は気がついた。そうか、名前、一緒じゃん。
──『私が両方とも経営しているんだよ』
至極穏やかな井口先生の声が、私の直感をそっと支持してくれた。びゅうと風が強く吹いてきて、私はスマホを耳に押し当てる。
──『聞けば、うちの拓磨くんについてずいぶん色々と関わっていたみたいじゃないか。聞きたい事があるらしい、とうちの職員は言っていたけれど』
「はい、あります」
──『ならば尚更、来てみないかね? 私も久しぶりに君と話してみたいんだ』
……私は、無言で頷いていた。
どんよりと濁った、曇天の冬空。
あの日もこんな天気だったんだろうか。寒さに首を竦めながら、私は自転車に跨った。
今朝確認した今日の天気予報は、雨。降り出さないうちに、帰れたらいいんだけど。
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