Re:gret





「僕、咲良さんの書いてる作品も見てみたいです」

 画面を前にぼうっとしている私に、ふいに拓磨くんが言い出した。

 えっ、私の!?

「そんなに、出来よくないよ……?」

「作品ってけっこう、書いている人の心が滲み出すモノだと思うんです。だから、咲良さんの書くものが気になります。見て、読んで、知りたいんです」

 拓磨くんの目は真剣だ。

 怖れる事なんてあるだろうか。そもそもすごく物腰は丁寧だし、真正面から「これ、ダメですね」とか言いそうな性格にも見えない。だけど単純に恥ずかしい。目の前で自作品を読まれるのって、きっと商業作家さんでも恥ずかしいんじゃないか。

「…………」

 悟られないように画面を睨み付けていると、そこにも拓磨くんの顔が反射した。

 ……そんなに、興味があるのね。

「……分かったよ。ちょっと、待ってて」

 仕方ない。私はネットを立ち上げると、投稿サイト『Will be writer』を開いた。私のユーザーページにアクセスして、投稿作品一覧をクリック。読者からの評価が一番高い作品を選んで、そのページに飛ぶ。

 どれが一番出来がいいかなんて、自分じゃ分からない。だから一般評価を基準にして並べ替えて、精々見栄を張ろうとした。

 ってなんだ、『MAIL』か……。

「これで、どう?」

 私は作品紹介ページを開いた。覗いた拓磨くんが、変な顔をする。

「……P.N.ペンネーム、『桜野さくらのさくら』って言うんですか?」

「卒業した小学校の名前、借りたんだ。なんかいい感じになったでしょ?」

「はぁ……」

──あ、今バカにしたな。

 拓磨くんが画面越しにちょっと笑ったので、また少し恥ずかしくなった。その笑みも、画面がゆっくりと下に動いて行くにつれて消えてゆく。



 時間は、ゆったり、ゆったりと過ぎていく。

 午後三時半に授業が終わって、帰ってきてからもう一時間近く。武蔵野市の流す午後五時のチャイムが、ゆらりゆらりと揺らめきながら窓を鳴らしている。遠くで微かに、高架を走る中央線の走行音が響いているのも聞こえた。

 部活に行ってたらこんな穏やかな時間は手に入ってはいなかっただろうな、と思った。拓磨くんのお陰……なんだろうか、これは。

 今、この子の胸中にはどんな思いが渦巻いているんだろう。そう言えば今まで拓磨くんは、自分で自分が分からないという事に絶望こそしていたけれど、記憶を取り戻す事にそこまで急いでいるようにも感じられない。




 カチッ。

 最新話まで読み終えたんだろう。拓磨くんは画面を最初のページに戻すと、マウスを置いた。

「……すごく面白かったです」

 最初にその一言が出て、思わず私はほっと胸を撫で下ろした。良かった。読むに堪えませんとか言われたら私、しばらく立ち直れる自信がなかったよ……。

「咲良さんの文章って、時としてすごく激しかったり、あるいは切なかったり、緩急の差が大きいように感じるんですよね。そういう効果も影響しているのかは分かりませんけど、伝えたい気持ちは確かにあるのに、メールを交わしてでしかそれを相手に伝えられない登場人物のもどかしい感情が、すっごく伝わってきます。ああ、今この人は悲しい気持ちでこの文章を打っているんだろうな……っていうのが」

「あ、ありがとう」

 誉められた……。嬉しいというか安心したというか、そんな気持ちで私もじっと画面を見つめた。

 感想をもらった事は、もう何度もある。誉められた事だって多いし、レビューを書いて他の人に紹介してもらえた事だってある。でも感想を十件貰った時よりも、今の私の方が何十倍も幸せだ。


 けれど拓磨くんの言葉は、そこで終わりではなかった。

「──その、僕、文章を読みながらいつも思う事があるんですけど」

 少し言いにくそうに遠慮がちな目を私へと向けながら、拓磨くんはゆっくりと言葉を吐き出した。

「人の想像力って、どうしても限界があります。楽しい時に悲劇を書くなんて不可能に近いみたいに、ある程度はその人の書いている時の気持ちに沿っているのが小説──いえ、文章だと思うんです。この作品に出てくる話ってどれも、言葉遣いとか表現の端々がすごく怒っていたり、呆れていたり、寂しそうに見えるんです。もちろんそれは主人公の気持ちの顕れでしょうし、それはそれで納得が行くんですけど」

 拓磨くんは真っ直ぐに、私を見ていた。

「咲良さんも、この小説のキャラクターのように腹立たしかったり、呆れていたり、寂しかったりするのかなって……思ってしまいました」





 どうして分かったの?

 ──今の私の言いたい事を一言に纏める術があるのだとしたら、それはこのセリフしかないと思う。


 寂しい?

 私が、寂しい?

 そんな訳がない。でなきゃ、独り暮らしなんてしない。する訳がない。私は今までずっと、感情なんてないかのように、理性だけで生きているかのように、周囲に対して振る舞ってきたんだ。いや、違う。自分は無感情なんだと思って、生きてきた。

 だけど、はっきりと明確に首を縦に振って、その考えを否定する勇気は、出なかった。


 寂しいという気持ちを、この子はたぶん身を以て知っている。

 私なんかよりも、もっと深く、深く。記憶が飛び、自分の姿を見失うという……、最悪のプロセスによって。

 だからこそ、こんな言葉を言えるのだとしたら。

 だからこそ、私さえ気づかない心の動きを掴めたのだとしたら。

 だとしたら?





 少し時間が経った頃、ようやく返すべき言葉が浮かんできた。

「……私が独り暮らしを始めた理由、君にはまだ教えていなかったね」

 私は、静かに言った。木々のざわめく音が、今は唯一のBGMだった。

「はい」

「でも、その話は正直あまり……したくないの」

 拓磨くんが少し表情を変えたのが分かった。

「いえ、聞きたいだなんて思ってはいないです。咲良さんの事情に介入する権利も理由も、僕にはありませんし」

「……まあ、そうだよね」

「そう聞こえたのなら、謝ります。すみません」

 恐る恐るといった様子で、拓磨くんは項垂れる。部屋の中の空気が少し、澱んだような気がした。

 こういう雰囲気が、私は好きじゃない。腕を捲ると、私は拓磨くんに笑いかけた。

「ちょっと早いけど、晩ごはん、作ろっか」







 昨日、今日と二日接してみて、何となく掴めたこと。

 拓磨くんは、他人への干渉を極端に敬遠する嫌いがあるみたいだ。無論、内面的な干渉であって人に対する時は普通なんだけど──いやむしろ、丁寧すぎるくらいなんだけど。でもその敬語だって、自分を他者と遠ざけるための道具というか、仕切りのようにも思える。

 最低限、場を保つための会話は怠らないけれど、それ以上は拓磨くんはしようとしない。それはある意味、人と人の関係を破綻させないようにするのに特化しているみたいだ。

 冷めているわけでは、きっとないんだろう。だとしたらなぜなんだろうか。

 もっともどの道、私と同類であるのは間違いがないはずだけど。私だってさっき、拓磨くんの存在の介入を拒否したもの。「話したくないの」の、一言で。



「これ、切ったらどうすればいいですか?」

「それはそのまま置いといて、後で他の野菜と和えるから。魚が焦げてないか、見てくれない?」

「分かりました。……あ、少し端が黒くなってる」

「あー、じゃあ裏返しちゃって」

「はい」


 それにしても、本当に手際がいい。

 こんな弟がいたなら、この生活も楽だったのにな。私だって有沙に個人レッスンはかなり受けたし、それなりの調理技術は持ってるって自負はしている。でも、この子は庖丁の使い方も緻密だし、火加減も大概ちょうどいい。手先が器用と形容するのが、適切なのかな。

 楽できていいなあ、と思わず不真面目な事を考えてしまいかけた、その時だった。



 カッ。

 何か固い物が、別の固い物に当たったような音がした。

 私は瞬時に真横を見た。拓磨くんの手から滑り落ちた庖丁が、俎板の上の切られた大根に垂直に突き立っている。

「ちょっと、どうし──」

 言いかけた私も、固まった。

 薄っぺらな壁の向こう、小金井市との市境を走る五日市街道の方から、パトロールカーのサイレンが聴こえてきていた。

 あっ、と思った時にはもう、私は出遅れていた。

「警察が……ケイサツが……!」

 拓磨くんはぶるぶる震え出した。

 まずい、パニックを起こしてしまう!

 私と拓磨くんの焦りを嘲笑うように、或いは一層追い詰めるように、サイレンの雄叫びは大きくなる。近づいてきているのは明らかだ。

 キッチンの床に、拓磨くんはしゃがみ込んだ。雷に怯える小さな子どものように。

「来るな、来るな、来るな、来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな……!」






 ああ、そうか。



 その時、私はようやく気がついた。

 あんなに過酷な過去を背負い、こんなに大人っぽい振る舞いを見せたところで、この子はまだ子供なんだ。ともすれば忘れてしまいそうだけど。

 一端の大人であるかのように扱っていたさっきまでの自分が、恥ずかしいと思った。同時に、同情してあげたいと思う気持ちが胸の奥から湧き上がってきた。


 パトロールカーのサイレンは、私たちの住むアパートの前の通りを通過してゆく。背後のドアに嵌まった磨りガラスを、一瞬だけ真っ赤なその煌めきが照らして行った。よかった……思わず私まで、どきどきしちゃったじゃない。

「行っちゃったよ」

 恐怖に怯える拓磨くんの肩を、私はそっと取ろうとした。途端、拓磨くんは目を見開くなりその場から飛び退いて、私を見詰めた。

 その目は昨日、私を警察と勘違いした時の目と、同じだ。

「心配しないで、私だから。警察はこの部屋には、入って来れない」

 そう言葉を重ねても、拓磨くんは決して私から目を離さない。逃げるタイミングでも、見計らっているみたいに。

 恐怖と思い込みに、この子の頭はもう凝り固まっている。たぶん、解決の為に必要な言葉は、一つだけだ。


「大丈夫だよ」


 拓磨くんを真っ正面に見据え、私は笑ってみせた。

 作り笑いかどうかなんて、この際どうでも良かった。


「私はいつだって、ここにいるから。いつでも私に、頼っていいんだよ」


 拓磨くんは私を見上げた。そして、小さく俯いた。

 荒かった息は次第に落ち着いてきている。その場にぺたんと尻餅をついた拓磨くんは、ぽつりと呟いた。

「……また僕、夢を見ていたんですね。すみません……」

「いいのよ、気にしないで。拓磨くんのそれは仕方ない」

 さ、続きに取り掛かろう。お玉を取って促すと、拓磨くんも立ち上がって庖丁をまた握った。鍋の中に突っ込んでおいた所為か、お玉の持ち手はずいぶん温かくなっていた。



 二人の生活も三日目にして、それはすっかり定着してきたような気がする。

 湯気で暖まった部屋の中で、私たちは夕飯を食べた。背後に置いてあるテレビの声が、昨日とは打って変わってごく普通のそれに聞こえる。

 いつもの事だけど、私も拓磨くんも一言も喋らない。本当は今日は話しかけようかと思ったのだけど、拓磨くんは時折虚空にじっと目を凝らしながら、何か考え事をしているらしかった。

 私は敢えて、考え事の中身については聞かなかった。というよりも、私が口に出す前に拓磨くんの方から話してくれたのだ。




「僕、探していたんじゃないかと思うんです」

 夕食後の皿洗いをしながら、拓磨くんは唐突に言い出した。

「探していた?」

「それだと説明がつきませんか? 僕、前はこの市内の施設にいたんですよね。なのに二ヶ月間も家出をする理由があるとしたら、そのくらいしか思い付かなくて」

 ……そうね。ただの家出だったり逃避行だったら、同じ市内に戻って来たりするわけがない。私は頷いて、先を促す。

「でもじゃあ、何を探していたんだろう?」

「昨日、僕の住んでいた町のイメージを話したじゃないですか」

「うん」

「妙に脳裏に残っている風景があるんです。何か描けそうな紙、ありますか?」

 裏紙と鉛筆を渡してあげると、拓磨くんは線画を描き始めた。

 狭い天井に、シャッシャッと鉛筆の芯が擦れる音が響く。紙の上には道路らしき何かが描かれ、次いで家のようなモノが並んでいった。

 暫くして拓磨くんは手を止めた。

「こんな感じなんですけど……分かりますか?」


 画面の下を斜め右上に横切ってゆく道路の脇に、何軒も一戸建てくらいの建物が建ち並んでいる。

 そしてその屋根の奥に、さらに大きな壁が聳え立っている。そんな絵だ。

 ……この壁、何だろう?

「これ以上はっきりとは、分からない?」

 紙を手に尋ねると、拓磨くんは首を振ってそれを否定した。

「いえ、これ以上は思い出せないです」

 ならば、仕方ない。

 私はもう一度、絵を見つめた。拓磨くんの言う通り、この景色を探すのが脱走の理由なんだろうか?

 確定できる条件は何もない。けれど、探してみるのも悪くないんじゃないだろうか。少なくとも拓磨くんは見たことのある風景という事になるし、もしかしたら記憶が戻ってくるかもしれないもの。

「私も心当たりがないなぁ……。明日、学校で聞いてみるよ」

 私の答えに、拓磨くんは変に引き締まった顔で頷いた。














 それにしても。


 私、変わった?





 眠りに落ちるまでの間、そんな疑問が頭を離れなかった。

 ぜったいに変だ。私はこれでも小説家だ、他人に読まれるのには慣れている。でも、今日みたいに恥ずかしさを覚える事なんて、まずなかったのに。

 今日に限らない。今までの私だったら、さして関係のない人を家に泊めたりなんて考えもしなかっただろうと思う。




 私、変わった?

 どうして?

 布団を頭からすっぽり被りながら、私は自問した。



 答えは……もちろん、出なかった。






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