Re:lieve
市境の仙川上水を越え、私たちは西東京市内に入る。
「ここら辺ですね」
拓磨くんの声に私は頷いた。仙川上水に沿って進むその道からは、あのビルと同じ向きに戸建て住宅が行儀よく並んでいる光景が見られる。
それらしく見えるような位置に私たちは立ってみた。
あれ、思ったよりもビルが見えないな……。上水沿いに生えている木々が繁りすぎていて、隠されてる。
「……どう?」
期待一割、不安九割の心境で、私は尋ねた。
「ちょっと、違うような気がします」
「やっぱり?」
「はい。なんかこう……もっとあのビルが近いような感じがするんです。ここだと遠すぎかなーって思います」
そう言う拓磨くんも悩んでいるんだろう。目を凝らしながら、顔を顰めている。
ターゲットその一は、失敗か……。
残念だったけれど、仕方ない。まだ他にも可能性のある場所は残っている。時間も意外とある。
「吉祥寺の方にも、候補はあるんだけど。どうする?」
「吉祥寺ってどうやって行くんですか?」
言われて私は、ルートを思い浮かべる。最短なのはここから南に行き、五日市街道か井の頭通りに出る事なんだけど、市役所の辺りを通過することを考えると警察も怖い。
「ここからちょっとだけ北に行った所に、青梅街道って道があるの。それを東に向かって行けば、近いエリアには着くはずだよ」
本当は家からちまちまとした道を歩いていくのが、一番に安全で確実なんだけどね。そう続けようとしたけれど、拓磨くんに遮られた。
「じゃあ、これから行きませんか?」
えっ……。
その答えは、予想していなかった。
「これから? 疲れてない?」
心配になって尋ねると、拓磨くんは首を振った。
「僕は大丈夫です。咲良さんさえ良ければ、行きたいなと」
……私を見つめるその両の目が、同じ言葉を訴えている。
確かに、体力的には私もまだまだ大丈夫だけど。
……。
……いいや、行こう。早く解決するに越した事はない、よね。
「拓磨くんに任せるよ。私はどっちでも構わないから」
そう、私は言った。
拓磨くんも、小さく頷く。その意はもう、しっかりと決まっているのだろう。
急ぎたくない。
正直、そう思った。
そう思っていたはずだ。
前を歩く拓磨くんの姿が、一瞬だけ揺らいで見えた。ついて行かなくちゃ、という意思を持っていたのは足だけだった。頭が、ついて行かない。
解決に向かうのが、怖かったんだろうと思う。その理由までは分からない。
──じゃあ私は、どうしたいの?
それさえも見つからなくて、焦点の定まらないまま視界は道路に出た。
青梅街道は、青梅市の奥から新宿まで至る東京の主要幹線道路だ。ひっきりなしに通過する車の向こうに、対岸がちらちらと見えている。
私は何気なく左右を見た。自転車に乗った青い服の人がこちらに向かってきているのが、ちらりと網膜に映る。
……え?
拓磨くんは走り出していた。青い服──警察官とは、別の方向へ。
「ちょ、拓磨くん!」
慌てて叫ぶと、私も走り出した。びゅうびゅうと耳元で鳴る風を飛び越えて、『ピリリリ────!』とホイッスルが叫んだ。
「止まりなさい!」
大声を上げながら、警察官は立ち漕ぎで追いかけてくる。しまった、はっきり向こうにも気づかれていたんだ……!
暫く道路を走った拓磨くんは、唐突に止まった。首が壊れちゃうんじゃないかって勢いで後ろを見、次いで前を見る。
まさか。
予想した通りだ。私たちの距離が二メートルくらいまで近づいた所で、拓磨くんは道路を垂直に渡り始めたんだ。
「待って!」
そう叫ぶのがやっと──いや、それさえも出来なかった。私も脇目も振らず、道路に飛び出した。前を走る拓磨くんの背中が、ぐらぐらと振動する視界の中心に収まる。
後ろから、横から響き渡る、車のクラクション。やばい、接近してる……!
お願い、お願いだから来ないで自動車!
「止まれえ!」
警察官の怒号が、却って私の背中を力強く押してくれた。幅三十メートルほどの道路を、私たちはぎりぎりで何とか駆け抜けた。対岸の歩道に飛び乗って後ろを振り返った瞬間、すごい勢いで背後の車線をトラックが通過して行った。
「危っぶな……」
そう言って一息つく暇もなかった。警察官は近くの信号機の前で、こちらに渡るチャンスを窺っている。
「咲良さん!」
叫んだ時にはもう、拓磨くんは走り出している。私だけ取り残される訳にはいかない。草臥れた両足を叱咤して、私もまた地面を蹴る。
遭遇地点から距離を取りつつ、複雑な道を選ぶ。再び別の信号で青梅街道を横断し、市役所の脇を掠め、武蔵野中央公園を全力で走り過ぎた所でやっと、私たちは立ち止まった。
さすがにもう……振り切れたみたいだ。
「怖……かった……」
あれほど漲っていた力が嘘のように、拓磨くんはその場に座り込んだ。喘息みたいに荒い息が、逃走に要した負担の大きさをありありと示している。
もっともそれは、私も同じだ。疲れた……。
「……大丈夫? ケガとか、してない?」
「何とか……」
「あそこを渡るとか拓磨くん、思い切った行動に出るね……」
「いやもう……夢中で……」
息も絶え絶えにそこまで言葉を交わすと、私たちは傍のベンチに腰かけた。膝ががくがくする。
辛うじて巻くのに成功はしたものの、お陰ですっかり力の抜けてしまった私の身体に、十一月の風は心地いい。ああ、寒いって、こんなに良いことだったっけ……。
「…………」
「…………」
まだ当分、動きたくなかった。
「……咲良さん」
「……うん」
「……吉祥寺って、どのくらい離れてるんですか」
「……三キロ近く?」
「……ちょっと、遠すぎますね……」
「……私も、厳しい」
「…………」
「やめとこう」
私の下した決定に、拓磨くんは逆らわなかった。
正直、あんなに走ったあとに往復五キロ超は歩けない。というより、勘弁してほしい。そんな思いは拓磨くんにも共通だったみたいだ。
少し時間が流れるのを待っていると、自然と動悸も収まってきた。
「……そろそろ、帰ろうか」
先に立ち上がってお尻の砂を払いながら、そう私は声をかけた。
「そうですね」
と、拓磨くんは応じた。
◆ ◆ ◆
急いだ後は、時間がゆっくり流れるように感じる。
枯葉に彩られた遊歩道を歩きながら、スローモーションで落ちてくる葉っぱを眺めるたび、そんな気がした。
軋む膝を余計に痛めないように慎重に歩を進める私と、そんな私からきっかり三十センチほどの距離を保って横を歩く拓磨くん。端から見ればどんな二人なのだろう。差し詰め歳の離れた姉弟、といったところかな。
楽しかった。
私は、改めてそう思った。
不謹慎だとは分かってる。実際、拓磨くんからしてみれば、後ろから巡航ミサイルが追尾してくるほどの危機だったに違いない。私だって警察に追いかけられるのなんて嫌だし、そこは同じだ。
でも、だからこそ。決して後ろを振り向く事なく市街を駆け抜ける拓磨くんの背中が、普段は運動なんてぜんぜん出来ない私の事を強力に引っ張ってくれていた。 警察に追いかけられるだなんて、それこそ小説の中でしか見聞き出来ないような事態に自分が陥っているという自覚は、スリルを不思議な気持ちよさに変換してくれた。
今の私の身体の状態で、もう一度同じ状況を与えられたとしても、きっと私は逃げるだろう。どんな悪路だって、きっと駆けてみせるだろう。前をあの子が、走る限り。
そこまで思い至って、私は漸く気がついたんだ。ああ、私、楽しかったんだって。
なぜだろう。
他人といるのが、こんなに楽しく感じられるなんて。関わる相手がいるという事が、私の中にすんなり受け容れられているなんて。
もう何年も学校生活を送る中で──それどころか実家での時間の中でさえも、見つけることの出来なかった心の安らぎが今、この少年の前で姿を表している。
どうして?
「──僕、思うんです」
ふと、拓磨くんが呟いた。
「ん?」
「咲良さんは、僕と似た匂いがするなって」
「匂いって……
「はい。と言いますか、全体的にすごく」
拓磨くんが頷いた所で、私たちは曲がり角に出る。
びゅんびゅんと自動車の通過する道路沿いは、風圧がすごい。ふわり、空から舞い降りてきた一枚の枯葉を、拓磨くんは空中で掴んだ。
「咲良さんの小説を読んでいて一番思ったのは、咲良さんは言葉を操るのが上手いなっていう点だったんです。それはきっと、普段から逐一言葉を使うのに気を使っている、そういう風に心がけているからなのかなって思いました。自分で言うのもなんですけど、僕もそうなんです。咲良さんの過去の何一つを、僕は知りません。でも、もしかしたら案外、まだ僕の知らない本当の僕とも近いのかもしれないな、って想像してしまうんです」
「うん……」
「……すみません、勝手に同類扱いしてしまって」
「ううん、実は私も少し、同感かもしれない」
私は笑いかけた。
昨日から分かっていたことだ。敬語で自らに言葉の防御線を張るのが拓磨くんなら、私がやっているのも同じだと。
私はこれまで、知り合ってきたどんな人にも、私が遭った目について話した事はない。意図的にキャラクターを演じている自覚もある。今の私にとって、『関前咲良』は仮面に付けられた名前でしかない。
それは、理解してもらえる見込みがないと踏んだから。他人の不幸話を聞かされた時、人は同情や共感は出来ても理解する事は能わない。そう私は思っているし、経験則でもあるのだ。だから他人には、絶対に話したりしない。そう決めたんだ。
けれど私は今、御殿山拓磨くんという一人の少年の人生を、本人と一緒に探し求めている。
ねえ。
本当に私、真実を知りたいの?
知りたいのは真実ではなくて、それを追いかける拓磨くんの頭の中なんじゃないの?
或いは真実を手に入れるまでの間、私が彼に与えると言った二人の時間なんじゃないの?
ねえ、どれなの?
家に帰っても、ごはんを食べても、お風呂に入っても、その疑問は私の
きっと私は、寂しかったのだろう。それか、暇で退屈で仕方なかったに違いない。やっと慣れてきた独り暮らしの、家の中に誰もいないという孤独に。いや、それとももっと昔からの孤独にだったのかもしれない。
だとしたら、拓磨くんはそんな私の孤独を埋める事の出来る要員として、私が無意識に選んだ人だったのだろうか。それならそれで、素の自分を見せない私と似たような性格である事への根拠付けも出来ている気がする。
「それじゃあ、お休みなさい」
そう言って拓磨くんが襖を閉めてから、一時間。今日書き上げる予定だった『MAIL』の更新分を打ち終えると、私はふと横に目をやった。今やきっちりと閉じられ、壁の一部になった襖の向こうから、幽かな寝息が聴こえてくる。
音を立てないようにそこに近寄ると、私はそっと襖を開けて中を覗いた。リビングの蛍光灯に照らされた拓磨くんの寝顔は、安らかだった。疲れているんだろうな、長いこと顔に光が当たっていてもぴくりともしない。
この子がいなくなる日が来た時、私は何を思うんだろう。それを知るのが怖くて、想像も今はしたくない。
この子は昨日、私の小説を読んだだけで、私の性格をある程度まで読み解いてしまった。
もし、このまま時間が過ぎれば、いずれはもっと私たちは分かり合えるのかもしれない。いや、きっとそうだと思う。
そしたら、私は拓磨くんに心を開けるだろうか?
他人に理解されるというのがどういう事か、私には分からない。でもそれはきっと多分、お互いの気持ちに歩み寄れるようになるという事なのだろう。
だとしたら────
ここに残ってほしい。
そう、素直に言葉に出来たら、どんなにか楽だろう。
私はそっと襖を閉めると、パソコンを立ち上げた。
思いの丈をぶつける先は、今はまだ────小説でいい。
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