二〇一五年十一月二十五日。

Re:cite





 次の日の、始業前。

 私は珍しく、自分から有沙に声をかけた。

「ねえ、有沙」

 呼ばれた彼女はびっくりしたように、目を真ん丸にしてこちらを振り返る。何よ、そのオーバーな驚き方。

武蔵野市内このあたりでさ、大きな壁みたいな建物がある場所って言ったらどこがあると思う?」

 質問の意味が分からないのか、きょとんと首を傾げる有沙。それなら、と私はカバンから一枚の紙を取り出した。それは昨日、拓磨くんが描いたあの絵だ。

「こんな感じの風景。見覚えない?」

「えー、こんなアバウトな風景見せられてもなぁ……」

 絵を手に取ると、目を皿のようにして有沙は眺め回した。

「なに、これ手前が道路なの? んで、奥に見えるのはビル?」

「それが分からないの」

「それが分からなきゃどーしようもないじゃん」

「だから聞いてみてるんじゃない、有沙に……」

 確かに有沙の言うことは正しいけどさ。それが分かってたら、私だって苦労はしないのよ。

 有沙は絵を机に置くと、私の方へと捻っていた身体を前向きに戻した。目を閉じて、何か記憶を辿っている……らしい。

 果たして、有沙は閃いたように指を立てた。

「手前の家と道路の大きさを考えたら、この後ろのビルはかなりの高さになるじゃん。三鷹の駅前に建ってるツインタワーだったら十分だけど、そんな形じゃないし。西東京市との境にこんな感じのマンションあった気がするけど、市内かって言われたら微妙だし」

 私の頭の中で、目まぐるしく風景が切り替わる。

「やっぱ、吉祥寺の駅前の東急とかKirarinaキラリナとか……あるいはアレしか可能性はないんじゃん?」

「アレ?」

 こくんと有沙は頷くと、言った。

「武蔵野中央公園から見える、バカでっかいビルがあるでしょ。咲良なら見たことあるんじゃないの?」


 都立武蔵野中央公園は、武蔵野市の北部に巨大な敷地を持つ野原公園だ。

 そしてその北には、大手通信会社の所有する研究開発センターがある。あそこには確かに、高さ五十メートルは優にある横長のオフィスビルが建っていた。市のゴミ処理施設の煙突すら凌いで、その姿は辺り一帯のどこからでも見ることが出来たはずだ。

 そうか。なんでそれ、思い付かなかったんだろう……。

「ありがとう。そこと吉祥寺、当たってみるよ」

 そうお礼を言うと、有沙はまた目をパチクリしながら私を見詰めた。

 で、口を開いた。

「……突然、なんでそんなこと聞いてきたの?」

「いや、ちょっと、ね」

「小説のネタ?」

「はずれ」

「えー、教えてよ」

 残念ながら、それは言えないの。

 何度も尋ねてくる有沙の言葉を躱しながら、私は今日のターゲットを定める事にした。あの研究センターだ。



 完全には記憶が戻らない以上、同時平行で拓磨くんの探している何かも見つけた方がいい。案外その方がもしかしたら、記憶が回復するかもしれない。

 今朝、拓磨くんはそう私に提案した。警察は怖くないのかって聞いたけれど、拓磨くんは首を振ってみせたんだ。

「いつまでも恐れている訳にはいかないです。僕だっていつかはまた、独りで外の街に戻るんですし」

 そう諭す拓磨くんの目には、いつぞやの強い光が再び宿っていた。大人っぽい事言っちゃってと笑いながら、その時少しだけ、焦ったのを覚えている。

 とは言え、拓磨くんの言う通りだ。そこでまず私は、拓磨くんの描いてくれた絵の場所の見当をつけることにしたのだった。

 とりあえず候補は見つけた。あの研究センターと吉祥寺の市街地はそこそこ離れているから、一度に二つ回るのには無理があるだろうな。近場だし、今日は研究センターの方から探してみよう。


 なぜか私の心は、勝手に独りで盛り上がっている。








「……そんな場所があるんですか」

「うん。この家から、何百メートルか北の方に歩くとあるの。そこまでは遊歩道があるから、そこ通って行こう。たぶん警察のお巡りさんも少ないはずよ」

「分かりました」

 そんな会話を交わしながらその日の午後、私たちは家を出た。昨日とは打って変わって、空は綺麗に晴れている。コートは要るけど、そこまで寒くない。

「冬って嫌ですね……」

 ほんのりと白い息を吐きながら、拓磨くんがぽつりと呟く。

「なんで?」

「寒いじゃないですか」

「……それがいい、って人もいると思うよ」

「僕は寒いのは嫌いなんです。夏は木陰で涼めるけど、冬の寒さは自然物ではどうにもなりませんから」

「…………」

 足元の枯れ葉が、カサッと音を立てて拓磨くんに賛意を示している。

 服を着ればいいじゃないとは思ったけれど、私は敢えてその言葉を使わなかった。あるいは、そうして人に頼るのさえも抵抗があるのかもしれない。


 アパートの前の道をひたすら真っ直ぐ東へ向かえば、遊歩道に突き当たる。

 グリーンパーク遊歩道と呼ばれるその道は、実は廃線跡だ。今の武蔵野中央公園や研究センター、それに大きな公団団地のある一帯は、かつて戦時中に軍用航空機製造工場があった場所だった。この道は元来、そこへ資材を搬入するための貨物線だったのだという。

 線路だっただけに道は平坦で、カーブもきつくない。ただ単に散歩するだけでも、十分に楽しいと私は思う。

 もうだいぶ日も傾いて、私たちを照らす陽の光は黄色だ。青い制服の人たちに遭遇しないように細心の注意を払いながら、私たちは黙って歩を進める。

 町全体が、『ハンター』から逃げる某テレビ番組のステージになってしまったみたいに感じた。


「……それっぽい家の並びとか、ある?」

 だいぶ歩いた頃、私は久々に口を開いた。

 歩みを時折遅くしては街路の間をじっと見つめながら、拓磨くんは、いえ、と反応する。

「どこか違うような……」

「ああ、ここが違うって具体的に言えないような?」

「そんな感じです。武蔵野市このまち、似たような風景が多いから」

「だよねえ」

 まあ、全域が東京の衛星都市の性格を持ってる町だし、そこは誰も否定しないだろうな。

 どこまでも一戸建てとアパート、それにマンションが建ち並ぶ道々。ときどき畑と工場とビルが混じるくらいで、駅前でもない限りはこの市の街並みは比較的均一だ。

「……だから、いいんだけどね」

 小声で言うと、拓磨くんは顔を覗き込んできた。

「そういえば、咲良さんはどうして、この街に住もうと思ったんですか?」

「私? うーん……特に『これ』って理由がある訳じゃないんだけどね。いくつかあるの」

「そうなんですか?」

「うん。一つには学校が近いことかな。独り暮らしを始める時点でもう高校生だったんだけど、私の高校は中高一貫だったから、もう最初から目的地が決まってたの。んで二つには、前に話した父方の実家が隣の三鷹にあるから、いざという時のために三鷹からあんまり離れない所がいいなって思って」

 へえ、と拓磨くんは頷いている。

 本当はそれだけじゃない。ここ武蔵野市は、周辺の他の街と合わせて文豪の多く住まう地域だった。独立を決めた時すでに小説を書いていた私にしてみれば、そんな街での独り暮らしは憧れでもあったんだ。ぶっちゃけ、それなら三鷹市でもいいんだけど。



 それに。

 この街は………………………………、




「……どうか、しましたか?」

 拓磨くんが尋ねてきた。

「顔色があんまり良くないです」

「そっ、そうだった?」

 しまった、動揺が顔に出ていたかな。私は小さく息を吐くと、笑った。

「……まあ、この街が好きなんだ。私」

 そう締め括ると、拓磨くんはまた前を向く。

「そうですか……」

 その一言で、この話は終わりになったのだと分かった。顔に掛かった前髪を振って払うと、私もまたゆっくりと歩き出す。







◆ ◆ ◆










 一九九八年、春。

 十七年前のその日、私はこの街で生を受け、『関前咲良』という名前と共に社会へ参加する事になった。当時の家がどこだったか、私は今でもちゃんと覚えている。

 それ以来、私がこの武蔵野市を離れていた期間は六年近くに及ぶ。しかしその間、私が過ごしていたのは隣接する三鷹市だ。『武蔵野』という地域からは、実質的には出たことがない。

 けれど住まいは同じように見えても、私の今までの人生は中間を境にがらりと性格を変えた。どうする事も出来なかった私には、ただ今の日々に耐える事だけが要請されていた。今では、そう思う。

 きっかけとなったあの事件を、私は今までもこれからも忘れたりなどしないだろう。この街の土を、踏み続ける限り。


 二〇〇六年の、ちょうど今くらいの季節だっただろうか。

 私の両親は、交通事故で死んだ。

 当時八歳だった私は家にいて、事のあらましを警察から聞かされた時はもう、両親の息は絶えていた。

 それまで私の全てだった人たちとの、あまりにも呆気ない別れだった。


 以来、実家に引き取られた私は市内の児童福祉施設で毎日カウンセリングを受けつつ、小学校生活を終えた。

 陰ながらの勉強が実を結んでか中学受験に成功して、カウンセリングはその時にやめた。隣街から学校に通い続けて三年目、なんだか祖父母に迷惑をかけ続けるのも悪いような気がして、独立を決めた。

 そして、今の私がいる。


 確かに、この街は好き。

 適度に公園もスーパーもあって、交通も至便だ。暮らしやすさや街並みの良さを考えあわせれば、きっとここが東京中で一番いい。それくらい思う事だってある。

 だけど、本当にそれだけかと問われたら私は、頷ける自信が今もない。

 ここを離れるという選択肢が浮かばなかったのは、未知の土地に対する恐怖と言うよりは、この街に縛られている心の所為せいのようにさえ感じるくらいだ。

 住み続ける限り、あの記憶に苛まれる日々が続く。それを分かっていた上での、選択だったはずなんだ。




 ところどころが紅葉している草木のトンネルの下、遊歩道は武蔵野中央公園まで延々と続く。

 アパートを出て、三十分も経っただろうか。やっとその向こうに、目的地が見えてきた。

「ここね」

 道路に出た私は、道路の向かいの公園の入り口を指し示した。「ここが、武蔵野中央公園」

「戦時下は、工場だった……」

「そ。戦後は野球場が建設されて、三鷹駅から電車が走っていたみたいよ」

 その時のホームのあった場所は、今は横長の高層マンションになっている。想像できない、とでも言いたげに拓磨くんは目を丸くしながら風景を眺めていた。

 って、いけない。それが本題じゃない。

「ほら、木々の間に見えるでしょ? 塗り壁みたいな大きなビルがさ」

「……確かに、何か見えますね」

「あれじゃないかって思うの。君の絵に描いてあった、家々の先に建ってる大きな建物」

 拓磨くんは絵を広げると、それをしげしげと眺めた。ちょっと、それ拓磨くんが描いた絵でしょうが。

「……建物の外見までははっきり覚えていないんですけど、ぼんやりした風景だったら」

「つまり、その絵と同じアングルの場所を探さなきゃいけないって事か……」

「……すみません」

「大丈夫よ。私、この街は誰より知ってる自信があるから」

 全然フォローになってない事に言ってから気づいたけれど、訂正する前に私は歩き出していた。一歩遅れる形で、拓磨くんが後をついてくる。

 公園の入り口を入ると、園内の歩道を北へ。たくさんの木たちの狭間の空に、頭の上に円盤を乗っけたガラス張りの高層ビルがだんだんと広がってきた。



 探すと言っても、闇雲に歩き回る訳じゃない。

 絵における道路と家々、そしてビルの向きの描かれ方が、そのアングルを可能にする場所の候補を狭めている。今回の場合であれば、ビルの広い面から見てだいたい右斜め前のエリアを探せばいい。

 件の研究センター以外にも、この辺りには敷地面積の大きな施設が多い。一戸建てのある場所そのものだって限られている。私たちの目指すのは、研究センターの北東側──西東京市との市境に近いエリアだ。


「……こっちの辺りは、ちょっと怖いです」

 研究センターの南を抜ける道に入ると、ふとしたように拓磨くんが、ぽつり。

「なんで?」

「だってこの先、市役所とかがあるみたいじゃないですか。警察とか、たくさんいそうだなって」

「それも……そうだね」

 公団団地の陰にちらちらと、茶色の壁をした武蔵野市役所が見えている。今日の拓磨くんは逃走していた時の服装でいるから、確かに見つかるリスクはそれだけ高いはずだ。

 私がしっかり、見張っていなきゃ。後ろを歩く拓磨くんの楯になるように、私は少し位置取りを変えてみる。そんなことで効果が上がるかどうかは、さておき。



 こうして二人でいる時間ももう、思えば四日目だ。

 わずか数十センチの距離で拓磨くんと、ううん……誰かと接するこの日々にも、慣れてきた。

 いつもなら、毎日のように引きこもってはパソコンを前に小説を書いている、この時間。午後の傾いた陽の光を浴びながら歩く時間は、すごく久しい経験で、何だかとても温かかった。

 このまま、時間が止まってほしい。陽の沈まない世界で、どこまでも歩いて行きたい。ふとした拍子に微睡みそうになる温かさの中で、私は確かにそう思った。


 願った、という表現をするのは、少し過剰かな。




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