守れ、己の生を。
帰り道、アイか僕を狙って何かが来る可能性もあったし、警戒しながら移動したんだけど、特に何もなく事務所にたどり着けた。アイを風呂に入れるためにだけに一応メスであるイリスをメールで呼び寄せ、自分はアイの夕飯作りに着手。
僕の手の動きに合わせて、フライパンがコンロにぶつかり、がこがこと喧しい音を立てる。
フライパンの中では肉と野菜が炒められている。あとはこれを予め茹ででおいたパスタと絡めて、隣のコンロでくつくつと煮えているスープと一緒に食卓に出せば完成だ。
「アイーっ! もうすぐご飯ができるからもう少し待っててね」
狭い部屋の向こう側、きょろきょろと興味深そうに部屋を眺めているアイに声をかける。
再会がアレだったので心配だったが、あの後からアイは拍子抜けするほどに大人しかった。
服とも呼べない服をそのままにするのもどうかと思ってシャツをかぶせたときも静かだったし、今もこうして僕が進めた椅子に腰かけて、ご飯が出るのを待っている。
小鳥か栗鼠のように小首をかしげるアイのしぐさに、こちらも自然に笑みが漏れる。そうだよ、可愛らしいとはこういうものを言うんだ、顔だけしか可愛くないクソッタレ性悪天使人には是非見習って頂きたい。
出来上がったパスタを山盛り更に盛り付け、エプロンを取る。自分で言うのもなんだけど、有り合わせの割にいい出来だ。
「はい、どうぞ。出来上がったよ」
パスタとスープを持ってアイの体面に座る。よほどお腹がすいていたのだろうか? 僕が近寄っただけで彼女のお腹が盛大に自己主張し、視線が山盛りの食料に食いついて離れない。
「さぁ、どうぞ、召し上がれ」
僕が言うと、アイがパスタに襲い掛かった。脇に置いてあるフォークに目もくれ
ず、熱々のパスタに直接手を突っ込んで、口に押し込む。
ってちょっと待って、いくら何でもそれはダメだろう!
「アイ! ストップストップ!」
言葉と共に手を伸ばして、アイを止める。小さく白かった掌は、料理の熱で赤くなっていた。
「僕達だって文明人なんだ、こういう文明の道具は使わなきゃダメだよ?」
フォークを拾い上げ、アイに示す。アイは不思議そうに首を傾げるだけだ。
「こうだよ……こう」
仕方ないのでそのままフォークでパスタを一口食べる。目の前で使い方を実演されたアイの両目に、驚きと共に理解の色が宿った。
フォークをアイに渡してやる。アイは恐る恐るパスタの山にフォークを入れると、不器用に回してパスタを絡めとり、口に運んだ。
パスタを咀嚼しながらアイの目が僕に採点を求める。僕が微笑みで返すと、顔を輝かせてフォークを使った食事を再開した。
こちらからの好意、ただそれだけが嬉しくて、それがあるだけで楽しい。
体こそ大きいが、彼女の中は孤児院の子供と同じ、まっすぐで透明なのだろう。
夢中で食事を頬張る彼女の頬に、野菜のかけらが付いているのを見つけたので、指でつまんで取ってやる。
頬に突如触れた指に、アイはくすぐったそうだ。だけど、その顔は笑顔で、少なくとも僕の見た限りではとても嬉しそうだった。
「君は、何も覚えていないのかい? アイ」
僕の静かな問いかけに、アイもまた、無言で頷いた。や、無言の理由は空気を読んだ訳じゃ無くて、単に口の中が一杯なだけなんだろうけど。
そんな彼女が忘れていても、僕は忘れない。
離れてしまった手。
届かない力。
傷だらけの自分の体。
重い剣。
だんだんと寒くなり、本気で覚悟した死。
転がる大量の死体。
そして……目の前で血飛沫を上げて倒れるアイと、彼女が最後に僕に向けて伸ばした手。
そして、あの日耳朶を打ち、ずっと脳に刻まれ続けていた言葉。
その全てが、僕には鮮明に思い出せる。
「ごくん…………ケイ? どうした、の?」
アイの言葉が、僕の意識を昔の地獄から現在に引き戻す。なんでもないと小さな返事。
「ねぇ……アイ」
――僕との約束も、その後何があったのかも、全部忘れたのかい?
その質問が喉まで出かかって、それでも出てこなかった。
(そもそも、覚えていたら来るはずがない。忘れているなら、掘り返す必要が無い)
(彼女は僕を頼ってここに来てくれた。なら僕は力を貸す。そう、これだけでいいんだ。あの時の事を掘り返す必要なんてない)
自分の卑怯な声が聞こえる。でも、今の僕は大人しくその声に従う事にした。
正直に言ってしまえば、ここで全てを彼女に確認することも、僕を恨んでいるか彼女の本当の言葉を聞くことも僕には怖かった。今この笑顔が偽物であるかもしれないと、罅を入れたくない。
「どしたの……ケイ?」
自分の顔をじっと見て、それでも何も言わない僕に不信感を感じたのか、アイが重ねて問いかけてきた。
危ない危ない、急いで気持ちを切り替えて……と。
「いや、食後にはアイスがあるから、食べすぎないようにねって言いたかっただけさ」
もちろんアイスという、文明の生み出した史上最強の嗜好品の王者の事なんてアイは知らないだろう。思う存分カルチャーショックを受けるが良い。お代わりだって幾らでもある。何せアイスは全部相棒の貯蔵品だ。いくら食べられた所で、僕からすれば後のアイツの反応が面白くなるだけである。マーベラス。
「うん! たべ」
言葉の途中で、アイが突然驚いたような表情で固まった。
「アイ? どうしたんだい?」
僕の呼びかけに帰ってきたのは、まるで断末魔の様なアイの絶叫だった。
「あ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアァ!」
空になった皿と器が床に落ちて砕ける。獣の様な苦悶の悲鳴を上げたアイは、そのまま椅子から転げ落ち、自分の体を抱きしめるようにして、苦し気に床を転がる。
「アイっ! どうしたんだアイっ!」
駆け寄って助け起こす。解析魔法で体の様子を診察しようとしたが、その前に彼女が暴れ回り、それどころではない。解析を専門にする後衛の相棒も、今ここにはいない。
「アイ! 落ち着いてくれ、アイ!」
とにかく暴れる彼女を押さえて押し倒す。
アイの身動きが取れなくなったところで、どれか一つでも効果があればと、即興で発動できる限りの治癒術式を打ち込む。どうやらどれかが効果をなしたようで、僕の下でアイは少しずつ大人しくなった。
「ふぅ……とりあえず落ち着いた、かな」
脂汗のたっぷり浮かんだアイの額から、汗を拭ってやる。アイはまだ荒い呼吸をし
ているが、少なくともさっきのように苦しんだり暴れる様子は無い。彼女は嘘のように静かで、事務所の中は、扉の開閉する音が一度響いただけだった。
時間もできたし、改めて『術式知覚:
「異常なし……か」
そんな訳は無い。だけど、その正体は僕には掴む術は無い。心配だけど、少しの間保留にしておくしかないだろう。
……って、ん? 今さっき、部屋の様子で変な描写が無かった? 具体的に言うとアイが大人しくなった辺り……僕の耳がこの場で聞いちゃいけない音を拾ってた気がするんですが……。
「……よーやく全部終わって、連絡見てこっち来たのに、何やってんのさ?」
いた、居やがった。部屋の入り口でジト目でこっちを見てやがる。普段とは少し違う口調から、彼女の呆れっぷりと僕への軽蔑が滲んでる。
……あれ? これ、マズいんじゃないか? もしかしなくても僕、最大の危機じゃないか?
唯でさえ何だか知らないけど、イリスから炎の匂いがして機嫌が悪い。どうやら僕が辺りを引いた一方で、彼女はハズレを掴まされたみたいだね。
……で、一方の僕は現在形で女の子を押し倒している。今まで謎の発作で苦しんでいたアイは、熱を持った頬で荒い息を繰り返し、脂汗を垂らして潤んだ瞳で僕を見上げている。
服装はイリスも見慣れた僕のシャツ一枚。
しかもよく見たら汗で張り付いてて妙にエロイ……というか、透けてる透けてる! 今まで気づかなかったけどちょっと言葉にしちゃいけない透け方してる!
イリスの右腕にはいつの間にか伸ばしたのかサリエルが、左腕には青い服の公務員さんを呼べる携帯端末が握られている!
マズい、非常にマズいぞ! この状況を何とか一発で切り抜けないと、これまでもギリギリ綱渡りだった僕の人生が終了する! まさか、どこかの路地でゴミのように殺されるよりも酷い人生の終了が迫るとは思ってなかった……。
言葉だ、僕に残された刃は、これしかない。
起死回生の言葉を、相棒と僕の信頼を繋ぐ言葉を送る。
「いいところに来たね、キミにお願い事があってね、とりあえず手伝ってくれない?」
「いやいやいやいや! 明らかにそーゆー話の流れじゃないよねコレ!? 明らかに
犯罪の現場だよね!? この状況っで手伝いとか、どう考えても犯罪の片棒だよね!?」
イリスが大慌てで首を横に振る。だけど僕は笑っていられない、彼女がブンブン振っている両手には、それぞれ僕の人生を物理的にと社会的に終わらせる狂気がまだ握られているのだ。
しかも恐ろしい事に相方の誤解が解ける気配が無い! なんて察しの悪い奴だ!
もたもたしてる間にサリエルに危険な光が宿り、携帯は待ち受け画面から通話画面に切り替わった。
「あぁ……いやうん、その反応は正しいね、確かに正しい……正しいんだけど、ちょ~~っと僕の話に耳を傾けて、真実を知ってからでもいいと思わない?」
冷汗が額を流れる。イリスはどうやら冷静さを取り戻したらしく、深呼吸をしてうんうんと一人頷く。さっきまでのテンパった顔ではなく、いつも通りの冷静さを取り戻し。
「ん~、まぁ……カツ丼食べながら好きなだけ真実を語ればいいと思うな、わたし。向こうもきっと真摯にキミの話を聞いて、真実を突き止めてくれるって……その子の住所とか」
目ェ逸らしやがった! しかも携帯に110の文字が表示されてる!
「うっわ! コイツ既に同僚を売り渡す気満々だ! いやだから待ってって! そのボタンを押す前に話を聞いてって言ってんだよ僕ぁ!」
携帯片手に部屋の天井狭しと飛び回るイリスに追いすがる。相棒の天使人は悪魔の笑みを浮かべて、携帯を耳に当てて僕にトドメを刺すべく、言葉と通信の一撃を放とうとする。
「……って、およ?」
疑問の声を一声漏らして、天使の行う悪魔の一撃が止まる。僕は僕で、腰に衝撃を感じてたたらを踏んだ。
視線を後ろに向けると、いつの間に起き上がったのか、アイが僕の腰にタックルをしてひっついていた。眉間にしわを寄せ、じっと僕……ではなく、僕の頭越しにイリスを見つめている。
「あれ? どうしたの被害者ちゃん? もしかして協力してくれてる? 大丈夫だよ、すぐにこの怖いお兄さんを捕まえてもらうからね!」
僕の腰をがっちりホールドして離さないアイを見て、どうやら僕を自分に近づけない為に足止めしていると思ったらしい。
んな訳あるか! と叫ぼうかと思ったが、その前にアイが静かな……だけど強い口調で言う。
「だめ……ケイ、いっしょ。私……いっしょ、ばらばら、やだ。もう……いやだよ」
イリスの目が優しくなる。必死に言葉を紡ぐアイの表情は、必死に戦っているようにも、泣き崩れてしまいそうにも見えて、痛々しい。
一方の僕も、「もう」という一言が奇襲で胸を刺し抉られ、アイの顔もイリスの顔も見れずに、中途半端に視線を下げた。
ふわり、と音も無く天使人の少女が舞い降りる。サリエルを腰に戻し、携帯もスリープにしてポケットへ。
その表情には、今度こそ本当に邪気のない優しい微笑みが浮かんでいる。
「全くもう……ケイってば本当にしょうがないなぁ……どこで拾ってきたのさ? 訳アリなんでしょ? その子」
両手を腰に当てて、「まったくもう」とイリスが小さく頬を膨らませる。どうやらイリスの理解は得られたらしい。
「ああ、悪いね。巻き込む形になっちゃったかな?」
「あっはっは、そんなの気にして恨み買いまくりの魔道猟兵なんかできないよ。で? わたしに何してほしいの? お姉さんが特別に頼み事聞いたげるから、ばっちり頼りなさい!」
調子に乗りやすい相棒が、こことぞばかりに調子ぶっこいてほとんどありもしない胸を張る。
まぁ何はともあれ、理解を得られたのはありがたいので、早速最初の頼み事と行こう。
「とりあえず、この娘を裸にしてくれない?」
その瞬間、後衛とは思えない神速のサリエル抜き打ちが僕のこめかみにヒット。室内なのにちかちか瞬く星を見ながら、僕はその場にぶっ倒れた。
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