Re:minince
JR武蔵境駅は、中央線に乗って東京から四十分くらいの所にある駅だ。
西武多摩川線の始発駅でもあるここは、いつもなぜか信じられないくらい混んでいる。でも、何か大きな集客スポットがあるのかといえば、別にそういうわけじゃない。南口の巨大なイトーヨーカドーと、北口の商店街「すきっぷ通り」。この町の駅前はほぼ、その二つで成り立っている。
いずれにしても、普段はとても静かな街だ。
「……これで本当に、目立たないんでしょうか……?」
そう尋ねるタクマくんの声は少し、上ずっている。恥ずかしいだろうな、だって服装を変えるために私の服を着ているんだもの。
目深にかぶった帽子のつばをぎゅっと握るタクマくんに、私は言った。
「大丈夫、かわいく見えるから」
「…………」
ああ、また黙っちゃった。
完全に女の子に化けたタクマくんと、本物の女子高生の私。これならさすがに警察にもバレはしないはず。そう信じて、私たちは武蔵境駅へと向かう道をゆっくり歩いていた。
「何をしに行くんですか?」
「ヨーカドーでお買い物。そろそろ食材が少なくなって来たかなって思ったから。あとは、君の記憶が始まった場所に行けたらって思うけど」
「記憶が始まった場所……?」
こくんと私は頷いてみせる。
全生活史健忘に抗う一番の手段は、関係ありそうな場面を何度も見せること。いま分かってるのは空き地だけだから、とりあえず市内に散らばる空き地を手当たり次第に当たってみるのがベストだと思った。警察に遭遇するリスクは確かにあるけれど、今回は私がいる。何とかしてみせる。
でもまずは、お買い物。高架化された駅舎の下を潜り抜けると、目の前には大きな大きな箱みたいなビルが二つ、仲良くならんでいる。私たちが目指すのは、食料品売り場のある東館の地下だ。
「ここのヨーカドーは、日本中のヨーカドーの店舗で一番売上が多いんだって」
小学生の時に社会科見学で得た知識を披露すると、へえとタクマくんは反応した。あんまり来たことがないのか、あちこちを見回している。警戒している……のかな。
「あの、関前さんは」
「咲良でいいよ、めんどくさいもん」
「じゃあえっと……咲良さんは、いつもここで買い物をしてるんですか?」
「そうだよ、大概ここ。便利だし、近いし」
「お金はどうやって……?」
「私のアルバイトと、仕送り。それでギリギリなんだけど、案外何とかなるもんだよ」
「独り暮らし……ですか」
「うん。ほぼ完全に、ね」
「へえ……」
物珍しげに棚を眺めながら、タクマくんはそう返事した。買う物は決めてあったから、時間はそんなにかからない。さっさとカートに入れてレジに持って行って、会計を済ませる。
今日は会わなかったけど、けっこう何度もここには通ってるから、顔を覚えてくれたレジ係の人もいるくらいだ。まぁ、覚えられたからといって値切りしてくれるわけではないけどね。
「君は、どんな風景の町に住んでいたの?」
帰る
高いマンションの建ち並ぶ駅前の空を見上げながら、タクマくんは少し悲しそうな目をする。
「どうだったんでしょう……。ここみたいな風景のような気もしますし、もっと都会っぽいような気も、もっと田舎っぽいような気もするんです。何となくなら、思い浮かぶんですけど」
何となくだったら覚えてるのか。記憶喪失って、完全に何もかも分からなくっていうわけじゃないんだな。
それにしても、ここより都会でここより田舎って、いったいどんな町よ……。
「家族はどんな構成なの? 兄弟とか、いるの?」
この問いには、タクマくんは首を振る。
「……それは、何一つ思い出せません」
うーん、難しいな。
駅の北を抜ける大きな通りを渡ると、高い建物は一気に目減りする。差し込む夕陽に照らされた歩道に、爪先で蹴った小石の影が跳ねた。
ちっぽけだな。一瞬、そう思った。
「……あ」
ふと、タクマくんの足が止まった。
「どうしたの?」
覗き込んだその顔に、皺が寄っている。タクマくんはその指で、すぐそこの丁字路を指し示した。市の中央を流れる玉川上水と、道路が交差する信号の脇だ。
「ここ、見たことあります。いつだったか分かりませんが、この角を曲がって入ったような……」
「それは、記憶を失ったあと?」
「いえ。何せ闇雲に歩き続けたので正確なルートは分からないんですけど、この通りを通った覚えは少なくともありません」
だとしたら、考えられるのは記憶を失う前に通った場合だけだ。それがいつの事かは判別できないけれど。
「入ってみようか」
私の提案に、タクマくんは頷いた。
仄暗い玉川上水に沿って、北側に細い市道が続く。
この辺りは元々、川の流れない荒れ果てた土地だった。江戸時代にこの玉川上水が整備されてから初めて人の手で開墾された時、人々は川や用水路に垂直になるように土地を切り分けたという。その名残か、武蔵野市や隣接する三鷹市、小金井市などには縦の道は異様に多くて、横の道は少ない。
私たちが辿っているのは横の道だった。正面から照らし出す沈みかけの西陽がきつくて、目をはっきり開ける事も叶わない。
「……やっぱり、知ってます。このブロック塀も、あの駐車場も」
キョロキョロと目移りしながら、タクマくんは頻りに呟いている。
私はこれでも、ここ武蔵野市で何年も生きてきた人間だ。この通りも何度か通った事があるし、だからこそ……この先に何があるのかも、知っている。
「……あ」
タクマくんの声に、私は斜め前を見つめた。道をしばらく進んだ右手の、木々の生い茂る敷地の中に、ちょうど一軒家分くらいの更地がぽつんと開けていた。
「……ここです」
タクマくんは中に一歩、踏み込んだ。
「空き地を出たすぐの所で警察に見つかって、めちゃくちゃに逃げたので場所は分からなくなってしまっていたんですけど、間違いないです。ここです」
私も一歩、空き地に足を踏み入れた。足元に低く生える草たちが、私の侵入を感じて穏やかに揺れている。
野放図に草の繁るその空き地には、見渡す限り目立つような物はない。風だって、吹きっさらしだ。
「僕、この辺りに倒れていたと思います」
タクマくんが指差したのは、空き地の隅の暗い場所だった。
「ここ?」
「はい。なんか、起き上がったら頭がすごく痛くて、身体中がぼろぼろになってて……」
……刹那、タクマくんの示した場所に、彼の残像が浮かび上がった。
あちこちに痣ができた、憐れなその姿。タクマくんはゆっくりと立ち上がり、ふらりと周りの景色に目をやっている。
「……この時点でもう、記憶がありませんでした」
本物のタクマくんが、静かにそう付け加えた。
目を覚ましたら、草むらの中に倒れている。
全身を痛め付けられ、まともに動く事もままならない。しかも、何が起こったのかはおろか、自分が誰か、どこから何をしに来たのかさえも、分からないんだ。
その計り知れない絶望に、この子は何とか生きて抗おうとしている。
「……何か、記憶の手がかりになるような物がないか、探してみよう」
腕を捲ると、私はそう提案した。こくんとタクマくんは頷く。
私とタクマくんは、空き地の奥深くまで分け入った。繁みの間に、もしかしたらまだ何か残っているかもしれないと思ったんだ。
暮れる夕陽に映える雑草はすっかり乾いていて、手が擦れると地味に痛い。
こんな中で気絶しているなんて状況が生まれるとしたら、例えばどんな条件が要るだろう。転んだ? それとも、誰かに殴り倒された?
誰かにだとしたら、それは誰に? この子くらいの歳なら、児童虐待だって考えられる。だとしたら両親だけど、或いはもっと普通の人かもしれない。
じゃあ、その目的は?
草の間に僅かに覗く地面を睨みながら、私はため息を吐いた。私には、分からない事だらけだ……。
「あ」
声を上げたのは私ではなかった。
五メートルくらい離れた場所から、タクマくんが手招きしてる。私がそっちへ行くと、タクマくんは真下へ視線を落とした。
そこには、薄汚れ、破れかけの茶封筒が落ちていた。
「ここ、僕の手があった場所の近くです」
タクマくんの説明を耳に受けながら、私はそれを指先で拾う。何か文字が書かれているのは分かるけれど、あんまり汚れていて判読も出来そうにない。
ダメかな、と思いつつも私は封筒を裏返した。これまた泥で汚れてしまっているけれど、こっちは何とか読めそうだ。
“御殿山円佳”──そう、書いてある。
「この名前に見覚えはある?」
封筒を見せると、タクマくんは首を振ってそれを否定した。
「いえ……」
「他には何も思い出せない? 倒れた時の状況とか」
「いえ」
私は顔を上げた。
「……何となく、なんですけど」
気になるのか後頭部を抑えながら、タクマくんはゆっくりと言葉を繋いだ。
「起き上がった時、一番痛かったのはここなんです。それも、転んで打ち付けたっていうよりは、何か硬くて痛いもので殴られたような感じがしました。でもその割には、服も乱れてないんです」
今のタクマくんが着てるのは、変装用の女の子服だ。私は昨日見つけた時のタクマくんの服装を思い出してみた。そうか、確かに破れたりとかはしていない。
「誰かに後ろから襲われて、一撃で昏倒した……ってことか」
「だと思うんですけど……」
ダメだ。
結局、何も解決しない。
警察だったらこの辺り一帯で聞き込みでもするんだろうか。でも私たちじゃ、そんなことをするわけにもいかないし。
「…………」
いつしか木々の向こうへ陽光は消えて、夕闇の染み込む草むらに私たちは取り残されていた。何もしたくないと、身体がわがままを言っているような感じがする。
どうしたらいいんだろう。私たちに与えられた時間は、どのくらいあるんだろう。不思議な焦りが、頭の中で空回りする。
「すみません」
ふいにタクマくんが、頭を下げた。
「せっかく泊めてもらって、協力もしてもらったのに、何も見つけられなくて、すみません……」
「そ、そんな」
私は慌てた。なにもタクマくんが悪い訳じゃないんだし……。
「気にしないでよ。確かに色々と戸惑いはしたけど、あれは君のせいなんかじゃないもの」
「でも……」
「いいよ。私、決めた」
下を向くタクマくんの肩を、そっと私は掴んだ。さわり、と風が草を鳴らした。
「君がこの町で、何をしていたのか。何があったのか。全部明らかになるまで、付き合うよ」
痩せたタクマくんの肩が、ぴくりと動いた。
たった今決めた事だ。でも本当は、前からそう思っていたのかもしれない。
ここまで来た以上引き下がれない、っていうのもある。だけどそれは表向きで、実際には私……気になっていたんだと思う。記憶喪失で正体不明の、この子の事を知るのが。
口にしながら、私は同時に自分にも問いかけた。いいの、私? 生活の負担も増えるし、勉強時間も減るんだよ? それでも、いいの?
私は答える。今の生活には余裕があるんだし、大丈夫よ。むしろ中途半端なままで終わってしまう方が嫌だ。この子の失った過去を、意地でも取り戻してみせる。
「じゃあ、えっと……」
「今日はもう、帰ろう。無理はしない方がいいよ」
「……はい」
その三言で、これからの流れと私の覚悟は決まったようなものだった。
◆ ◆ ◆
「ただいまー」
鍵を開けて部屋に入りながら、空気に向かって私は呼び掛けた。言わないと、何だかしっくり来ない。
「お邪魔します……」
小さくなりながら、私の後ろをついて入ってくるタクマくん。ドアがばたんと閉まり、少し酸っぱいような不思議な香りが部屋に循環する。
「あの、すごく今さらなんですけど」
リビングの床に正座すると、タクマくんはカバンを置く私を見上げた。昨日も今日も、これがタクマくんの基本姿勢みたいだった。
「僕みたいな居候がいて、その……安全面とかは大丈夫なんですか?」
「安全面?」
「例えば、通帳とか」
ああ、それは気になるだろうな。でもそれを心配してたら私、君を泊めたりはしないの。
「そういう大切な物は、ここには置いてないんだ。隣の三鷹市内に私のお父さんの実家があるから、基本的にはそこで管理してもらってる。私じゃちょっと、不安だしね」
「実家……なんですか?」
「うん。独り暮らしを始める前は私もそこに住んで、市境を跨いで通学してたの」
何か気になる事でもあるみたいに、タクマくんは視線を私の身体中に走らせる。
まあ、普通の感覚で言ったら変だよね、確かに。
「ほら、ごはんの準備しよう」
自分にも嗾けるみたいに、私は声を出した。
手伝います、と申し出てくれたタクマくんが、横で野菜を切っている。
隣でこんな風に料理する人がいるのは、学校の調理実習を除いたら何年ぶりだろう。独り暮らしする前はよくお祖母ちゃんと一緒にやっていたから、それ以来だとしたら二年近くになる。
なんだか、懐かしい雰囲気だった。
「あ、それは切ったら鍋に入れちゃってね」
「はい」
「おー、巧く切れてるじゃない」
「そう……ですか?」
練習でもしてたんじゃないかってくらい、綺麗にニンジンを切るタクマくん。感心しながら私は鍋の具材をかき混ぜる。
鍋の中に、疲れが溶け込んでいくような気がした。
今日は疲れたな……。
タクマくんの記憶は一向に戻りそうにないし、その上分からない事は増えるし。
でも、と内心笑う。おかげで私も、色々面白い体験ができた。タクマくんが寝たら、今日こそは小説書こう。根拠はないけど、今日はキーボード打つ指が進むんじゃないかって気がするんだ。
今日はどれを書き進めようかな、とか考え事をしながら私は火を止めた。ふと、目が斜め後ろのテレビに向かう。
『続いては、行方不明者のニュースです』
その時、私の目と手は完全に静止していた。
『警視庁の発表によりますと、二ヶ月前の九月二十三日深夜、東京都武蔵野市の児童養護施設「ひかりの家」に入居する児童一名の姿が見当たらないと、この施設から警察に通報があったとのことです』
箱の中のアナウンサーが、さも深刻そうに眉を寄せている。直後、ぱっと背後に顔写真が映った。
「……僕だ…………」
タクマくんが、庖丁をぱたんと取り落とした音がした。
『行方不明になっているのは、同施設入居中の
……私は咄嗟に、拓磨くんを頭頂から爪先まで見た。
拓磨くんも、ぼんやりと焦点の合わない目で私を見返した。
違う気持ちを同じ表情に込め、私たちはしばらく見つめ合った。
次のニュースです、と告げるアナウンサーの声が、遠くなっていった。
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