天使人に慈悲は無い

 酒場としても食事処としても質が良いとして有名な店。『まぐめる本店』。その中でも厨房に近く、並ぶ酒瓶を一望できるお気に入りの席にイリスは居た。


「ふー、食べた食べたぁ! ごちそうさまぁ」


 最後の一品、フライドチキンを勢いよく食いちぎって咀嚼し、イリスが食事を終えた。

 彼女の座るテーブルの周りには、他にも大小様々な皿が文字居通り山の様に重ねられ、周囲で食事をしている一般客が、一体彼女の小柄な体のどこにあれほどの食事が収納されているのかと不思議そうに眺めている。


「やー、資金が足りて良かったー、一時はどうなる事かと思ったもんね」


 今拾ったばかりの一万ユーン札を指に挟み、イリスが幸せそうな微笑みを浮かべる。

 惜しむらくは、この軍資金ではデザートが食べられない事だが、コレ以上を望むのはいくらなんでも贅沢というものである。

 とりあえずお腹の調子も落ち着き、そろそろ会計に行こうとイリスが席から浮かぶ。

 ちょうどその時に、店の扉が開いた。

 店の入り口、足元まで纏うロングコート姿が、そこに居た。


「いらっしゃい、ませ?」


 季節は夏、冷房の利いている店内ならともかく、外を歩く様な格好では無い。アルバイトの名札を付けた店員が訝しげな表情をする。

――ぞくり、と。

 背筋を舐められるような不快感を覚えて、イリスが叫んだ。


「逃げろっ!」


「へ?」


 イリスを振り向く店員に、コートの中から何かが伸びる。

 しかし、反応したのはイリスも同じ。

 腰の後ろの杖を引き抜く時間も惜しみ、腕を突き出して術式を強制展開。


 確率は二分の一、魔法攻撃だった迷わず成仏して、と心の中で謝罪しつつ即興で組み上げた『物理攻撃防御壁アルト・マティ・シェルド』を発動、即興の壁は何かを止めきることができず、ガラスの割れる様な音と共に魔法の壁を叩き割って店員に殺到。

 しかし、壁が稼いだ一瞬の時間に店員がへたりこみ、何かはカウンターとレジを飲み込むだけだった。


 何か……イリスの見立てでは何か得体のしれない体液に濡れた、異形の生物の体の一部は、今喰ったレジやカウンターを咀嚼し、そのまま飲み込んだ。

 どう見ても、人間では無い。


「ひ、いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」


 事態に気が付いた客がパニックを起こす。我先に逃げようとするが、怪物が入口を塞いでいる為に、裏口に殺到する。

 人並みの中、イリスとロングコートのみ、無言かつ不動。


「何? テロか何か? それとも今お金飲んじゃったし、新手の強盗?」


 唇の端に変わらない笑顔を浮かべたイリスの問いにも、終始ロングコートは無言。

 前を開けたロングコートの中はまるで闇の様に見通す事は出来ない。それに、できたとしてもイリスはそんなものを見たいとは思わなかった。


 真っ直ぐに睨みあう。すっぽりとフードを被った表情は読めない。

 腰に手を回し、腰の後ろから引き取ったばかりの魔杖を引き抜く。短く収納されたそれを慣れた手つきで一回転、収納部分が展開し、魔力単位に分解されていたパーツが出現、彼女の身長の一、二五倍、百八十二、五センチまで伸びる。

 先端には彼女自身が好きな三日月と、天使人と言う種族と相性の良い太陽をモチーフとした装飾がされており、そこでは宝珠『サリエルⅨ』が、血の様に赫く輝いている。


 一方でロングコートも真っ直ぐにイリスに突進。イリスが展開した杖を一振りして先程と同様に『物理攻撃防御壁アルト・マティ・シェルド』を展開。先程と違い、サリエルの加護を得て、しかも正確な精神詠唱が行われた壁はロングコートの突進を完全に跳ね返す。


 吹き飛ばされたロングコートがテーブルの一つに着地、隙間からぼとぼとと紫や深緑のうごめく肉片がテーブルに落ち、イリスが眉を顰める。

 杖を更に振る、詠唱は終了。発動した魔法『真空刃アー・レード』により『サリエルⅨ』から不可視の刃が飛翔する。ロングコートはそれを回避『見えないだけ』の空気の刃が当たらないなんてことは珍しくない為、本命の追撃を行う。


「場所が……っ!」


 杖を持つ右腕とは反対、左手に救い取ったそれを大きく振りかぶる。サリエルⅨが輝き、術式を発動。


「悪かったねっ!」


 大きなフォームで投擲、彼女の手から放たれたのは琥珀色をした刃……酒の陳列されている棚から彼女が回収し『凝水刃ウォル・レード』によって投げナイフに変化させたウイスキーだ。


 放射状に投げられたそれを、回避行動で体制の崩れた体が避けきれる筈も無く、ナイフが何本もコートにつき立つ、目標に刺さった事を確認してから追加で出式発動。

 しかし、術式そのものは発動した者の、何の変化も起きない。

ロングコートはそのまま、開けたコートの前から最初店員を飲み込もうとした時に使用したのと同じ、巨大な異形の体をイリスに叩きつける。

 それは全体を見れば蛞蝓の様に見えたが、先端に大きな牙と口を持ち、更には幾つか眼球としか思えない機関と触手が蠢いており、まさに異形としか思えない物だった。


 イリスが天井近くまで飛び上がって回避、振り回される腕が逃げ遅れた観客の隠れるテーブルを粉砕しそうになったので、『物理攻撃防御壁アルト・マティ・シェルド』を発動して客を守る。


 ロングコートは天井まで逃げたイリスを追うべく、コートの袖の部分から皮を剥がれた蛇の様な腕を伸ばして天井を掴み、その腕を縮めて飛び上がる。天井を格子状に伸びる、飾りの梁の一つに着地……しそこなった。


 そのまま足を滑らせて下の床に落ちる。ロングコートががくがくと震えながら立ち上がろうとするが、平衡感覚を失ってしまっているのか、立ち上がる事は叶わなかった。


「はい、ざんねん。酔っ払いはお休みなさい。次に目覚めるのが刑務所か天国かは知らないけどさようなら、永遠にね」


 その様子を見届け、天井から降りて来たイリスが笑顔で手を振る。

彼女が先程、ウイスキーのナイフに対して追加で発動した術式は『流水操作ウォル・コルト』。自信の魔力を通した水を自分の意のままに操る術式である。

 彼女はこの術式を用いることで、ロングコートに突き刺さったウイスキーのナイフを瞬間的に液体に変え、相手の血管内に侵入させたのである。


 アルコールは毒物としても十分に機能する、『真空刃アー・レード』が生みだした僅かな隙に彼女がナイフに変えたウイスキーはボトル三本分。全て直撃しなかったとしても、直接血管内に打ち込むことで人間大の相手を行動不能にするには十分すぎる量だった。


 このロングコートが何者かはちっともわからないが、少なくとも真っ当な人間ではないし、犯罪の現行犯だ。少なくとも多少の賞金礼金の類は出るだろう、もしかしたら手配中の可能性もある。


 どうせ誰かが連絡しているだろうから、後は引き継ぎの人間が来るまで待てば良い。急性アルコール中毒で死に至ったとしてもそれはそれである(そもそも常人が相手なら一本で死んでいる)。


 そうイリスが思った矢先に、目の前のロングコートが爆発した。

 少なくとも目の前のイリスはそう思えるくらいに、目の前の人影が急激に膨張した。


 身にまとったロングコートを無理矢理引き裂いて中から現れたそれは、粘土をより合わせ、練り込んだような気色の悪い怪物の姿。


 その形はどのような形とも形容することができず、強いて言うなら、蟷螂の腕や、百足の体のような触手を幾つも持った極彩色の蛞蝓とでも言う様な当に怪物だった。

 生物としてあまりにもあり得ない体と、『全く見覚えが無い』という特徴から、彼女の中で目の前の存在が何であるか結論付けられる。


「悪魔っ! 何でこんな町中にっ! 儀式も無しでっ!」


 振るわれる触手を器用に避けながら、イリスが困惑の声を上げる。


「迷ってる場合じゃ! 無いかっ!」


 一人結論付け、目の前の悪魔に相対する。よくよく見れば、悪魔の上の方には、まだかろうじて人間に見える部分が残っていた……虚ろな目、斜めに両断された痩せぎすの体。


「昨日の奴じゃん!」


 見覚えのある殺人鬼に、再び驚愕する。

 昨日の夜、ケイに切られた断面からは、異形の肉がこぼれおちて下の悪魔と繋がっている。断面の近く、傷口傍の組織は悪魔の肉と完全に溶けて混じり合っており、先程飲み込んだレジが、腹部の溶けた肉の間から突き出していた。

 昨日の時点で虚ろだった目は、今では茶色く濁った涙を流し、両目がそれぞれ全く別の方向に動いて白目をむいている。もはや眼球の働きをしてはいないだろう。

 声に反応したのか、単純に待ちきれなくなったのかは不明だが、その言葉と同時に触手が伸びる。

 飛来してくる触手は合計三本。先端に円状に牙の生えた口を備えた触手の一つを、首を逸らす動きだけで回避。

 大きく逃げるのが一番安全なのだが、すでに精神詠唱に入ってしまっている。魔術師は全身の神経や血管を擬似的な回路として魔術の助けとするし、魔術の詠唱には思考を総動員する必要がある。

 すなわち、詠唱中は体の動作、反射、思考が大幅に制限されることになる。一般人に対して『魔術師になりたかったらボクシングしながら方程式を解けるようになれ』と言われる所以である。

 故に最低の動作だけで回避。次に体を狙ってくる触手を空中に寝そべる様な体制で空振りさせ、三本目の反対から迫る触手を、羽を使って空中で体を捻ることで空を切らせる。

 体には直撃しなかったものの触手が体を掠め、純白に煌めく羽が空中に雪のように舞う。

 三本全てよけきるとほぼ同時に詠唱終了。サリエルⅨが輝く。

 同時に、三本の内一本が大きく横薙ぎに振るわれる。これくらいの攻撃は予想していたので、咄嗟に杖を盾に受ける。

 それと同時に『魔導爆薬トゥリ・ニトゥロ』が発動、発動の一瞬前に打撃を受けたためか術の方向が僅かにずれ、少女の部分を狙ったの爆発はその右下の悪魔の肉を、触手数本ともろともに吹き飛ばした。

 一方のイリスは横殴りの衝撃に吹き飛ばされた。翼と、そこに受ける風を総動員して受け身を取り、壁に着地。一応戦闘不能になる程のダメージは無いが、腹部に激痛、口からは血。

 店内に立ちこめる悪臭に吐き気を覚える。傷口を見れば、悪臭を放つ泡と共に傷口が見る間に色とりどりの気持ち悪い肉で塞がれていき、すぐに元通りに再生する。

 平然と、それこそ何事も無かったかのように元に戻ってしまった下の悪魔部分とは裏腹に上に乗っかった少女の部分がびくびくと苦しげに痙攣する。その様はまるで悪魔が少女を犯しているようにも、捕食しているかのようにも見える、とても醜悪な光景だった。


「アンタが何なのかなんて、わたしは知らない」


 ぽつりと、しかししっかりと相手に聞こえる声でイリスが口を開く。声の対象、少女型だった部分は、すでにのけ反って明後日の方向を向いている。


「誰かに利用されたのかもしれないし、誰かを利用しようとしたのかもしれない、もしかしたら巻き込まれただけかもしれない」


 触手が唸る、イリスが避ける。

 足元を薙ぐ触手を少し飛んで避ける、上から叩きつけられる触手を身を捻って回避、三本同時に飛来する触手を『物理攻撃防御壁アルト・マティ・シェルド』を四重に発動させ、四枚の壁を生み出す事で防ぐ。


「だけど……わたしが言える事は一つだけ。わたしは、貴方を殺す事しかできない、望んでたかもしれないし、嫌だって思ってるかもしれない……だけど、あなたが何を望んでも殺すしかできない」


 触手を飛んで避け、たまに防御壁で防ぎながら目的の物の傍に移動、目的の物、横倒しになったテーブルの奥に移動し、サリエルⅨを構える。


「だから殺す。謝罪も許しも求めない、嫌なら抵抗して、喜ぶなら諦観して」


 テーブルに対して『魔力付与強化マーギ・エルハ・フォル』を発動、唯の木製の板を即席の魔法の盾に変える。

 同時に語りながら精神詠唱していた『遮断防壁クルト・ウォル』を二重に発動、針金の様な細い光が急速に織り込まれていき、堅牢な城門とそれを覆う一対の白い羽を生み出す。


 魔力と演算により障壁を生み出すと言うだけの魔法だが、その中でもかなり高位の防御能力を誇る。

 唯の魔力の壁なので魔法による呪いや、特定の因果を被害者に押し付ける概念攻撃に対しては完全に無力な上、『矢を完璧に防ぐ』『攻撃を反射する』など特殊な能力も何一つ付与されていない。

 しかし、目の前の対象にはこれで十分であると判断し壁を生む。事実、触手による捕食攻撃と言う単純な攻撃手段しか持っていない悪魔は防壁を突破できず、保険の為の盾にすらたどり着けない。


 防壁と翼の向こうで、イリスが詠唱を始める。確実さと威力の為、愛らしく瑞々しい天使の唇が、殺す為の呪いの文を声に出して紡いでいく。

 口の中で呪句を繰り返す。この分だけ、力が蓄積されていく。繰り返される呪いが何度も何度も術式を強力な物に塗り替えていく。

 触手だけでは防壁を破れない事に気が付いた悪魔が、全身で体当たりする。体の下にあった口がイリスを捕食しようと蠢く。


 慌てる必要は無い、恐れるにも値しない。

 防壁の向こう側でそっと杖を構える、先端の三日月と太陽で怪物を真っ直ぐに捕える。


「じゃね」


 変わらぬ口調で死を与える事を告げる。同時に術式『魔導暴炎爆炸トゥリ・ニトゥロ・トゥルエ』を発動。イリスの魔力と魔法の詠唱、演算能力を限界近くまで込められた魔力の爆発が襲いかかる。

 長引いた戦闘と時間稼ぎによって完全に無人となった店内が、この一撃で完全に吹き飛んだ。窓と言う窓が内側から割られ、爆発に耐えられずに屋根に巨大な穴が開く。

 暴炎と業火が店内を埋める。悪魔の再生能力を遥かに上回るさらなる破壊と焼却の暴力が満ち満ちる。

 自身が生みだした防壁の向こう、この死の中で作り上げた安全圏から、その様子をイリスが冷静に見つめる。

 そして、そのまま杖を構える。目標は前方、苦しむ悪魔と少女、それぞれの頭部と露出した心臓部分。

 もはや邪魔も再生も無い、終止符だ。


「…………」


 イリスが無言で術式発動。杖の先端に『萌芽鉄槍グロウ・ツリ・アイラス』による四本の金属性の槍が射出される。

 それらはイリスの狙い通りに少女と悪魔の頭部と心臓部分にそれぞれ直撃。その場で四本の槍から無数の棘が生え、それぞれ槍の突き立った部分を完全に破壊する。

 焔と肉の焦げる悪臭が充満する室内で、イリスが魔杖を収納、腰の後ろのラックに戻す。

 何かを思い出したかのようにポケットを漁る。中から出たのは、一万ユーン札だった。


「どうせこうなるんだったら、デザート食べとけば良かったかな? まぁ、このお金で帰りにアイスでも食べればいっか」


 表情の浮かばない顔で呟く。面倒くさい引き渡しと事情聴取が終わったら、溺れる位にお風呂に入って寝ようとイリスは心に決めていた。

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